下谷神社が‘落語発祥之地’!
下谷神社が‘落語発祥之地’!

打ち合わせの相手様の都合上、このところ上野駅近辺に行くことが多い!

上野駅周辺は見たり食べたりすると事が沢山ある。

その中でも、‘上野公園’には、見るものが集中している!
ご承知の通り、芸術や技術に関する博物館等々が沢山あるし、動物園もありの、時期が来れば‘夜桜’では東京で、一、二を争う場所でもある!

この場所とはJRの線路を挟んで反対側は浅草へは2km弱だから、歩いていける距離である!
先般、打ち合わせ間での時間の約1時間も前に上野駅に着いたため、浅草通りを歩いてみたところ、JR上野駅からおよそ500mのところに‘下谷神社’があることに気付いた!

この時気付いたと言うより、随分前から、この神社の‘鳥居’には気付いていたので、まあ‘どんな神社かなぁ’と思っていたが、そんなに期間的余裕もなかったため、鳥居を潜って境内にまで行くことがなかったから、‘下谷神社’という名前も知らなかったという訳である。

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いや、いや、この日は、17時を過ぎていたために、建物の中には入れなかったが、どうやら由緒ある神社らしいこともわかったが、落語をこよなく愛する人間にとって、迂闊にも‘落語発祥之地’を探索していなかったが、偶然にも、この下谷神社で‘発祥之地’に遭遇することとなった、という訳である!

こんな時には、NETを利用すれば良い!
以下のような素晴らしい解説ブログに出会った!

http://makoto-craftbox.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-e23d.html
下谷神社は、「寄席発祥の地」とされている。

落語の黎明期、落語は基本的にお座敷遊びの一部だったり、あるいは辻説法や辻占のように通りの辻で小咄として披露されていた。
通りといっても、大通りの真ん中で人集りが出来るようなことしているはずもなく、ちょっとした大きな塀の前、空き地、あるいは神社の周辺など、人が集まりやすいところでやっていたに違いない。時代劇や小説に出てくる琵琶法師、あるいは昭和だと紙芝居、もっと最近だと、路上パフォーマンスくらいなイメージでいいんだろうと思う。
一方、琵琶法師といえば、現在の講談のような形態もあり、こちらは神社の境内の一部や縁側を借りて披露していたようだ。
こうしたものが、寄席の原型と言ってもいいんだろう。

そういう流れの中で、1798(寛永10)年6月、初代・三笑亭可楽(当時:山生亭花楽)が下谷神社の境内に寄席場の看板を出したとされている。

原典を読んだことはないが、劇作家・岡本綺堂は『江戸に就ての話』で「三笑亭可楽が下谷広徳寺前の孔雀茶屋で三題噺を演じたところがもっとも古いところだろう」(広徳寺前にはいまの下谷神社があった)と話しており、1953年発行の『藝能辞典』(東京堂)には「寛政十年に、神田豊島町に大坂下りの落語家岡本万作が常設の寄席場を設けた時からである。それに対抗して下谷柳の稲荷社内に寄席場を開くというふうに、しだいに行われ」とあるらしい。「下谷柳の稲荷社」というのは下谷神社のこと。当時は「下谷稲荷社」と呼ばれていて、現在も稲荷町という駅名だけが残っているのは、その名残りだ。

諸説はあるが、とにかく今は、下谷神社が寄席発祥の地ということになっている。

2000年に、各寄席の席亭や、両協会が中心となって、下谷神社境内に「寄席発祥の地碑」を建立した。

上の写真はその記念碑だ。本殿に入る門の手前、すぐ脇に建てられている。
以降、「寄席発祥の地の落語会」という落語会が、毎年6月に開かれている。

ということで、落語に興味のある人で、浅草演芸ホールや上野・鈴本演芸場へ行く時には、少し足を伸ばして下谷神社に立ち寄ってみてはいかがだろうか?


また、次のような記載もある!

http://hamadayori.com/hass-col/culture/yose.htm
JR上野駅から 浅草通りを 東におよそ500メートル。通りから 20メートルほど南に引っ込んだところに 下谷神社があり, その門前に 発祥碑が建つ。
寛永10年(1798), 初代 三笑亭可楽が 下谷の稲荷社(現在の下谷神社)の境内に寄席の看板をあげたのが, 江戸で最初の 噺家による落語の席だったと言われる。
寄席発祥の地碑は この200周年を記念して 1998年(平成10年)に建てられた。
「寄席発祥之地」の文字は 柳家小さん師匠が書いたものである。

発祥の碑の隣に

    寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉

という 正岡子規の句碑も建てられている。


句碑はこれである!

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由緒書看板には、この通り!

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日本画の巨匠・横山大観の天井絵もあるというから、大変な神社である!
またいつか訪れて・・・。

(つづく)
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[2017/03/29 17:20] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
旧芝離宮恩賜庭園(その2)
旧芝離宮恩賜庭園(その2)

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出典/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E8%8A%9D%E9%9B%A
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‘離宮’とは、以下の引用文献に書かれている・・・。
‘御用邸’とは、離宮の小規模のものらしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E5%AE%AE
離宮(りきゅう)とは、皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のことである。

一般的には王族・皇族等が居住するために建設された宮殿とは別の敷地に建設される。例えば皇太子などが成人・結婚し、天皇・皇帝と別に住居を構える場合などが当たる。また、避暑・避寒、静養のために建てられるものもある。日本では一定規模の建造物と敷地を有するものを離宮とし、小規模のものを御用邸と称している。また、明治以前には上皇や法皇の退位後の離宮として「後院」と呼ばれる離宮が築かれて専属の役人が置かれた。なお、平安時代の天皇の追号には後院の名称に由来するものが多い。

日本の離宮[ソースを編集]

現存する離宮[ソースを編集]

桂離宮:京都府京都市

修学院離宮:京都府京都市

かつて存在した離宮[ソースを編集]

赤坂離宮:東京都港区 - 明治時代に皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の東宮御所として建てられた。大東亜戦争後は国立国会図書館、裁判官弾劾裁判所として利用された後に迎賓館に改装され現在に至る。

霞関離宮(現在の国会前庭南地区) :東京都千代田区 - もともとはジョサイア・コンドルの設計により1884年(明治17年)に竣工した有栖川宮邸であったが、1896年(明治29年)11月24日、宮内省の懇望により買い上げられ、以後「霞関離宮」と称した。おもに外国王族使臣の旅舎として使用され、大正時代には摂政となった皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の東宮仮御所としても用いられた。1945年(昭和20年)5月、東京大空襲により被弾炎上し、戦後取り壊された。

芝離宮(現在の旧芝離宮恩賜庭園) :東京都港区

鳥羽離宮:京都府京都市 - 12世紀から14世紀頃まで使用された。

名古屋離宮(名古屋城) :愛知県名古屋市

二条離宮(二条城) :京都府京都市

函根(箱根)離宮(現在の神奈川県立恩賜箱根公園) :神奈川県箱根町

浜離宮(現在の浜離宮恩賜庭園) :東京都中央区

武庫離宮(現在の須磨離宮公園) :兵庫県神戸市

吉野離宮(宮滝遺跡) :奈良県吉野町 - 飛鳥時代の離宮。

設置が決まったものの実現に至らなかった離宮[ソースを編集]

上川離宮:北海道旭川市


では、 ‘恩賜公園(庭園)’とは?

先ず、‘恩賜’とは、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B3%9C
恩賜(おんし)とは、君主から臣下などに対して、これまでの忠節や功労を感謝するために与える物品やその行為を指す。日本では「恩賜」と単に言えば天皇から賜ったものを指す。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B3%9
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‘恩賜公園(庭園)’とは?恩賜公園(おんしこうえん)は、第二次世界大戦前に宮内省が御料地として所有していた土地が、公に下賜(恩賜)され、整備された公園である。なお、同様に庭園が下賜された場合には、恩賜庭園と呼ばれる。一覧[編集]

恩賜公園[編集]
上野恩賜公園(東京都台東区) 1924年、東京市へ下賜

井の頭恩賜公園(東京都武蔵野市・三鷹市) 1924年、東京市へ下賜

猿江恩賜公園(東京都江東区) 1924年、東京市へ下賜。ここまでの3公園は皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の成婚を記念した下賜。

有栖川宮記念公園(東京都港区) 1934年、高松宮より東京市に下賜。下賜の経緯は当該項目を参照。

恩賜箱根公園(神奈川県箱根町) 函根離宮跡地(関東大震災にて倒壊)。1946年に神奈川県に下賜

恩賜庭園 [編集]
浜離宮恩賜庭園(東京都中央区、有料) 1945年、GHQの要求により東京都に下賜

旧芝離宮恩賜庭園(東京都港区、有料) 1924年、東京都に下賜。上記と同様、皇太子裕仁親王の成婚記念。


‘離宮’と‘恩賜公園(庭園)’の説明は、以上の文献で様子が掴めた!

私が今度訪れた‘旧芝離宮恩賜庭園’では、パンフレットで次のように説明されている。

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芝離宮-2
芝離宮-3

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この鯉の年齢は?
ひょとして、下賜された大正13年(1924年)から生きていた???

(つづく)
[2017/03/23 23:56] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
旧芝離宮恩賜庭園(その1)
旧芝離宮恩賜庭園(その1)

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出典/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E8%8A%9D%E9%9B%A
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‘離宮’だとか‘恩賜’だのという言葉は、知っていても‘どんな価値’があるのか?については、からきし関心もなければ知識もない!

貧乏人の倅では、正に別世界だから、先ずは‘興味’が湧かない!

そもそも‘貧富の差’が気に入らないから、‘離宮’や‘恩賜’などということに思いを馳せたこともなかった!

しかし、しかし、文化、例えば、‘高度な’音楽や絵画などの芸術等々においては、皮肉にも‘貧富の差’がなかったら産まれてこなかったという現実は、残念ながら‘否定’することは出来ない!

その音楽や芸術を志す人達にとっては、‘スポンサー’なしには、‘高度化’は望めなかったというのは真実に違いない!
と、なると、絞り取られて‘貧’になった人達のお陰で、‘富’の人達が、‘高度化’を進めたと言うことであって、高度な文化は、やはり、その集団全体で創り上げたことになる!

ということは、最も寄与した人は、‘貧’になった人達である!という見方が出来る!
ということは、‘富’の人達が最も感謝しなければならないのは、己が‘搾取した’その相手、つまり、‘貧’と言われる人達に対してであろう!

ってな事を考えながら、今年(2017年)3月10日の午前中、打ち合わせの時間が一寸空いたので、東京のJR浜松町駅から歩いて数分のところにある‘旧芝離宮恩賜庭園’へ行ってみた!

ここは、もう何度か訪れたことがある・・・。
いつもいつでも‘庭師’の方達が懸命に働いておられる姿を見受けるから、それはそれは、見事に管理された日本庭園である!
しかし、しかし、その近傍に林立する都心の高層ビルのお陰で、昔の面影・雰囲気は‘ぶち壊し’に違いないが、上手い具合に‘コラボレーション’などという現象を人間様の頭脳は受け入れることが出来るので、そう真っ向から‘否定’しなくても済むという感情が湧いてくるから不思議である!

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もう少し詳しく知るために、入り口の看板を撮影してきた!

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この看板をよ~く読んでから入場すると、その歴史が解る!

ナ、な、何と‘65歳以上’は、入場料が、‘70円’だそうだ・・・。

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この庭園を作り上げるのに‘莫大な’費用と労働力が使われたに違いないが、それが良かったのか、そうでなかったのか?
奇妙な気持ちで園内を見て回ったのだが・・・・。

(つづく)
[2017/03/20 12:37] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
バレンタインデーとチョコレート:(その1)チョコレートとは、何か?
バレンタインデーとチョコレート:(その1)チョコレートとは、何か?

バレンタインデーが、2月14日であることは知っている!
しかし、その由来や、何故チョコレートと結びつくのかの説明を毎年毎年聞かされるが、直ぐに頭からすっ飛んでしまう!
何故かと言うと、我々が一番関心を持つ時代には、こんな横文字の習慣は無かったからなのだろう!

まあ、「我々年寄りにとっては、関わりの無いこと」と初めから決めて掛かっているから、記憶に残らない!

さて、そのことは別途‘研究(?)させて’戴くことにして、先ずは、

「チョコレートとは、何か?」

から始めたい!

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出典/http://www.1zoom.me/ja/wallpaper/459669/z5573.1/

今、特別のものを除けば、‘口に入れるもの’のほとんどは、‘原料&その製造方法’は大体想像出来る!
私が想像出来ないものの代表の一つが、この‘チョコレート’である!

‘チョコレート’という樹がある訳ではない、ぐらいのことは判っているのだが・・・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3
%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88

チョコレート(英: chocolate)は、カカオの種子を発酵・焙煎したカカオマスを主原料とし、これに砂糖、ココアバター、粉乳などを混ぜて練り固めた食品である。略してチョコともいう[3][注 1]。ショコラ(フランス語: chocolat)と呼ばれることもある。

明治時代の独和辞典『袖珍獨和新辭林』によれば、Schokolateに楂古聿(ショコラ、チョコレート、日本語読みでサコイツ、サコイチ)という訳を当てている。

近年の工業生産チョコレートでは、カカオマス、砂糖、ココアバター、粉乳といった主要材料以外に、原料コスト削減や加工性[5]を上げる目的で植物性の油脂などを加えたり、加工コスト削減の目的で乳化剤などを加えたり、風味の向上の目的で香料や甘味料などを加えるなど、様々な添加物が配合されることも多い


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%8
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カカオマス(cocoa mass、まれにcacaomas)とは、カカオ豆の胚乳を発酵、乾燥、焙煎、磨砕したもの。外皮と胚芽は工程中で除去される。液体のものをカカオリカー、冷却・固化したものをカカオマスと呼ぶ。主にココアパウダー、チョコレートの原料として利用される。


それでは‘カカオ’とは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%82%AA
カカオ(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。学名の Theobroma はギリシャ語で「神 (theos)の食べ物 (broma)」を意味する[1]。

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概要[編集]
樹高は4.5 - 10メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。 樹齢4年程度で開花し、直径3センチメートル程度の白い(品種によって赤~黄色味を帯びる)幹生花を房状に着ける。結実率は1%未満。花期は原産地では周年、栽培地では気温による。日本では5月以降に開花することが多い。

果実は約6か月で熟し、長さ15 - 30センチメートル、直径8 - 10センチメートルで幹から直接ぶら下がる幹生果で、カカオポッドと呼ばれる。形は卵型が多いが、品種によって長楕円形、偏卵型、三角形などで、外皮の色も赤・黄・緑など多様である。中に20から60個ほどの種子を持ち、これがカカオ豆 (cacao beans)となる。種子は40 - 50%の脂肪分を含む。果肉はパルプと呼ばれる。

収穫期は産地によって異なるが、概ね年2回で乾期と雨期に行われ、収穫された果実は果皮を除いて一週間ほど発酵させ、取り出されたカカオ豆は、ココアやチョコレートの原料とされる


ここで‘カカオの実’の画像を、ど~ぞ!

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大きさに「わぁ~~~!!!」と歓声があがります。ついに見たカカオを前に大喜びのショコラティエ達。
出典/http://www.dari-k.com/blog_post/%E8%A8%AA%
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出典/http://www.dari-k.com/blog_post/%E8%A8%AA%
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「どうです?チョコレートの原料の‘カカオ’の様子が少しは、お判りになりました?」
「え~え、私は前から存じておりましたのよっ!ご存知無かったのは、あなただけじゃぁ、ござ~ませんこと!?」

「あへ~っ!、そ~なんすかっ!?」
「そっ!」

(つづく)
[2017/02/11 11:52] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
東京・上野公園は、今!(その2):西郷隆盛銅像・敬天愛人の碑
東京・上野公園は、今!(その2):西郷隆盛銅像・敬天愛人の碑

今月最終日(2017年1月31日)に九州・鹿児島県に関係する人達が、東京・渋谷の某ホテルの集結して‘人的連携’の確認・拡大の会を開くことになっている!

当然話題になるのが、今でも‘せごどん’、つまり‘西郷隆盛’のことである!
それなりに‘せごどん’はまだまだ生きているのである!
その証拠に、2018年のNHK大河ドラマ‘西郷’(せご)どん’が‘鈴木亮平さん’主役で放映されることに決まっている!

さて、この‘せごどん’のもっとも有名な扁額の言葉・文字が、‘敬天愛人’なのである!
ず~と以前にもこの弊ブログでもご紹介したが、私の出身高校、福岡県立・鞍手高校にも、この‘敬天愛人’の扁額があった!

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出典/http://ustinaba.blog120.fc2.com/blog-entry-527.html

多分この扁額の文字に似ていたと思う!
現在の鞍手高校のHPを開いてみたが、この扁額についての記載は無い!

さて、上野公園の西郷さんの銅像の横に、敬天愛人に関する‘碑’が建っている。

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http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keitennaijin.htm
西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠

  『南洲遺訓』

 西郷隆盛は一八七五年(明治八)ころ、訪れる客の求めに応じてしばしば「敬天愛人」という四字成句を揮毫した。諸橋轍次氏編『大漢和辞典』は、この四字成句を「西郷南洲の語」とし、『南洲遺訓』の一節を引いている。

「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始す可し」

 『南洲遺訓』は旧庄内藩の藩士たちがしばしば鹿児島の西郷のもとを訪れて座談したさいの記録であり、最終的には一八七四年(明治七)に訪問した赤沢経言が筆録し、一八七五年(明治八)に訪問した菅実秀の校閲で、西郷死後に公刊されたものである。【補注1】

 西郷隆盛揮毫の「敬天愛人」の書は、現在一〇幅残っているが、一八七五年以後の揮毫とされている。したがって西郷隆盛がこの四字成句を思いつくのは、それ程以前のことではないであろう。

  中村敬宇訳述『西国立志編』

 井田好治氏・沢田鈴歳氏・増村宏氏ら鹿児島在住の方々の研究によれば、「敬天愛人」の直接の典拠は、サミュエル・スマイルズ著・中村正直(敬宇)訳述『西国立志編』(原書は『Self-Help(自助論)』)である。同書は一八七一年(明治四)刊行されているが、訳者「緒論」に、国会議員たる者は「必ず学明らかに、行い修まれるの人なり、敬天愛人の心ある者なり、己に克ち、独りを慎しむ工夫ある者なり」という一節があり、また「西国古今儁傑の伝記を読み、その皆自主自立の志あり、艱難辛苦の行ないあり、敬天愛人の誠意に原づき、もってよく世を済い、民を利するの大業を起こし云々」と述べている。

  中村敬宇著『敬天愛人説』

 実は中村敬宇には、これより以前に『敬天愛人説』と題する著作がある。敬宇は昌平黌で儒学を学ぶ一方で、蘭学・英学を学び、一八六六年(慶応二)イギリスへの留学生派遣にさいし、監督として引率し、一八六八年(慶応四)戊辰戦争のさなかの六月帰国した。

 帰国するやかれはすぐに駿府に移った。前将軍徳川家の駿府移住に従ったのである。駿府はまもなく静岡と改称され、静岡藩となる。

 敬宇は駿府に移ってすぐ『敬天愛人説』を執筆した。これは全文「敬天愛人」の説明であるが、たとえば「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」というくだりがあるが、この父は肉親ではなく「天上の父」つまりキリスト教の父なのである。【補注2】

 出典は新約聖書のマタイ伝の一節である。これは出典を問い合せた静岡藩権大参事大久保一翁(忠寛)の礼状によっても確かめられる。【補注3】
 敬宇はこれを中国伝統思想の「天」=上帝と重ねあわせて理解しようとしたようである。敬宇の号自体「敬天」と同義であろう。

  康煕帝書「敬天愛人」

 さて「天上之父」=キリスト教の神は、もともと日本では「天主」と呼ばれてきた。ただし近世にはキリスト教が禁圧されていたから、「天主」観念の発展は不明である。

 しかし中国では「天」と「天主」をめぐる思想的格闘があった。一八世紀初頭の典礼論争である。

 一六七一年(康煕十)清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがある。これが後年問題を生じた。

 儒教の「天」は上帝であり、キリスト教の「天主」と同じとする折衷的な解釈で孔子や祖先への伝統的行事への参加を黙認するか、それとも中国の「天」は宇宙に広がる空間・自然であって、神ではないとし、孔子崇拝や祖先への伝統的行事への参加や、「天」「上帝」の用語の使用を禁止するかの対立である。結局ローマ教皇は後者の解釈を支持したから、康煕帝はこれに激怒し、前者の解釈に従うもののみ許容することとし、のち雍正帝はキリスト教を全面的に禁止している。「天」をどう理解するかは、中国文化圏におけるキリスト教のあり方にかかわる重大問題であったのである。

  「ワシントン殿」への敬意

 以上の研究で西郷隆盛の「敬天愛人」が、中国の儒教の教典から直接発想されたのではなく、儒教的教養を土台としつつも、幕末・維新期の西洋文明とキリスト教理解から抽出された観念を受容することによって生まれたことが明らかになった。

 日頃「ワシントン殿」(アメリカ初代大統領)への尊敬を口にしていた西郷隆盛は、『西国立志伝』全体をつらぬく精神として、この四字成句を受け留めたのであろう。のちにキリスト教徒内村鑑三が「代表的日本人」のなかで西郷をとりあげ、「敬天愛人」を西郷の根本精神としたのも頷ける。

今や西郷隆盛を道学者的イメージから解放する必要があるのではなかろうか。【補注4】



1)高橋昌郎,中村敬宇,吉川弘文館,1966,

2)沢田鈴蔵・増村宏,中村正直の敬天愛人,鹿児島大学法文学部史学地理学教室,鹿大史学,19号,1972,

3)増村宏,西郷隆盛の思想について,鹿児島大学法文学部文学科論集,7号,1972,

4)井田好治,敬天愛人の系譜 南洲と敬宇と康熙帝,明治村通信,155号,1983,転載:西郷南洲顕彰会,敬天愛人,2号,1984,

5)大久保利謙,幕末維新の洋学,大久保利謙著作集,第5巻,吉川弘文館,1986,


(つづく)
[2017/01/25 23:55] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・上野公園は、今!(その1):上野公園・西郷隆盛銅像・碑文
東京・上野公園は、今!(その1):上野公園・西郷隆盛銅像・碑文

一昨日(2017年1月20日)、久し振りに東京・上野公園を訪ねてみた!
上野公園と言えば、我々のような‘老いぼれの九州人’は、‘せごどん’、つまり‘西郷隆盛’の銅像を一番に見たいと思うのである!

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http://tanaka0903.net/?p=1427

<碑文>(たてよこ変換)

西郷隆盛君之偉功在
人耳目不須復賛述前
年 勅特追贈正三位
 天恩優渥衆莫不感
激故吉井友實輿同志
謀鑄銅像以表追慕之
情 朝旨賜金佽費捐
資賛此擧者二萬五千
餘人明治二十六年起
工至三十年而竣乃建
之上野山王臺記事由
以傅後

西郷隆盛君の偉功については皆さんご存じでしょうから、改めて讃え述べることもないでしょう。前年、勅によって特別に正三位を追贈され、天恩が手厚いことに皆感激しないことはありませんでした。故に、吉井友実は同志とともに銅像を鋳造し、追慕の情を表すことを計画しました。朝廷から金銭を賜り費用に充てよとのご意向があって、この挙に賛同し義捐金を拠出した者が二万五千人余りあり、明治二十六年に起工し、明治三十年に至って竣工し、これを上野山王台に建てて事由を記し、以て後世に伝えます。


除幕式の時の‘エピソード’は有名であるが、この西郷隆盛の銅像が、あの‘高村光雲’作というから少々驚きである!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9
A%86%E7%9B%9B%E5%83%8F

<東京・上野の西郷銅像>

東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬「ツン」は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まった。

宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日に行われた。

身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合、遠近法で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。

以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつかえつつも現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街と並ぶ、東京の象徴的光景となっている[1]。銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった[2]。

岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという[3]。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[4]。実際、生前の西郷に接した東郷平八郎元帥も「上野の銅像なども、制作には大分苦心された様だが、やはり緊張した顔付だし、少しふとり過ぎて居るように思ふ。」と評し、絵画等では西郷の愛嬌や温和が再現しきれないと述べている[2]。

公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし、周囲の人に窘められたという。

この糸子の言をも、樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[4]と解釈している。

上野の西郷像は、糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した[4]。

連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという[5]。

上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。

当時、故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。

当初は、皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる高山樗牛らの反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。

美術史家の吉田千鶴子の調べによると、当初「馬上」で「陸軍大将軍服」姿の図様が募集された[6]が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大将服着用の立像」となり雛形まで出来あがったものの、今度は「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、最終的に現在の姿になったという[7]。

そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする、政治的意図が働いていたと見られる[8]。

造像後、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという奇妙な風習がはやり[9]、昭和に入っても鼻に当たると出世すると言われた。見かねた鹿児島県人会らは、清掃を買って出たという。また、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板に代わりにされた。その後も、銅の価値から犬の像の方を盗もうとする輩が度々表れたが、この企ては成功しなかった[10]。


連れている犬についても文献にあるように、‘逸話’が残っているのが面白い!

(つづく)
[2017/01/22 23:55] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
久し振りの東京タワー
久し振りの東京タワー

今日(2016年5月6日)、久し振りに東京タワーに行ってみた!
打ち合わせ前に時間があったからである・・。

ご案内だろうと思われるが、東京タワーが完成したのは、昭和33年(1958年)である。
これは、丁度私が高校を卒業をした年に当たる!

私とは何の関係もないのだが、私の記念すべき年とタワー完成の年が同じだから忘れがたい事もあって、東京タワーへ行くと何となく懐かしい気がする!

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2016年5月6日12:38の東京タワー
スカイツリーにお客を奪われた感もあるが、まだまだ堂々たる物である!

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‘東京タワー’の名称について調べてみた!
やはり、知らなかったが、下の記事にある通り、応募投票数が一番多かった名称が選らばれた訳ではなっかた!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA
%AC%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC#.E5.90.8D.E7.A7.B0

名称[編集]
「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果10月9日に「東京タワー」に決定した。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%、13位[49])であり、抽選で神奈川県の小学校5年生女子児童に賞金10万円が贈られた。


徳川夢声さんとは、また何と懐かしい!

(つづく)
[2016/05/06 23:55] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居前広場の楠正成銅像
皇居前広場の楠正成銅像

皇居前広場には、楠正成公が名馬に跨っている大きな銅像がある!

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戦前の小学校(=尋常小学校)の教材には、‘楠正成’(=大楠公)の物語があったという・・。

私は、昭和14年7月の生まれであるから、小学校に上がったのは、昭和21年である・・・。
従って、今風に言うなら‘小学校の第一回生’であるから、‘新時代’?の教材だったので、大楠公の物語は教わらなかった!

今の若者に「‘大楠公’って、知ってます?」と聞いてみたって、ほとんど、いや完全に全部の人が「‘だいなんこう’ってなんです?」としか答えない!

ひどい人になると‘大軟膏’と勝手に思い込んで、「痒み止めの軟膏に大きいのが出来たのですか?」というとんでもないことを返してくる慌て者もいるというから、‘大楠公’も‘塗り薬’にまで落とされて苦笑いというところだろうか?

もう少し、大楠公様のお顔がよく見えないのかと、NETで探してみたが、下の画像で精一杯である!

img_0_20160429211713291.jpg
出典/http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51584157.html
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出典/http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html
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出典/http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

今回は、残念ながら‘スマホ’しか持参していなかったので、次回は‘望遠の利く’ぼろカメラで顔をクローズアップしてみたい!

さて、この銅像の下にある‘銘板’に書かれている内容は?

http://hanaturuse.exblog.jp/19937439/

祖先友信開伊
 予別子山銅坑子
 孫継業二百季亡
 兄友忠深感国恩
 欲用其銅鋳造楠公
 正成像献之闕下
 家允未果継其志
 菫工事及功竣謹献

 明治三十年一月
 従五位住友吉左衛門謹識


 臣の祖先の友信、伊予の別子山に銅坑を開きしよ(自)り、子孫、業二百季を継ぐ。 亡き兄、友忠、深く国恩を感じ、其の銅を用ゐて楠公正成像を鋳造し、之を闕下に献ぜんと欲すれども、家允未だ果たさず。 臣、其の志を継ぎ、菫(わず)かに工事し、功竣するに及び、謹みて献ず。

 明治三十年一月

 従五位臣住友吉左衛門謹みて識(しる)す。

うううん・・・。 「家允」が分からなくて・・・。たぶん、允は「胤」の当て字で、「家胤(家の後継ぎ)」・・・。苦しいかなぁ。

さて、訳ですな。

「臣の祖先の友信(住友財閥の三代目で17世紀後半の人)が、伊予(愛媛県)の別子山に銅坑を開いてから、子孫がその商売を二百年引き継いで参りました。今は亡き兄の友忠は、国の恩に深く感じ入り、「この銅山で産出される銅を用いて、楠正成公の銅像を鋳造して、天皇陛下に献じよう。」と望んだんですが、後継ぎも未だにこれを果たせないでいました。そこで、臣がその遺志を継ぎ、少しだけ手を加えて、竣工(完成)の運びとなり、ここに謹んで献じる次第です。

明治三十年一月

従五位 臣 住友吉左衛門 謹んで記す(次第です)」


次回は、楠正成の人物について・・・。
それが判ると、何故、この銅像が皇居前広場にあるのかが理解出来る!

(つづく)
[2016/04/29 23:14] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上野公園の西郷隆盛銅像(その3)
上野公園の西郷隆盛銅像(その3)

先日の本弊ブログで、以下のことを掲げさせてもらったが、未だ<質問2>の答えを示していない。

上野しかし、次の二つの質問に二つとも正確に答えられる人は、そうはいない!

<質問>

<質問1>:なぜ、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか?
<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?


<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?

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出典/http://www.gotokyo.org/jp/kanko/taito/spot/2182.html

私が上野公園の西郷隆盛の銅像を最初に見たのは、高校生の修学旅行の時だったから、え~っと、その~、昭和30年代前半、つまり50数年前だった!

その時の印象は、

① 西郷さんが、なぜ‘刀’を持っているのに浴衣姿なのか?
② 西郷さんが大きかったことを強調してなのか、犬が小さ過ぎる!

だった! 当時私は、犬が苦手だったので、‘犬の名前’が何というのか等に興味が無かった・・・。

さて、今回改めて眺めてみると、今度は、この小さな犬の名前はなんと言うのだろうか?と疑問に思ったし、‘浴衣に刀’の疑問は解けていなかった!

と言う訳で調べてみると、‘犬の名前’にも色々な名前を信じておられる人がいて、中には、‘忠犬ハチ公’と言い張る人さえいることにも驚いたが、この犬の耳が最初は‘垂れて’いたのを誰かが指摘して‘立て直した’という逸話もあることが判った!

http://zassha.seesaa.net/article/390629836.html
 「ツン」という名の薩摩犬 飼い主は西郷隆盛

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1898年(明治31年)12月18日、上野恩賜公園山王台で除幕式が行われた時、すでに「ツン」はこの世を去り、飼い主も薩摩の城山岩崎台で銃弾を浴び、首のない屍体となっていた。西郷の死後、21年2ヶ月が経ったこの日、除幕式に招待された西郷の未亡人糸子は「主人はこんな人じゃなかった」(薩摩弁で)と漏らしたと伝わっている。

問題は「ツン」。高村光太郎の実父・高村光雲(東京美術学校彫刻科教授)が西郷像と一対で「ツン」を製作したのだが、「ツン」を見知った者から「耳は垂れていなかった」と証言が出たため作り直すことに。耳がツンとした現在の「ツン」(雌でなく雄犬)は後藤貞行の作。

1873年(明治6年)10月24日、朝鮮遺使の無期延期(征韓派敗北)を受け、西郷は即座に参議を辞職し下野する。薩摩(鹿児島)に帰った西郷は、東郷町藤川の藤川天神に詣でた折に地元在住の前田善兵衛という者からウサギ狩り用の猟犬を贈られている。その犬が、ツンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬「ツン」(雌犬・命名者は不明)であった。

西郷とウサギ狩りを共にし野山を駆け回っていた「ツン」のその後の運命はわからない。維新の元勲・西郷隆盛は、1877年(明治10年)9月24日午前4時の政府軍の総攻撃を受け、数百発の砲弾が炸裂するなか城山で自刃。48歳の人生を終えた。

参考 鹿児島県川内(せんだい)市東郷支所産業建設課のHP http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub2tougou1.htm


また、西郷さんの銅像については以下の文献もある!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83
%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B%E5%83%8F

<前略>

銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった。岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという[2]。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[3]。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[3]と解釈している。

上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した[3]。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという[4]。

上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる高山樗牛らの反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。

美術史家の吉田千鶴子の調べによると、当初「馬上」で「陸軍大将軍服」姿の図様が募集された[5]が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大将服着用の立像」となり雛形まで出来あがったものの、今度は「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、最終的に現在の姿になったという[6]。そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図が働いていたと見られる[7]。

<後略>


ものにはそれぞれ深い深~い由来があるものである!

(つづく)
[2016/03/29 23:56] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上野公園の西郷隆盛銅像(その2)
上野公園の西郷隆盛銅像(その2) 

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前々回のこのブログで、以下のように書いたのだが、この答えに到達する前に、西郷隆盛の書、‘敬天愛人’のことが気になってしまった!

上野公園に‘西郷隆盛’の銅像があることは、ふつ~の人なら誰だって知っている・・・。

しかし、次の二つの質問に二つとも正確に答えられる人は、そうはいない!

<質問>

<質問1>:なぜ、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか?
<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?


改めて、以下の質問から・・・。

<質問1>:なぜ、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか?

勿論、この上野恩賜公園は、西郷隆盛と‘ゆかり’があるのは確かである!

明治維新という‘大事件’があったらばこそ、今日の日本がこのような形で存在するのであるから、もう少しこの歴史的意義を我々も噛み締める必要がある!

「今更、明治維新のことなんて」と言う勿れ!
現在の政治家と比べれば、明治維新を成し遂げた人たちの純粋さが判るというもの!
その中でも一番の正直者は、この西郷隆盛であったことは言うまでも無い!

西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と‘江戸城の無血開城’を決定して江戸総攻撃は回避された後に起こったのが‘上野戦争’である。

江戸幕府の残党が彰義隊を編成して新政府軍と向かい合った時に、大村益次郎の指揮下にあった西郷隆盛率いる薩摩軍の働きで‘上野戦争’は終結を見たのである!

そんな訳で、上野の森と西郷さんは、深い、深~い関係があるのであ~る!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111462131
上野には、西郷隆盛と歴史的な、ある種の「ゆかり」があります

それは、江戸時代の末期にあった「上野戦争」の立役者の一人が西郷隆盛だった、ということです。
 いまの上野公園は、江戸時代には上野山東叡山寛永寺といいまして、徳川家の菩提寺でした。寛永寺本坊の規模は当時3,500坪(約11.5ヘクタール)という広大な敷地でした。つまり、上野公園と上野動物園一帯は寛永寺の敷地だったのです。
 戦争の起きた時は慶應4年5月15日でして、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(江戸幕府の残党であり、正規軍とはいえないようですが)と、新政府軍(薩摩、長州、土佐、佐賀などの連合軍)との戦いです。
 最初のうちは、彰義隊もかなり善戦したといえます。
 しかし、西側からの肥前佐賀藩によるアームストロング砲が、加賀藩邸(現在の池之端付近の東京大学)から不忍池を越えて砲弾を打ち込まれるようになり、相当の威力を発揮したことから、戦局が決定されました。
 南からは寛永寺黒門口に薩摩藩の西郷隆盛が、当時における最強の薩摩軍主力部隊を指揮し、防備を破って攻め入り、最終的に戦争に勝利しました。これは西郷隆盛が41歳のときでした。 上野戦争については、「彰義隊」(吉村昭)や「彰義隊遺聞」(森まゆみ)にも書かれていますが、
↓にも、詳しく書かれています。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html
 http://www.globetown.net/~hara_1962/BAKUMATU/bakumatu_03.html


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出典/http://www.kurofune-shachu.com/shiseki/zokukaneji.html

出典/http://www.kurofune-shachu.com/shiseki/zokukaneji.html

・・・・・・・・
迎え撃つ彰義隊は山王台(西郷さんの像のある高台)から反撃します。

寛永寺のある上野山は、山というだけあって高地から攻撃できる彰義隊は最初は優勢だったようですが、そのうち新政府側のアームストロング砲による砲撃が届くようになると形勢は一変しました。

飛距離のあるアームストロング砲が不忍池の向こう側、富山藩邸(現在の東大付属病院あたり)からガンガン打ち込まれて、守っている彰義隊士を直撃し、根本中堂(現在の噴水広場あたり)などもすっかり焼かれていしまいます。

また、新政府軍は黒門外にある料理屋「雁鍋」と「松源」の2階から山王台の彰義隊を狙撃して黒門を突破したようです。

不忍池付近にあった穴稲荷門も突破され、山内に入った新政府軍は、彰義隊が本営としていた寒松院(現在の上野動物園入り口あたり)や御本坊(現在の国立博物館あたり)などに次々と放火して焼き尽くしました。

朝始まった戦闘は、彰義隊の惨敗という結果でその日の夕方5時くらいには終結したそうです。。。


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上野山の黒門では東征軍と彰義隊の壮絶な攻防戦が繰り広げられた(彰義隊奮戦の図)
出典/http://www.geocities.jp/satopyon0413/xyz-test1.htm
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佐賀藩兵上野彰義隊砲撃図
出典/http://www.geocities.jp/satopyon0413/xyz-test1.htm

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薩摩の西郷隆盛(左)と長州の大村益次郎(右)
出典/http://www.geocities.jp/satopyon0413/xyz-test1.htm

今の上野公園は、動物園や博物館や桜で賑わう平和そのものであるが、当時に我々も少しは思いを馳せることも重要なのだろう!

(つづく)
[2016/03/28 13:24] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上野公園の西郷隆盛銅像(その1)
上野公園の西郷隆盛銅像(その1)

2016年3月16日、東京・上野公園へ行った・・・。

上野公園には、名所・旧跡といわれるところや由緒ある建造物や博物館・美術館が沢山ある!
上野公園の正式名称が‘上野恩賜公園’と言われるのに相応しい!

注)恩賜公園(おんしこうえん)とは、第二次世界大戦前に宮内省が御料地として所有していた土地が、公に下賜(恩賜)され、整備された公園である。

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西郷さんも、まさか一寸横を向けば、スカイツリーが見えるとは思わなかったに違いない!

上野公園に‘西郷隆盛’の銅像があることは、ふつ~の人なら誰だって知っている・・・。

しかし、次の二つの質問に二つとも正確に答えられる人は、そうはいない!

<質問>

<質問1>:なぜ、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか?
<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?


西郷隆盛という人物には、不可解なところが多い(と私は思っている)が、兎に角極めて優れた人物であることには間違いない!
私は、九州福岡県の田舎町の出身であるが、我が高校の講堂には、‘敬天愛人’の扁額が掲げてあった!

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出典/http://ustinaba.blog120.fc2.com/blog-entry-527.html

うろ覚えではあるが、田舎の高校の講堂に掲げてあった扁額の文字は、確か直ぐ上の文字だったと思う。
下の画像の字体ではなかった!

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出典/http://ameblo.jp/tanabenosaito/entry-11863307153.html

西郷隆盛が、‘敬天愛人’の文字を書くようになったのには、その前に彼が京都清水寺成就院の住職・月照と共に、鹿児島錦江湾の海に投身自殺をはかった事件(安政5(1858)年11月16日)と深い関わりがあるという!
出典/http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/keiten.htm

1875年以降に書かれた書が10点程残っているというから、この事件から17年も経っている!
この‘敬天愛人’という四字成語の原拠について、色々な議論があるのだろうか?
以下の文献が見つかった!

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keitennaijin.htm
敬天愛人の原拠

 敬天愛人の創唱者は、清の康煕帝、ついで中村正直である。

 西郷隆盛が揮毫した「敬天愛人」は、1875年(明治8)以降のものが10点残っている。この語は中村正直(敬宇)の造語で、イギリスから帰国した直後に駿府で「敬天愛人説」(1868年)を書き、ついで静岡で執筆した『西国立志編』(1871年)の訳者緒論にもこの語を使っている。しかしもともとこの四字成語は1671年(康煕10)康煕字典で有名な清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがあるのが起源である。しかし諸橋大漢和辞典は、この語を西郷隆盛に由来するとしている。
 わたしは10年あまり前に日本医事新報社の依頼を受けて「西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠」という文章を書いたことがある。読者の医師から「敬天愛人」はキリスト教思想ではないかという質問があった由であった。
 『日本医事新報』3608号(1993.06.19) 
 この時「二つの「敬天愛人」」(静岡新聞,1993.08.12)も執筆し、こう締め括った。
 「諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。」 2年前に京セラの稲盛和夫氏に近い人から、「敬天愛人」について話を聞きたいという打診があった。わたしは以上の大要を述べ、西郷が幕末きっての西洋通の島津斉昭の影響を受けていること、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)を愛読していたことをあげ、古代中国の道学者風に描くことを止め、文明開化期の啓蒙思想との関連で西郷を評価することを勧めた。しかしそれっきりだった。
 今年出た稲盛和夫氏の新著『敬天愛人』(PHP研究所 2006)は、この点の考察を欠き、まったくのでたらめである。

 西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、儒教等の古典にあるのではなく、中村正直(敬宇)「敬天愛人説」および『西国立志編』に由来すること、さらに原拠を探れば、清の康煕帝であることは、40年くらい前からの研究者の研究によって明らかになっている。
 しかし「西郷隆盛のホームページ 敬天愛人」(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/)をはじめ、多くのサイトで相変わらず学問的根拠はまったくない陳腐な旧説をながながと述べている。
 この文は1993年に求められて書いた拙文である。西郷崇拝も、ちゃんとした学問的根拠の上に組み立てて欲しいものである。

西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠(日本医事新報3608号、1993年6月19日付、pp.142-143)
二つの敬天愛人―西郷隆盛と中村正直ー(『静岡新聞』1993年8月12日付所載)
康煕帝と敬天愛人
付記・最近の敬天愛人研究リスト


私も、‘敬天愛人’という‘四文字熟語’(と言っていいかどうかは解らないが・・・)は、西郷隆盛自身の作・造語とばかり思っていたが、どうやら違うらしい!

これは、私にとっては新発見である!
また、西郷隆盛が関係する‘征韓論’についても中々難しい論争があるらしいから、これも今後調べてみたい!

上述した‘二つの質問’の件(くだり)は次回!

(つづく)
[2016/03/27 23:25] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
銀閣寺(その1)
② 銀閣寺(その1)

銀閣寺には、約60年前中学校の修学旅行で訪れて以来2度目であるから、その道筋も何も覚えていなかった。ただ、銀閣寺の建物そのものの記憶だけがあっただけである。

そんな思いで、2014年12月29日、娘一家4人とかみさん&私合計6名で、京都の名所巡りを敢行?することにしたのである。

さて、名所巡りは我々が乗ってきた自家用車でという気は初めからなかった!

京都平安京は、794年に遷都が行われて以来だから、1,220年の古都である。当然外国人が多い!この日も年末というのに(?)外国人は多いし、街中は年末の慌しさで自動車で溢れ返っている!

そんな訳で我々は、京都市内一日バス乗車券( 500円)で動くことにした!

バス乗車券

ということで、バスに乗って先ず銀閣寺へ行った!

昔、銀閣寺は、「銀閣寺ではなく、慈照寺・銀閣である」として、試験問題の回答に‘銀閣寺’と書くと‘×’になるという馬鹿げた本末転倒の試験をして喜んだ輩がいたと聞いたことがある!その輩に言わせれば、物事を正確に表現させることを狙ったということを言いそうだが、これこそアホの輩が出す最低の問題である!

今やそんなことを言う連中はいなくなったらしく、下の写真にもある通り、‘銀閣寺’で何らおかしくはない!

さて、本質的な話としては、‘銀閣寺の価値’とは何なのか?
銀閣寺は有名だから行って見たが、ただそれだけ、という人が多い!
その解説は、次回。

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(つづく)
[2015/01/03 23:35] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2015年の幕開け!(その2)
2015年の幕開け!(その2)

おっと、京都での大事な歴史の場所をもう3つ忘れていた!

⑦ 清水の舞台

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⑧ 東本願寺・東山浄苑

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⑨ 本能寺

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そんな訳で、富士山は京都ではないが、日本の歴史を語る上でも欠かせない対象でもあり、今後‘爆発’という危険を孕んでいることでも環境問題でも今その存在は注目を集めている!

① 富士山

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気になるのは、富士山の年齢である!
日本の象徴富士山は一体いつ誕生したのだろうか?

http://japan-web-magazine.com/japanese/select/fuji/history.html
富士山の年齢
富士山が現在のような形になったのはおよそ1万年程前だといわれている。数十万年前に現在の場所で最初の噴火が始まり、何度も噴火を繰り返すことによって積もった火山灰や溶岩が次第に山を形成、標高3000メートルを越える山に成長する。さらに大規模な噴火が1万1千年ほど前に起こり大量の溶岩が流出。それらが冷え固まった後、風雨にさらされて中心部が崩落、現在のような円錐の上部を切り取ったような姿になったと推測されている。


そして気になるのは、勿論今後の噴火!

http://japan-web-magazine.com/japanese/select/fuji/history.html

富士山(噴火)史

年代 ・人名 ・出 来 事
10万年以上前   噴火。小御岳形成。
2万年前頃   噴火。古富士山形成。
3000年前頃   噴火。新富士山形成。
? 木花咲耶姫 登山。「永遠の命を天に求めるため、山頂へ登った」という。
紀元前500~300   噴火。
紀元前200年頃 徐福 登山。「秦の始皇帝の命により、不老長生・回春の妙薬探しに登った」という。
西暦150年代 日本武尊 「東征のみぎり、富士山頂を征服」という
200~300   噴火。
500~600   噴火。
598頃 聖徳太子 「名馬に乗って、天空より山頂へ」という
670頃 天智天皇 大津に崩御を伝えられた天皇は、実は馬で富士に登り、岩窟に入ったという
680頃 役小角 小御岳より山頂に登ったといわれ、富士行者の始祖という。「流刑地の伊津大島より、夜な夜な、空を飛び山頂へ」という。
750頃   噴煙(噴火?)。万葉集に詠まれている。
781年   噴火。続日本紀に「山麓に降灰し、木の葉枯る」とある。
800頃 桓武天皇 登山。大宮口より登ったという。
800   噴火。日本紀略に「山頂の大噴火が荒れ狂い川の水を紅色とした」とある。
802   噴火。山頂より火山弾・火山灰。東斜面の小富士誕生(?)。
807 空海(弘法大師) 登山。甲州側より登り、石仏を勧進したという。
826   噴火。相模国寒川神社の記録。
864~865   噴火。北斜面の長尾山からの熔岩により青木ヶ原樹海形成。
870 ? 噴煙(噴火?)。
都良香は山頂火口内に沸湯池があることを富士山記に記録。
932   噴火。山頂より。
937   噴火。北斜面より。鷹丸尾溶岩流・檜丸尾溶岩流は山中湖をせき止めた。
952   噴火。北東斜面より。神火、水神を埋とある。
993   噴火。北東斜面より。
999   噴火。山頂より本朝世紀に「不字御山、焚く」とある。
1017   噴煙(噴火?)、更級日記。
1033   噴火。南斜面より。日本紀略に「富士山噴火、峰より起り、山脚に至る」とある。大沢崩への溶岩流。
1083   噴火。扶桑略記に「富士山焼燃」とある。
1149頃 末代 登山。山頂(奥宮の位置)に大日寺を建立。
1228 親鸞上人 登山。甲州側より登ったという。
1269 日蓮上人 登山。吉田口より登り、経が岳に妙経を埋めた。
1193 猪之頭の民 源頼朝の「巻狩り」時に、山頂の雪を献上。
1331   地震。山頂崩壊。太平記。
1511   噴煙(噴火?)。妙法寺旧記に「窯岩燃ゆ」とある。
1518 道者 事故。初登山(6月1日)していた道者13名が暴風で死亡。
3名が火口から出現したクマにより殺害される。
1560   噴火。側火山(?)。日本災異志。
1600頃 藤原角行 登山。合計128回登り、富士講を開く。
1700   噴火。斜面に小形爆裂火口が誕生。日本災異志。
1707   噴火。宝永火口形成。
1811 道者 事故。道者18名が暴風により死亡。
1832 たつ 登山。女性の最初の登山者。
1860 ラザフォード・オールコック 登山。西欧人の最初の登山者。ときのイギリス公使。
1867 パークス夫人 登山。西欧人の女性の最初の登山者。ときのイギリス公使夫人。
1872   登山。富士登山女人解禁。
1890 ウォルター・ウェストン 登山。日本アルプス開拓の父といわれるイギリス人。
1898 ラフカディオ・ハーン 登山。小泉八雲の名で知られるアメリカ人。
1912 テオドール・フォン・レルヒ 登山。山頂よりスキーで滑降。日本スキーの父といわれるオーストリア人。
1965   気象庁富士山測候所レーダー完成。
参考文献「富士山自然ハンドブック」:社)富士自然動物園協会・編


そして、今後の富士山の噴火予測は?

http://naimora7.blog135.fc2.com/blog-entry-218.html
「富士山が噴火する可能性は100%」その根拠とは?

「富士山が爆発する可能性は100%」。
そう主張している人がいます。その根拠は、いったい何なのでしょうか?

火山学の専門家・鎌田浩毅さんは、著書『もし富士山が噴火したら』(東洋経済新報社)の中で、噴火の可能性は100%としているそうなのです。

火山の寿命は100万年。富士山の年齢はというと、10万年。これを人間にたとえるなら、10歳です。富士山は、江戸時代の「宝永噴火」以来、300年間活動を休止しています。300年は長いようですが、火山の寿命を人間にたとえるならば、10歳の子どもが10日間くらいじっとしていただけ、なのだとか。もし、宝永噴火と同じ規模で噴火した場合、被害額は2.5兆円と試算されています。


富士山の噴火予測
出展/http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-10-03-1

(つづく)
[2015/01/02 23:29] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2015年の幕開け!
2015年の幕開け!

言うまでもないが、我々の現在は過去の歴史の結実である!

世界中が、2015年という年を迎えるのだが、地球の歴史、人類の歴史はこんな短時間で出来上がったものではないことは誰でもが知っている!

しかし、まあそんなに大上段に振りかぶらずとも、正月の休み中は、いい機会だから、ほんの少しでも‘自然現象の歴史’や‘文化の元になった歴史’を考える時間を持つのもいいのかもしれない!

そんな訳で、年末に京都へ行くことになった!
その詳細は、別途今後このブログで書かせて貰うが、一つの文化財の歴史といえど、そう簡単ではないし受け取り方によっては、その人の人生を左右する最大の情報源になることさえあり得るかもしれない!

本日は、その予告編!

先ずは、① 富士山

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② 銀閣寺

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③ 金閣寺

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④ 大文字山

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⑤ 竜安寺

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⑥ 嵐山と渡月橋
 
画像ー269 2014京都 095-2

(つづく)
[2015/01/01 10:10] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
千葉の名前の由来
千葉の名前の由来

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我々は千葉県に住んでいながら‘千葉’という名前の由来をはっきりとは知らない!
勿論、名前の由来は、最近決められたもの以外は、なかなかはっきりしないのだが・・・。
逆に言えば、‘名前の由来を知っている地名なんて全くない!’と言ってもいい!

お馴染みの‘Wikipedia’では、次のように解説されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C
県名の由来[編集]

千葉県という県名は、1873年(明治6年)に木更津県と印旛県が合併して当県が設置された際に千葉郡千葉町に県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の郡名(千葉郡)に見ることができる。その地名の由来については諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、

1.実り豊かな豊穣の地を示している
2.たくさんの草木が生い茂る原野だったから
3.土地と子孫の繁栄を願っての地名


などとも説かれる。なお、『日本書紀』と『古事記』の両書には、応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯を望んでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が「千葉」という地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている(和歌については、以下を参照)。

(和歌)
千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
(訳)
千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにも見える
現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くに見えるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている(和歌については、以下を参照)。

(和歌)
千葉の野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きて高来ぬ
(訳)
千葉の児手柏の葉がまだ開ききっていないように、若くあどけない彼女(娘)が何とも痛々しくて、手も触れずに遠くはるばるとやってきた

アクアラインゴルフクラブ
http://smcb.jp/_ev_event?event_id=29481
アクアラインゴルフクラブ

千葉県は、ゴルフ場のメッカである!

http://golf-green-hole.blogspot.jp/2013/06/all-prefectures.html
全国ゴルフ場総数=“2331”

01. 北海道 169 (104)
02. 兵庫県 159 (141)
03.千葉県 155 (132)

04. 栃木県 137 (128)
05. 茨城県 125 (111)
06. 静岡県 91 (80)
07. 岐阜県 88 (79)
08. 埼玉県 85 (63)
09. 群馬県 79 (74)
10. 三重県 78 (73)
11. 長野県 76 (53)
12. 福岡県 56 (45)
13. 福島県 55 (35)
14. 愛知県 52 (39)
14. 岡山県 52 (38)
16. 神奈川県 51 (31)
17. 広島県 50 (32)
18. 滋賀県 45 (43)
19. 新潟県 44 (25)
20. 熊本県 42 (33)
21. 宮城県 40 (23)
21. 山梨県 40 (37)
23. 大阪府 39 (25)
24. 山口県 38 (28)
25. 京都府 34 (24)
26. 奈良県 32 (25)
26. 鹿児島県 32 (27)
28. 宮崎県 29 (21)
29. 岩手県 26 (8)
30. 石川県 25 (23)
30. 長崎県 25 (13)
30. 大分県 25 (21)
33. 和歌山県 23 (19)
33. 沖縄県 23 (17)
35. 香川県 22 (12)
35. 佐賀県 22 (13)
37. 東京都 20 (5)
38. 愛媛県 19 (12)
39. 山形県 18 (2)
40. 秋田県 17 (2)
41. 青森県 16 (8)
41. 富山県 16 (6)
43. 鳥取県 14 (9)
43. 徳島県 14 (12)
45. 福井県 11 (9)
45. 島根県 11 (5)
45. 高知県 11 (7)

*カッコ内の数字はGDOで予約可のゴルフ場の数。
*2013年6月作成。


今、現時点で、千葉県の新名称を募集したら、何となるだろうか?

上記の通り、ゴルフ場の数では全国第3位だから、‘千’だけは残して‘千(ち)グリーン県’でもいいのかも知れない!
この場合、由来は明確である!

(つづく)
[2014/12/02 00:00] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
11月22日は、何の日?
11月22日は、何の日?

‘今日は何の日?’というコーナーのあるラジオ番組がある!
NHKのその番組の今朝(2014年11月22日)のラジオである。

11月22日といえば、語呂合わせでは‘いい夫婦’程度しか思い浮かばないのだが、実は歴史的には大変な日なのだそうだ!

まだ未だにその真相が明らかではない‘ケネディ大統領暗殺の日’だという!

1963年、昭和38年の11月22日(アメリカ日)、この大事件は、勿論の事だが‘予告なしに’起こった!

ケネディ暗殺事件
出典/http://occult-2ch.net/blog-entry-549.html


出典/https://www.youtube.com/watch?v=Num3CL1MrHU

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%8
D%E3%83%87%E3%82%A3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A
0%98%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、John F. Kennedy assassination)とは、1963年11月22日金曜日、現地時間12:30にテキサス州ダラスで第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが市内をパレード中に銃撃され死亡した事件である。犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが2日後に警察署管内でジャック・ルビーに撃たれて殺され、しかも大統領が後方から撃たれたとする公式見解に反して前方から撃たれたとする異説も出て、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な事件発生と犯人が殺害される意外な展開、そしてその後に暗殺の動機も背後関係も分からず多くの謎を残したまま捜査が終了し、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼ぶ事件である。<後略>


私のこのブログでは、このケネディ暗殺事件の背景には、‘政府紙幣’の発行との関係があって、リンカーンの暗殺事件との共通点は、その‘政府紙幣’発行と無関係ではないと書かせてもらっている!

ただし、上記のWikipedia での‘リンカーン暗殺事件とケネディ暗殺事件の共通点’の関連記事(リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%A8%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E5%85%B1%E9%80%9A%E7%82%B9>)にはこのことは指摘されていない!

続々・地球危機を救う方法(その3:金融危機はこうして乗り越えろ!)

<前略>

‘政府紙幣’の発行こそ、この3点セット

      経済波及効果と雇用効果と税収効果

を上手く転がす‘国家戦略’なのである。

ただ‘政府紙幣’発行に関して、歴史的見地から眺めてみると、二つの事例・事件のことも見逃してはならない。

<1> リンカーン事件

【アメリカの南北戦争はアメリカの弱体化をねらった金貸しの企み】

1865年、大統領選で、ロスチャイルドの押す民主党の対立候補を破り再選されたリンカーンは議会への声明でこう述べた。

「わたしには二つの強大な敵がいる。前方の南軍と、後方の金融組織である。後ろのほうが、手強い敵だ。」

二度目の就任式から41日後、リンカーン大統領は銃撃され、このときの負傷がもとで大統領は命を落とす。そして、その二ヵ月後アメリカの南北戦争は終結する。

<2> ケネディ事件

ケネディは政府紙幣を発行して暗殺された

東京12チャンネルの「都市伝説フリーメーソン」でケネディが宇宙人の存在を明らかにしようとして暗殺されたと馬鹿な説明があったが、テレビも新聞も真実を伝えられないほど、それこそフリーメーソンの強い支配下に置かれてしまっていることがよくわかる。ケネディは、FRBを私有している銀行家を排除しようとして殺されたのである。1963年6月4日、ケネディにより政府紙幣の発行を財務省に命じる大統領行政命令が発令されます。ケネディが発行を命じた紙幣は、FRB発効の銀行券と同じデザインで政府券と印刷されたものです。財務省によって発行された42億ドル(1ドル360円)は、1963年11月22日にテキサスのダラスで暗殺されると速やかに回収されてしまったのです。レーガン大統領も所得税の使い道を調べて銃弾を受けましたが、実は政府紙幣の発行を巡って暗殺された米国大統領は第35代のケネディの他に3人居られるのです。最初は、16代大統領のリンカーンであり、二人目は20代のガーフィールド、三人目が29代のハーディングです。この四人も通貨発行の権利を連銀から政府に取り戻そうとした人達なのです。中央銀行が問題になるのは国家から利息を取るからなのです。日銀が一枚25円で一万円札を印刷して、それを日本国に額面通り一万円で売り、その利息まで取るのですから、その利益は莫大なものになるはずです。それに加えて、日本も含めて米国以外は資料がありません。利子を支払うための資金の出所が不明なのです。米国の場合は利子の出所は個人の所得税で、国民のために使われるべき税金がFRBの支払いに消えているのです。これが国民を貧乏にしている原因なのです。そして、この通貨発行権の重要さを見抜いたのが、欧州の全中央銀行を支配するロスチャイルド財閥なのです。「私に通貨供給をコントロールさせてくれ、そしたら誰が法律を作ろうが気にならない。」まさに世界を牛耳る源が通貨供給の権利であることを明確に表している言葉である。米国連邦所得税の額は国の総税収の約半分を占めている。そして、その金が連銀に渡されてしまうのです。しかも驚いたことに、この収入が連銀の中で、どう使われているか誰もわからないのです。連銀は銀行とは言え設立以来監査報告をしたことがなく連銀を構成する株主の数も名前もわからないようになっているのです。日本の日銀も同様で、一般的には日本国の税収は40兆円、支出は80兆円と言われ、足りない40兆円は国債によって賄われていると言われていました。ところが、実際の支出は200兆円もあったのです。一体この120兆円はどこに消えたのでしょうか。おそらくは、政府紙幣なら国民が払わなくても済む所得税ではないかと思われます。この所在不明の120兆円の支払いがなければ、どれほど日本国民も楽な生活が出きることか。そしてこの所在不明の120兆円の問題を追及しようとしたのが、石井紘基議員でした。しかし、その熱血石井議員もケネディ大統領と同じように、平成14年10月25日に暗殺されてしまいました。ヨーロッパ王族と国際金融財閥を中心とするフリーメーソンの力は、日本の総理大臣など足元にも及ばないものなのである。
<後略>
出展/http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-53.html


ケネディのコイン
出典/http://www.nozakicoin.jp/images/img508.jpg

ケネディ大統領の暗殺という事実は確実に存在するのだが、その真相は永久に解明されない、というのだろうか?

(つづく)
[2014/11/22 11:01] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居のお濠(その2):鏡水面
皇居のお濠(その2):鏡水面

その日(2014年10月31日)の皇居のお濠は、‘漣(さざなみ)一つ立っていなかった’!

皇居のお濠には、私の75年の生涯で、そう、何十回も訪れたに違いないが、こんなに鏡みたいなお濠の水の光景は初めてである!

丸でヨーロッパの景勝地へ行った様な気がした!
実は、そんなところへは行ったことは一、二度しかないのだが・・・。

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ヨーロッパの景勝地の都市の鏡水面

鏡水面 firenntue
http://lacasamia2.exblog.jp/9248000/
フィレンツェ
先日、アパート管理会社に急いで行く途中、あまりの美しさに足を止めてボーっと見とれてしまったアルノ河の岸辺の風景。
秋晴れの青空が鏡のような水面に映っていました。写真は、ヴェッキオ橋を下流に下った2本目の橋、カッライア橋から見た、Chiesa di San Frediano in Cestello(通称キエーザ・ディ・チェステッロ)と呼ばれている教会で、1680年から89年の間に建てられました。中には入ったことがないけれど、私は、いつもこうしてカッライア橋から見るのが好きです。
夏の暑さが過ぎ、快適な気候の中、秋の訪れを感じながらこうして眺めるフィレンツェの光景も秋の楽しみの1つです。


鏡水面 北フランスのオンフルール
http://ayucafe.exblog.jp/m2006-11-01/
北フランスのオンフルール

やっぱり‘逆さ富士’を・・・

逆さ富士
http://homepage3.nifty.com/morip/gy/y5fuji.htm
逆さ富士
富士山に雪が降ったので、翌日「雪富士」を撮りに出掛けた。風もあったが暖かかったので、富士山は霞み気味だった。
朝霧高原の自然体験施設『ふもとっぱら』に小さな池がある。ここの逆さ富士を狙った。風でさざ波があり、またガンが泳いでいて波紋を広げ、なかなか映り込んでくれなかった。45分くらいねばった甲斐があり、一瞬だけの綺麗な逆さ富士が撮れた。


こんな写真が撮れたら、そりゃあ嬉しいに違いない!

(つづく)
[2014/11/08 01:29] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居のお濠(その1)
2014年10月31日10:00からの東京駅付近での打ち合わせが、のっぴきならない理由で延期になった!
ということは、午前中の時間が空いたことになったのである!

それじゃあ、と言う訳で久し振りに‘皇居’の周辺を歩いてみることにした。
お濠に近づいてみて「おやっ?」と思った!

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白い‘座布団’が浮いているかのようだった!

しかし、それは直ぐに判った!
勿論皇居のお濠であるから、白鳥に決まっている!

やっぱり皇居のお濠には、白鳥がよく似合う!
白鳥も慣れたもので、‘観光客’を恐れたりはしないから、極く近くから‘観察’することが出来る!

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一寸PCで加工すると・・・
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さて、皇居のお濠に来て白鳥を見ていつも思うことは、

‘このお濠の白鳥は飛ばない!’

ということなのだが、何か理由があるのだろうか?
調べて見ると・・・

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1489881834
まず、皇居にいるハクチョウは、野生個体でなく、飼育されている個体です。
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13148873926565

ですので、飛べないように片方の羽(翼)を翼角から先を外科的に切断していると思われます

また、この個体は、コブハクチョウといいまして、本来日本に生息していない鳥です(極々まれに、迷鳥として日本でも記録があります)。
http://www.yachoo.org/book/view/kobuhakutyou
なので、別の場所に飛んでいってしまっては困るのです。

ご参考になれば幸いです。


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この外人さんは、実は二人連れ!
お二人とも実は白鳥の姿をカメラに収めていたのだが、私の方も白鳥に夢中で、カメラ姿をカメラに捉えることが出来なかった!

彼女達の奥には黄色くなりつつあるイチョウの木が・・・。

(つづく)
[2014/11/07 01:33] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
コロンブスデー
‘コロンブス’と聞くと大抵の日本人は、1492年にアメリカを発見した大冒険家であると認識している!
そして、この‘1492年’の覚え方は、「いよ~国が見える!」であることも一般的である!

columbus_1.jpg
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_7_m.html

もう少しコロンブスについての本を読んだり、何かのついでにコロンブスのことを自分で調べたり話を聞いたりして、一寸だけ彼についての知識のある人は、

「大変意思の強い人物で、アメリカ(インド or &ジパングへと彼は思っていた)へ向かっている最中、部下の執拗な‘引き返し要求’にも頑として自分の意思を曲げなかった素晴らしい人物であり、‘コロンブスの卵’に象徴される通り、他人を説得する能力を兼ね備えていた人物!」

と高く評価する。

しかし、もっともっとコロンブスを研究した人達の評価は、また違ったものであるらしい! ‘奴隷商人’であることは、専門家でなくても知るところである!

また、‘アメリカ発見はコロンブス!’と思っているし、そう大勢の人達は信じてきたが、では何故、‘アメリカ’が‘コロンバス’ではないのか?何故、‘アメリゴ・ヴェスプッチ’の人名から名づけられた‘アメリカ’なのか?

この話は勿論有名なのだが、この関連いついては後日このブログでも改めて取り上げてみたい。

さて、何で今日のブログの話題が‘コロンブス’かというと、昨日のこのブログでご紹介したとおり、私は日曜日の17:30には必ず「笑点」を見ることにしている。

笑点
http://tenuguijapan.jugem.jp/?eid=80

2014年10月12日、この「笑点」の‘大喜利’の第3問目に
「山田君、例のものを皆さんに配って下さい!」と司会の‘歌丸’師匠が言う!
「さて、10月12日は、‘コロンブスがアメリカを発見した日だ’ということで・・・云々」と師匠の前置き・・・、おやおや問題作りの人達も大変だな~!と思った次第!

という訳で、‘コロンブスデー’を調べてみた!

世界中で、特にアメリカではさぞ盛大に‘お祭り’が開かれているだろうと思ったが、どっこい!そんな生易しい状況ではなさそうであることを知らされた!

人を疑うことを余りしない日本人は、国家の成り立ちからして‘平和ボケ’の資質を持っている!
実は、この資質こそ日本人が‘技術立国’として国を盛り上げる原動力になっているのだが・・。この関連も後日・・・。

実際の‘コロンブスデー’とは以下のものであるらしい!
平和ボケ日本人も、これくらいのことは知っていた方が良いと思った次第!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A
D%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC

コロンブス・デー(英語: Columbus Day。発音としてはコロンバス・デイに近い)とは、アメリカ合衆国における、祝祭日のひとつ。10月の第2月曜日となっている。

目次 [非表示]
1 概要
2 インディアンにとっての「コロンブス・デー」
3 スペインでのコロンブス・デー
4 中南米(スペイン語圏)
5 ブラジル

概要[編集]
1492年に、北アメリカ大陸に、クリストファー・コロンブスが到着したことを祝う。この日は、ネバダ州、ハワイ州、カリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州、サウスダコタ州を除くアメリカ合衆国のほとんどの州で休日となる。(但し、一部の州または市では、同じ10月第2月曜を別の祝日として休日にしている場合もある)。

はじめて、祝日として祝われた日時は、1792年10月12日。タマニー派の人々が、ニューヨークで、コロンブスが到着してから300周年を記念して祝った。その後、アメリカでは公式祝日として祝われるようになり、コロンブスの出身国イタリアでも、イタリア人によって祝われることがある。現在は、コロンブス・デイの日は、アメリカ合衆国で多くの銀行などの公共施設が定休日となり、学校も休みとなる場合がある。

また、コロンブスを送り出したスペイン、およびこの出来事をきっかけとしてスペインの植民地支配を受けた中南米諸国でも、この日あるいは直近の月曜日などが祝日となっている。

インディアンにとっての「コロンブス・デー」 [編集]
1911年、オナイダ族インディアンのローラ・コーネリアスや、オマハ族のラ・フレスカ姉妹ら、インディアン女性運動家たちは「アメリカインディアン協会(Society of American Indians)」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱した。彼女らは「コロンブス・デー」と同日にオハイオ州コロンバスで第一回決起大会を開き、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」とのスローガンを掲げ、この日に抗議した。

現在も反「コロンブス・デー」運動は「アメリカインディアン運動(AIM)」などに引き継がれ、毎年この日になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、この際多数のインディアンが逮捕されている。また、この休日の名称そのものの変更を要求するインディアン団体「コロンブス・デー変更同盟」(The Transform Columbus Day Alliance)も運動を強めている。

1990年夏, 全世界から350の先住民の代表者がエクアドルのキートに集い、コロンバスデー500周年祝いを阻止するため、第一回アメリカ先住民国際会議を開いた。 翌年の夏、カリフォルニア州デービスに100種族以上のアメリカ先住民が前年度エクアドル会議のファローアップ会議として集合。 彼らは、500周年に当たる1992年10月12日を「国際先住民結束の日」と宣言した。全米一巨大規模のキリスト教系団体「ナショナル・カウンシル・オブ・チャーチズ」は、キリスト教信徒にコロンバスデー500周年を祝うのを辞めるように呼びかけた。その理由として、「ある人々が手にした新しい自由、希望、機会は、他の人々にとっては、弾圧、差別、殺戮を意味した。」と語った。それ以降、カリフォルニア州、ネバダ州、テキサス州、フロリダ州などではコロンバスデー祝日を反対するデモが各地で行われ、州の祝日として祝うのは自粛された。ハワイ州はアメリカの第50番目の州に制定された1959年当初からコロンバスデーを祭日として祝っていなかった。

2007年10月7日、AIMスポークスマンであるスー族のラッセル・ミーンズは、コロラド州デンバーの「コロンブス・デー」に、デンバー市庁前で以下のようにスピーチを行っている。

「コロンブス・デーを祝うことは、インディアンに対して過去に行われた圧迫と残忍な暴力による恐ろしい征服を許容することに他なりません。もちろん、マヤ族やアステカ族などのさまざまのインディアンの中には、恐ろしい人身御供と食人を行っていたとの批判もあるでしょう。シオニストは、大統領予備選挙や中学校などで共感を生むために、第二次世界大戦でのホロコーストがより重要であり、プロパガンダとして機能しなければならないと主張しますが、それはインディアンに対する大量殺戮が 今まで人類史で見られた中で、最大のものであるという事実を汲んでいません。
人種差別主義礼讃者の、そして、大量殺戮礼賛者による地獄のコロンブス・デーなぞ糞くらえ、それは“コンキスタドール・デー”に変わるべきです!」
2007年10月13日の「コロンブス・デー」では、「コロンブス・パレード」発祥の地コロラド州では、パレード100周年にあたり、「コロンブス・デー変更同盟」やチカーノ団体などと連携したAIMが恒例の大規模抗議デモを決行、「コロンブス・デー」(Columbus Day)を「KKKolumbus Day」と名付けた。

スペインでのコロンブス・デー[編集]
スペインにとっては、中南米への植民地建設への第一歩を記した記念の日として、また広大なスペイン語圏の日として、毎年10月12日が「民族の日」(Día de la Raza、ディア・デ・ラ・ラサ)という名称の祝日となっており、この日には記念パレードなどが開催される。ただ、国威発揚のためのイベントであるとして、かつての植民地支配や国粋主義を嫌う人たちから批判を受けることも少なくなく、そのようなスペインの軍国主義を批判する日という意味合いも持つ。

中南米(スペイン語圏) [編集]
コロンブスをきっかけにして植民地支配を受けることになった中南米でも、10月12日(あるいは直近の月曜日)を祝日としている国が少なくない。多くの国ではスペインと同じ「民族の日」という名称を使い、スペイン語圏としての一体性を強調しているが、国によっては別の名称で呼ばれることもある。特にベネズエラでは、この日は祝日であり続けているものの、「先住民抵抗の日」(Día de resistencia indígena)という名称に変更されている。また、中南米全体の傾向として、スペインによる侵略と殺戮、略奪が始まった日として、特に先住民系の人たちによる抗議デモも開催される[1]。

ブラジル[編集]
ブラジルではこの日はコロンブスの日とはされていないが、偶然にもアパレシーダの聖母の休日となっている。なお、ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到着した4月22日は同国の祝日にはなっていない。


10月12日のコロンブスデーにむけての抗議ポスター

columbus_new_poster.jpg
http://native.way-nifty.com/native_heart/native_time/
お尋ね者 クリストファー・コロンブス 重窃盗罪 大量虐殺
人種差別 先住民族への強姦、拷問、身体的破損、文化破壊に着手した
大嘘つきの扇動者 500年続く 手前勝手な集団観光事業


事ほど左様に、コロンブスにもコロンブスデーについての‘評価’についても、色々な主張がある!

上記の通り、‘コロンブスがアメリカを発見した!’と、我々一般人が思っていることって、本当なのだろうか?

(つづく)
[2014/10/13 10:34] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜城と初代城主・本多忠勝の面影
千葉県夷隅郡大多喜町については、この弊ブログで何度もご紹介したが、この城下町の発展の礎を築いたとされる大多喜城初代城主・本多忠勝については、名前を出したり、57戦全勝と紹介したりはしたが、一体どんな人物だったのかについては、家康との‘合意’に基づいて、家紋である‘三つ葉葵’と‘立ち葵’との交換劇を紹介したに留まっている。

画像ー243大多喜城と薬医門 025-2

画像ー243大多喜城と薬医門 024-2

それにしても、「なぜ、そんなに‘本多忠勝’にこだわるの?」については、まだその理由をご紹介もしていない!

Honda_Tadakatu.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%
A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D

本多忠勝の肖像画

画像ー243大多喜城と薬医門 028-2

画像ー243大多喜城と薬医門 088-2

それについては、実は‘極秘情報’も含めて、深い、深~い理由がある!

ご承知の通り、今、世界中が大きく揺れている。
政治的思惑に基づいた、或いは宗教的覇権争い(?)に基づいた‘矛盾した’或いは‘独りよがりな’主導権争いが今や世界のニュースの大半を占めてしまっている。

日本人にはなかなか解らない‘民族意識’や‘宗教的感覚’によると思われる‘露骨な自己主張’が、‘言論の自由’と‘自己保全’の名目の基に大きな主張の流れになってしまっている。

しかも、それをいい意味でも悪い意味でも‘煽り続けている’のが、高度に発達し過ぎた技術を基にした‘マスコミ’である!
朝日新聞の‘事実の誤報と判断の誤り’がこの期に及んでもまだすっきりしないのは、マスコミの奢りであり、或る集団に所属してしまえば、事実よりその集団の維持存続に重点が置かれるという、大昔からの大原則が未だに踏襲されている社会現象・長いものには巻かれろ方式が未だに存在する証でもある!

さてさて、前置きはそのくらいにして、大多喜町に関する‘極秘情報’とは?

① 大多喜町キャンペーン、大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」の実現に乗っかって、大多喜町に‘武家屋敷’を創る!

② 現在存在する城西国際大学・薬草園の10倍以上の規模の薬草園を建設する!

③ 大多喜町の周辺に、‘桃源郷’を建設する!

④ 大多喜町周辺に‘新エネルギー研究所’を建設する!

⑤ いすみ鉄道大多喜駅から別の鉄道を建設する!

⑥ 現在の大多喜町の人口は、一万人強であるが、近々+3万人の合計4万人の‘大都市?’へ成長するかも知れない!

等々、大多喜町がこんなに話題なされるのは何故だろうか?
そして、この情報は、果たしで‘本物’だろうか?

(つづく)
[2014/08/29 23:24] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
三つ葉葵と立ち葵(2)
前回の弊ブログで紹介したとおり、元々は、徳川家康家のご紋は、‘立ち葵’だったのに、本当にどんな理由からは判らないが、家康の四天王の一人、本多忠勝家の家紋‘三つ葉葵’と取り替えられた、という話は極めて面白い!

事情を知らないからこそ、当時の様子を勝手に‘想像して’楽しむことが出来る!

当時の武士達にとって‘家紋’の価値は、どう映っていたのだろうか?
秀吉が、桐のご家紋を朝廷から頂戴して大いに気分を好くしたという話はある。

今でも‘桐の家紋’は、高貴の象徴とされていることは周知の通りである!

さて、話を元に戻して、家康と忠勝との間で、どんなやり取りがあったのだろうか?

家康 「葵そのものは、由緒ある賀茂神社の流れを汲むもの、‘三つ葉’にしろ‘立ち’にしろ、価値は同じじゃ!」

忠勝 「御意!」

家康 「ところで忠勝、俺は‘三つ葉’が気にっておる!どうじゃ、うちの‘立ち’と取り替えては呉れぬか?」

忠勝 「えっ?殿、‘気に入った’からと言われても、そう簡単には参りませぬ!」

家康 「そりゃあそうじゃあのう!どうじゃ、故郷三河の酒、3樽付けて遣わすが・・・」

忠勝 「は、はー!承知仕りました。それに今後の囲碁のお相手の際にお手柔らかくという条件でなら、喜んで・・・」

家康 「貴公もなかなかの曲者じゃの~!わっはっは・・」

ということだったかどうかは、全く判らない!

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http://sengokudama.jugem.jp/?page=2&month=201008

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5
葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。

120px-Japanese_crest_Tokugawa_Aoi_svg.png120px-Japanese_crest_Honda_Tachi_Aoi_svg.png
三つ葉葵と立ち葵

豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋ではなくなった。家康が征夷大将軍となった後、次第に他家の三つ葉葵に限らず葵紋の使用がはばかられるようになり、松平家へは遠慮させ、伊奈家には禁止させているが、徳川家家臣である本多家や准家門の鳥取池田家のように一部葵紋の使用を許されることもあった。[1]また、この制限によって、葵紋の形状に倣った紋を河骨紋と称して用いる一族や家が現れたと考えられている[2]。このように徳川将軍家以下一門に制限されていたというが、江戸初期では御用商人の長持などの道具に描かれていたという。また、正式に制限されたのは、享保8年(1723年)のことである[2]。

天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。

『岡崎市史』は、もともと松平太郎左衛門家の紋であるとしている。また、松平親氏・泰親が松平村に入った後、賀茂明神に祈願し家紋とした、または、松平氏が賀茂源氏または賀茂朝臣と称して葵を家紋とした、という説を挙げている。『徳川世紀』には、三河国加茂郡に移り住んだ松平親氏の子孫が「加茂朝臣」を名乗り巴形に描いた葵紋を家紋としたとある。

『藩翰譜』(新井白石)の伊奈本多氏の項によると、7代松平清康が吉田城ならびに田原を攻める際に、宝飯郡伊奈の本多正忠が味方し、正忠が伊奈に清康の凱旋を迎えて饗応したさいに、3つの水葵(ミズアオイ)の葉に肴を盛って出したことを清康は喜び、清康は本多家が味方したことで勝利を得たことを吉例として、本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたとしている。『御先祖記』は、松平家は立ち葵を用いていたが、徳川家康が永禄3年(1560年)に本多家の「三つ葉葵」を旗紋としたことで、それをはばかって本多家は立ち葵に改めた、としている。


(つづく)
[2014/08/28 23:31] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
三つ葉葵と立ち葵
‘葵のご紋’といえば、徳川家のご紋であることは周知の通りである。

千葉県夷隅郡大多喜町には、大多喜城があって、徳川家康を補佐する役目の四天王の一人、本多忠勝十万石の城下町である。

また、この町の名物、最中・十万石は、なかなかの人気お菓子で、売り切れの日もあるというから、近隣からまた遠く首都圏からも、この最中目当てにやってくる人達もいるという。

画像ー250 お盆供養と養老渓谷 090-2
画像ー250 お盆供養と養老渓谷 089-2
画像ー250 お盆供養と養老渓谷 092-2
画像ー250 お盆供養と養老渓谷 093-2
画像ー250 お盆供養と養老渓谷 093-3

さて、この十万石の最中の栞(しおり)を読んでみて驚いた!

津和家0001
津和家

この栞には、重大なことが書かれている!

『・・・忠勝の紋所はもと「三つ葉葵」であったものを家康の紋所「立ち葵」と交換したとの逸話はそれ程喧伝されてはおりません』

これはこれは、面白い!

きちんと調査してみたい!

(つづく)
[2014/08/27 23:34] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
太田道灌
‘太田道灌’と聞けば、

① 江戸城を構築した
② ‘ななへやへ・・・’の山吹の歌

この二つは、誰でも思い出す。
ただし、

③ 暗殺された
④ 川越城築城
⑤ 武士としての鍛錬・稽古を怠けた者から罰金を取った

等々のエピソードは、余り知られていない。

恐らく近々‘NHKの大河ドラマ’の「太田道灌」が登場するのは間違いないものと思われる。

先日、有楽町駅のお隣りの国際フォーラムへ行った。
‘太田道灌公の銅像’がここに在ることは誰もが知っているが、埼玉県の川越市役所前やJR山手線・日暮里駅前にも彼の銅像があることは、余り知られていない!

先ずは、国際フォーラムの銅像から・・・。
勿論、このフォーラム内の太田道灌公は、今でも?皇居(江戸城)を見据えている!

http://www.burari2161.fc2.com/ootadoukan.htm
太田道灌銅像(東京国際フォーラム)

開都五百年記念
昭和31年10月1日
太田道灌像
昭和33年2月除幕
朝倉文夫作

碑文

室町時代中期の武将太田道灌(1432年~1486年)は、江戸城を築き江戸、東京にゆかりの深い人物として知られています。
この像は、ここに都庁舎があった昭和33年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいます。
製作者の彫刻家朝倉文夫氏は、第2次大戦中に旧東京市庁舎から撤去、供出された太田道灌像の作者渡辺長男氏の実弟です。



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ええっ!こんな‘造形’が国際フォーラムにあった???

勿論、下のフォーラムの天井の画像を‘90度’回転させたものだが、‘絵になる’ねえ!

DSC_2512-3.jpg

続いて、川越市役所前の太田道灌公像・・・。

太田道灌像川越駅前

http://www.burari2161.fc2.com/ootadoukan.htm

太田道灌 おおた・どうかん
永享4年(1432年)~文明18年7月26日(1486年8月25日)

埼玉県川越市川越市役所前でお会いしました。

扇谷おうぎがやつ上杉氏の家宰。
康正2年(1456年)江戸築城を開始、岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の有力者になります。
文明8年(1467年)山内上杉氏の長尾景春が上杉氏に背くと、以後数年にわたり関東各地で景春方と戦いました。
これにより、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまで成長させましたが、相模国糟屋かすや(現:神奈川県伊勢原市)の主家・上杉定正邸に誘い出されて殺害されました。
これは、扇谷家の内部対立と扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言われています。



そして、JR日暮里駅前の太田道灌公像・・・。

太田道灌像JR日暮里駅前
http://www.burari2161.fc2.com/ootadoukan.htm

暇があれば、‘太田道灌公銅像・墓所巡りツアー’でも如何?
‘NHK大河ドラマ・太田道灌’が、近い将来あるとしたら、その走り・先取りっていう訳!

(つづく)
[2014/08/24 23:51] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ぎんのすず
‘ぎんのすず’

東京駅の待ち合わせ場所、‘銀の鈴’で、2014年08月11日に友人と待ち合わせすることになった。

昨日(8月12日)のこの弊ブログでご紹介した通り、‘ぎんのすず’という‘音’を聞くと、昭和23年、私が小学3年生の頃の児童雑誌「ぎんのすず」のことを思い出す。

その雑誌の‘表紙’も‘内容’もすっかり記憶から無くなっているのだが、ネットで調べてみた!

あった、あった!

ぎんのすず69098677-2

http://www.gmo-toku.jp/srch/%E7%B5%B5%E6%9C%AC
%E3%83%BB%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%9B%B8%E3%83%BB%E
5%9B%B3%E9%91%91/c17177/kw%E9%80%81%E6%96%99%E7%
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ぎんのすず69098719-2

>http://www.gmo-toku.jp/srch/%E7%B5%B5%E6%9C%AC
%E3%83%BB%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%9B%B8%E3%83%BB%E
5%9B%B3%E9%91%91/c17177/kw%E9%80%81%E6%96%99%E7%
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前述の通り、昭和23年、小学3年生の私には、上の引用資料は、‘ピッタリ’と言う訳には行かないが、それぞれの解説 ・註からおおよその内容について、想像がつく。

出来たら後日取り寄せてみたい!
その当時の‘世相’が読み取れるかもしれない!

(つづく)
[2014/08/13 23:20] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
銀座ライオン
久し振りに或る会社の社長から電話を頂戴した!

「或る仕事に協力して欲しい!それより久し振りに銀座で一杯やりませんか?」

お断りする理由がない!

銀座風月堂で、仕事の打ち合わせを終えて、‘さあて!’ということで、‘銀座ライオン’と普通言われているビヤホールへ連れて行かれた。

「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」

と正式には言うらしい。

http://r.gnavi.co.jp/g131800/
「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」
1934年創建の歴史と伝統のあるビヤホ-ル。2014年4月8日で創建80周年!
設計は新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵。当時の建築技術を結集した
「元祖デザイナーズレストラン」とも言えるかも知れません。
壁画を見ながら生ビールを飲む瞬間はまさに至福の瞬間!


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http://r.gnavi.co.jp/g131800/kodawari/

http://r.gnavi.co.jp/g131800/
現存する日本最古のビヤホール
1934年(昭和9年)創建の歴史と伝統のあるビヤホ-ル。今年の4月8日で80周年!
設計は新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵。当時の建築技術を結集した「元祖デザイナーズレストラン」とも言えるかも知れません。壁画を見ながら生ビールを飲む瞬間はまさに至福の瞬間!


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http://r.gnavi.co.jp/g131800/kodawari/
ビール注ぎの名人・海老原さん

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http://r.gnavi.co.jp/g131800/kodawari/

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http://r.gnavi.co.jp/g131800/kodawari/

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2014年03月03日17:48

銀座ライオンといえば、こんな夕刻の時間帯には、行列が出来るのが普通だったが、その日は‘ガラガラ’状態!
経営状態は大丈夫だろうか?

まさか、その日が‘ひな祭り’の日だったから??

無関係な人間が心配しても仕方のないことなのだが・・・。

仕事の内容は、独居老人の監視・安全性に関する装置の販売についてであった!

(つづく)
[2014/03/14 23:29] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・四ツ谷駅近辺(その2):迎賓館と公園 ①
東京・四ツ谷駅近辺(その2):迎賓館と公園

2014年01月31日、東京・JR四ツ谷駅近辺を散歩した。
千葉県の外房から東京に出て来て、四谷を散歩することなど滅多にないことである。
大抵は、地下鉄を乗り継ぎ乗り継ぎで、それぞれの打合せ会場へ向かう。

この日の打合せは、2回だけ。四谷3丁目と上野駅構内である。
その打ち合わせの間に約30分の‘余裕’が出来たのである。
そして、都合のいいことに、この日は、東京のお昼の気温が17℃と言うから外を歩きたくなる、というもんである!

そして、知りたかったのは、四ツ谷駅から迎賓館までの街路樹、他所にはあまり見かけない‘背の高い’樹の名前は?であったが、昨日の弊ブログに記した通り‘ユリノキ’だという事が、その木につけられた‘名盤’から判明した!

さて、‘ユリノキ’がヨーロッパでは、‘チューリップ’の樹と呼ばれているという面白さが判ったが、このユリノキの花が、正に‘チューリップ’の樹と呼ばれるにふさわしいのは次の画像を見れば一目瞭然である!

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http://smcb.jp/digiphoto/498341
本当に、花は‘チューリップ’である!花だけ見せられれば、「新種のチューリップ?」という事になるに違いない!

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20145年01月31日12:36 これは迎賓館側から見たJR四ツ谷駅方面である。

迎賓館、通常‘迎賓館’と言えば、東京・元赤坂のそれを指すのであるが、京都にも迎賓館があるため、元赤坂の迎賓館を特に‘赤坂迎賓館’と呼ぶそうである。

東京都港区元赤坂二丁目1番1号 - Google マップ0001
‘Google’マップ。赤坂迎賓館(A)の近傍

東京都港区元赤坂二丁目1番1号 -2- Google マップ0001
‘Google’マップ。赤坂迎賓館(A)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E8%B3%93%E9%A4%A8
迎賓館(げいひんかん)は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れたときに、宿泊等の接遇を行う施設。

概要[編集]

皇居宮殿での歓迎晩餐会の答礼など、外交儀礼のための接宴として、天皇や皇族などが臨席し、晩餐会が行なわれることもある。
日本の迎賓館は、2013年(平成25年)現在、東京都港区赤坂の迎賓館(赤坂迎賓館)と、京都府京都市上京区の京都御苑内に京都迎賓館があり、内閣府の施設等機関である。通常は非公開だが、接遇に支障のない時期(通常は8月)に、事前の申し込みにより、一般参観することができる[1]。
迎賓館の使用については、「迎賓館運営大綱について」[2][3]、国・公賓の定義および接遇内容については、「国賓及び公賓の接遇について」[2][4]などにより定められている。これらの規定によれば、迎賓館での宿泊及び接遇を行うことができるのは外国の元首またはこれに準する者で、国賓として招請することを閣議決定した場合である。また、行政府以外の三権の長相当の外国の賓客についても閣議決定により宿泊させることができる。さらに、首脳外交など実務を目的として訪日する外国の元首や首相などに対しては、「公式実務訪問賓客」として宿泊を伴わない招宴その他の接遇も行われている。過去3回行われた東京サミットなどの多国間国際会議も、この接遇範疇に該当する行事として実施された。京都迎賓館においては、上記の目的に加えて地方公共団体による外国元首・首相等の接遇にも使用できると規定されている[2]。
なお近年では、内閣総理大臣と外国首脳との会談には外務省の飯倉公館(東京都港区麻布台一丁目)が利用されることも多い。

赤坂迎賓館[編集]

所在地:東京都港区元赤坂二丁目1番1号
敷地面積:11万7000平方メートル

沿革[編集]

東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。

その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年(大正13年)成ると、その後の数年間、赤坂離宮は再び東宮御所としてこの一家の住居となったが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。
第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。

その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。

これを受けて、池田とその後任の佐藤栄作首相の在任時に政府部内で検討を重ねた結果、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年(昭和49年)3月に、迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。
2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている[5]。
2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定明治以降の文化財としては初の国宝となった。


ナント、赤坂迎賓館は‘国宝’なのだ!

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この‘紋様'(?)にも深いふか~い訳があるのだろうが、‘薄学’な私には、その‘重さ’が充分には判らない!何せ‘国宝’の迎賓館の‘門の紋章’なのだから,キット・・・。

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この画像も、迎賓館側から見たJR四ツ谷駅方面。

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やっぱり、‘はとバス’がここへも来るのだろう! ユリノキの向うに見える建物は、上智大学である。

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ユリノキに囲まれた(?)上智大学。

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向うの建物は、ホテルオオクラ!

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これが、この辺では一番デカイ、ユリノキ。ベンチに腰を降ろしている学生風の人物と比較して見れば大きさが判る!

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この迎賓館の周りに‘公園’がある。

それがこの公園!

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(つづく)
[2014/02/03 23:17] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2014年01月01日(その2):橘樹神社参拝!
2014年01月01日の橘樹神社(千葉県茂原市・本納)参拝!

昨日の弊ブログにも書かせて貰ったが、橘樹神社は、その名も示す通り、弟橘姫命を祀ってある事で有名である!従って、当然境内には‘橘の樹’が存在する。

子供・孫達も揃って、10人で出かけたのは、元旦のお昼すぎもお昼過ぎ、14時10分を廻っていた!

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2014年01月01日14:30 橘樹神社に到着した。

橘樹神社を‘Google’マップで見ると・・・

千葉県茂原市本納 橘樹神社 - Google マップ0001
‘Google'マップ Aが、橘樹神社

同じく‘Google’の航空写真で見てみると・・・

千葉県茂原市本納 橘樹神社 - Google マップ-30001
‘Google'マップ 

千葉県茂原市本納 橘樹神社 - Google マップ-40001
拡大!

http://nttbj.itp.ne.jp/0475342400/access.html
橘樹神社・上總國二之宮

日本武尊の妃、弟橘媛の御陵墓をお護りする景行天皇勅願社
当社は日本武尊の妃、弟橘比賣命を主祭神として、景行天皇42年(皇紀772年・西暦112年)1月17日に勅願社として創建された、上總國二之宮で延喜式内社としての格式と悠久の歴史と伝統を誇る、千葉県内でも屈指の古社。
境内は宮ノ下遺跡として史跡指定され、橘媛の御霊が静まる広大な社叢は市の天然記念物である。


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14:34 鳥居の下まで来た!

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この鳥居も‘石のくさび’で、ずれないようにしてある! この技術については大分前に弊ブログで述べた通りである!

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‘連理の枝’とは言うが中々見られないが、‘連理の根’はあるのかも?

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この二つの木の上の方、案外‘連理の枝’かも???

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もう一度よ~く見ると、確かに‘連理の根’になっている!

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日の当たらな方に廻って見ると・・・

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拡大!やっぱり‘連理の枝’にはなっていない! 両方が揃っていると‘珍百景’ものなのだが・・・。残念!

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絵馬はまだ流石に多くない。昨年もそうだったが‘三箇日’が過ぎるともう一杯になってしまう!

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詰所には誰もいない! 何かが起こったらどうするのだろうか?

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巫女さんもお暇の様で・・・。

おやおや、もう梅が・・・

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14:56 25,6分で約100m進んだ!

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15:04 この画像の右中央が‘橘’の木! あと10分で本殿!

(つづく)
[2014/01/02 23:54] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京メトロ銀座線(その2):その歴史
東京メトロ銀座線 は、日本の地下鉄の嚆矢である。

昭和2年(1927年)に開業というから、もうかれこれ85年にもなろうとするから日本女性の平均寿命(86.41歳)とほぼ同じである!

http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10737815c.html
現在は、確かこのようなことは無くなっていたと思うのですが、日本で一番最初に開通した地下鉄である銀座線に乗って電車が駅に近づくと、ごく僅かな時間、電灯が消えて車内が真っ暗になっていました。
西宮芦屋研究所員も、初めて、東京でこれを経験した時は驚きましたが、ハルキもこのことを次のように書いています。

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     地下鉄(現東京メトロ)銀座線

「東京に来て一番驚いたというか、感動したのは地下鉄銀座線に乗った時だった。乗ったことのある人はわかると思うけれど、銀座線の列車は駅に到着する直前に一秒か二秒電灯が消えて、車内がまっ暗になる。だからまっ暗になると『ああ、もう駅なんだな』とわかる。しかし生まれてはじめて地下鉄銀座線に乗った人にはそんな事情はわからない。だからまっ暗になった瞬間にまず『事故だ!』と思う。(中略)でもその時僕がいちばんびっくりしたことは、他の乗客が毛ほども驚いたり、怯えたり、動揺しないということだった。」
(村上朝日堂 地下鉄銀座線の暗闇) 「よみうり梅田文化センター」講座 「村上春樹の世界を探る」



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C
%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E9%8A%80%E5%BA%A7%E7%B7%9A

銀座線(ぎんざせん)は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線。鉄道要覧における名称は3号線銀座線である。

路線名の由来は繁華街の銀座から。車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」(橙)、路線記号はG。

概要[編集]

1927年(昭和2年)に浅草 - 上野間で営業を開始した日本で最初の地下鉄である[1]。

当時のポスター[2]では「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線である。なお、1番切符を手にし、一番初めに乗った乗客は原鉄道模型博物館の館長、原信太郎であり、原鉄道模型博物館にはそのことが展示されている。

東京地下鉄(東京メトロ)の路線では丸ノ内線とこの銀座線のみ標準軌で、第三軌条集電方式を採用している。そのため、周辺他社路線との直通運転は不可能であり、東京地下鉄でこの2路線だけは他社路線との直通運転を行っていない。また、第三軌条集電方式を採用しているため、駅ごとに進入部のデッドセクションが存在し、2両ユニット方式で MG を搭載した1500N系をのぞく01系以前の車両では駅到着直前のデッドセクション通過時に室内灯が消灯し代わりに非常灯が点灯していた。また、前照灯も消灯し扇風機の電源も切れた。

トンネル断面が小さいゆえに車両自体も小さく(東京地下鉄の車体の規格の中で最も小さく、1両の車両長が 16 m ×6両で、1編成の長さは 96 m しかない)、そのため、1両あたりの乗車定員は少ない、車内冷房装置の屋外機が屋根に取り付けられない、などの制約が生じている。これは、建設費の節約のためである。初めての地下鉄建設とあって将来的な輸送の見込みを立てるのは困難であり、実際開業当時は十分な輸送力を持っていたのだが、現代に至っては輸送力不足を招く結果になってしまった。冷房装置については、1990年頃になって薄型装置が開発されたことにより屋根上に搭載できるようになったため、新造車には当初から冷房が搭載され、冷房装置なしで登場した車両にも冷房装置の設置が行われていた。今では01系車両の全編成に冷房装置が取り付けられている。

浅草・上野・日本橋・銀座・新橋・赤坂・青山・渋谷といった東京都心のほとんどの繁華街やビジネス街を縫うように走る路線のため、利用客が多く日中でも3分に1本の割合で高頻度の運転がなされている

この銀座線の混雑緩和のために建設された路線が半蔵門線である。また銀座線は後発の他路線に比べて乗り場が浅く、田原町や末広町、虎ノ門、外苑前など多数の駅で階段を降りるとすぐに改札口があり、改札口の先にすぐホームがあるという利用しやすい形態になっている。相対式ホームの駅ではそのほとんどで線路間の支柱がリベット組みの鉄骨となっており、日本最初の地下鉄の歴史を偲ぶことができる。


私が東京に就職したのは昭和42年【1967年】であるが、その時代の地下鉄には、冷房装置が取り付けられてはいなかったために、窓を開けたまま地下鉄は走っていたのである。

従って、電車の音がトンネルに反射してそのまま電車の車両の中に入って来るのである。

五月蠅いの何のって、隣の人との会話が成立しなかったのである!

そして、冷たい空気が入って来る訳ではないので‘猛烈に’暑かった!

上記引用文献によると、1990年【平成2年】頃になってやっと冷房装置が取りつけられたというから、20数年前からだ。

従って、今の若い人はそんなことは知らない!

‘今昔の想い’とはこんなことを言うのだろう。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8
%8B%E9%89%84%E9%81%931000%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A

冷房装置の無い頃の地下鉄車両:窓が開くようになっている!

われわれが聞かされていたのは、冷房にするとそれに費やされるエネルギーと排気熱によってトンネルの中が異常に暑くなる。従って地下鉄は冷房出来ないのである、ということだった!

しかし、それは少し事情が違うようである。

そのいきさつは、次のように解説されている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1370889243
Q:むかしは、地下鉄は車内を冷房しませんでした。車内で冷房してもトンネル並びに駅が暑くなるとかの理由でしょう。トンネルを冷房して窓を開けて走ったりしていましたが、今は車内冷房ですよね。
どうして?今は冷房してもトンネルと駅、暑くならないのですか?

A:鉄道従事員です。

他の方も書かれていますが、車両が出す熱が減りました。

かつての電車は、多段式制御装置、電力発電ブレーキ搭載が当たり前でした。

加速するときは、モーターを並列に繋いだり、直列に繋いだりしながら、モーターに電力を送る回路の途中に抵抗器を入れて、モーターにかかる電力を制御しました。

ブレーキ時は、モーターに送る電力を停止することで、構造が発電機と変わらない直流直巻電動機が車輪によって回転させられて発生する電気を、抵抗器で熱として消費することでブレーキ力を得ました。むろん最終的に停車するときは空気ブレーキでしたが。

加速にも減速にも抵抗器を使うため、大量の熱を出したのです。当然地下のトンネル内が熱を充満させてしまうので、地下鉄側が嫌がりました。

だから、103系1000番台(初代千代田線乗り入れ車)や1200番台(2種類目の東西線乗り入れ車)は、多段式制御器は使いましたが、抵抗器には強制冷却装置を付けていない自然通風式にしたりしました。

しかし、電力使用量の多さや熱の問題で嫌われ、1000番台はチョッパ制御式の201系省エネ車の地下鉄用203系にバトンタッチし地上用に多くが改造されました。

1200番台は一部1000番台とともの東西線乗り入れで頑張りましたが、後継のE231系にバトンを譲って引退しています。

地下鉄への乗り入れ車は、私鉄の多くが抵抗式から抵抗器が不要なメインチョッパ制御(サイリスタチョッパ制御、AVFチョッパ制御、電機子チョッパ制御など)に変化して雪、ブレーキも抵抗器を使用しない電力回生ブレーキとなり、抵抗器から出る熱がなくなりました。

現在、JRの乗り入れ車209系800番台やE231系の地下鉄乗り入れ車、西武の6000系や6050系、東武の20070系、50050系、50070系、9050系、小田急の4000系など、多くの車両が、VVVFインバータ制御器と酸素交流誘導電動機、電力回生ブレーキ優先の全電気指令式ブレーキという組み合わせで、殆ど熱を出すことがありません。

だから、普通のクーラーやエアコンで、問題が無くなったのです。


(つづく)
[2013/09/28 23:32] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京メトロ銀座線(その1)
9月27日は、

1925年に日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行なわれた記念すべき日だという。そして、世界で14番目に当たるそうだ。( http://www.nnh.to/09/27.html#history

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http://transfer.seesaa.net/category/11118377-1.html

人間が移動する際に一番気になるのは、目的地に着く時刻が正確に判るかどうかである。

大袈裟に言うなら‘その人の人格’にまで影響する。

「あの人は、時間を守ったことが無い!」

「あの人は、いつも10分は遅れて来る!」

そんな噂が立つようでは、商売で大事な‘契約’が時間切れにならないとも限らない!

1925年は、まだ昭和になっていない頃である。

昭和は、「‘解く風呂敷から昭和が出’」と受験勉強の時に覚えさせられたから、‘1926年’である!

その頃には私は産まれていなかったから、当時の社会情勢は判らないが、「地下鉄」を造らねばならない程の社会的要請があったのだろうか?!

それにしても、上野~浅草間のたったの‘2.2km’というから地下鉄で正確な時刻云々という時代ではなかったろう。要するに‘客集め’の一手法に過ぎなかったに違いない!

今と違って‘歩くことに慣れていた’に違いない人達にとって、‘上野~浅草’間のたった2.2kmを地下鉄に乗らなければならない理由はたった一つ、‘アジアで初めての乗り物’に乗ったという‘好奇心’と‘他人に対する自慢’以外の何物でもない!

でも、その‘好奇心’と‘自負心’が‘進歩の原動力’である!

勿論、‘進歩した方が良いに決まっている!’というものの考え方と‘進歩こそ破滅への道だ!’という相反する評価があるのも事実であるが、人間の良さも悪さも‘好奇心’の所産’である!

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%8
3%A1%E3%83%88%E3%83%AD1000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A


それにつけても、地下鉄の電車だって、上の写真通り、年々進歩し続けている。

もう人間は、‘進歩’という‘呪縛’から逃れられない心理状態に陥ってしまった!

それは、とりもなおさず‘破滅’への‘近道’なのに、それに気付かないのである!

‘進歩’は‘悪なのかもしれない?!’という風潮はいつ訪れるのだろうか?

(つづく)次回は、銀座線の歴史について
[2013/09/27 23:35] | 歴史 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
江戸幕府の行政を「仁政」に転換させた男:天草四郎
「仁政」という言葉がある。‘情け深い’政治のことである。

江戸時代が何故‘約260年間’もの長期に亘って安泰の時代であったかについては色々な説があるのだろう。

一義的には、徳川家康の‘戦略’が功を奏していると思われるが、さてその家康の基本路線だけでそんなに長続きをするものだろうか?

誰の‘策略’かは、今後の歴史研究においても‘覆る発見’があるかもしれないが、兎に角、一般市民が‘太平を貪った’事は事実のようである。

科学技術の急速な進歩・発展がなかったこともその大きな要因の一つに挙げてもいいのではないかと思う。その観点からすれば、‘鎖国’ををプラス効果として認めなければならないが・・・。

われわれは、第二次大戦後の教育方針で、進歩、進歩と「進歩こそ、何にも勝る」として価値観を押し付けられ、同時に‘世界平和’を叩き込まれた。

しかし、振り返ってみると‘進歩の強制’と‘世界平和’は、何となく相反する事のように思えてならない。

‘進歩’は競争社会をつくる。‘世界平和’は、(多分)競争社会であってはならないからなのであろうか?

そして、悲しいかな‘世界平和’は‘大きな犠牲の上’にしか存在し得ないという事実がある。

有史以来現在まで、世界中で戦争が起こっていなかった時代は多分なかったと思われる。この原因は、‘人間が向上心を持つ動物である’からなのだろう。

向上心を持つという事は、現状を打破して一歩でも‘上に移行’しようとする。それが進歩に繋がるのだ。
そして、残念ながら‘上に移行’することが‘平和’を乱す事に繋がる。

‘平和’という文字を見れば判る。‘平和’を辞書で調べれば、「やすらかにやわらぐこと。穏やかでかわりのないこと。」とある。

余り変わってはいけないのだ。

その証拠の一つに‘シーラカンス’がいる。

シーラカンス
http://2006-usaminn.blog.so-net.ne.jp/2008-03-07

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%
B7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B9

シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、古生代デボン紀[1]に出現して広く世界の水域に栄えたが、約6500万年前(中生代白亜紀末)の絶滅イベント(K-T境界)を境にほとんど全ての種が絶滅した。
長らくシーラカンス目は全て絶滅したものと考えられていたが、南アフリカにて1938年、現生種の存在が確認され、学会および世界を騒然とさせた。この種が ラティメリア・カルムナエ (Latimeria chalumnae) であり、シーラカンスの代表となる。
その後、1997年にはインドネシアでラティメリア・メナドエンシス (Latimeria menadoensis) の現生が確認されている。これは日本語では生息地域の名を採って「インドネシア・シーラカンス」とも呼ばれるようになる。
シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、白亜紀を最後に化石が途絶え、1938年に至るまで現生種が確認されなかったこと、化石種と現生種の間で形態的な差異がほとんど見られないことなどから、これら2種は「生きている化石」との評価を受けた。


そう、デボン紀といえば、4億年も前の事である。その間形態的にはほとんど同じというから、これこそ‘平和’の象徴である!

人間は進歩することを‘最上’と考える動物であるから、‘形態’を変える。自動車の発明で歩かなくなってしまった見返りが、体の不調を招くと同時に‘出腹の体型’を造り上げつつある。それもほんの数10年間でである。

何とか‘人類の進歩意識’を是正せねばならない時代が来つつあると考えた方がいい。

さて、そんな江戸時代においても‘進歩無き平和な世の中’を‘再現’しようと立ちあがった集団があった。

天草四郎を頂点に戴いての一揆‘島原の乱’である。

歴史書は、どの時代のものでも‘全て偽りである’と言った人達が大勢いる。その時の為政者によって都合のよいように書き換えられたり初めからウソ偽りで固められたりすることは、これまでの常識である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%8F%B2
正史における偽史なのか、それとも歴史修正論なのかを巡る議論

ただし歴史というものには根本的に偽史が練り込まれてしまっていて、“本当の歴史”と偽史は必ずしも区別できるものではない、といったことを言う人はいる。いわゆる“正史”とされるもの、つまり政権の組織で保存されてきた歴史書のというのは、権力者が誰かを雇い書かせたものであるので、当然その権力者に都合よくできごとを歪曲して書かせてしまったり、権力者に都合の悪い事実は一般的に言えば書かれることが無い、と言われることがあるのである。

たとえば若狹和朋は、中国の正史(官史)というのはことごとく偽史だ、と述べた[11]。理由はそれをつくる者が官吏だからだという[11]。「前の王朝の徳がこういういきさつで失われ、天の命が革(あらた)まり、本朝(=今の政権)の世になった」という説き方をしてしまうのが、易姓革命の思想でものごとを見てしまう国の政治書の宿命なのだという[11]。特定の視点でできごとを解釈したり編集してしまうわけである。かくして正史(官史)には異本(バリアント)が存在しないのだという[11]。もしも歴史を記すというのが本当に誠実に行われるならば、取材する相手となる、歴史的な出来事の場に居合わせた人々(目撃者・報告者)の立場ごとに異なったことが報告され異本が何種類も登場することになるはずなのだが、にもかかわらずただひとつの版だけが伝えられるということは、“正史”というのは既に特定の集団の特定の政治的な意図や意味付けによって記述が操作・統制されてしまっている、ということを述べているようなのである。


要するに、全ての‘歴史的事実’は、その伝え方が完全ではないから、事実が事実として伝わらないという事になる。そりゃあそうだろう。映像で収録したとしても全部を完全に収録することは不可能だし、ましてや情報量の少ない‘書き物’では、尚更である。

映像にしてもそれを編集する人の意識次第で、その映像の持つ意味が変わって来る。書き物ではそれ以上に書く人の思いこみで事実は如何様にも変化する。

この現象は、物理学でいう所の「不確定性原理」に似ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7
%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86

不確定性原理

不確定性原理は1927年にハイゼンベルクによって提唱された。量子力学の基礎原理の一つとされ、その発展に大いに寄与した。 ただし、量子力学の基礎が整備された現在は、他のより基礎的な原理から導かれる「定理」となっている(「意見」や「仮説」ではない)。

粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない という事実に対し、それは“元々決まっていないからだ”と考えるのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈であるが、アルベルト・アインシュタインは、“決まってはいるが人間にはわからないだけ”と考えた。この考え方は「隠れた変数理論」と呼ばれている。なお、1926年12月にアインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙の中で、彼は反論に「神はサイコロを振らない(独: Der Alte würfelt nicht. 直訳:神は賽を投げない)」という言葉を用いて表している。[2]
この他にも不確定性原理の解釈には多数の解釈がある。これを観測問題という。どの解釈が正しいのかは現在はっきりしていない。ただし、ベルの定理により現在アインシュタインの考えを支持する人はごく僅かである。
不確定性原理が顕在化する現象の例としては、原子(格子)の零点振動(このためヘリウムは、常圧下では絶対零度まで冷却しても固化しない)、その他量子的なゆらぎ(例:遍歴電子系におけるスピン揺らぎ)などが挙げられる。



「或る粒子の運動量と位置を同時に正確に測ることは出来ない」事を‘不確定性原理’(現在は、原理ではなく‘定理’)という。

つまり、或る‘粒子’(=歴史的事実)の‘運動量と位置’(=正体)を正確に‘測る’(=書き表わす)事が出来ない、という訳である。

それは何故か?

或る粒子の正体を‘測って’情報を得るためには、何かのエネルギーを与えて、その反応をキャッチして分析をしなければならない。

この時、或る粒子に、例えば光(エネルギー)を与えてその反射光をキャッチしてその粒子の状態(運動量と位置)を知ろうとした場合、光エネルギーが、その粒子に一部吸収されてしまった後の状態の様子が跳ね返ってくるために‘正確な’粒子の状態を観測出来ないのである。

もう少し‘下世話な例’で説明をすると、

「警察が、ある犯罪の容疑者(粒子)を逮捕して、その容疑を確かめるために刑事が‘拷問’をした(光を当てた)とすると、容疑者の本来の無実(真の状態)が歪められて‘犯罪自白’となって事件が終了する」

といえば判り易いのかもしれない。

つまり「歴史書」はこういった類の‘或る種のエネルギー’(=勝者・為政者の意向)が働いて真の状態(歴史的事実)が歪められることが多い、という訳である。

これを今後は‘不確定性原理による歴史的事実’と呼ぶことにしたい。‘歴史的事実が事実通りに伝えられないのは不可抗力’なのである。

粒子の場合、その状態を観測するための‘手段’として、使用する‘電磁波’の種類が違えば、出てくる結果も自ずから違って来る。

すなわち、電磁波を‘光’とした場合と‘γ線’にした場合や‘X線’や‘赤外線’にした場合にその結果の状態に違いが生じる。

拷問の場合にだって、優しい刑事と剛腕な刑事とでは‘白状の中身’が変わって来るのと同じである。

歴史書の場合だって、時の権力者の我がままぶりの違いで‘歴史は一変する’というものだ!




さて、前置きはこの位にして、実際の事件‘島原の乱’ではどうだったのだろうか?

この内戦は、恐らく日本の歴史上‘最も凄惨な’戦いであったのだろう。勝者の江戸幕府もその後‘仁政’に転じぜざるを得ない状況になったというから、それはそれは我々の先祖に当たる日本人に大きな大きな傷跡を残した一大事件だったのである。

この‘乱’は、3つの要素が、同時に重なり合ったこともあって双方に莫大な犠牲者が出たのである。

さて、その3要素とは?

① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

② キリシタンによる宗教一揆

③ 飢餓農民による百姓一揆


① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

禁教令は秀吉以来幾度か出されたが、この島原の乱に直接関係のある禁教令は、1612年の直轄領に関してのものと次の年1613年に今度は全国に施行されたいわゆる「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」である。この指示は家康であり、実行責任者は2代将軍徳川秀忠である。これらによってキリシタン大名は完全に消滅した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8
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禁教令

狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が発令した物である。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが織田信長によるキリスト教政策もあってさほど効果は無かった。

慶長の禁教令 [編集]

江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。


島原の乱が勃発したのは、1637年であるから、慶長の禁教令発布から24、5年が経過している。その間キリシタン大名の配下だった残留武士達は、在りし日のキリシタン大名による‘仁政’と海外との貿易による経済の活性化の復活を夢見ていたに違いない。
そこへ襲ってきた‘大飢饉’と石高の見積もり誤りによる過酷な年貢取り立てという‘悪政’、これには、幕府によって潰された有馬晴信・小西行長両キリシタン大名に仕えていた武士の残党が‘一気に’‘一揆’を起こす切っ掛けを作ったと考えるのが妥当である。島原の乱が、単に町民・農民キリシタン一揆や単なる百姓一揆ではなく‘統制のとれた戦術を展開する武士の指揮の下に行われた事からも‘武士による政治一揆’の様相を呈するものだると言っても過言ではない。

② キリシタンによる宗教一揆

江戸幕府は、キリシタン大名を慶長の禁教令(1612、16213年)で壊滅させ、1616年には、一般の武士や町民は勿論百姓にまで「キリスト教の禁止」を厳格に示した。

キリシタンは‘隠れキリシタン’にならざるを得なかったこと、そして追放された宣教師の‘予言’(25年後に救世主出現)の下に‘担ぎ出された’天草四郎の登場によって、隠れキリシタンの意気高揚が島原の乱の中核をなす。

天草四郎という人物は、恐らく評判のカリスマ性を多少は備えていた人物であったことも確かなのであろうが、上述の通り‘担ぎ出された’というのが、本当のところだろう。その首謀者は一体誰なのか?
天草四郎ご本人も実は被害者の一人だったのかもしれない!

③ 飢餓農民による百姓一揆


前述の通り、大飢饉に怯える百姓に対し、過剰石高の年貢をあくまでも取り立てようとする島原藩の大名・松倉重政とその長男次代の勝家、これに百姓は我慢の限界をどうすることも出来なかったのである。

これらの3要素が、1637年に揃った!

こうなると‘3集団連合’の意識は一挙に燃え上がる。4万人にも及ぼうとする‘大一揆’である。

幕府側もこれに応えて12万人という大軍を出す。

一揆側の死者は、一名(山田右衛門作)を除いて3万7千名。悉く頭と胴体が切り離されたという。

http://amakusa46.com/02/post_23.html
山田右衛門作とはどういった人物なのであろうか?

山田右衛門作は天草・島原の乱の際、四郎軍の幹部の一人であり、原城にたてこもったのだが、篭城方の全員が玉砕したにも関わらす、ただ一人生き残った人物として知られている。幕府の取調べに応じた彼の口上書は原城での天草四郎軍の内部事情を知りうる唯一の資料となっている。江戸時代に著わされた「阮塘画談」という古記録によれば山田右衛門作は肥前佐賀の人らしい。ポルトガル人に習い、西洋の画法を学び、耶蘇の仏画を描いて生計をたてていたらしい。乱直前の居住地は口之津村であった。当時、口之津では村人全員が原城にたてこもった。そのため右衛門作も本人の意思なのか、あるいは無理強いされたのかはわからないが、ともかくたてこもることになった。そのような経緯から、四郎軍の陣中旗を描くようになったのだろう。彼は四郎軍の幹部として、幕府軍と対峙した3ヶ月の間、城中と幕府軍とで交わされた矢文の起案者の一人であった。その役目を利用する形で、密かに幕府軍と内通し、命を永らえたのであった。四郎軍に対する明らかな裏切り行為ではあるが、彼の存在がなければ、原城での四郎軍の実情は世上に知らされることはなかった筈だ。うがった見方をすれば、四郎軍も歴史の生き証人として、彼を指名したのだと考えられないこともない。少なくとも、事実はそうなっている。右衛門作は口上書のなかで、天草・島原の乱について次のように述べている。「事の発端は、大矢野の千束島にいた松右衛門、善左衛門、源右衛門、宗意、山善左衛門らが、26年前に追放された神父が26年後にこの地に善き人が現れ、そして、この子は人々の上に十字架をかかげるであろうという書き物を残した。大矢野に四郎という若者がいるが、この四郎こそ、その人であるといいふらしていた。10月15日にまず島原で乱が始まった。島原衆は島原城を攻め立てたが、城中の者が防いだため、一旦引き返した。その後、相談し、四郎を総大将として、宗門を守り立てようと決議した。四郎勢は天草の上津浦で兵を上げ、応援に来た島原衆とともに、本戸にて、寺沢藩の家老である三宅藤兵衛を撃ち破り、さらに富岡城を攻めたが、落す事が出来ず、島原の口之津に海を渡ってきた。江戸より長門の守(板倉重昌)が島原城に出陣し、その上鍋島藩勢も加わったことに四郎は驚き、原城に立てこもった。四郎は12月3日にこの古城に入り、その後、島原衆も続々と立てこもり、原城の普請を行った。12月9日には天草衆も原城に籠もった。原城には3万7千人もの人が籠もったため、5人の物頭を決め、同時に島原衆、天草衆のなかから一人ずつ軍奉行を定め、指揮系統を整えた。1月1日幕府方が攻めてきたが、事前に情報を得ていたので、容易に防ぎえた。2月21日、夜討ちを仕掛け、城中の手負いは430人であって、このうち132人は城中に引き取った。城中の鉄砲は530丁あったが、正月20日ころより、玉薬が切れてきた。城中の飯米も2月10日頃より切れてきた。城中には牢人が40人位いて、主に四郎軍の作戦部門にあたっていた。四郎が本丸で碁を指していたところ、幕府方より、石矢が打ちかけられ、四郎も負傷した。周りにいた者5,6人がこのため死亡した。篭城していた一揆方はその光景を見て、四郎様は絶対傷つかない天使様だと思っていたのにと、不吉な思いに捕らわれ、落胆した。」などと供述している。そして自分が生き残った次第も述べている。「自分は、以前の上司である有馬左衛門助殿と矢文で連絡を取り合い、有馬殿に忠節を尽くすことを知らせていたため、落城の時、小笠原右近殿に見つかり、切られそうになったが、有馬殿からの矢文を見せて、命を助けられた。」

裏切りの汚名を覚悟しつつも、
命に対する執着をみせた右衛門作の本当の心境は
果たしてどうだったのであろうか。


幕府側は、勝利を収めたものの、民衆の怖さをこれほど知らされた経験はこれまでになかったに違いない。
戦いの後始末としては、島原藩城主・松倉勝家は‘斬首’。切腹ではなく斬首だったのだが、これは前代未聞の措置である。

そして、その後1.5年の後、ポルトガルとの国交断絶により、オランダ一国のみを許して‘鎖国’という決断がなされるのである。

そして、江戸幕府は、この苦い経験を「仁政」という民衆の思いを受け入れる政治にハンドルを切り徳川260年の謳歌への礎とするのである。

とかく‘平和’は‘犠牲’の上にしかないという。正に‘島原の乱’はその典型である。

しかし、何とか‘犠牲’を最小限にして‘平和’を見出すことは出来ないものか?
現実問題としは、国連の力を以ってしても世界の平和はまだまだ遠い先の夢である。‘話し合い’という犠牲の少ない方法しか残ってはいないことに世界各国の為政者は気付いているのに何故実行が出来ないのだろうか?



この内乱の哀しい物語は、以下の引用に示す‘wikipedia’の「島原の乱」に詳しい。

島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの反乱の一面しか捉えていない。(「勃発まで」にて詳述)。現実には百姓一揆、浪人一揆、宗教一揆が複雑に絡み合った内乱であった。

勃発まで [編集]

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)[1]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。
天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。
ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。

乱の勃発 [編集]

天草四郎の像
天草四郎像

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた[2]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害[3]、ここに島原の乱が勃発する。
ただし、この一揆は島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった[4]。北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った[5]。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた[6]。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという[7]。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する[8]。
これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った[9]。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退[10]。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる[11]。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。
NHK「その時歴史が動いた(2007年1月24日放送)」では当時の著書カリバーリョ弁駁書を元に原城に立て篭もった要因をローマ教皇から一揆軍へ援軍を送るという内密があり、イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル王国[12])の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったという説を提唱している。またカリバーリョ弁駁書では実際にポルトガルは日本への上陸を試みたが出来なかったとしている[13]
原城の籠城戦 [編集]

戦闘の推移 [編集]

海から見た原城跡
海から見た原城の遺跡

原城包囲網
原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した[14]。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた[15]。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。
事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決定した。焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃は失敗した[16]。討伐軍の死傷者は4,000人以上であったという。重昌が派遣される際、柳生宗矩は小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗すると考えて反対したという話がある。
新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲した。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。
1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し[17]、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った[18]。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している[19]。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。
このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(1603~1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。
討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している[20]。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという[21]。また、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わるため、信綱は2月28日に総攻撃を決定。しかし、佐賀藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始された。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。
これによって、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。
全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・柄本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(柄本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

幕府軍 [編集]

幕府派遣軍
上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)
上使 - 松平信綱 1,500人
副使 - 戸田氏鉄 2,500人
諸大名
備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花種俊、安東省菴)
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人
総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)
幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。

籠城軍 [編集]

 島原の乱における一揆勢の主要人物
戦闘員 - 14,000人以上(推定)
非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)
総計 37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、27,000人など異説あり。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったといわれる[22]。ただし、原城の断崖絶壁を海側に降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もある[要出典]ため、実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説[誰?]もある。

処分 [編集]

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった(切腹という説もある)。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。
なお、この一件で幕府はポルトガルと国交を断絶することとなるが、オランダとの貿易がポルトガルとの貿易を完全に代行できるか不明であったこともあり、国交断絶までにはなお1年半が必要であった。

島原の乱以後の天草 [編集]

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。
島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国の丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。現在も鈴木重成を奉った鈴木神社が存在し、天草の人々の信仰を集めている。重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。
重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、天草の実情を無視した寺沢広高による統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。
天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタンの潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。


















[2012/10/05 22:17] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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