今朝(2014年6月7日)の朝日新聞の第一面に‘あのノルマンディー上陸大作戦から70年!’に関する記事が掲載されている。
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実は、昨日6月6日のお昼に、NHK・BSで、あの名作‘地上最大の作戦’を観た! NHKも心得たものである。その日に放映するなんて・・・。
さて、この式典に参加した各国の首脳陣のほとんどは、当時まだこの世に生存していなかった! 勿論、この大作戦のことを知らない首脳はいないに違いないが、‘自国の利益代表’を名乗る彼らが、どんな気持ちでこの式典に参加したのだろうか? 私は、もういつだったかは忘れてしまっているが、兎に角この映画を映画館で見たことをはっきり覚えている。 ジョンウエーンの格好良さは、昨日TVで見て、その場面を覚えていた! そして、戦争の悲惨さ・虚しさ・愚かさを改めて認識した! 現在の世界中の若者が、この上陸作戦に参加命令が出たとしても‘100%’の人が逃げ出すに違いない!そう、思った! ‘洗脳’が如何に恐ろしいか、をはっきりと訴えている映画だったようにも思う。 ![]() http://bonbee.blog100.fc2.com/blog-entry-504.html ![]() http://www.fanpop.com/clubs/giovanni-ribisi/images/2704 4863/title/saving-private-ryan-screencap ![]() http://blog.livedoor.jp/totepuni/archives/50707924.html ![]() http://www.utah-beach.com/exhibitions/june-6- 1944-d-day-at-utah-beach/?lang=en ![]() http://arequiem.blog.shinobi.jp/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%81%AE% E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F/% E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3 %82%A3%E3%83%BC%E4%B8%8A%E9%99%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6 ![]() http://ona.blog.so-net.ne.jp/2012-12-19 戦争だけは、決してしてはならない! (つづく) |
8月15日は、戦前生まれの我々にとっては、やはり特別の日である!
‘終戦’と言う言い方を今こそするが、当時は日本が初めて戦争に負けた‘大事件’だったために、‘敗戦’としか言わなかったように思う。 私は、昭和14年(1939年)7月3日生まれだから、終戦の時昭和20年(1945年)8月15日には、満6歳になっていた。 勿論、戦争の思い出は、普通の人並みに沢山ある! ① B29が、夜上空を北九州市八幡区(当時は、八幡市)方面へ向かう(機首は、北に向いていた)途中に高射砲に撃たれて煙を吐きながら墜落するところを庭に造ってあった防空壕の上に上がって見た記憶がある!(近年になって調査し直してみると、高射砲ではなく日本軍の戦闘機が撃墜した、という記録が残っている) ![]() B-29 http://www.worldwartwo.estranky.cz/clanky/lietadla/b-29-superfortess.html
この3月27日の翌日、私は祖父の自転車に乗せられて、遠賀川の墜落現場を見に行った。遠賀川の河川敷と川の境目に機内が見えるくらいにぱっくりと口を開けた状態でB29が横たわっていた。遠賀川の堤防には大勢の人が現場を見に来ていて、大人達の会話の中で「釣り道具が積んであって、不時着した時の食糧確保のために違いない」という話を聞いた記憶が残っている。 ② 配給制度と食料の買い出し ![]() http://blog.goo.ne.jp/hkanda_1933/e/facb8df71c0f0aaed9844fbc15fabf7c ![]() http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/ after_johoku-daikusyu/index3.html 私は、まだ小学校に上がる前だったから、よくお袋に連れられて買い出しに行った! ③ 灯火管制 ![]() http://hanamaru-toyohashi.seesaa.net/article/22143315.html 「あなたのところ、まだ灯りが洩れてますよ!」という言葉が今でも耳に残っている!戦後は、‘ローソク送電’といって100Vではなく多分20~30Vでの送電が行なわれていた。電化製品などはなかったから、ただ、電燈が‘ローソク’の明かり位に暗くなるだけである。こんな上手い節電のやり方、誰が考え出したのだろうか?勿論、今では電化製品が多いから、この方法は使えないのだが・・・。 ④ 防空壕 ![]() http://blogs.yahoo.co.jp/bncfm880/25687973.html 我が家にあった‘防空壕’は、これに似ていた。ただし、入口は‘木枠’であったが・・・。こんな防空壕の上から、B-29の撃墜を見たのである! ⑤ 防火訓練と鳶口 ![]() http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1101070007/ ![]() http://homepage2.nifty.com/hiroshimaaozora/oono2.htm 上図の真ん中にある、正に‘鳶の嘴’の格好をしたのが‘鳶口’である。火災の時に‘延焼’を防ぐために燃えている個所を‘崩し落とす’道具である! ⑥ 竹槍 ![]() http://www.daitouryu.net/1148867075367/ 本当にこんな訓練が全国津津裏裏で行なわれていたのである! まだまだ沢山の思い出があるが、もう想い出すのも嫌である! 近年、北朝鮮の近況が報じられるが、一言で言えば「当時の日本は、今の北朝鮮よりも‘酷かった’!」 こんな思いは、まだ6歳の少年でも未だに消えずに持っている。さぞかし、当時大人だった人達には、我々以上に‘辛い想い出’として残っているに相違ない! ‘戦争’は何も産み出さない! 戦争で‘技術が進む!’などとその行く末が‘原発’だったりすることも弁えない人がいる!そんな知ったかぶりは、止めて頂きたい! そんなことでしか‘技術の進歩’がないのなら、技術なんて進歩しない方がいい! 今年の8月15日は、どうやら無事に終わった! (つづく) |
今日の日本の繁栄の基礎は、スリランカ国のお蔭 と言っても過言ではないことがハッキリと判った!
2013年07月13日(土)のTBS・TV、お馴染みの‘日立世界ふしぎ発見!’の番組が取り上げたのが、‘スリランカ国’。 ![]() 以後の画像は、断り・注釈の無い限り、全てTBS・TVの画面をカメラで撮影したものである。 以下に示す‘首相官邸’の‘Facebook’の記事に出て来る安倍首相の発言「今ある日本はスリランカのお陰である」の歴史的事実は一体何か? その答えを‘日立世界ふしぎ発見!’が示してくれたのである! ![]() 2013年03月14日 首相官邸での共同記者会見
![]() http://blogs.yahoo.co.jp/taraikeniti/folder/1266783.html?m=lc&p=4 クイズの問題については別途取り上げたいが、もっと‘重要な’情報が今回の番組には含まれていた。多分、スリランカ大統領の日本訪問に際してスリランカ国の初代大統領の功績に注目した‘TBS’が急遽この番組を作製したのではないかと推察出来る。 さて、その内容とは? ‘電子紙芝居’でど~ぞ! ![]() スリランカ出身の経済学博士・タレントの‘にしゃんた’准教授が登場! ![]() ‘社会人落語家’というジャンルを開拓! ![]() 「スリランカとはこんな国」という落語を一席! ![]() これがスリランカ国 ![]() 首都は、‘コロンボ’ではない!と強調。 何だか舌を噛み総な首都! ![]() リゾート地も素晴らしい! ![]() 駐日大使も登場! ![]() スリランカと日本の関係について・・・・。この後、日本の今の繁栄の基礎となった「サンフランシスコ講和会議」について言及! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() タレントの皆さんも神妙な面持ちで・・・。 ![]() 岩倉具視使節団が欧州視察の折にスリランカ(セイロン)へ立ち寄った。 ![]() ![]() ![]() 夏目漱石もイギリス留学の帰りに立ち寄ったという。 ![]() ![]() ![]() ![]() そして、遂に第二次世界大戦勃発! ![]() 当時のコロンボ ![]() ![]() ![]() 第二次世界大戦終了後のサンフランシスコ講和会議でのスリランカ(セイロン)の演説に関して‘大統領府’へ大統領に会いに・・・。 ![]() ![]() ![]() 先ずは、今年の3月に日本をご訪問戴いた時のことから・・・。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 多摩動物公園の像は、スリランカからの贈り物! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() さて、本題のサンフランシスコ講和会議での演説について、お話を伺うことに・・・。 ![]() ![]() ![]() ![]() この会議では、ナント‘日本分割案’が議論されたというのである! ![]() ![]() ![]() それに関して、当時蔵相で、後に初代大統領になった‘ジャヤワルダナ’氏が演説! ![]() その内容とは? ![]() ![]() ![]() ![]() 早速、その演説の原稿があるという‘ジャヤワルダナ’資料館へ ![]() ![]() あった、あった! これがその演説の原稿(本物)! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この演説で多数の国が心を動かされたという! ![]() ![]() ![]() ![]() 私は当時のことはよく覚えている!小学校6年生だった。吉田茂首相が‘全権大使’という役目だったこと、その言い回しも記憶にある。ただし、スリランカ(セイロン)が、こういう‘援護射撃’をしたことは知らなかった!多分、新聞やラジオでは‘報道されなかった!’のではないかと思う。 ![]() 資料館館長さんの説明 ![]() ![]() ![]() ![]() 1996年永眠! ![]() この方こそ、今の日本の繁栄を齎した大恩人なのである! ![]() この‘まなこ(眼)’こそ、‘ブッダの眼’かも知れない! ![]() 演説原稿の翻訳を探し出せた! ミスプリもあるようだが、引用文のまま掲載。
この演説によって、セイロン(スリランカ)は、賠償権放棄を宣言し且つ日本の分割統治に反対の意思表示をした。 そして、‘日本に自由を!’と訴えて呉れたのである! これによって、日本は、真の‘独立’を勝ち取ることが出来たのである。 実はこの事は、日本人の大半が知らない! この番組の中での発言の様子からすると‘黒柳徹子’さんだって知らなかった?と思われる。 今の小学校や中学校の教科書には掲載されていないのだろうか? TBSが、この「日立世界ふしぎ発見」という番組を通じて、この事実を周知させようとしたことからしても多分教科書には掲載されていないという推察が成り立つ! もしもそうだったら、早急に文科省は、この大事な事実を教科書に掲載するよう指導すべきではないか? 私も機会があれば、是非近々スリランカを訪問して、この原稿を拝見したいものだ! (つづく) |
毎年8月9日は、長崎原爆に日であると同時に、個人的なことで恐縮だが、私の実の親父の祥月命日である。
正直なところ、祥月命日であるから長崎の原爆に日を思い出すのではなく、長崎の原爆の日であるから親父の祥月命日を忘れずにいる。 それ程原爆の日の印象が我々世代の人間には深いふか~い傷跡として‘こころ’に刻まれているのである。 ところで、広島の原爆の日に関する弊ブログでは、朝日新聞ともあろう大メディアの朝刊の一面にその見出しが見つからないことを指摘した。風化を自ら促進させているのではないかと思ったからだ。 さて、本日の朝日新聞の朝刊には、一面は勿論、どの紙面にも「今日が、‘長崎原爆の日’」という見出しどころか記事さえ無い。看板の‘天声人語’にも忘れられている! ![]() この新聞で唯一‘長崎平和祈念式典’の文字が見えるのは、TV&ラジオ番組紹介欄だけである。これで、世界へ向けて‘原爆禁止’を訴え続けなければならない日本のメディアとしての責任が果たせると思っているのであろうか?新聞社の記者の間で既に‘原爆に関する風化’が進行してしまっているのだろう! でも、67年と言うのがそんなに長~い時間なのであろうか? 確かに、この新聞社の幹部連中は67年前には生まれていなかったに違いないが、そんなに‘視野の狭い’気持ちで記者が務まるものなのだろうか?疑問だらけである。 ![]() しかも驚いたことに、NHK以外は‘長崎原爆の日、平和祈念式典’に関する特別番組を組んでさえいないのだ! この国のマスコミ・メディア関連者の頭脳は、先人達の苦しみを理解することも出来ない程に狂ってしまっているのであろうか? ![]() ![]() NHKによる‘長崎平和祈念式典’の放映は、10:30から始まった。(以後の中継映像は全てNHK・TVをカメラで撮影したものである) ![]() 画像ー32 011 posted by (C)mobaradesu 10:38 もう二度と‘被爆者’を作るなと全世界に歌で訴えている。 ![]() 画像ー32 013 posted by (C)mobaradesu 10:38 北村西望作・長崎平和祈念像もこの日を待っていたようにも見える。
![]() 画像ー32 014 posted by (C)mobaradesu 10:40 本日の司会を務める二人の高校生 ![]() 画像ー32 019 posted by (C)mobaradesu 10:42 原爆死没者名簿の奉納のために代表者が登場 ![]() 画像ー32 020 posted by (C)mobaradesu 10:43 死没者名簿 ![]() 画像ー32 021 posted by (C)mobaradesu 10:43 長崎市原爆死没者名簿(新たな3巻の内一つ) ![]() 画像ー32 023 posted by (C)mobaradesu 10:46 被爆二世もやっと腰を上げられる状態になったという。 ![]() 画像ー32 029 posted by (C)mobaradesu 10:49 献水の儀式。広島にはない長崎の特徴。被爆者は皆水を欲しがった。 ![]() 画像ー32 032 posted by (C)mobaradesu 10:50 水は奉納された。 ![]() 画像ー32 033 posted by (C)mobaradesu 10:51 続いて献花の儀式。 ![]() 画像ー32 034 posted by (C)mobaradesu 10:52 続いて野田内閣総理大臣の献花。 ![]() 画像ー32 035 posted by (C)mobaradesu 10:53 高校生平和大使。 ![]() 画像ー32 036 posted by (C)mobaradesu 10:53 高校生平和大使の高野桜さん。福島で原発の被害を受けた。 ![]() 画像ー32 043 posted by (C)mobaradesu 10:56 彼女も悩んだ末に平和大使を引き受けた。 ![]() 画像ー32 049 posted by (C)mobaradesu 10:58 長崎の人達も福島を応援。 ![]() 画像ー32 051 posted by (C)mobaradesu 11:02 原爆投下の時刻がきた!‘長崎の鐘’が鳴らされる! ![]() 画像ー32 052 posted by (C)mobaradesu 11:02 全員黙祷。 ![]() 画像ー32 053 posted by (C)mobaradesu 11:03 野田総理も黙祷。 ![]() 画像ー32 061 posted by (C)mobaradesu 11:05 主催者・長崎市長の平和宣言。 ![]() 画像ー32 062 posted by (C)mobaradesu 11:05 原稿は自分で書かれたのだろう。ほとんど原稿に目を落とされない堂々とした平和宣言である。 ![]() 画像ー32 080 posted by (C)mobaradesu 11:12 市長による7分間の平和宣言が終了した。 ![]() 画像ー32 082-2 posted by (C)mobaradesu 11:14 被爆者代表の挨拶 ![]() 画像ー32 083 posted by (C)mobaradesu 11:14 家族の悲惨な被爆状況が切々と語られた。 ![]() 画像ー32 087 posted by (C)mobaradesu 11:22 生々しい被爆者の報告に場内は静まり返った! ![]() 画像ー32 088 posted by (C)mobaradesu 11:22 続いて原爆で焼かれた学校関係者の歌が始まった。 ![]() 画像ー32 089 posted by (C)mobaradesu 11:22 学校は丸焼け。人々はどうなったのだろうか? ![]() 画像ー32 090 posted by (C)mobaradesu 11:23 モニュメントが建立されている。 ![]() 画像ー32 091 posted by (C)mobaradesu 11:23 現在の山田小学校の皆さんによる合唱。 ![]() 画像ー32 092 posted by (C)mobaradesu 11:23 「あの子」という歌。作詞は、永井隆博士である。
![]() 画像ー32 093 posted by (C)mobaradesu 11:23 大合唱が始まった。 ![]() 画像ー32 094 posted by (C)mobaradesu 11:24 永井博士の思いが込められている! ![]() 画像ー32 100 posted by (C)mobaradesu 11:25 「ああ、あの子が生きていたならば・・・」 ![]() 画像ー32 108 posted by (C)mobaradesu 11:34 やっと野田内閣総理大臣の挨拶の出番が回って来た。 私は彼の挨拶を瞬きもせずに見ていたが、彼は、式典に集まった人達を一度も見なかった!原稿を必死で読むだけである。勿論自分で作った原稿ではないだろうから、読み間違えないようにと必死のご様子だった。これでは、長崎に失礼である!心は‘政局’に向いているらしく、何とも情けない!これで一国の指導者だろうか? 広島原爆の日の挨拶文の中の‘広島’の部分を‘長崎’に替えただけだったら、と危惧していた。(8月6日の弊ブログ) 比較の意味で‘広島原爆の式典’での首相の挨拶文を掲載した。 それぞれの挨拶文で‘共通の文字’を赤字表示してみた。 完全に一致しているとは言わないが、試験なら‘カンニング’である。これなら‘こころ’が入っているいないの議論の外であろう。彼には‘恥ずかしい’という気持ちなど全くないのであろうか? 本当に、本当に一度も原稿から目を外さなかった!
![]() 画像ー32 110 posted by (C)mobaradesu 11:35 続いて長崎県知事の挨拶。 ![]() 画像ー32 111 posted by (C)mobaradesu 11:35 長崎県知事さんも長崎市長さんと同じく集まった人達の方を見て切々と訴えられた。 ここまでで中継は終了した。 さて、最初に述べた通り、8月9日は、私の‘実父’の祥月命日である。 ![]() 画像ー32 114 posted by (C)mobaradesu 昭和51年だったから、今から36年前だ。やはり第二次大戦では‘一兵卒’とし、マレー半島の戦線に派遣された。シンガポールに滞在したらしいが、終戦後は捕虜として‘レンバン島’に抑留され、食うものも食わずに痩せ衰えてはいたが、昭和21年5月21日(実兄の誕生日)に無事福岡県・直方市へ帰還した。 明治45年(1911年)1月5日の生まれだったから、昨年(2011年)、生誕100年記念祭を長男の実兄が幹事役となって挙行した。 実際に、戦線に兵役義務を負って参加した親父達は、原爆に関して我々とは違った思いがあっただろうが、親父の生前には原爆についての議論はした覚えがない。 兎に角、‘戦争はしてはならない’という事は、我々以上に深く深く思っていたことは事実である。 上述した通り、マスコミはもっと核戦争の恐ろしさを世界にアピールすべきである。 マスコミが自らの体たらくで、「‘原爆’の風化」に拍車をかけるような真似だけは決してして貰いたくはない! ![]() ![]() ![]() |
8月6日は、言わずと知れた‘広島原爆投下の日’である。
今朝(2012年8月6日)の朝日新聞第一面を見て驚いた! ![]() 2012年8月6日の朝日新聞朝刊第一面。‘原爆’の見出しは何処にも見当たらない! 第二次世界大戦での‘最大の悲劇’、そして人類誕生から今日までの‘最大の悪夢’としか言いようのない‘原子爆弾’が日本に投下された日。 人類が決して忘れてはならぬこの日の大新聞の朝日の一面の見出しに‘原爆’の文字がない! 今日は8月6日ではないのかと一瞬そう思った。でも日付けは、明らかに8月6日。 一面のトップ記事が何のとご覧の通り、‘フェンシング銀以上’である! これには恐れ入った! 原爆の記事に比べて、フェンシング関係者には申し訳なしが、その価値など一万分の一ほどもない! ‘原爆の日’を‘風化させてはならない’と日本の新聞なら第一面のトップ記事にすべきだ! ‘風化’の文字さえこの新聞には出て来ない。 ‘原爆の風化’のお手伝いをこの新聞はしているのであろうか、と疑いたくなる。 今日の朝刊は、オリンピックの記事など一面から外すべきだろう! そうしなければ、広島で被爆した人達に、また第二次大戦で辛酸をなめた先輩達に顔向けが出来まい。 唯、申し訳なさそうに、‘天声人語’に原爆の事が掲載されているが、世界に向かっての‘平和祈願’という立場ではない! 視点が大きく間違ってしまっている。 ![]() 朝日新聞・天声人語(2012年8月6日) ![]() 朝日新聞・39面の記事(2012年8月6日) 第39面に、小さく‘きょう原爆の日’という見出しである。何だかこれもおかしい!世界に訴える気はあるのか?! ‘きょうからお盆の帰省ラッシュ’程度の扱いに朝から頭に来たのは私だけではあるまい。 社説に原爆の事が書かれていなかったら、‘こんな新聞明日からお断りだ!’と思ったが、‘恐る恐る’「核廃絶と脱原発・破滅リスクのない世界へ」と言う見出しである。 ![]() 朝日新聞・社説(2012年8月6日) この論点も、‘ヒロシマ原爆の恐ろしさ’を世界へ向けて発信するということではない。 本当に日本のジャーナリズムは、ジャーナリストは、‘原爆の恐ろしさ’を世界に向けて訴えようとしているのだろうか? それとも‘悲惨さ’を封印しようとしているのだろうか? もっともっと熱く語る必要がある。そして、それが出来るのは日本人だけである! それに比べて、今朝のNHKが放映した‘平和祈念式典’での広島市長の挨拶は流石である。(写真は全てNHK・TVの画像をカメラで撮影したもの)
こども代表の‘平和への誓い’、これだまた良かった!
未だに福島原発の適切な処理も出来ない野田首相の紋切り型の挨拶には、心がこもってなく、広島の人々や福島の人達は、どんな思いでこの挨拶を聞いたのであろうか?
この挨拶が済んだら、広島の件は終わったと思って貰っては困る。黒い雨に関する処置がここまで延び延びになった事の責任を国の為政者は、もっと真剣に考えるべきだろう。 9日の長崎での挨拶文が今回の‘広島’の文字を‘長崎’に書き換えるだけであってはならぬ! ![]() ![]() ![]() |
私が住んでいる茂原市に‘掩体壕’なるものがある。第二次世界大戦時に造られたもので、‘飛行機の簡易格納庫’と言えば判り易い。
![]() http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html 茂原市本小轡1108-2 の掩体壕
因みに、千葉県には、第二次世界大戦の‘戦争の遺跡’はどのくらいあるのだろうか? 「戦争遺跡を歩こう」(http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/index.html) この文献によれば、以下の通り、27カ所だという。
![]() http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html 掩体壕の写真: ![]() http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html ![]() http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html ![]() http://senseki739.blog118.fc2.com/blog-entry-64.html ![]() http://haikyotabi.blog33.fc2.com/blog-entry-40.html
茂原海軍飛行場の航空写真: ![]() http://www.mobara.ne.jp/katoshin/ 1947年米軍撮影の航空写真(USA-M50-82 飛行場の地図: ![]() http://www001.upp.so-net.ne.jp/sotobo/train/haisen/hikojyo.htm ![]() 現在の地図 (グーグル地図)の上では、赤い線で囲んだ場所に掩体壕が集中している。 ![]() http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html 滑走路跡といわれる道路 次のレポート( http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html ) は、建設当時の様子が生々しく、茂原市の掩体壕についての経緯が歴史的資料に基づき詳細に述べられている。その一部を紹介したい。
文献を調べて初めて‘茂原市の掩体壕’が、茂原市民にとってどれだけの犠牲の上に存在しているか、またその悲しい歴史を踏まえて二度と戦争は起こしてはならぬという思いがした。 このブログでも紹介したが、私も‘B29’の来襲と墜落という現場にいた経験がある。 上記の通り、昭和30年の茂原市議会の‘基地反対決議’がなかったら、茂原市は間違いなく‘基地の町’になっていたに違いない。 ![]() ![]() ![]() |
昭和20年(1945年)4月7日14時20分、戦艦大和は沈没し始めた、と記録にある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)) 今日が丸67年経った命日(68回忌?)である。
![]() 戦艦大和模型 http://plaza.rakuten.co.jp/maruyasu/diary/200912020000/ ![]() 戦艦大和(呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20) http://ja.wikipedia.org /wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6) ![]() 在りし日の戦艦大和 http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm ![]() 戦艦大和出撃命令 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5 ![]() 戦艦大和への総攻撃 http://slashmaraud.blogspot.jp/2007_01_01_archive.html ![]() 沈みゆく戦艦大和 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5
私は昭和14年7月生まれだから、当時6歳になるほんの少し前で、まだ小学校(当時、国民学校。それまでの尋常小学校が昭和16年に国民学校に。昭和22年に小学校と名称変更)に上がる前だった。 情報が直ぐには流れない時代だったし、日本にとってというより当時の軍事政権にとって‘不利な情報’は、国民には正確には流さない時代であったから、‘戦艦大和沈没’のニュースは当時の大人の話題にもならなかったように思う。 ![]() http://www.geocities.jp/torikai007/1945/okinawa-yamato.html
先程 web で調べた結果、上記の引用通りの記事があった。 戦艦大和の存在さえ知らされていなかったそうであるから空恐ろしい! 次の日の新聞に記事が掲載されるなんてありえないのだ! 当時の日本では、今の北朝鮮以上に言論統制があったのだろう。当時6歳弱の子供に情報が届く訳が無い。 <B29の撃墜> ![]() B29 http://www.worldwartwo.estranky.cz/clanky/lietadla/b-29-superfortess.html 一方、私は当時福岡県・直方市に住んでいた。当時の‘八幡製鉄’は当然軍事産業の中心地であり、アメリカが攻撃の目標にしたことは当たり前である。八幡製鉄と直方市との直線距離は、約15km。 3月27日深夜、28日の朝(記録によると3時ごろ)空にB29が見える!という声に防空壕の中にいた我々は、防空壕からはい出してきてその上に立って上空に目を凝らした。探照灯(サーチライトのこと)が2~3本でB29を照らし出す。高射砲が、何発も発射されたがなかなか命中しない。何故だか判らなかったが、B29は高度をかなり下げていた。そうこうしている間にB29が‘白煙’と‘黒煙’と‘炎’を上げながら落ち始めたではないか! 父親は戦地へ赴いていたのでいなかったが、家族はみんな拍手喝采で喜んだ記憶は今でも生々しい。数日が経って、近寄ることが許可された後だと思うが、祖父の運転する自転車に乗せられて、墜落現場に見に行った。 大勢の人達が遠賀川の堤防からB29の墜落機体を見た。その場での噂話を耳にしたが、B29には‘釣り道具’が積まれていて、不時着した際の準備までしてある、と言って盛んに感心するおじさんがいた。私はまだ小学校に上がる寸前だったからそれが本当に何を意味するのか判らなかったが・・・。 ![]() 撃墜されたB29爆撃機(富澤庸祐氏撮影、下総町立歴史民俗資料館蔵) http://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/chibakenshi/no26.html
POW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会 http://www.powresearch.jp/jp/about/index.html の資料には以下の記事が記載されている。
もう戦争の事なんか思い出したくないと言う人達も大勢おられるだろうが、我々にとっては‘貴重な’体験である。当時の記憶は曖昧なものが多いが、こうやって情報を集めると今更ながら‘な~るほど!’と思われる事がある。 上述の‘B29の墜落目撃事件’もこれらの情報を数年前に実兄に教えて貰うまでは、‘高射砲が撃ち落とした'とばかり思い込んでいた。実際の目撃者の一人なのに・・。 ![]() 高射砲 http://blogs.yahoo.co.jp/hunnmeru/10033697.html 出来れば、上記の回想記『Accused American War Criminal』をじっくりと今後読んでみたい。 二度とこんな戦争を起こさない為にも‘戦争にまつわる重要な日’には、マスコミはもう少し反戦のキャンペーンをはるべきではないか? 戦没者の‘鎮魂’の意味を込めて・・・。 ![]() ![]() ![]() |
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