バングラデシュは、今!
バングラデシュ という国は、日本人には余り知られていな様だが、バングラデシュ人は日本のことをよ~く知っている!

日本人の記憶に残っているのは、1977年に起った‘ダッカ日航機ハイジャック事件’である!

ダッカ日航機ハイジャック事件(ダッカにっこうきハイジャックじけん)は、1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件である。

概要[編集]

ハイジャック発生[編集]
1977年9月28日に、フランスのパリ、パリ=シャルル・ド・ゴール空港発ギリシャのアテネ国際空港、エジプトのカイロ国際空港、パキスタンのジンナー国際空港、インドのムンバイ国際空港、タイのドンムアン国際空港、香港の啓徳国際空港経由東京国際空港行きの日本航空472便(ダグラス DC-8-62、機体番号:JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客142名うち犯人グループ5名)が、経由地のムンバイ空港を離陸直後、拳銃、手榴弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュの首都ダッカのジア国際空港に強行着陸、犯人グループは人質の身代金として600万ドル(当時の為替レート〈1USD≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役および勾留中の9名(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。また、この便には当時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの友人であるアメリカ人銀行家が乗っており、犯人たちはそのことを事前に知っていた。
その後、ハイジャック機はジェット燃料の消費を抑えるため、エンジンを停止させたことで機内の気温が45度以上に上昇し、熱中症で倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行ったほか、機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたためにことなきを得た[1]。
犯人達は人質からパスポートと時計、金銭や貴金属類を没収し、手荷物をひとつ残らず降乗口に積み上げバリケードとした。窓のシールドは降ろさせられ、機内での要求は全て女性客にやらせた。

超法規的措置[編集]
日本政府は10月1日に福田赳夫内閣総理大臣が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび超法規的措置として、収監メンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人のうち、植垣は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持って交渉した。しかし、これをハイジャック犯側が拒否したため最終的に日本政府が折れ、2人も釈放となった。
日本政府は同日朝に、運輸政務次官の石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と交代の客室乗務員、6tの食料、身代金と釈放に応じたメンバー6人などを日本航空特別機(ダグラスDC-8-62、機体番号:JA8031)でダッカへ輸送した[2]。
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長の神谷尚男と法務大臣の福田一は、このような「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田は施行が決定された後に引責辞任した。

軍事クーデター[編集]

現在のジア国際空港
バングラデシュ軍中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。政府の要人の多くがこの事件に対応するため空港の管制塔に集まっていたことを利用しており、このクーデター軍は身代金600万ドルの強奪も企てていた。その後戒厳令が発令され、市内および郊外における戦闘の末に最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧されたものの、空港近辺でも戦闘があり、管制塔内も日本の政府関係者や報道各社の人員の目の前で銃撃戦が行われ、政府軍の士官11名が死亡したほか、事件解決の陣頭指揮を執っていた政府軍の司令官が負傷するなど現地は緊迫したが、当時は報道規制により詳細は分からなかった。この時、銃声などの異変に気づいた犯人側からの「何が起きた?」という通信に対し、バングラデシュ側は「ちょっとした緊急事態だ。兵士が近づいたら撃っていい。自分の身は自分で守れ」と返答している。石井もクーデター軍に撃たれそうになったが、「日本人だ」と言うと相手は謝って引いたという。

終結[編集]
犯人側は当初から「日本政府とは交渉しない」と通達したため、交渉はバングラデシュ空軍のマムード司令官によって行われた。石井が到着した時には現地で人質の部分解放・残りは移送先で解放という内容で現場はまとまっていた。マムードはこの事件の解決を自分と国の威信を上げるために利用しようと考えていた。しかし、クーデターによってマムードが負傷したため、その後の通信・交渉は彼の部下が代わって行った。石井ら日本側が犯人と通信をすると、犯人グループは態度を硬化するということが何度も繰り返され、日本側は全く交渉の相手にされなかった。
10月2日に妊婦や病人など、数名の人質との交換が行われ、わずかな食料と水の差し入れを犯人側が受け入れた。犯人は自分たちが持ち込んだビスケットだけを口にし、水は人質に毒味をさせていた。その直後、エジプト人の乗客がコレラ感染の疑いがあることが判明し、その乗客と周囲にいた5名を解放し、機内や乗客を酒で消毒した。犯人側はパニックを恐れて人質たちにコレラという単語を口にすることを禁じたという。その後、救援機がハイジャック機の止まっている滑走路の反対側に駐機。犯人側は飛行機を離陸体制にしたが、マムードの部下らによって進路を車などで塞がれ動けない状態にされた。アメリカ人銀行家を殺すという通信のカウントダウン5秒前で石井は犯人の要求を全て呑む回答をした。この際、石井は独断で、救援機の中で最後の交換要員である奥平に自分たち日本代表と人質全員を交換するよう説得するように頼んだ。翌10月3日に高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で、さらなる人質の解放に成功し[2]、ダッカでは乗客乗員118名が解放された。クーデター終結直後、クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの大統領令により強制離陸命令が出され、乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを発ち、日本の外務省が受け入れの交渉・手配したアルジェリアへ向かうこととなった。経由地のクウェートで人質7名を、シリアのダマスカスで人質10名を解放、その後アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、ここでハイジャック犯と釈放犯は同国当局に投降してその管理下に置かれ、最後の人質12名と乗員7名の全員が解放された[3]。日本赤軍がアルジェリアを選んだのは同国がハイジャック防止条約を結んでいなかったためである。また、当時のアルジェリアはソ連などの支援を受け、親東側諸国の立場をとっており、さらにアメリカの過激派ブラックパンサー党のメンバーの亡命を受け入れており、先進国の左翼過激派組織やキューバとともにパレスチナ解放機構など第三世界の革命組織の最大の支援国のひとつであることも大きかった。(後略)


日本とバングラデシュの国旗が酷似していることは、双方の国民が知っている!

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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B0%
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日本の「日章旗」とのデザインの類似性があり、初代大統領シェイク・ムジブル・ラフマンが国旗を決める際に吹浦忠正(聖心女子大学講師、ユーラシア21研究所理事長、初代バングラデシュ日本人会会長)は意見を求められており、日本の国旗の意味について解説している。吹浦はバングラデシュ独立戦争時に国際赤十字の仕事で現地に滞在していた[2]。ムジブル・ラフマンの娘で首相になったシェイク・ハシナは、「父は日本の日の丸を参考にした。」と証言した[3]。



私は、このハイジャック事件から20年以上も経った1999年にご縁があって、バングラデシュに一寸の間滞在したことがある・・。
日本開発の‘PHS'の設置要請がバングラデシュ国からあったので、その技術団体の一員として参加させてもらったと言う訳。

当時の現場での画像等々は、私以外の人が管理していて私の手元にない。従ってこのブログに掲載出来ないが、現地でのPHSの設置管理運営会社の社長以下の幹部が来日した際の画像は私の手元にある!

① 新幹線に乗って感慨深げな様子
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②&③ ディズニーランドでくつろぐ様子
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④ 秋葉原でお買い物
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⑤ 銀座で日本料理を
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さてさて、実は、今回のこのブログの書き始めは、ここからで以上は全部前置きである!

「なぜ?」
「実は、先日(2017年10月)かみさんが、‘シャツ’を買った際に、生産地を見たら、‘バングラデシュ製’とあるではありませんかっ!」

「それで?」
「それで、20年近くも昔の‘事件?’を想い出したって訳!」

「ほ、ほっ~!」
「これ、これっ!」

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我々が、PHSを設置するためにバングラデシュ入りした1999年当時のバングラデシュでは、携帯電話の普及率は極く極くわずかで高価だった!

早く安価なPHSシステムを完成させて経済効果を発揮出来るように通信網を設置・普及させて欲しい旨のお言葉を、当時の通信大臣から大臣官舎に招待されて直接お聞きした!

当時のバングラデシュの輸出品と言えば、4月、5月の車エビのみが日本向け輸出品で、その他に外貨を稼ぐものはなかった!
少し時間は掛かったが、繊維製品が輸出出来るようになったのも、PHSの普及のお陰だと後日お聞きしたことがあったが、実際にバングラデシュ製品を手にしたのは今回が初めてであり、感慨は一入だった!

(つづく)
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[2017/10/22 18:20] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
三度目のフィリピン(その1)
三度目のフィリピン(その1)

2016年2月23日から、二泊三日でフィリピンへ行った!
勿論仕事で・・・。

今度で三度目であるが、フィリピン特にマニラは大変貌を遂げつつある!
兎に角人口が多いから、車やバイクで道路は大混雑である。そして、人間も車も信号を守らない人達が大勢いるから、多分日本でしか運転したことが無い人には、車の運転は無理である!

そして、赤道に近いから、日本では寒気が到来しているから真冬の寒さだが、フィリピンでは‘真夏’の様相である!

以下に、今日マニラのホテルで配布された新聞のコピーを示す。

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植えの新聞の右下にお天気情報が載せられている!

マニラ新聞-3

ご覧の通り、マニラの気温予測は、最低22℃、最高が33℃である!
昨日の最高気温は、マニラで、33.3℃だったというから、日本で言う‘真夏日’である!

マニラ新聞0001-2

そして、そして上記記事のように犯罪も多いから、パスポートを胸のポケットに入れておいたりすると危ないという・・・。

真冬の日本から真夏のフィリピンへ行くので服装が大変である!

建築中のビルや車の混雑、そして帰りの飛行機も満員の状況を以下に・・・。

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この人一体何を売っているのだろうか?それとも荷物を降ろして休憩中??
次が、バスとバイク!

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帰りの飛行機も満員!

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(つづく)
[2016/02/25 23:56] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘GESL’シンポジューム
‘自己主張’のみで、相手を説き伏せようとする御仁ほど、相手の意見を聞き入れない!
その行為が、相手の不信感を増長させ、やがては‘敵視’される元となる。

国際的な駆け引きは、然ることながら、先ずは国内での意識統一がふらついていては、グローバルな話し合いも足元を見られる。それが、国際的に打って出れない一番の無策と言われる原因となる。

この度‘O教授’から‘GESL’の御説明をお聞きして感動を覚えたのは、このプログラムが、一人の人間のブレインの中で相対する壁を冷静に判断させて‘乗り越えよう’と言う‘教育プログラム’だということに気付いたからである。

このことこそ、一国の進路を間違いのない方向へ導く最大の戦略である!
このことに気づかされて、大いに感動させられて、喜んでシンポジュームに参加させて頂いたという訳である。
( シンポジューム:‘進歩集務’or‘進歩従務’と‘翻訳’して見たのだが、これは余り受けなかった!)

本来、優秀な人ほど、己の優秀さに目が眩んで相手の立場さえ無視して、貴重な意見を無視する傾向にある。
そのいい例が、‘文系’と‘理系’の争い、いがみ合いに発展する!

それを防ぐために、或る会社では、会長が文系なら、社長は理系にするというのが‘一般論・規則’となってしまっている。
そうして、内部の諍いを宥めようとする閾値を創ったとしても、いつでも成功するとは限らない!
何故なら、いつでも両者が裃を脱ぎ捨てて会社のためにこそ尽力するとは限らないからである。
これほど優秀な人材同士でもこのルールは堅固なものではない。

ところが、ところがである! これを一人の人間の中で実現出来たら、‘真の勝利の道’を確保出来る! そう、その考えに立った、その観点から考え出された‘教育プログラム’が、実は今回の‘GESL’プログラム なのである!

一人の頭脳の中では、裃をいつも脱いでいるからである!

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配布パンフ 拡大が次の画像。

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この教育プログラムの根幹は、メジャーとマイナーの二つのジャンルの違った専攻と国際感覚を養うための国際トレーニング制度の‘3本柱’から成り立っているのである!

このことを年次毎に図解したのが、次の画像!

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詳細が、上の画像に示してある。

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13:00以降、開会挨拶や来賓挨拶、基調講演、事業説明、このプログラムに沿ってトレーニング生の状況報告、自己紹介、そして、パネルディスカッションと続いた。閉会の挨拶の後、記念撮影があった。私もとうとう被写体となった!

その後、18:00頃から会場を移して意見交換会で終了。

総じて感想を言えば、まだ、まだ成熟していないからかもしれないが、このプログラムの真の意味を理解している人が主催者以外に余りいないのではないか?と言うことである。

今後に大いに期待したい!

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2014年03月06日20:19

上下の写真が、JR田町駅へ向かう歩道橋上から撮影した国道一号線の画像。

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2014年03月06日20:19

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2014年03月06日20:19

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2014年03月06日20:20

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2014年03月06日20:21

これまで、いろいろなシンポジュームに参加させてもらったが、今回ほど‘興奮した’シンポジュームはなかった。今後の発展に大いに期待したい!

(つづく)
[2014/03/07 23:41] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
これからの‘大学院・博士課程’の有り様
2014年03月06日12:30、東京・田町駅に着いた。

この日、慶応大学の三田キャンパスで開かれる‘或るシンポジューム’に参加するためである。
JR田町駅に降りるのは久し振りである。
数十年前は、仕事の関係でNECの本社にお邪魔することがあったために、かなり頻繁に利用させてもらった。

その後、今から7,8年前には、田町駅の直ぐお隣、と言っていいほどの近くのビルに勤めていたこともあって、懐かしかった!

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2014年03月06日12:32 国道一号線の品川方面(歩道橋の上から)

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2014年03月06日12:32 国道一号線の新橋方面(歩道橋の上から)

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2014年03月06日12:32 この画面の中央の奥が、JR田町駅である。(歩道橋の上から)

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JR田町駅方面への‘クロスウォーク’には、大勢の人が・・・。(歩道橋の上から)

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この歩道橋を降りると、飲食街である。

目的地は、慶応大学であるが、実はこの三田キャンパスには、一度もお邪魔したことがない!

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飲食街の続き。以前、ここはよ~く利用させて戴いた。

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この道路の奥に東京タワーが見える。

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あの丘の上が、慶大三田キャンパスらしい!

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正面の建物が・・・。

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これが、三田キャンパスの正門らしい。

あった、あった看板が・・・。

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そうそう、ご紹介が遅れたが、今回のシンポジュームは、大袈裟に言えば、これからの日本の指導者が世界中を相手に十分活躍出来るかどうかの素養を身につけることが出来る‘博士課程の大改革’に繋がる試みの途中の報告会なのである!

この情報は、実は私が近しくして戴いている慶応大学の‘O教授’から、ご案内戴いたのである。その時の‘O教授’の明解且つ論理的なご説明の迫力に感動したからである。これこそ、今後の日本を左右する教育方針の一つかもしれないと思ったのである。

この‘育成プログラム’は、「GESL」プログラム( Global Environmental System Leaders Program ) という。

「 GESL Symposium 2014 」
<国際的組織で活躍できるグローバル環境システムリーダー>2014.3.6 13:00~17:40

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案内の‘セミ・サンドイッチマン’もいた。

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流石に慶応大学!マンホールの鉄蓋デザインも大学のロゴ入り!

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そう、そう、この建物が、私が55年以上も前に‘蛍雪時代’(旺文社)等々で見た慶應義塾大学の建物だ!

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そして、ここが会場の北舘!

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会場に間違いなし! 到着したのは、12:48

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会場の様子。

「会場内での写真撮影は‘OK’?」
「原則として、‘NO’です!」
「そうですか!な~るほど!<‘KO’大学だから、‘OK’の反対?>」

という訳で、始まったら,会場内は撮影禁止!

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同時通訳、第2チャンネルで‘英語’? じゃぁ、本日の発表・会話は、日本語ってこと??

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2014年03月06日12:58 さあ、はじまり、始まり!

(つづく)
[2014/03/06 23:41] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
毎日こんなに事件が・・・
2014年03月03日、出かける予定もあったから、大変慌だたしい時間帯ではあったが、昨日からある情報が入って来ていたので、テレ朝の‘モーニングバード’を08:00から見ることにした。

それは、‘全日展’事件である!

私が、この弊ブログでご紹介をした‘全日展’の書道部門で、前代未聞の大事件が起こったことについての‘セミ特集’である!

いよいよ始まった! 3月3日は、‘ひな祭り’だというのに、ひな祭りの情報など紹介出来ないほど奇怪な事件が多いということのようだ!

<画像は、全てテレビ朝日のTV画面をカメラで撮影したものである>

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2014年03月03日08:00

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お馴染みの‘爽やか’が売り物のお二人である。

<事件ー1> : 中3女子殺害 18歳少年逮捕!

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<事件ー2> 中国雲南省の駅で 「無差別テロ」!

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<事件ー3> : 夜行バスがトラックに衝突!

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<事件ー4> 突然「木の棒」で殴られ重唱!

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<事件ー5> : 全日展 前会長が知事賞捏造!

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これはまた、一体どうしたのだろうか? 捏造とは?

(つづく)
[2014/03/03 23:29] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘建国記念の日’とその‘の’の意義
本日(2013年02月11日)は、国民の祝日「建国記念の日」であって、「建国記念日」ではない。‘の’が入いるのである。

案外この‘の’の意味を知っている人が少ない!その理由は、‘決め方’に問題があったからである。

日本人独特の‘玉虫色’の決め方と言ってもいい。玉虫の羽は、光線の当て方の違いによりその色が緑色や紫色に見えたりすることから、考え方の基本が違えば解釈が違ってもいい、という正に日本人の‘都合の良さ’、もっと言えば‘無駄な論争をしない何事もこと無かれ主義’という日本人の‘性格の良さ’を示す。勿論、その反面‘優柔不断’とも非難されはするが・・・。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E
3%82%A4%E3%83%AB:Chrysochroa_fulgidissima_by_OpenCage.jpg

‘色’は、面白いもので、‘もの’そのものが‘色’を持っている訳ではない。その‘もの’に‘光線’が当たって、その跳ね返りの‘光(=反射光)’がその‘もの’の‘色’と思われているだけである。従って、当てる‘光線’が‘太陽光’のような‘白色光’でなければ‘反射光’もそれに伴って変わってくる。何故‘玉虫’が玉虫色’を反射するかについては、その理由も含めて後日別途解説する。

さて、横道にそれてしまったが、‘Wikipedia’にその決め方の詳細が次のように解説してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%
E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%AE%E6%97%A5


「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつての祝祭日のひとつ、紀元節であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇即位の日として、1872年(明治5年)に制定された[1]。この祝祭日は、1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日に関する法律附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。
紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「神武天皇即位の年月は、歴史上、科学的に根拠が薄弱であり、今後学問的検討を待って決定すべきではないか」「過去において、神武東征の物語りが、征略国家として支那事変、大東亜戦争において利用され、偏狭なる忠君愛国の教育とも相待って、日本の進路を誤まらせたものではないか」などと批判し、「建国記念日」の制定が保守政党の反動的行為であるという理論を繰り広げて反対した為[3]、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。
その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。
同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。


そして、‘建国記念の日’そのものの概説は以下の通りである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B
%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%AE%E6%97%A5


‘建国記念の日’概説 [編集]

国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用された。

他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、本日のみが「政令で定める日」と定められている(経緯は#沿革を参照)。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。2月11日という日付は、明治時代の初期[1]に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来する[2]。
当日は、各地の神社仏閣にて「建国祭」などの祭りが執り行われる。


さて、それでは、世界各国の‘建国記念日’は、どう取り決められているかを見てみると以下の通りである。

( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9
B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

建国記念日 - Wikipedia0001
建国記念日 - Wikipedia0002
建国記念日 - Wikipedia0003
建国記念日 - Wikipedia0004-2

このデータをよ~く眺めてみると次のことに気付く。

① 日本と大韓民国の記念日の決め方が諸外国とは少し違う。

② イギリスの建国記念日が見当たらない。


① については、建国の在り方の解釈が、建国される事情が違ったためと考えれば良いが、② のイギリスの場合は、その歴史的意義と‘イギリス’と呼ばれる‘国’の事情をもう少し認識する必要がある。

そもそも‘イギリス’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9
イギリス:正式名称は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、英: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの国(イギリスのカントリー)から構成される立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。また、国際関係について責任を負う地域として王室属領及び海外領土があるが、これらは厳密には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」には含まれておらずこれらを含む正式な名称は存在しない。
ユーラシア大陸西部の北西にある島国であるが、アイルランド島でアイルランド共和国と国境を接している。国家体制は国王を国家元首とし、議院内閣制に基づく立憲君主制である。国際連合安全保障理事会常任理事国の一つである。公用語である英語は実質上世界共通語としての機能を果たしており、広大な英語圏を形成している。
大航海時代を経て、世界屈指の海洋国家として成長。西欧列強のひとつとして世界に植民地を拡大し、超大国として栄え大英帝国と呼んだ。19世紀には世界の過半を影響下におき、パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)と呼ばれる比較的平和な時代をもたらしたが、19世紀終盤にはドイツ、次いでアメリカに経済規模で抜かれ、第二次世界大戦を機に植民地の大部分を失い衰退し、現在に至る。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1176350646

日本でイギリスと呼ばれている場所にある国を連合王国(UK)と言います。

現在の連合王国の領土域になったのは1921年です。しかしそれを持って建国記念日とはしません。
連合王国の元になったイングランドとスコットランドの合併は1707年ですが、これも記念日として祝ったりはしません。

現在の連合王国を構成する4つの国はそのどれもがはっきりした建国の日を持ちません。

そのうちイングランドに関しては現在につながる国家の起源に近い状況になったのが1066年です。しかしこれも建国の年ではありません。

なお4カ国にはそれぞれ守護聖人の記念日があります。しかし建国を記念する日ではありません

England →聖ジョージ日(4月23日、非祝日)
Scotland → 聖アンドリュー日(11月30日、スコットランドで祝日)
Wales →聖ディヴィッド日(3月1日、非祝日)
Northern Ireland → 聖パトリック日 (3月17日、北アイルランドで祝日)


「建国記念の日」に関する今年の様子をNHK・NEWS/WEBが次のように伝えている。
logo.png

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130211/k10015437921000.html
建国記念の日 各地で式典や集会
2月11日 18時6分

建国記念の日の11日、これを祝う式典や、反対する集会が、各地で開かれました。

このうち東京・渋谷区では、神社本庁などで作る「日本の建国を祝う会」が式典を開き、主催者の発表でおよそ1500人が参加しました。
主催者を代表して、國學院大学教授の大原康男さんが、「建国記念の日を日本再生に向けた確実な一歩とすべく、改めて決意したい」とあいさつしました。
そして、「新政権は、憲法改正など国家の根本に関わる問題に着手しつつある。誇りある国造りへ向けて、尽力することを誓う」などとする決議を採択しました。
参加した40代の女性は、「領土問題をきっかけに、若い世代を中心に国の在り方を議論すべきだと感じるようになりました。憲法を改正し、子どもたちが安心して暮らせる世の中にすべきだ」と話していました。

一方、東京・中央区では、歴史研究者や教職員など主催者の発表でおよそ450人が参加して、建国記念の日に反対する集会が開かれました。
この中で、一橋大学名誉教授の渡辺治さんが、「総選挙で、改憲を志向する政党が勢力を大きく伸ばすなか、平和憲法を守ることの意味を改めて考えるべきだ」と述べました。
そして、「国防軍設置が主張されるなど憲法は戦後最大の危機にある。歴史の逆流を許さず、憲法を力として、平和なアジアと日本社会の未来を開こう」などとする宣言を採択しました。
参加した高校3年生の女子生徒は、「平和を守るうえで、憲法の存在は非常に大きいと考えています。私はまだ有権者ではありませんが、もし憲法改正が問われれば、きちんと考えて判断したいと思います」と話していました。


大騒ぎが起こるでもない‘玉虫色’の「建国記念の日」だったようである。
[2013/02/12 02:31] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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