お彼岸の中日
お彼岸の中日

今日(2015年09月23日)は、お彼岸の中日である・・。

http://www.ohnoya.co.jp/faq/dictionary/ohigan/
お彼岸とは・・・

「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である【此岸(しがん)】にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち【「彼岸」(ひがん)】の境地へ到達することが出来るというものです。

太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。

,,お彼岸の期間
春彼岸 : 毎年3月の春分の日をはさんで前後3日合計7日間
秋彼岸 : 毎年9月の秋分の日をはさんで前後3日合計7日間

*** 2015年 秋のお彼岸の日程 ***

彼岸入り:9月20日
お中日 :9月23日(秋分の日)
彼岸明け:9月26日

それぞれの初日を「彼岸の入り」、終日を「彼岸のあけ」といい、
春分の日・秋分の日を「お中日」といいます。


いつも通り、お寺さんに来て頂いた!

いつも木魚は携帯用である・・・。
今朝はそんなに暑くも無かったのだが、やっぱり汗だくのようだった!

20150923 彼岸の中日 002-2
20150923 彼岸の中日 003-2
20150923 彼岸の中日 004-2
20150923 彼岸の中日 009-2
20150923 彼岸の中日 014-2
20150923 彼岸の中日 015-2
20150923 彼岸の中日 016-2
20150923 彼岸の中日 016-3

有難いお経を戴いてお見送りに出たら、‘紫御殿’がまた花を点けていた!

20150923 彼岸の中日 001-2
20150923 彼岸の中日 001-3
20150923 彼岸の中日 001-4

この直ぐ上の写真の花の右にあるのは、昨日咲いていた花である!

‘紫御殿’の花の寿命はおよそ‘半日’である!
朝方、「美しい可憐な花だな!」と思っていたら、夕方にはもう枯れてしまっている!

我が家は、浄土真宗だったから、小学生の頃から、「白骨の御文章(ごぶんしょう)」を聞かされていた!

「・・・ されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。・・・」というあれである!

‘紫御殿’をお彼岸の中日にみると、なお更、この‘白骨の御文章’が身に沁みる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A
A%A8_(%E5%BE%A1%E6%96%87)

白骨 (御文)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

浄土真宗本願寺八世蓮如が撰述した御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)は、御文の中でも特に有名なものである。存覚の『存覚法語』を基に作られている[1]。

この御文は宗派により呼び方が異なる(詳細は御文を参照)。

本願寺派 - 「白骨の御文章(ごぶんしょう)」
大谷派 - 「白骨の御文(おふみ)」
興正派 - 「白骨の御勧章(ごかんしょう)」
この御文は浄土真宗の葬儀(灰葬 還骨)で拝読される(御文を用いない宗派では拝読されない。)。

大意[編集]
今日・明日の事しか考えない人々の姿を見て考えると、人の生涯は儚いものであります。まるで幻のようなものです。今は元気でも、次の瞬間には死んでしまうかもしれない。死は、年齢を問いません。だから、その日暮らしの生活ではなくて、これからの生き方を考えてください。それには阿弥陀仏に深く帰依し、称名念仏する事を勧めます。

現代仮名遣い文[編集]
補注 - 原文にはない濁点を補い、旧仮名遣いも現代仮名遣いに、カタカナもひらがなに改め、漢字を補足にする。


それ、人間の浮生[2]なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終[3]、まぼろしのごとくなる一期[4]なり。

「白骨の御文章(ごぶんしょう)」
されば[5]、いまだ萬歳[6]の人身[7]をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁し[9]と言えり。

されば、朝[10]には紅顔[11]ありて夕[12]には白骨[13]となれる身なり。すでに[14]無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李[15]の装いを失いぬるときは、六親眷属[16]あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙[17]となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり[18]。されば、人間の儚き事は、老少不定[19]のさかいなれば[20]、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ[21]。

意訳[編集]
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。

それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。

それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。

そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります[22]。


浄土真宗の中興の祖と言われる、あの‘蓮如’が、「人間が‘100歳’を越すことなんて全く考えられない」と思っていたことがまた面白い!

(つづく)
スポンサーサイト
[2015/09/23 23:37] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺の前にある‘徳本寺’!<殿中刃傷沙汰の一つ>
東本願寺境内の慈光院の中にある、現代的お墓‘浅草浄苑’にお参りをして、暑い梅雨明けの道をどうやって電車に乗ろうかと迷った。

そんなに暑くないのなら、JR上野駅まで歩けば、普段の運動不足も解消出来るのにとも思ったが、外気温はその日(2014年07月22日)多分30℃は優に越していて33℃くらいはあったろう。それに浅草の道路は、全て舗装されているから、実気温は、35℃以上であったに違いない!

上野駅へ歩くのはやっぱり止めて、来た通りを戻ることにした。
上野駅へ行かない時は、いつもこの通りを通って、銀座線・田原町の駅へ向かうのだが、これまで気付かなかった。
東本願寺の斜め前に、同じ浄土真宗系列で‘徳本寺’という名称のお寺がある。

まあ、この辺はお寺さんばかりだから、どんなお寺があっても不思議ではないのだが、以下の写真に示す‘看板’が気になった!

DSC_2356-2.jpg
DSC_2357-2.jpg
DSC_2358-2.jpg
DSC_2359-2.jpg

この画像から、東本願寺とは、もう‘向こう三軒両隣り’の中であることがよく判る。
そして、尚且つ上述の通り、同じ‘浄土真宗’。
こんなことが、やはりあるのだろうか?

興味の対象は、そんなことより、この徳本寺が、三河出身で、徳川家康の側近‘本多正信’の菩提寺であることである。本多正信は、やはり家康の側近‘本多忠勝’とは、遠い親戚筋にあたる。
実はこの家康の重鎮二人は、‘犬猿の仲’だったという。 何故??

名門‘本多家’の系列については、また後日このブログで・・・。

いやいや、本当の興味の対象は、最初の画像にある通り、「‘佐野善左衛門政言’が、殿中で刃傷に及んだ」という件りである!

同じ殿中での刃傷沙汰なのに、‘赤穂浪士の討ち入り’の‘扱い’とは大きく違う。
ただし、その刃傷の動機は、浅野内匠頭の場合よりも、この、‘佐野善左衛門政言’の方が数段‘崇高(?)’のように思われるのだが・・・。

どの時代にも、腹に据え兼ねる事態を勇気を持って糾そうとする御仁が現れる!
この大事件、もう少し調査をしてみたい!
殿中での刃傷沙汰は、これらの他にいくつあったのだろうか?

(つづく)
[2014/07/25 00:46] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
東本願寺へ(その2)
2014年07月22日、東京西浅草にある浄土真宗・本願寺派本山東本願寺へお参りに行った。もっと正確に言うと、その本願寺の境内にある‘浅草浄苑’という、今風のお墓形式の墓地に行ったのである。

‘今風の’というのは、極めて現代風で、こちらの‘暗証番号’か、若しくは‘契約者の氏名’で受付に申し込めば、いわゆる‘面会墓地=参拝の間’に指定の‘お骨箱’がパソコン操作で移動して来て、6つある参拝の間に安置される。そこへこちらが出向けば、ボタン一つで観音開きの扉が開いて、目出度く‘遺骨’と対面出来る、という訳である!

勿論、お花も飾ってあって、水も下から湧き上がって来る仕掛けとなっていて、焼香用にと電熱線が‘ON’になっているから‘あっという間に参拝出来る’という誠に結構な仕掛けになっている。

従って、‘昔風の墓参り’での、お盆の頃の暑さにも我慢して、水を汲んで来て墓石をたわしで磨いて水をかける、といった動作は無しだし、風に逆らってお線香に必死に火をつけるといった行動もする必要がない! 勿論、お墓の周りの茫々とした‘草刈’も‘樹木の剪定’も無しで、冷房の効いた部屋で手を合わせれば、‘一瞬にして’お参りは終了である!

段々歳をとってくると、上述のような昔風のお墓参りは大変しんどくなって来るから、そんな訳でも‘今風’がいい!
ただし、便利便利が本当にはいいのだろうか? 汗水流しながらのお墓磨きの方が‘心が籠った’供養が・・・だなんて、人間は勝手なものである!

DSC_2348-2_20140724134655b26.jpg
‘開きボタン’を押すと・・・

DSC_2339-2_201407241402293a0.jpg

DSC_2346-2.jpg

DSC_2342-2.jpg

DSC_2347-2.jpg

DSC_2341-2.jpg
お参りをした後、ロビーに戻って、‘棟方志功’の書簡と書を改めて見直したという訳である。

DSC_2352-2_20140723030656d6e.jpg

DSC_2350-2.jpg

このロビーの展示品は、往時の有名人の書や絵画がほとんどで、多分その月毎に替えられている。ほぼ月一にお参りに来るのだが、一度として同じものはない!
このご努力も大したものである。

清々しい気持ちになって、東本願寺を後にした。

(つづく)
[2014/07/24 14:25] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺へ
東京・西浅草の東本願寺の正式名称は、

http://www.honganji.or.jp/docs/about/history.shtml
本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。

だそうである。

昨日(2014年07月22日)、時間が出来たので、東京駅から地下鉄・丸ノ内線で、銀座まで行き、そこから銀座線で田原町へ・・。田原町からは、徒歩で約5分で‘東本願寺’に到着する。

DSC_2328-2.jpg
2014年07月22日12:53
DSC_2328-3.jpg
銀座線・田原町駅・3番出口

DSC_2329-2.jpg

DSC_2330-2.jpg
12:56 東本願寺が見えて来た!

DSC_2330-3.jpg
門前には、花が活けてある!

DSC_2331-2.jpg

DSC_2331-3.jpg

正門を入ると素晴らしい本堂である!

DSC_2332-2.jpg

DSC_2333-2.jpg
こちらは、‘浅草浄苑’があるビルである。

DSC_2334-2.jpg
12:58 お昼休みらしい。でも、これじゃあ・・・、と思っていたら、直ぐに受付嬢が出てきてくれた。受付を済ませて、エレべーターで4階の‘浅草浄苑’へ・・・。

DSC_2335-2.jpg
エレベーターの中。

DSC_2336-2.jpg
4階のロビー。この日のお参り人は、私だけ・・・。

DSC_2338-2.jpg
4階の窓lからは、‘スカイツリー(空樹)が見える。この日は湿度が多分80%以上!空樹がボケて見える。

<浄土真宗について>

私と浄土真宗との関係、と言ってもそれほど熱心な信者でもないから、強い結びつきといったものはない。
誰でも小学生の頃には、宗教を自ら自覚する能力はないから、実家が浄土真宗だったから、そうなったというだけである。
これは、キリスト教だって、仏教だって、イスラム教だって、それぞれの宗派に‘属す’事になるということと同じである!

ただ、大人になれば、宗教だけに限らず政治や経済についても良し悪しの判断がつくようになるから、‘自分の立場’について‘何故?’と考え出すようになる。

私が小学生の頃、何かのことで‘黙想’を一分間だけ行う場面になった時に、同じクラスの子で、「黙想をしてはいけない、と親に言われているので・・・」といって黙想を‘拒否’した子が居た。
この時が大袈裟に言えば、私にとって‘宗教に目覚めた瞬間’と言えるのかもしれない。

「へ~っ、そんなことがあるの?」と思ったからである。小学5年生の時だったと思う。

さて、親父の話では、親父は宗教についての関心が強かったようで、二十歳そこそこで、家出同様の覚悟で浄土真宗を学ぶために、浄土真宗(真宗大谷派)の宗教家・暁烏敏(あけがらすはや)が活動していた金沢へ行ったという。

その後の顛末は後日また記述する機会もあると思われるので・・・。

浄土真宗が、少々仏教のその他の‘宗旨’と異なるのは、親鸞自身には独立開宗の意思は無く、親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させた、という点にある。

従って、親鸞上人を以て浄土真宗の‘開祖’としてはならないものと思われる。
ご本人の意思に反するからである!
ただ単に‘南無阿弥陀仏’と念仏を唱えることのみ!

従って、‘自力で悟りを開く’という考えがないから、‘自力’ではなく徹底した‘他力’である!
これが、浄土真宗では、‘般若心経’を唱えないことになっている理由でもある。

(つづく)
[2014/07/23 23:46] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京浅草・東本願寺
宗教についての自分自身の確信を持っていない人達は、生まれた自分の家が‘その宗派’だったというたったそれだけで、「自分は‘00宗’です」と言う。

情けないと言えば、情けない話であるが、宗教上における己の主張をハッキリと出来ない場合、そうならざるを得ないのも事実であろう。

悲しいかな実際私の場合もそうである。

仏教か?キリスト教か?、はたまたイスラム教か?と問われると「仏教です!」と答えてしまうに違いない。

何しろ、生まれてきて物心がついて70年以上、宗教的儀式に参加する場合、その背景には‘仏教’が多かったから、自分自身を何気なく‘仏教徒’だろうなと思っている。

そして、自分の生まれた‘家’が、‘浄土真宗’だったから、小さい時から‘浄土真宗’の仏教徒だと思ってきた。

仏教の宗派については、元を糺せば、総元締めは‘御釈迦様’だろうから、そこから‘派生’した宗派はそれぞれ事情があるのだろうが、まぁいいじゃあないか!程度の認識である。

誠に恥ずかしいが、宗教が生活の中心でなければならない環境に無かったこともあって、宗教に関しての好奇心はこれまでその程度のものでしかなかった。

我々の両親のお墓を守って呉れているのは長男の兄なのだが、そのお墓は父が京都・東本願寺・‘東山浄苑’に永代管理を任せて設置していた。

view0001-2.jpg
http://honganjifoundation.org/jouen/facility/facility_annai/

それを東京浅草の東本願寺・‘浅草浄苑’にこの10月05日(明日)に移すという。

このようにすると言うことは前以て知らせが届いていた。

浅草は浅草寺以外には余り行ったことが無いので、その前日である今日下見に出かけてみた。丁度仕事の都合で神田での打ち合わせが早めに終わったからである。

地下鉄で三越前から銀座線に乗れば、乗り換えなしで行ける。銀座線の終点浅草駅の一つ手前の駅、田原町で下車して徒歩で5分のところにあるという。

DSC_0105-2.jpg
浄土真宗・東本願寺派 本山 東本願寺正門

DSC_0101-2.jpg
本堂

DSC_0102-2.jpg
慈光殿 この4階に‘浅草浄苑’がある。

浄土真宗の‘慣習’は、他の宗派と違うところが多い。

例えば、

① 般若心経を唱えない

② 不祝儀袋の表書きには、49日前であっても‘御霊前’とは書かず‘御仏前’と書く

などであるが、これは親鸞聖人の時代からそうだったのかどうか?

再調査して見たい!

(つづく)
[2013/10/04 23:27] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
京惠さんの習作佛画に‘賛’が入りました!
2013年09月07日のこのブログで、

佛画家の卵・京惠さんの習作を紹介した。

20130907150712c11_20130913222356a12.jpg

これが、9月7日までに出来上っていた習作である!

今日(9月13日)までに‘雅号’を除いて全部出来上ったのでカメラで撮影させて貰った!

比較して貰いたい。特に、賛を入れるのに苦労されたという。賛は、予告通り‘般若心経’である。

‘般若心経’は、お書きになった方はお解りだろうが、一字も間違いなく書き損じないように書き終えるのは極めて難しい!

画像ー176 319-2-2
賛が入ると、如何にも‘佛画’らしくなって来る!

画像ー176 318-4
賛の部分の拡大

画像ー176 318-7
頭部の拡大

今後は、雅号を入れて‘経師屋’さんへ持って行って表装して貰えば、‘作品’の出来上がりである!

この作品の展示会は、来年(2014年)の春に、多分東京・上野の「東京都実術館」で行なわれるという話だった。

(つづく)
[2013/09/13 23:36] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
延命十句観音経
「延命十句観音経」というたった‘42文字’のお経がある。

佛画には‘賛’と言うのあることはご承知の通りである。

‘賛’は普通佛画(佛画に限らず)を描いたご本人が書くものではない。誰にも頼めない場合、自分で‘賛’を書くのである。それを‘自画自賛’という!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%9B
絵画と賛[編集]

賛(さん)はまた画賛(がさん)ともいい、東洋画において、主に鑑賞者によって作品に書き加えられ、書作品また文芸作品として、もとの作品の一部とみなされる鑑賞文、賛辞絵画作者自らが賛を書くことを自画自賛という。


実はある人から「佛画を描いたので、‘賛’を是非!」とお願いされたのである。

hannya-shingyou1.jpg
http://www.miyajima-jp.com/column/post_77.html

通常は、‘賛’としてお経の文句を書くとしたら‘般若心経’と決まっている(?)のであるが、‘262文字’は字数が多過ぎる。もっと字数が少なくて経典の真髄が表現されている‘お経’はないのかと思っていたところ、

「延命十句観音経」

が良いということになった。

ennmei-2


さて、そもそも「お経」とは何か? 

‘お経’という言葉は知ってはいるが、‘何のために’までくらいは知っていても‘種類の数’や‘それぞれの内容’やそれらの‘歴史的意義’といわれると案外1%の人が知っているのだろうか?と言われるくらい知らないものである。

そして、ほとんど‘お経の文句’として使われる場合が圧倒的に多い!

何か判らないことをぐつぐついう人がいると「あの人‘お経の文句’みたいに判らないことをぐつぐつ言うのよ!」と表現される。

つまり‘お経の文句’とは、始めから‘判らないこと’の代表として使われている、と言うのが‘当たり前’の常識となってしまっているのである。

勿論、これは流布する側にも一部の責任があったのだろう。

兎に角「なんまいだ~!」とだけ唱えれば‘極楽浄土’へ行ける(?)というのだから、こんなに‘極く’‘楽な’方法はない! (註:なんまいだ~は「南無阿弥陀仏」のこと)

その‘深~い意味’や‘歴史的意義’等関係ないのである!

勿論、宗派によって‘唱えの文句’(この言い方も)は異なる。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106385960
お題目
南無妙法蓮華経・・・・日蓮宗、日蓮正宗、創価学会等日蓮系

念仏
南無阿弥陀仏・・・・・浄土宗、浄土真宗、真宗大谷派等々本願寺、浄土系

お経
般若心経・・・・・・・天台宗、真言宗、禅宗系等々


改めて、‘お経’とは?

http://www.janis.or.jp/~nkdseweb/users/sairyuta/tera/okyo.html
お経とは、仏教徒のための教えをを説いた「経典」のこと。キリスト教の「聖書」、イスラム教の「コーラン」に当たる。

言語 ・・・ 小乗仏教はパーリ語、大乗仏教はサンスクリット語。日本へは、中国から中国語で伝わる。そのため、漢字で 書かれている。
伝達 ・・・ インドの経典が、中国を経て、朝鮮から日本に伝得られた。
訳者 ・・・ 玄奘三蔵がインドより持ち帰り中国語に翻訳したのが有名。
作者 ・・・ 小乗仏教の経典は、釈迦入滅後十大弟子と500人の弟子により口伝されたものを、数百年後に文章化。

大乗仏教は、後世の仏教徒たちが、これが釈迦の真の教えであるとし、創作したもの。
種類 ・・・ 俗に八万四千といわれているが、正確には不明。

内容別 「教」・「律」・「論」の3種類。全部あわせて三蔵経とか大蔵経、又は、一切経という。
「教」 釈迦の教え。これが本来の意味の「お経」
「律」 僧が守るべき社会生活上の掟。
「論」 後世の仏教学者によるお経の内容の注釈。

教義別 「小乗仏教」 小乗経典(釈迦が弟子達に説いた教え)
「大乗仏教」 大乗経典(釈迦の教えを信者達に説くための経典) --- 般若心経等がこれに当たる。
「密教」 密教経典(密教の奥儀を説く。基本的には大乗経典に属す)

その他
浄土三部経

「仏説無量寿経」二巻、 「仏説観無量寿経」一巻、 「仏説阿弥陀経」一巻の 計三典の総称。
浄土教の根本聖典。


ということは、‘延命十句観音経’は、大乗経典を‘般若心経’よりももっと簡単にしたもの(この解釈正しい?)だから、この‘42文字’の中に‘コンデンス’されている。

その‘上’を行くのが‘なんまいだ~!’といえないこともないが‘なんまいだ~!’は‘南無阿弥陀仏!’だから‘阿弥陀様’に帰依します、と言う事だけで大乗経典のコンデンスではない!

般若心経:262文字(最後の‘般若心経’の4文字を除いた字数)

延命十句観音経:42文字

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5
%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C

『十句観音経』(じっくかんのんぎょう)は、仏教経典の一。別名を『延命十句観音経』(えんめい―)とも言うが、「延命」の二字を付け加えたのは江戸時代の臨済宗中興の祖といわれる白隠である(後述)。
大乗経典の観音経系経典に属し、わずか42文字の最も短い経典として知られる偽経だが、古来ただ何度も唱えるだけでご利益を得られるとされており、人気が高い。(註:偽経については別途)

観世音。南無仏。 (観世音菩薩に帰依します)
与仏有因。与仏有縁。 (我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながっています)
仏法相縁[1]。常楽我浄。 (仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽しく過ごせます)
朝念観世音。暮念観世音。 (朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます)
念念従心起。念念不離心。 (この念は仏心から起こり、また心を離れません)


日本[編集]

日本では、霊元天皇が最も霊験あらたかな経典を霊空和尚に探させた結果、これに行き着いたという伝説がある。しかしこの伝説は江戸時代に白隠が『延命十句観音経霊験記』に述べている以外に裏づけがないようである。白隠は上記の他いくつかの伝説を採り上げ、偽経といえどもこれだけ霊験があるのだからと、人々に唱えることを推奨し、『延命十句観音経霊験記』をあらわしたため普及した。現在も白隠の再興した臨済宗を中心に、日常の読経や写経などに用いられている。
また、本来の「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」は、短い偈文(世尊偈)部分のみでも500字を越える長大な経典であり日常の読経としては長すぎるため、代用として十句観音経を読むことも行われており、鎌田茂雄などの禅僧がそれを薦めている。

エピソード[編集]

1966年、第1次佐藤第3次改造内閣の坊秀男厚生大臣は、国会において自身の弾劾演説を受けている最中、精神を落ち着かせるために手帳に懸命に十句観音経を写経していた。このことが禅僧の松原泰道の眼に留まり、松原は後にこれを著書で取り上げた。松原の著書の推薦文は坊が書いている。


と言う訳で、佛画に‘賛’を書く破目(?)になった!

何十枚も練習をしての‘習作’が上記の文字である!

そして、これが佛画に‘賛’として書かれた際にはまたこのブログで・・・。

(つづく)

[2013/06/29 23:50] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘分骨’について
私も母を亡くした時、‘分骨’について悩んだ覚えがある。そう、もう40数年も前のことである。

自分の親なんだから、そんなことって許される、という非常識な考えであった。もっと言えば、御釈迦様だって‘仏舎利塔’に‘分骨’しておられるのに、宗教的に何が不都合なのだろうか?とさえ思っていたようだった。

img230_P1000034_convert_20130521145405-2.jpg
http://www.fujistardust.jp/blog/log/eid396.html
御殿場プレミアムアウトレットに向かう途中に箱根側の山に見える謎の白い塔が仏舎利塔です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%A1%94
仏舎利塔(ぶっしゃりとう)とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるとされる仏塔。一般に仏塔の原型であるインドの「ストゥーパ」[1]の様式をそのまま模して建てられた仏教建築物である。
ドーム状の構造物の上に相輪をもつ。日本では近代になって建てられたものも多い。また本来の舎利を祀るだけでなく、太平洋戦争でなくなった英霊を祀る仏舎利塔もある。


そろそろ、自分自身の問題として‘分骨’ということが現実的になって来ると知識不足が不安になって来る。本当に老後(今でも既にそうなのだが・・)は、どうする?ということが現実のものとなりつつある。でも、まだ現役の積りであるから、これから新しい会社の創設に参加させて貰って、あのプロジェクトもこのプロジェクトもやりたいと思っている。事と次第によっては、海外へ単身赴任でも、という気さえある!

でも結構足にも負担をかけると若い時と同じにはいかない。先日も慣れない皮靴で都内を2時間以上歩いたら少々足の調子がおかしくなって、回復するのに3日も掛かってしまった!

さて、‘分骨’について調べてみると次のような文献が見つかった。

http://ohaka.nomaki.jp/ohakaotherhbunnkotu.html
分骨とは

一.分骨とは

  分骨とは、何らかの理由により遺骨の一部を分けること(分ける理由は後述)を言います。
 分骨する際には、以下の三つの場合が考えられます。

A.お墓に既に納骨されている遺骨を分骨する場合
 
 お墓に既に納骨されている遺骨を分骨するには、お墓を建ててある墓地,霊園の管理者(又は会社)に分骨の意思があることを伝えます。墓地,霊園の管理者からの同意を得て、手続きを済ませます。お墓のある墓地,霊園が公営または民営だった場合は寺院のご住職にお布施を包みます。
 この場合の手続きは基本的には改葬と同じ手順です。

B.火葬後、すぐに遺骨を分骨する場合

 火葬後、すぐに遺骨を分骨する場合には、前もって火葬場にその意思を伝えておきます。そして、葬儀社に分骨用の骨壷の用意を依頼しておき、骨上げの際にその分骨用の骨壷に遺骨を移すように致します。
C.お墓に納骨する際に遺骨を分骨する場合
 お墓に納骨する前に分骨を行う場合は前もって墓地,霊園の管理者にその意思を伝えておく必要があります。それは納骨の際にお墓を建立した墓石・石材店が遺骨をお墓に移す場合があり(素人ではちょっと無理なことがある)、そのことを墓石・石材店にも伝えるからです。分骨用の骨壷を墓石・石材店へお願いするように墓地,霊園の管理者に伝えておいた方がよいと思います。
 納骨法要の読経が終わった際に遺骨を分けるようにして、分骨を行います。

二.分骨が必要なとき

 分骨が必要なときというのは実際にどういうときでしょうか。少し考えてみましょう。
 
A.お墓が遠くにあり、改葬を考えているが……
 
 お墓が遠くにあり、お墓の面倒をみるのが難しいから改葬をかんがえている。しかし、そのお墓の近くにも一応面倒を見てくれる親類がいて、その方は改葬に反対している場合があります。
 反対する親類からすると遺骨が故郷から離れるというのはかわいそう というところでしょうか。その際に分骨を相談してみるといいと思います。しかし、分骨した後に新たにお墓を建立するとなると経済的な負担もあるので、よく考えて、ご家族や親戚と相談なさる必要があると思います。
 
B.とても大切な人だったから……離れたくなくて

 分骨する理由としてはこれが多いような気がします。とても大切な人だったために離れたくないということで手元で供養したい。でも、きちんとお墓にも入れてあげたいということで分骨をされる方もいらっしゃるようです。最近では遺骨を入れられるペンダントなどが販売されていたりしますので、分骨すればいつでも、肌身離さずに持ち歩けるという時代になりました。
少し余談ですが、ペットを亡くした場合に、そのペットの遺骨を肌身離さずいれるためにそういったアクセサリーなどを購入する方が増えているようです。
 
C.散骨・樹木葬などをするために
 
 分骨して散骨や樹木葬、または遺骨をダイヤモンドにする供養の仕方を選ぶ方も増えてきています。亡くなった方の希望で散骨や樹木葬をしてほしいといった場合に前述のBの場合と同じくお墓にも入れてあげて、分骨した遺骨を散骨や樹木葬などにすることもあるようです。

三.分骨をするにことにあたって注意したいこと

 分骨する理由はそれぞれの遺族で様々な理由があると思います。そこで分骨の際に注意しておいた方が良い点を記載してみました。
分骨する際は必ず、他の家族や親族とも話をする
既にお墓に納骨を済ませている場合はそのお墓のある墓地,霊園の   管理者に分骨の意思を伝える
火葬後に納骨する際は、事前に火葬場へその旨を伝えておく
納骨の際に分骨をするなら、事前にご住職や墓石・石材店に   その旨伝えておく
墓地,霊園の管理者や寺院から分骨証明書を取得する   (分骨して改葬する場合に必要)
分骨した場合の使用許可証に氏名が記載されない場合があるので、   事前に確認しておく必要がある
 ご遺族間でそれぞれの倫理感や宗教観念があるとおもいますので、よく話し合って、分骨される必要があります。また、分骨した遺骨の改葬や散骨,樹木葬をする場合には許可証などの書類が必要になります ので、事前に業者などに確認をしてください。
 
四.分骨……補足

 分骨をする理由もそれぞれありましたね。本当はもっとあるはずです。その分骨をする際に相談があったことを2例ほどまとめておきました。
 
A.分骨して手元供養にしたけれど
  
   分骨して手元供養を希望された方で時々いらっしゃるようですが……。時が経つにつれて、分骨した遺骨がホコリをかぶるようになった……。または、分骨した遺骨がどこにいったかわからなくなった。

  こういうことはないようにしたいですね。

B.遺骨の所有権
 
  配偶者の遺骨を新しいお墓に移したいが、配偶者の両親に反対されている。この場合はどっちが遺骨の所有者になるのか。
  これも骨肉の争いでしょうか。裁判までいくこともあるようで、最近の判例では配偶者の方に遺骨の所有者である権限があるようです。しかし、配偶者の方に遺骨を所有する権限があるというだけで、倫理感や宗教観によりその遺骨の供養の仕方というのは遺族の気持ちを考えた上で遺骨を供養しなければ、争いごとになってしまうことが多いので注意しましょう。
 分骨の補足に関しては言われないでもわかっているという方が殆どのことでしょう。ただ、実際にこういうこともあるんだなぁっと気をつけようと思っていただけると幸いです。


c-1image.jpg
http://memoria-areca.net/crown_C-2

私の場合もそうであったが、個人が個人として‘分骨’を考える場合、亡き人を永遠にとまではいかずともなるべくなら出来る限りの時間、自分の傍(仏壇)に置いておきたいという‘欲求’から来ている。次の‘Q&A’も正にその通り個人的‘欲求’に対して、次のような回答がある!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1447260554
Q:分骨したお骨は、自宅の仏壇に置いておいてもいいのですか?

納骨時に、遠方にいる妹に分骨して供養してをもらいたいと考えています。自宅にも妹と同様に小さい骨壷に納めたお骨を置いておきたいと思っています。仏壇に置いておいても差し支えないでしょうか?

A(1):お釈迦様も各地に分骨していますので仏教上は分骨は問題ありません。

ただ、注意点として、
①法律上は勝手に分骨しますと、どこにも納骨できない遺骨になってしまいますので納骨時に、その墓地の管理者(寺院等)から「分骨証明書」を取得し、その証明書と共に保管する必要があります。
②分骨をいつまでも自宅に置いておくとして、自己も妹さんも歳をとりますのでそのままでは次の代のお子さんたちが困ることになるかもしれませんし、お孫さんの代まで、曾孫さんの代までそのままだったらもう誰のご遺骨だかも、なぜ家に分骨があるのかもわからなくなってしまう可能性があり、子孫に迷惑をかけかねません。したがって、ご自宅仏壇への分骨の安置はある程度の期限を区切るべきでしょう。

A(2):お釈迦様を引き合いに出す回答は的を得ておりません。

お釈迦様と貴方とは全く違います。

お釈迦様亡き後を、お祀りをする目的で10の遺骨を別けて立てたのが『スツーパ』です。

お釈迦様がお骨を別けたのではなくて、残された弟子や国王がお祀りをし供養をする為に祀った仏塔を建てているのです。

であるならば、貴方も仏塔を立てて遺骨を迎えて祀るべきです。

分骨は絶対に行なうべきではありません。

なぜ、兄と妹に分離させる必要が有るのでしょうか?。
妹とは兄妹でありましたが、妹は嫁いで生活が別にスタートをしています。
そこへ貴方の遺骨を置いてどうなるのですか?。
子孫に迷惑を及ぼす始末を作ってはなりません。

遺骨を仏壇と言う器に何時までも曝し続けるのではなくて、一刻も早く土へ還して、溶けて行き無に成る願いこそ、遺恨を残さずに完全に仏の世界へ往生した姿となります。

遺骨を兄妹間で分け合ってはなりません。
誤解をしないで下さい、

分骨とは、
本山へ一部を別けて納める事で、宗祖や開祖様と一緒の御廟へ納まる宗門としての喜び有る教義です。



なるほど、成程。仏壇という‘狭い’器に閉じ込めてはならぬ!一刻も早く土へ還して、溶けて行き無に成る願いこそ往生である!

このご指摘には感服した!

ところで、‘骨壷’に入れた‘焼骨’はその後一体どうなるのだろうか?

IMGP28378.jpg
http://wan-nyan-memory.ocnk.net/product/844

これまで、余り考えたことが無かったので、一寸調べる気になって来た。当然骨はカルシウムが主成分だから保存状態が良ければ、そのまま残る。これは化石が証明している。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3142879.html
Q:お骨が水になるというのは本当ですか?

以前、お墓に埋葬された骨は水になると聞いた事があります。
フと気になって調べてみたのですが、なるという話と、ならないという話の両方があり、いまいち判りません。
恐竜の骨や原始人の骨が残っているあたり、状態にもよると思うのですが、骨というものは放っておいたら最終的に何になるものなのでしょうか。溶けると土になるのでしょうか。
ご存知の方いらっしゃいましたらお願いします。

A(1):化学的にはなりません。

骨の主成分はアミノ酸やカルシウム化合物です。
アミノ酸部分は、主に、微生物に分解され二酸化炭素やアンモニア、そして、水に分解されます。カルシウム部分も風化により流れてしまったり、微生物などに処理されたりします。
なので、宗派によって違いますが、土に直接、お骨を撒くかたちの、埋葬ですと、何十年もたつと、跡形なく消えてしまいますし、骨壷に入れたお骨は微生物に接触しにくいので、何百年も残っています
骨は、最終的には、二酸化炭素をはじめとするガス、土の中の肥料成分、水になると思われたら良いでしょう。そのなかで、運の良かったものだけが分解されず、カルシウム分などが残留したり、他の成分がしみこんだりして、後々まで残ると思われたら良いかと思います。

A(2):骨が水に変化することはありませんが、中医学(漢方医学)では骨は腎に属します、腎は水に属します。
それから骨壷の中の水の話ですが、骨が変化したのではなく、骨壷の周囲の環境によって、たとえば温度差と湿度の関係で、骨壷内の水滴が溜まって出来たものと思います。
この二つの考え方が一緒になって、水に変化すると考えてしまったものと思いますが。


(つづく)


[2013/05/21 16:14] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘拝み墓’
このブログでも紹介したが、千葉県・東金市の最福寺境内にある‘切られ与三郎’のお墓は、‘拝み墓’であるという。<註:‘詣り墓’とも>

2013051216170000-2.jpg
2013年05月12日(携帯で撮影)千葉県・東金市の最福寺境内にある‘切られ与三郎’の墓

右が、四代目・芳村伊三郎(切られ与三郎のモデル)の‘拝み墓’( →‘詣り墓’)で、左が五代目・芳村伊三郎の‘埋め墓’という。

http://www1.odn.ne.jp/saifukuji/index1.htm
5代目伊三郎は、東金の岩崎の秋山嘉吉さん方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言で、葬儀も当寺で営み、過去帳にも残っております。東金のお祭りのおはやしは、この5代目の長唄の影響を受けた珍しいリズムです。
お墓は当初30メートル先にありましたが戦前、秋の豪雨で崩れました。戦後歌舞伎役者、当市有志のきもいりで、この地点に新しく建てかえられたものです。


‘拝み墓’、‘詣り墓’などは、初めて聞く‘熟語’である!因みに、これらの‘対義語’は、上記の通り、‘埋め墓’だという。

ただし、この‘拝み墓’と聞くと、「あ~、なるほどネ!」と正確な意味は判り兼ねても納得がいく。というのは、同じ人のお墓が幾つもあったりして「どうして?」と思っていたからである。

ど素人なりにただ漠然と想像していたのは、‘分骨’してあるのかな?ということだったが、現在の法律では‘分骨’には或る手続きが必要である。‘分骨証明書’という正式書類の発行が無ければ分骨は出来ないということになっている。

当然のことであるが、‘拝み墓’には、分骨もされている訳ではないので、‘遺体や骨’はない!

さて、話を江戸時代のお富さん・切られの与三郎の時代に戻す。

日本で‘火葬’が始まったのは仏教の伝来とともにという事のようである。しかし、江戸時代の儒教思想から考えると、身体を傷つけるのは大きな罪であった他、‘火葬’には費用がかかるため、当時は‘土葬’が一般的だったという。従って、‘分骨’ということは元々存在しないのである。

400px-Cremation.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC
江戸時代の火葬、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC
日本における火葬 [編集]

歴史 [編集]

日本における火葬は仏教と共に伝わったという説が有力とされている[注 1]。

『続日本紀』によると、日本で最初に火葬された人は僧道昭であり、文武天皇4年(700年)のことであるとされる。また天皇で最初に火葬されたのは持統天皇(702年)である。8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士も火葬が広まった[1]。

ただし、近年ではそれに先行して火葬が行なわれていた可能性も強く指摘されている[1]。古墳の様式のひとつに「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められる。それらは6世紀後半から出現しており、研究が進めば日本における火葬史は100年以上遡ると考えられる。

一方、土葬も廃れていたわけではなく、日本では火葬が広まった後も、土葬が広く用いられていた。仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも棺桶を使った土葬であった。儒教の価値観では、身体を傷つけるのは大きな罪であった他、火葬は燃料代がかかり葬地の確保が難しくなる明治になるまで、土葬の方が安上がりだったためとの説がある。遺体という大量の水分を含んだ物質を焼骨に変えるには、大量の薪と、効率よく焼くための技術が求められる。そのため、火葬は費用がかかる葬儀様式であった[1]。一部には鳥葬に代表される曝葬の習慣もあった[要出典]。

近代に入ると、明治政府は明治6年(1873年)に神道による挙国一致を目指した神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告したが、仏教徒からの反発や衛生面の理由から明治8年(1875年)には禁止令を廃止している。その後火葬技術が進歩したこともあり、近現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率である。

一方、明治以降も、天皇、皇族は長年に渡って土葬となっていたが、2012年4月、宮内庁は今上天皇が崩御の際は火葬を希望するとの意向を発表した[2]。


切られ与三郎のように二つの墓を作ることを‘両墓制’というらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E3%82%8A%E5%A2%93
両墓制とは遺体を埋葬する墓地と詣いるための墓地を一つずつ作る葬制のことである。つまり一個人に対し二つの墓を作ることから両墓制と呼ばれる。遺体の埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(まいりはか、祭地)と言う。基本的に一般民衆の墓を対象にし、その成立、展開は近世期以降である。両墓制は土葬を基本とし、遺体処理の方法がほとんど火葬に切り替わった現在では、すでに行われなくなった習俗と言ってよい。しかし、両墓制墓地自体は現在も各地に残っている。 葬送習俗、祭祀習俗とあわせて各地に様々な特色があり、特に近畿地方に濃厚に存在している。その特徴的な墓制は、大正期より複数の報告がなされたが、民俗学者の柳田國男が昭和4年(1929年)に「墓制の沿革に就いて」(『人類学雑誌』500号)で両墓制を取り上げて以来、両墓制の諸問題は民俗学の担当分野となった。 ただ、柳田はこの習俗に関しては「葬地」と「祭地」といった呼び方[1]をし、「両墓制」という言葉自体は柳田の下で山村調査にあたった民俗学者の大間知篤三が使い始めた語[2]である。

両墓制の習俗 [編集]

両墓制は必ずしも一定の決まりを持った習俗ではなく、各地で様々な特色がある。ただ、大きく捉えると両墓制の特徴は「埋め墓」という遺体埋葬地と「詣り墓」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在していることにある。

埋め墓 [編集]

遺体を埋める埋葬地。多くは土葬を基本とするが、稀に火葬や改葬を伴うものも見られる。人里離れた山林などが多く、墓標をまったく建てずに埋葬する場合、自然木、石、木製角柱墓標、卒塔婆を墓標に用いる場合、あるいは詣り墓と同じように石塔を建てる場合など様々なパターンがある。集落ごとの共同墓地であることが多く、その埋葬地は家や年齢などによって区画分けされる場合もあれば、まったく決まりが無く空いた土地に埋めたり、古い墓地を掘り起こして追葬する場合など様々である。 埋め墓に参る期間も、埋葬後は一切埋め墓に参らない場合から、四十九日、一周忌、さらには五年、七年と言う長い期間を経て弔い上げをする場合など様々である。いずれにせよ、弔い上げの終了後は詣り墓へ墓参をするようになる。また、埋め墓の土を詣り墓へ盛っていく風習も少なからず存在する。 埋め墓の呼称としては様々なものがあるが、多い事例としてはミハカ、サンマイ(三昧)、ボチ(墓地)、ヒキバカなどがある(これらの呼称が詣り墓の呼称と逆の場合もある)。

詣り墓 [編集]

定期的な墓参や先祖供養、盆などに参るための墓である。通常、石塔を建てる。遺体はない。寺院の境内に存在する場合も多く、石塔は五輪塔、多宝塔、宝篋印塔のような仏塔から一般的な角塔墓、笠塔婆など様々である。遺体埋葬の必要がないので、石塔だけが緊密に並べられることが多い。
詣り墓の呼称としては、ラントウバ(卵塔場)、ラントウ、タッチョウバ、サンマイなどがある。

隣接両墓 [編集]

両墓制の基本は埋め墓と詣り墓が距離を隔てていることにあるが、全国の例では二つの墓がかなり近い位置にある場合が多く見受けられる。これは埋め墓と詣り墓が道一つ挟んで並び合っている場合や、詣り墓が小高い壇上にあり、その下の平場に埋め墓がある場合、あるいは完全に同じ土地に埋め墓の区画と詣り墓の区画が隣接している場合がある。このような隣接両墓は、通常の単墓制との区別が曖昧である。

発生要因 [編集]

両墓制がなぜ発生したのかということに関しては、不明な点が多くはっきりしない。代表的な意見としては死穢の観念や遺体恐怖から遺体埋葬地を人里離れた場所に作り、人の住む場所の近くや寺院境内に死者供養のための石塔墓地を別に作ったというもの、現実に土葬習慣における腐敗した遺体の臭気を避けるために埋葬地を別にしたとも考えられる。柳田は、埋め墓において個人の埋めた場所が曖昧であったり、わからないといった例を用いて、死穢や魂の問題から埋め墓を墓として認識しておらず、詣り墓こそが本来の墓であると考えた。また、改葬、風葬習慣から両墓制が発生したとした。また大間知は死穢を畏れる古い習慣がもともと存在し、同時に死者供養のための石塔を受容して両墓制は発生したとした。 柳田らの考え方では、祖霊信仰に基づいて日本固有の古い習俗として位置づけるものがあったが、一方で庶民の墓に石塔を墓標として建てる習慣が中世末より近世期に一般的になったことや、両墓制が近畿地方にのみ濃密で、他の地域では極端に例が少なくなることを踏まえて、両墓制はそれほど古い習俗ではないという考え方もある。



(つづく)次回は、‘分骨’について
[2013/05/21 02:25] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘松の内’と成就山・蓮福寺
お正月の‘松の内’の期間が何時までかについては、諸説があるらしい。

http://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E3%81%AE%E5%86%85
世界大百科事典 第2版の解説

まつのうち【松の内】

正月の松飾をしておく期間内のこと。門松や年棚の松は年神の依代(よりしろ)と考えられるから,松飾のある間は正月の年神祭が続いていると理解することができる。その期間は土地によって必ずしも一定せず,元旦から3日まで,あるいは7日,15日前後までとする所などがあるが,一般に松の内は短くなる傾向にある。しかし,4日朝の僧侶による寺年始までには門松をとってしまうべきだとする所でも,屋内の神棚の松飾や注連(しめ)飾をはずすのはそれより後だとする所が少なくないし,また3日など比較的早い時期に門松をとる所では,その穴の跡に門松の芯の小枝をとって少し挿しておく所が珍しくないことから,3日などではなく,7日もしくはそれよりも長い期間が本来の松の内ではなかったかと思われる。


そんな訳で、2013年01月13日、修理に出して久し振りに戻ってきた‘デジカメ’を携えて、三が日にお参りに行かなかった 蓮福寺 へ行ってみることにした。実は、蓮福寺に行きたいと思った理由はもう一つあった。

画像ー73 064-2
成就山・蓮福寺

千葉県茂原市千沢の或るポイントから‘富士山が見える!’という大発見をされたご夫婦のお陰で、このところ外に出ると「今日の富士山は?」と気になりだしたのである。

千沢から見える富士山は、8合目から上がやっと見える程度だから、本来の‘富士山の美しい姿’を茂原市から見るには、8合目以下を隠すように立ちはだかっている前景の向うに行ってみたら?と前からそう思っていたのである。

成就山・蓮福寺自身は、そんな高台にある訳ではないが、その背景にもなっている‘本納城址’は少なくとも‘100m’位の高台 にあり、多分上手くすれば‘本納城址’のどこからか富士山が見える可能性もない訳ではないと想っていたからである。

日本千葉県茂原市本納3101 蓮福寺 - Google マップ-30001-2
Google 地図:千葉県茂原市本納蓮福寺は、房総半島の赤丸・Aのこの地点である。

日本千葉県茂原市本納3101 蓮福寺 - Google マップ0001-2
Google 地図:蓮福寺の鉄道最寄り駅は、JR外房線・本納(ほんのう)駅である。( 本納は、‘ローマ字’で書くと`HONNOH’であるから、左から読んでも右から読んでも‘HONNOH'!)

千葉県茂原市本納3101 蓮福寺 - Google マップ-40001-2
Google 地図:千葉県茂原市本納

この中央が蓮福寺。その背景を構成している‘高台’が、‘本納城址’である。

千葉県茂原市本納蓮福寺0001-2
Google 航空写真:蓮福寺と本納城址

千葉県茂原市本納蓮福寺pdf-20001-2
Google 航空写真:本納城址

ここからなら、ひょっとすると‘裾野もある程度見える富士山’を拝むことが出来るかもしれないと思った、という訳である。

そんな訳で、先ず蓮福寺の裏に回って‘本納城址’へ向かった。蓮福寺へのお参りは、本納城址から降りて来てからにすることにした。

画像ー73 057-2
蓮福寺の境内を抜けて、それから先はキツイ登りである。それでも富士山が・・、という気持ちで少しも休まずに登った。結構ハードな坂道だったので、着ていたジャンバーもその下の上着も脱いだほどだった。

画像ー73 039-2
16:20 本納城址の石碑が建っている。直ぐに西側の断崖まで近づいて行ったが、残念ながら前面にもう一つ小高い丘があって富士山はこの本納城址からは見えない! でもまあ、楽しみは後日に残しておいた方が・・。今日これからもう少し西へ前進する気力はもう残っていなかったし、そろそろ16時半にもなろうかという時刻でもあったので、今日富士山を見ることは諦めた。

さて、この碑の裏面は? そして、本納城と蓮福寺との関係は?

画像ー73 040-2-2
極めて読みづらいが、多分、蓮福寺の入り口にある次の写真の内容と同じことが書かれているに違いない。

画像ー73 081-2
天正18年(1590年)に廃城となったというから、秀吉が刀狩りをした1588年から2年後ということになる。今から400数十年も前の事であり、それにしてはよく保存されている!

画像ー73 041-2
2013年01月13日16:21 房総半島太平洋・白子方面(東側)である。地平線近くに‘黒煙’が見える!
こりゃあ、ひょっとすると、先日と同じ‘火事騒ぎ!’?

望遠で撮ってみたのが以下の写真である。

画像ー73 043-2
更に拡大して見ると・・・、

画像ー73 043-2-2
先般の火事と比べれば、‘規模が小さい’! 多分火事ではないだろう。だいいち消防車のサイレンも聞こえない。
(14日の讀賣新聞朝刊千葉地域版には火事の記事は無かった)

画像ー73 046-2
石碑のそばにも桜がある。

画像ー73 047-2
この城址には桜の木が沢山あって、遮るものがないから日光に当たる時間も多いに違いない。桜のつぼみがもう膨らんでいる。

画像ー73 050-2
望遠で・・・。

画像ー73 050-3
更に拡大すると、つぼみが膨らんでいるのが判る。流石に房総半島である!

帰りに蓮福寺にもお参りせねばならないから、城址には10分程居て下ることにした。今度は少し楽である。

画像ー73 056-2
前出の‘Google の航空写真’にも見られるように、お墓が沢山ある。まだ空きが沢山あるという。

画像ー73 058-2
大伽藍が見えて来た。

画像ー73 060-2
この境内で一番素晴らしいと想われる‘永代供養’のお墓である。

画像ー73 062-3-2
このお墓に書かれた文字が実に素晴らしい!「無垢清浄光」とある。

画像ー73 063-2
ここに何故このお墓が‘永代供養’とされたかの由来が記されている。本納の経済発展にご尽力のあった「いせげん」という屋号で商店を営まれた‘秋山家’のお墓という。素晴らしいお墓である。

画像ー73 066-2
この鐘楼堂も時代ものである。

画像ー73 070-2
ここから‘参道と総門’が見える。この長さも見事である。およそ120m。

画像ー73 072-2
本殿と灯篭。本殿も修復が終わった直後のように見受けれられ、灯篭は建て替えられたばかりのようで、何だか出来たての寺院のように思われる。

画像ー73 077-2
階段を下りて参道を歩いて振り返ってみると本殿の位置が高いことが判る。

画像ー73 079-2
この大公孫樹(おおいちょう)は、樹齢420年という。

画像ー73 080-2
樹齢420年という事は、本納城が廃城になった頃に植えられたという事になる。その経緯は次の引用資料に。

http://www4.ocn.ne.jp/~renpuku/
蓮福寺由緒沿革

当山は顕本法華宗総本山妙満寺に属し、昔の上総10ヵ寺の1つである。寺伝によると土気城主酒井胤治により天正年間に創建され、日遊上人の開山と伝えられる。土気城方が本納城を攻略し、城主黒熊大膳亮景吉をはじめ多くの城兵の菩提を弔う為に当寺が建立されたという。
 蓮福寺の前身は詳細は不明だが、鎌倉本興寺棟札に確認できる本納寺と称されていた、日什門流の寺だと思われる。
 江戸時には幕府より御朱印領二十九石を預かり、本堂、鐘楼堂、総門、客殿、方丈以外に理円坊、常光坊、本光坊、本妙坊、実相坊、法性坊、守玄坊、蓮成坊、顕理坊、蓮如坊の十坊があったが、現在は本堂、総門、客殿、庫裏、宝物殿、鐘楼堂を護持している。
 顕本法華宗の教えは、釈尊より、日蓮聖人に受け継がれた正しい教えをそのまま素直に受け継ぐことである。これを「経巻相承、直受法水」という。

  
画像ー73 075-2
蓮見池。残念ながら‘臥竜の松’はない。420年の老松も見たかったが・・・。

画像ー73 082-2
その代わり、‘真っ赤な鯉’が泳いでいる。

画像ー73 084-2
もう少し近づいてみると・・・、

画像ー73 085-2
こんな鮮やかな‘真っ赤な鯉’は今迄にお目に掛かったことがない!

画像ー73 089-2
池のそばの何と言う木かは知らないが、その根元の‘苔’もまた素晴らしい!

画像ー73 092-2
これが総門である。内側から見たところ。

画像ー73 093-2
この屋根の‘突っ先’の付近に何だか意味のある‘瓦’が鎮座している。望遠で拡大して見ると・・・、

画像ー73 094-3-2
‘椿’の花を模った瓦の上に、何となく気品のある‘人形?’らしきものが乗っているように見えるが、果たして、これって、何?

画像ー73 095-2
これは総門を外から見たところである。

画像ー73 095-3
‘成就山’とある。何を成就しようとの願いなのだろうか?

画像ー73 096-2
城主及び戦士を弔うためのお寺だというから‘蓮福寺’という命名は判り易い。

画像ー73 099-2
16:47 総門を出て、本納駅方面へ。

成就山・蓮福寺を後にしたのは、冬至から少しずつ日没が伸び始めた16:50であった。本納村を中心に近隣を支配していた城主の本納城が戦いに敗れ、その供養のために建てられたというこの寺院、420年の歴史が脈々と受け継がれている。

僅か45分間ばかりだったが、茂原市の歴史の一部を覗かせて貰った気がした。

(つづく)







[2013/01/15 23:55] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その5)
数日前から、‘クリスマス’関連で、小さい時から疑問だった以下の10項目について色々調査をした。その結果、普段そう思っていたことが、ほとんど間違っていることが判ったし、どうやら‘常識のウソ’が本当らしいナ、と思われてきた。昨日までに、以下の10項目の①~⑦までは、何らかの‘正解’に辿りつくことが出来た。

その情報は、このブログの昨日までのところを見て戴きたい。

さて、そんな訳で、残りの疑問は、あと3つである。

①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?

②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか?

③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か?

④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? 

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?

⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?

⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か?


xmas_001.jpg
http://plaza.rakuten.co.jp/mari24/diary/200811040001/

⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%
AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

昭和(戦前) [編集]

1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御し、昭和時代が幕を開けた。戦前の休日法は当初から先帝祭を休日に定めていたため、1927年(昭和2年)3月4日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正され、大正天皇祭(12月25日)が設定された。 

クリスマスの習慣は休日だったこの時代に広く普及したとされている。

1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた[20]。
昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えた。この様子を1931年(昭和6年)12月12日の都新聞は、「七千四百余のカフェと二千五百余の喫茶店に華やかにクリスマスが訪れサンタ爺さん大多忙を来たす」と報じた。

昭和(戦後)・平成 [編集]

1948年(昭和23年)7月20日に「国民の祝日に関する法律」が施行され、大正天皇祭は休日から外されてしまったが、以降もクリスマスは年中行事として定着し、行事も盛大に行われるようになった。


上記引用資料によると、

‘クリスマス’であることを以って、‘国民の休日’としたのではなくて、大正天皇が崩御されたのが、大正15年12月25日であって、当時の休日法によれば、その日を‘大正天皇祭’として休日にしたために、クリスマスが‘偶々’休日になったという訳である。

言ってみれば、日本にクリスマスの‘行事や習慣・風習’が流行ったのは、大正天皇のお陰である、とも言えないことは無い。


⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%
AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

語源と表記 [編集]

日本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas(キリスト)の mass(ミサ)」に由来し、語史的には中英語 Cristemasse < 古英語 Crīstes mæsse(初出 1038年)[8][9] に遡る。日本語では他に、「降誕祭」、「聖誕祭」、「聖夜」などの呼び方がある。「クリスマス」にあたるドイツ語は「Weihnachten(ヴァイナハテン)」、フランス語は「Noël(ノエル)」、スペイン語は「Navidad(ナビダー)」、ラテン語は「Christi Natalis(クリスティ・ナタリス)」であるが、語源は必ずしも同じではない。ギリシア語では「Χριστούγεννα(クリストゥ・ゲナ)」と言い、「キリストの誕生」を意味する(γέννα:誕生)。

英語「Christmas」は、ややくだけた略記として「Xmas」または「X-mas」があり、英語圏のスタイルガイドでは推奨されていないものの[10]、印刷物によく見られる。これはギリシア語「Χριστος (Christos)」の頭文字である「Χ(カイ、キー)、またはそれと形が同じラテン文字「X(エックス)」を Christ の省略形として用いたもので、古くは中英語に、Χρēs masse の表記が見られるという[9]。他にアポストロフィを付けた「X'mas」[11]、「Christ」の末字「t」を添えた「Xtmas」[12]や「Xtmas」、Χριστοςの頭二文字をラテン文字に置き換えた「Xpmas」などがあったが、「Xtmas」は稀、それ他は極めて稀である。

日本・台湾・東南アジアの一部では、X'masの表記が利用されている。前述のように英語圏にもこの略記が見られないわけではないが、Xがキリストを表し、Xの後ろに何かが省略されているわけではないのでアポストロフィを付けるのは誤りであるとされたり、あるいは、現代の英語圏で使用が少ないため誤用とされたりすることがしばしば見受けられ、Engrishの代表とされることがある[13][14]。なお、日本では「Xマス」とも略記する。
ロシア語での「クリスマス」の略記は、「ハリストス(キリストの現代ギリシャ語・ロシア語読み)の降誕」を意味する「Рождество Христово」の頭文字からとった「РХ」で表される。ロシアでは、聖堂などに「РХ」とネオンサインで表示する様子がしばしば見られる。


こんな状態だから、表記については、まあどれを使っても‘誤り’とは言えないようである。

我々は、小さい時から「X’mas」に慣れてしまっているので、これが一番雰囲気が出る!


⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か?


c7.jpg

やはり、WEBで調べてみたら、次のような体験にも基づいた‘完璧に近い’ブログがあったので、全面引用掲載をしてみた。このブログが書かれたのはアメリカである、多分。

http://www.odekake.us/article/a1007.php?article_id=2322

odekake_logoFL.jpg

クリスマスツリーはいつまで飾るもの?

f_9362.jpg

かつて、クリスマス休暇に夫の実家に泊まりがけで遊びに行った際に一番驚いたのは、家中のデコレーションとツリーが26日の朝にすっかり片付けられてしまっていたことです。「サンクスギビングの翌日に飾り付けをするから、一ヶ月もするとクリスマスも飽き飽きしてくるのよね。」とその理由を話してくれましたが、1月半ばまでツリーを飾っていた私の実家とはだいぶんと感覚が違うものだと不思議に感じたものです。今年は夫の都合で、ツリーの購入が20日とだいぶ遅れてしまい、この立派な生木をクリスマス直後に処分するのは勿体ない...と頭を悩ませています。一方で、日本人としては、デコレーションも一掃した上で新年を迎えたいという感覚もあるので、正式にはいつまでツリーを飾っておいてよいものか、少し調べてみました。

米国内で最も有名なクリスマスツリーはおそらくホワイトハウス、そしてニューヨーク市のロックフェラーセンターに飾られるツリーだと思われます。今年もどちらも11月中に飾りつけが行われ、華やかな点灯セレモニーはホワイトハウスが12月2日、ロックフェラーセンターでは3日に行われました。クリスマス後は、ロックフェラーセンターのツリーは1月7日まで飾られており、ホワイトハウスのツリーは1月1日まで点灯されているようです。

インターネット調査を見ても、1月の上旬に片付けを行う人が大半で、それに次いで27日から31日の間に片付ける人が多いようです。夫の家族のように26日の朝に処分してしまう家族は少数派です。実際、近所のツリー回収所では、26日から1月8日まで引き取りを行っているとのお知らせがありました。(収集されたツリーはチップ加工し、公園などで再利用されます。)

一方、ヨーロッパではクリスマスイブにツリーを買って、その日に飾り付けを行い、1月7日に片付けるのが最も伝統的とされています。ドイツではこの慣習が一般的で、アメリカでもカソリック系の家庭ではこの伝統を守っているところが多いようです。その理由とは、「12 Days of Christmas」というクリスマスキャロルがあり、シェイクスピアの喜劇には「十二夜(御意のままに)」と題されたものがある通り、クリスマスは一晩ではなく、イエス生誕を祝う25日に始まり、東方の三博士がイエスを拝みに来たとされる1月6日の公現祭に終了する12日間を指すためです。そして、クリスマスツリーはこの12日間を祝うために飾るとされています。旅行中の三博士が迷わぬよう、ツリーの光を灯しておくという意味もあるそうです。

夫の家族はプロテスタントなので、公現祭を祝わないどころか、三博士がイエスを拝みにきたのは、数年後という設定になっているので、クリスマスはどうしてもキリスト生誕で完結してしまいます。また、アメリカではタイミングよく一ヶ月前に感謝祭があるため、本来であれば準備期間のアドベントが重視され、いかにもこの期間がクリスマスシーズンであるかのように扱われるようになってしまったようです。クリスマスプレゼントは24日、または25日に渡すものという概念が根付き、サンタクロースがクリスマスに欠かせない存在となった今、25日は商業的にもクリスマスシーズンのクライマックスと考えるのが常識とされています。

日本では12月から正月準備を行い、新年は元日から三が日、そして松の内、と何日かに亘ってお祝いが行われるのと同様、クリスマスも遡って4週間前から行う準備がアドヴェント、イブに最終的な準備としてツリーの飾り付けを行い、クリスマスを十二日間祝った上で、その翌日の7日に片付けるのが伝統的なクリスマスの姿と言えるのかもしれません。我が家の子供達は二人共12月生まれ、ということもあり、ここ数年間はクリスチャンとして最も重要な祝日の一つであるはずのクリスマスを余裕をもって体験することができない状態でした。でも、クリスマスは25日からと考えることができれば、来年からは焦らずにクリスマスを楽しむことができそうな気がします。

さらに余裕が必要な場合は、キリストの生母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた日として祝う2月2日の聖燭祭をクリスマスシーズンの最終日とし、この日にクリスマスツリーを薪として燃やすところもあるようです。(ちなみに、2月2日はアメリカではグラウンドホッグデーとして知られています。) さらには、2月2日までにツリーを撤去しないと不幸が訪れるというような言い伝えもあるようです。生木の場合、それまでにはとっくに乾ききっていて、ライトの電源を入れたりしたら火事を起こしかねません。ひょっとしたら、この言い伝えには「火の用心」の意味合いも含まれているのかもしれません。


関連リンク:
ロックフェラーセンターツリー:http://gonyc.about.com/od/christmassights/p/rockcentertree.htm
クリスマスツリー(ウィキペディア):http://en.wikipedia.org/wiki/Christmas_tree

ツリー処分のタイミング調査:
その1:http://forums.catholic.com/showthread.php?t=208658
その2:http://www.christmasorganizing.com/node/791/results
文・写真/ ポインター理絵


この上記引用ブログを見れば、クリスマスツリー(飾り)の事が、よ~く判る。

以上を以って、小さい時から思っていたクリスマスに関する‘10個の疑問’がすっかり明確になった!

lights12.jpg
http://matome.naver.jp/odai/2129075666177646801/2129100187681472803


[2012/12/29 00:49] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その4)
昨日のつづき。今日のテーマは、サンタクロースについて

サンタクロース
http://blogs.yahoo.co.jp/aquarius1969newage/64572224.html


④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? 

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

この疑問ついては、以下のような資料がある。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220973867
Q:クリスマスとサンタとキリストの関係を教えて下さい。
riroruさん

クリスマスとサンタとキリストの関係を教えて下さい。
クリスマスってキリストの誕生日だからお祝いするって思ってたんですが、
サンタクロースはどうかかわってるのでしょうか?

なぜ12/24にサンタが家の煙突から入って子供にプレゼンとを配ることになってるのでしょう?

子供のころから疑問でなりませんでした。

知ってる方、教えて下さい。

ベストアンサーに選ばれた回答
dreineerさん

A:ちゃんと説明しようと思うととても長くなりますがいいでしょうか。

まずこの3つはもともと「あまり」関係のないものだったのが一緒にまとまったんです。

クリスマスという名前は「キリストの降誕祭」という意味ですが
実はキリストの誕生日が12月25日だとは聖書には書いてありません。

でも宗教行事としてこの日に「キリストの誕生を感謝する」と決められたのです。

ではなぜこの日に決まったのかと言うと、キリスト教以前のヨーロッパや中近東の宗教で
冬至には太陽の恵みが再び蘇って春に向かうことを祝う冬至祭がさまざまな形で
行なわれていたからです。キリストの誕生を祝うのも、太陽の恵みになぞらえる意味が
そこに込められたと考えられています。

25日という日付についてはそれぞれの文化で使っていたカレンダーの違いから
実は一定ではないのですが(冬至ともズレていますね)、根本が冬至なのは同じです。

さて、サンタクロースですが、キリスト教の聖人であるトルコの聖ニクラウスが原型です
この人が貧しい人や困っている人たちに贈り物をして助けたという伝説が形を変えていって
聖ニクラウスの日と定められている12月6日に子供たちにプレゼントをくれる人という
イメージができ、ヨーロッパの各地で今もこの日にプレゼントをもらっています。

この人自身はキリスト教関係者ですが、やはりキリスト教以前から残っている古い宗教の風習と混ざっていき、冬の祭りと贈り物とそれをくれるおじいさん(若い人や女性というのもあります)の存在がキリスト教の「冬の祭り」であるクリスマスとかぶって行きました。
それでもヨーロッパの各地でバラバラだった12月の行事とクリスマスの関係が今のように一つにまとまった姿になったのは、アメリカに移民して行った人たちがそれぞれの風習をアメリカで融合させて行ったのが一因だと考えられています。

アメリカ文化の力が強くなって、今ではヨーロッパにそれが逆輸入される形でまた形を変えているようです。
日本で広まったのはこのアメリカ式のクリスマスだと思います。

太った白い髭のおじいさんが赤い服を着てトナカイのそりでプレゼントを配るのが24日の夜、という今では公式みたいになっているクリスマスについての決まりも実は19世紀以降に定着したものです。

その定着する過程で、サンタがどうやって家に入るのか、それは煙突から入るのだ、といった答えが用意されました。
これには聖ニクラウスが貧しい家にお金を配る時に暖炉の煙突に投げ込んで行ったという伝承が影響を与えているとも言われています。

歴史的にはまず冬を越すための祈りと祭があってプレゼントも存在し、そこにキリスト教のクリスマスができてさらにサンタクロースがそのプレゼントをくれる人として定着した、ということになるでしょう。


次の資料も大いに参考になる。

http://okwave.jp/qa/q1849718.html
4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの司教、キリスト教の教父聖ニコラウスの伝説を起源とするが、史実ではないと言われる。

「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、娘を身売りしなければならない家の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。靴下の中にプレゼントを入れる風習も、ここから来ていると思われる。

その後、1822年にニューヨークの神学者クレメント・クラーク・ムーアが子供のために作った詩「聖ニコラウスの訪問」がきっかけとなり、サンタクロース物語は世界中に広まったというのが現在までの定説。

だそうです。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%
82%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9


という訳で、サンタクロースの存在意義がかなりよく判った。

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い?

freexmas01.jpg
http://matome.naver.jp/odai/2125808201511036222
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%8
2%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9

サンタクロースの姿・特徴 [編集]

常に笑顔の、白のトリミングのある赤い服・赤いナイトキャップ姿で白ヒゲを生やした太りぎみの老人の男。白い大きな袋にクリスマスプレゼントを入れて肩に担いでいる。19世紀の初出では一頭立てのトナカイがソリを引く姿が描かれていたが、やがて八頭立てとなり、家々の子どもたちが寝ている間にプレゼントを配る現在のイメージに至っている。

欧米諸国などのサンタは「Ho Ho Ho」(ホゥホゥホゥ)と特徴的な笑い声をあげる事がある。伝統文化として定着している面もあり、カナダではサンタクロース宛専用の郵便番号「H0H0H0」がある(同国の郵便番号の書式は"A1B2C3"のようなアルファベットと数字の組み合わせのため、アルファベットの"O"(オー)の代わりに数字の"0"(ゼロ)を使用している)。

ドイツの古い伝承では、サンタは双子で、一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをする(クネヒト・ループレヒトを参照)。容姿・役割共に日本のなまはげに似ており、民俗学的にも年の瀬に来訪する年神としての役割の類似が指摘される。現在、ドイツでは聖ニコラウスは「シャープ」と「クランプス」と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩き、良い子にはプレゼントをくれるが、悪い子にはクランプス共に命じてお仕置きをさせる。

スペイン・イタリア・ポーランド・メキシコなどのカトリック教徒が多い国では、顕現節という祝祭があり、伝統的にはこの日(1月6日)に子供たちはプレゼントをもらう。イタリアでは良い子にはプレゼントやお菓子、悪い子には炭を配って歩く魔女ベファーナの伝承がある。ハイチではトントン・ノエル(サンタクロース)と一緒にトントン・マクート(麻袋おじさん)が回り、悪い子はトントン・マクートが袋に入れてさらってゆくとされる。

ロシアのジェド・マロースは青い服を着ている。
アイスランドでは、サンタクロースに相当する妖精として13人のユール・ラッズがいる。「スプーンを舐めるサンタ」など13人に明確なキャラ付け、名前などの設定が決められているほか、父(グリーラ)、母(レッパルージ)、そしてペットのユール・キャット(クリスマス猫)などもいる。エーシャ山に五千年住んでおり、12月12日から毎日ひとりずつおりてきて、良い子にはお菓子、悪い子には生のジャガイモを靴のなかにいれていく。24日に勢揃いし、25日からひとりずつ山に戻る、という。[1][2]。
サンタクロース(シンタクラース)の服装はキリスト教の司祭服に由来する。


というから、サンタさんの服装は、赤(と白)とばかりではないらしい。

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

コカコーラ、トラック、サンタクロース-485x728
http://ja.freewalls.org/wallpaper/%E3%82%B3%E3%8
2%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%80%81%E3%83%88%E3%8
3%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%81%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%8
2%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF
%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9

コカ・コーラとの関係 [編集]

コカ・コーラ社のコーポレートカラーはサンタクロースの衣装と同じ赤と白であり、サンタクロースの衣装はコカ・コーラの広告に由来するとする俗説がある。

しかし、米国コカ・コーラの広告にサンタクロースが初めて採用されたのは1931年であり、この時にはすでに遠く離れた日本ですらサンタクロースのおなじみの姿は確立されて十数年が経過していた。なお、日本での最初のコカ・コーラ輸入は1914年頃であったが、間もなく販売中止となり、再度上陸したのは戦後の1949年になってからであった。従ってコカ・コーラを手にしたサンタクロースが日本で紹介されたのは1949年以降の戦後のことである[8]。
なおニコラオスは、商人の守護聖人でもある[9]



(つづく)
[2012/12/27 00:26] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その3)
‘クリスマス’に関して以前から、私には次のような疑問があった。

ropponngi.jpg

①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?

②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか?

③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か?

④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? 

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?

⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?

⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か?


これらの内、①と②については、‘一応’解決済みである。

① 12月25日は、キリストの誕生日ではない!「キリストの降誕を祝う祭り」である。( 「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その1)(2012/12/24 - 宗教) http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-375.html

② 教会歴の一日は、‘日没から日没まで’のために、一般の暦との差が出て、24日の日没から24日の24時までを‘クリスマスイブ’という。( 「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その2)(2012/12/25 - 宗教) http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-376.html

③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か?

クリスマスを祝う日が正教会の中でも違っているという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%
82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

クリスマス(英:Christmas)とは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭[1][2](降誕を記念する日)[3]。12月25日に祝われるが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝う[4][5]。


では、ユリウス暦とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E
3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

ユリウス暦を使用する正教会 [編集]

現代の西方教会は全てグレゴリオ暦を使用しているが、正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全正教会がユリウス暦を使用しているわけではない[13]。ユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従っているためとされる[14]。
「修正ユリウス暦」も参照

ユリウス暦を使用する教会では、21世紀ではユリウス暦とグレゴリオ暦の間には13日の差があるため、年間で日付で固定される祭日は13日ずれて祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20世紀・21世紀ではグレゴリオ暦の1月7日に相当し、西暦の1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる。[13]

ユリウス暦を使用している教会・教区・修道院
アトス山(コンスタンディヌーポリ総主教庁管掌だが、ユリウス暦を使用)
ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)
エルサレム総主教庁
グルジア正教会
セルビア正教会
日本ハリストス正教会
ロシア正教会


という訳で、正教会でも使用する‘暦’によって、降誕祭=クリスマスを祝う日にちが違っているという事が判明した。

(つづく)

次回は、サンタクロースについて
[2012/12/26 10:09] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その2)
(昨日のつづき)

<クリスマスイブ>

0 (1)
http://video.the-search.jp/0/tag/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%
8E%20%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%20%E3%82%A4%E3%83%96.html


クリスマスの関連でまだ以下の問題が解決を見ていない。

②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか?

③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か?

④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? 

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?

⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?

⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か?


昨日の弊ブログでは、

①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?

について、答えを出した。

‘キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。

つまり、何度も繰り返すが、‘12月25日は、キリストの誕生日ではない’のである。

詳細は、昨日の弊ブログ( http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-date-20121224.html )を参照されたい。

さて、次の疑問は、

②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか?

‘イブ’は、‘eve’(通例は、‘Eve’)で、祝祭日などの前夜(祭)、前日の事である。夜が‘evening’だから‘eve’なのだろうか?

何かオリンピック等の‘競技大会’であれば、よそのチームとの友情を深めたり、或いは自分達のチームの団結をもう少し強くするために‘前夜祭’はあっても良いが、生誕をお祝いするのに‘前夜祭’は必要不可欠だとは思えない。きっと何か別の理由があるに相違ない!

その答えは、以下の引用資料に、次のように述べられている。

Christmas-calendar-ja.png

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%8
3%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

教会暦における降誕祭の日付の概要。教会暦の一日は日没から始まり日没に終わる。24日の日没からクリスマスが始まり、25日の日没にて終わる。従って24日の昼間は「クリスマスイヴ」ではなく、24日の日没以降がクリスマスイヴである。



つまり、‘クリスマス’(=降誕祭 ← 誕生日ではない!)は、「24日の日没から25日の日没まで 」であるから
24日の昼間は‘イブ’ではない。

‘イブ’は、24日の日没から24日の24時までであり、正に‘evening’ではないか!

従って、‘教会暦’と‘一般の暦’との通念の違いから、‘クリスマスイブ’が誕生したのである!

(つづく)


[2012/12/25 09:17] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて・・・(その1)
「クリスマスって、なあに?」と聞かれて、正確に答えられる人は少ないに違いない!

019.jpg
http://yaplog.jp/naotaka8787/archive/1575 「カレッタ汐留」

これは多分日本人だから答えられないのではない(?)らしい。

‘クリスマス’の疑問に正確に答えるには、相当な知識が必要である。

日本では‘普通’と思われていることは、諸外国でも同じであろうか?

9-840ce.jpg
http://nearme.blog.so-net.ne.jp/2012-12-07-1
ポーランド・ワルシャワ


「日本では‘普通’と思われていること」とは、私の常識では以下の通りである。


a) 少なくとも12月に入れば、‘クリスマス商戦’が始まる。

b) 家庭でも、その頃から‘サンタクロース’の人形や‘クリスマスツリー’を家の内外に飾りつけをする。

c) 12月24日の夜は、‘クリスマスイブ’ということで、‘クリスマスケーキ’を食べる。そして、子供達は、靴下を枕元において寝る。

d) 24日の夜から25日の朝方に、‘サンタクロース’がやって来て、靴下の中にプレゼントを入れる。しかし、サンタクロースは実際には来ないので、親がその役目をする。

e) 25日になっても、キリスト教徒でない人達は、教会には行かないから、クリスマスは終わったものと思ってしまって何もしない。

f) クリスマス商戦も、25日には、24日に売れ残った‘クリスマスケーキ’が、20~50%引きで売られてそれで終わり。

g) 家庭でも、26日になれば、飾りつけは皆外して翌年用としてしまってしまう。

画像ー64 034-2

画像ー64 030-3

xmas2012.jpg
http://www.kinotoya.com/news/xmas/index.html

10097159930.jpg
http://ameblo.jp/titoparupalo/day-20081001.html



しかし、色々な情報から‘薄らと’ではあるが、以前から、私には次のような疑問があった。


①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?

②‘クリスマスイブ’を何故祝うのか?

③ 諸外国では、‘クリスマスデー’が12月25日であるという事は本当か?

④ キリストとサンタクロースの関係は? 或いは、何故サンタクロースなのか?

⑤ サンタクロースは何故子供達だけにプレセントを呉れるのか?

⑥ サンタクロースの衣装の色は何故赤い? 

⑦ サンタクロースとコカコーラの関係は?

⑧ 日本においては、昔12月25日は国民の祝日だったというのは本当か?

⑨ クリスマスの‘表記’(X-masやX’mas etc.)が色々あるのは何故か?

⑩ 諸外国では、クリスマスの飾りつけは翌年の1月6日までが常識というのは本当か?

等々、中学生の頃から不思議に思っていたが、これまで別に真相を知らなくても困りはしなかったから放っておいたのである。

しかし、このブログを書き始めてからは、何もクリスマスの事だけではなく色々な常識の‘根拠’を知らないことが気になりだしたのである。上記の通り、常識の根拠を知らなくても生活には余り困りはしないのだが・・・。

でも、その常識の根拠を知ってみると、何とも怪しい根拠や間違った常識に出会う事に驚くことが沢山あった。

今回の‘クリスマス’についても、‘新約聖書にはキリストの誕生日が書かれていない’というから驚きである!


①‘クリスマスデー’は、本当に‘キリストの誕生日’か?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E
3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

クリスマス(英:Christmas)とは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭[1][2](降誕を記念する日)[3]。 12月25日に祝われるが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝う[4][5]。

キリスト教に先立つユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では日没を一日の境目としているので、クリスマス・イヴと呼ばれる12月24日夕刻から朝までも、教会暦上はクリスマスと同じ日に数えられる。

新約聖書には、イエスの誕生日を特定する記述は無い。
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、

—マタイによる福音書第2章第1節(口語訳聖書)
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。

—ルカによる福音書第2章第10節 - 11節(口語訳聖書)

キリスト教においてもクリスマスは「降誕[6]を記念する祭日」[3]と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。

イエス・キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があった(例えば3世紀の初め頃には、アレクサンドリアのクレメンスは5月20日と推測していた)[3]。

降誕祭とは別に、西方教会では1月6日にキリストの公現を祝う(公現祭)。12月25日の生誕祭は、遅くとも345年には西方教会で始まった。ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われている。



上記引用資料の通り、‘キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。’といのだから驚きである!

これは、我々の常識の無さが悪いのであって、‘キリストがお生まれになったのを記念する日’ではあるが‘キリストの誕生日ではない’とは、多分ほとんどの日本人が知らないに違いない!

これ、クイズ問題に出せば面白いかもしれない!

では何故、12月25日に「降誕を記念する祭日」を持ってきたのであろうか?

上記引用資料では、‘ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われている’とあるが、これはもう少し調べる必要がある。

12月25日とは一体どんな日なのだろうか?

因みに、キリストの誕生日についての諸説は以下の通りという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%
E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

イエス・キリストの誕生日との関係についての諸説 [編集]

ギリシャ正教会:降誕祭(クリスマス)のイコン(アテネ博物館所蔵)
新約聖書には、イエスの誕生日に関する記述はないが、10月1日か10月2日が誕生の日と推測する説もある。1993年9月15日に、イギリスの天文学者D・ヒューズが聖書中の天文現象の記述から、イエスの誕生日は紀元前7年9月15日とする説を発表した。また、羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻ったとあり、羊を放牧するのは4月から9月の間で、冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さない事から、夜中の羊の見張りを行う4月から9月までの間とする説もある。
1月1日が12月25日と1月6日のちょうど中間にあたることから、キリスト歴の1月1日を定める時に中間の日を妥協案として選んだという説がある[要出典]が、これは単なる俗説である。ローマ帝国で使用されていたユリウス暦は、紀元前45年から1月1日を年初日に設定しており、キリスト教との因果関係はあり得ない。ただし、1月1日は丁度クリスマスの8日後にあたり、主の割礼祭(ユダヤ教の律法において、生後8日目に割礼を施すことが慣わしになっている)としての祝日になっている。
西暦1年は、キリストの生まれた年と決められており、紀元前を表すB.C.は「Before Christ」すなわち「キリスト前」という意味である。しかし実際には、キリストが生まれた年は紀元前8年から紀元6年ごろまで諸説ある。
当初、ローマ帝国はキリスト教を迫害したため、キリスト教徒はローマから離れた地方に逃げており、スペインにはローマ帝国において変化する前の古いキリスト教が起源と思われる習慣も残っている。後にキリスト教はローマ帝国の国教として定められ、当時ローマ帝国の支配にあったヨーロッパ全域に広がり、各地の文化・慣習を取り入れた。クリスマスの起源として、ローマの農耕神サトゥルヌスのための祝祭(サートゥルナーリア)を挙げる説がある。
西暦の1月1日を新年として祝うのは王政ローマで紀元前713年ごろから始まった。のちに年初日はそれ以前の年初日であった3月1日に戻ったが、古代ローマ共和国時代、紀元前153年1月1日からローマでは年初日が1月1日に戻った。多くのキリスト教国や日本はそれに倣っている。例えばヒンドゥー教徒やイスラム教徒は、現在でも1月1日を通常の日と同じように過ごし、それぞれの新年の日を別に持っている。


(つづく)
[2012/12/24 02:46] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
不動明王の仏像・仏画における‘眼と牙’の変遷
不動明王の‘仏画’を調べていたら、‘異常さ’に気付いた。

‘異常さ’というより、その‘顔’の描き方が全く違う‘二つ’の仏画(仏像)に出会った。

不動明王0004
NHK出版・NHKテレビテキスト・趣味工房シリーズ・あなたもアーティスト

このテキストに次の2枚の下絵が‘不動明王’として描かれていて、その違いの説明がない!

不動明王-2-2不動明王0001-2-2
NHKテキストの不動明王の‘二種類’の下絵

常識的には、不動明王は、その牙と目玉に特徴があり、その牙は、天を向いているのが一つと、あとの一つが地を向いている。そして、その目玉の一つはやはり天を向いており、もう一方が地を睨んでいるというものである。

不動明王 篠栗
http://www.geocities.jp/tttban2000/SL3326/gallery.html

南蔵院
不動明王

左眼は半眼、右眼はカッと見開き
目ん玉は左右で上下ひっちゃこっち

眉間にはシワ(水波)ば寄せて
下の歯で上唇ば噛み
牙はこれも上下食い違い

不動明王がどうして、こげな
恐ろしか顔ばしとんなるかていうとクサ

インドのドラヴィダ族ていう原住民が
西方から進入してきた
アーリヤ族に虐げられた
その苦しみの顔タイ

それで、弱かもんの苦しみが
分かっとるケン、取り除いてくれるとタイ




ところが、NHKのテキストの‘左側の絵’のように、牙の方向が二つとも地を向いており、目玉も真正面を睨みつけているのがあるというのである。
この辺の事情についての勉強不足から、つい‘ホ、ほんとう~?!’と叫んでしまった程無学である。

12-18_20121205121048.jpg
https://www.shinchosha.co.jp/geishin/2011_08/01.html
この京都・東寺の不動明王の画像からは、二つの‘犬歯’はハッキリとは判らない?

不動明王の像を日本に初めて持ち帰ったのは‘空海’だそうである。次のブログに以下のような解説がある。

http://ymd20hiro4.sakura.ne.jp/sub1_8.html
不動明王の牙

 不動明王は大日如来が人々の悪心を調伏するために忿怒の姿で現れたものであり、如来の命を受け、仏法を障害するものに対し怒りをもって対決する使者であるとされている。また、その威厳に満ちた容貌から、全ての災魔を屈服させると言われ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守護する仏として信仰を集めている。五大明王の中央に座している明王が不動明王で、広く「お不動さま」と呼び親しまれている。古来より多くの人々の信仰を集め、日本における最も有名な仏様の一つである。

 インドで起こり、中国を経て日本に伝わったものである。日本では密教の流行に従い、盛んに造像が行なわれた。空海によって日本へ持ち込まれた不動明王の姿は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した像で「平常眼」と呼ばれている。すなわち、両眼とも正面を睨み、上顎の前歯で下唇を噛んでいる姿をしている。左右の上顎犬歯は尖頭を下にして大きく伸び、下唇の外側にはみ出している。

 時代がすすみ、10世紀の天台僧・安然らの時代になると、「不動十九観」(不動明王の姿を19項目について解説)により、『大日経』などに基づく本来の不動明王像が見直され、不動明王の典型が完成してきた。右眼を見開き左眼は半開き、あるいは右眼で天、左眼で地を睨み(「天地眼」)、右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出し(利牙上下出相)、左右非対称の姿の像になってきた。要するに、「天地眼」では右側の下顎犬歯は同側上唇の外側に上方を向いて突き出ており、左側の上顎犬歯は同側下唇の外側に下方を向いて突き出て、左右非対称の姿をしている。双方とも口は閉じて唇は強く結んでいるが、左の唇は外に向かって反転している姿である。右手に利剣、左手に羅索を持っている。(GAKKEN,不動明王より)


つまり、空海が日本にもたらした‘不動明王の姿’は、先に掲げたNHKのテキストの‘左側の絵’に近い表情をしており、およそ7~80年後になって、見直しがなされ‘右側の絵’のような‘典型’の画像になったというのである。

空海(774~835)は、802年、最澄(766~822)や三筆の一人橘逸勢(782~842)及び霊仙(759~827)と共に入唐する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。


804年と言えば、凡そ、空海が30歳、最澄は38歳、逸勢22歳、霊仙45歳である。

何と言う‘恐ろしい天才達’であろうか? そして、当時の遣唐使・留学僧の留学期間は20年だったというのに、最澄は805年に1年間で、空海は806年に2年間で帰国している。それも彼ら二人は日本国にとっては貴重な予測以上の数の経文と成果を身に付けての帰国である。(橘逸勢の帰国年は不明? 霊仙は帰国せず)

さて、この大天才・空海は、大勢の人たちと関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写を行ない、真言密教と共にそれらを持ち帰っている。特に、それらの資料を基に、京都は東寺において‘立体曼陀羅’の造営に取り掛かる。残念なのはその完成を見ずに旅立ってしまうのである。

立体曼陀羅を安置する講堂は、空海の没年に完成するが、空海はこの完成を見ずに、同年没している。曼荼羅はその2年後に完成したという。

mandara.gif
http://www.touji-ennichi.com/info/koudo_j1.htm

この京都・東寺の不動明王の姿は以下の像に見る通りである。

不動明王(東寺)
http://masa71.com/ki-c.html
これが、京都・東寺の不動明王である。この顔の部分を拡大して見ると、

不動明王(東寺)-2不動明王-2-2
http://masa71.com/ki-c.html       右が、NHKのテキストの下絵の一つ。

NHKのテキストの‘左側の絵’そのものである。勿論、このテキストの中の原画の作者である‘松久佳遊’さんは、以下の経歴をお持ちの超一流の仏絵師だから、間違えられるはずはない!

不動明王0005-2

空海は、この不動明王の‘造形の変化’については、没後の事だから知らないのだろうが、この変遷を知ったらどう判断するのだろうか?

安然が唱えたとされる‘不動十九観’も含めて、不動明王の像容についての資料を引用しておきたい。

http://www.kyototsuu.jp/Temple/ButsuzouMyououFudou.html
【不動明王の像容】

 不動明王は、素直に仏法に従わない者を無理矢理にでも救済するために、
 目を怒らせた大変恐ろしい姿をしている


 不動明王は、肥満した童子形で、1面2臂で憤怒の形相が基本
 軽装で、法衣は片袖を破って結んで動きやすくしている
 右手には、降魔(ごうま)の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る)
 左手には、羂索(けんじゃく)(悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための投縄)
 背には、迦楼羅焔(かるらえん)(三毒を喰らい尽くす伝説の火の鳥の形をした炎)を背負う
 天地眼(右眼を見開き左眼をすがめる)(または、右眼で天、左眼で地を睨む)
 牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)
 粗岩(磐石(ばんじゃく))の上に座して、
 「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿

 <不動十九観>

 天台僧 安然が、「不動立印儀軌修行次第」により不動明王を想い従うために唱えたもの

 (1)大日如来の化身
 (2)真言中に、ア・ロ・カン・マンの4字がある
 (3)常に火生三昧(かしょうざんまい)に住んでいる
 (4)肥満した童子の姿で、卑しい
 (5)頭頂に七沙髻があり、蓮華をのせている
 (6)左肩に一弁髪を垂らす
 (7)額に水波(すいは)のようなしわがある
 (8)左の目を閉じ右の目を開いている
 (9)下の歯で右上の唇を噛み、左下の唇の外へ出している
 (10)口を硬く閉じている
 (11)右手に三鈷剣を持っている
 (12)左手に羂索を持っている
 (13)行者の残食を食べる
 (14)大磐石の上に安座している
 (15)色が醜く青黒
 (16)奮迅して憤怒している
 (17)光背に迦楼羅炎(かるらえん)がある
 (18)倶力迦羅竜が剣にまとわりついている
 (19)両脇に2童子が侍している


これで、不動明王の仏像及び仏画の‘変遷’について、かなりの理解が出来た。次回は、‘如来’様についての知見を広めるための検索を行う予定である。

(つづく)



[2012/12/06 00:26] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
論語について(その3):儒教の教えの‘四書’
‘論語’について調査をしようとする場合、‘聖書’との対比については前回(11月5日の弊ブログ)で前哨戦を述べさせて貰った積りであるが、それは‘儒教’の一代表としての‘論語’であって、宗教としての東西比較とすれば、それは、

     <キリスト教・イスラム教> VS <仏教・儒教>

という対比で考えるべきものだと思われる。

大まかに言えば、<キリスト教・イスラム教>‘軍団’は、創造主を頂点に仰ぎ、全ては創造主を‘神’と表現して絶対服従を誓う所が出発点である。

キリスト
http://labaq.com/archives/51350538.html
キリスト

啓示を受けるムハンマド
http://hirodoveohira.wordpress.com/2009/11/29/%E3
%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E
5%AD%A3%E7%AF%80%E3%80%82%E2%80%95%E2%80%95-%E3%82%A4
%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B7%B
1%E5%B1%A4%E3%81%AB%E6%B5%81%E3%82%8C/

啓示をうけるムハンマド:イスラム教では偶像崇拝を禁止しているため預言者ムハンマドの肖像画は無い

一方、<仏教・儒教>‘軍団’には、基本的には‘神’の存在はない。あるとすれば‘神は実は己の中に存在する’と説く。すなわち、修行により‘悟り’の境地に到達することにより己の向上を目指す。ただし、儒教は少し違っていて修行は‘対人’及び‘対社会’のために行なって人格の向上を目指すのである。孔子は‘悟り’を拒否した。

Gandhara_Buddha_(tnm).jpeg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
釈迦

孔子
http://seizensetu.seesaa.net/category/7190700-1.html
孔子


以上のように簡単には表現出来ない事情はどの宗教にもあると思われるが、こんな‘大ぐくり’ででも捕えておかねば‘比較’での評価が益々難しくなるから、この対比は私だけの思い込みである、とお断りをしておきたい。

宗教と政治は根本的に重さも心意気も異なるから軽々にたとえ話は出来ないにしても、政治の場合、民主党支持、自民党支持、共産党、etc.支持を表明している人達は果たしてそれぞれの‘長所・短所’を徹底比較して、それぞれを支持しているのだろうか?

私には、どう考えても‘一旦何処かの政党支持’を表明した場合、その政党が自分の考えと違った方針を取った場合には、己の主張を曲げてでもその政党の方針に従うという‘矛盾’を皆さんが抱えてしまうことになって、言論の自由を自ら放棄してしまうという最悪な状態となってしまっている、としか考えられない。

これこそ、私がこれまでこの弊ブログで‘政党政治の破綻’は本質的なものであり、政党政治は政治の初歩的段階であるから、早くそこから抜け出すべきだと主張してきた所以である。

宗教の場合でも同じことが起こっているような気がする。どの宗教を信じようとそれは個人の勝手とは言うが、本当にその宗教の本質を理解している人がどの程度いるのであろうか? 甚だ疑問である。

もっと言えば、住職でありながらその宗派を職業として選択した人が多いのではないかとさえ思われる節がある。
別にそれを糺す必要もないのかもしれないが、宗教の衰退の一原因はその辺りにもあるのではないかと図々しくもまた偉そうに思ったりしている。

いずれにしても、‘比較宗教学’をもっと徹底的に勉強する事から始めなければならないと考えているが・・・。

さて、本題は、儒教を知るには‘論語’だけでは済まされない。いわゆる儒教を支えている‘四書’:‘大学’、‘中庸’、‘論語’、‘孟子’それぞれを深く検討してこそ‘儒教’の理解が出来るというものであろう。

日本の政治を理解するためには、自民党だけを知れば済むというものではない、という事と似ている。

でも先ずは、‘論語’から始めようという訳である。論語だけで儒教が理解できたとは思わない心構えが必要だという訳である。

先般から申し上げていた通り、‘論語’そのものも儒教の始祖たる‘孔子’が書いて編纂したものではない。
したがって、「子日はく・・」から始まる。‘子’とは‘先生’の意味の普通名詞である。そして具体的な先生の名前は‘孔’先生であるから‘孔子’である。‘日く’は‘のたまわく’で‘おっしゃるには’という意味である。

仏教も同じで、釈迦は‘口伝’を専らとして、‘書伝’を禁止した。これは釈迦以前の宗教も同じでインドでは‘伝統’であったというが、釈迦も何故‘口伝’を受け継いだのであろうか?‘如是我聞’は私はこのように聞いたという意味であるから、その人が釈迦の仰った事をそう理解した、と受け取るべきで釈迦の仰せとは違う場合があるとの認識を持つべきである。これが仏教で宗派が分かれる大きな原因となったものと思われる。

いつもこの議論で出くわすことは、釈迦が、或いはキリストが突然蘇ってそれぞれの宗派の存在意義を聞いた場合、どんな反応をするのだろうか?という事である。 <これって、今後の小説の題材かも??>

上述の四大宗教、全部が全部その教祖は己の書物を残していない!実に不思議であり、偶然の一致なのか?それとも教祖たるもの己の書物を残さないものなのだろうか?

現在は‘書物を出版すること’が、斯界の権威たる拠り所とさえなっていて、4~500冊の本を出版されている有名人も沢山おられるが、本当の教祖たる御仁は違うのだろうか?

(つづく)

















[2012/11/06 23:58] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
論語について(その2):論語と聖書
日本における第二次世界大戦以後の教育方針は、‘論語’という江戸時代からの‘道徳・徳育’教育をすっかり疎かにしてしまった。

その影響がじわじわと現れ始めて、‘いじめ’や‘不可解な殺人事件’を惹起する原因になっているとも考えることが出来る。

「教育とは?」と聞かれると大体誰でも「知育、徳育、体育」と答える。これは中学校でそう教わるからでもあろう。

ところがである。

‘徳育’って、何?

と聞かれてしまうと、ほとんどの人が「‘道徳’」と答える。じゃあ、どうして、「教育とは?」と聞かれた時に「知育、道徳、体育」と答えないの?と聞き返すと「道徳には‘育’が付いていないから・・・」と優等生の答えが返って来る。

‘道徳’を教えるのが‘徳育’という訳である。

まあ、ここまではよろしいとして、それでは「‘道徳’とは何?」と聞けば、「うるさいなぁ、自分で調べたら?!」と全く道徳を無視した答えしか返って来ない。

つまり、‘知育’と‘体育’は、日教組も教えた積りだが、‘徳育’については、まるで‘封建制度の権化’のようだとの見解なのだろう、全く教えることをしなかったのである。

私は、戦後の昭和21年に小学校に入学したから、いわば終戦後の‘小学校第一回生’という事になる。

二つ上の兄や四つ上の姉が、‘徳育’を受けていたかについては、戦時中のこともあって定かではない。むしろその当時の小学校では‘徳育’というより、天皇陛下への‘忠義・忠誠’を教えていたに違いない。

我々が入学する前の小学校には‘忠霊塔’というのが校庭の上部(?)中心にあって、朝の登校及び下校の際にはみんな帽子を取ってお辞儀をしていた記憶がある。

昭和21年に小学校に入学した折には、きれいさっぱりと‘撤去’されていたが・・・。

忠霊塔
http://eclipse.star.gs/lock/wafuu/wafuu1.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E5%A1%94
忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴として表す塔である。

歴史 [編集]

明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。その後、1939年(昭和14年)1月、内務省は各市町村に1基の忠霊塔の建立の許可を出し[1]、同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた[2][3][4][5]。

大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣を名誉会長、菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた[6]。
塔の建立にあたっての資金は国や自治体の支援もあったが、その市町村の国民は「一日戦死」運動と呼び、1日分の収入が無かったつもりで1日分の給与の額を拠出している[2]。1941年(昭和16年)9月には戦争の拡大にともない戦死者も増え,各地の陸軍墓地は陸軍省の通達が出され忠霊塔へとまとめられた経緯もある[7]。こうして各地方自治体毎に多くの忠霊塔が建立されたが第二次世界大戦後は戦争を賛美するとか軍国主義的であるとしてGHQの指示により多くは撤去された。一方一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあるとされるが現在も各地に在る[2]。

1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本国民の主権の回復がされた後には忠霊塔に替わるものとして慰霊碑が建立された[8]。忠霊塔は西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満洲事変、支那事変、太平洋戦争、大東亜戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者の名が刻まれている[7][9]。千葉県忠霊塔など1954年(昭和29年)4月に新たに造られたものや○○県忠霊塔などと呼称を変えたものも幾つかある。

現在では忠霊塔は自治体や地元の人達のボランティアによって塔の周りの草取りや維持・整備が行われている[10]。例年、自治体や遺族らによって行われる戦没者の霊への顕彰・慰霊・追悼の対象の場として慰霊碑、慰霊塔と共に使われることは多く、また公園などとされ花見や子供達の遊び場などともなっているものも多い。


そうそう、そう言えば‘修身’という科目があった。国語、算数、と同ランクに‘修身という科目’である。

text1_fig2.gif

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
修身(しゅうしん)とは身を修めることを意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校(第二次世界大戦中は国民学校)における科目のひとつ。1890年の教育勅語発布から、1945年の第二次世界大戦の敗戦まで存在した。戦後の道徳教育に相当するものである。


そして、この‘修身’という訳語は‘モラルサイエンス(moral science)'が原語であり、翻訳したのは福沢諭吉等という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
修身の語源 [編集]

モラルサイヤンス(moral science)を修身論と翻訳したのは福澤諭吉・小幡篤次郎などの慶應義塾関係者である。
以下、近代デジタルライブラリーの『福沢全集』〈巻1〉の「緒言」から引用する。

明治元年の事と覺ゆ或日小幡篤次郎氏が散歩(さんぽ)の途中(とちう)、書物屋(しよもつや)の店頭(みせさき)に一册の古本(ふるほん)を得たりとて塾に持歸(もちかへ)りて之を見れば米國出版(しゆつぱん)ウェーランド編纂(へんさん)のモラルサイヤンスと題(だい)したる原書にして表題(へうだい)は道徳論(だうとくろん)に相違(さうゐ)なし同志(どうし)打寄(うちよ)り先づ其目録(もくろく)に從て書中の此處彼處(こゝかしこ)を二三枚づゝ熟讀(じゆくどく)するに如何(いか)にも徳義(とくぎ)一偏(いつぺん)を論じたるものにして甚だ面白(おもしろ)し斯る出版書(しゆつぱんしよ)が米國にあると云へば一日も捨置(すてお)き難し早速(さつそく)購求(こうきう)せんとて横濱の洋書店(やうしよてん)丸屋に託(たく)して同本六十部ばかりを取寄(とりよ)せモラルサイヤンスの譯字(やくじ)に就ても樣々討議し遂に之を修身論(しうしんろん)と譯(やく)して直に塾(じゆく)の教塲(けうぢやう)に用ひたり
修身論の原著は、en:Francis Wayland, The Elements of Moral Science, (1835, 1856 ed.) Paperback: ISBN 0766174239/Hardcover: ISBN 0674246004 である。


そして、その‘修身’の内容は以下の引用資料が示す通り、

(1)国家に対する道徳 - 25%

(2)人間関係についての道徳 - 40%

(3)個人の道徳 - 35%

というから、これはこれは‘まともな配分’ではないか!

勿論、(1)、(2)、(3)共に、その中身については現在全く通用しないものではある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
第2期国定教科書 [編集]

1910年(明治43年)から順次発行、使用開始。儒教主義的倫理が強調され、さらに、軍国的教材も登場、それらが国家主義と家族主義に結合されるように構成されている[36]。教育勅語を教科書の中に多く取り入れ、教科書の巻4(尋常小学校4年用)の最初に教育勅語の全文が載せられ、巻5ではいくつかの課で勅語の語句を説明し、巻6の最後の3つの課で勅語の大意を説いている。第1期の教科書において13人登場していた西洋人は5人となった。
尋常小学校6年間にわたって示されている主要な徳目は157であり、内容のおよその割合は以下の通り[37]。

国家に対する道徳 - 25%

「国民の義務」に関する内容は激減し、国体に関するものが大幅に増加し、低学年から万世一系の国体観念を持たせようとしている。また、木口小平は第1期では「勇敢」そのものの例として登場していただけだが、第2期では日露戦争における旅順港閉塞隊の例とともに「忠君」と「愛国」と「義勇」とを結びつける教材として登場している。

人間関係についての道徳 - 40%

家族関係についての儒教的道徳観が増加。祖先をまつり、家名を重んずる内容がみられ、「家」の観念が強調されている。「人の自由を守る」、「人を助ける」、「商いの正直」、「人に迷惑をかけぬ」などが削除または減少し、かわって、「廉潔」、「報恩」、「寛容」、「謙遜」などが増加または追加されている。

個人の道徳 - 35%

学校の意義、教育を受ける、過ちをなくすなどの項目が削除され、自立自営・勤勉・勤労・忍耐も各1つずつ減少。沈着・勇気を説く例話として、新たに木村重成・毛利元就の妻・加藤清正・佐久間勉艇長も登場している。


上述の通り、この内容は全て現在風に書き換えられねばならないが、やはり当時でも‘国家’‘他人’そして‘己自身’に対する‘道徳’をきちんと意識しなければならないことを為政者は理解していたのである。

これこそ‘儒教’の‘道徳’を何百年も継承してきた日本人ならではの成果と言えると思われる。

さて、いつものように‘前置き’が長くなってしまったが、‘道徳’を考える場合にはどうしても‘東洋’の道徳と‘西洋’のそれとを意識せざるを得ないし、今後益々グローバル化が進む国際社会では、その認識無くしては多分動きがとれまい。

先般ご紹介した‘論語の読み方’(山本七平著)には、‘論語’と‘聖書’という東西の‘道徳’の根本になる書き物に焦点を合わせてある。

ホキ美術館0001

ronngo-2.jpg

上記著書・「論語の読み方」によれば、京大名誉教授で、1966年NHKラジオで『論語』を講義した吉川幸次郎が、「論語」を理解するには「聖書」を読まねばならぬと言い、内村鑑三が奇しくも「聖書」をきちんと理解するためには「論語」の研究が必要だと指摘していたという。

両雄にして流石である。己の主張を通すには、それに対峙する意見も理解すれば己の主張の‘質’が上がるというのだ!

(つづく)















[2012/11/05 22:20] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
| ホーム |
designated by FC2