お彼岸の中日
今日(2015年09月23日)は、お彼岸の中日である・・。
いつも通り、お寺さんに来て頂いた! いつも木魚は携帯用である・・・。 今朝はそんなに暑くも無かったのだが、やっぱり汗だくのようだった! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 有難いお経を戴いてお見送りに出たら、‘紫御殿’がまた花を点けていた! ![]() ![]() ![]() この直ぐ上の写真の花の右にあるのは、昨日咲いていた花である! ‘紫御殿’の花の寿命はおよそ‘半日’である! 朝方、「美しい可憐な花だな!」と思っていたら、夕方にはもう枯れてしまっている! 我が家は、浄土真宗だったから、小学生の頃から、「白骨の御文章(ごぶんしょう)」を聞かされていた! 「・・・ されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。・・・」というあれである! ‘紫御殿’をお彼岸の中日にみると、なお更、この‘白骨の御文章’が身に沁みる!
浄土真宗の中興の祖と言われる、あの‘蓮如’が、「人間が‘100歳’を越すことなんて全く考えられない」と思っていたことがまた面白い! (つづく) |
東京・西浅草の東本願寺の正式名称は、
だそうである。 昨日(2014年07月22日)、時間が出来たので、東京駅から地下鉄・丸ノ内線で、銀座まで行き、そこから銀座線で田原町へ・・。田原町からは、徒歩で約5分で‘東本願寺’に到着する。 ![]() 2014年07月22日12:53 ![]() 銀座線・田原町駅・3番出口 ![]() ![]() 12:56 東本願寺が見えて来た! ![]() 門前には、花が活けてある! ![]() ![]() 正門を入ると素晴らしい本堂である! ![]() ![]() こちらは、‘浅草浄苑’があるビルである。 ![]() 12:58 お昼休みらしい。でも、これじゃあ・・・、と思っていたら、直ぐに受付嬢が出てきてくれた。受付を済ませて、エレべーターで4階の‘浅草浄苑’へ・・・。 ![]() エレベーターの中。 ![]() 4階のロビー。この日のお参り人は、私だけ・・・。 ![]() 4階の窓lからは、‘スカイツリー(空樹)が見える。この日は湿度が多分80%以上!空樹がボケて見える。 <浄土真宗について> 私と浄土真宗との関係、と言ってもそれほど熱心な信者でもないから、強い結びつきといったものはない。 誰でも小学生の頃には、宗教を自ら自覚する能力はないから、実家が浄土真宗だったから、そうなったというだけである。 これは、キリスト教だって、仏教だって、イスラム教だって、それぞれの宗派に‘属す’事になるということと同じである! ただ、大人になれば、宗教だけに限らず政治や経済についても良し悪しの判断がつくようになるから、‘自分の立場’について‘何故?’と考え出すようになる。 私が小学生の頃、何かのことで‘黙想’を一分間だけ行う場面になった時に、同じクラスの子で、「黙想をしてはいけない、と親に言われているので・・・」といって黙想を‘拒否’した子が居た。 この時が大袈裟に言えば、私にとって‘宗教に目覚めた瞬間’と言えるのかもしれない。 「へ~っ、そんなことがあるの?」と思ったからである。小学5年生の時だったと思う。 さて、親父の話では、親父は宗教についての関心が強かったようで、二十歳そこそこで、家出同様の覚悟で浄土真宗を学ぶために、浄土真宗(真宗大谷派)の宗教家・暁烏敏(あけがらすはや)が活動していた金沢へ行ったという。 その後の顛末は後日また記述する機会もあると思われるので・・・。 浄土真宗が、少々仏教のその他の‘宗旨’と異なるのは、親鸞自身には独立開宗の意思は無く、親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させた、という点にある。 従って、親鸞上人を以て浄土真宗の‘開祖’としてはならないものと思われる。 ご本人の意思に反するからである! ただ単に‘南無阿弥陀仏’と念仏を唱えることのみ! 従って、‘自力で悟りを開く’という考えがないから、‘自力’ではなく徹底した‘他力’である! これが、浄土真宗では、‘般若心経’を唱えないことになっている理由でもある。 (つづく) |
宗教についての自分自身の確信を持っていない人達は、生まれた自分の家が‘その宗派’だったというたったそれだけで、「自分は‘00宗’です」と言う。
情けないと言えば、情けない話であるが、宗教上における己の主張をハッキリと出来ない場合、そうならざるを得ないのも事実であろう。 悲しいかな実際私の場合もそうである。 仏教か?キリスト教か?、はたまたイスラム教か?と問われると「仏教です!」と答えてしまうに違いない。 何しろ、生まれてきて物心がついて70年以上、宗教的儀式に参加する場合、その背景には‘仏教’が多かったから、自分自身を何気なく‘仏教徒’だろうなと思っている。 そして、自分の生まれた‘家’が、‘浄土真宗’だったから、小さい時から‘浄土真宗’の仏教徒だと思ってきた。 仏教の宗派については、元を糺せば、総元締めは‘御釈迦様’だろうから、そこから‘派生’した宗派はそれぞれ事情があるのだろうが、まぁいいじゃあないか!程度の認識である。 誠に恥ずかしいが、宗教が生活の中心でなければならない環境に無かったこともあって、宗教に関しての好奇心はこれまでその程度のものでしかなかった。 我々の両親のお墓を守って呉れているのは長男の兄なのだが、そのお墓は父が京都・東本願寺・‘東山浄苑’に永代管理を任せて設置していた。 ![]() http://honganjifoundation.org/jouen/facility/facility_annai/ それを東京浅草の東本願寺・‘浅草浄苑’にこの10月05日(明日)に移すという。 このようにすると言うことは前以て知らせが届いていた。 浅草は浅草寺以外には余り行ったことが無いので、その前日である今日下見に出かけてみた。丁度仕事の都合で神田での打ち合わせが早めに終わったからである。 地下鉄で三越前から銀座線に乗れば、乗り換えなしで行ける。銀座線の終点浅草駅の一つ手前の駅、田原町で下車して徒歩で5分のところにあるという。 ![]() 浄土真宗・東本願寺派 本山 東本願寺正門 ![]() 本堂 ![]() 慈光殿 この4階に‘浅草浄苑’がある。 浄土真宗の‘慣習’は、他の宗派と違うところが多い。 例えば、 ① 般若心経を唱えない ② 不祝儀袋の表書きには、49日前であっても‘御霊前’とは書かず‘御仏前’と書く などであるが、これは親鸞聖人の時代からそうだったのかどうか? 再調査して見たい! (つづく) |
「延命十句観音経」というたった‘42文字’のお経がある。
佛画には‘賛’と言うのあることはご承知の通りである。 ‘賛’は普通佛画(佛画に限らず)を描いたご本人が書くものではない。誰にも頼めない場合、自分で‘賛’を書くのである。それを‘自画自賛’という!
実はある人から「佛画を描いたので、‘賛’を是非!」とお願いされたのである。 ![]() http://www.miyajima-jp.com/column/post_77.html 通常は、‘賛’としてお経の文句を書くとしたら‘般若心経’と決まっている(?)のであるが、‘262文字’は字数が多過ぎる。もっと字数が少なくて経典の真髄が表現されている‘お経’はないのかと思っていたところ、 「延命十句観音経」 が良いということになった。 ![]() さて、そもそも「お経」とは何か? ‘お経’という言葉は知ってはいるが、‘何のために’までくらいは知っていても‘種類の数’や‘それぞれの内容’やそれらの‘歴史的意義’といわれると案外1%の人が知っているのだろうか?と言われるくらい知らないものである。 そして、ほとんど‘お経の文句’として使われる場合が圧倒的に多い! 何か判らないことをぐつぐついう人がいると「あの人‘お経の文句’みたいに判らないことをぐつぐつ言うのよ!」と表現される。 つまり‘お経の文句’とは、始めから‘判らないこと’の代表として使われている、と言うのが‘当たり前’の常識となってしまっているのである。 勿論、これは流布する側にも一部の責任があったのだろう。 兎に角「なんまいだ~!」とだけ唱えれば‘極楽浄土’へ行ける(?)というのだから、こんなに‘極く’‘楽な’方法はない! (註:なんまいだ~は「南無阿弥陀仏」のこと) その‘深~い意味’や‘歴史的意義’等関係ないのである! 勿論、宗派によって‘唱えの文句’(この言い方も)は異なる。
改めて、‘お経’とは?
ということは、‘延命十句観音経’は、大乗経典を‘般若心経’よりももっと簡単にしたもの(この解釈正しい?)だから、この‘42文字’の中に‘コンデンス’されている。 その‘上’を行くのが‘なんまいだ~!’といえないこともないが‘なんまいだ~!’は‘南無阿弥陀仏!’だから‘阿弥陀様’に帰依します、と言う事だけで大乗経典のコンデンスではない! 般若心経:262文字(最後の‘般若心経’の4文字を除いた字数) 延命十句観音経:42文字
と言う訳で、佛画に‘賛’を書く破目(?)になった! 何十枚も練習をしての‘習作’が上記の文字である! そして、これが佛画に‘賛’として書かれた際にはまたこのブログで・・・。 (つづく) |
私も母を亡くした時、‘分骨’について悩んだ覚えがある。そう、もう40数年も前のことである。
自分の親なんだから、そんなことって許される、という非常識な考えであった。もっと言えば、御釈迦様だって‘仏舎利塔’に‘分骨’しておられるのに、宗教的に何が不都合なのだろうか?とさえ思っていたようだった。 ![]() http://www.fujistardust.jp/blog/log/eid396.html 御殿場プレミアムアウトレットに向かう途中に箱根側の山に見える謎の白い塔が仏舎利塔です。
そろそろ、自分自身の問題として‘分骨’ということが現実的になって来ると知識不足が不安になって来る。本当に老後(今でも既にそうなのだが・・)は、どうする?ということが現実のものとなりつつある。でも、まだ現役の積りであるから、これから新しい会社の創設に参加させて貰って、あのプロジェクトもこのプロジェクトもやりたいと思っている。事と次第によっては、海外へ単身赴任でも、という気さえある! でも結構足にも負担をかけると若い時と同じにはいかない。先日も慣れない皮靴で都内を2時間以上歩いたら少々足の調子がおかしくなって、回復するのに3日も掛かってしまった! さて、‘分骨’について調べてみると次のような文献が見つかった。
![]() http://memoria-areca.net/crown_C-2 私の場合もそうであったが、個人が個人として‘分骨’を考える場合、亡き人を永遠にとまではいかずともなるべくなら出来る限りの時間、自分の傍(仏壇)に置いておきたいという‘欲求’から来ている。次の‘Q&A’も正にその通り個人的‘欲求’に対して、次のような回答がある!
なるほど、成程。仏壇という‘狭い’器に閉じ込めてはならぬ!一刻も早く土へ還して、溶けて行き無に成る願いこそ往生である! このご指摘には感服した! ところで、‘骨壷’に入れた‘焼骨’はその後一体どうなるのだろうか? ![]() http://wan-nyan-memory.ocnk.net/product/844 これまで、余り考えたことが無かったので、一寸調べる気になって来た。当然骨はカルシウムが主成分だから保存状態が良ければ、そのまま残る。これは化石が証明している。
(つづく) |
このブログでも紹介したが、千葉県・東金市の最福寺境内にある‘切られ与三郎’のお墓は、‘拝み墓’であるという。<註:‘詣り墓’とも>
![]() 2013年05月12日(携帯で撮影)千葉県・東金市の最福寺境内にある‘切られ与三郎’の墓 右が、四代目・芳村伊三郎(切られ与三郎のモデル)の‘拝み墓’( →‘詣り墓’)で、左が五代目・芳村伊三郎の‘埋め墓’という。
‘拝み墓’、‘詣り墓’などは、初めて聞く‘熟語’である!因みに、これらの‘対義語’は、上記の通り、‘埋め墓’だという。 ただし、この‘拝み墓’と聞くと、「あ~、なるほどネ!」と正確な意味は判り兼ねても納得がいく。というのは、同じ人のお墓が幾つもあったりして「どうして?」と思っていたからである。 ど素人なりにただ漠然と想像していたのは、‘分骨’してあるのかな?ということだったが、現在の法律では‘分骨’には或る手続きが必要である。‘分骨証明書’という正式書類の発行が無ければ分骨は出来ないということになっている。 当然のことであるが、‘拝み墓’には、分骨もされている訳ではないので、‘遺体や骨’はない! さて、話を江戸時代のお富さん・切られの与三郎の時代に戻す。 日本で‘火葬’が始まったのは仏教の伝来とともにという事のようである。しかし、江戸時代の儒教思想から考えると、身体を傷つけるのは大きな罪であった他、‘火葬’には費用がかかるため、当時は‘土葬’が一般的だったという。従って、‘分骨’ということは元々存在しないのである。 ![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC 江戸時代の火葬、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版
切られ与三郎のように二つの墓を作ることを‘両墓制’というらしい。
(つづく)次回は、‘分骨’について |
お正月の‘松の内’の期間が何時までかについては、諸説があるらしい。
そんな訳で、2013年01月13日、修理に出して久し振りに戻ってきた‘デジカメ’を携えて、三が日にお参りに行かなかった 蓮福寺 へ行ってみることにした。実は、蓮福寺に行きたいと思った理由はもう一つあった。 ![]() 成就山・蓮福寺 千葉県茂原市千沢の或るポイントから‘富士山が見える!’という大発見をされたご夫婦のお陰で、このところ外に出ると「今日の富士山は?」と気になりだしたのである。 千沢から見える富士山は、8合目から上がやっと見える程度だから、本来の‘富士山の美しい姿’を茂原市から見るには、8合目以下を隠すように立ちはだかっている前景の向うに行ってみたら?と前からそう思っていたのである。 成就山・蓮福寺自身は、そんな高台にある訳ではないが、その背景にもなっている‘本納城址’は少なくとも‘100m’位の高台 にあり、多分上手くすれば‘本納城址’のどこからか富士山が見える可能性もない訳ではないと想っていたからである。 ![]() Google 地図:千葉県茂原市本納蓮福寺は、房総半島の赤丸・Aのこの地点である。 ![]() Google 地図:蓮福寺の鉄道最寄り駅は、JR外房線・本納(ほんのう)駅である。( 本納は、‘ローマ字’で書くと`HONNOH’であるから、左から読んでも右から読んでも‘HONNOH'!) ![]() Google 地図:千葉県茂原市本納 この中央が蓮福寺。その背景を構成している‘高台’が、‘本納城址’である。 ![]() Google 航空写真:蓮福寺と本納城址 ![]() Google 航空写真:本納城址 ここからなら、ひょっとすると‘裾野もある程度見える富士山’を拝むことが出来るかもしれないと思った、という訳である。 そんな訳で、先ず蓮福寺の裏に回って‘本納城址’へ向かった。蓮福寺へのお参りは、本納城址から降りて来てからにすることにした。 ![]() 蓮福寺の境内を抜けて、それから先はキツイ登りである。それでも富士山が・・、という気持ちで少しも休まずに登った。結構ハードな坂道だったので、着ていたジャンバーもその下の上着も脱いだほどだった。 ![]() 16:20 本納城址の石碑が建っている。直ぐに西側の断崖まで近づいて行ったが、残念ながら前面にもう一つ小高い丘があって富士山はこの本納城址からは見えない! でもまあ、楽しみは後日に残しておいた方が・・。今日これからもう少し西へ前進する気力はもう残っていなかったし、そろそろ16時半にもなろうかという時刻でもあったので、今日富士山を見ることは諦めた。 さて、この碑の裏面は? そして、本納城と蓮福寺との関係は? ![]() 極めて読みづらいが、多分、蓮福寺の入り口にある次の写真の内容と同じことが書かれているに違いない。 ![]() 天正18年(1590年)に廃城となったというから、秀吉が刀狩りをした1588年から2年後ということになる。今から400数十年も前の事であり、それにしてはよく保存されている! ![]() 2013年01月13日16:21 房総半島太平洋・白子方面(東側)である。地平線近くに‘黒煙’が見える! こりゃあ、ひょっとすると、先日と同じ‘火事騒ぎ!’? 望遠で撮ってみたのが以下の写真である。 ![]() 更に拡大して見ると・・・、 ![]() 先般の火事と比べれば、‘規模が小さい’! 多分火事ではないだろう。だいいち消防車のサイレンも聞こえない。 (14日の讀賣新聞朝刊千葉地域版には火事の記事は無かった) ![]() 石碑のそばにも桜がある。 ![]() この城址には桜の木が沢山あって、遮るものがないから日光に当たる時間も多いに違いない。桜のつぼみがもう膨らんでいる。 ![]() 望遠で・・・。 ![]() 更に拡大すると、つぼみが膨らんでいるのが判る。流石に房総半島である! 帰りに蓮福寺にもお参りせねばならないから、城址には10分程居て下ることにした。今度は少し楽である。 ![]() 前出の‘Google の航空写真’にも見られるように、お墓が沢山ある。まだ空きが沢山あるという。 ![]() 大伽藍が見えて来た。 ![]() この境内で一番素晴らしいと想われる‘永代供養’のお墓である。 ![]() このお墓に書かれた文字が実に素晴らしい!「無垢清浄光」とある。 ![]() ここに何故このお墓が‘永代供養’とされたかの由来が記されている。本納の経済発展にご尽力のあった「いせげん」という屋号で商店を営まれた‘秋山家’のお墓という。素晴らしいお墓である。 ![]() この鐘楼堂も時代ものである。 ![]() ここから‘参道と総門’が見える。この長さも見事である。およそ120m。 ![]() 本殿と灯篭。本殿も修復が終わった直後のように見受けれられ、灯篭は建て替えられたばかりのようで、何だか出来たての寺院のように思われる。 ![]() 階段を下りて参道を歩いて振り返ってみると本殿の位置が高いことが判る。 ![]() この大公孫樹(おおいちょう)は、樹齢420年という。 ![]() 樹齢420年という事は、本納城が廃城になった頃に植えられたという事になる。その経緯は次の引用資料に。
![]() 蓮見池。残念ながら‘臥竜の松’はない。420年の老松も見たかったが・・・。 ![]() その代わり、‘真っ赤な鯉’が泳いでいる。 ![]() もう少し近づいてみると・・・、 ![]() こんな鮮やかな‘真っ赤な鯉’は今迄にお目に掛かったことがない! ![]() 池のそばの何と言う木かは知らないが、その根元の‘苔’もまた素晴らしい! ![]() これが総門である。内側から見たところ。 ![]() この屋根の‘突っ先’の付近に何だか意味のある‘瓦’が鎮座している。望遠で拡大して見ると・・・、 ![]() ‘椿’の花を模った瓦の上に、何となく気品のある‘人形?’らしきものが乗っているように見えるが、果たして、これって、何? ![]() これは総門を外から見たところである。 ![]() ‘成就山’とある。何を成就しようとの願いなのだろうか? ![]() 城主及び戦士を弔うためのお寺だというから‘蓮福寺’という命名は判り易い。 ![]() 16:47 総門を出て、本納駅方面へ。 成就山・蓮福寺を後にしたのは、冬至から少しずつ日没が伸び始めた16:50であった。本納村を中心に近隣を支配していた城主の本納城が戦いに敗れ、その供養のために建てられたというこの寺院、420年の歴史が脈々と受け継がれている。 僅か45分間ばかりだったが、茂原市の歴史の一部を覗かせて貰った気がした。 (つづく) |
数日前から、‘クリスマス’関連で、小さい時から疑問だった以下の10項目について色々調査をした。その結果、普段そう思っていたことが、ほとんど間違っていることが判ったし、どうやら‘常識のウソ’が本当らしいナ、と思われてきた。昨日までに、以下の10項目の①~⑦までは、何らかの‘正解’に辿りつくことが出来た。
その情報は、このブログの昨日までのところを見て戴きたい。 さて、そんな訳で、残りの疑問は、あと3つである。 ①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か? ②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか? ③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か? ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か? ⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か? ⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か? ![]() http://plaza.rakuten.co.jp/mari24/diary/200811040001/ ⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?
上記引用資料によると、 ‘クリスマス’であることを以って、‘国民の休日’としたのではなくて、大正天皇が崩御されたのが、大正15年12月25日であって、当時の休日法によれば、その日を‘大正天皇祭’として休日にしたために、クリスマスが‘偶々’休日になったという訳である。 言ってみれば、日本にクリスマスの‘行事や習慣・風習’が流行ったのは、大正天皇のお陰である、とも言えないことは無い。 ⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?
こんな状態だから、表記については、まあどれを使っても‘誤り’とは言えないようである。 我々は、小さい時から「X’mas」に慣れてしまっているので、これが一番雰囲気が出る! ⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か? ![]() やはり、WEBで調べてみたら、次のような体験にも基づいた‘完璧に近い’ブログがあったので、全面引用掲載をしてみた。このブログが書かれたのはアメリカである、多分。
この上記引用ブログを見れば、クリスマスツリー(飾り)の事が、よ~く判る。 以上を以って、小さい時から思っていたクリスマスに関する‘10個の疑問’がすっかり明確になった! ![]() http://matome.naver.jp/odai/2129075666177646801/2129100187681472803 |
昨日のつづき。今日のテーマは、サンタクロースについて
![]() http://blogs.yahoo.co.jp/aquarius1969newage/64572224.html ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? この疑問ついては、以下のような資料がある。
次の資料も大いに参考になる。
という訳で、サンタクロースの存在意義がかなりよく判った。 ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ![]() http://matome.naver.jp/odai/2125808201511036222
というから、サンタさんの服装は、赤(と白)とばかりではないらしい。 ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ![]() http://ja.freewalls.org/wallpaper/%E3%82%B3%E3%8 2%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%80%81%E3%83%88%E3%8 3%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%81%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%8 2%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9/
(つづく) |
‘クリスマス’に関して以前から、私には次のような疑問があった。
![]() ①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か? ②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか? ③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か? ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か? ⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か? ⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か? これらの内、①と②については、‘一応’解決済みである。 ① 12月25日は、キリストの誕生日ではない!「キリストの降誕を祝う祭り」である。( 「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その1)(2012/12/24 - 宗教) http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-375.html ) ② 教会歴の一日は、‘日没から日没まで’のために、一般の暦との差が出て、24日の日没から24日の24時までを‘クリスマスイブ’という。( 「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その2)(2012/12/25 - 宗教) http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-376.html ) ③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か? クリスマスを祝う日が正教会の中でも違っているという。
では、ユリウス暦とは?
という訳で、正教会でも使用する‘暦’によって、降誕祭=クリスマスを祝う日にちが違っているという事が判明した。 (つづく) 次回は、サンタクロースについて |
(昨日のつづき)
<クリスマスイブ> ![]() http://video.the-search.jp/0/tag/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83% 8E%20%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%20%E3%82%A4%E3%83%96.html クリスマスの関連でまだ以下の問題が解決を見ていない。 ②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか? ③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か? ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か? ⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か? ⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か? 昨日の弊ブログでは、 ①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か? について、答えを出した。 ‘キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。 つまり、何度も繰り返すが、‘12月25日は、キリストの誕生日ではない’のである。 詳細は、昨日の弊ブログ( http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-date-20121224.html )を参照されたい。 さて、次の疑問は、 ②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか? ‘イブ’は、‘eve’(通例は、‘Eve’)で、祝祭日などの前夜(祭)、前日の事である。夜が‘evening’だから‘eve’なのだろうか? 何かオリンピック等の‘競技大会’であれば、よそのチームとの友情を深めたり、或いは自分達のチームの団結をもう少し強くするために‘前夜祭’はあっても良いが、生誕をお祝いするのに‘前夜祭’は必要不可欠だとは思えない。きっと何か別の理由があるに相違ない! その答えは、以下の引用資料に、次のように述べられている。 ![]()
つまり、‘クリスマス’(=降誕祭 ← 誕生日ではない!)は、「24日の日没から25日の日没まで 」であるから 24日の昼間は‘イブ’ではない。 ‘イブ’は、24日の日没から24日の24時までであり、正に‘evening’ではないか! 従って、‘教会暦’と‘一般の暦’との通念の違いから、‘クリスマスイブ’が誕生したのである! (つづく) |
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて、正確に答えられる人は少ないに違いない!
![]() http://yaplog.jp/naotaka8787/archive/1575 「カレッタ汐留」 これは多分日本人だから答えられないのではない(?)らしい。 ‘クリスマス’の疑問に正確に答えるには、相当な知識が必要である。 日本では‘普通’と思われていることは、諸外国でも同じであろうか? ![]() http://nearme.blog.so-net.ne.jp/2012-12-07-1 ポーランド・ワルシャワ 「日本では‘普通’と思われていること」とは、私の常識では以下の通りである。 a) 少なくとも12月に入れば、‘クリスマス商戦’が始まる。 b) 家庭でも、その頃から‘サンタクロース’の人形や‘クリスマスツリー’を家の内外に飾りつけをする。 c) 12月24日の夜は、‘クリスマスイブ’ということで、‘クリスマスケーキ’を食べる。そして、子供達は、靴下を枕元において寝る。 d) 24日の夜から25日の朝方に、‘サンタクロース’がやって来て、靴下の中にプレゼントを入れる。しかし、サンタクロースは実際には来ないので、親がその役目をする。 e) 25日になっても、キリスト教徒でない人達は、教会には行かないから、クリスマスは終わったものと思ってしまって何もしない。 f) クリスマス商戦も、25日には、24日に売れ残った‘クリスマスケーキ’が、20~50%引きで売られてそれで終わり。 g) 家庭でも、26日になれば、飾りつけは皆外して翌年用としてしまってしまう。 ![]() ![]() ![]() http://www.kinotoya.com/news/xmas/index.html ![]() http://ameblo.jp/titoparupalo/day-20081001.html しかし、色々な情報から‘薄らと’ではあるが、以前から、私には次のような疑問があった。 ①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か? ②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか? ③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か? ④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか? ⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか? ⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? ⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は? ⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か? ⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か? ⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か? 等々、中学生の頃から不思議に思っていたが、これまで別に真相を知らなくても困りはしなかったから放っておいたのである。 しかし、このブログを書き始めてからは、何もクリスマスの事だけではなく色々な常識の‘根拠’を知らないことが気になりだしたのである。上記の通り、常識の根拠を知らなくても生活には余り困りはしないのだが・・・。 でも、その常識の根拠を知ってみると、何とも怪しい根拠や間違った常識に出会う事に驚くことが沢山あった。 今回の‘クリスマス’についても、‘新約聖書にはキリストの誕生日が書かれていない’というから驚きである! ①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?
上記引用資料の通り、‘キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。’といのだから驚きである! これは、我々の常識の無さが悪いのであって、‘キリストがお生まれになったのを記念する日’ではあるが‘キリストの誕生日ではない’とは、多分ほとんどの日本人が知らないに違いない! これ、クイズ問題に出せば面白いかもしれない! では何故、12月25日に「降誕を記念する祭日」を持ってきたのであろうか? 上記引用資料では、‘ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われている’とあるが、これはもう少し調べる必要がある。 12月25日とは一体どんな日なのだろうか? 因みに、キリストの誕生日についての諸説は以下の通りという。
(つづく) |
不動明王の‘仏画’を調べていたら、‘異常さ’に気付いた。
‘異常さ’というより、その‘顔’の描き方が全く違う‘二つ’の仏画(仏像)に出会った。 ![]() NHK出版・NHKテレビテキスト・趣味工房シリーズ・あなたもアーティスト このテキストに次の2枚の下絵が‘不動明王’として描かれていて、その違いの説明がない! ![]() ![]() NHKテキストの不動明王の‘二種類’の下絵 常識的には、不動明王は、その牙と目玉に特徴があり、その牙は、天を向いているのが一つと、あとの一つが地を向いている。そして、その目玉の一つはやはり天を向いており、もう一方が地を睨んでいるというものである。 ![]() http://www.geocities.jp/tttban2000/SL3326/gallery.html
ところが、NHKのテキストの‘左側の絵’のように、牙の方向が二つとも地を向いており、目玉も真正面を睨みつけているのがあるというのである。 この辺の事情についての勉強不足から、つい‘ホ、ほんとう~?!’と叫んでしまった程無学である。 ![]() https://www.shinchosha.co.jp/geishin/2011_08/01.html この京都・東寺の不動明王の画像からは、二つの‘犬歯’はハッキリとは判らない? 不動明王の像を日本に初めて持ち帰ったのは‘空海’だそうである。次のブログに以下のような解説がある。
つまり、空海が日本にもたらした‘不動明王の姿’は、先に掲げたNHKのテキストの‘左側の絵’に近い表情をしており、およそ7~80年後になって、見直しがなされ‘右側の絵’のような‘典型’の画像になったというのである。 空海(774~835)は、802年、最澄(766~822)や三筆の一人橘逸勢(782~842)及び霊仙(759~827)と共に入唐する。
804年と言えば、凡そ、空海が30歳、最澄は38歳、逸勢22歳、霊仙45歳である。 何と言う‘恐ろしい天才達’であろうか? そして、当時の遣唐使・留学僧の留学期間は20年だったというのに、最澄は805年に1年間で、空海は806年に2年間で帰国している。それも彼ら二人は日本国にとっては貴重な予測以上の数の経文と成果を身に付けての帰国である。(橘逸勢の帰国年は不明? 霊仙は帰国せず) さて、この大天才・空海は、大勢の人たちと関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写を行ない、真言密教と共にそれらを持ち帰っている。特に、それらの資料を基に、京都は東寺において‘立体曼陀羅’の造営に取り掛かる。残念なのはその完成を見ずに旅立ってしまうのである。 立体曼陀羅を安置する講堂は、空海の没年に完成するが、空海はこの完成を見ずに、同年没している。曼荼羅はその2年後に完成したという。 ![]() http://www.touji-ennichi.com/info/koudo_j1.htm この京都・東寺の不動明王の姿は以下の像に見る通りである。 ![]() http://masa71.com/ki-c.html これが、京都・東寺の不動明王である。この顔の部分を拡大して見ると、 ![]() ![]() http://masa71.com/ki-c.html 右が、NHKのテキストの下絵の一つ。 NHKのテキストの‘左側の絵’そのものである。勿論、このテキストの中の原画の作者である‘松久佳遊’さんは、以下の経歴をお持ちの超一流の仏絵師だから、間違えられるはずはない! ![]() 空海は、この不動明王の‘造形の変化’については、没後の事だから知らないのだろうが、この変遷を知ったらどう判断するのだろうか? 安然が唱えたとされる‘不動十九観’も含めて、不動明王の像容についての資料を引用しておきたい。
これで、不動明王の仏像及び仏画の‘変遷’について、かなりの理解が出来た。次回は、‘如来’様についての知見を広めるための検索を行う予定である。 (つづく) |
‘論語’について調査をしようとする場合、‘聖書’との対比については前回(11月5日の弊ブログ)で前哨戦を述べさせて貰った積りであるが、それは‘儒教’の一代表としての‘論語’であって、宗教としての東西比較とすれば、それは、
<キリスト教・イスラム教> VS <仏教・儒教> という対比で考えるべきものだと思われる。 大まかに言えば、<キリスト教・イスラム教>‘軍団’は、創造主を頂点に仰ぎ、全ては創造主を‘神’と表現して絶対服従を誓う所が出発点である。 ![]() http://labaq.com/archives/51350538.html キリスト ![]() http://hirodoveohira.wordpress.com/2009/11/29/%E3 %83%A1%E3%83%83%E3%82%AB%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E 5%AD%A3%E7%AF%80%E3%80%82%E2%80%95%E2%80%95-%E3%82%A4 %E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B7%B 1%E5%B1%A4%E3%81%AB%E6%B5%81%E3%82%8C/ 啓示をうけるムハンマド:イスラム教では偶像崇拝を禁止しているため預言者ムハンマドの肖像画は無い 一方、<仏教・儒教>‘軍団’には、基本的には‘神’の存在はない。あるとすれば‘神は実は己の中に存在する’と説く。すなわち、修行により‘悟り’の境地に到達することにより己の向上を目指す。ただし、儒教は少し違っていて修行は‘対人’及び‘対社会’のために行なって人格の向上を目指すのである。孔子は‘悟り’を拒否した。 ![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 釈迦 ![]() http://seizensetu.seesaa.net/category/7190700-1.html 孔子 以上のように簡単には表現出来ない事情はどの宗教にもあると思われるが、こんな‘大ぐくり’ででも捕えておかねば‘比較’での評価が益々難しくなるから、この対比は私だけの思い込みである、とお断りをしておきたい。 宗教と政治は根本的に重さも心意気も異なるから軽々にたとえ話は出来ないにしても、政治の場合、民主党支持、自民党支持、共産党、etc.支持を表明している人達は果たしてそれぞれの‘長所・短所’を徹底比較して、それぞれを支持しているのだろうか? 私には、どう考えても‘一旦何処かの政党支持’を表明した場合、その政党が自分の考えと違った方針を取った場合には、己の主張を曲げてでもその政党の方針に従うという‘矛盾’を皆さんが抱えてしまうことになって、言論の自由を自ら放棄してしまうという最悪な状態となってしまっている、としか考えられない。 これこそ、私がこれまでこの弊ブログで‘政党政治の破綻’は本質的なものであり、政党政治は政治の初歩的段階であるから、早くそこから抜け出すべきだと主張してきた所以である。 宗教の場合でも同じことが起こっているような気がする。どの宗教を信じようとそれは個人の勝手とは言うが、本当にその宗教の本質を理解している人がどの程度いるのであろうか? 甚だ疑問である。 もっと言えば、住職でありながらその宗派を職業として選択した人が多いのではないかとさえ思われる節がある。 別にそれを糺す必要もないのかもしれないが、宗教の衰退の一原因はその辺りにもあるのではないかと図々しくもまた偉そうに思ったりしている。 いずれにしても、‘比較宗教学’をもっと徹底的に勉強する事から始めなければならないと考えているが・・・。 さて、本題は、儒教を知るには‘論語’だけでは済まされない。いわゆる儒教を支えている‘四書’:‘大学’、‘中庸’、‘論語’、‘孟子’それぞれを深く検討してこそ‘儒教’の理解が出来るというものであろう。 日本の政治を理解するためには、自民党だけを知れば済むというものではない、という事と似ている。 でも先ずは、‘論語’から始めようという訳である。論語だけで儒教が理解できたとは思わない心構えが必要だという訳である。 先般から申し上げていた通り、‘論語’そのものも儒教の始祖たる‘孔子’が書いて編纂したものではない。 したがって、「子日はく・・」から始まる。‘子’とは‘先生’の意味の普通名詞である。そして具体的な先生の名前は‘孔’先生であるから‘孔子’である。‘日く’は‘のたまわく’で‘おっしゃるには’という意味である。 仏教も同じで、釈迦は‘口伝’を専らとして、‘書伝’を禁止した。これは釈迦以前の宗教も同じでインドでは‘伝統’であったというが、釈迦も何故‘口伝’を受け継いだのであろうか?‘如是我聞’は私はこのように聞いたという意味であるから、その人が釈迦の仰った事をそう理解した、と受け取るべきで釈迦の仰せとは違う場合があるとの認識を持つべきである。これが仏教で宗派が分かれる大きな原因となったものと思われる。 いつもこの議論で出くわすことは、釈迦が、或いはキリストが突然蘇ってそれぞれの宗派の存在意義を聞いた場合、どんな反応をするのだろうか?という事である。 <これって、今後の小説の題材かも??> 上述の四大宗教、全部が全部その教祖は己の書物を残していない!実に不思議であり、偶然の一致なのか?それとも教祖たるもの己の書物を残さないものなのだろうか? 現在は‘書物を出版すること’が、斯界の権威たる拠り所とさえなっていて、4~500冊の本を出版されている有名人も沢山おられるが、本当の教祖たる御仁は違うのだろうか? (つづく) ![]() ![]() ![]() |
日本における第二次世界大戦以後の教育方針は、‘論語’という江戸時代からの‘道徳・徳育’教育をすっかり疎かにしてしまった。
その影響がじわじわと現れ始めて、‘いじめ’や‘不可解な殺人事件’を惹起する原因になっているとも考えることが出来る。 「教育とは?」と聞かれると大体誰でも「知育、徳育、体育」と答える。これは中学校でそう教わるからでもあろう。 ところがである。 ‘徳育’って、何? と聞かれてしまうと、ほとんどの人が「‘道徳’」と答える。じゃあ、どうして、「教育とは?」と聞かれた時に「知育、道徳、体育」と答えないの?と聞き返すと「道徳には‘育’が付いていないから・・・」と優等生の答えが返って来る。 ‘道徳’を教えるのが‘徳育’という訳である。 まあ、ここまではよろしいとして、それでは「‘道徳’とは何?」と聞けば、「うるさいなぁ、自分で調べたら?!」と全く道徳を無視した答えしか返って来ない。 つまり、‘知育’と‘体育’は、日教組も教えた積りだが、‘徳育’については、まるで‘封建制度の権化’のようだとの見解なのだろう、全く教えることをしなかったのである。 私は、戦後の昭和21年に小学校に入学したから、いわば終戦後の‘小学校第一回生’という事になる。 二つ上の兄や四つ上の姉が、‘徳育’を受けていたかについては、戦時中のこともあって定かではない。むしろその当時の小学校では‘徳育’というより、天皇陛下への‘忠義・忠誠’を教えていたに違いない。 我々が入学する前の小学校には‘忠霊塔’というのが校庭の上部(?)中心にあって、朝の登校及び下校の際にはみんな帽子を取ってお辞儀をしていた記憶がある。 昭和21年に小学校に入学した折には、きれいさっぱりと‘撤去’されていたが・・・。 ![]() http://eclipse.star.gs/lock/wafuu/wafuu1.htm
そうそう、そう言えば‘修身’という科目があった。国語、算数、と同ランクに‘修身という科目’である。 ![]()
そして、この‘修身’という訳語は‘モラルサイエンス(moral science)'が原語であり、翻訳したのは福沢諭吉等という。
そして、その‘修身’の内容は以下の引用資料が示す通り、 (1)国家に対する道徳 - 25% (2)人間関係についての道徳 - 40% (3)個人の道徳 - 35% というから、これはこれは‘まともな配分’ではないか! 勿論、(1)、(2)、(3)共に、その中身については現在全く通用しないものではある。
上述の通り、この内容は全て現在風に書き換えられねばならないが、やはり当時でも‘国家’‘他人’そして‘己自身’に対する‘道徳’をきちんと意識しなければならないことを為政者は理解していたのである。 これこそ‘儒教’の‘道徳’を何百年も継承してきた日本人ならではの成果と言えると思われる。 さて、いつものように‘前置き’が長くなってしまったが、‘道徳’を考える場合にはどうしても‘東洋’の道徳と‘西洋’のそれとを意識せざるを得ないし、今後益々グローバル化が進む国際社会では、その認識無くしては多分動きがとれまい。 先般ご紹介した‘論語の読み方’(山本七平著)には、‘論語’と‘聖書’という東西の‘道徳’の根本になる書き物に焦点を合わせてある。 ![]() ![]() 上記著書・「論語の読み方」によれば、京大名誉教授で、1966年NHKラジオで『論語』を講義した吉川幸次郎が、「論語」を理解するには「聖書」を読まねばならぬと言い、内村鑑三が奇しくも「聖書」をきちんと理解するためには「論語」の研究が必要だと指摘していたという。 両雄にして流石である。己の主張を通すには、それに対峙する意見も理解すれば己の主張の‘質’が上がるというのだ! (つづく) ![]() ![]() ![]() |
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