惜しい!車番号お隣さん同士の奇跡!
世の中には、偶然が織りなす‘奇跡’に出会うことがある! しかし、この偶然は、感受側の御仁の繊細さに依るところが大きいのだと思われるのだが・・・。 どこかの番組ではないが「ボ~と生きている」と、折角のその奇跡を見逃してしまい、大袈裟に言えば「人生にとって最重要な感動」を受け取れないことにもなってしまう! 「そんなに大事なの?」 「も・ち・ろ・ん!」 「じゃあ、じゃあ、その惜しい奇跡って、何?」 「ま、君の感性だと感動はないだろうがネ!」 ![]() もう少し大きくして・・・ ![]() 「これでも、君には何のことやら判らんだろっ?!」 「えっ!えっ?」 「じゃあ、じゃあ、左右を入れ変えて、っと」 「・・・・」 ![]() ![]() 「これで、どう?」 「いや、いや、こりゃあ、大したもんだ!」 「どこが?」 「1・2・3・4 と揃ってたんじゃあ詰まらない!」 「おや、おや、風向きが変わってきたっ!」 「そうでしょう!‘月は隈無きをのみ云々’ってことでしょ!」 「おや、それで?」 「2・3・1・4 だから趣きがあるんです!完璧なものは、詰まらない!」 「俺の上を行くかも??」 「貴殿は、完璧ですが、私は欠点だらけで・・」 「そっちが上!」 「・・・・」 註)「徒然草・137段」:http://www.syougai.gr.jp/series_ kurashi/koten/8.html 『徒然草』第一三七段は、冒頭 に、 花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。 と述べますが、この一文こそ、兼好法師の美意識が最も端的に表現されたものとして、古来たいへん有名になっているものです。「花」即ち桜の花は今を盛りと咲き誇る満開の花だけを、月は少しのかげりもなく輝いている月だけを、すばらしいとして見るものであろうか、いやそうではない、と言っているのです。ここでは、誰しも美的鑑賞の対象物として賞賛する満開の桜花や、一点の曇りもない月だけが、美としての評価を得るものではなかろうという、通常の美的価値規準に対する見直しを迫っているのです。』 (つづく) スポンサーサイト
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