17分間のスピーチ!(その3):被爆者との面会
17分間のスピーチ!(その3):被爆者との面会

2016年5月27日のオバマアメリカ大統領の17分間の感動のスピーチ、それに続く8分間の安倍日本国首相の力強いスピーチの後が、またまた世界平和の道へ繋がる最大の‘見せ場’だった!

<以下の写真は全て、NHK・TVの画面をカメラで撮影したものである>

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このお二人の態度こそ、‘謝罪反対’だとか、‘南京を云々’だとか、そんなものを通り越して、人間の、人類の‘悟りの境地’を思わせる英知に満ちた境地であった!

多分、その境地に達するまでには、苦しみも憎しみもあったに違いない!
そして、その想いから脱却するまでには、何十年もの時間が掛かった違いないが、極めてきつい修行が人間を悟りの境地に連れて行ってくれることを見事に証明してくれた一瞬であった!

(つづく)
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[2016/05/29 23:59] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
17分間のスピーチ!(その2):献花とスピーチ
17分間のスピーチ!(その2):献花とスピーチ

2016年5月27日のオバマ大統領のスピーチは、‘二度目のノーベル賞’にも匹敵するほどの価値があったと思うのは私だけでは無いと想う!

この、たった‘17分間’のスピーチ’を広島・長崎の人達は勿論、日本中の日本人が待っていたのである!
先に、私の今後の期待を申し上げておくと、『次は、‘プーチン大統領’のお出まし!』が待たれる!

この快挙を成し遂げれば、今の安倍内閣の支持率は、きっとうなぎ登りに!
ひょっとすると、安倍晋三首相にノーベル平和賞が舞い込んで来るかも?

<以下の写真は全て、NHK・TVの画面をカメラで撮影したものである>

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安倍首相のスピーチは、‘約8分間’!
時間を短くしたのは、当然の配慮なのだろうが、この内容も素晴らしかった!

その次の大統領の行動が、また素晴らしかった!

(つづく)
[2016/05/28 23:58] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
17分間のスピーチ!(その1):到着から原爆資料館まで
17分間のスピーチ!(その1):到着から原爆資料館まで

2016年5月27日は、日本にとって、世界にとって‘記念すべき日’となった!

不可能と思われた、‘アメリカ現職大統領’が世界で始めて原子爆弾が落とされた広島を訪れたのである!
そして、 ‘17分間’のスピーチ!
この‘オバマ大統領の17分間のスピーチ’は、日本人そして世界の人々に深い感動を与えた!

私も、この歴史的映像をTVで観ると同時にカメラに収めた。
その枚数、何と324枚!

<以下の写真は全て、NHK・TVの画面をカメラで撮影したものである>

オバマ大統領が、ご自分の足で広島の大地を踏みしめていたのは、(17:24)~(18:14)の約50分間であった!

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(17:25)~(17:36)の僅か‘11分間’の原爆資料館の見学(視察)!

報道にもまだ出てこない、この原爆資料館で、大統領は一体何を見て如何感じたのだろうか?
この中の様子こそ取材すべきであったろうと思うのだが、これもアメリカへの配慮なのだろうか?

(つづく)
[2016/05/28 22:26] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
あのノルマンディー上陸大作戦から70年!
今朝(2014年6月7日)の朝日新聞の第一面に‘あのノルマンディー上陸大作戦から70年!’に関する記事が掲載されている。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A
B%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83
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ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん、Invasion of Normandy)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われたナチス・ドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。上陸からパリ解放までの作戦全体の正式名称は「オーバーロード作戦(Operation Overlord、大領主の意)」。
最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。現在に至るまで最大規模の上陸作戦である。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2ヶ月以上要した。
ノルマンディー上陸はヨーロッパ戦線の転機となった作戦であり、第二次世界大戦中最もよく知られた戦いの一つでもある。本作戦で用いられた用語「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では主に作戦開始当日の1944年6月6日について使われる。


実は、昨日6月6日のお昼に、NHK・BSで、あの名作‘地上最大の作戦’を観た!
NHKも心得たものである。その日に放映するなんて・・・。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140606/k10015040891000.html
ニュース詳細
ノルマンディー上陸作戦70年記念式典始まる
6月6日 22時50分

フランス北西部のノルマンディー地方で、第2次世界大戦中の上陸作戦から70年となるのを記念する式典が、アメリカやロシアなど19か国の首脳らが参加して、日本時間の6日午後10時すぎから始まりました。

ノルマンディー上陸作戦は第2次世界大戦中の1944年6月6日、アメリカ軍を主体とする連合軍が、ナチスドイツに占領されていたフランス北西部のノルマンディー地方に上陸し、連合国側の勝利を決定づけたものです。
式典は、この作戦から70年となるのを記念して、上陸地点の1つとなった海岸を会場に行われ、イギリスのエリザベス女王やアメリカのオバマ大統領のほか、ロシアのプーチン大統領、それに、ウクライナで大統領に当選したポロシェンコ氏ら19か国の首脳らが招かれました。
式典では、フランスのオランド大統領が演説を行ったあと、特別に設けられた舞台で、戦時中のヨーロッパや戦後の復興などを表現した劇が披露されることになっています。


さて、この式典に参加した各国の首脳陣のほとんどは、当時まだこの世に生存していなかった!
勿論、この大作戦のことを知らない首脳はいないに違いないが、‘自国の利益代表’を名乗る彼らが、どんな気持ちでこの式典に参加したのだろうか?

私は、もういつだったかは忘れてしまっているが、兎に角この映画を映画館で見たことをはっきり覚えている。
ジョンウエーンの格好良さは、昨日TVで見て、その場面を覚えていた!

そして、戦争の悲惨さ・虚しさ・愚かさを改めて認識した!
現在の世界中の若者が、この上陸作戦に参加命令が出たとしても‘100%’の人が逃げ出すに違いない!そう、思った!
‘洗脳’が如何に恐ろしいか、をはっきりと訴えている映画だったようにも思う。

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http://bonbee.blog100.fc2.com/blog-entry-504.html

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http://www.fanpop.com/clubs/giovanni-ribisi/images/2704
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http://blog.livedoor.jp/totepuni/archives/50707924.html

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http://www.utah-beach.com/exhibitions/june-6-
1944-d-day-at-utah-beach/?lang=en


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http://arequiem.blog.shinobi.jp/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%81%AE%
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http://ona.blog.so-net.ne.jp/2012-12-19

戦争だけは、決してしてはならない!

(つづく)
[2014/06/07 22:07] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
8月15日は、・・・
8月15日は、戦前生まれの我々にとっては、やはり特別の日である!

‘終戦’と言う言い方を今こそするが、当時は日本が初めて戦争に負けた‘大事件’だったために、‘敗戦’としか言わなかったように思う。

私は、昭和14年(1939年)7月3日生まれだから、終戦の時昭和20年(1945年)8月15日には、満6歳になっていた。

勿論、戦争の思い出は、普通の人並みに沢山ある!

 B29が、夜上空を北九州市八幡区(当時は、八幡市)方面へ向かう(機首は、北に向いていた)途中に高射砲に撃たれて煙を吐きながら墜落するところを庭に造ってあった防空壕の上に上がって見た記憶がある!(近年になって調査し直してみると、高射砲ではなく日本軍の戦闘機が撃墜した、という記録が残っている)

b-29 (1)
B-29 http://www.worldwartwo.estranky.cz/clanky/lietadla/b-29-superfortess.html

http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-109.html
B29‐#42-24864
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-24864.html
墜落日時
1945年3月27日

墜落位置 福岡県鞍手郡植木町中島橋(現・直方市植木町)
所属 第20空軍第313爆撃団第504爆撃群第398爆撃隊
攻撃目標 関門海峡
墜落原因            戦闘機(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉?)?
機体ニックネーム   

搭乗員

機内配置 氏名 階級 認識番号 生死
機長 BROWEN, John A. 中尉 0-825755   X
副操縦士
ANDREW, Albert H.

少尉 0-539656    
航法士 FINTEL, Harlund R. 少尉 0-2058448   X   
爆撃手 LOVE, Baxter A. Jr. 少尉 0-929701   X
機関士 HENLEY, Fiske 少尉 0-8170016    
中央火器管制 ANDERSON, Charles A. 軍曹 11981991   X
左銃手 GRIFFITH, James E. 軍曹 13158310   X
右銃手 DENLAVOY, Richard E. 軍曹 13180907   X
尾部銃手 FRANCESLON, Albert L. 軍曹 12207049   X

  初めての対日機雷作戦として、関門海峡に102機が出撃、3機未帰還となった。42-24864は、機雷敷設後八幡上空を南下、直方上空で急旋回、中島橋下流200メートルの遠賀川に墜落した。(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉操縦の堵竜によるものか)

Andrew少尉とHenley少尉は飯塚憲兵分隊経由西部軍管区司令部に送致。ついで東京防衛総司令部に送られ、東京俘虜収容所本所に転収された。


この3月27日の翌日、私は祖父の自転車に乗せられて、遠賀川の墜落現場を見に行った。遠賀川の河川敷と川の境目に機内が見えるくらいにぱっくりと口を開けた状態でB29が横たわっていた。遠賀川の堤防には大勢の人が現場を見に来ていて、大人達の会話の中で「釣り道具が積んであって、不時着した時の食糧確保のために違いない」という話を聞いた記憶が残っている。


② 配給制度と食料の買い出し

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http://blog.goo.ne.jp/hkanda_1933/e/facb8df71c0f0aaed9844fbc15fabf7c

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http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/
after_johoku-daikusyu/index3.html

私は、まだ小学校に上がる前だったから、よくお袋に連れられて買い出しに行った!

③ 灯火管制

灯火管制
http://hanamaru-toyohashi.seesaa.net/article/22143315.html
「あなたのところ、まだ灯りが洩れてますよ!」という言葉が今でも耳に残っている!戦後は、‘ローソク送電’といって100Vではなく多分20~30Vでの送電が行なわれていた。電化製品などはなかったから、ただ、電燈が‘ローソク’の明かり位に暗くなるだけである。こんな上手い節電のやり方、誰が考え出したのだろうか?勿論、今では電化製品が多いから、この方法は使えないのだが・・・。

④ 防空壕

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http://blogs.yahoo.co.jp/bncfm880/25687973.html
我が家にあった‘防空壕’は、これに似ていた。ただし、入口は‘木枠’であったが・・・。こんな防空壕の上から、B-29の撃墜を見たのである!

⑤ 防火訓練と鳶口

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http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1101070007/

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http://homepage2.nifty.com/hiroshimaaozora/oono2.htm
上図の真ん中にある、正に‘鳶の嘴’の格好をしたのが‘鳶口’である。火災の時に‘延焼’を防ぐために燃えている個所を‘崩し落とす’道具である!

⑥ 竹槍

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http://www.daitouryu.net/1148867075367/
本当にこんな訓練が全国津津裏裏で行なわれていたのである!

まだまだ沢山の思い出があるが、もう想い出すのも嫌である!

近年、北朝鮮の近況が報じられるが、一言で言えば「当時の日本は、今の北朝鮮よりも‘酷かった’!」

こんな思いは、まだ6歳の少年でも未だに消えずに持っている。さぞかし、当時大人だった人達には、我々以上に‘辛い想い出’として残っているに相違ない!

‘戦争’は何も産み出さない! 戦争で‘技術が進む!’などとその行く末が‘原発’だったりすることも弁えない人がいる!そんな知ったかぶりは、止めて頂きたい!

そんなことでしか‘技術の進歩’がないのなら、技術なんて進歩しない方がいい!

今年の8月15日は、どうやら無事に終わった!

(つづく)
[2013/08/15 23:09] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
広島原爆投下から68年!(その1)
今日(2013年08月06日)は、日本の歴史上最大の大事件の一つである、人類歴史上最初の‘戦争原爆投下’事件が起こった記念すべき日である!

後述もするが、日本国は、この日を国民の休日にして‘反戦’を世界に訴えるべきである!

この大事な日に‘経済が優先’などという不埒な考えは捨てるべきである!

このアッピールは、日本人がやってこそ意義があり、世界中の注目を引くのは当然であり、これこそが日本が世界に訴えて価値のある‘日’なのである!

この日を‘世界反戦デー’として、世界中が休日(時差は考慮して!)を実行して、世界中只一つの人類総参加の‘反戦記念日’とすべきである!

この提案は‘日本国’にしか出来ない!

今の安倍内閣がこれを提案実行すれば、きっとオリンピックよりも盛り上がって、日本の尊敬は一層強まるに違いない!

広島の8月6日から長崎の記念日(8月9日)まで、4日間は、世界中が「‘反戦’について考える‘4days’」にしてはどうか?

「広島―長崎―沖縄」、この‘戦争で悲惨な目にあった場所’こそ、世界の指導者が訪問行脚する反戦コースとして設定すべきである!

我々日本人も、まだ現地を訪れていない人達は、世界の観光地に行く前に、この‘鎮魂の場所’を訪問すべき義務がある!

さて、今日午前8:15の黙祷から始まった‘広島原爆の日’。これは是非、記録に残しておきたい!

(以下の画像は、NHK/TVの映像をカメラで撮影したものである)

2013年08月06日のNHK・TV

<1> 7:00~7:10 広島原爆の日の中継予告

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<2> 8:00~8:10 黙祷前の平和記念公園の様子

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<3> 8:15~8:16 黙祷

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<4> 8:16~8:24  松井一実・広島市長の平和宣言

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(つづく) 次回は、松井広島市長の平和宣言の全文を画像で掲載予定。
[2013/08/06 23:40] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
もっとスリランカ国に敬意を!
今日の日本の繁栄の基礎は、スリランカ国のお蔭 と言っても過言ではないことがハッキリと判った!

2013年07月13日(土)のTBS・TV、お馴染みの‘日立世界ふしぎ発見!’の番組が取り上げたのが、‘スリランカ国’

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以後の画像は、断り・注釈の無い限り、全てTBS・TVの画面をカメラで撮影したものである。

以下に示す‘首相官邸’の‘Facebook’の記事に出て来る安倍首相の発言「今ある日本はスリランカのお陰である」の歴史的事実は一体何か?

その答えを‘日立世界ふしぎ発見!’が示してくれたのである!

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2013年03月14日 首相官邸での共同記者会見

https://www.facebook.com/sourikantei
首相官邸
3月14日
サンスクリット語で「光り輝く島」を意味する、スリランカ。
今晩はスリランカのラージャパクサ大統領を官邸にお迎えしました。

今ある日本はスリランカのお陰である。そんな感謝の想いを持って、今日の会談に臨みました。

スリランカは、戦後の日本の国際復帰を後押ししてくれた歴史があります。

1951年のサンフランシスコ講和会議の際、当時のセイロン代表として出席していた、後のスリランカ大統領のジャヤワルダナ蔵相が、「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」として、日本を国際社会の一員として受け入れるよう、訴えてくれたのです。



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http://blogs.yahoo.co.jp/taraikeniti/folder/1266783.html?m=lc&p=4

クイズの問題については別途取り上げたいが、もっと‘重要な’情報が今回の番組には含まれていた。多分、スリランカ大統領の日本訪問に際してスリランカ国の初代大統領の功績に注目した‘TBS’が急遽この番組を作製したのではないかと推察出来る。

さて、その内容とは?  ‘電子紙芝居’でど~ぞ!

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スリランカ出身の経済学博士・タレントの‘にしゃんた’准教授が登場!

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‘社会人落語家’というジャンルを開拓!

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「スリランカとはこんな国」という落語を一席!

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これがスリランカ国

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首都は、‘コロンボ’ではない!と強調。 何だか舌を噛み総な首都!

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リゾート地も素晴らしい!

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駐日大使も登場!

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スリランカと日本の関係について・・・・。この後、日本の今の繁栄の基礎となった「サンフランシスコ講和会議」について言及!

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タレントの皆さんも神妙な面持ちで・・・。

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岩倉具視使節団が欧州視察の折にスリランカ(セイロン)へ立ち寄った。

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夏目漱石もイギリス留学の帰りに立ち寄ったという。

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そして、遂に第二次世界大戦勃発!

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当時のコロンボ

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第二次世界大戦終了後のサンフランシスコ講和会議でのスリランカ(セイロン)の演説に関して‘大統領府’へ大統領に会いに・・・。

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先ずは、今年の3月に日本をご訪問戴いた時のことから・・・。

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多摩動物公園の像は、スリランカからの贈り物!

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さて、本題のサンフランシスコ講和会議での演説について、お話を伺うことに・・・。

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この会議では、ナント‘日本分割案’が議論されたというのである!

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それに関して、当時蔵相で、後に初代大統領になった‘ジャヤワルダナ’氏が演説!

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その内容とは?

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早速、その演説の原稿があるという‘ジャヤワルダナ’資料館へ

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あった、あった! これがその演説の原稿(本物)!

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この演説で多数の国が心を動かされたという!

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私は当時のことはよく覚えている!小学校6年生だった。吉田茂首相が‘全権大使’という役目だったこと、その言い回しも記憶にある。ただし、スリランカ(セイロン)が、こういう‘援護射撃’をしたことは知らなかった!多分、新聞やラジオでは‘報道されなかった!’のではないかと思う。

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資料館館長さんの説明

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1996年永眠!

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この方こそ、今の日本の繁栄を齎した大恩人なのである!

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この‘まなこ(眼)’こそ、‘ブッダの眼’かも知れない!

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演説原稿の翻訳を探し出せた! ミスプリもあるようだが、引用文のまま掲載。

http://www.d7.dion.ne.jp/~tomoca/nettaigo/address_jr_ja.htm
サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説

1951年9月6日 アメリカ合衆国サン・フランシスコに於ける、対日平和条約の締結と調印のための会議に於けるセイロン(スリ・ランカ)政府代表団々長J.R.ジャワルデネ閣下の演説 / J.R.ジャワルデネ閣下は現在スリ・ランカ民主主義社会主義共和国の大統領であらせられる。
スリランカ大使館(東京)資料から

 賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反ばくする企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。
 私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代衣ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。
即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを述べて置いてもよいと思うのです。
 ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。

 イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、アメリカはこれに賛同しました。
両国は又、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを支持しました。

 これ等の諸国の間では又、違った考慮から、条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を忘れ兼ねて、意見がわかれました。
敢えて意見として述べますが、完全に独立した日本のための主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に開催された連邦外相のコロンポ会絨に於いてでありました。このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、南アジア及び東南アジアとして知られている地域の一員として考えられました。世界の富と人口の大部分を含み、最近になって漸く自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、今尚苦しんでいます。
 この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、それを確保するためにコロンボ計画として現在知られている計画が着手されました。
 ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事にかかった経過を説明され、そしてその後にアメリカ代表ダレス氏と相談されたことを説明されました。
今我々の前にある条約は、これ等の協議と折衝の成果であります。
私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。私は現時点に於いて、日本と進んで和平を討議したいとする諸国の聞で達成出来る同意の最大の共通な尺度を告げていると、私は主張します。

 日本に対する態度に於いて、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。日本の自由という事柄について付帯的な他の問題があります。即ち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に限定されるべきであるか、或いは近隣のいくつかの小さい島々にまで広げるべきであるか。若しそうすべきでないのなら、これ等の島々は如何にすべさか。台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返還されるべさか。若しそうすべきであるのなら、中国のどちらの政府へ? 中国は平和条約会議へ招くべきか。若しそうであるのなら、どちらの政府を? 賠償は日本から強要すべさか。若しそうなら金額は。日本が自国の防衛を組織するまでは、どの様にして自らを防衛するのか。

 日本の自由という中心問題について、我々は究極には同意することが出来ました。そして条約はその同意を具現しています。他の問題については際立った意見の相違がありましたが条約は大多数の見解を具現しました。若しこれ等の諸問題の或るものが違った方法で解かれていたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。然し大多数が我国に同意しないという事実は、自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、我国が調印するのを控える理由にはなりません.

 最初に私が言及しました関連のある事柄は、日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、日本が自由にならなければ解決不可能であると我国は思います。
自由の日本は、例えば国連組織を通じてこれ等の問題を世界の他の自由諸国と討議することが出来、早目に満足すべさ決議に到達出来ましょう。本条約に署名することにより、我々は日本をしてそうすることが出来るようにさせます。即ち日本が中国を承認すると決定するならば、中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、そして日本をして印度と平和友好条約を結ぶことが出来るようにさせると私が述べるのは、大変嬉しいことであります。若し我々が本条約に調印しなければこれ等起こり得ることは、何れも起こり得ないでありましょう。

 何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
 私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.

 セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

 我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

 そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?

 私は興味をもって、次の事に注目します。即ちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、新聞及び宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、及び公開の集会の自由を保証しようと要求しています。-----ソ連の国民自身でさえも所有し享有したいと心から執着したいであろう自由をです。

    (注---和訳資料はここまで。以降の数行は欠損)  


JR・ジャヤワルデネ全権代表のサンフランシスコ演説資料(英文・和文)を提供してくださった駐日スリランカ大使館元通訳の故渡辺氏に敬意を表します---かしゃぐら通信KhasyaReport


この演説によって、セイロン(スリランカ)は、賠償権放棄を宣言し且つ日本の分割統治に反対の意思表示をした
そして、‘日本に自由を!’と訴えて呉れたのである!

これによって、日本は、真の‘独立’を勝ち取ることが出来たのである。

実はこの事は、日本人の大半が知らない!

この番組の中での発言の様子からすると‘黒柳徹子’さんだって知らなかった?と思われる。

今の小学校や中学校の教科書には掲載されていないのだろうか?

TBSが、この「日立世界ふしぎ発見」という番組を通じて、この事実を周知させようとしたことからしても多分教科書には掲載されていないという推察が成り立つ!

もしもそうだったら、早急に文科省は、この大事な事実を教科書に掲載するよう指導すべきではないか?

私も機会があれば、是非近々スリランカを訪問して、この原稿を拝見したいものだ!

(つづく)
[2013/07/16 23:51] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
北朝鮮の第3回‘核実験’!
2013年02月13日の讀賣新聞朝刊は、一面トップで今回の‘事件’を次のように伝えている!

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昨日(2013年02月12日)のテレビ朝日・報道ステーションでは、この事件情報を‘21:49~22:33’の約44分に亘って報道した。

この報道ステーションのTV画像を‘デジカメ’で撮影し、判り易く記録しておくために‘紙芝居風に’纏めてみた。(全ての映像は、テレビ朝日・報道ステーションの画像)

<0> キャスター及びコメンテーター

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お馴染みの、報道ステーションキャスター:古舘伊知郎氏

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この方もお馴染み、ここのところのレギュラー・コメンテーター:朝日新聞論説委員・三浦俊章氏

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昨日の特別コメンテーター:前防衛大臣・森本敏氏

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昨日の特別コメンテーター:元北京防衛駐在官・(東京財団研究員)小原凡司氏

<1> ‘事件の発端’

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日本の気象庁のみならず、世界中の地震観測地点でマグニチュード:5.2程度の通常の地震波とは違う‘異常振動’を観測していた。

<2> 北朝鮮の発表

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以上の通り、第3回目の核実験を行なったことを発表した。2013年02月12日11:57:50という。

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このコメントを世界中に発した彼女は、きっと一生北朝鮮政府が面倒を見ることになるのだろうか?

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あくまでも強気の姿勢である。これが今後北朝鮮の立場を悪くするとの予測もしていない訳でもあるまいが、大きな賭けに出たという見方が一般的である。


<3> 日本政府の発表

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事前に日本政府にはアメリカから情報が齎されていたという。日時の予測はなかったとコメントしている。

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<4> 安倍首相のコメントと及びアメリカ駐日大使との会談

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日本の取り組みは、国連への提訴が基本だと言うが、さて国連はどう動くのだろうか? 特に中国の動きが注目される。


<5> 韓国では・・・

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次期大統領も北朝鮮に試されている!

<6> アメリカでは・・・

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13日の一般教書発表の中にこの問題をどう入れ込むのだろうか?

<7> 注目の中国では・・・

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遂に中国も‘堪忍袋の緒’を切る時が来た! 習近平氏も試されている。

<8> 国連の反応は?

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さて、国連の安保理はどんな解決策を出すのだろうか?

<9> 解説

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<10> 問題点

① 各国の新指導者及び新体制が試されている!

② 特に、‘飼い犬に手を噛まれた’中国 が、国連でどんな発言をし、どんな意思表示をするのか?

③ 世界の核問題をどう処理するのか?特に、大国の核保有をどう説明するのか?

④ ウラン型の場合、北朝鮮のウラン埋蔵量の多さが問題である。

⑤ 日本及び韓国の拉致問題を誰が解決するのか?

⑥ 北朝鮮と組む国家への制裁方法は?

⑦ 北朝鮮への‘人道的支援’の方法は?

いずれにしても世界中を大混乱に陥れている事件である!

(つづく)

[2013/02/13 14:25] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
長崎平和祈念式典と親父の祥月命日
毎年8月9日は、長崎原爆に日であると同時に、個人的なことで恐縮だが、私の実の親父の祥月命日である。

正直なところ、祥月命日であるから長崎の原爆に日を思い出すのではなく、長崎の原爆の日であるから親父の祥月命日を忘れずにいる。

それ程原爆の日の印象が我々世代の人間には深いふか~い傷跡として‘こころ’に刻まれているのである。

ところで、広島の原爆の日に関する弊ブログでは、朝日新聞ともあろう大メディアの朝刊の一面にその見出しが見つからないことを指摘した。風化を自ら促進させているのではないかと思ったからだ。

さて、本日の朝日新聞の朝刊には、一面は勿論、どの紙面にも「今日が、‘長崎原爆の日’」という見出しどころか記事さえ無い。看板の‘天声人語’にも忘れられている!

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この新聞で唯一‘長崎平和祈念式典’の文字が見えるのは、TV&ラジオ番組紹介欄だけである。これで、世界へ向けて‘原爆禁止’を訴え続けなければならない日本のメディアとしての責任が果たせると思っているのであろうか?新聞社の記者の間で既に‘原爆に関する風化’が進行してしまっているのだろう!

でも、67年と言うのがそんなに長~い時間なのであろうか? 確かに、この新聞社の幹部連中は67年前には生まれていなかったに違いないが、そんなに‘視野の狭い’気持ちで記者が務まるものなのだろうか?疑問だらけである。

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しかも驚いたことに、NHK以外は‘長崎原爆の日、平和祈念式典’に関する特別番組を組んでさえいないのだ!

この国のマスコミ・メディア関連者の頭脳は、先人達の苦しみを理解することも出来ない程に狂ってしまっているのであろうか?

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8月9日朝日新聞記事0002-2

NHKによる‘長崎平和祈念式典’の放映は、10:30から始まった。(以後の中継映像は全てNHK・TVをカメラで撮影したものである)

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10:38  もう二度と‘被爆者’を作るなと全世界に歌で訴えている。

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10:38  北村西望作・長崎平和祈念像もこの日を待っていたようにも見える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3
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平和祈念像(へいわきねんぞう)は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。北村西望(きたむら せいぼう)によって造られた。
神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。右手の人差し指には避雷針が設置されている。



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10:40  本日の司会を務める二人の高校生

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10:42  原爆死没者名簿の奉納のために代表者が登場

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10:43  死没者名簿

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10:43  長崎市原爆死没者名簿(新たな3巻の内一つ)

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10:46  被爆二世もやっと腰を上げられる状態になったという。

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10:49  献水の儀式。広島にはない長崎の特徴。被爆者は皆水を欲しがった。

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10:50  水は奉納された。

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10:51  続いて献花の儀式。

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10:52  続いて野田内閣総理大臣の献花。

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10:53  高校生平和大使。

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10:53  高校生平和大使の高野桜さん。福島で原発の被害を受けた。

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10:56  彼女も悩んだ末に平和大使を引き受けた。

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10:58  長崎の人達も福島を応援。

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11:02  原爆投下の時刻がきた!‘長崎の鐘’が鳴らされる!

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11:02  全員黙祷。

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11:03  野田総理も黙祷。

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11:05  主催者・長崎市長の平和宣言。

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11:05  原稿は自分で書かれたのだろう。ほとんど原稿に目を落とされない堂々とした平和宣言である。

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11:12  市長による7分間の平和宣言が終了した。

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11:14  被爆者代表の挨拶

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11:14  家族の悲惨な被爆状況が切々と語られた。

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11:22  生々しい被爆者の報告に場内は静まり返った!

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11:22  続いて原爆で焼かれた学校関係者の歌が始まった。

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11:22  学校は丸焼け。人々はどうなったのだろうか?

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11:23  モニュメントが建立されている。

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11:23  現在の山田小学校の皆さんによる合唱。

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11:23  「あの子」という歌。作詞は、永井隆博士である。

http://www.nagasaki-city.ed.jp/yamazato-e/05%20heiwa/04%20nagai%20hakase.htm

 ~ 人を愛し,平和を願い,忍耐と奉仕に生きた 永井隆博士 ~

 明治41年2月3日,島根県に生まれた永井博士は,医者を目指して長崎医科大学に入学し,卒業後は放射線医学を研究した。研究熱心な永井博士は,このころ治らない病気と言われていた結核を研究するために,一日に何百人ものレントゲン写真を撮るという無理が重なって,37才の時,白血病にかかってしまった。しかし,その後も病気の体をおして,熱心に治療と研究を続けていた。
 昭和20年8月9日,午前11時2分。長崎に原子爆弾が落とされ,この1発の爆弾で15万人もの人々が死んだり,けがをしたりした。この時,永井博士もこめかみの血管を切るという大けがを負ったが,「如己愛人」(自分と同じように人も愛する)の精神で,自分のけがの手当は後回しにし,生き残った看護婦を集め,自分が失神して倒れるまでの3日間,必死にけがの手当にあたった。

その後,奇跡的に回復した永井博士は,しばらくは原爆の被害報告書を書いたり,大学での研究を始めたりしていたが,病気は永井博士の体を確実にむしばんで,とうとう立てなくなってしまった。しかし,「腕や指はまだ動く。自分には書くことができるではないか」と,平和への強い願いをこめて「如己堂」で本を書き始めた。病気は日に日に悪くなる一方だったが,それでも永井博士は本を書くことをやめず,HBから2B,さらに4Bへと濃い鉛筆に変え,最後はこするように一生懸命,本を書き続けた。永井博士が書いた「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」などの本は,日本中の多くの人々に読まれ,感動を与えている。また,半紙1000枚に「平和を」の3文字を記して多くの人々に送り続け,遠くはヨーロッパやアメリカの人々にまで平和を強く訴えた。
 不自由な体で平和を祈り,本を書き続けている永井博士のもとには,ヘレン・ケラーさんをはじめ,外国からも多くの人々が励ましにやってきた。こうして永井博士の平和への願いは,世界中の人々にますます知られるようになった。
 また,永井博士は,焼け野原になった長崎の町に,「平和を」「如己愛人」の思いを込めて1000本の桜を贈った。
 昭和26年5月1日,ついに病が重くなり,多くの人々に見守られながら43才の若さで亡くなってしまったが,永井博士の「平和を」の願いは,いつまでもいつまでも人々の心の中に生き続けていくことだろう。


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11:23 大合唱が始まった。

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11:24  永井博士の思いが込められている!

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11:25  「ああ、あの子が生きていたならば・・・」

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11:34  やっと野田内閣総理大臣の挨拶の出番が回って来た。
私は彼の挨拶を瞬きもせずに見ていたが、彼は、式典に集まった人達を一度も見なかった!原稿を必死で読むだけである。勿論自分で作った原稿ではないだろうから、読み間違えないようにと必死のご様子だった。これでは、長崎に失礼である!心は‘政局’に向いているらしく、何とも情けない!これで一国の指導者だろうか?

広島原爆の日の挨拶文の中の‘広島’の部分を‘長崎’に替えただけだったら、と危惧していた。(8月6日の弊ブログ)

比較の意味で‘広島原爆の式典’での首相の挨拶文を掲載した。
それぞれの挨拶文で‘共通の文字’を赤字表示してみた。

完全に一致しているとは言わないが、試験なら‘カンニング’である。これなら‘こころ’が入っているいないの議論の外であろう。彼には‘恥ずかしい’という気持ちなど全くないのであろうか?

本当に、本当に一度も原稿から目を外さなかった!
 

http://www.asahi.com/national/update/0809/TKY201208090182.html

長崎平和祈念式典・野田首相あいさつ(全文)

67年前の今日、原子爆弾が長崎を襲い、約万人もの尊い命が一瞬にして奪われ、多くの市民の方々が筆舌に尽くしがたい苦痛を受けられました。長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。そして今なお原子爆弾の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

 人類は、核兵器の惨禍を決して忘れてはいけません。そして、人類史に刻まれたこの悲劇を二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことです。そして、「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中に広めていくことです。被爆から67年を迎える本日、私は日本国政府を代表し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を順守し、非核三原則を堅持していくことを、ここに改めてお誓いいたします。

 67年の歳月を経て、被爆体験を肉声で語っていただける方々もかなりのお年となられています。被爆体験の伝承は、歴史的に極めて重要な局面を迎えつつあります。「記憶」を新たにする社会基盤として何よりも重要なのは、軍縮・不拡散教育です。その担い手は、公的部門だけではありません。研究・教育機関、NGO、メディアなど、幅広い主体が既に熱心に取り組んでおられます。そして、何よりも、市民自らの取り組みが大きな原動力となることを忘れてはなりません。被爆体験を世界に伝える、世界49カ所での「非核特使」の活動に、改めて感謝を申し上げます。政府としては、これからも「核兵器のない世界」の重要性を訴え、被爆体験の「記憶」を、国境を越え、世代を超えて確かに伝承する取り組みを様々な形で後押ししてまいります。

 また来る8月10日から11日には、長崎市と国連大学の協力を得て、「軍縮・不拡散教育グローバル・フォーラム」を開催します。政府や国際機関の関係者に、有識者や市民の皆さんが加わって、軍縮・不拡散教育のあり方について議論する予定です。皆様とともに、いっそう精力的に取り組み、世界に広げてまいります。「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会も確かな歩みを進めています。核兵器保有国の間でも、昨年、米露の「新START」が発効し、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議が圧倒的な賛成多数で採択されました。こうした動きを発展させ、世界全体の大きなうねりにしていかなければなりません。

 原子爆弾の後遺症により、現在も苦しんでいる方々に目を向けることも忘れてはなりません。認定制度のあり方については、有識者や被爆者団体などの関係者に熱心にご議論いただき、本年6月に「中間とりまとめ」をいただきました。原爆症の認定を待っておられる方々を一日でも早く認定できるよう、最善を尽くします。これからも、被爆者の方々の声に耳を傾けながら、より良い制度への改善を進め、総合的な援護策を進めてまいります。

 東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故から、1年以上が経過しました。ここ長崎からも、福島の再生に心を砕き、様々な支援を寄せていただいています。今なお不自由な生活を余儀なくされている方々が一日も早く普通の日常生活を取り戻せるよう、除染などの生活基盤の再建に全力を尽くします。また、脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します。

 結びに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、被爆された方々、ご遺族の皆様の今後のご多幸を心からお祈りするとともに、参列者並びに長崎市民の皆様のご健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。





http://kissyarita.blog.fc2.com/

広島原爆の日>野田佳彦首相あいさつ(全文)

67年前の今日、原子爆弾が広島を襲い、約14万人もの尊い命が一瞬にして奪われ、多くの市民の方々が筆舌に尽くしがたい苦痛を受けられました。

 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 そして今なお原子爆弾の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

 人類は、核兵器の惨禍を決して忘れてはいけません。そして、人類史に刻まれたこの悲劇を二度と繰り返してはなりません。

 唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことです。
そして、「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中に広めていくことです。

 被爆から67年を迎える本日、私は、日本国政府を代表し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、非核三原則を堅持していくことを、ここに改めてお誓いいたします。

 67年の歳月を経て、被爆体験を肉声で語っていただける方々もかなりのお年となられています。被爆体験の伝承は、歴史的に極めて重要な局面を迎えつつあります。

 「記憶」を新たにする社会基盤として何よりも重要なのは、軍縮・不拡散教育です。その担い手は、公的部門だけではありません。研究・教育機関、NGO、メディアなど、幅広い主体が既に熱心に取り組んでおられます。そして、何よりも、市民自らの取り組みが大きな原動力となることを忘れてはなりません。被爆体験を世界に伝える、世界49カ所での「非核特使」の活動に、改めて感謝を申し上げます。政府としては、これからも、「核兵器のない世界」の重要性を訴え、被爆体験の「記憶」を、国境を越え、世代を超えて確かに伝承する取り組みを様々な形で後押ししてまいります。

 「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会も確かな歩みを進めています。核兵器保有国の間でも、昨年、米露の「新START」が発効し、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議が圧倒的な賛成多数で採択されました。こうした動きを発展させ、世界全体の大きなうねりにしていかなければなりません。

 我が国は、志を同じくする国々とも連携しながら、核軍縮・不拡散分野での国際的な議論を主導し、「行動への情熱」を世界に広めてまいります。再来年には、ここ広島で、我が国が主導する非核兵器国のグループである軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)の外相会合を開催いたします。

 原子爆弾の後遺症により、現在も苦しんでいる方々に目を向けることも忘れてはなりません。認定制度のあり方については、有識者や被爆者団体などの関係者に熱心にご議論いただき、本年6月に「中間とりまとめ」をいただきました。原爆症の認定を待っておられる方々を一日でも早く認定できるよう最善を尽くします。これからも、被爆者の方々の声に耳を傾けながら、より良い制度への改善を進め、総合的な援護策を進めてまいります。

 東日本大震災、そして東京電力福島第1原子力発電所の事故から、1年以上が経過しました。ここ広島からも、福島の再生に心を砕き、様々な支援を寄せていただいています。今なお不自由な生活を余儀なくされている方々が一日も早く普通の日常生活を取り戻せるよう、除染などの生活基盤の再建に全力を尽くします。また、脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します。

 結びに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、被爆された方々、ご遺族の皆様の今後のご多幸を心よりお祈りするとともに、参列者並びに広島市民の皆様のご健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。


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11:35  続いて長崎県知事の挨拶。

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11:35  長崎県知事さんも長崎市長さんと同じく集まった人達の方を見て切々と訴えられた。

ここまでで中継は終了した。




さて、最初に述べた通り、8月9日は、私の‘実父’の祥月命日である。

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昭和51年だったから、今から36年前だ。やはり第二次大戦では‘一兵卒’とし、マレー半島の戦線に派遣された。シンガポールに滞在したらしいが、終戦後は捕虜として‘レンバン島’に抑留され、食うものも食わずに痩せ衰えてはいたが、昭和21年5月21日(実兄の誕生日)に無事福岡県・直方市へ帰還した。

明治45年(1911年)1月5日の生まれだったから、昨年(2011年)、生誕100年記念祭を長男の実兄が幹事役となって挙行した。

実際に、戦線に兵役義務を負って参加した親父達は、原爆に関して我々とは違った思いがあっただろうが、親父の生前には原爆についての議論はした覚えがない。

兎に角、‘戦争はしてはならない’という事は、我々以上に深く深く思っていたことは事実である。

上述した通り、マスコミはもっと核戦争の恐ろしさを世界にアピールすべきである。

マスコミが自らの体たらくで、「‘原爆’の風化」に拍車をかけるような真似だけは決してして貰いたくはない!




























[2012/08/09 23:18] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
8月6日は広島原爆投下の日
8月6日は、言わずと知れた‘広島原爆投下の日’である。

今朝(2012年8月6日)の朝日新聞第一面を見て驚いた!

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2012年8月6日の朝日新聞朝刊第一面。‘原爆’の見出しは何処にも見当たらない!

第二次世界大戦での‘最大の悲劇’、そして人類誕生から今日までの‘最大の悪夢’としか言いようのない‘原子爆弾’が日本に投下された日。

人類が決して忘れてはならぬこの日の大新聞の朝日の一面の見出しに‘原爆’の文字がない!

今日は8月6日ではないのかと一瞬そう思った。でも日付けは、明らかに8月6日。

一面のトップ記事が何のとご覧の通り、‘フェンシング銀以上’である!

これには恐れ入った!

原爆の記事に比べて、フェンシング関係者には申し訳なしが、その価値など一万分の一ほどもない!

‘原爆の日’を‘風化させてはならない’と日本の新聞なら第一面のトップ記事にすべきだ!

‘風化’の文字さえこの新聞には出て来ない。

‘原爆の風化’のお手伝いをこの新聞はしているのであろうか、と疑いたくなる。

今日の朝刊は、オリンピックの記事など一面から外すべきだろう!

そうしなければ、広島で被爆した人達に、また第二次大戦で辛酸をなめた先輩達に顔向けが出来まい。

唯、申し訳なさそうに、‘天声人語’に原爆の事が掲載されているが、世界に向かっての‘平和祈願’という立場ではない! 視点が大きく間違ってしまっている。

天声人語 8月6日
朝日新聞・天声人語(2012年8月6日)

8月6日朝日新聞記事
朝日新聞・39面の記事(2012年8月6日)

第39面に、小さく‘きょう原爆の日’という見出しである。何だかこれもおかしい!世界に訴える気はあるのか?!
‘きょうからお盆の帰省ラッシュ’程度の扱いに朝から頭に来たのは私だけではあるまい。

社説に原爆の事が書かれていなかったら、‘こんな新聞明日からお断りだ!’と思ったが、‘恐る恐る’「核廃絶と脱原発・破滅リスクのない世界へ」と言う見出しである。

社説0001
朝日新聞・社説(2012年8月6日)

この論点も、‘ヒロシマ原爆の恐ろしさ’を世界へ向けて発信するということではない。

本当に日本のジャーナリズムは、ジャーナリストは、‘原爆の恐ろしさ’を世界に向けて訴えようとしているのだろうか?

それとも‘悲惨さ’を封印しようとしているのだろうか? もっともっと熱く語る必要がある。そして、それが出来るのは日本人だけである!



それに比べて、今朝のNHKが放映した‘平和祈念式典’での広島市長の挨拶は流石である。(写真は全てNHK・TVの画像をカメラで撮影したもの)

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/education
/20120806dde007040078000c.html


<広島原爆の日>広島平和宣言(全文)

<2012年8月6日(月)18:00>

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 1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。――「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった。」――それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑(にぎ)やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。

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 そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。――「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ。」――この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍(しかばね)が重なり、声にならない呻(うめ)き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児、死んだ赤子を抱き締め虚(うつ)ろな顔の母親など、まさに生き地獄だったのです。

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 当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。――「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌(がん)で亡くなりました。」――広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。

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 深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以(もっ)て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛(つら)さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。

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 広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。

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 世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、

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被爆地で平和について考えるため、ぜひとも広島を訪れてください。

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 平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国をはじめ10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、

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世界恒久平和に結実するものと信じています。

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 2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曽有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、

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67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

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 あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほかさまざまな声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。

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また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、

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核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断をしてください。

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 私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。

 平成24年(2012年)8月6日

 広島市長 松井一実


こども代表の‘平和への誓い’、これだまた良かった!

http://mainichi.jp/area/news/20120806ddf010040010000c.html

広島原爆の日:こども代表平和への誓い(全文)
毎日新聞 2012年08月06日 大阪夕刊

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 67年前、一発の原子爆弾によって、広島の街は、爆風がかけめぐり、火の海となりました。たくさんの人の尊い命が、一瞬のうちに奪われました。建物の下敷きになった人、大やけどを負った人、家族を探し叫び続けた人。

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身も心も深く傷つけられ、今もその被害に苦しむ人がたくさんいます。

 あの日のことを、何十年もの間、誰にも、家族にも話さなかった祖父。ずっとずっと苦しんでいた。でも、一生懸命話してくれた。戦争によって奪われた一つ一つの命の重み。残された人たちの生きようとする強い気持ち。伝えておきたいという思いが、心に強く響きました。

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 故郷を離れ、広島の小学校に通うことになったわたしたちの仲間。はじめは、震災のことや福島から来たことを話せなかった。家族が一緒に生活できないこと、突然、友だちと離ればなれになり、今も会えないこと。でも、勇気を出して話してくれました。「わかってくれて、ありがとう。広島に来てよかった。」その言葉がうれしかった。

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つらい出来事を、同じように体験することはできないけれど、わたしたちは、想像することによって、共感することができます。悲しい過去を変えることはできないけれど、わたしたちは、未来をつくるための夢と希望をもつことができます。

 平和はわたしたちでつくるものです。身近なところに、できることがあります。

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違いを認め合い、相手の立場になって考えることも平和です。思いを伝え合い、力を合わせ支え合うことも平和です。わたしたちは、平和をつくり続けます。仲間とともに、行動していくことを誓います。

 平成24年(2012年)8月6日

 こども代表

 広島市立比治山小学校6年・三保竜己(みほ・りゅうき)

 広島市立安北小学校6年・遠藤真優(えんどう・まゆ)






未だに福島原発の適切な処理も出来ない野田首相の紋切り型の挨拶には、心がこもってなく、広島の人々や福島の人達は、どんな思いでこの挨拶を聞いたのであろうか?

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20120806dde007040079000c.html

<広島原爆の日>野田佳彦首相あいさつ(全文)

<2012年8月6日(月)18:00>

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 67年前の今日、原子爆弾が広島を襲い、約14万人もの尊い命が一瞬にして奪われ、多くの市民の方々が筆舌に尽くしがたい苦痛を受けられました。

 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 そして今なお原子爆弾の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

 人類は、核兵器の惨禍を決して忘れてはいけません。そして、人類史に刻まれたこの悲劇を二度と繰り返してはなりません。

 唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことです。そして、「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中に広めていくことです。

 被爆から67年を迎える本日、私は、日本国政府を代表し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、非核三原則を堅持していくことを、ここに改めてお誓いいたします。

 67年の歳月を経て、被爆体験を肉声で語っていただける方々もかなりのお年となられています。被爆体験の伝承は、歴史的に極めて重要な局面を迎えつつあります。

 「記憶」を新たにする社会基盤として何よりも重要なのは、軍縮・不拡散教育です。その担い手は、公的部門だけではありません。研究・教育機関、NGO、メディアなど、幅広い主体が既に熱心に取り組んでおられます。そして、何よりも、市民自らの取り組みが大きな原動力となることを忘れてはなりません。被爆体験を世界に伝える、世界49カ所での「非核特使」の活動に、改めて感謝を申し上げます。政府としては、これからも、「核兵器のない世界」の重要性を訴え、被爆体験の「記憶」を、国境を越え、世代を超えて確かに伝承する取り組みを様々な形で後押ししてまいります。

 「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会も確かな歩みを進めています。核兵器保有国の間でも、昨年、米露の「新START」が発効し、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議が圧倒的な賛成多数で採択されました。こうした動きを発展させ、世界全体の大きなうねりにしていかなければなりません。

 我が国は、志を同じくする国々とも連携しながら、核軍縮・不拡散分野での国際的な議論を主導し、「行動への情熱」を世界に広めてまいります。再来年には、ここ広島で、我が国が主導する非核兵器国のグループである軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)の外相会合を開催いたします。

 原子爆弾の後遺症により、現在も苦しんでいる方々に目を向けることも忘れてはなりません。認定制度のあり方については、有識者や被爆者団体などの関係者に熱心にご議論いただき、本年6月に「中間とりまとめ」をいただきました。原爆症の認定を待っておられる方々を一日でも早く認定できるよう最善を尽くします。これからも、被爆者の方々の声に耳を傾けながら、より良い制度への改善を進め、総合的な援護策を進めてまいります。

 東日本大震災、そして東京電力福島第1原子力発電所の事故から、1年以上が経過しました。ここ広島からも、福島の再生に心を砕き、様々な支援を寄せていただいています。今なお不自由な生活を余儀なくされている方々が一日も早く普通の日常生活を取り戻せるよう、除染などの生活基盤の再建に全力を尽くします。また、脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します。

 結びに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、被爆された方々、ご遺族の皆様の今後のご多幸を心よりお祈りするとともに、参列者並びに広島市民の皆様のご健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。

 平成24年8月6日

 内閣総理大臣 野田佳彦



この挨拶が済んだら、広島の件は終わったと思って貰っては困る。黒い雨に関する処置がここまで延び延びになった事の責任を国の為政者は、もっと真剣に考えるべきだろう。

9日の長崎での挨拶文が今回の‘広島’の文字を‘長崎’に書き換えるだけであってはならぬ!
























[2012/08/06 23:53] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
茂原市の‘掩体壕’
私が住んでいる茂原市に‘掩体壕’なるものがある。第二次世界大戦時に造られたもので、‘飛行機の簡易格納庫’と言えば判り易い。

千葉県茂原市本小轡1108-2 の掩体壕
http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html

茂原市本小轡1108-2 の掩体壕

掩体壕(えんたいごう)は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫。掩体、掩蔽壕(えんぺいごう)、掩壕とも言う。 通常は、コンクリート製で、少ない資材で大きな強度が得られるかまぼこ型をしており、内部に航空機を収納する。簡易なものは爆風・破片除けの土堤のみであり、屋根(天井)が無いものもある。なお英語ではBunker(バンカー)と呼ばれ、名称上は武装拠点であるトーチカと区別されていない。陸上自衛隊では「掩体」、航空自衛隊ではこれを行政上は「えん体」、運用上は「シェルター」と呼称する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E
6%8E%A9%E4%BD%93%E5%A3%95


http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000047981
現在茂原市にある‘掩体壕’の数

質 問
(Question)

茂原市に掩体壕がいくつあるか
回 答
(Answer)

『写真でみるもばら風土記シリーズ21 掩体壕(えんたいごう)が語る茂原の歴史』3ページより
11基ある(地図もあり)


因みに、千葉県には、第二次世界大戦の‘戦争の遺跡’はどのくらいあるのだろうか?

「戦争遺跡を歩こう」http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/index.html) 
この文献によれば、以下の通り、27カ所だという。

千葉県の戦争遺跡

   タイトル(リンク)     場     所            主な遺跡

① 陸軍工兵学校跡  松戸駅周辺 相模台公園  門柱 歩哨舎 陸軍境界石 倉庫

② ロケット戦闘機「秋水」基地  柏 花の井木戸付近  秋水燃料庫跡 自衛隊ミサイル基地 陸軍病院

③ 八柱演習場と鉄道連隊廃線跡  八柱駅周辺 21世紀の森 境界石 記念碑

④ 新京成三咲~前原間  三咲駅~前原駅周辺  境界石 空挺館 教育隊営門 記念碑

⑤ 印旛航空隊掩体壕  印西牧の原駅周辺  掩体壕  航空隊石碑

⑥ 佐倉連隊跡  佐倉 国立歴史民族博物館  12階段 弾薬庫跡 便所跡 油脂庫 石碑 レンガ 壕

⑦ 東京無線電信所船橋送信所跡  行田公園周辺  記念碑 海軍境界石

⑧ 千葉駅周辺その1(鉄道連隊・歩兵学校・気球連隊)  千葉駅周辺 千葉公園  鉄道連隊演習場 陸軍歩兵学校跡 気球連隊倉庫

⑨ 千葉駅周辺その2(連隊区司令部・陸軍病院・鉄道大隊記念碑)  千葉駅周辺   連隊区司令部門柱 鉄道大隊記念碑 陸軍病院門柱

⑩ 成田山 航空科学博物館(金属供出 富獄エンジン)  成田山 航空科学博物館  金属供出された天水桶 富獄エンジン 成宗軌道線

⑪ 国府台陸軍病院跡  市川市里見公園  説明板 陸軍境界石

⑫ 毒ガス研究「陸軍習志野学校」「騎兵連隊」(大久保)  大久保駅周辺  習志野学校跡 門柱 弾薬庫 騎兵連隊門柱 

⑬ 柏 高射砲第二連隊・陸軍柏飛行場  柏 柏の葉公園付近  東部105連隊営門 高射砲第二連隊営門 境界石 馬糧庫

⑭ 東京湾要塞「大房岬」(富浦)  富浦 大房岬  弾薬庫 砲台跡 照明所 魚雷射堡 発電所 兵舎跡

⑮ 洲崎「震洋」特攻基地跡(館山)  館山 洲崎海岸  特攻艇「震洋」基地跡 震洋滑走台

⑯ ロケット特攻機「桜花」基地跡(館山)  館山 三芳村  基地跡?  桜花発射用カタパルト

⑰ 地下航空要塞「赤山地下壕」と掩体壕(館山)  館山周辺 赤山地下壕  館山航空隊掩体壕

⑱ 沖ノ島周辺(館山)  館山 沖ノ島 鷹ノ島公園  壕たくさん

⑲ 城山高角砲台(館山)  館山 城山公園  壕少し

⑳ 検見川送信所(千葉市花見川)  検見川付近  無線基地建物

(21)陸軍柏第四航空教育隊(東部第百二部隊)  柏 高田付近  門柱給水塔 (高田の野馬土手)

(22) 陸軍藤ヶ谷飛行場(下総航空基地)  鎌ケ谷 自衛隊下総基地40サンチ徹甲弾  91式航空魚雷 比叡の錨防空壕 (YS11 P3-C C1)

(23) 松戸飛行場(陸軍飛行第53戦隊)  鎌ケ谷自衛隊松戸格納庫 石碑境界石 古い建物 門柱?

(24) 千葉陸軍高射学校  稲毛 小仲台   石碑 境界石

(25) 茂原掩体壕群  茂原付近   掩体壕 海軍壕 石碑

(26) 四街道 野戦砲兵学校跡  四街道周辺  記念碑 門柱 境界石 陸軍墓地 ルボン山

(27) 流山糧秣廠  流山 平和台周辺  記念碑 (博物館)

(28) 館山戦争遺跡ツアー  館山  赤山地下壕 洲ノ崎海軍航空隊 館山海軍航空隊 掩体壕



茂原市の掩体壕
http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html

現存する掩体壕一覧

掩体壕

所 在 地

開口方向

備考

第1号掩体壕

小林字川代西街都2956-1



住宅敷地内(車庫として利用)

第2号掩体壕

新小轡字南台89

南東

農地内(倉庫として利用)

第3号掩体壕

本小轡字東ノ妻1108-1

南西

大規模なもの。市の看板あり

第4号掩体壕

新小轡字杉屋327-1



一部損壊している

第5号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒351

南西

農地内

第6号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒372

北東

農地内

第7号掩体壕

本小轡宇中上ノ原474

南西

農地内

第8号掩体壕

本小轡字宮久保878

南西

爆撃機用か、大規模。宅地内(倉庫)

第9号掩体壕

東郷字南原857

北東

宅地内(倉庫)

第10号掩体壕

東郷字八幡前903-1

南東

住宅内(車庫)

第11号掩体壕

本小轡字東ノ妻1100

北東

農地内

掩体壕の写真

掩体壕の道路案内看板
http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html

掩体壕の写真
http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html

掩体壕の説明看板ー3
http://senseki739.blog118.fc2.com/blog-entry-64.html

掩体壕・茂原市の写真
http://haikyotabi.blog33.fc2.com/blog-entry-40.html


千葉県茂原市、ここにも大東亜戦争の記憶が残っている。
以前に紹介した【陸軍調布飛行場の掩体壕】でも出てきたが、今回も掩体壕が多数残る場所に行ってきた。この掩体壕群は、海軍第二五二航空隊(茂原海軍航空隊)が建設したものであり、この茂原海軍航空隊は、主に外地の戦闘や帝都の防空、さらに特攻作戦に従事した。主要な航空機は、零式艦上戦闘機・九九式艦上爆撃機・彗星艦上爆撃機・月光夜間戦闘機などであった。なので、掩体壕の規模はそれほど大きくない。

http://haikyotabi.blog33.fc2.com/blog-entry-40.html



茂原海軍飛行場の航空写真:

茂原市飛行場・掩体壕の写真
http://www.mobara.ne.jp/katoshin/

1947年米軍撮影の航空写真(USA-M50-82

飛行場の地図:

茂原市海軍飛行場の地図
http://www001.upp.so-net.ne.jp/sotobo/train/haisen/hikojyo.htm

茂原-2

現在の地図 (グーグル地図)の上では、赤い線で囲んだ場所に掩体壕が集中している。

滑走路と言われる道路
http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html

滑走路跡といわれる道路




次のレポート( http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html ) は、建設当時の様子が生々しく、茂原市の掩体壕についての経緯が歴史的資料に基づき詳細に述べられている。その一部を紹介したい。

茂原海軍航空基地

日中戦争が激化し、また、日米関係が悪化していた1941年(昭和16年)7月、国により策定された「国土防衛作戦計画要綱」に基づき、茂原中心部を南北に流れる阿久川の東側、現在の三井化学(株)茂原分工場敷地あたりを中心とした東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)に海軍航空基地の建設が決定した。
その建設が開始されたのは、2ヶ月後の1941年(昭和16年)9月と早く、かなり強引に進められたらしい。時期はちょうど太平洋戦争が始まる直前にあたり、東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(海軍二五二航空隊など)の建設が始まった。
東郷地区住民に対しては、突然の移転命令の通達が出され、以後三次にわたる移転命令により、当時区域内に住んでいた住民は、飛行場用地境界より外500メートルへ強制的に移転させられたという。太平洋戦争の開戦間際の1941年(昭和16年)9月1日に、突然に「用地内住民は実印を持参し、東郷小学校へ午前九時に集合せよ」との通達があり、東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)の105戸の住民たちは、東郷小学校に集められ、そこで強制移転の説明を聞いたのである。それも、予め書類が整えられ、すぐに印を押すことになり、泣く泣く皆印を押して移転に同意させられた。

「大東亜共栄圏形成に占める日本の役割は重大で、この土地における軍事基地の建設は必要欠くべからずものである。時局はまた時間を待てず、住民は三ヶ月以内に用地境界より外五〇〇メートルに移転すべし」


・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうして住民の犠牲の上に出来た、かつての航空基地は、JR茂原駅の北方の工業地帯になっている場所を中心に、新茂原駅東側の住宅地など、茂原市の市街地や周辺農地にわたって存在した。 面積は240町歩(約238ヘクタール)、兵舎敷地40町歩(約39.7ヘクタール)で、完成時想定滑走路の総延長は約3Kmの長さを誇る飛行場になる予定であったが、実際には終戦までに飛行場が完成したとはいえない。しかし、飛行場のおおまかな姿は出来ており、総敷地面積約195ヘクタール、南北に走る幅約80m、長さは約1,000mの主滑走路と他に東西の滑走路1本1,200m×80mの滑走路が1本と1,200m×60mの滑走路が1本であった。戦後になるが、1947年(昭和22年)2月22日に米軍が撮影した航空写真では、滑走路がはっきり写り(2枚上の写真中央の太く白くなっている部分)、飛行場の北側に大きく湾曲した誘導路とその誘導路に沿って掩体壕も認めることができる。

基地本部跡は現在の萩原小学校の場所で、兵舎跡は茂原中学校である。茂原中学校は、1949年(昭和24年)に設立された当初は、兵舎がそのまま校舎として使われていた。三井化学東側の約1,000m道路は当時の滑走路跡とされている。しかし、本当の滑走路は戦後占領軍による接収に引き続く飛行場の復活を恐れた茂原市によって取り壊されて存在しない。今は工場などになっている基地跡の直線的な道路が、当時の名残を留めるようである。基地の東端は、いま大型スーパーや東郷保育所の前にある通称海軍道路と呼ばれているあたりである。

その海軍道路とは、強制移転された住民などが基地内を通行することができないため、基地の外周に沿って敷設された迂回用の道路である。海軍道路は、かつては町の外周という形であったかと思うが、今では周辺に住宅や商業施設も建っているために、基幹道路として交通量も多くなっている。

茂原航空基地を使用した航空隊は、第ニ五ニ海軍航空隊である。ニ五ニ空は、元山航空隊戦闘機隊を母体とし、第十一航空艦隊第二二航空艦隊に所属する航空隊として、1942年(昭和17年)9月に館山基地で開隊し、その後ラバウル、内南洋、硫黄島、フィリピンと転戦した歴戦部隊である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、「茂原海軍航空基地 昭和二十年八月二十六日現在の飛行科兵器目録」によれば、

茂原海軍航空基地で終戦時米軍へ引き渡された飛行機は、

    零式艦上戦闘機五二型 73機
    零式艦上戦闘機二一型  3機
    彗星艦上爆撃機四三型  1機
    零式練習戦闘機 2機
    白菊機上作業練習機   2機
    九三式中間練習機    4機
-------------------------------------
      合計        85機 であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

犠牲者も出た掩体壕の建設

掩体壕を作ったのは、多くの徴用工(その大半が朝鮮人)を抱えた海軍の施設部隊であるが、航空基地の飛行場などを造成したときと同様、近隣住民、とくに中学生や農学校生徒なども動員された。

掩体壕を作る工法として、当時海軍施設本部が採用していたのは、Z工法という急速施工工法である。茂原の掩体壕は、この中のZ5工法とZ6工法で施設設営されたという。土を土堆体という小山状に積み上げ、その上を筵などで覆い、さらに太い金網か木枠を被せ、コンクリートを流し固める。コンクリートが固まると、中の土を出して上に載せて覆土とし、擬装した。いずれも、最初に土堆体を作り、これに被せるものとして鉄鋼コンクリートを打設し、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z5工法)か、鉄鋼コンクリートを打設するかわりに木製の型枠を用いてコンクリートを固め、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z6工法)というものである。作業を急ぐあまり、コンクリートが固まらないうちに支柱を抜いて、崩れた掩体壕の下敷きになって亡くなる勤労奉仕隊員も出た。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議を行った。その決議をうけて旧飛行場復活絶対反対東郷地区民大会も、当時の東郷小学校の講堂で開かれた。そして、5月28日には、茂原市全体の代表が2万7千名の署名を携え、国会に陳情に出向き、ついに防衛庁も茂原での自衛隊基地設置を断念せざるをえなかった。

それは海軍航空基地を建設する際に強制的に家を移転させられ、また基地建設に協力させられながら、今後も道理のない戦争と戦時体制への強制的な動員はご免だという住民の意思が実ったものである。



文献を調べて初めて‘茂原市の掩体壕’が、茂原市民にとってどれだけの犠牲の上に存在しているか、またその悲しい歴史を踏まえて二度と戦争は起こしてはならぬという思いがした。

このブログでも紹介したが、私も‘B29’の来襲と墜落という現場にいた経験がある。

上記の通り、昭和30年の茂原市議会の‘基地反対決議’がなかったら、茂原市は間違いなく‘基地の町’になっていたに違いない。

























[2012/05/30 15:03] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
戦艦大和の沈没とB29の撃墜
昭和20年(1945年)4月7日14時20分戦艦大和は沈没し始めた、と記録にある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)) 今日が丸67年経った命日(68回忌?)である。


<戦艦大和への特攻出撃命令>

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4月7日14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[138]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。
14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)



戦艦大和模型
戦艦大和模型 http://plaza.rakuten.co.jp/maruyasu/diary/200912020000/

Yamato_battleship_under_construction.jpg
戦艦大和(呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20)
 http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)


在りし日の戦艦大和
在りし日の戦艦大和 http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm

戦艦大和訓示
戦艦大和出撃命令 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5

戦艦大和沈没
戦艦大和への総攻撃 http://slashmaraud.blogspot.jp/2007_01_01_archive.html

沈みゆく戦艦大和
沈みゆく戦艦大和 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5


艦歴

計画 第三次海軍軍備補充計画
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
その後 1945年4月7日沈没
位置 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒

戦艦大和沈没位置
http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm

戦艦大和沈没記念碑
http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm


除籍 1945年8月31日
建造所 日本、呉海軍工廠
建造費 約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
性能諸元
排水量 基準 64,000トン
公試 69,000トン
満載 72,809トン
全長 263.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
公試吃水 10.4m
主機関 ロ号艦本式缶12缶
艦本式タービン4基4軸
153,553馬力
最大速力 27.46ノット[1](公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)
乗員 竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
(新造時) 45口径46cm3連装砲塔[2]:3基
60口径15.5cm3連装砲塔[3]:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時) 45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm〜230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機 7機(カタパルト2基)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)



私は昭和14年7月生まれだから、当時6歳になるほんの少し前で、まだ小学校(当時、国民学校。それまでの尋常小学校が昭和16年に国民学校に。昭和22年に小学校と名称変更)に上がる前だった。

情報が直ぐには流れない時代だったし、日本にとってというより当時の軍事政権にとって‘不利な情報’は、国民には正確には流さない時代であったから、‘戦艦大和沈没’のニュースは当時の大人の話題にもならなかったように思う。

yamato45-9-29.gif
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/okinawa-yamato.html

戦後1945年9月29日新聞掲載「わが戦艦大和の最後」;戦時中,戦艦「大和」の存在は秘密であり,国民には公表できなかったが,戦後1ヶ月以上たって,戦艦大和の存在が新聞紙上で公表された。それまで,戦艦大和は無名であった



先程 web で調べた結果、上記の引用通りの記事があった。

戦艦大和の存在さえ知らされていなかったそうであるから空恐ろしい!
次の日の新聞に記事が掲載されるなんてありえないのだ!

当時の日本では、今の北朝鮮以上に言論統制があったのだろう。当時6歳弱の子供に情報が届く訳が無い。



<B29の撃墜>


b-29.jpg
B29 http://www.worldwartwo.estranky.cz/clanky/lietadla/b-29-superfortess.html

一方、私は当時福岡県・直方市に住んでいた。当時の‘八幡製鉄’は当然軍事産業の中心地であり、アメリカが攻撃の目標にしたことは当たり前である。八幡製鉄と直方市との直線距離は、約15km。

3月27日深夜、28日の朝(記録によると3時ごろ)空にB29が見える!という声に防空壕の中にいた我々は、防空壕からはい出してきてその上に立って上空に目を凝らした。探照灯(サーチライトのこと)が2~3本でB29を照らし出す。高射砲が、何発も発射されたがなかなか命中しない。何故だか判らなかったが、B29は高度をかなり下げていた。そうこうしている間にB29が‘白煙’と‘黒煙’と‘炎’を上げながら落ち始めたではないか!

父親は戦地へ赴いていたのでいなかったが、家族はみんな拍手喝采で喜んだ記憶は今でも生々しい。数日が経って、近寄ることが許可された後だと思うが、祖父の運転する自転車に乗せられて、墜落現場に見に行った。
大勢の人達が遠賀川の堤防からB29の墜落機体を見た。その場での噂話を耳にしたが、B29には‘釣り道具’が積まれていて、不時着した際の準備までしてある、と言って盛んに感心するおじさんがいた。私はまだ小学校に上がる寸前だったからそれが本当に何を意味するのか判らなかったが・・・。

撃墜されたB29
撃墜されたB29爆撃機(富澤庸祐氏撮影、下総町立歴史民俗資料館蔵)
http://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/chibakenshi/no26.html


B29‐#42-24864
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-24864.html

墜落日時
1945年3月27日

墜落位置 福岡県鞍手郡植木町中島橋
所属 第20空軍第313爆撃団第504爆撃群第398爆撃隊
攻撃目標 関門海峡
墜落原因            戦闘機(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉?)?
機体ニックネーム   


搭乗員

機内配置 氏名 階級 認識番号 生死
機長 BROWEN, John A. 中尉 0-825755   X
副操縦士
ANDREW, Albert H.

少尉 0-539656    
航法士 FINTEL, Harlund R. 少尉 0-2058448   X   
爆撃手 LOVE, Baxter A. Jr. 少尉 0-929701   X
機関士 HENLEY, Fiske 少尉 0-8170016    
中央火器管制 ANDERSON, Charles A. 軍曹 11981991   X
左銃手 GRIFFITH, James E. 軍曹 13158310   X
右銃手 DENLAVOY, Richard E. 軍曹 13180907   X
尾部銃手 FRANCESLON, Albert L. 軍曹 12207049   X


  初めての対日機雷作戦として、関門海峡に102機が出撃、3機未帰還となった。42-24864は、機雷敷設後八幡上空を南下、直方上空で急旋回、中島橋下流200メートルの遠賀川に墜落した(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉操縦の「堵竜」によるものか) <著者注:「屠竜」の間違い>

Andrew少尉とHenley少尉は飯塚憲兵分隊経由西部軍管区司令部に送致。ついで東京防衛総司令部に送られ、東京俘虜収容所本所に転収された。



陸軍二式複座戦闘機「屠竜」丙型(キー45改丙)
http://home.earthlink.net/~sshinoda/wing/toryuu-detail.html

全幅14.5m 全長10.26m 総重量3.75ton  エンジン(ハ-102)1050馬力2基 最大速度540km/h 武装 37mmx1、20mmx2、7.7x1、 上向機関砲 20mmx2 爆弾 250kx2 航続距離 2000km

堵竜とB29

1936,7年ころから、列強各国では、爆撃機の進歩に対抗して双発重戦闘機の開発が進められていたが、 日本も例外ではなく、陸軍は川崎のキー45(後の屠竜)、海軍は中嶋のJ1N1(月光)の開発に着手した。 数年の歳月をかけて幾多の困難を克服し、 ようやく1942年制式採用となった二式複座戦闘機「屠竜」は、性能、生産性ともに良好であったが、エンジン、設備、武装の点で、列強の各機と比して まだ十分とはいえなかった。   1944年6月15日、成都を基地とするB29の北九州来襲の際には、同地区防衛にあたっていた本機装備の飛行第4戦隊は果敢に反撃し、「屠竜」の性能を発揮して 撃墜4、撃破3の戦果を上げ、当時撃墜困難とされていたB29に始めて一矢を報いたことが記録にとどめられている


POW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会  http://www.powresearch.jp/jp/about/index.html
の資料には以下の記事が記載されている。

1945年3月28日午前3時頃 福岡県鞍手郡植木町(現・直方市植木)の中島橋下流の中州
B29(機体番号42-24864、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 B29が低高度で南東方向へ飛行中、何機かの日本軍戦闘機の攻撃を受けて火の玉になって墜落、2日間燃え続けた。機体の残骸 は近くの小学校に集められた。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
8人が墜落死。遺体は現場付近で火葬、1945年11月に米軍が回収。
 操縦士のAlbert H.ANDREWS少尉と機関士のFiske HANLEY少尉の2人がパラシュート降下して捕虜。飯塚警察署から西部軍司令部を経て、4月4日に東京の防衛総司令部に送られ、戦後米国へ帰還。
 Fiske HANLEY氏は、戦後来日して姫路市などを訪れ、また、1997年にアメリカの出版社から回想記『Accused American War Criminal』を出版。

Accused American War Criminal
http://www.amazon.com/Accused-American-Criminal-Fiske-Hanley/dp/1571681930



もう戦争の事なんか思い出したくないと言う人達も大勢おられるだろうが、我々にとっては‘貴重な’体験である。当時の記憶は曖昧なものが多いが、こうやって情報を集めると今更ながら‘な~るほど!’と思われる事がある。

上述の‘B29の墜落目撃事件’もこれらの情報を数年前に実兄に教えて貰うまでは、‘高射砲が撃ち落とした'とばかり思い込んでいた。実際の目撃者の一人なのに・・。

高射砲
高射砲 http://blogs.yahoo.co.jp/hunnmeru/10033697.html


出来れば、上記の回想記『Accused American War Criminal』をじっくりと今後読んでみたい。

二度とこんな戦争を起こさない為にも‘戦争にまつわる重要な日’には、マスコミはもう少し反戦のキャンペーンをはるべきではないか?

戦没者の‘鎮魂’の意味を込めて・・・。





















[2012/04/07 14:20] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top
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