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皇居・和田倉門界隈(その3)
皇居・和田倉門界隈(その3)

この皇居・和田倉門噴水公園には、そんなに大勢の人が来ることもないようで、その日(2019年7月5日)も幼稚園の児童10数人が来た(写真を撮り損ねたが)だけで、あとは通り抜ける人達がほとんどだった。

ただ一組のカップルが、15分間くらいの間「撮影会」まがいの行動(?)で目を引いた!

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コの画像は、彼らがここへきてもう15分くらいも経っていた!

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スズメも危険でないことを学習していると見えて、1m の近くまで寄ってくる!

時間も大分経ったので、そろそろ東京駅へ向かって歩き始めたのだが、お堀に白鳥様が・・・

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おや、おや、「頭かくして尻隠さず」、そのもの・・・・。

(つづく)
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[2019/07/14 22:11] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居・和田倉門界隈(その2)
皇居・和田倉門界隈(その2)

さて、この「和田倉門」の「和田倉」、もう一つ言えば、「和田」の意味は?名前の由来は?

http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/198/0
和田倉門■名の由来■
この門の付近に「和田倉」と呼ばれる蔵があった。これが名の由来です。和田さんの蔵?ではなく、海のことを指す「わた」です。海がワタ?はい。そうらしいです。そういえば、ハングル語では海をパダといいますが、もともと似た発音だったのですかね。まぁ言語的なことはこのへんで。要するに、かつてはワタ、つまり海がこの付近まで入り込んでいたことから、海と蔵で「ワタクラ」と呼ばれるようになった。そういうことですね。はっきりしませんが、この地に蔵があったのはそうとう古い話で、家康が江戸に入った時には既に和田倉という村落があったとも言われています(これには諸説ありで、徳川時代の物資の集積地として「倉」の名がついたとも言われています)。

まぁともかく、実在した「蔵」に由来。「蔵の御門」とも呼ばれていたようです。


さて、我々は「きけ、わだつみのこえ」というフレイズを知っている!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%
91_%E3%82%8F%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%8
1%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%88

『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。

1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。

『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。

類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムで展示されている。

名前の由来
学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌を添付した。なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。

「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。


従って、「ワタ(ワダ)」は、「海」の古語であることが判った!

さて、「和田倉噴水公園」の様子は・・・。

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ワダは海と言っておきながら、和田倉噴水公園の噴水の水は、海水ではないらしい!

(つづく)
[2019/07/13 23:04] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居・和田倉門界隈(その1)
皇居・和田倉門界隈(その1)

今年(2019年)7月5日、打ち合わせの合間に時間が出来たので、久し振りに喧騒を離れて「皇居和田倉門」近辺へへ行ってみた・・。

ここは、東京駅からほんの数分で行ける距離にあるのに、流石、皇居の一部(?)とあって、静けさが満喫出来る!

 

http://fng.or.jp/koukyo/news
/2015/08/post-74.html

和田倉噴水公園の「和田倉門」と「和田倉橋」

和田倉噴水公園は、昭和36年に今上天皇の御成婚を記念して創建された水と緑の広がる癒しの公園。園内には公園のシンボルである大噴水と、様々なテーマが設けられた流水施設があり、都会のアオシスとして人々に親しまれています。

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そんな噴水公園の北東に位置する、公園の入り口の一つが和田倉門です。

 和田倉門は1620年(元和6年)の改築で東北の諸大名により枡形が構築されました。

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そしてこちらの木橋が和田倉橋。皇居のお濠に架かる橋で江戸時代の「木橋」の姿が残されているのは、この「和田倉橋」と「平川橋」のみです。

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この橋より内側は、大手門や桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。

建設年は不明ですが、1620年にはすでに存在していたとの記録があります。橋は関東大震災で大きな被害を受け、その後1953年に往時の木橋を模したコンクリートの橋へと生まれ変わりました。

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明治天皇がはじめて江戸城に入場する際には、呉服橋を通った後、こちらの和田倉門を通り、江戸城西の丸に入られました。

近代的なモニュメントや大噴水がある一方で、江戸時代の面影を色濃く残す和田倉噴水公園。皇居外苑散策の際は、是非お立ち寄りください。


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これは、橋の欄干には良く見かける「擬宝珠」というものである!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E
6%93%AC%E5%AE%9D%E7%8F%A0

擬宝珠(ぎぼし)は、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

擬宝珠が取り付けられるのは親柱(両端および一定の間隔で並ぶ主要な柱)であり、「宝珠柱」という。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもある。より古い時代の瓦製のものも見つかっている。

紛らわしいものとしては五重塔、五輪塔などの仏塔の先端に飾られるもので、これは擬宝珠ではなく宝珠である。

起源
起源は諸説あり、一つは仏教における宝珠から来ているとするものである。宝珠は釈迦の骨壺(舎利壺)の形とも、龍神の頭の中から出てきたという珠のこととも言われ、地蔵菩薩などの仏像が手のひらに乗せているものである。 この宝珠を模した形から模擬の宝珠という意味で擬宝珠とつけられたというもの。

もう一つはネギのもつ独特の臭気が魔除けにもなると信じられ、その力にあやかって使われるようになったとする説であり、擬宝珠という用字は葱帽子、葱坊主に後から付けられた当て字であるとするもの。橋や神社など仏教建築以外でも使われることの説明にもなる。

歴史
神社では伊勢神宮正殿の高欄の五色の宝珠型の飾りが原型とされ、当初は朝廷と関わる建造物にのみ存在したらしい。

古い例としては中国、漢代の画像石や敦煌の壁画にそれらしいものが見られる。日本での例では平城京跡の二条大橋のものとされる、瓦のものが見つかっている。

橋の擬宝珠には、その由来が刻まれている場合もある。銘があり現存するものとしては京都 三条大橋に一部残っているものが古く、天正年間に豊臣秀吉の命で改築した際のものとされる。五条大橋も同時期で橋に用いられた最初のものとされる(ただし現在のものではない)。他に、それを模したものとして江戸時代初期の盛岡 上の橋、下の橋のものがある。

江戸市中で擬宝珠を持っていた橋は、日本橋 (東京都中央区)と京橋 (東京都中央区)、新橋 (東京都港区)のみである[1]。

形状、各部名称

先端の宝珠状の部分のみをさして、「擬宝珠」という場合もある。下にあるお椀を伏せたような部分を「覆鉢」、間をつなぐくびれた部分を「欠首」という。さらにその下、覆鉢の下の円筒形部分を「胴」という。

擬宝珠は時代により形状が変化しており、一例として高さに比べ直径の大きく頭の宝珠状部分が小さいものを「鎌倉型」という。この宝珠部分の大きさは概ね時代とともに大きくなっている。


[2019/07/12 10:32] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・虎ノ門金刀比羅宮・神楽殿
昨日2018年12月10日(月)、所用があって東京・虎ノ門にある「虎ノ門琴平タワー」へ行った・・・。

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このビルは、名前から想像がつく通り、「金刀比羅宮」とのご縁があるに違いない!

都会の正に「ど真ん中」に新旧のバランス・調和が考慮された「近代ビルとお宮さん」が並立しているのである・・・。

<虎ノ門琴平タワー>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E3%83%8E%E9%9
6%80%E7%90%B4%E5%B9%B3%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC

虎ノ門琴平タワー(とらのもんことひらタワー)は、東京都港区虎ノ門一丁目の超高層ビルである。

歴史
金刀比羅宮の敷地には、株式会社虎門琴平会館ビルにより1965年に「虎門琴平会館ビル」が建設されたが、OA化や耐震性改善に対処するため三井不動産と共同で建て替えることとなった。2002年8月8日に起工式を実施[2]、約2年3ヶ月の工期ののち、2004年11月25日に竣工式が執り行われた。事業比率は三井不動産65.75%、株式会社虎門琴平会館ビル27.16%、宗教法人金刀比羅宮7.09%で[1]、竣工後に日本ビルファンド投資法人が虎門琴平会館ビルの持分を取得[3]。同投資法人は、2006年には千代田区丸の内のJFEビルディング(後年に解体され、現在は三井住友銀行本店ビルディング)と交換する形で三井不動産の持ち分を追加取得した[4]。

構造

ピロティの参道
鉄骨構造(一部鉄骨鉄筋コンクリート構造)の 地上26階、地下3階建で、最高部の高さは115.2m。総合設計制度を活用するとともに金刀比羅宮の余剰容積率を活用している[2]。下層部は高さ10.5mのピロティで、正面の桜田通りから金刀比羅宮への参道となる。その脇に高さ3.5mのガラス張りのロビーが設けられた[5]。建物のうち1階、3階、26階は宗教法人金刀比羅宮、4階から25階にかけてのオフィス部分は日本ビルファンド投資法人が所有し[3]、日経ラジオ社(16・17階)[6]ほか複数のテナントが入居する。最寄駅は東京メトロ銀座線虎ノ門駅で、桜田通り地下を走る東京メトロ日比谷線にも本ビル近くに駅が建設中である。



<虎ノ門金刀比羅宮>

http://www.kotohira.or.jp/
虎ノ門金刀比羅宮・由緒 [History]

創始
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。

大物主神オオモノヌシノカミ
大国主神と少名彦神が国造りの際、事を為す前に少名彦神が海の彼方の常世の国に渡ってしまい大国主神が嘆いていたところ、遠い沖合いから海原を照らして光り輝きながら近寄ってきた、その神様が大物主神です。大和の三諸山(三輪山)にお祀りされた神様で、後に 和光同塵わこうどうじんの御神意をもって讃岐国の金刀比羅宮(本宮)に顕現されました。『日本書紀』では大国主神の異称として、『古事記』では大国主神の和魂にぎみたまとして記されています。
大物主神とは「大いなるモノ(神霊)」、すなわち「神々の中でも最も偉大なる力を持つ神」という意味の神名であり、海陸安穏・五穀豊穣・万民泰平、国や人々に平安をもたらしてくださる神様です。また、一説に運を掌る神とも伝承されております。

崇徳天皇ストクテンノウ
崇徳天皇は鳥羽天皇の皇子で、保安四年(1123年)に第75代の天皇として即位され、永治元年(1141年)に上皇となられました。
保元元年(1156年)の保元の乱の厄により讃岐国へ遷られ、その後も讃岐国で過ごされた崇徳天皇は、象頭山中腹に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を日夜崇敬なさっていました。長寛二年(1164年)に崩御される前年には参籠し、荒行をなされたと伝えられております。
46歳で崩御された翌年の永万元年(1165年)、その不遇な生涯と崇敬の篤さを偲び、金刀比羅宮(本宮)の相殿にお祀りされることとなりました。


さて、長々と前置きをしたのは、初めて「神楽殿」での舞いをこの日見たからである!

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出典:http://www.kotohira.or.jp/

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この神楽は・・・

https://okumiya-jinja.com/interview/interview003/
毎月10日の縁日で神楽に親しむ
都内で一番神楽が身近な神社
毎月10日の縁日では、露店が境内に並びいつも以上の賑わいを見せる。そんな中で特に目を引くのは、神楽殿で奉納される神楽だ。

里神楽で日本の神々に触れる
神楽は大きく分けて、宮中で奉納される「御神楽」と、庶民が楽しむ「里神楽」があるそう。虎ノ門金刀比羅宮で奉納されている里神楽は、10時~15時頃の間で4回ほど行われ、にこやかなお面や威厳のあるお面の神様たちの物語が奉納される。「福徳舞」の演目では最後に、恵の穀物(お菓子)が配られたくさんの観客が集まってくる。ここが都会の真ん中とは忘れてしまう光景だ。都内で一番神楽を身近に感じられる神社と言っても過言ではないだろう。
(神楽は毎月10日の平日・土曜に奉納。1月と10月は日曜でも奉納される。)


昨日はたまたま10日であったために、偶然にも「神楽」に遭遇した!

こいつは暮れから縁起が良いかも?

(つづく)
[2018/12/11 14:14] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
桜田門の桜だもん!(その5)
「ところで、打ち合わせの後は、千鳥ヶ淵へはなぜ行かなかったのよ?」
「そ、また次の打合せが、今度は有楽町であったものですから!」

「へ~、あんたも中々忙しいんだっ!」
「そ、遊んでいるより面白いこともあってねっ!」

「そ、悠々自適なんてサ、そんなにいいもんじゃないよ!」
「そ、そうでしょう!」

と言う訳で、帰り道でまたちょっとスマホで・・・。

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この上の写真のベンチに座って、頭の上を見てみると、新芽が・・・

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もうもう、桜は満開で、柳もの他の木々も新芽を出した!
皇居周辺は、すっかり春真っ盛りである!

(つづく)
[2018/04/09 23:49] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
謹賀新年!
今日は、2018年1月1日である。

少し昔、年賀状に「金が信念」と書いて‘顰蹙(ひんしゅく)’を買ったことがある・・・。
年賀状も昨年早々に書き上げていたので、今年の元旦は悠々たる気分であった。

天気も良いし、子供達孫達も帰省していたので、例年通り、千葉県では一寸は有名な茂原市の‘橘樹神社’へ初詣に行った!
8人でおみくじを引いたが、5人が大吉、1人が中吉、2人が末吉という結果だった!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E
%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。

古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]
主祭神

弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)
相殿神

日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


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この樹が橘、そして下の写真のみかんが橘みかん・・・。

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これが、橘の家紋・・。

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この‘大吉’のおみくじの文句に、「・・・神信すれば 龍の風や雲を得て天に昇るように・・・」とある。
実は、昨年の12月26日に、以下の写真の‘龍の雲’を見ていた。この時何かの因果関係を感じていたのだが・・・。

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さあ、2018年の始まりである!

(つづく)
[2018/01/01 23:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
四国・新居浜の太鼓祭り、目前!
およそ10年前に約3年間、四国は新居浜市で‘面状発熱体’の開発に参加したことがあった。
この‘面状発熱体’という怪しげな‘物体’は、聞きなれないものに違いない。
しかし、この素晴らしい素材が、実は世界を救うと言う事だったら興味は尽きないに違いない!

まあ、思わせぶりで申し訳ないが、この‘面状発熱体’の機能の説明等は別途このブログで説明することにする。
実は、この製造システム一式を是非手に入れたいという社長さんが現れたのである。
この製造システムは、7年ほど前から或る理由で製造ストップになっている。

先日の日曜日(2017年10月8日)この会社の社長さんに呼ばれて、買いたがっておられる社長さんにあなたから技術的説明をするように依頼があってわざわざ千葉から四国・新居浜へ出かけた!

実はその帰り道、新居浜名物の太鼓祭りの‘リハーサル’町練歩きに出くわしたのである!
今年の太鼓祭りは、10月15日~18日だそうだ・・・。

スマホで撮った写真を時系列で・・・

①DSC_3341-2
②DSC_3341-3
③DSC_3342-2
④DSC_3342-3
⑤DSC_3343-2
⑥DSC_3343-3
⑦DSC_3344-2
⑧DSC_3344-3
⑨DSC_3345-2
⑩DSC_3346-2
⑪DSC_3346-3
⑫DSC_3349-2
⑬DSC_3349-3

JR新居浜駅へ着いた。
勿論、この駅にもこのお祭りの気分が満載で・・・

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⑯DSC_3353-2
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さて、今年の10月15日~18日の賑わいは???

(つづく)
[2017/10/11 21:58] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
バレンタインデーとチョコレート:(その3)その起源と海外での習慣
バレンタインデーとチョコレート:(その3)その起源と海外での習慣

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出典/http://tabizine.jp/2014/11/14/24077/

毎年、毎年、この季節になると‘何故、バレンタインデーにチョコレートを?’をネットで調べて、‘あっ、そうか!’と納得するが、もう一週間もしない内に忘れてしまう!

まあ、今回も同じかもしれないが・・・。

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出典/http://hakodate.areablog.jp/blog/1000009822/p10824441c.html

http://www.thedadbod.jp/special/valentine-day/#reserve
2017.01.16Tweet
バレンタインデーとチョコレートの関係

2月といえば・・・バレンタインデー!デパートや、色々な所でたくさんのチョコが並び、女性は誰にどんなチョコをあげるか悩んだり、男性はいくつ貰えるか、誰から貰えるかでドキドキする季節ですね!
そこで、日本以外の国ではどういう風にバレンタインデーを過ごしているのか、紹介していきます♪

そもそもバレンタインの由来は?

「バレンタイン」という言葉の起源は、聖徒の名前からきています。

時はローマにさかのぼり、3世紀当時のローマ皇帝「クラウディウス2世」は、士気をさげるとして兵士達の結婚を禁止していたと言われています。バレンタインは若者達を哀れに思い、密かに結婚させていたが、皇帝がそれを知り、バレンタインにローマ国教への改宗を迫りました.しかし、それを拒否したため、バレンタインは投獄され処刑されてしまいました。


そのバレンタインが処刑された日が、2月14日だったのです。

そして時は流れ、同じくローマでは、2月14日に、独身の男女性が名前を紙に書き、それを集めて翌日に独身の男性がくじのように引いて、出てきた名前の女性とつきあうというお祭りが行われていました。風紀の乱れを懸念したキリスト教は、このお祭りを廃止し、様々な聖人を奉る行事と改変したのです。そして、200年前の同じ日に恋人達のために殉教した聖バレンタインを祭る行事となったそうです。

なぜチョコレートを渡すようになったの?

「女性が好きな男性にチョコレートをあげる」というイメージがあるバレンタインデーですが、なぜたくさんある食べ物の中からチョコレートになったのでしょうか?
実は、チョコレート業者が、1958年に都内のデパートで「バレンタインセール」と称し行ったキャンペーンがきっかけだそう。
そして昭和50年代以降は、日本では独自に今のバレンタインデーの形が定着していったそうです。
ちなみに、海外ではバレンタインは『愛の日』として認識されていて、男性から女性に贈り物をするのが主流なんだとか!
日本では3月14日のホワイトデーがそれに近いですね。

海外ではバレンタインデーに何をプレゼントしているの?

アメリカ
バレンタインは何らかの方法で、愛を表現する日とされていて、メッセージカード、花束、アクセサリー、ハート型のバルーン、豪華ディナーとプレゼントも様々です。
中には、プロポーズをする男性や、結婚式をするカップルなどもいるそう。

台湾
2月14日だけでなく、旧暦の7月7日にもバレンタインがあるらしいですよ。
バラの花をあげる男性も少なくないみたいで、1本なら「あなただけを愛している」、11本なら「1番好き」、99本なら「一生好き」、108本なら「結婚して」と本数によって意味がきまっているそう。ロマンチックですね!

フランス
「恋人たちのお祭りの日」で男性から女性にプレゼントするのが一般的。
当日、お花屋さんには「あなたを愛します」という花言葉をもつ真っ赤なバラを買い求める男性が殺到するそう。男性が愛しの人に真っ赤なバラを贈り、2人でラブラブなディナーをするのがよくあるパターンらしいですよ。さすが「アムール(愛)の国」!

イタリア
プレゼントでもっともポピュラーなものが、バラの花。その次に下着。しかも赤色が人気なんだとか。その次くらいにジュエリーやアクセサリー、チョコレートはおまけ的な位置でした。
そのほかに、付き合っている彼女や奥さんなど愛する人のために、素敵なデートプランを練り、オシャレなレストランを予約して、バラの花束を買って、プレゼントを買ってとたくさん用意するそう。この日が、最もレストランの予約が取れにくい日なんだって!

ドイツ
交際しているカップルや夫婦だけのイベントで、主に花束を贈るそう。まだ付き合ってない相手に贈るのはおかしなことらしいので気をつけて!

韓国
日本と同じように、女性が好きな男性にチョコを贈ります。しかし、手作りはせず、市販のもの!バスケットにチョコレートをたくさん詰めて、豪華にラッピングして本命の彼に贈ることが多くなっているらしいです。とにかく派手に祝うみたい!さすが記念日を大切にする韓国らしいです。


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出典/http://hakodate.areablog.jp/blog/1000009822/p10824441c.html

やはり気になるのは、‘経済効果’である!
ネットで見ると次のようなデータがある・・・。

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出典/http://wakarukoto.com/?p=7721

少しデータは古いのかもしれないが、それにしても‘500億円以上’とは、驚きである!
国民一人当たりに直すと、一人が‘400円’近くも消費していることになる!

良く考えたもんだ!

(つづく)
[2017/02/13 14:09] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年の初詣
2017年の初詣

20年前にここ千葉県茂原市へ越して来て以来、我が家の毎年の初詣は、‘橘樹神社’と決まっている。
他の神社に初詣に行ったとしても、‘橘樹神社’への参拝は欠かしたことが無い・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E%
E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]
主祭神
弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

相殿神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


今年(2017年)の元旦は、小春日和の晴天!
最高気温は14℃にもなろうかという素晴らしい天気に恵まれたのである!

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上の写真の扁額は、戦勝祈願の為に寄進された扁額で、東郷平八郎書の文字が見える!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%
E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」で指揮を執り、「陸の乃木 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれ、バルチック艦隊を破ったことにより 英雄視された。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。


下の写真が、この神社の名称にもなっている‘橘’の木である・・。

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おみくじは、‘中吉’!
そして下の写真が、‘弟橘比売命’のお墓!

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正午を過ぎると参拝者の数も増えてきた!
やはり、初詣という伝統文化は、心を引き締めてくれる。来年もまた・・・。

(つづく)
[2017/01/03 23:54] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
冬至の柚子湯2016
冬至の柚子湯2016

https://allabout.co.jp/gm/gc/220635/3/
なぜ柚子湯に入るの?

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【ユズ】ミカン科の常緑植物。耐寒性に優れているので東北地方でも栽培。表面がでこぼこしていて大きなオオユズ、小ぶりのハナユズがある。

柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合せから柚子湯に入ると思われていますが、もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。端午の節句の菖蒲湯も同様です。

また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。

もちろん、柚子湯には血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果があります。さらに、芳香によるリラックス効果もありますから、元気に冬を越すためにも大いに役立ちます。


という訳で、 ‘日本文化’の代表選手でもある!

従って、こんなに簡単に‘文化に触れられるのなら、と我が家でも毎年‘柚子湯’にする習慣がある!

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何故、‘7対3’に分かれたのか?
それは、余り問題ではない!こじつけるなら、私の誕生日が、‘7月3日’だから、等と全く意味も無いことを申し上げても何の価値も無い!

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一個、何処へ?

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まあ、そんな訳で、今年の暮れも来年も頑張ろう!

(つづく)
[2016/12/23 23:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2016年のお盆(その1)
2016年のお盆(その1)

今年ももう8月の半ばとなった!
お盆の風習は、自分達のご先祖様に思いを馳せる絶好の機会であり、自分自身を見直す好機でもある!

ただ、お盆の時期が、新とか旧とかはあるにしても、一体何故この暑い時期に‘設定’されたかの理由を聞いても即答出来る御仁は少ない!

一寸調べてみると、以下の理由によるものらしい・・・・!

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AA%CB%DF
お盆の行事は釈迦の弟子の一人、目連尊者(もくれんそんじゃ)が母を救う話に由来している
目連尊者はある時、神通力によって亡き母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知った。 そこで、どうしたら母親を救えるのか釈迦に相談した ところ、 「夏の修行が終った7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことが出来るであろう」と言われたと伝えられている。そこで、目連尊者が釈迦の教えのままにしたところ、その功徳によって母親は極楽往生がとげられたという。それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となった


という訳で、この時期になったのは、お釈迦様の設定によるのだそうだから、安心した!

そんな訳で、我が家でもその準備をした!

先ずは、‘出窓’の掃除から・・・・。
仏様が、窓から出入りされる訳ではないが、我が家の出窓は、‘西側’にあるので、カーテンはぼろぼろ!
そんな訳で、新しいカーテンに!

カーテンだけで見てみると、外の小さな木の陰が微妙に日本画的雰囲気を醸し出している!

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もしも、西側だから、夕日が照らしたらこんな風に、とパソコンで加工!

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置物を置くと元通りの‘景色’に・・・・。

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という訳で、西側の窓口の準備が終わった!

(つづく)
[2016/08/15 23:55] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
浅草浄苑の展示品:‘家康公遺訓’
浅草浄苑の展示品:‘家康公遺訓’

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先般(2016年2月16日)、‘浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺’内にある‘浅草浄苑’へ行った時のこと、‘家康公遺訓’を、あの‘高橋泥舟’が、草書で書いた‘掛け軸’を拝見する機会を得た!

今まで、‘高橋泥舟’が、‘家康公遺訓’を書いたとは知らなかった!
何故なら、この‘家康公遺訓’は、家康公の直筆でないことの噂を聞いていたし、この‘偽作’を日光東照宮など各地の東照宮に納めた張本人が、高橋泥舟だというから、不思議に思った次第である!
<推測:勿論、コピー機のない時代だから、版木を用いての‘刷り物’だったろうと思われるのだが・・・。>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
家康公遺訓

家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。[51]また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。


注意をせねばならないのは、、‘家康公遺訓’とは別に‘家康公御遺訓(いえやすこうごゆいくん)’というのがある!

https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/142.html
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家康公御遺訓(いえやすこうごゆいくん) 元和初年に井上正就が、家康より秀忠に伝えよとて受けた教訓とされ、一般に家康の遺言として知られる「人の一生は・・・」で始まるものとは、内容を異にする。「日本古典籍総合目録」に多くの所蔵が見られ、タイトルも「東照宮御遺訓」「御遺訓」「御遺戒」など別書名が多数ある。平野寿則氏は、各所の資料を比較考証し、江戸の浪人松永堂斉が井上から聞き書きした「井上主計頭覚書」を福岡藩の儒者貝原益軒が改訂したものと推測している。


世間に知られている‘家康公遺訓’を少し掲載してみた!

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出典/http://aoibushoutai.com/aoibushoutai/

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出典/http://blog.livedoor.jp/siinomi907-yamazakura709/archives/50749048.html

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出典/http://cheerland.jp/diary/20150335373.html

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出典/http://ship.cocolog-nifty.com/ship/2011/08/17-aug-2011-6f9.html

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出典/http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e183873602
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

さて、さて、遅くなったが、展示してあった‘高橋泥舟’の‘家康公遺訓’の書とは、以下の通りである・・・。

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迫力満点の、誠に‘痺れる’大作である!
しかし、しかし、これを書くときの高梁泥舟の心境は如何だったのだろうか?

(つづく)
[2016/05/15 17:28] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺本山内・浅草浄苑(その2)
東本願寺本山内・浅草浄苑(その2)

‘浅草浄苑’内の芸術品について・・・。

<香合>

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%90%88
香合(こうごう)とは、香を収納する蓋付きの小さな容器。茶道具の一種であり、また仏具の一種でもある。香蓋とも書かれるが当て字。また合子(ごうす、ごうし)ともいう



<2016年4月26日>

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ところが、面白いことに、実は、3月18日に来た時には、展示の向きが反対だったのである!
お陰様で、‘両面から’見ることが出来た!

<2016年3月18日>

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時間をおいて、こんな展示の仕方をこれからも是非御願いしたい!

(つづく)
[2016/05/03 23:50] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺本山内・浅草浄苑(その1)
東本願寺本山内・浅草浄苑(その1)

最近、‘お墓’という概念が少しずつではあるが変わりつつある!

‘樹木葬’という、昭和時代には考えられ無かった‘新方式’まで現れて、今後のお墓はどんなことになっていくのかと考えさせられる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%B9%E6%9C%A8%E8%91%AC
樹木葬(じゅもくそう)

墓石の代わりに樹木を墓標とする墓のこと。樹木墓地(じゅもくぼち)、樹林墓地(じゅりんぼち)とも呼ばれる。

概要[編集]

樹木葬は、墓地、埋葬等に関する法律による許可を得た墓地(霊園)に遺骨を埋葬し、遺骨の周辺にある樹木を墓標として故人を弔う方法である。遺骨を埋葬するたびに新しい苗木を1本植えるケースや、墓地の中央にシンボルとなる樹木を植え、その周辺の区画に遺骨を埋葬するケースなど様々な方法がある。

墓地によって、全体を樹木葬墓地とする場合と、一般墓地や芝生墓地と樹木葬墓地を併用する場合がある。

墓碑として用いられる樹木は大きくならない低木が一般的で、ハナミズキ、サルスベリ、ウメモドキ、エゾアジサイ、ムシカリ、ツリバナ、モミジ等があげられるが、植樹する地域で生育できること、生態系に悪影響を与えないことなどが配慮される。

ペットなどの動物葬では以前からよく行われていたが、人間のための樹木葬墓地は1999年に岩手県一関市に登場したのが日本初である。2012年には、小平霊園に都立霊園初の樹林墓地が完成し[1]、2014年に樹林墓地に隣接して樹木墓地が作られた。小平霊園の樹木墓地と樹林墓地の違いは、遺骨を個別に埋蔵するのが樹木墓地であり、合葬して一緒に埋蔵するのが樹林墓地である。


中々ついてはいけない発想でもあるが、まあ、それはそれで、先日(4月)、両親などが眠る東京・元浅草にある浄土真宗・本山東本願寺内の浅草浄苑へ行って来た。今年3度目である・・・。

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此処へ来ると、何となく落ち着いた気持ちになる!
此処へ来ることのもう一つ楽しみは、美術品や芸術品が見られることである!

3月に来た時にも展示してあったのだが、‘横山大観’の富士山があった!
驚いたのは、横山大観が、‘台東区の名誉区民’だったことである・・・。

やはり、この作品は素晴らしい!

このマンション墓地に眠両親達が、こんな素晴らしい作品を見ているのだろうか?

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(つづく)
[2016/05/02 23:02] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
御柱祭
御柱祭

昨日(2016年4月8日)は、TV・ラジオのニュース番組では、何度も何度も‘御柱祭’のニュースが流れた!

先ずは、その画像から・・。

<以下の画像は、それぞれのTV画面をカメラで撮影したものである>

<お昼の番組>

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<夕方の番組>

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この豪快さは、見ていても、鳥肌が立つほどの‘迫力’がある!

さて、この‘御柱祭’の起こりと歴史はどんなものだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9F%B1%E7%A5%AD
御柱祭

御柱(おんばしら、みはしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、長野県諏訪地方で行われる祭である[1]。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭である[1]。長野県指定無形民俗文化財[2]。日本三大奇祭のひとつとされる[3]。

大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社(通称:小宮)でも同様の祭(小宮祭)が実施される[4]。

概要[編集]
山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である[1]。この御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新する[1]。氏子は、木遣りや喇叭に合わせて曳行する。

正確には満6年間隔で行われる「6年に一度」なのだが、慣例として数え年の7年目ごとという意味で「7年に一度」と表記されることが多い。最近は「7年目」もしくは「数えで7年」という表記に変わりつつある。大きくは「山出し」と「里曳き」にわかれそれぞれ4月と5月に、そして下社は上社の一週後に行われる。諏訪地方あげての一大行事であり、これに合わせて休日を設定する企業もある。

建御柱の前後に本来の式念祭といえる宝殿の造営がされるが、一般には取り上げられることが少ない。これは御柱の曳行と建立が氏子の奉仕によって行われるのに対し、宝殿の造営と遷座は諏訪大社神職が中心となり執り行われる行事のためである。

直近の開催は2016年で、前回の開催は2010年である。 2016年の御柱祭は以下の日程で開催されると2014年8月に発表された。

4月2日~4日:上社山出し
4月8日~10日:下社山出し5月3日~5日:上社里曳き
5月14日~16日:下社里曳き
5月13日:下社宝殿遷座祭 
6月15日:上社宝殿遷座祭 


こんな伝統文化こそ、今後盛り上げて残して行かねばならない!

(つづく)
[2016/04/09 23:55] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・上野公園の‘月の松’
東京・上野公園の‘月の松’

この情報、つまり‘月の松’が復活したとの噂は聞いていた!
何せ、自分の雅号が‘松月’なもんで・・・。<後出>

2016年3月16日の東京・上野公園(正称:上野恩賜公園)は、春真っ盛りだった!
たまたま訪れる機会に恵まれたので、清水観音堂に行って見た・・・。

http://ueno.keizai.biz/headline/1241/
清水観音堂に「月の松」復活-新たな観光名所に期待
2013年01月09日

清水観音堂に復活した「月の松」

上野公園内にある「寛永寺 清水観音堂」(台東区上野公園、TEL 03-3821-4749)に12月、「月の松」が150年ぶりに復活した。

 独特の枝ぶりが特徴の月の松。江戸時代から庶民に親しまれており、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている。しかし、明治初期の台風で消失したままとなっていた。この復活について同寺では、「江戸の風景を取り戻し、新たな観光名所として上野公園を盛り上げたかった」と話す。

 17日には除幕式が行われ、正式にお披露目された。「月の松を目当てに高齢者を中心に多くの方が訪れている」と同寺。ヨーロッパを中心とした外国人観光客も多数訪れており、浮世絵に描かれた風景をカメラに収める姿も見られる。

 円形にくるりと一回転する枝は足立区の造園職人の手によるもの。「この造形を生み出すことは難しく、都内でもわずかな職人しかできない」と同寺担当者。「今年3月までには、公園整備事業の一環として月の松の下にある桜を移設する。月の松から不忍池弁天堂が見えるように環境を整える予定」とも。

 清水観音堂は京都の清水寺を模して1631(寛永8)年に建立。安産祈願や人形供養の寺院として知られている。


歌川広重作の‘月の松’は以下の通り!

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出典/https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige178/

私が撮った現在の‘月の松’は・・・。

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多分、次の世代の準備が以下の写真である!

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観音堂の境内に、もしも現在の‘月の松’が何かの事故、例えば雷が落ちた!などの場合を想定して既に準備が・・・?

周りは、‘オオカンサクラ’が満開だった!

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‘松月’の駄作を!

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(つづく)
[2016/03/21 23:59] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
3月3日は、雛祭り!
3月3日は、雛祭り!

我が家にいた娘も今年大学生になる息子の母親だから、我が家では‘雛祭り’なんて、疾うの昔の出来事なのであるが、ここ房総半島の勝浦の‘ビッグ雛祭り’のこともあって、我が家では‘スモール、スモール雛祭り’の人形が今でも飾られる!

雛祭りの由来は、以下の通りだそうである・・・。

http://www.marutakeningyou.co.jp/sekku_3gatsu/
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【ひな祭りの由来】
ひな祭りの起源は平安時代の中頃までさかのぼります。そのころの人々の間では3月初めの巳の日に子どもたちの無病息災を願っておはらいをする行事がありました。陰陽師(吉凶を占う人)をよんで天地の神に祈り供物をそなえ、紙で作った人形(ひとがた)を庭園を流れるせせらぎや池に浮かべて流すというものでした。また、宮廷の婦人や子どもたちの間では紙で作った小さな人形や身のまわりの家具や道具をまねた玩具で遊ぶ「ひいな遊び」というおままごとのような遊びがありました。このふたつの行事や遊びが結びついたものが現在のひな祭りと言われています。


勝浦の‘ビッグ雛祭り’は、今年は行かなかったが、それは、それは‘ビッグ’であ~る!

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出典/https://retrip.jp/articles/24261/

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出典/http://www.city.katsuura.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=30237

一方、我が家の‘スモール雛’は、何組かに分かれている!

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まあ、伝統文化とはこんなもので、止めなければならないと言うことでもないし、絶対に続けなければならないと言うものでもない!
その時が来たら、「ああ、こんなこともあったなァ・・」ということで十分である!
それが長続きのコツかもしれない!

(つづく)
[2016/03/04 14:36] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
松の内
松の内

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出典/http://www.tebiki.jp/entertainment/culture/3804/

‘松の内’は、何時までか?

この頃世間では、こんなことは問題にもならなくなった!

‘松の内’がいつから始まろうといつ終わろうと‘関係ない!’
こんな世の中になってしまっている。
そして、そして、それを嘆く人もいなくなった!

大昔、そう、5~60年も昔は、商店街だけでなく普通のうちでもそんなに大きくなくても‘門松’を飾ったものである!
近頃の子供さん達は、デパートや大きなビル等に行かない限り、映像でない‘門松’を見る機会など無いに違いない!

そんな訳で、門松の意味を!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%9D%BE
門松(かどまつ)とは
正月に家の門の前などに立てられる松や竹の正月飾りのこと。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語[1]。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。

神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっている。

また、地域の言い伝えにより松を使わない所もある[2]。

新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まり、室町時代に現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われる[3]。

設置期間[編集]
12月の13日(もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」をおこなう[9]。上り松、花迎、花伐、松ばやし、などともいう[1]。この「松」により、山から歳神様(歳徳神)を迎え入れる事となる。

門松の設置は「松の内」に入る12月13日以降ならばいつでも良い。ただし、クリスマスは避けて設置される傾向にあり、他に12月29日に飾るのは「二重苦」、さらに9の末日でもあるので「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む[10]。また12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神をおろそかにするということから、それぞれ避けることとされている。

松の内の1月15日まで飾るのが伝統であるが、関東の一部などでは松の内を1月7日までに短縮しており、その場合は6日の夕方や翌7日に片づける場合が多い。(左義長が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は1月15日の小正月が多いが、地域や神社によって異なる)。

門松を片付けることを、松下ろし、松あがり、松払い、松引き、松送り、松納め、などという[1]。鳥総松(とぶさまつ)や留守居松といい、門松を飾ったあとの穴にその松の梢を立てる風習もある[1]。

門松を片付けた後の正月は、松過ぎとよぶ[1]。


と言う訳で、今日が1月7日だから、正月飾りは仕舞われてしまう運命にあるらしい!

だから、まあ、我が家の正月飾り+αを画像で残しておきたい!

① 先ずは、玄関前の花から・・・。

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② 玄関扉の飾り

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③ 玄関に入ると・・・

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と言う訳で、今日7日が‘松の内の最後の日’らしいから、これらの内どれが明日から居残るのだろうか?

(つづく)
[2016/01/07 23:43] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その4)
橘樹神社への初詣(その4)

2016年の新春は、日本全国なんだかもう春が来たような‘ぽかぽか陽気’!

本日(1月4日)の房総半島・千葉県・茂原市での最高気温は、17℃というから3月始めの気温らしい!
天気情報によると、明日(1月5日)も、最高気温が15℃らしいから、もう新春ではなくて、‘春’そのものである!

1月1日の橘樹神社への初詣の日も、多分、15℃くらいはあったのだろう。境内の桜がもう‘ちらほら’だったのは、昨日の本ブログで紹介したとおり・・・。

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さて、この由緒ある橘樹神社への元旦の参詣は、社殿まで辿り着くまで約1.5時間!
成田山だって、こんなに掛かりはしないが、何せ‘お鈴’が三つしかないため、一回に3人ずつしか進まない!
一回に30秒掛かるとすると、計算では以下のようになる!

一列の幅が、1mと仮定すると、

1m進むのに、0.5分(30秒)掛かる訳だから、1.5時間、つまり90分では、180mの行列が出来ていたことになる!

マップの上で、橘樹神社の鳥居から社殿までを測ってみると、約160mである!

この誤差は、一列の幅が‘1m’と見積もったのに‘誤差’が生じたのか?或いは、一列の進み方が、0.5分(30秒)という仮定に誤差があるのか?

でもそんなに仮定が大間違いをしている訳ではない事が判る!
そんな訳で、参拝客の行列は、少しずつしか進まなかった!

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これで、長々となってしまったが、橘樹神社への初詣は、終了!

おっと、いい忘れそうになったが、私の今年のおみくじは、‘中吉’!
周りも大体そんなところ・・。小吉か吉程度だった!

(つづく)
[2016/01/05 01:50] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その3)
橘樹神社への初詣(その3)

昨日の本ブログに書かせて貰ったように、第12代景行天皇の皇子の日本武尊のお后の弟橘比売命が橘樹神社の主祭神だそうだから、神社の格式がどうやって決められているのかは知らないが、それなりに伝統文化という意味では意義のある神社と言えそうである!

それを知っているのなら、お鈴を ‘じゃらん、ジャラン’と鳴らして、二礼二拍手一礼を済ませて、甘酒とおみくじ、それに熊手、それだけで帰ってしまうなんて、勿体無い!

弟橘比売命の‘御陵’などに参拝するのも‘義務’ってものじゃぁ?!なんて・・・。

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弟橘比売命(おとたちばなひめ)の‘御陵’
出典/http://nobyama.com/tachibana_album.htm

まあ、それはそれとして、皆さんは約一時間以上も待ちに待って、お鈴を ‘じゃらん、ジャラン’と鳴らすのである。

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20160101 正月の朝-2 052-2
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20160101 正月の朝-2 054-2
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20160101 正月の朝-2 060-3
20160101 正月の朝-2 063-4
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これは、‘桜’であって決して‘梅’ではない!

(つづく)
[2016/01/04 18:42] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その2)
橘樹神社への初詣(その2)

2016年の初詣は、房総半島は、千葉県茂原市・本納にある‘橘樹神社’へ!

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‘橘樹神社’とはどんな‘縁(ゆかり)’のある神社なのか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B
9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)


橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]

主祭神
 ・弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

相殿神
 ・日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
 ・忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。

神階[編集]
元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘樹神」。
元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘神」。

境内[編集]
本殿は、江戸時代の寛政12年(1800年)の造営。

本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が造営されるまで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていたという。また、境内の吾妻池はこの墳墓を掘った跡の穴であると伝えられる。


主祭神は、弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)で、何と、その夫が、日本武尊 (やまとたけるのみこと)というから凄い!

こんなことを言っては失礼かもしれないが、参詣に来たほとんどの人が、このことを知らないと思われる!

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また、日本武尊 (やまとたけるのみこと)のことはしていても、彼がどんな御仁だったかを他人様に説明出来る人はそう多くは無いと思われる!

そこで、日本武尊 (やまとたけるのみこと)とは?

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%
E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%B0%8A-144214

日本武尊

『古事記』『日本書紀』の伝説で活躍する,景行天皇の皇子で,わが国の古代伝説の代表的英雄。『古事記』では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。名は小碓命。別名,日本童男,倭男具那王。『常陸国風土記』では倭建天皇とも記す。『古事記』によれば,父の天皇から,食事に出てこなくなった,双子の兄の 大碓命 を諭せと命じられ,殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に,熊曾建兄弟の討伐を命じられ,伊勢の斎宮で叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から衣裳を賜って九州へいき,女装して宴席に入り,兄弟を刺し殺し,そのとき弟から,ヤマトタケルの名を献上された。帰途に出雲(島根県)に寄り,出雲建(イズモタケル)を,友誼を結び油断させておいて,騙し討ちにして殺す。帰って報告するとすぐにまた,東国の征伐を命じられ,伊勢にいき,ヤマトヒメから 草薙剣 と袋を授かり,危急のとき袋の口を開いてみよと教えられる。尾張(愛知県)で美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約したのち,相模(神奈川県)で国造に欺かれ,野火に囲まれるが,草薙剣で周囲の草を刈り,袋の中にあった火打ち石で,逆に火を燃やして難を逃れる。房総半島(千葉県)に向け海を渡ろうとして,渡の神に妨害され,船が進まなくなり,后の弟橘比売が入水して,荒波を鎮めた。東征を果たして帰途に足柄の坂で「吾妻はや」といって后の犠牲を嘆き,それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。甲斐(山梨県),信濃(長野県)を経て尾張に帰り,ミヤズヒメと,月経の血で衣の裾が汚れていたのにかまわず,契りを結んだのち,草薙剣を彼女のもとに置き,伊吹山(滋賀,岐阜両県の県境)の神を素手で退治しにいったが,その神の毒気にあてられて重病になり,重い足を杖で支え,苦しみながら旅をして,三重の能煩野まで辿り着いたところで力尽き息絶えた。大和(奈良県)から后たちと子たちがやってきて,御陵を造り,泣きながら葬ろうとしたが,尊は八尋白智鳥に化して飛び翔り,后たちと子たちが懸命に追っていくと,河内の志幾(大阪府南河内郡)に留まった。そこでその地に白鳥陵を作り,鎮座させようとしたが,再び天翔り去ったという。 大略このような伝説は,全体が明らかに,典型的な英雄神話のパターンに則って構成されており,ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は,ことに著しい。両者は共に,劣弱な双子の兄弟を持っているうえに,肉親(兄と実子)の殺害と,友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと,愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が,それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に,葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも,明らかに共通したところがあると思われるからだ。名古屋市の熱田区熱田神宮の相殿神であるほか,静岡県清水市の草薙神社や,焼津市の焼津神社などに祭られている。<参考文献>吉田敦彦『ヤマトタケルと大国主』
(吉田敦彦)


という訳で、日本武尊 に関する物語は、たくさん、沢山あ~る!

その后の弟橘比売が、この橘樹神社の主祭神というから、この神社は、それはそれは、大した‘縁(ゆかり)’である!

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これほどの由緒ある神社、もっと深く知っておくべきかも知れない、地元の住人としては!

(つづく)
[2016/01/03 21:29] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その1)
橘樹神社への初詣(その1)

習慣とは‘恐ろし’!(?)

‘皆が行くから俺も行く’で何が悪い!?
というのが、大体初詣に行く人の理由である・・・。

我々も、‘初詣’の意義や、いつ頃から習慣になったかなど知る由も無いが、まあ、近所の或いは有名な神社などへ出かけて‘おみくじ’を引いて、‘甘酒’でも・・・、という情けない理由である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%A9%A3
初詣・初詣で(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参り(はつまいり)ともいう。

歴史[編集]
明治神宮の初詣に大勢の人が並ぶ様子
住吉神社の初詣の様子元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。

江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた[1]。

「年籠り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治中期のこととされている。また、氏神や恵方とは関係なく、有名な寺社に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという[2]。

また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。

近代以後の変容:恵方詣りから初詣へ[編集]
江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった[1]。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている[3]。

関東では、明治5年(1872年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった[4]。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった[5]。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた[6]。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を管見の初出と紹介している[7]。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが[8]、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった[9]。

関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた[10]。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった[11]。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した[12]。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した[13]。


まあ、‘初詣’には、こんな歴史があったのかを意識して、早速、‘橘樹神社への初詣’!

20160101 正月の朝-2 013-2
20160101 正月の朝-2 014-2
20160101 正月の朝-2 015-2
20160101 正月の朝-2 016-2
20160101 正月の朝-2 016-3
20160101 正月の朝-2 017-2
20160101 正月の朝-2 018-2
20160101 正月の朝-2 019-2
20160101 正月の朝-2 019-3
20160101 正月の朝-2 020-2
20160101 正月の朝-2 023-2
20160101 正月の朝-2 024-2
20160101 正月の朝-2 025-2
20160101 正月の朝-2 026-2
20160101 正月の朝-2 021-2

何だかこの神社には、縁がありそう!

(つづく)
[2016/01/02 19:51] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
NHK・紅白歌合戦
NHK・紅白歌合戦

2015年も本日で終わりである!

恒例の紅白歌合戦、少々ビールが効いて眠気耳で聞いていたが、五木ひろしが‘千曲川’を歌っているではないか!

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この曲には想い出がある!

何と、私がカラオケで最初に歌った歌である!

だからと言って、何があるわけでもないのだが・・・。

これで今年も終わり、あと数十分で新しい‘2016年’が始まる!

平凡な言い方だが,一刻も早く世界に平和が訪れるように願うばかりである!

(つづく)



[2015/12/31 23:41] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
年賀状
年賀状

年賀状は、貰うと大変嬉しいが、書かねばならないというプレッシャーが毎年12月になると襲い掛かって来る!

そのストレスから開放されるためには、出来るだけ早くから取り掛かることである!

今のように、全てパソコンがやってくれる時代の年賀状は、‘個性’が無くなってしまっているから、貰った方も「‘3秒’見れば終わり!」と言うことになってしまって,我々が芋版で作った想い出は、もう大昔のこととなってしまった!

それでも、‘年賀状’と言う文化は、まだ残っているから、なかなか‘廃止’と言う訳には行かない!

今年も、その‘素材探し’に時間が掛かった!
誰もが使う素材では面白くないし、そうかといって‘家族の写真’も親戚だけにしか通用しないから・・・。

候補は以下である!

20150627 夕焼け 006-2
20150801満月の花火大会 024-3
20150801満月の花火大会 021-2
20150801満月の花火大会 159-2
20150625 鯉 017-3
20150625 鯉 003-2
20150817 富士山と恵みの雨 124-3
20150930 秋の山の風景 070-2
201501012 秋さくら 020-3
201501012 秋さくら 021-3
201501012 秋さくら 029-3
DSC_1656-5-3_2015123117032381f.jpg
20150616 カマキリ 020-2
20150706 植物 072-2
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DSC_2046-4_20151231170951c8c.jpg
二〇一五一二07~09 022-3
DSC_2504-10_20151231171801448.jpg
DSC_2509-3.jpg
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DSC_2532-2_201512311717586a4.jpg
DSC_3330-3_20151231172137ddd.jpg
DSC_2869-4.jpg
DSC_2826-4_20151231174224bde.jpg
DSC_2992-3.jpg
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DSC_3404-2_20151231172142edb.jpg
DSC_3341-4_20151231172140b5d.jpg
DSC_3413-2_20151231172143ddd.jpg

この他にもごまんとあるのだが、やっぱり年賀状の素材としては、最後の‘キンカン’に決定!

と言う訳で、2016年の私の年賀状の一部が以下の画像!

2016年年賀状案-1(kissy)0001

(つづく)
[2015/12/31 18:12] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
方言について
方言について

昨日の読売新聞の朝刊に大変面白い記事が掲載されていた!
これはブログの記事にしておいて、いつでもスマホで見れるようにしておきたい!

新聞記事0001-2
出典/読売新聞

「あんたサ、出身故郷何処でしたか?」
「ああ、鳥取!」
「じゃあ、‘有難う’は、‘だんだん’かい?」
「そう、そう!」

「あんたは?」
「おれ、沖縄!」
「じゃあ、‘にへー’?」

「高知で、ほんとに‘たまるか’って言うのかねェ?」
「さぁ~ね?」

宮崎では、 ‘かたじけない’と言うらしいが、これって‘女性’でも、そう言うのだろうか?

兎に角、この情報、こんな纏め方が素晴らしい!
結構これで故郷を想い出したりして・・・。

今後は、「嬉しい!」や「楽しい!」やなんかもやって貰えば、更に日本語の故郷の良さが把握出来るかも?

更に、次の様な統計の取り方もある!

新聞記事-2
出典/読売新聞

何だかよ~く判る!

さて、新設コーナーへ

「‘トリミング’拡大画像コーナー」(第7回)問題編

問題:次の画像は、一体何の一部でしょうか?

201501021 秋の我が家の庭 010-3

回答: ‘インドゴムの木’でした!

201501021 秋の我が家の庭 010-4
201501021 秋の我が家の庭 010-2
201501021 秋の我が家の庭 011-3
201501021 秋の我が家の庭 011-2


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4
%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%82%AD

今日の日本では単にゴムノキと言ったときに、産業的には天然弾性ゴムの原料として重要なパラゴムノキを意味することが多いが、家庭では、観葉植物として広く流通し、普及しているインドゴムノキを指すことが多い。



(つづく)
[2015/11/05 19:57] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日
文化の日

11月03日は日本の場合、‘文化の日’としての国民の祝日である!

でも

「‘文化’って何?」

と突然聞かれると

「え~っと、‘文’が何かに‘化ける’のではなくて、え~っと、解んない!」

と言うことになりそうである!

そこで大事なことは、直ぐにネットで調べたりせずに、‘自分の頭’で考えて見ることが必要である!
近頃の‘ネット族’(私が言い出した言葉!)は、解らない事があると直ぐにネットで調べる癖が付いてしまっていて己の頭で考えない!

それじゃあ、と言う訳で考えてみた!

① 文化は、英語では‘Culture’という!
江戸時代は、一般の人達は、いわゆる‘長屋’住いだった。そこでは、醤油や味噌や‘お茶っ葉’まで、自分家に切れていたら、お隣さんから借りても良かった‘文化’があったらしい!お茶っ葉を借りるから、‘カル茶ー’という、なんてね!

情けないが、他には思いつかない!これじゃあ、①を付けた意味が無い!

やっぱり、‘ネット’で!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
文化(ぶんか、英語: culture、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと である。

社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。

・ハイカルチャーのように洗練されたもの
・象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン
・ある社会組織に共有されている価値観


なお、日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるもの とされている[1]。


いやいや、なかなか難しい!

坪内逍遥以前には、日本語では、何と言っていたのだろうか?
それとも、日本には‘文化は無かった’のだろうか?
そんなことは無い!

江戸時代の文化の代表の一つは、やはり現在でも同じだが、‘食文化’なのだろう!

そうか,そうか!

mainimage_201511031433015f5.jpg
出典/https://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/edo/
tokyo_library/gourmet/index.html


食の‘風習’こそ‘文化’なのである!
上記引用文献に書かれている

・ある社会組織に共有されている価値観

に当て嵌まるのかも知れない!

それなら‘簡単’である!
何か‘発見’したり、‘納得’が行ったりした場合、‘ビール’で乾杯と言うのが通り相場である!(ある社会組織<家庭>に共有されている価値観)

今夜は特別に、‘ビールで乾杯’という我が家の‘文化’に乾杯!
さあ、冷やしとかなきゃア!

img_1_20151103144218803.jpg
出典/http://blogs.yahoo.co.jp/dreamdandy1/26148593.html

ところで、俺のはどっち?

さ~て、続いては、新コーナー!

「‘トリミング’拡大画像コーナー」(第5回)問題編

問題:次の画像は、一体何の一部でしょうか?

DSC_2387-3.jpg

ヒント:勿論、‘まりも’ではありません!

回答編: ‘シュウメイギク’ でした!

DSC_2387-5.jpg
DSC_2387-2.jpg

シュウメイギクとは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82
%A6%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%82%AF

シュウメイギク(秋明菊、学名:Anemone hupehensis var. japonica)とは、キンポウゲ科の植物の一種。別名、キブネギク(貴船菊)。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。

概要[編集]
中国から古い時代に入ってきた帰化植物である。文献上では「花壇綱目」に「秋明菊」の名前で記載が成れていて、日本に定着していたことが窺える。

中国では明代末の「本草綱目」には記載はなく「三才図会」に「秋牡丹」の名前で記載されるようになる。「秋牡丹」の呼称は貝原益軒も「大和本草」で使用している。以後日本の園芸書には「秋明菊」「秋牡丹」で紹介されることが多くなり、「しめ菊」「紫衣菊」「加賀菊」「越前菊」「貴船菊」「唐菊」「高麗菊」「秋芍薬」などの多様な別名で呼ばれることになった。

花色は赤紫色であるが、近年、他種との交配品種が市販されるようになり、弁数が少ない品種や白色の品種が多く栽培されて名称の混乱が見られる。

生態[編集]
多年草で開花期は秋、高く伸びた花茎の上に大柄な花をつける。花は多数の赤紫色の花弁状の萼片が目立ち、本物の花弁はない。



(つづく)
[2015/11/03 16:13] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今日の誕生花
今日の誕生花

今日(2015年06月29日)のNHKラジオ・深夜便では、6月29日の誕生花は、‘くちなしの花’と言っていた!

一日どちらかが間違えたのか、くちなしは6月28日が誕生花という。
誕生花は、誰がどんな理由でそう決めたかという確たる証拠(?)は無いらしいから、まあ、どっちでもいいことなのだが・・・。
6月7日という‘決め方’(?)もあるらしいから、そんなに議論することでもないことらしい・・。

http://www.hanakotoba.name/archives/2005/09/post_67.html
《クチナシの誕生花日付》
6月7日(母親大会記念日)
6月28日(貿易記念日・パフェの日・雨の特異日)の誕生花


要するに、‘くちなしの花の身頃は6月’と言うことなのだろう。

我が家にも‘八重のくちなし’が咲いている!

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花は‘美しい’時のものだけが掲載されるのが一般的であるが、‘役目を終えて’次の世代へバトンを移そうとしている‘老々の’花の姿もじっくり見ると‘風格’さえ感じられるのだが・・・

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そして、次の世代の蕾は、ナント‘頭の部分’が、‘カット’されているようにみえる・・・?

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でも、でも‘ちゃんとした‘新蕾’もあるのである!

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さて、‘くちなし’で思い出すのは、

「 くちなしや 鼻から下は 直ぐにあご 」

まあ、ナント言うことはない、でも有名な‘駄洒落’なのだが、実はこれについては、私にとっては、涙ぐましい‘エピソード’がある!

これについては次回!

(つづく)
[2015/06/29 14:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
サンライズ九十九里のひな壇2015(その2)
サンライズ九十九里のひな壇2015(その2) 

2015年2月25日、サンライズ九十九里国民宿舎に雛人形の飾り台が出来たと言うので見に行ったことは昨日のこのブログでご紹介した。

雛人形の他に素晴らしい写真も撮れたのでご紹介しておきたい。

雛人形は以下の写真に示すように素晴らしい人形だった!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 047-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 048-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 049-2

こんな‘ゆるキャラ’もいるらしい!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 041-2

奥飛騨からの特別参加も・・・。

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 007-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 008-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 008-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 010-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 012-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 014-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 017-2

この蘭は素晴らしい!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 036-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 035-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 037-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 038-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 039-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 040-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 040-3

サンライズ九十九里国民宿舎の空撮写真がこれ!

サンライズ九十九里
出典/http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/15930/

(つづく)
[2015/03/14 13:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
サンライズ九十九里のひな壇2015(その1)
サンライズ九十九里のひな壇2015(その1)

天皇・皇后両陛下がご宿泊されたことで夙に有名になった千葉県の‘サンライズ九十九里’と言うホテル(国民宿舎)に何百体かの雛人形が飾られているいうので、2015年2月25日、見に行くことになった!

http://www.kokumin-shukusha.or.jp/annai/tebiki.html
国民宿舎とは
国立公園・国定公園・都道府県立自然公園・国民保養温泉地などの自然環境の優れた休養地に建設されている公共の宿です。国民の誰もが健全なレクリエーションと健康の増進をはかるため気軽に利用できるようにという目的でつくられたものです。
現在、北海道から九州まで全国に113ヶ所あります。
(東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、愛知県、大阪府、京都府、徳島県にはありません。)
国民宿舎には会員制度のようなものはありません。
個人でも家族連れでも、また職場のグループなどの団体でも、どなたでもお気軽にご利用できます。
一般の観光旅行やスポーツ・レクリエーションのほか、会議や研修会、合宿にも好適です。


どこかのCMで、「人形は顔が命!」というが正にその通り!
どんな雛人形がどのくらいの数飾ってあるのか?
その点に興味があった。

‘サンライズ九十九里’は、その‘奇異な’形でも有名である。

雛飾りの素晴らしさ

① 一般の家庭の家庭には、そんなに種類はないと思われるが、これまで見たこともなかった爺婆の人形も!
② どれも顔がいい!
③ どれも新品に近い!
④ 千葉県・勝浦の神社の階段を使った雛飾りには及ばないかもしれないが、これだけの数の雛人形が真近で・・

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 001-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 005-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 006-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 018-2
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画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 023-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 020-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 021-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 022-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 024-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-4
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-5
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-6
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 027-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 028-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 029-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 030-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 031-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 031-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 032-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 033-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 034-2

この国民宿舎は、‘サンライズ九十九里’というからには、やはり、九十九里海岸からみると朝日が上がっ来るのが見えるからである!
フロントのサンライズの写真は素晴らしい!が、もう少し大きくても??

(つづく)
[2015/03/13 12:38] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
アスリートの魂・嘉風関(その2)
アスリートの魂・嘉風関(その2)

「相撲はスポーツだが、大相撲は文化だから、精神的なというよりもっとわかり難くいえば‘形而上学的’身体行動と言える」と誰かさんが言っておりましたです、ハイ!

そんな訳で、‘大相撲の位置づけ’は、なかなかややこしいらしい!
そんなことは、こちとらは余り判らないが、そう言われてみればそんな気がしないでもない。

そうそう、嘉風関の、その後の行動、これが今日のテーマ!

嘉風関は、悩みに悩んだ末、尾車親方の「記録に残るより、記憶に残る相撲を取れ!」について、もう一度尾車親方に教えを乞う積もりで親方の部屋を訪ねたのである!

いやいや、尾車親方の‘眼差し’は、決して優しいものではなかった!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 040-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 040-3
この尾車親方の‘眼力’が、嘉風関に或る感動を与えたのである!
自分の甘さをこの‘眼’が見抜いた瞬間でもあった!
嘉風関はこの瞬間に‘悟り’を開いた!

昔の賢者はいう!
「やり辛い問題から先に取り組め!」
これを実行した嘉風関の勝利の瞬間でもあった!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 045-2

もう彼は迷うことは何もなかったのである!

そして迎えた苦手中の苦手‘魁聖’との取り組み!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 047-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 048-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 049-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 050-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 052-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 053-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 055-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 057-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 058-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 059-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 061-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 062-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 063-2
作戦は見事に成功した!
この瞬間に嘉風関よりも喜んだのは、、きっと尾車親方であり、中村親方だったに違いない!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 065-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 068-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 068-3
この日の夕刻、嘉風関は次のように振り返っている!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 069-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 070-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 071-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 073-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 077-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 078-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 084-2
嘉風関の顔つきがやはり‘変わった’感じがする!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 091-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 095-2
これで、NHKの‘アスリート魂・嘉風関編’は終わりである!

さて、さて、はじめに書いた通り、私は或る時を境に‘嘉風関の猛烈なファン’になった!
その種明かし話!

数年前、私は岡山市の或るIT産業会社で働いていたのだが、事業拡大のために、東京支社を開設することのなった。
その時に東京勤務をもと命じられて、東京・中央区・築地の職場も掛け持ちすることと相成ったのである。

その支社の近くに‘OO山’というお蕎麦屋さんがある!
お昼は勿論、夜の打ち上げもその‘OO山’さんを利用させて貰っていたのであるが、或る夜のこと、我々も‘帰りに元気が出るように’といつものように、その‘OO山’へ立ち寄った、と思いねぇ!

そこに、‘ちょんまげ’が見えるではござんせんか!それもお嬢チャン・奥様の家族連れでお座敷の方に・・・。

恐る恐る女将に聞くと
「‘嘉風関’は、この近くなのよ!」という。

「それじゃぁ、一献差し上げなきゃぁ」と私が言う!
「‘嘉風関’ったら、お酒駄目なのョ!」と女将。

「じゃあ、何がいい?」と私。
「そうねぇ、お魚が好きだからさ、何か見繕って・・・」と女将。

「へ~い、一丁‘あちらの御ひいき様’から!・・・」と女将。

その時初めて、嘉風関が、我々の方を振り返ってくれた!
我々‘4人組’は、‘それっ’とばかり、嘉風関家族の席へすっ飛んで行った!握手をして貰いたいために、である!

嘉風関は、座敷を降りて我々の握手に応じてくれたのである!
我々‘4人組’の中に、185cmの‘のっぽのB君’がいた!
ご案内の通り、嘉風関は、175cm!

そこは、‘B君’!腰を落として握手をして貰った!お見事!嘉風関よりも頭が上に行かないようにとの配慮である!
そんな訳で、‘4人組’は今でも嘉風関の大ファンである!

それに、それに、私には‘おまけ’がついた!

そろそろ、嘉風関もお帰りになる時間帯となったのだが、たまたまその時私の携帯が鳴って、岡山の本社との話が終わらない!勿論私一人外へ出て、そう、5~6分も話していたのだが、その間ず~と嘉風関は、意外や意外、2~3m離れた場所で私の電話が終わるのを待っておられたのである!「有難うございました!」の御礼を最後に言うために!

私は勿論、‘4人組’全員が‘感心した’のは当然である!

その‘OO山’というお蕎麦屋さんが、こちら!
実は、昨日築地の近くの昭和通りで打ち合わせがあったので、打ち合わせ後、思い出の‘OO山’へ寄ってきたのである!

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もう、随分お歳なのだろうが、相変わらず女将は健在だった!
これこそ、本物の‘江戸っ子女将!’
築地には‘隠れた穴場’がまだ残っていた!

(つづく)
[2015/02/25 12:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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