バレンタインデーとチョコレート:(その3)その起源と海外での習慣
バレンタインデーとチョコレート:(その3)その起源と海外での習慣

24077-02.jpg
出典/http://tabizine.jp/2014/11/14/24077/

毎年、毎年、この季節になると‘何故、バレンタインデーにチョコレートを?’をネットで調べて、‘あっ、そうか!’と納得するが、もう一週間もしない内に忘れてしまう!

まあ、今回も同じかもしれないが・・・。

201321419261ZUH6T.jpg
出典/http://hakodate.areablog.jp/blog/1000009822/p10824441c.html

http://www.thedadbod.jp/special/valentine-day/#reserve
2017.01.16Tweet
バレンタインデーとチョコレートの関係

2月といえば・・・バレンタインデー!デパートや、色々な所でたくさんのチョコが並び、女性は誰にどんなチョコをあげるか悩んだり、男性はいくつ貰えるか、誰から貰えるかでドキドキする季節ですね!
そこで、日本以外の国ではどういう風にバレンタインデーを過ごしているのか、紹介していきます♪

そもそもバレンタインの由来は?

「バレンタイン」という言葉の起源は、聖徒の名前からきています。

時はローマにさかのぼり、3世紀当時のローマ皇帝「クラウディウス2世」は、士気をさげるとして兵士達の結婚を禁止していたと言われています。バレンタインは若者達を哀れに思い、密かに結婚させていたが、皇帝がそれを知り、バレンタインにローマ国教への改宗を迫りました.しかし、それを拒否したため、バレンタインは投獄され処刑されてしまいました。


そのバレンタインが処刑された日が、2月14日だったのです。

そして時は流れ、同じくローマでは、2月14日に、独身の男女性が名前を紙に書き、それを集めて翌日に独身の男性がくじのように引いて、出てきた名前の女性とつきあうというお祭りが行われていました。風紀の乱れを懸念したキリスト教は、このお祭りを廃止し、様々な聖人を奉る行事と改変したのです。そして、200年前の同じ日に恋人達のために殉教した聖バレンタインを祭る行事となったそうです。

なぜチョコレートを渡すようになったの?

「女性が好きな男性にチョコレートをあげる」というイメージがあるバレンタインデーですが、なぜたくさんある食べ物の中からチョコレートになったのでしょうか?
実は、チョコレート業者が、1958年に都内のデパートで「バレンタインセール」と称し行ったキャンペーンがきっかけだそう。
そして昭和50年代以降は、日本では独自に今のバレンタインデーの形が定着していったそうです。
ちなみに、海外ではバレンタインは『愛の日』として認識されていて、男性から女性に贈り物をするのが主流なんだとか!
日本では3月14日のホワイトデーがそれに近いですね。

海外ではバレンタインデーに何をプレゼントしているの?

アメリカ
バレンタインは何らかの方法で、愛を表現する日とされていて、メッセージカード、花束、アクセサリー、ハート型のバルーン、豪華ディナーとプレゼントも様々です。
中には、プロポーズをする男性や、結婚式をするカップルなどもいるそう。

台湾
2月14日だけでなく、旧暦の7月7日にもバレンタインがあるらしいですよ。
バラの花をあげる男性も少なくないみたいで、1本なら「あなただけを愛している」、11本なら「1番好き」、99本なら「一生好き」、108本なら「結婚して」と本数によって意味がきまっているそう。ロマンチックですね!

フランス
「恋人たちのお祭りの日」で男性から女性にプレゼントするのが一般的。
当日、お花屋さんには「あなたを愛します」という花言葉をもつ真っ赤なバラを買い求める男性が殺到するそう。男性が愛しの人に真っ赤なバラを贈り、2人でラブラブなディナーをするのがよくあるパターンらしいですよ。さすが「アムール(愛)の国」!

イタリア
プレゼントでもっともポピュラーなものが、バラの花。その次に下着。しかも赤色が人気なんだとか。その次くらいにジュエリーやアクセサリー、チョコレートはおまけ的な位置でした。
そのほかに、付き合っている彼女や奥さんなど愛する人のために、素敵なデートプランを練り、オシャレなレストランを予約して、バラの花束を買って、プレゼントを買ってとたくさん用意するそう。この日が、最もレストランの予約が取れにくい日なんだって!

ドイツ
交際しているカップルや夫婦だけのイベントで、主に花束を贈るそう。まだ付き合ってない相手に贈るのはおかしなことらしいので気をつけて!

韓国
日本と同じように、女性が好きな男性にチョコを贈ります。しかし、手作りはせず、市販のもの!バスケットにチョコレートをたくさん詰めて、豪華にラッピングして本命の彼に贈ることが多くなっているらしいです。とにかく派手に祝うみたい!さすが記念日を大切にする韓国らしいです。


201321419284372Nc1.jpg
出典/http://hakodate.areablog.jp/blog/1000009822/p10824441c.html

やはり気になるのは、‘経済効果’である!
ネットで見ると次のようなデータがある・・・。

Screenshot_20170213-133134-2.jpg
Screenshot_20170213-132957-2.jpg
出典/http://wakarukoto.com/?p=7721

少しデータは古いのかもしれないが、それにしても‘500億円以上’とは、驚きである!
国民一人当たりに直すと、一人が‘400円’近くも消費していることになる!

良く考えたもんだ!

(つづく)
スポンサーサイト
[2017/02/13 14:09] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年の初詣
2017年の初詣

20年前にここ千葉県茂原市へ越して来て以来、我が家の毎年の初詣は、‘橘樹神社’と決まっている。
他の神社に初詣に行ったとしても、‘橘樹神社’への参拝は欠かしたことが無い・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E%
E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]
主祭神
弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

相殿神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


今年(2017年)の元旦は、小春日和の晴天!
最高気温は14℃にもなろうかという素晴らしい天気に恵まれたのである!

DSC_0774-2.jpg
DSC_0775-2.jpg
DSC_0782-2_201701040159369ef.jpg
DSC_0785-2.jpg
DSC_0788-2_201701040200554b5.jpg
DSC_0790-2.jpg
DSC_0792-2.jpg
DSC_0792-3.jpg

上の写真の扁額は、戦勝祈願の為に寄進された扁額で、東郷平八郎書の文字が見える!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%
E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」で指揮を執り、「陸の乃木 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれ、バルチック艦隊を破ったことにより 英雄視された。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。


下の写真が、この神社の名称にもなっている‘橘’の木である・・。

DSC_0793-2.jpg
DSC_0794-2.jpg
DSC_0795-2.jpg

おみくじは、‘中吉’!
そして下の写真が、‘弟橘比売命’のお墓!

DSC_0800-2_201701040202212b9.jpg
DSC_0801-2_20170104020222da1.jpg
DSC_0802-2.jpg
DSC_0803-2.jpg
DSC_0805-2.jpg

正午を過ぎると参拝者の数も増えてきた!
やはり、初詣という伝統文化は、心を引き締めてくれる。来年もまた・・・。

(つづく)
[2017/01/03 23:54] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
冬至の柚子湯2016
冬至の柚子湯2016

https://allabout.co.jp/gm/gc/220635/3/
なぜ柚子湯に入るの?

yuzu200.jpg
【ユズ】ミカン科の常緑植物。耐寒性に優れているので東北地方でも栽培。表面がでこぼこしていて大きなオオユズ、小ぶりのハナユズがある。

柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合せから柚子湯に入ると思われていますが、もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。端午の節句の菖蒲湯も同様です。

また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。

もちろん、柚子湯には血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果があります。さらに、芳香によるリラックス効果もありますから、元気に冬を越すためにも大いに役立ちます。


という訳で、 ‘日本文化’の代表選手でもある!

従って、こんなに簡単に‘文化に触れられるのなら、と我が家でも毎年‘柚子湯’にする習慣がある!

20161222 冬至の風呂 007-2

何故、‘7対3’に分かれたのか?
それは、余り問題ではない!こじつけるなら、私の誕生日が、‘7月3日’だから、等と全く意味も無いことを申し上げても何の価値も無い!

20161222 冬至の風呂 001-2
20161222 冬至の風呂 004-2

一個、何処へ?

20161222 冬至の風呂 005-2

まあ、そんな訳で、今年の暮れも来年も頑張ろう!

(つづく)
[2016/12/23 23:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2016年のお盆(その1)
2016年のお盆(その1)

今年ももう8月の半ばとなった!
お盆の風習は、自分達のご先祖様に思いを馳せる絶好の機会であり、自分自身を見直す好機でもある!

ただ、お盆の時期が、新とか旧とかはあるにしても、一体何故この暑い時期に‘設定’されたかの理由を聞いても即答出来る御仁は少ない!

一寸調べてみると、以下の理由によるものらしい・・・・!

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AA%CB%DF
お盆の行事は釈迦の弟子の一人、目連尊者(もくれんそんじゃ)が母を救う話に由来している
目連尊者はある時、神通力によって亡き母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知った。 そこで、どうしたら母親を救えるのか釈迦に相談した ところ、 「夏の修行が終った7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことが出来るであろう」と言われたと伝えられている。そこで、目連尊者が釈迦の教えのままにしたところ、その功徳によって母親は極楽往生がとげられたという。それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となった


という訳で、この時期になったのは、お釈迦様の設定によるのだそうだから、安心した!

そんな訳で、我が家でもその準備をした!

先ずは、‘出窓’の掃除から・・・・。
仏様が、窓から出入りされる訳ではないが、我が家の出窓は、‘西側’にあるので、カーテンはぼろぼろ!
そんな訳で、新しいカーテンに!

カーテンだけで見てみると、外の小さな木の陰が微妙に日本画的雰囲気を醸し出している!

20160814 お盆 020-2
20160814 お盆 020-3

もしも、西側だから、夕日が照らしたらこんな風に、とパソコンで加工!

20160814 お盆 020-4

置物を置くと元通りの‘景色’に・・・・。

20160814 お盆 023-2
20160814 お盆 027-2
20160814 お盆 028-2
20160814 お盆 029-2

という訳で、西側の窓口の準備が終わった!

(つづく)
[2016/08/15 23:55] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
浅草浄苑の展示品:‘家康公遺訓’
浅草浄苑の展示品:‘家康公遺訓’

DSC_4412-2.jpg
DSC_6163-1-1_20160515173137b2c.jpg
DSC_6165-1-2_20160515173138429.jpg

先般(2016年2月16日)、‘浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺’内にある‘浅草浄苑’へ行った時のこと、‘家康公遺訓’を、あの‘高橋泥舟’が、草書で書いた‘掛け軸’を拝見する機会を得た!

今まで、‘高橋泥舟’が、‘家康公遺訓’を書いたとは知らなかった!
何故なら、この‘家康公遺訓’は、家康公の直筆でないことの噂を聞いていたし、この‘偽作’を日光東照宮など各地の東照宮に納めた張本人が、高橋泥舟だというから、不思議に思った次第である!
<推測:勿論、コピー機のない時代だから、版木を用いての‘刷り物’だったろうと思われるのだが・・・。>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
家康公遺訓

家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。[51]また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。


注意をせねばならないのは、、‘家康公遺訓’とは別に‘家康公御遺訓(いえやすこうごゆいくん)’というのがある!

https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/142.html
imagesCARFYFCW.jpg
家康公御遺訓(いえやすこうごゆいくん) 元和初年に井上正就が、家康より秀忠に伝えよとて受けた教訓とされ、一般に家康の遺言として知られる「人の一生は・・・」で始まるものとは、内容を異にする。「日本古典籍総合目録」に多くの所蔵が見られ、タイトルも「東照宮御遺訓」「御遺訓」「御遺戒」など別書名が多数ある。平野寿則氏は、各所の資料を比較考証し、江戸の浪人松永堂斉が井上から聞き書きした「井上主計頭覚書」を福岡藩の儒者貝原益軒が改訂したものと推測している。


世間に知られている‘家康公遺訓’を少し掲載してみた!

ikun.jpg
出典/http://aoibushoutai.com/aoibushoutai/

b7061aac-s.jpg
出典/http://blog.livedoor.jp/siinomi907-yamazakura709/archives/50749048.html

e1521188a128cf99e4e51b64f737cb89_201605151529158c2.jpg
出典/http://cheerland.jp/diary/20150335373.html

110817a.jpg
出典/http://ship.cocolog-nifty.com/ship/2011/08/17-aug-2011-6f9.html

sim.jpg
出典/http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e183873602
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

さて、さて、遅くなったが、展示してあった‘高橋泥舟’の‘家康公遺訓’の書とは、以下の通りである・・・。

DSC_4393-2_20160515172232717.jpg
DSC_4395-2_201605151722280e2.jpg
DSC_4394-2_20160515172233f00.jpg
DSC_4391-2_2016051517223162e.jpg
DSC_4390-2_20160515172230b06.jpg

迫力満点の、誠に‘痺れる’大作である!
しかし、しかし、これを書くときの高梁泥舟の心境は如何だったのだろうか?

(つづく)
[2016/05/15 17:28] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺本山内・浅草浄苑(その2)
東本願寺本山内・浅草浄苑(その2)

‘浅草浄苑’内の芸術品について・・・。

<香合>

DSC_6196-7-2.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%90%88
香合(こうごう)とは、香を収納する蓋付きの小さな容器。茶道具の一種であり、また仏具の一種でもある。香蓋とも書かれるが当て字。また合子(ごうす、ごうし)ともいう



<2016年4月26日>

DSC_6195-7-2.jpg
DSC_6195-7-3.jpg
DSC_6195-7-4.jpg
DSC_6195-7-5.jpg
DSC_6195-7-6.jpg

ところが、面白いことに、実は、3月18日に来た時には、展示の向きが反対だったのである!
お陰様で、‘両面から’見ることが出来た!

<2016年3月18日>

DSC_4406-2.jpg
DSC_4406-3.jpg
DSC_4406-4.jpg

時間をおいて、こんな展示の仕方をこれからも是非御願いしたい!

(つづく)
[2016/05/03 23:50] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺本山内・浅草浄苑(その1)
東本願寺本山内・浅草浄苑(その1)

最近、‘お墓’という概念が少しずつではあるが変わりつつある!

‘樹木葬’という、昭和時代には考えられ無かった‘新方式’まで現れて、今後のお墓はどんなことになっていくのかと考えさせられる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%B9%E6%9C%A8%E8%91%AC
樹木葬(じゅもくそう)

墓石の代わりに樹木を墓標とする墓のこと。樹木墓地(じゅもくぼち)、樹林墓地(じゅりんぼち)とも呼ばれる。

概要[編集]

樹木葬は、墓地、埋葬等に関する法律による許可を得た墓地(霊園)に遺骨を埋葬し、遺骨の周辺にある樹木を墓標として故人を弔う方法である。遺骨を埋葬するたびに新しい苗木を1本植えるケースや、墓地の中央にシンボルとなる樹木を植え、その周辺の区画に遺骨を埋葬するケースなど様々な方法がある。

墓地によって、全体を樹木葬墓地とする場合と、一般墓地や芝生墓地と樹木葬墓地を併用する場合がある。

墓碑として用いられる樹木は大きくならない低木が一般的で、ハナミズキ、サルスベリ、ウメモドキ、エゾアジサイ、ムシカリ、ツリバナ、モミジ等があげられるが、植樹する地域で生育できること、生態系に悪影響を与えないことなどが配慮される。

ペットなどの動物葬では以前からよく行われていたが、人間のための樹木葬墓地は1999年に岩手県一関市に登場したのが日本初である。2012年には、小平霊園に都立霊園初の樹林墓地が完成し[1]、2014年に樹林墓地に隣接して樹木墓地が作られた。小平霊園の樹木墓地と樹林墓地の違いは、遺骨を個別に埋蔵するのが樹木墓地であり、合葬して一緒に埋蔵するのが樹林墓地である。


中々ついてはいけない発想でもあるが、まあ、それはそれで、先日(4月)、両親などが眠る東京・元浅草にある浄土真宗・本山東本願寺内の浅草浄苑へ行って来た。今年3度目である・・・。

DSC_6159-7-2.jpg
DSC_6162-7-2.jpg
DSC_6163-1-1.jpg
DSC_6165-1-2.jpg
DSC_6171-7-2.jpg
DSC_6175-7-2.jpg
DSC_6178-7-2.jpg
DSC_6179-7-2.jpg

此処へ来ると、何となく落ち着いた気持ちになる!
此処へ来ることのもう一つ楽しみは、美術品や芸術品が見られることである!

3月に来た時にも展示してあったのだが、‘横山大観’の富士山があった!
驚いたのは、横山大観が、‘台東区の名誉区民’だったことである・・・。

やはり、この作品は素晴らしい!

このマンション墓地に眠両親達が、こんな素晴らしい作品を見ているのだろうか?

DSC_5028-2.jpg
DSC_5028-3.jpg
DSC_6189-10-2.jpg

(つづく)
[2016/05/02 23:02] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
御柱祭
御柱祭

昨日(2016年4月8日)は、TV・ラジオのニュース番組では、何度も何度も‘御柱祭’のニュースが流れた!

先ずは、その画像から・・。

<以下の画像は、それぞれのTV画面をカメラで撮影したものである>

<お昼の番組>

DSC_5591-2.jpg
DSC_5591-3.jpg
DSC_5593-2.jpg
DSC_5594-2.jpg
DSC_5599-2.jpg
DSC_5600-2.jpg
DSC_5601-2.jpg
DSC_5602-2.jpg
DSC_5603-2.jpg
DSC_5604-2.jpg
DSC_5605-2.jpg
DSC_5609-2.jpg
DSC_5614-2.jpg
DSC_5617-2.jpg
DSC_5617-3.jpg
DSC_5619-2.jpg
DSC_5621-2.jpg

<夕方の番組>

DSC_5634-2.jpg
DSC_5635-2.jpg
DSC_5636-2.jpg
DSC_5637-2.jpg
DSC_5638-2.jpg
DSC_5639-2.jpg
DSC_5640-2.jpg
DSC_5642-2.jpg
DSC_5646-2.jpg
DSC_5649-2.jpg
DSC_5650-2.jpg
DSC_5651-2.jpg
DSC_5653-2.jpg
DSC_5653-3.jpg
DSC_5654-2.jpg
DSC_5656-2.jpg

この豪快さは、見ていても、鳥肌が立つほどの‘迫力’がある!

さて、この‘御柱祭’の起こりと歴史はどんなものだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9F%B1%E7%A5%AD
御柱祭

御柱(おんばしら、みはしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、長野県諏訪地方で行われる祭である[1]。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭である[1]。長野県指定無形民俗文化財[2]。日本三大奇祭のひとつとされる[3]。

大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社(通称:小宮)でも同様の祭(小宮祭)が実施される[4]。

概要[編集]
山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である[1]。この御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新する[1]。氏子は、木遣りや喇叭に合わせて曳行する。

正確には満6年間隔で行われる「6年に一度」なのだが、慣例として数え年の7年目ごとという意味で「7年に一度」と表記されることが多い。最近は「7年目」もしくは「数えで7年」という表記に変わりつつある。大きくは「山出し」と「里曳き」にわかれそれぞれ4月と5月に、そして下社は上社の一週後に行われる。諏訪地方あげての一大行事であり、これに合わせて休日を設定する企業もある。

建御柱の前後に本来の式念祭といえる宝殿の造営がされるが、一般には取り上げられることが少ない。これは御柱の曳行と建立が氏子の奉仕によって行われるのに対し、宝殿の造営と遷座は諏訪大社神職が中心となり執り行われる行事のためである。

直近の開催は2016年で、前回の開催は2010年である。 2016年の御柱祭は以下の日程で開催されると2014年8月に発表された。

4月2日~4日:上社山出し
4月8日~10日:下社山出し5月3日~5日:上社里曳き
5月14日~16日:下社里曳き
5月13日:下社宝殿遷座祭 
6月15日:上社宝殿遷座祭 


こんな伝統文化こそ、今後盛り上げて残して行かねばならない!

(つづく)
[2016/04/09 23:55] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・上野公園の‘月の松’
東京・上野公園の‘月の松’

この情報、つまり‘月の松’が復活したとの噂は聞いていた!
何せ、自分の雅号が‘松月’なもんで・・・。<後出>

2016年3月16日の東京・上野公園(正称:上野恩賜公園)は、春真っ盛りだった!
たまたま訪れる機会に恵まれたので、清水観音堂に行って見た・・・。

http://ueno.keizai.biz/headline/1241/
清水観音堂に「月の松」復活-新たな観光名所に期待
2013年01月09日

清水観音堂に復活した「月の松」

上野公園内にある「寛永寺 清水観音堂」(台東区上野公園、TEL 03-3821-4749)に12月、「月の松」が150年ぶりに復活した。

 独特の枝ぶりが特徴の月の松。江戸時代から庶民に親しまれており、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている。しかし、明治初期の台風で消失したままとなっていた。この復活について同寺では、「江戸の風景を取り戻し、新たな観光名所として上野公園を盛り上げたかった」と話す。

 17日には除幕式が行われ、正式にお披露目された。「月の松を目当てに高齢者を中心に多くの方が訪れている」と同寺。ヨーロッパを中心とした外国人観光客も多数訪れており、浮世絵に描かれた風景をカメラに収める姿も見られる。

 円形にくるりと一回転する枝は足立区の造園職人の手によるもの。「この造形を生み出すことは難しく、都内でもわずかな職人しかできない」と同寺担当者。「今年3月までには、公園整備事業の一環として月の松の下にある桜を移設する。月の松から不忍池弁天堂が見えるように環境を整える予定」とも。

 清水観音堂は京都の清水寺を模して1631(寛永8)年に建立。安産祈願や人形供養の寺院として知られている。


歌川広重作の‘月の松’は以下の通り!

hiroshige178_main.jpg
出典/https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige178/

私が撮った現在の‘月の松’は・・・。

DSC_4894-2.jpg
DSC_4903-2.jpg
DSC_4910-2.jpg
DSC_4910-3.jpg

多分、次の世代の準備が以下の写真である!

DSC_4902-2.jpg

観音堂の境内に、もしも現在の‘月の松’が何かの事故、例えば雷が落ちた!などの場合を想定して既に準備が・・・?

周りは、‘オオカンサクラ’が満開だった!

DSC_4924-2.jpg
DSC_4924-5.jpg
DSC_4924-3.jpg
DSC_4925-2.jpg
DSC_4925-3.jpg

‘松月’の駄作を!

喫茶去0001-2

(つづく)
[2016/03/21 23:59] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
3月3日は、雛祭り!
3月3日は、雛祭り!

我が家にいた娘も今年大学生になる息子の母親だから、我が家では‘雛祭り’なんて、疾うの昔の出来事なのであるが、ここ房総半島の勝浦の‘ビッグ雛祭り’のこともあって、我が家では‘スモール、スモール雛祭り’の人形が今でも飾られる!

雛祭りの由来は、以下の通りだそうである・・・。

http://www.marutakeningyou.co.jp/sekku_3gatsu/
yurai_33_top.jpg
【ひな祭りの由来】
ひな祭りの起源は平安時代の中頃までさかのぼります。そのころの人々の間では3月初めの巳の日に子どもたちの無病息災を願っておはらいをする行事がありました。陰陽師(吉凶を占う人)をよんで天地の神に祈り供物をそなえ、紙で作った人形(ひとがた)を庭園を流れるせせらぎや池に浮かべて流すというものでした。また、宮廷の婦人や子どもたちの間では紙で作った小さな人形や身のまわりの家具や道具をまねた玩具で遊ぶ「ひいな遊び」というおままごとのような遊びがありました。このふたつの行事や遊びが結びついたものが現在のひな祭りと言われています。


勝浦の‘ビッグ雛祭り’は、今年は行かなかったが、それは、それは‘ビッグ’であ~る!

242616ae08197-f967-42fb-aa36-f8246c030dfd_m.jpg
出典/https://retrip.jp/articles/24261/

2016bighina.jpg
出典/http://www.city.katsuura.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=30237

一方、我が家の‘スモール雛’は、何組かに分かれている!

<1>
124324693.jpg

<2>
124225962.jpg

<3>
ひな祭り2016 047-2
ひな祭り2016 047-3
ひな祭り2016 047-4

<4>
ひな祭り2016 049-2
ひな祭り2016 049-3
ひな祭り2016 049-4

<5>
ひな祭り2016 051-2
ひな祭り2016 051-3
ひな祭り2016 051-4
ひな祭り2016 053-2
ひな祭り2016 053-3

まあ、伝統文化とはこんなもので、止めなければならないと言うことでもないし、絶対に続けなければならないと言うものでもない!
その時が来たら、「ああ、こんなこともあったなァ・・」ということで十分である!
それが長続きのコツかもしれない!

(つづく)
[2016/03/04 14:36] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
松の内
松の内

kagamibiraki.jpg
出典/http://www.tebiki.jp/entertainment/culture/3804/

‘松の内’は、何時までか?

この頃世間では、こんなことは問題にもならなくなった!

‘松の内’がいつから始まろうといつ終わろうと‘関係ない!’
こんな世の中になってしまっている。
そして、そして、それを嘆く人もいなくなった!

大昔、そう、5~60年も昔は、商店街だけでなく普通のうちでもそんなに大きくなくても‘門松’を飾ったものである!
近頃の子供さん達は、デパートや大きなビル等に行かない限り、映像でない‘門松’を見る機会など無いに違いない!

そんな訳で、門松の意味を!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%9D%BE
門松(かどまつ)とは
正月に家の門の前などに立てられる松や竹の正月飾りのこと。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語[1]。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。

神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっている。

また、地域の言い伝えにより松を使わない所もある[2]。

新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まり、室町時代に現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われる[3]。

設置期間[編集]
12月の13日(もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」をおこなう[9]。上り松、花迎、花伐、松ばやし、などともいう[1]。この「松」により、山から歳神様(歳徳神)を迎え入れる事となる。

門松の設置は「松の内」に入る12月13日以降ならばいつでも良い。ただし、クリスマスは避けて設置される傾向にあり、他に12月29日に飾るのは「二重苦」、さらに9の末日でもあるので「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む[10]。また12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神をおろそかにするということから、それぞれ避けることとされている。

松の内の1月15日まで飾るのが伝統であるが、関東の一部などでは松の内を1月7日までに短縮しており、その場合は6日の夕方や翌7日に片づける場合が多い。(左義長が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は1月15日の小正月が多いが、地域や神社によって異なる)。

門松を片付けることを、松下ろし、松あがり、松払い、松引き、松送り、松納め、などという[1]。鳥総松(とぶさまつ)や留守居松といい、門松を飾ったあとの穴にその松の梢を立てる風習もある[1]。

門松を片付けた後の正月は、松過ぎとよぶ[1]。


と言う訳で、今日が1月7日だから、正月飾りは仕舞われてしまう運命にあるらしい!

だから、まあ、我が家の正月飾り+αを画像で残しておきたい!

① 先ずは、玄関前の花から・・・。

DSC_3648-2.jpg
DSC_3648-3.jpg

② 玄関扉の飾り

DSC_3646-2.jpg

③ 玄関に入ると・・・

DSC_3656-2.jpg
DSC_3654-2.jpg
DSC_3655-2.jpg
DSC_3655-3.jpg
DSC_3654-3.jpg
DSC_3644-2.jpg
DSC_3644-3.jpg
DSC_3657-2.jpg
DSC_3657-3.jpg
DSC_3658-2.jpg
DSC_3658-3.jpg
DSC_3660-2.jpg
DSC_3660-3.jpg
DSC_3660-4.jpg
DSC_3661-2.jpg
DSC_3662-2.jpg
DSC_3662-3.jpg
DSC_3663-2.jpg
DSC_3664-2.jpg
DSC_3664-3.jpg

と言う訳で、今日7日が‘松の内の最後の日’らしいから、これらの内どれが明日から居残るのだろうか?

(つづく)
[2016/01/07 23:43] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その4)
橘樹神社への初詣(その4)

2016年の新春は、日本全国なんだかもう春が来たような‘ぽかぽか陽気’!

本日(1月4日)の房総半島・千葉県・茂原市での最高気温は、17℃というから3月始めの気温らしい!
天気情報によると、明日(1月5日)も、最高気温が15℃らしいから、もう新春ではなくて、‘春’そのものである!

1月1日の橘樹神社への初詣の日も、多分、15℃くらいはあったのだろう。境内の桜がもう‘ちらほら’だったのは、昨日の本ブログで紹介したとおり・・・。

20160101 正月の朝-2 058-2
20160101 正月の朝-2 060-2

さて、この由緒ある橘樹神社への元旦の参詣は、社殿まで辿り着くまで約1.5時間!
成田山だって、こんなに掛かりはしないが、何せ‘お鈴’が三つしかないため、一回に3人ずつしか進まない!
一回に30秒掛かるとすると、計算では以下のようになる!

一列の幅が、1mと仮定すると、

1m進むのに、0.5分(30秒)掛かる訳だから、1.5時間、つまり90分では、180mの行列が出来ていたことになる!

マップの上で、橘樹神社の鳥居から社殿までを測ってみると、約160mである!

この誤差は、一列の幅が‘1m’と見積もったのに‘誤差’が生じたのか?或いは、一列の進み方が、0.5分(30秒)という仮定に誤差があるのか?

でもそんなに仮定が大間違いをしている訳ではない事が判る!
そんな訳で、参拝客の行列は、少しずつしか進まなかった!

20160101 正月の朝-2 062-2
20160101 正月の朝-2 063-2
20160101 正月の朝-2 064-2
20160101 正月の朝-2 065-2
20160101 正月の朝-2 065-3
20160101 正月の朝-2 066-2
20160101 正月の朝-2 067-2
20160101 正月の朝-2 068-2
20160101 正月の朝-2 069-2
20160101 正月の朝-2 069-3
20160101 正月の朝-2 070-2
20160101 正月の朝-2 071-2
20160101 正月の朝-2 073-2
20160101 正月の朝-2 074-2
20160101 正月の朝-2 075-5
20160101 正月の朝-2 076-2
20160101 正月の朝-2 077-2
20160101 正月の朝-2 077-3
20160101 正月の朝-2 079-3
20160101 正月の朝-2 080-2
20160101 正月の朝-2 082-2
20160101 正月の朝-2 086-2
20160101 正月の朝-2 089-2
20160101 正月の朝-2 089-3
20160101 正月の朝-2 093-2
20160101 正月の朝-2 094-2
20160101 正月の朝-2 095-2
20160101 正月の朝-2 097-2
20160101 正月の朝-2 098-2
20160101 正月の朝-2 099-2
20160101 正月の朝-2 100-2
20160101 正月の朝-2 105-2
20160101 正月の朝-2 104-2
20160101 正月の朝-2 102-2
20160101 正月の朝-2 106-2
20160101 正月の朝-2 107-2
20160101 正月の朝-2 108-2
20160101 正月の朝-2 109-2
20160101 正月の朝-2 118-2

これで、長々となってしまったが、橘樹神社への初詣は、終了!

おっと、いい忘れそうになったが、私の今年のおみくじは、‘中吉’!
周りも大体そんなところ・・。小吉か吉程度だった!

(つづく)
[2016/01/05 01:50] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その3)
橘樹神社への初詣(その3)

昨日の本ブログに書かせて貰ったように、第12代景行天皇の皇子の日本武尊のお后の弟橘比売命が橘樹神社の主祭神だそうだから、神社の格式がどうやって決められているのかは知らないが、それなりに伝統文化という意味では意義のある神社と言えそうである!

それを知っているのなら、お鈴を ‘じゃらん、ジャラン’と鳴らして、二礼二拍手一礼を済ませて、甘酒とおみくじ、それに熊手、それだけで帰ってしまうなんて、勿体無い!

弟橘比売命の‘御陵’などに参拝するのも‘義務’ってものじゃぁ?!なんて・・・。

201301040328477bf_20160104175626e11.jpg
弟橘比売命(おとたちばなひめ)の‘御陵’
出典/http://nobyama.com/tachibana_album.htm

まあ、それはそれとして、皆さんは約一時間以上も待ちに待って、お鈴を ‘じゃらん、ジャラン’と鳴らすのである。

20160101 正月の朝-2 081-3
20160101 正月の朝-2 029-2
20160101 正月の朝-2 031-2
20160101 正月の朝-2 031-3
20160101 正月の朝-2 031-4
20160101 正月の朝-2 032-3
20160101 正月の朝-2 034-2
20160101 正月の朝-2 034-3
20160101 正月の朝-2 035-2
20160101 正月の朝-2 036-2
20160101 正月の朝-2 036-3
20160101 正月の朝-2 038-2
20160101 正月の朝-2 038-3
20160101 正月の朝-2 039-2
20160101 正月の朝-2 040-2
20160101 正月の朝-2 047-2
20160101 正月の朝-2 050-3
20160101 正月の朝-2 051-2
20160101 正月の朝-2 051-3
20160101 正月の朝-2 052-2
20160101 正月の朝-2 051-3
20160101 正月の朝-2 058-2
20160101 正月の朝-2 054-2
20160101 正月の朝-2 060-2
20160101 正月の朝-2 060-3
20160101 正月の朝-2 063-4
20160101 正月の朝-2 063-3

これは、‘桜’であって決して‘梅’ではない!

(つづく)
[2016/01/04 18:42] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その2)
橘樹神社への初詣(その2)

2016年の初詣は、房総半島は、千葉県茂原市・本納にある‘橘樹神社’へ!

DSC_3562-2.jpg
DSC_3562-3.jpg

‘橘樹神社’とはどんな‘縁(ゆかり)’のある神社なのか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B
9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)


橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]

主祭神
 ・弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

相殿神
 ・日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
 ・忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。

神階[編集]
元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘樹神」。
元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘神」。

境内[編集]
本殿は、江戸時代の寛政12年(1800年)の造営。

本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が造営されるまで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていたという。また、境内の吾妻池はこの墳墓を掘った跡の穴であると伝えられる。


主祭神は、弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)で、何と、その夫が、日本武尊 (やまとたけるのみこと)というから凄い!

こんなことを言っては失礼かもしれないが、参詣に来たほとんどの人が、このことを知らないと思われる!

20160101 正月の朝-2 069-2
20160101 正月の朝-2 069-3
20160101 正月の朝-2 081-2
20160101 正月の朝-2 081-3

また、日本武尊 (やまとたけるのみこと)のことはしていても、彼がどんな御仁だったかを他人様に説明出来る人はそう多くは無いと思われる!

そこで、日本武尊 (やまとたけるのみこと)とは?

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%
E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%B0%8A-144214

日本武尊

『古事記』『日本書紀』の伝説で活躍する,景行天皇の皇子で,わが国の古代伝説の代表的英雄。『古事記』では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。名は小碓命。別名,日本童男,倭男具那王。『常陸国風土記』では倭建天皇とも記す。『古事記』によれば,父の天皇から,食事に出てこなくなった,双子の兄の 大碓命 を諭せと命じられ,殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に,熊曾建兄弟の討伐を命じられ,伊勢の斎宮で叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から衣裳を賜って九州へいき,女装して宴席に入り,兄弟を刺し殺し,そのとき弟から,ヤマトタケルの名を献上された。帰途に出雲(島根県)に寄り,出雲建(イズモタケル)を,友誼を結び油断させておいて,騙し討ちにして殺す。帰って報告するとすぐにまた,東国の征伐を命じられ,伊勢にいき,ヤマトヒメから 草薙剣 と袋を授かり,危急のとき袋の口を開いてみよと教えられる。尾張(愛知県)で美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約したのち,相模(神奈川県)で国造に欺かれ,野火に囲まれるが,草薙剣で周囲の草を刈り,袋の中にあった火打ち石で,逆に火を燃やして難を逃れる。房総半島(千葉県)に向け海を渡ろうとして,渡の神に妨害され,船が進まなくなり,后の弟橘比売が入水して,荒波を鎮めた。東征を果たして帰途に足柄の坂で「吾妻はや」といって后の犠牲を嘆き,それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。甲斐(山梨県),信濃(長野県)を経て尾張に帰り,ミヤズヒメと,月経の血で衣の裾が汚れていたのにかまわず,契りを結んだのち,草薙剣を彼女のもとに置き,伊吹山(滋賀,岐阜両県の県境)の神を素手で退治しにいったが,その神の毒気にあてられて重病になり,重い足を杖で支え,苦しみながら旅をして,三重の能煩野まで辿り着いたところで力尽き息絶えた。大和(奈良県)から后たちと子たちがやってきて,御陵を造り,泣きながら葬ろうとしたが,尊は八尋白智鳥に化して飛び翔り,后たちと子たちが懸命に追っていくと,河内の志幾(大阪府南河内郡)に留まった。そこでその地に白鳥陵を作り,鎮座させようとしたが,再び天翔り去ったという。 大略このような伝説は,全体が明らかに,典型的な英雄神話のパターンに則って構成されており,ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は,ことに著しい。両者は共に,劣弱な双子の兄弟を持っているうえに,肉親(兄と実子)の殺害と,友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと,愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が,それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に,葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも,明らかに共通したところがあると思われるからだ。名古屋市の熱田区熱田神宮の相殿神であるほか,静岡県清水市の草薙神社や,焼津市の焼津神社などに祭られている。<参考文献>吉田敦彦『ヤマトタケルと大国主』
(吉田敦彦)


という訳で、日本武尊 に関する物語は、たくさん、沢山あ~る!

その后の弟橘比売が、この橘樹神社の主祭神というから、この神社は、それはそれは、大した‘縁(ゆかり)’である!

20160101 正月の朝-2 023-2
20160101 正月の朝-2 024-2
20160101 正月の朝-2 025-2
20160101 正月の朝-2 026-2
20160101 正月の朝-2 028-2

これほどの由緒ある神社、もっと深く知っておくべきかも知れない、地元の住人としては!

(つづく)
[2016/01/03 21:29] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社への初詣(その1)
橘樹神社への初詣(その1)

習慣とは‘恐ろし’!(?)

‘皆が行くから俺も行く’で何が悪い!?
というのが、大体初詣に行く人の理由である・・・。

我々も、‘初詣’の意義や、いつ頃から習慣になったかなど知る由も無いが、まあ、近所の或いは有名な神社などへ出かけて‘おみくじ’を引いて、‘甘酒’でも・・・、という情けない理由である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%A9%A3
初詣・初詣で(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参り(はつまいり)ともいう。

歴史[編集]
明治神宮の初詣に大勢の人が並ぶ様子
住吉神社の初詣の様子元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。

江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた[1]。

「年籠り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治中期のこととされている。また、氏神や恵方とは関係なく、有名な寺社に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという[2]。

また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。

近代以後の変容:恵方詣りから初詣へ[編集]
江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった[1]。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている[3]。

関東では、明治5年(1872年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった[4]。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった[5]。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた[6]。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を管見の初出と紹介している[7]。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが[8]、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった[9]。

関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた[10]。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった[11]。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した[12]。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した[13]。


まあ、‘初詣’には、こんな歴史があったのかを意識して、早速、‘橘樹神社への初詣’!

20160101 正月の朝-2 013-2
20160101 正月の朝-2 014-2
20160101 正月の朝-2 015-2
20160101 正月の朝-2 016-2
20160101 正月の朝-2 016-3
20160101 正月の朝-2 017-2
20160101 正月の朝-2 018-2
20160101 正月の朝-2 019-2
20160101 正月の朝-2 019-3
20160101 正月の朝-2 020-2
20160101 正月の朝-2 023-2
20160101 正月の朝-2 024-2
20160101 正月の朝-2 025-2
20160101 正月の朝-2 026-2
20160101 正月の朝-2 021-2

何だかこの神社には、縁がありそう!

(つづく)
[2016/01/02 19:51] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
NHK・紅白歌合戦
NHK・紅白歌合戦

2015年も本日で終わりである!

恒例の紅白歌合戦、少々ビールが効いて眠気耳で聞いていたが、五木ひろしが‘千曲川’を歌っているではないか!

DSC_3492-2.jpg
DSC_3492-3.jpg
DSC_3492-4.jpg

この曲には想い出がある!

何と、私がカラオケで最初に歌った歌である!

だからと言って、何があるわけでもないのだが・・・。

これで今年も終わり、あと数十分で新しい‘2016年’が始まる!

平凡な言い方だが,一刻も早く世界に平和が訪れるように願うばかりである!

(つづく)



[2015/12/31 23:41] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
年賀状
年賀状

年賀状は、貰うと大変嬉しいが、書かねばならないというプレッシャーが毎年12月になると襲い掛かって来る!

そのストレスから開放されるためには、出来るだけ早くから取り掛かることである!

今のように、全てパソコンがやってくれる時代の年賀状は、‘個性’が無くなってしまっているから、貰った方も「‘3秒’見れば終わり!」と言うことになってしまって,我々が芋版で作った想い出は、もう大昔のこととなってしまった!

それでも、‘年賀状’と言う文化は、まだ残っているから、なかなか‘廃止’と言う訳には行かない!

今年も、その‘素材探し’に時間が掛かった!
誰もが使う素材では面白くないし、そうかといって‘家族の写真’も親戚だけにしか通用しないから・・・。

候補は以下である!

20150627 夕焼け 006-2
20150801満月の花火大会 024-3
20150801満月の花火大会 021-2
20150801満月の花火大会 159-2
20150625 鯉 017-3
20150625 鯉 003-2
20150817 富士山と恵みの雨 124-3
20150930 秋の山の風景 070-2
201501012 秋さくら 020-3
201501012 秋さくら 021-3
201501012 秋さくら 029-3
DSC_1656-5-3_2015123117032381f.jpg
20150616 カマキリ 020-2
20150706 植物 072-2
DSC_2015-3.jpg
DSC_2046-4_20151231170951c8c.jpg
二〇一五一二07~09 022-3
DSC_2504-10_20151231171801448.jpg
DSC_2509-3.jpg
DSC_2517-4_20151231171804106.jpg
DSC_2532-2_201512311717586a4.jpg
DSC_3330-3_20151231172137ddd.jpg
DSC_2869-4.jpg
DSC_2826-4_20151231174224bde.jpg
DSC_2992-3.jpg
DSC_3331-3.jpg
DSC_3404-2_20151231172142edb.jpg
DSC_3341-4_20151231172140b5d.jpg
DSC_3413-2_20151231172143ddd.jpg

この他にもごまんとあるのだが、やっぱり年賀状の素材としては、最後の‘キンカン’に決定!

と言う訳で、2016年の私の年賀状の一部が以下の画像!

2016年年賀状案-1(kissy)0001

(つづく)
[2015/12/31 18:12] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
方言について
方言について

昨日の読売新聞の朝刊に大変面白い記事が掲載されていた!
これはブログの記事にしておいて、いつでもスマホで見れるようにしておきたい!

新聞記事0001-2
出典/読売新聞

「あんたサ、出身故郷何処でしたか?」
「ああ、鳥取!」
「じゃあ、‘有難う’は、‘だんだん’かい?」
「そう、そう!」

「あんたは?」
「おれ、沖縄!」
「じゃあ、‘にへー’?」

「高知で、ほんとに‘たまるか’って言うのかねェ?」
「さぁ~ね?」

宮崎では、 ‘かたじけない’と言うらしいが、これって‘女性’でも、そう言うのだろうか?

兎に角、この情報、こんな纏め方が素晴らしい!
結構これで故郷を想い出したりして・・・。

今後は、「嬉しい!」や「楽しい!」やなんかもやって貰えば、更に日本語の故郷の良さが把握出来るかも?

更に、次の様な統計の取り方もある!

新聞記事-2
出典/読売新聞

何だかよ~く判る!

さて、新設コーナーへ

「‘トリミング’拡大画像コーナー」(第7回)問題編

問題:次の画像は、一体何の一部でしょうか?

201501021 秋の我が家の庭 010-3

回答: ‘インドゴムの木’でした!

201501021 秋の我が家の庭 010-4
201501021 秋の我が家の庭 010-2
201501021 秋の我が家の庭 011-3
201501021 秋の我が家の庭 011-2


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4
%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%82%AD

今日の日本では単にゴムノキと言ったときに、産業的には天然弾性ゴムの原料として重要なパラゴムノキを意味することが多いが、家庭では、観葉植物として広く流通し、普及しているインドゴムノキを指すことが多い。



(つづく)
[2015/11/05 19:57] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日
文化の日

11月03日は日本の場合、‘文化の日’としての国民の祝日である!

でも

「‘文化’って何?」

と突然聞かれると

「え~っと、‘文’が何かに‘化ける’のではなくて、え~っと、解んない!」

と言うことになりそうである!

そこで大事なことは、直ぐにネットで調べたりせずに、‘自分の頭’で考えて見ることが必要である!
近頃の‘ネット族’(私が言い出した言葉!)は、解らない事があると直ぐにネットで調べる癖が付いてしまっていて己の頭で考えない!

それじゃあ、と言う訳で考えてみた!

① 文化は、英語では‘Culture’という!
江戸時代は、一般の人達は、いわゆる‘長屋’住いだった。そこでは、醤油や味噌や‘お茶っ葉’まで、自分家に切れていたら、お隣さんから借りても良かった‘文化’があったらしい!お茶っ葉を借りるから、‘カル茶ー’という、なんてね!

情けないが、他には思いつかない!これじゃあ、①を付けた意味が無い!

やっぱり、‘ネット’で!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
文化(ぶんか、英語: culture、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと である。

社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。

・ハイカルチャーのように洗練されたもの
・象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン
・ある社会組織に共有されている価値観


なお、日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるもの とされている[1]。


いやいや、なかなか難しい!

坪内逍遥以前には、日本語では、何と言っていたのだろうか?
それとも、日本には‘文化は無かった’のだろうか?
そんなことは無い!

江戸時代の文化の代表の一つは、やはり現在でも同じだが、‘食文化’なのだろう!

そうか,そうか!

mainimage_201511031433015f5.jpg
出典/https://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/edo/
tokyo_library/gourmet/index.html


食の‘風習’こそ‘文化’なのである!
上記引用文献に書かれている

・ある社会組織に共有されている価値観

に当て嵌まるのかも知れない!

それなら‘簡単’である!
何か‘発見’したり、‘納得’が行ったりした場合、‘ビール’で乾杯と言うのが通り相場である!(ある社会組織<家庭>に共有されている価値観)

今夜は特別に、‘ビールで乾杯’という我が家の‘文化’に乾杯!
さあ、冷やしとかなきゃア!

img_1_20151103144218803.jpg
出典/http://blogs.yahoo.co.jp/dreamdandy1/26148593.html

ところで、俺のはどっち?

さ~て、続いては、新コーナー!

「‘トリミング’拡大画像コーナー」(第5回)問題編

問題:次の画像は、一体何の一部でしょうか?

DSC_2387-3.jpg

ヒント:勿論、‘まりも’ではありません!

回答編: ‘シュウメイギク’ でした!

DSC_2387-5.jpg
DSC_2387-2.jpg

シュウメイギクとは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82
%A6%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%82%AF

シュウメイギク(秋明菊、学名:Anemone hupehensis var. japonica)とは、キンポウゲ科の植物の一種。別名、キブネギク(貴船菊)。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。

概要[編集]
中国から古い時代に入ってきた帰化植物である。文献上では「花壇綱目」に「秋明菊」の名前で記載が成れていて、日本に定着していたことが窺える。

中国では明代末の「本草綱目」には記載はなく「三才図会」に「秋牡丹」の名前で記載されるようになる。「秋牡丹」の呼称は貝原益軒も「大和本草」で使用している。以後日本の園芸書には「秋明菊」「秋牡丹」で紹介されることが多くなり、「しめ菊」「紫衣菊」「加賀菊」「越前菊」「貴船菊」「唐菊」「高麗菊」「秋芍薬」などの多様な別名で呼ばれることになった。

花色は赤紫色であるが、近年、他種との交配品種が市販されるようになり、弁数が少ない品種や白色の品種が多く栽培されて名称の混乱が見られる。

生態[編集]
多年草で開花期は秋、高く伸びた花茎の上に大柄な花をつける。花は多数の赤紫色の花弁状の萼片が目立ち、本物の花弁はない。



(つづく)
[2015/11/03 16:13] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今日の誕生花
今日の誕生花

今日(2015年06月29日)のNHKラジオ・深夜便では、6月29日の誕生花は、‘くちなしの花’と言っていた!

一日どちらかが間違えたのか、くちなしは6月28日が誕生花という。
誕生花は、誰がどんな理由でそう決めたかという確たる証拠(?)は無いらしいから、まあ、どっちでもいいことなのだが・・・。
6月7日という‘決め方’(?)もあるらしいから、そんなに議論することでもないことらしい・・。

http://www.hanakotoba.name/archives/2005/09/post_67.html
《クチナシの誕生花日付》
6月7日(母親大会記念日)
6月28日(貿易記念日・パフェの日・雨の特異日)の誕生花


要するに、‘くちなしの花の身頃は6月’と言うことなのだろう。

我が家にも‘八重のくちなし’が咲いている!

DSC_1618-2.jpg
DSC_1618-3.jpg
DSC_1620 (1)-2
DSC_1621 (1)-2
DSC_1621 (1)-3
DSC_1622 (1)-2
DSC_1622 (1)-3
DSC_1610 (1)-2
DSC_1610 (1)-3

花は‘美しい’時のものだけが掲載されるのが一般的であるが、‘役目を終えて’次の世代へバトンを移そうとしている‘老々の’花の姿もじっくり見ると‘風格’さえ感じられるのだが・・・

DSC_1619 (1)-2

そして、次の世代の蕾は、ナント‘頭の部分’が、‘カット’されているようにみえる・・・?

DSC_1621 (3)-2
DSC_1626 (1)-2
DSC_1626 (1)-3

でも、でも‘ちゃんとした‘新蕾’もあるのである!

DSC_1624 (2)-2
DSC_1624 (2)-3
DSC_1623 (2)-2
DSC_1623 (2)-3
DSC_1623 (2)-4

さて、‘くちなし’で思い出すのは、

「 くちなしや 鼻から下は 直ぐにあご 」

まあ、ナント言うことはない、でも有名な‘駄洒落’なのだが、実はこれについては、私にとっては、涙ぐましい‘エピソード’がある!

これについては次回!

(つづく)
[2015/06/29 14:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
サンライズ九十九里のひな壇2015(その2)
サンライズ九十九里のひな壇2015(その2) 

2015年2月25日、サンライズ九十九里国民宿舎に雛人形の飾り台が出来たと言うので見に行ったことは昨日のこのブログでご紹介した。

雛人形の他に素晴らしい写真も撮れたのでご紹介しておきたい。

雛人形は以下の写真に示すように素晴らしい人形だった!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 047-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 048-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 049-2

こんな‘ゆるキャラ’もいるらしい!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 041-2

奥飛騨からの特別参加も・・・。

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 007-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 008-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 008-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 010-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 012-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 014-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 017-2

この蘭は素晴らしい!

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 036-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 035-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 037-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 038-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 039-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 040-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 040-3

サンライズ九十九里国民宿舎の空撮写真がこれ!

サンライズ九十九里
出典/http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/15930/

(つづく)
[2015/03/14 13:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
サンライズ九十九里のひな壇2015(その1)
サンライズ九十九里のひな壇2015(その1)

天皇・皇后両陛下がご宿泊されたことで夙に有名になった千葉県の‘サンライズ九十九里’と言うホテル(国民宿舎)に何百体かの雛人形が飾られているいうので、2015年2月25日、見に行くことになった!

http://www.kokumin-shukusha.or.jp/annai/tebiki.html
国民宿舎とは
国立公園・国定公園・都道府県立自然公園・国民保養温泉地などの自然環境の優れた休養地に建設されている公共の宿です。国民の誰もが健全なレクリエーションと健康の増進をはかるため気軽に利用できるようにという目的でつくられたものです。
現在、北海道から九州まで全国に113ヶ所あります。
(東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、愛知県、大阪府、京都府、徳島県にはありません。)
国民宿舎には会員制度のようなものはありません。
個人でも家族連れでも、また職場のグループなどの団体でも、どなたでもお気軽にご利用できます。
一般の観光旅行やスポーツ・レクリエーションのほか、会議や研修会、合宿にも好適です。


どこかのCMで、「人形は顔が命!」というが正にその通り!
どんな雛人形がどのくらいの数飾ってあるのか?
その点に興味があった。

‘サンライズ九十九里’は、その‘奇異な’形でも有名である。

雛飾りの素晴らしさ

① 一般の家庭の家庭には、そんなに種類はないと思われるが、これまで見たこともなかった爺婆の人形も!
② どれも顔がいい!
③ どれも新品に近い!
④ 千葉県・勝浦の神社の階段を使った雛飾りには及ばないかもしれないが、これだけの数の雛人形が真近で・・

画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 001-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 005-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 006-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 018-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 019-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 023-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 020-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 021-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 022-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 024-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-4
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-5
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 025-6
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 027-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 028-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 029-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 030-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 031-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 031-3
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 032-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 033-2
画像ー282 サンライズ九十九里の雛人形としらこ桜 034-2

この国民宿舎は、‘サンライズ九十九里’というからには、やはり、九十九里海岸からみると朝日が上がっ来るのが見えるからである!
フロントのサンライズの写真は素晴らしい!が、もう少し大きくても??

(つづく)
[2015/03/13 12:38] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
アスリートの魂・嘉風関(その2)
アスリートの魂・嘉風関(その2)

「相撲はスポーツだが、大相撲は文化だから、精神的なというよりもっとわかり難くいえば‘形而上学的’身体行動と言える」と誰かさんが言っておりましたです、ハイ!

そんな訳で、‘大相撲の位置づけ’は、なかなかややこしいらしい!
そんなことは、こちとらは余り判らないが、そう言われてみればそんな気がしないでもない。

そうそう、嘉風関の、その後の行動、これが今日のテーマ!

嘉風関は、悩みに悩んだ末、尾車親方の「記録に残るより、記憶に残る相撲を取れ!」について、もう一度尾車親方に教えを乞う積もりで親方の部屋を訪ねたのである!

いやいや、尾車親方の‘眼差し’は、決して優しいものではなかった!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 040-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 040-3
この尾車親方の‘眼力’が、嘉風関に或る感動を与えたのである!
自分の甘さをこの‘眼’が見抜いた瞬間でもあった!
嘉風関はこの瞬間に‘悟り’を開いた!

昔の賢者はいう!
「やり辛い問題から先に取り組め!」
これを実行した嘉風関の勝利の瞬間でもあった!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 045-2

もう彼は迷うことは何もなかったのである!

そして迎えた苦手中の苦手‘魁聖’との取り組み!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 047-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 048-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 049-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 050-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 052-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 053-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 055-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 057-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 058-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 059-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 061-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 062-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 063-2
作戦は見事に成功した!
この瞬間に嘉風関よりも喜んだのは、、きっと尾車親方であり、中村親方だったに違いない!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 065-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 068-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 068-3
この日の夕刻、嘉風関は次のように振り返っている!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 069-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 070-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 071-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 073-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 077-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 078-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 084-2
嘉風関の顔つきがやはり‘変わった’感じがする!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 091-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 095-2
これで、NHKの‘アスリート魂・嘉風関編’は終わりである!

さて、さて、はじめに書いた通り、私は或る時を境に‘嘉風関の猛烈なファン’になった!
その種明かし話!

数年前、私は岡山市の或るIT産業会社で働いていたのだが、事業拡大のために、東京支社を開設することのなった。
その時に東京勤務をもと命じられて、東京・中央区・築地の職場も掛け持ちすることと相成ったのである。

その支社の近くに‘OO山’というお蕎麦屋さんがある!
お昼は勿論、夜の打ち上げもその‘OO山’さんを利用させて貰っていたのであるが、或る夜のこと、我々も‘帰りに元気が出るように’といつものように、その‘OO山’へ立ち寄った、と思いねぇ!

そこに、‘ちょんまげ’が見えるではござんせんか!それもお嬢チャン・奥様の家族連れでお座敷の方に・・・。

恐る恐る女将に聞くと
「‘嘉風関’は、この近くなのよ!」という。

「それじゃぁ、一献差し上げなきゃぁ」と私が言う!
「‘嘉風関’ったら、お酒駄目なのョ!」と女将。

「じゃあ、何がいい?」と私。
「そうねぇ、お魚が好きだからさ、何か見繕って・・・」と女将。

「へ~い、一丁‘あちらの御ひいき様’から!・・・」と女将。

その時初めて、嘉風関が、我々の方を振り返ってくれた!
我々‘4人組’は、‘それっ’とばかり、嘉風関家族の席へすっ飛んで行った!握手をして貰いたいために、である!

嘉風関は、座敷を降りて我々の握手に応じてくれたのである!
我々‘4人組’の中に、185cmの‘のっぽのB君’がいた!
ご案内の通り、嘉風関は、175cm!

そこは、‘B君’!腰を落として握手をして貰った!お見事!嘉風関よりも頭が上に行かないようにとの配慮である!
そんな訳で、‘4人組’は今でも嘉風関の大ファンである!

それに、それに、私には‘おまけ’がついた!

そろそろ、嘉風関もお帰りになる時間帯となったのだが、たまたまその時私の携帯が鳴って、岡山の本社との話が終わらない!勿論私一人外へ出て、そう、5~6分も話していたのだが、その間ず~と嘉風関は、意外や意外、2~3m離れた場所で私の電話が終わるのを待っておられたのである!「有難うございました!」の御礼を最後に言うために!

私は勿論、‘4人組’全員が‘感心した’のは当然である!

その‘OO山’というお蕎麦屋さんが、こちら!
実は、昨日築地の近くの昭和通りで打ち合わせがあったので、打ち合わせ後、思い出の‘OO山’へ寄ってきたのである!

DSC_0451 (1)-2
DSC_0451 (1)-3
DSC_0453 (1)-2
DSC_0453 (1)-3

もう、随分お歳なのだろうが、相変わらず女将は健在だった!
これこそ、本物の‘江戸っ子女将!’
築地には‘隠れた穴場’がまだ残っていた!

(つづく)
[2015/02/25 12:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
アスリートの魂・嘉風関(その1)
アスリートの魂・嘉風関(その1)

NHKのTV番組、「アスリートの魂」という素晴らしい番組がある!
TV番組もここまで掘り下げてくれると‘本物’ということを感じさせる素晴らしさである。
「流石に‘NHK’だな!」と言わせる看板番組に違いない!

アスリートの魂のロゴ
出典/http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann-tanosiiburogu/archives
/51941196.html


大相撲の評価については、各人の情報量の多さとその人の考え方によって大きく変わる場合があるが、‘相撲’はスポーツだが、‘大相撲’は最早スポーツを乗り越えて‘文化’にまで‘昇華’していると思っている人も多いに違いない!

(ここに掲載して出典を明記していない写真は、全てNHKのTV画面をカメラで撮影したものである)

画像ー278 アスリート魂・大相撲 004-2
ここ尾車部屋に嘉風関は所属している。‘風’という字がつく力士は、尾車部屋である!尾車親方が、‘琴風’という四股名で大関を張っていたからである!

嘉風関が、大きな力士、特に外国人力士に‘恐怖感’を持っているなんて知る由もなかった!
私は、ひょんなことから、或る時から嘉風関の‘猛烈な’ファンになった!そのいきさつは、後述することとして、先ずはTVに出てきた彼の‘アスリート魂’とやらを見て行きたい!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 001-2
何と言う言い草だろうか?この天才にして・・・・。

外人力士の中でも、この‘魁聖関’にはトラウマ的に恐怖感があるというから、不思議である!
相撲や柔道の醍醐味は、小さい方が大きい方を倒すことにあるというのに!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 007-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 008-2
予想通り、嘉風関は恐怖心から負けてしまったのである!

そこで、‘助っ人’とばかり、指導にあたったのが、2度の平幕優勝をしたことのある元関脇琴錦、現在の‘中村親方’である!
正に‘手取り、足取り’の細かい指導が行われたという!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 006-2
この‘頭付け’こそ、今後の嘉風関にとって大きな階段を上る切っ掛けになったのだが・・・。

画像ー278 アスリート魂・大相撲 010-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 011-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 012-2
相撲の世界でもこんな指導があるのである!

さて、さて、そんな訳で、嘉風関は、2015年の初場所に賭けることになったのである!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 014-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 015-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 021-2

最初の‘外人力士’は、やはり苦手の‘蒼国来関’である!
下の次々の写真の通り、この戦略で嘉風関は蒼国来関に勝ったのである!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 017-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 018-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 019-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 020-2

ところがところがである!
あの‘嫌な外国人力士’である‘大砂嵐関’には通じなかったのである!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 022-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 023-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 025-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 024-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 026-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 027-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 028-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 029-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 030-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 031-2

勿論、この‘頭付け’の技術のみでは、誰にでも勝てるという訳ではない!
そこでまた嘉風関の‘苦悩’が始まる!
この悩みこそ、一人前の力士になるためにどうしても乗り越えなければならない一つの試練なのである!

画像ー278 アスリート魂・大相撲 033-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 034-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 035-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 036-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 037-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 038-2
画像ー278 アスリート魂・大相撲 039-2

さぁ~て、嘉風関のとった‘手’とは?

(つづく)
[2015/02/23 00:52] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
銀閣寺(その2)
② 銀閣寺(その2)

銀閣寺についてものを言う場合、金閣寺との比較は重要であり、的を得ている!

ここで問題で~す!

「銀閣寺と金閣寺、どちらが国宝でしょうか?或いはどちらも国宝でしょうか?」

この問題の出し方が既に‘ヒント’になっている!
どちらも国宝なら、極めて常識的だから問題にならないのである。きっとどちらかが国宝ではないに違いないということが、この出題の方法で簡単に判ってしまう!

【問題】金閣寺と銀閣寺どちらかは国宝です。どちらが国宝?

銀閣寺は国宝だけど、金閣寺はそうじゃない!?
金閣寺と銀閣寺。京都に行ったことがあれば、訪れた方も多いのではないでしょうか。教科書にも載っている、京都を代表するこの2つの建物は、どちらも国宝だと思ってはいませんか?

【答え】実は、国宝は銀閣寺だけなのです。

どちらも、素晴らしい建築物であることには違いありません。どうしてそのような違いが生まれたのか、そもそも国宝・重要文化財とは何かについて紹介していきたいと思います。

え!金閣寺は国宝を取り消されたってホント?

金閣寺といえば、室町幕府3代将軍の足利義満が創建した、室町時代前期の北山文化を代表する建築物です。

一方の銀閣寺は、8代将軍足利義政が創建した、東山文化の建築物です。

両寺院とも「古都京都の文化財」の一部として、世界遺産にも登録され、海外からの観光客も多く訪れる世界的にみても有名なお寺です。

そんな金閣寺は昭和25年(1950)までは、国宝でした。
しかし、同年に若い僧侶の放火によって、灰燼となってしまったのです。

そう、現在の金閣寺は昭和30年(1955)に完成したもので、実質2代目だったのです。
下の写真は初代の金閣寺舎利殿です。今と少し違いますね。

Kinkakuji_18931-300x234.jpg
http://blog.dohosha.com/jp/kinkakuji-and-ginkakuji-272.html


さてさて、こんなことも知っていれば更に実物を真剣に見ようと思う心が湧いて来る!

画像ー269 2014京都 022-2

これで前回が終わっている!
銀閣寺の方が‘国宝’である!と強調して言われてしまうと「な~るほど!」と簡単に納得してしまうのが我々庶民であるのだが、この銀閣寺を見て‘国宝’の価値が解かる人がどれだけおられるのだろうか?

国宝の威厳は、その周りの環境も一役かっているに違いない!

画像ー269 2014京都 023-2
画像ー269 2014京都 024-2
画像ー269 2014京都 025-2
画像ー269 2014京都 025-3
画像ー269 2014京都 026-2
画像ー269 2014京都 026-3
画像ー269 2014京都 027-2
画像ー269 2014京都 028-2
画像ー269 2014京都 029-2
画像ー269 2014京都 030-2
画像ー269 2014京都 031-2
画像ー269 2014京都 032-2
画像ー269 2014京都 032-3
画像ー269 2014京都 035-2
画像ー269 2014京都 035-4

銀閣寺の本当の魅力とは、一体何なのだろうか?

(つづく)
[2015/01/13 13:41] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2014年の我が家のクリスマス飾り
2014年の我が家のクリスマス飾り

我々キリスト教信者ではない人間とって、「クリスマスとは何か?」と問われても明快な答えは出来かねる。
「キリストの誕生日じゃあないの?」と言う程度の答えしか出来ないのだが・・・。

ところが、ところがである!

新約聖書に‘キリストの誕生’についての記述がない、というから驚きである!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9
イエス・キリストの誕生日との関係についての諸説[編集]

新約聖書には、イエスの誕生日に関する記述はない が、10月1日か10月2日が誕生の日と推測する説もある。1993年9月15日に、イギリスの天文学者D・ヒューズが聖書中の天文現象の記述から、イエスの誕生日は紀元前7年9月15日とする説を発表した。また、羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻ったとあり、羊を放牧するのは4月から9月の間で、冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さない事から、夜中の羊の見張りを行う4月から9月までの間とする説もある。

1月1日が12月25日と1月6日のちょうど中間にあたることから、キリスト歴の1月1日を定める時に中間の日を妥協案として選んだという説がある[要出典]が、これは単なる俗説である。ローマ帝国で使用されていたユリウス暦は、紀元前45年から1月1日を年初日に設定しており、キリスト教との因果関係はあり得ない。ただし、1月1日は丁度クリスマスの8日後にあたり、主の割礼祭(ユダヤ教の律法において、生後8日目に割礼を施すことが慣わしになっている)としての祝日になっている。

西暦1年は、キリストの生まれた年と決められており、紀元前を表すB.C.は「Before Christ」すなわち「キリスト前」という意味である。しかし実際には、キリストが生まれた年は紀元前8年から紀元6年ごろまで諸説ある。(後略)


上記の引用資料の通りだろうから、キリストが誕生した‘年’さえ確定されていないことになる。

「それじゃあ、クリスマスって何なの?」とこっちから聞きたくなる!
上記引用文献には次のように既述されている!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

クリスマス(英: Christmas)は、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭[1][2](降誕を記念する日)[3]。12月25日に祝われるが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝う[4][5]。

キリスト教に先立つユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では日没を一日の境目としているので、クリスマス・イヴと呼ばれる12月24日夕刻から朝までも、教会暦上はクリスマスと同じ日に数えられる。

なお、キリスト教で最も重要な祭りと位置づけられるのはクリスマスではなく、復活祭である[6][7][8][9]。


よ~く見て下さい!キリストが生まれた日とは書かれていない!
キリストの誕生を祝うお祭りであって、生まれた日に行うのではないのである!

まあ、この議論は素人が行うものではなく、そういうことだということを知っていればいいと言うことのようである。

でも、宗教とはほとんど無関係に日本では‘商戦’に載せられて大騒ぎに近い‘文化’になっている。
それは、それでいいじゃあないか! みんながその気になって‘お祝い’をすることに或る意味がある!

と言う訳で、我が家もこの時期‘飾り’が一杯!
今年購入したものは全くない。かみさんが何年も前から集めていたに違いない!

画像ー268 2014クリスマスイブ 001-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 006-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 005-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 008-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 007-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 009-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 012-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 015-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 021-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 022-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 016-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 023-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 026-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 025-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 025-3

こんな風に酔っ払ってはいけない!

(つづく)
[2014/12/25 19:20] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
追記・大多喜お城まつりの立役者!
2014年09月28日、千葉県夷隅郡大多喜町の‘大多喜お城まつり’は、近隣からも大勢の人々が参加して大いに盛り上がった!

このブログでも‘シリーズ’で何度も書かせて貰ったが、まだまだ書き足りていない!
余りにも沢山の写真があり過ぎて、見たり読んだりも大変になると思ったこともあって、割愛していた。
しかし、思い返してみると、武者行列の中で最も注目を集めた‘立役者’たる大多喜城初代城主・本多忠勝公に扮した方の物静かな中にも堂々とした威厳に感動した様子を書き忘れていたことに気づいた!

俳優・中井貴一さん かと見紛うほどの美男子・イケメン振りに感心したが、この方は一体誰だったのだろうか?

まあ、その戸籍調べは別として、その風貌振りを見て欲しい!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 391-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 389-3
画像ー255 大多喜町 お城まつり 389-4
画像ー255 大多喜町 お城まつり 390-3
画像ー255 大多喜町 お城まつり 394-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 399-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 399-3

中井貴一ー2
http://geinou9.com/?p=4292

画像ー255 大多喜町 お城まつり 388-3

と、その時である!
本多忠勝公の馬前に一人の裸男が飛び出して武者行列の前に立ちはだかったのである!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 374-2

これも仕組まれた座興の一つかと思って観ていたのだが、どっこい、本物の‘酔っ払い’だったのである!
居合わせた警護の警察官に‘御用’となって、連行されて行ったというお粗末!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 375-2

この間も、本多忠勝公は、びくともせず事の成り行きをじっと見つめていた!
大した役者振りであった!

(つづく)
[2014/12/17 14:24] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺・浅草浄苑の展示品
2014年10月23日、東京・西浅草にある浄土真宗・東本願寺派の本山‘東本願寺’の境内にある‘浅草浄苑’へ行く機会に恵まれた!

DSC_1503-2.jpg

DSC_0131-2_2014102723261841d.jpg
これが、浅草浄苑のある建物で、‘慈光殿’という。この4階に浄苑がある!

DSC_0081-1_20141027235349487.jpg
DSC_0083-2_20141027235351889.jpg
DSC_0085-2.jpg
DSC_0082-2.jpg

今月の美術品の展示の中で感激したのは、以下の二つ!

① 阪 正臣 の‘雪月花’! 

DSC_0087-2.jpg
DSC_0088-2_20141027235356218.jpg

読み<多分>:降る雪に 松の常盤は 埋もれても 崖の小草の 春を待ちけむ 正臣

DSC_0091-2.jpg
DSC_0090-2.jpg
DSC_0089-2_2014102800005362d.jpg

② 棟方志功 の‘肉筆画’!

DSC_0092-2.jpg
DSC_0093-2.jpg

さて、来月の美術品は?

(つづく)
[2014/10/28 00:44] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
両国橋
その日は、日曜日だったのだが、東京での打ち合わせがあった。打ち合わせが予定より早く終了したので、ここのところの散歩不足を解消するためにも、東京駅から東に向かって歩き始めた!

東京駅付近を出発したのは、2014年10月21日(日)16:18である!
およそ一時間で何処まで歩けるかを知っておきたいと思った。

通勤の際の自宅殻の最寄り駅は、このブログにも何度も登場させてもらった千葉県JR外房線・本納駅である。
本納駅は、茂原市なのだが茂原駅より二つ手前である。

せいぜい秋葉原駅まで位行きたいと思って歩き始めたのである!
何処をどう歩いたかは、余り記憶に残ってはいないなだが、兎に角東へ向かって歩いた。

17:03、およそ45分後に‘両国橋’へ出た!

ご案内の通り、‘両国橋’は有名だから、説明は要らないとも思われるが、余り確かな情報も持ち合わせてはいない。

① 両国という、二つの国はどことどこ?
② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?
③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

この質問に、‘即明快に答えられる’御仁は滅多にいないに違いない!

DSC_0047-2_20141025115952104.jpg
DSC_0048-2.jpg
DSC_0049-2.jpg
DSC_0050-2_20141025115956189.jpg
DSC_0051-2.jpg
DSC_0052-2.jpg
DSC_0053-2.jpg
DSC_0054-2_20141025120318abc.jpg
DSC_0055-2.jpg
DSC_0056-2_2014102512113658b.jpg
DSC_0057-2.jpg
DSC_0057-3.jpg

この道案内版は、何故か南北が通常の地図の場合と違っている!
だから、上が南であり、左方向が東である、墨田区の案内板が全部かどうかは知らないが、大抵‘南北が入れ替わっている!

① 両国という、二つの国はどことどこ?

A:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B
現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。


② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?

A:

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B

歴史[編集]
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。

結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。

2008年(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。


③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

A:

http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-03.htm
この両国の川開きのときに花火が行われるようになったのは享保18年(1733)5月28日といわれている。そのきっかけとなったのが前の年、享保17年に起こった大飢饉だった。この年、西日本一帯で、いなごの大群が発生するなど全国的な凶作となったほか、江戸市中にコロリ(コレラ)が流行して多くの死者を出した。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、翌享保18年5月28日にその尉霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行した。この折、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたという。これ以降、川開き初日に花火を打ち上げるのが恒例となった。
 このときの花火師は6代目鍵屋弥兵衛で、打ち上げた花火は20発内外であり、その費用は舟宿と両国あたりの茶店などから出された。 当時の花火について随筆『柴の1本』 には「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕(つかまつ)ったり」と書いてある。 いずれにせよ、立花火が主流で、上空に上がる流星が呼び物になったと思われる。この川開き花火に刺激されたのか、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、お抱えの火術家、砲術家に花火を上げさせて楽しむようになった。これら火術家が編み出したのが、いわゆる「のろし花火」だった。のちに、花火師ものろしからヒントを得て、大花火を上げるようになった。 水神祭から始まった両国の花火は、やがて「橋上の一道、人群り混雑し、梁橋たわみ動いて、みるみるまさに傾き陥んとする」 (『江戸繁昌記』)といった賑わいを呈すようになり、江戸の夏を代表する風物詩になっていった。


上記解説によると、両国橋が掛けられたのが、1659 or 1661年で、初めて約20発打ち上げの川開き花火大会が行われたのが1733年というから、橋が出来て大掛かりな花火の打ち上げ大会までにおよそ70年以上掛かったことになる!

(つづく)
[2014/10/25 13:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その13):いよいよ武者行列の始まりー3!
大多喜お城まつり(その13):いよいよ武者行列の始まりー3!

2014年9月28日の房総半島は、まさに秋晴れの候天気に恵まれ、千葉県夷隅郡大多喜町のお城まつりは、最高の盛り上がりを見せ始めていた!

予定通り、大多喜城の前広場に集結した初代大多喜城城主・本多忠勝公を中心とした武者行列の一行が、予定通り13:30に大多喜城を出発したのである!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 157-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 157-3
これが、本多忠勝公! 大多喜城の前での記念撮影の時にもそう思っていたのだが、この忠勝公に扮している御仁は一体誰なのだろうか? 最初は、俳優の‘中井貴一’氏が特別出演か?とも思った!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 074-4

中井貴一ー2
http://geinou9.com/?p=4292
俳優・中井貴一さん

本多忠勝公は、この武者行列の撮影の際に何度も登場して戴くので、その際の度に、中井貴一さんの写真にも登場願って比較してみたい!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 159-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 159-3
画像ー255 大多喜町 お城まつり 160-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 160-3
流石に、本多忠勝公は、後ろ姿も凛々しい!

さて、忠勝公の後の馬上には、ドン・ロドリゴ長官公である!

画像ー255 大多喜町 お城まつり 162-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 164-3
画像ー255 大多喜町 お城まつり 165-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 166-2
画像ー255 大多喜町 お城まつり 169-2

ドン・ロドリゴ公を見送って、私は今度はメキシコ通りで、武者行列を正面から出迎えるために、登ってきた近道を大急ぎで取って返すことにしたのである!

(つづく)
[2014/10/21 10:15] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
| ホーム | 次のページ>>
designated by FC2