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アゲハチョウ(ナミアゲハ)の生態(その1)
アゲハチョウ(ナミアゲハ)の生態(その1)

昨日(2019年6月11日)の9:40に、庭のあじさいを撮影していた時に偶然、「アゲハチョウ」が目の前に現れたのであ~る!

ネットで調べてみると、「アゲハチョウ」にも沢山種類があり、どうやら「ナミアゲハ」という種類らしい!?

https://www.insects.jp/kon-tyoageha.htm
アゲハチョウ(アゲハ、ナミアゲハ)
チョウ目 アゲハチョウ科 アゲハチョウ亜科
Papilio xuthus
大きさ (前翅長)35-60mm
時 期 3-11月
分 布 北海道・本州・四国・九州・沖縄
もっともなじみ深いチョウのひとつ。都会の真ん中から山地まで、様々な環境で見ることができる。
あまりに普通種すぎて見過ごしがちだが、はねのデザインはとても美しい。
幼虫は、ミカンやカラタチの葉を食べる。緑の少ない街なかでも、ミカンの鉢植えさえあれば、このチョウがどこからか飛んできて卵を産んでいく。


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040429ageha1.jpg

では、私が撮ったナミアゲハは・・・

DSCN0211-2.jpg
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次は、このチョウの別の角度からの画像を・・・。

(つづく)
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[2019/06/12 09:32] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
嬉しいコメントが来ました❗
「柏葉あじさいに巣を作る蜘蛛」と言う記事を書かせて貰ったが、この蜘蛛の名前も何も解らなかった❗

ところがである❗
世の中には、多くの知識人やその道に精通した方がおられる❗

早速、次のような有難いコメントを頂戴した❗

「これはゴミグモという蜘蛛みたいですね。
巣にごみを吊るすのが特徴です。
こっちでも結構見られる蜘蛛で、巣にごみが下がっているので誤って引っかかるという心配が少なくて済みます(笑)」


嬉しいではないか❗プロの方が、ド素人のいい加減な記事を見て下さっているのである❗

感謝!感激!

⑧DSCN3042-4
⑧DSCN3003-3

この直上の画像は、ゴミグモが一寸の間巣を抜けて避難した後!

蜘蛛にもゴミ屋敷があったのだ❗

詳細は、ネットで探し捲って後日記事にしたいと思っている❗

嬉しいコメント、誠に有難うございました❗

(つづく)
[2019/04/13 07:03] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
春の訪れ・2019(その1):カナブンの後日談
春の訪れ・2019(その1):カナブンの後日談

昨日(2019年4月4日)に掲載させて戴いた、この弊ブログには、

『早速カメラで撮って、PCで拡大してみると、小さいながら、その様相は「がっちり」したもので、大きな「カナブン」と変わりはない!』

と知ったかぶりで書かせて貰っていたが、昨日の内に、「S様」から

「・・・多分これはカタモンコガネかと思われます。カナブンはY部分が結構大きめなのでもっとはっきりわかります。・・・」

という嬉しい情報を下さった方がおれれる。

それで、早速「カタモンコガネ」で検索してみた!

「あった!あった!」

①カタモンコガネ
img_0_20190405095130516.jpg
出典:https://blogs.yahoo.co.j
p/natarunataruosukaru/
13256253.html


<次の写真も出典は同じ>
①カタモンコガネ(コガネムシ科スジコガネ亜科)・・・体長7,5~11,5mm
img_3_m.jpg
この写真のカタモンコガネは、一枚目のカタモンコガネの触角と比べ、→(片状部の片状節)が小さい事から雌だと想われます(一枚目の写真は雄という事に成ります)
出典:https://blogs.yahoo.co.j
p/natarunataruosuka
ru/13256253.html


という文献に出会うことが出来た!

「S様」、ご指導有難うございました!

今後ともご支援よろしくお願い致します!

ということで、私が撮った画像は、

DSCN2983-3.jpg

そして、体長は「体長7,5~11,5mm」という。私が推定したのは、「5mm~7mm」だった。

だから、「S様」のご指摘は、的中!

「ド素人が、勝手に判断するのは禁物!」ということが身に染みたのである!

(つづく)
[2019/04/05 10:21] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
紅葉のメカニズム
紅葉のメカニズム

DSC_2136-7-3.jpg
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出典/http://photo.v-colors.com/tag/%E7%B4%85%E8%91%89/

紅葉のメカニズムを理解するためには、紅葉する樹の葉っぱの構造を知っておくことが必要である!

そうすれば、葉っぱが如何に巧妙に出来ており、しかも葉っぱが樹を養うために、‘光合成’(炭酸同化作用)により‘炭水化物’を造り、それを実に巧みに要所要所に運搬しているかが理解出来る!

紅葉は、この光合成で出来た‘炭水化物’と直接関係がある!
そして、美しい紅葉は、この炭水化物が沢山出来る条件、つまり光合成が盛んに行われる状態、つまり太陽光が燦燦と降り注ぐ快晴であることが必須条件である。

そして、そして、もう一つ欠かせない条件とは、炭水化物が出来た後に‘気温が下がる’ことである!
そして、そして、そして、更に重要な条件は、気温が下がった翌日には快晴で太陽がまた燦燦と降り注ぐことであ~る!

先ずは、葉の断面の模式図から・・・。

出典/http://biology1.juniorhighschool-science.net/plant/parts_of_plant.php
葉のつくり
葉は緑色していますが、これは葉緑体というものがあるからです。ここで光合成を行っています。葉緑体は葉をつくっている細胞の中にあります。ただし、葉の表面の細胞(表皮細胞)には葉緑体がないことに注意してください。

また、葉には葉脈がありますが、葉脈は栄養分や水を運ぶ管が集まったものです。養分が通る管を師管、水が通る管を道管といいます。道管が葉の表よりにあり、師管は葉の裏よりにあります。光合成の材料のひとつである水はこの道管を通って、葉緑体に運ばれ、つくられたデンプンなどの養分は師管を通って全身に運ばれます。

さらに葉の裏側には気孔という穴が多くあります。気孔は葉の裏に多くあり、穴をつくっている細胞(孔辺細胞)を開閉することで蒸散などの調節をしています。なお、孔辺細胞には葉緑体があります。


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特に紅葉に最も重要な役目を果たすのは、光合成で出来た‘栄養分=炭水化物’を輸送する役目を担っている‘篩(師)管’である!

同じような断面の模式図をもう一つ・・・。

出典/http://bonsai.shinto-kimiko.com/kiso/kouzou.htm
葉の組織構造

植物の葉は、あとにも書きますが光合成の働きやガス交換、水分を蒸散させる場所です。

導管は根から吸い上げた水を体内に送り、合成した栄養分は師管から全体へ運搬する役割を持っています。

気孔は光合成が盛んに行われる日中に開き、葉から水を蒸散させるとともに光合成に必要な二酸化炭素を吸収しています。

常緑樹では1年中葉をつけますが、落葉樹では紅葉後に葉がすべて枯れ落ちます。


danmen.jpg

以上のことを箇条書きに纏めると次のようになる。

<美しい紅葉になるための必須条件>

① 紅葉する樹木があり、かつ葉っぱがあること。
② その葉っぱに太陽光が燦燦と降り注いで、光合成(炭酸同化作用)により養分(炭水化物)が沢山出来ること。
③ その後、夜分に或る一定の温度以下に気温が下がること。
   ③-1:夜分の意義;養分がその樹の要所に師(篩)管を経由して運ばれるのが夜分である。
   ③-2:或る一定の温度;その樹の葉っぱの師(篩)管が萎み始めるその樹特有の温度。
④ 或る一定の気温以下になると師(篩)管が萎み始め、養分が流れなくなり、葉っぱに養分が取り残される。
⑤ 翌朝以降快晴が続くと、葉っぱに取り残された養分に太陽光が注いで、その養分が分解・合成などの化学変化を起こす。
   ⑤-1:太陽光の内、紫外線(分解・合成のためのエネルギー)と遠赤外線(反応促進の温度)が重要役目を果たす。
⑥ その化学変化の結果次第で、その樹特有の‘色彩と鮮やかさ’が人間の目に映って、紅葉の素晴らしさに感動する・・・。

という段取りのようである。

しかし、学問的記述は、次の様になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89
紅葉のメカニズム[編集]

普段葉が緑色に見えるのはクロロフィルが含まれるからであるが、寒くなり日照時間が短くなるとクロロフィルが分解される。また、葉柄の付け根に離層という特殊な水分を通しにくい組織ができ、葉で作られた水溶性のブドウ糖や蔗糖などの糖類やアミノ酸類が葉に蓄積し、その糖から光合成を利用して新たな色素が作られたりする。その過程で葉の色が赤や黄色に変化し、紅葉が起こる。その後、落葉になる。

紅葉、黄葉、褐葉の違いは、それぞれの色素を作り出すまでの葉の中の酵素系の違いと、気温、水湿、紫外線などの自然条件の作用による酵素作用発現の違いが、複雑にからみあって起こる現象とされる。

紅葉の原理[編集]葉の赤色は色素「アントシアン」に由来する。アントシアンは春から夏にかけての葉には存在せずに、秋に葉に蓄積したブドウ糖や蔗糖と、紫外線の影響で発生する。


更に、もう少し‘判りにくく(おっと失礼!‘詳しく’で~す!)’は、次の様に・・・。

http://www.momijikaedelab.jp/%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%87
%E5%B1%9E%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E
5%A0%B1%E5%91%8A/%E7%B4%85%E8%91%89%E3%81%AE%E3%
83%A1%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0/

紅葉(こうよう)のメカニズム

秋が深くなるともみじを始めとしたカエデ属植物は紅葉(こうよう)します。もともと「もみじ」という意味の語源は平安時代の「もみづ:染色するという意味」から葉の色が染まる様子をもみじに当てはめて呼んでいたところからきています。

 紅葉する前の葉を構成する成分として大まかに緑色と黄色があります。緑色の由来は光合成を行う葉緑体を構成するクロロフィルと呼ばれる植物に必須の成分です。黄色は大まかにカロテノイドという種類の脂溶性成分で、ニンジンやカボチャに含まれるβ-カロテン(プロビタミンA)やルテインなどの成分です。これらの成分含有量のバランスにより葉は普段黄緑-緑に見えます。

 ちなみに葉が黄緑-緑色に見える理由として、植物は主に赤色の光線と青色の光線のみを光合成に利用しているため、緑色や黄色は必要ありません。よって必要のない反射された緑色が私たちの目に入ることで植物は緑っぽく見えます。

 冬になるにつれ日照時間が少なくまた気温も低いことから光合成する効率が悪くなります。そこで落葉樹は冬になると冬眠する動物のように休眠するのです。この時葉は必要なくなるので葉を落葉させます。落葉するプロセスとしてまずタンパク質の分解作用によりクロロフィルを少しずつ破壊し枝に吸収します。同時に葉と枝の間に離層と呼ばれる壁をつくり、水や栄養の行き来を少しずつ遮断します。この時クロロフィルの消失により緑色が無くなることでイチョウのような葉っぱではだんだんと黄葉してゆきます。葉っぱではまだクロロフィルが少なからず存在し、光合成を行っていますから、光合成によってつくられたグルコースは枝に送ることができないので葉の中に蓄積されます。細胞の液胞中でこの過剰に蓄積されたグルコースが行き場を失い、様々な生合成経路を経てアントシアニンと呼ばれる赤い色素に合成されます。残ったカロテノイドの黄色と合成されたアントシアニン量のさじ加減で葉全体が真紅-橙―黄の間の色になります。これが紅葉のメカニズムです。

 この葉っぱを落とすきっかけとなるシグナルはまだ明確にされていませんが、一つの大きな原因として日中の温度が深く関与しているといわれています。松本の報告によると日中の気温が8℃を下回る時間の積算を超えると紅葉する、という興味深い報告があります1)。よって日中の気温が8℃を前後する急な寒暖差がある日が続くことが美しい紅葉を見られる要素であり、山間部や盆地などは寒暖差が激しいため美しい紅葉を見ることができます。

また同時に日が当たることも基本的な紅葉を生む条件の一つで、アントシアニンは日光の刺激により生合成されることが示唆されます。これは日光による紅葉している葉をめくってみると、下の葉はあまり紅葉していないことからも予想されます。

 またある程度の水分も必要で、滝などの水辺の近く(カエデは海水を嫌います。)では適度な水分が葉に保たれるため、ピンと張った葉の紅葉を見ることができます。

ちなみにカエデ属植物は全てが紅葉するわけではなく、日本のイタヤカエデ(Acer mono)やヒトツバカエデ(Acer distylum)、海外のヨーロッパカエデ:Norway maple (Acer platanoides)などはアントシアニンが合成されにくいため秋には紅葉せず黄葉します。

 私の経験上、太陽が当たりすぎて葉中の水分が少なくなり、夏に日焼けしているような赤を示す植物は概ね紅葉します。カエデ属植物の他にもブドウ科やバラ科の植物も紅葉しますが、カエデの紅葉は植物では群を抜いて美しいものです。

参考文献
1) 松本太 日生気誌 42(2), 65-75 (2005).


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出典/http://photo.v-colors.com/tag/%E7%B4%85%E8%91%89/

さあ、これからが紅葉のシーズン!

(つづく)
[2015/09/10 11:40] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
柿の葉は、今!
柿の葉は、今!

今年(2015年)は、本当に‘異常気象’だ!

暑かった思うと直ぐに少々冷え込んだり、台風の数が多過ぎる!

動物だって植物だって昆虫だって「おや?」と思っているに違いない!

特に、‘蚊’の様子がおかしい!
彼らこそ、温度依存性が高いと思われるから、温度の‘乱高下’は堪えるに違いない!
と言うことは、蚊こそ子孫を残そうとする本能から、人間様に‘必死で’喰らいついてくる。

人間も何億倍もの体重を持ちながら、「まあ、血でも吸って子孫を残しなはれ!どうぞ・・」と言う訳には行かないから、‘パチリ’とやってしまう!

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ところで、9月に入ったばかりなのに、柿の葉は敏感である!

全部の葉っぱがそうと言う訳ではないが、特に気温に敏感な葉っぱがあるらしい!
平年なら10月に入ってから、の様子である・・・。

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これで終わっては、「それがどうした?」と言われるだけで、面白くもおかしくもないし、ためにもならないから記事の価値が無い!

紅葉、つまり葉っぱが緑から赤く変化するのは一体何故か?

「秋になったら、赤くなると決まっているから、赤くなるんでしょ!」

という言い方を英語圏では、 ‘woman's reson’ と言うらしい!
‘女の理屈’とは良く言ったものだ!

‘嫌いだから嫌い!’

これじゃあ、進歩も無ければ面白さを追求することも不可能である!
だから、‘女性の方が長生きする’と言い切る御仁まで出てきてしまうから面白い!

さて、何故紅葉する葉っぱと紅葉しない葉っぱがあるのか?

その理由は、紅葉するメカニズムを理解すると‘成る程’と理解出来る!

そのメカニズムは次回!

(つづく)
[2015/09/09 00:02] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ブーゲンビリアについて
ブーゲンビリアについて

物事は、‘もう一歩’踏み込んでみると、今まで感じていたこととは全然違うことが見えてくることが多い!

ブーゲンビリアについてもそのことが言える。

次の写真を見て、・・・

DSC_2139-7-2.jpg

普通の一般の人は・・・

「あっ!‘ブーゲンビリア’だ!」

というだけで、

「あの、赤いのが‘花ですか?」

と聞くと

「そうだと思うけど?それが何か?」

という返事が返ってくる!

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「じゃあ、この3本は、何?」

と聞くと

「さあ、めしべ?おしべ?」

「じゃあ、この白いのは?」

「さあ???」

これで会話が続かなくなる・・・。

そこでもう一歩踏み込んで、

「この白いのが‘花’だとすると・・・、おお、あの‘赤い’のは、花じゃぁなくかるから・・・、え~と、そう‘包葉’(=苞)かも?」

「ほう!苞のことをご存知とは、素晴らしい!」

となって、会話が繋がるというもの!

http://www.bananamour.com/~nenriki/Bougainvillea.php
ブーゲンビリアの花について

flower.jpg

1.苞(ほう)
2.花弁
3.おしべ
4.めしべ
5.(めしべの)子房

苞の部分を花と呼ぶことが多いですが、苞は花ではなく、がくや葉に近いものです。この図で言うと 2,3,4,5 の部分で「花」を構成しています。

このようにちゃんとおしべもめしべもあるので種も出来るはずなのですが、ブーゲンビリアの花は開花して数日で写真中央右側のようにしおれてしまいますし、花柄ごと折れて苞もろとも落下してしまうので、はっきりいって受精は難しそうです。

が、調べましたところ、マレーシアで Mrs Butt などを種から育てたという事例を確認しました。まあ考えてみると、 Hybrid があるということは、当然のことながら掛け合わせが可能なわけです。ただし、どんな場所でも種が出来るというわけではなく、非常に限られた(ブーゲンビリアには理想的な環境)の下でなければできないとのことです。


「じゃぁ、これは?」

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「この最後の写真は、‘花弁’が萎んだ後ってこと!」

そして、別の文献には、次の様に書かれている・・。

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出典/http://ww1.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/6-1.html
ブーゲンビリア(園芸品)(オシロイバナ科)。3枚の色づいた葉が枝先に集まり、それぞれの葉の腋に1つずつ、筒状の花がつく。

さあ、何にでも ‘もう一歩’踏み込んで 頑張ろう!

(つづく)
[2015/09/08 21:12] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
紫御殿(その3):パープルハート
紫御殿(その3):パープルハート

<紫御殿>

DSC_1997-2.jpg
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紫御殿は、別名、 ‘パープルハート’というらしい!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%
B5%E3%82%AD%E3%82%B4%E3%83%86%E3%83%B3

ムラサキゴテン(紫御殿、学名:Tradescantia pallida 'Purpurea')は、ツユクサ科の園芸植物。(シノニムSetcreasea pallida 'Purple Heart')。別名パープルハート、セトクレアセア(園芸品種名で通用する)。

特徴[編集]
地上部全体が紫色をしており、葉は少し多肉。6~9月頃に紅紫色の花が咲く。乾燥した日当たりの良い環境を好む。メキシコ原産で、原種はほとんど栽培されることはない。耐寒性はそれほど強く無いが、日本では東京より西であれば戸外でも越冬可能


でも、こんな表現は???
我が家は、東京より東の千葉県なので、戸外越冬は無理?
「そ、そんなバカな!」

さて、‘パープルハート’って何?
と言う訳で、観察してみると・・・・。

20150825 サルスベリとモドキと紫御殿 053-2
20150825 サルスベリとモドキと紫御殿 053-3
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正に、‘紫のハート’が・・・・。
花ではなくて、‘葉っぱ’なのである。
お見事!

さて、一般的に‘パープルハート’と言えば、アメリカの、あのジョージ・ワシントンやダグラスマッカーサーと何らかの関係がある‘勲章’というイメージがあるのだが・・・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%
E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%8F%E3
%83%BC%E3%83%88%E7%AB%A0

パープルハート章 (Purple Heart) は、アメリカ合衆国の戦傷章。日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章等とも表記される。

<パープルハート章>

130px-Purpleheart_cropped.jpg130px-Purpleh_back.jpg
     左:表面          右:裏面

記章は幅 1 3/8 インチのハート型で、表面は紫色で金色の縁取りがされ、中心にはワシントンの胸像レリーフが配置され、紐の部分はワシントンのコート・オブ・アームズとなっている。そして、裏面は青銅地金に“FOR MILITARY MERIT”の文字が彫られている。綬は幅 1 3/8 インチで紫色。両端に 1/8 インチ幅の白線。

概要[編集]
戦闘を含む作戦行動によって死傷したアメリカ合衆国全軍の兵士に対して与えられる。マナート・L・エベール少佐とともに戦死した潜水艦グラニオンの乗組員など、生死不明になった場合にも授与されることがある。

沿革[編集]
バッジ・オブ・ミリタリーメリットパープルハート章の前身は、ジョージ・ワシントンによってアメリカ独立戦争中の1782年に制定されたバッジ・オブ・ミリタリーメリット (Badge of Military Merit) である。この章は紫色でハート型の布片だった。しかし、この章は終戦に伴い運用されなくなった。

1932年、ジョージ・ワシントン生誕200周年を記念して、大統領命令により当時の陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーが”パープルハート章”の名称で復活させた(1932年2月22日陸軍省令第3号)。そして、同日発行の陸軍省通達により、1917年4月以降に功労感状 (Meritorious Service Citation Certificate) を受けた者及び戦傷袖章 (Wound Chevron) の着用を許可された者も同章の授与対象とされた。このことにより、マッカーサー自身も第一次世界大戦時の戦傷に対して同章が授与された。

第二次世界大戦中、アメリカ軍は日本本土決戦において生じるであろう死傷者数を推定して50万個のパープルハート章を製造したが、ポツダム宣言受諾によって本土決戦はなくなり、このため量産されたパープルハート章は戦後70年経っても尽きることがなかった。2003年当時で残っているパープルハート章の総数は12万ほどだった。これが底をついたのは2010年頃である[1]。


何故この勲章の色がパープル(紫)なのかについては解説がないが、やはりアメリカにおいても‘紫は高貴’というイメージがあるのだろう!

さて、もう一つ、パープルハートについての情報・・・。

http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E
3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88

パープルハートとは、「超次元ゲイムネプテューヌ」の登場人物。

49294845_p0_master1200.jpg


というのもあるらしい!

(つづく)
[2015/08/27 10:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
紫御殿(その2)
紫御殿(その2)

昨日(2915年08月25日)のこのブログは、「ここで問題で~す!」的な画像で閉めていた!
それが下の画像・・・。

<2015年08月24日10:15>
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「‘イチジク’でしょう!」
「いや、いや、何処からか飛んできた植物の種!紫御殿の葉っぱの間に挟まったのよ!」

ってな具合!

「パンパカパ~ン!正解は・・・・・」

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正解は、‘紫御殿の花の芽’なんで~す!

ってな訳で、物事の判断は、‘周りの情報との関係’で判断しなければ全体の本質の把握は掴めないことを示唆している!

例えば、‘め’は‘め’でも、次の画像の‘目’は一体誰の目なのだろうか?

ichiro1-2.jpg
<出典/http://1kando.com/22823

この一つの目だけでは、多分ご本人だって判らないかも?
しかし、目が二つ揃えば、ひょっとして、あの人では?自分だよ!と判るかも知れない!

ichiro1-3.jpg
<出典/http://1kando.com/22823

次の画像まで周りの情報が‘開示’されれば、もうイチロー選手だということは誰にだって判る!

ichiro1-4.jpg
<出典/http://1kando.com/22823

ichiro1-5.jpg
<出典/http://1kando.com/22823

この目こそが、世界記録を続々と更新しているイチロー選手の目なのである!

それなのに‘片目’だけ見せられても、直ぐには判らないということが、今の情報社会の盲点でもあるのかも知れないのだ!
情報が多過ぎれば、全部を見れないために、或る偏った情報だけで判断するととんでもない間違い判断になりかねない!

と言うことは、細かい情報が有り過ぎても却って判断を誤るという皮肉な社会情勢となったとも言えるではないか!

さて、本来の話に戻すと・・・

この花芽は、次の日には、立派な花を咲かせていた!

<2015年08月25日07:49>
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ここまで拡大する必要もないのだが、ついつい・・。でも‘おしべ’の下方にある‘ひげ’が、スムーズなモヤシ状ではなく‘玉繋ぎ’のひげであることに気付いたから・・・。
これにもキット重大な意味が隠されているだろう!

さて、さて、この‘イチジク状’の花の芽・蕾が一日後に花を咲かせたのは判ったが、その後どうなったのだろうか?

<2015年08月25日17:17>
DSC_2069-2_20150826105301d62.jpg
DSC_2069-3.jpg

と、言う訳で、‘半日~一日’にして花は‘萎んで’しまった!

花の芽・蕾の画像と比較すると・・・

DSC_2002-3.jpg

花は、この上の画像の4つある蕾の右下の蕾であったことが判る!

そして、そして、今朝(2015年08月26日)、残った3つの蕾の一つが花を咲かせた!

<2015年08月26日07:18>
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関東地方・千葉県・茂原市では、久し振りの雨(秋雨前線と台風15号、16号の影響?)と気温21℃という低温にもめげずに花を咲かせた!

さて、またもう一つの疑問・課題は、上の画像にも見られるとおり、「草花は一体何故雨露を‘玉ころ’にするのか?」
この‘超撥水性’については、また後日ということに・・・・。

(つづく)
[2015/08/26 11:28] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ビキタンの前足指の数
ビキタンの前足指の数

先般、2015年07月07日に我が家にご訪問戴いた‘ビキタン君’の‘前足の指の数’が4本ではなく‘3本’のような印象を与えていた!

‘ビキタンの来訪!’(http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-date-20150708.html

その時の写真が以下である・・・。
襖戸にへばりついた‘ビキタン’は・・・

20150707 室内のかえる 001-3
20150707 室内のかえる 006-2
20150707 室内のかえる 010-3
20150707 室内のかえる 008-2
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20150707 室内のかえる 008-4

かろうじて、下の写真の左前足の指の数が、‘4本’と認識出来るのみだった!

20150707 室内のかえる 010-2

ただし、後ろ足の指の数は、普通は、‘5本’らしいのだが、以上の画像からは、‘3本’としか認識出来ない!

2015年08月18日の朝、ビキタン君が今度は網戸に捕まって寝ているところを発見した!

足の指の数を確認するのに格好の事態である!

慌てふためいていると、ピントがぼける!

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直ぐに、‘ビキタン’が起きて逃げて行かない内に、外からの撮影ということで・・・

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外(背中側)からも、前足の指の数が、‘4本’であることが確認出来た!

次は、後ろ足の指の数が、‘5本’であることの確認を自分ですることである!

(つづく)
[2015/08/20 07:50] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
トンボの一生
トンボの一生

‘一生’と言っても、いわゆる‘トンボの成虫’となっての寿命のことだが、せみの場合極めて短いことは小学生でも知っているのだが、さて、「トンボの場合は?」と聞かれると大人でも「さ~て、夏一杯?」ということになってしまう。

ai-01.jpg
出典/http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0310/contents/
library/ai-01/ai-01.html

http://members.jcom.home.ne.jp/furuty/tonbo/tonboQA.htm
<前略>ほとんどのトンボが一年一世代型で、成虫になってからは2~3ヶ月しか生きられません。<後略>


我が家の周りには、いわゆる普通のアカネトンボの代表である、‘ノシメトンボ’が多い!

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B7%E
3%83%A1%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%9C

ノシメトンボ(熨斗目蜻蛉、学名 Sympetrum infuscatum )は アキアカネと並んでよく見られるアカネ属の普通種。和名は成虫の腹部の黒い斑紋が熨斗目模様に似ていることに由来する。「クルマトンボ」の俗称がある。

形態[編集]
成虫の体長は41-49mm程度とアカネ属の中では大型で、翅の先端にある褐色の斑紋がよく目立つ。コノシメトンボ、リスアカネに似るが本種は腹部が長く、プロポーションはかなり異なる。また胸部斑紋の形状もそれぞれ異なっているので、容易に区別することができる。

幼虫は典型的な赤とんぼ型のヤゴで、ナツアカネ、リスアカネに類似する。腹部第8節の側棘の長さは第9節の末端を大きく超える。

成虫は6月下旬頃から羽化し、11月下旬頃まで見られる。平地から低山地にかけての、周辺に林地のある比較的開けた池沼、水田に多い。羽化した成虫は周辺の林地や林縁に移動し、体が成熟するまでそこで摂食活動を行う。アキアカネとは違って、羽化水域から遠く離れた高標高地まで集団移動することはあまりない。

未熟なうちは雌雄とも体色は黄褐色をしており、成熟すると雄の腹部背面は暗赤色に変化するが、雌では色が濃くなる程度である。翅の褐色斑の大きさには変異があり、中にはほとんど消失している個体もある。

成熟後、雄は水辺で縄張りを形成し、雌を見つけるとすぐに交尾する。水のない池畔の草原や水田の稲穂の上などで連結打空産卵を行う。本種は人間に対する警戒心が比較的薄いとされる。



以下の写真は、2015年06月11日 千葉県茂原市千沢の我が家のテラスで撮影したものである!

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「おい、おい、どこにいるのよ?!」

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このトンボではないが、秋まで生きることが出来ない事情が生じたと見えて、蟻の食料?になってしまった!

上の写真を撮影した2日前、2015年0月09日の夕刻、我が家の駐車場での‘事件’である!

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トンボにとっては、‘残念’に違いないが、蟻にとっては‘大収穫’で大喜びなのだろう!

さて、人間我々は、どう思えばば良いのだろうか?

(つづく)
[2015/06/15 18:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘五色どくだみ’が、何故‘カメレオン’?
‘五色どくだみ’が、何故‘カメレオン’?

20150607 錦織と小川 080-2
20150607 錦織と小川 081-2

昨日(2015年6月9日)の本ブログで、‘五色どくだみ’が‘カメレオン’って何故?という意味のことを書かせて貰った。

ひょっとして、日本産のどくだみが海外へ行った??
紫陽花が、ご承知の通り、‘額紫陽花’が外国へ行って‘本紫陽花’として帰ってきたように?

「まさか?!」

その辺のところを調べてみた・・・。

http://minhana.net/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%
E3%82%AD%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%9F


ゴシキドクダミ
[五色毒痛み]

花言葉心変わり 
誕生花|

花の特徴
白い花びらのように見えるのは総苞片(花序全体を包む葉の変形したもの)である。真ん中にある淡い黄色の穂状のものが花の集まりである。花には花弁や萼片はなく、雄しべ3本と雌しべ1本からなる。真ん中にある雌しべの先は3つに裂ける。 葉の特徴 葉は先の尖った心形で、互い違いに生える。葉には斑が入る。 実の特徴 花の後にできる実はさく果(熟すると下部が裂け、種子が散布される果実)である。

この花について

その他

江戸時代に作出された斑入り毒痛み(フイリドクダミ)がヨーロッパに渡り、カメレオン(Chameleon)や本種などの園芸品種を生み出して普及した。それが日本へ逆輸入されたものである。赤や黄緑の斑と濃い緑色の葉とのコントラストが美しい。学名からきたホーテニアの名でも流通している。属名の Houttuynia はオランダの医師で植物学者の「ハウトイン(M. Houttuyne)さん」にちなんで名づけられた。種小名の cordata は「心臓形の」という意味である。品種名の Variegata は「斑入りの」という意味である。

開花時期 :5~7月
花の色 :白、黄
名前の読み :ごしきどくだみ
分布 :園芸品種
生育地 :庭植え
植物のタイプ :多年草
大きさ・高さ :20~40センチ
学名 :Houttuynia cordata Variegata
分類 :ドクダミ科 ドクダミ属


日本産のどくだみは、江戸時代に既に五色どくだみに改良されており、それがヨーロッパへ渡ってなお改良されて‘カメレオン’等になって日本に逆輸入された、と言うことのようである!

紫陽花の変遷とは少しだけ違うようでもあるが・・。

それにしても、花言葉が‘心変わり’と言うのがいい!
カメレオンと言う‘どくだみ’だから!

な~るほど!!

(つづく)
[2015/06/10 22:33] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘野球’という言葉について
‘野球’という言葉について

この‘事件’(?)について、前回の弊ブログでは、以下のように書いている。

正岡子規は、ご存知ない人もいるだろうが、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの野球に関する用語訳者として‘野球殿堂入り’を果たしていることから、「野球」という日本語も子規の翻訳だと私自身もそう思っていたからである!

とことが、ところがである!

‘「野球」という言葉は、子規の翻訳語ではない!’と言うことが本当だと言うのである!

これには参った!

さて、その経緯・理由とは?

(つづく)


さて、さて、そこで、‘Wikipedia’では、次の様に書かれている!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%
E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

野球という言葉の語源[編集]

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中馬庚

「ベースボール」を、初めて「野球」と日本語に訳したのは、第一高等中学校(1894年、第一高等学校に改称。第二次大戦後の学制改革の際に東京大学に併合され、新制東京大学教養学部になる)の野球部員であった中馬庚である。1894年(明治27年)、彼らが卒業するにあたって部史を刊行することになり、中馬の書いた文章中に「野球」が登場するのである。逸話として、同僚で名投手の青井鉞男が「千本素振り」をやっている所に中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field-野球」とすることを言いに来たと言われている。

shiki-top.jpg
出典/http://www.jalan.net/jalan/doc/theme/taiga/sakanouenokumo/03.html

明治期の俳人で、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで捕手として好んで野球をプレイした正岡子規が翻訳したという俗説があるが、これは間違いである。なぜなら、1896年新聞「日本」で連載した子規の随筆『松蘿玉液』のなかで、「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と書いているからである。この俗説は子規が自らの幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いていたことが誤解されたものと考えられている。子規は「野球(のぼーる)」という雅号を1890年(明治23年)に使い始めている。これは中馬が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前のことである。つまり、「野球」という表記を最初に使用したのは子規であるが、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬である。しかし子規は野球用語を数多く翻訳しており、2002年にはその功績によって日本野球殿堂入りを果たした。


これだけのことを書くにあたっては、その裏にはもっと沢山の資料を調査してのことだろう。
しかし、以上の資料だけから判断すると色々疑問が出てくる!

時系列的に箇条書きにしてみると次の様になる。

① 1890年(明治23年)、子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いている。

② 1894年(明治27年)、中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field-野球」として、彼らが卒業するにあたって部史を刊行することになり、中馬の書いた文章中に「野球」が登場する。

③ 1896年(明治29年)、新聞「日本」で連載した子規の随筆『松蘿玉液』のなかで、「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と書いている。

当時は、今のような‘情報社会’ではなかったから、発信された情報をその時点で共有するということは出来なかったに違いない!

しかし、次の様な二つの疑問が残る!

(A)疑問その1:中馬(1870年生まれ)も子規(1867年生まれ)も野球大好き人間で、しかも学校は同じ‘第一高等中学校(後の第一高等学校)’である。年齢は3歳の違いしかなく、後輩の中馬が子規のことを知らないはずはなかったに違いない!そうであれば、中馬は、子規の雅号が、‘Base-ball ’に因んで‘野球’であることを知っていただろうと推測出来る!

(B)疑問その2:1895年(明治28年)2月に発行された「一高野球部史」に既に‘野球’という言葉を中馬が使っていたことを何故子規が知らずに、上記③のように、「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と書いているのだろうか?もしも、上記随筆を執筆する前に子規が‘Base-ball’を‘野球’と翻訳したことを知っていたら、中馬に何と言っただろうか?そして、中馬は子規の質問に何と答えただろうか?野球用語について数々の翻訳をした子規だけに、彼の心境は?そして、中馬は、子規に何故このことを相談しなかったのだろうか?

とかく情報社会に生きていると‘特許問題’、‘優先権主張’等々厄介事が多過ぎる!
そんな時代の方が良かったのかも知れない!

中馬庚の野球殿堂入りの彼のレリーフには以下の顕彰文が刻まれているという。

http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_039.html
明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人で、また同30年には野球研究書「野球」を著作。これは単行本で刊行された本邦最初の専門書で、日本野球界の歴史的文献と言われている。一高時代は名二塁手。大学に進むやコーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親といわれた。



<結論>:

「野球」という表記を最初に使用したのは子規であるが、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬である。

20150604 小川と学士会館 010-2

(つづく)
[2015/06/09 14:22] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘野球’という言葉
‘野球’という言葉

20150604 小川と学士会館 010-2
「日本野球発祥の地」という記念碑(東京神田錦町・学士会館内)

2015年06月04日に学士会館を訪れた際に撮影。改めて、野球についての正岡子規のことが気になった!

私は、平成元年から四国は松山市で勤務したことがある。
ご存知の通り、松山市は‘俳句のメッカ’である。
その理由は、正岡子規がいたからであろう!

吉田松陰ほどのインパクトはなかったかもしれないが、その機能・性質・与える影響等々が異なるからそのまま対等という意味で比較は出来ないのだろうが、‘文学的な価値’からすると、それはまあ、たいした影響力である。
松山へ行って、その偉大さに驚いた次第であった!

そんな訳で、松山にとって子規は‘神様’である!

img_0000165正岡子規
出典/http://www.mcvb.jp/kankou/detail.php?sid=165&cid=3

‘野球’という言葉についても、少なくとも松山市の、いやいや愛媛県の人達はみんな、正岡子規が造ったと信じている!

その理由は、正岡子規の本名は、正岡常規(つねのり)だが、幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めたそうで、この‘のぼる’をもじって‘のぼーる’といい、だから‘野球(のぼーる)’ということになったと信じているからである!

昨日(2015年06月08日)の弊ブログでご紹介した「日本野球発祥の地」記念碑の記事を書く時にも、何故正岡子規のことがないのかと不思議であった!

正岡子規は、ご存知ない人もいるだろうが、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの野球に関する用語訳者として‘野球殿堂入り’を果たしていることから、「野球」という日本語も子規の翻訳だと私自身もそう思っていたからである!

とことが、ところがである!

‘「野球」という言葉は、子規の翻訳語ではない!’と言うことが本当だと言うのである!

これには参った!

さて、その経緯・理由とは?

(つづく)



[2015/06/09 01:09] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
情報社会と納豆談義
情報社会と納豆談義

知識の元になる情報は、受け取り方の責任もあるにはあるが、発信側にも一部責任がある!
情報の不適切を糾すと、決まって「そんな意味で言った訳ではない!」という答えが返ってくる。

先般この弊ブログでも何度も取上げさせて頂いたが、‘冬篭りと冬眠と擬似冬眠’などは、そのいい例で、正確さを欠いた情報を出典を明らかのせずに‘あたかも自分の意見のような’言い方をする人が多いので、‘熊は冬眠するのではない!’という‘怪しい学説’が罷り通ることになってしまう!

さて、誰に聞いても

  「納豆は掻き混ぜれば掻き混ぜるほどいい!」

ということは知っていても、その本当の理由を知っている人は少ない!
そしてまた、「‘何にいい’の?」と聞いても誰からも‘正解’は返って来ないのが普通である!

IMG_02842.jpg
出典/http://okunobutsuyoku.blog59.fc2.com/blog-entry-641.html

ところが、最近の情報社会では、

「昔の学者さん等が、或る新事実を発見して、それを‘出版物’に纏めて、本屋さんが売り始めて図書館の蔵書となって、それを我々が見に行って」情報を知るという行為

が、今やパソコンやスマホやタブレットを持っていると‘一瞬にして’達成出来るのである!

その速さの平均値がどのくらいになるかは知らないが、恐らく‘10,000’倍位にはなることは想像に難くない!
と、いうことは、一つのテーマの情報収集に、「昔の手法なら286年間も掛かった」ことが、現在なら「一日で」達成出来得る、という計算になるが、色々議論はあるにしても、かなり妥当な考え方であると私には思えるのだが・・・。

さて、さて、肝心の‘納豆の掻き混ぜ’について・・・。

そう、やはりパソコンで検索してみると、次の記事が目にとまった!

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO39642720
W2A310C1W03201/

納豆、ベストの混ぜ方は? 1万回混ぜると…
2012/3/23 7:00 記事保存

 30代になって和食のうまさが身に染みてきた。最近の記者(31)のお気に入りは納豆。独特のネバネバに大豆のうまみが絡んで、ご飯にかけると幸せを感じる。これまではとりたてて意識していなかったが、大の納豆党には、こだわりのかき混ぜ回数や隠し味があるようだ。

 納豆好きの食通、北大路魯山人は「不精(ぶしょう)をしないで、また手間を惜しまず、極力練りかえすべきである」と著書に記している。

記者も食の巨人にならい、その道を進もう。

 納豆2パックをおわんに出し、箸でこねこね混ぜる。豆と豆がくっついていた最初の状態から、10回ほどで豆がほぐれて糸を引くようになる。20回で糸が太くなり、ネバネバしてくる。この段階では口に含むと豆のゴロゴロした食感が目立つ。50回で泡がひとつひとつの豆に行き渡った。いつも食べるのはこれくらいの状態で、慣れた味だ。

 さらに回数を増やせば、おいしくなるのか。100回、泡が増えて全体的に白っぽくなってきた。豆を持ち上げてもなかなか糸が切れない。口に運ぶとネバネバが舌にからみ、うまみが増した。150回では、さらに泡立ち、ふんわりまろやか。200回を超えると泡にとろみが加わる。

 300回混ぜた納豆は、クリーミーな泡に豆が包まれた。箸にまとわりついて糸が切れない。口の中に広がったネバネバと豆のホクホク感が合わさった濃厚な味わい。ほのかに甘い。

 いつもの50回ではかすかな苦みがあったんだなと発見した。ネバネバが十分でないと、うまみの広がりが少ない。手間を惜しまないことの大切さを実感した。

1千回は泡多く、逆に食べにくい

 「混ぜ続ければどこまでおいしくなるのだろう」

 500回、700回と混ぜ進めたが泡は少し増えただけ。味も300回と、さほど変わらない。1千回、泡が多すぎて逆にネバネバ食べにくくなってきた。

 まだ行くぞ。3千回を超えると、豆がつぶれ始めたのが分かった。豆と豆がぶつかり、破片が泡に吸い込まれていく。5千回に到達した時点では、白い泡の占める面積が豆よりも目立つようになった。

 一気にペースト状になっていったのは7千回を超えたあたりから。原形をとどめた豆はほとんどない。とりかかって3時間、1万回に到達した納豆は、まるで生キャラメルのような姿になった。泡のざらざらした食感が舌に絡み、豆とは感じない。においや味は納豆だが、うまさとはほど遠く、明らかに混ぜ過ぎ。

 「たくさん混ぜても味が大きく変わるわけではない」。納豆大手のミツカングループ本社に聞くと、こんな答えが返ってきた。

 納豆のうまみ成分はアミノ酸。かき混ぜると増えるという明確なデータはないという。変わるのは食感。ネバネバが増せば、舌に触れる面積が広がりうまみが伝わりやすくなる。ただそれも多すぎると豆の食感が損なわれるので、バランスこそが大切という。結論としてマイベスト混ぜ回数は300回に決定した。


<後略>


fc2blog_201504231129071c6.jpg
出典/http://www.nikkei.com/article/DGXDZO39642720W2A310C1W03201/

それにしてもこの情報提供者の探究心には、‘敬意’を表さねばならない!
誰にでも出来る実験であるが、‘やってのけて、実験データと評価を提供した’人は、多分いないだろうから・・・。

さて、明日からあなたは、納豆を何回掻き混ぜますか?

(つづく)
[2015/04/24 00:05] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京・四ツ谷駅近辺(その1):ユリの樹
東京・四ツ谷駅近辺(その1):ユリの樹

2014年01月31日、東京・四谷3丁目での打合せに出席した。

その帰り道、その日は東京には全く春が来た?と思わせる程の暖かさだった。国道20号線、所謂‘新宿通り’にはお昼時のこともあって大勢の人が歩いている。

コートを着ている人を見つけるのが難しいくらいの気温である。17℃!

私もコートを脱いで四谷3丁目から‘JR四ツ谷駅’まで歩いてきた。

‘四谷3町目’の場合の表示には‘四’と‘谷’の間に‘ツ’は入らないのに、‘四ツ谷駅’の場合には何故‘ツ’が入るのだろうか? これについては、また後日、調査の結果をこのブログで・・・。

さて、JR四ツ谷駅に着いたのは12時30分丁度であった。次の打合せは、13:30からで場所はJR上野駅構内。JR四ツ谷駅からJR上野駅まで、30分も掛からない。

それじゃあ、ここJR四ツ谷駅付近で、30分は散歩が出来る! 四谷3丁目から歩いてきた時間とを足せば、そう、小一時間は散歩したことになる。

歳を取って来るに従って、健康維持には、‘散歩’が特にいいらしい。 ここ数日中々散歩が出来なかった‘穴埋め’に‘迎賓館’へ行ってみようかと思った!

実は‘迎賓館’の中に入れて貰った経験がある! もう10年も昔のことだが・・・。
今まだ、そんなことが続けられているかどうかは知らないが、当時は年に何回か‘迎賓館へのご招待’という粋な計らいがあった。

一般公募だから、色々な制約は余り無いが、ただ少々倍率が高かった! それに‘当たった’のである!
この‘迎賓館ご招待’の話は、今日はここまでとし、続きは後日に・・・。

さて、肝心なのは、四谷駅に来る度に、駅から迎賓館へ行く途中の‘大木’の名前が気になっていたのであるが、それをどうしてもその日に知りたい、と思ったのである。

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2014年01月31日12:34 正面が‘迎賓館’である。

DSC_1407-6-2.jpg
このごつごつした‘樹の幹’と

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しなやかな枝ぶり、それに‘花’→‘種’!

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名盤には、ハッキリと‘ユリノキ’とある! やっと名前が判明した!

DSC_1406-6-3.jpg
それにしても、この幹の表面のごつごつは、一体? 予測としては、多分「木の成長が速いために、木の表皮の部分の成長が付いて行かない」為だろうと思われる。我々ど素人には・・・。人間の皮膚も、実は似たような現象が起こるのである!これについては後日このブログで・・・。

DSC_1409-6-2_201402040237446e3.jpg
やっぱり、そんな予感がする! ‘生長量調査木’とは、きっとそうなのだろう!

DSC_1411-6-3.jpg
これが、この‘ユリノキ’の‘花’→‘種’だろうが、何せ望遠が利かない‘スマホ’での画像なのでピントが今一・・・。

キチンとピントの合った画像を探してみると・・・

3404068.jpg
http://albireo190.blog.so-net.ne.jp/2006-05-16

では、では、一体‘ユリノキ’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%AD
ユリノキ(百合の木、学名: Liriodendron tulipifera[1])は、モクレン科ユリノキ属の落葉高木である。
種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意。
別名にハンテンボク(半纏木; 葉の形が半纏に似ることから)、レンゲボク(蓮華木; 花が蓮の花を思わせることから)、チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。

特徴[編集]

葉は薄くて硬く淡緑色平滑で、浅く掌状に2~4裂。Tシャツに見立てられるような特徴的な葉形で、簡単にユリノキであると知れる。秋の黄葉が見事。
花期は5~6月頃。鐘形で、枝先に直径6cmくらいでチューリップに似た形の、付け根近くにオレンジ色の斑紋のある淡い黄緑色の花を咲かせるが、高く茂った葉の間に咲いていて目立たない。がく片は3枚。雌蕊が円錐形に集合したものの周囲を、多数の雄蕊が取り囲んでいる。
果実はローソクの炎のような形状をした集合果で、個々の果実は細長い「へら型」の翼果で、晩秋から冬にかけて散布される。



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http://smcb.jp/digiphoto/498341
この写真を見せられれば、今では誰でも「あっ、チューリップだ!」と言うに違いないが、このユリノキが日本に入って来た明治の初期には、日本人はまだ‘チューリップを知らなかった’のだそうである。だから、‘半纏(ハンテン)’に似ているからと・・・。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%AD
この葉っぱも何処かで見たような??

135531536387413129906_yurinokimipuro151_20121212212923.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%AD
これが、先程の画像と同じように‘実’。

DSC_1412-6-2.jpg
この画像は、迎賓館側から四ツ谷駅方面を見た写真である!

(つづく)
[2014/02/02 23:37] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
夢の計画!
2014年も明けて、もうそろそろ一ヶ月が過ぎようとしている!

落語風に言うなら、

「つい先日‘明けましておめでとう!’と言っておりましたのに、今年ももう余すところ‘11ヶ月と一寸’でして、みなさん、ご機嫌は如何でしょうか?」

ということになる。やはり、月日の経つのは、速いものである!

さて、さて、まだ 今年の‘夢’については、御披露していなかったが、以下に述べることは、今年考えたというより、もう20年以上も前からの夢だったのである。それが、ひょっとしたら具体的に‘動き始める’かもしれない、ということで・・・・。

私は、某会社に新入社員として仕事を始めて以来、そう、45年以上も‘走査型電子顕微鏡(SEM:Scannnig Electron Microscope )を道具として使ってきた。

仕事そのものをご披露する積りもないし、そうしたとしても余り面白くもない。ただし、‘教材用’として、或いは職場のSEMを使わないでの‘趣味’としての画像から、ここで一端を紹介する‘夢’を持つようになった!

それは、「植物と昆虫のミクロの世界」をSEMを使って‘集大成が出来ないか? という畏れ多い計画である!

例えば、

学生版原色植物図鑑・牧野富太郎
http://fukuhen.lammfromm.jp/?p=495
『學生版原色植物圖鑑(園芸植物篇)』(牧野富太郎博士が監修した学生向けの図鑑)

これに掲載されている‘植物’の‘花粉’を始め、‘花弁’のミクロ組織、葉っぱの‘表裏’のミクロ組織や‘種’のミクロ組織まで、一つの植物で、‘数十枚’のミクロ画像を、勿論、植物全体のデジタル画像と共に編集しようという目論見である。

花菖蒲の‘SEM’像をWEBで探してみたが、現時点では見つからない!

花菖蒲
http://kamohanashobuen.blog61.fc2.com/blog-entry-517.html

花菖蒲ー2
http://kamohanashobuen.blog61.fc2.com/blog-entry-517.html

現時点ではWEBではこの程度の画像が得られるだけである! (でも、この画像は素晴しい!!)

そして、それが、植物だけに止まらず、動物、魚類、特に‘昆虫’を対象に始めたいと思っている。そうなれば、地球上・地球中に存在するあらゆる物質の‘ミクロの世界’を画像として残す事業を展開せねばならないことになる。

勿論一人では、100年掛かっても不可能であるが、100人で掛かれば10年で成し遂げられるかもしれない!

費用は、年間に15億円、10年でざっと150億円の‘大事業’になるだろう! さて、その費用は???

その‘走り’の一端を・・・・。

page1-5.jpg
http://animalch.web.fc2.com/page1-5.html

これが、蟻である。蟻にも種類が沢山あるから、蟻の種類全部を網羅するとなったら、それはそれは大変な仕事量になってしまうに違いないが・・・。

この種類かどうかは‘定か’ではないが、私が昔(2008年)、‘SEM’で撮影した画像が以下である!

以下の画像の一つ一つが、蟻のどの部分に当たるかは、想像してみて戴きたい!

たかが、数10倍~1,000倍で、こんなにハッキリ細部が観察出来るのである!

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人間の‘裸眼’には、蟻の‘鎧(よろい)姿’なんて、想像もつかないが、‘ミクロの世界’では、こんなに蟻でも‘防御態勢’を整えているのである!

多分、蟻同士では、相手がこんな風な鎧姿であることは認識し合っているに違いない!知らぬは人間ばかりない、と言う事なのだろう。

そんな想像もつかないような世界を明らかにすることを今後の自分の仕事にし、世界中に発信する、これが私の老後の夢である!

(つづく)
[2014/01/25 18:55] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
シリーズ・地球統一は無理!(その1):暦の違い
新年になってみると、やはり日頃とは違う!

馬鹿でも日頃とは違う事を考えたりするものだ。やはり、「一年の計は元旦にあり!」等と言われると「ああ、そうか!」と思ったりする。

国連を中心に‘世界平和’を目標に世界中で活動が行なわれるが、世界に平和が訪れるのは「いつなのだろうか?」「今でしょう!」とみんな思っているのに実現出来ない!

何故?

それは、‘総論賛成!’‘各論反対!’だからである。

‘総論賛成’は、‘よそ行き’の意見である。
‘各論反対’は、‘本音’なのである。

いずれも、自分のエゴであり、他人のことなんか本音で考える人なんていやあしない!

「生きて行く以上、仕方ないじゃん!」

これで終わりである。

ただし、ただしである!

1000万人に一人くらいの確率で、身も心も投げ出して他人のためにだけ頑張ろうとする御仁がおられる。
この確率から言えば、日本には、およそ13人くらいはおられる事になるが、‘此の人’と特定出来ない‘もどかしさ’がある。

何故なら、‘情報はマスコミから’となってしまった現在、マスコミに‘取材能力’が欠けているからである。

一方、制度や習慣が、国や民族によって異なることから、統一や平和を呼び掛けても従う事が出来ないという事情がある。

‘共通の取り決め’をしようと思っても出来ない障害の一つに‘暦’がある。

暦
http://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=new

今、JRの電車に乗ると‘エチオピアの暦’というクイズが画面に出て来る。

obsz6.jpg
http://damoshiny.seesaa.net/archives/201308-1.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1099299510
西暦が世界共通ではないことについて エチオピアでは独自の暦を使用していて、日本...
special_force0802さん

西暦が世界共通ではないことについて

エチオピアでは独自の暦を使用していて、日本と7年9ヶ月違うんだそうです。
イエス・キリストの誕生年の見解が違うからと聞きました。

また、閏年には13月まであるそうです。

世界には、エチオピア以外に西暦を使っていない国が、まだたくさんあるのでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答
bible_goさん

暦法と紀年法の問題が同時に論じられているようですね。暦法というのは1年をどう区切っていくかという問題で、紀年法は特定の1年をより長い年月の中でどう位置づけるかという問題です。現在世界で最も広く使われている暦法はグレゴリオ暦と西暦(ADあるいはCE)です。しかし世界の中にはそれ以外の暦法や紀年法を使っている国がまだまだたくさんあります。

まず暦法についてですが、大きく分けると太陽暦、太陰暦、両者を組み合わせた太陰太陽暦があります。太陽暦は太陽の周囲を地球が1周すると1年になります。太陰暦は月の満ち欠けを基準にしていて、1ヶ月は平均29.5日です。たいていは29日の月と、30日の月が交互に配置されています。太陰太陽暦はこの2つの暦法を組み合わせていますが、太陽暦の1年365日を太陰暦の1ヶ月29.5日で割ってもうまく割り切れません。そこで季節と月が少しずつずれてくるわけですが、ずれが大きくなったところで閏月を入れて調節します。太陰太陽暦にもさまざまな種類があって、どの月の後にどんなタイミングで閏月を入れるかは暦法によって異なります。

エチオピア暦は太陽暦ですが、1ヶ月は30日で、残りの5〜6日を13月目としています。同じような暦には、エジプトのコプト教会(キリスト教)で使われているコプト暦があります。おそらくどちらも古代エジプトに起源を持つ暦でしょう。エチオピア暦は今でも日常的に使われていますが、コプト暦はコプト教会の中だけで使われている暦になっています。

教会内のローカルな暦法としては、東方正教会では今でも古代ローマ時代のユリウス暦を使っています。そのため現在は日付がグレゴリウス暦と13日ずれています。ユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは閏年をいつ入れるかという違いで、400年に1日ずつずれが生じるようです。

今でも日常生活の中で使われている太陰暦としては、イスラム圏で用いられているヒジュラ暦が有名です。これは閏月のない完全な太陰暦なので12ヶ月ありますから、1年が354日しかありません。ですから毎年少しずつ、カレンダーの日付と季節がずれていきます。
http://www.staff.science.uu.nl/~gent0113/islam/islam_tabcal.htm

太陰太陽暦はアジア諸国で今も広く使われていて、日本の「旧暦」も太陰太陽暦です。またユダヤ暦も太陰太陽暦です。こうした暦法は今ではほとんどグレゴリオ暦との併用になっていますが、アジア圏では旧暦で正月を祝うところの方が多いですし(日本だけは例外です)、ユダヤ教の祭もユダヤ暦に沿って行われます。

次に紀年法ですが、これは西暦と併用しながら、今でもいろいろなものが使われています。日本では元号が使われていますが、現在の日本の元号は、その時々の天皇の即位年を基準にしています。国家元首の即位年を基準にして年を表記することは、古代からずっと行われていました。旧約聖書の中にも「○○王の○年」といった表記が出てきます。じつは西暦もそうした元号のひとつです。その時々の元首ではなく、「王の王」であるキリストがこの世に現れた年を基準にしたのが始まりです。また個々の元号より長い期間を表記するものとしては、ある王朝が始まってから現在までの年数を数えるものもあります。日本だと神武天皇即位を基準とした「皇紀」という紀年法があり、西暦に660年足すと皇紀になります。

元号以外の紀年法としてアジア圏で広く使われていたのが、干支(えと)を使った紀年法です。干支というと今は十二支(じゅうにし)を連想すると思いますが、本来は十干(じっかん)と十二支の組み合わせで、十干十二支、60年周期の紀年法になっています。来年2013年の干支は、癸巳(みずのとのみ/きし)です。

前記のヒジュラ暦、ユダヤ暦、エチオピア暦、コプト暦、ユリウス暦なども、すべて独自の紀年法を持っています。


エチオピアの暦
http://mylifeinethiopia.blog.fc2.com/blog-entry-106.html

‘平和’とは何か?
暦を世界的に‘統一する’ことって、世界平和に貢献するのだろうか? 判らない!!

(つづく)
[2014/01/04 23:37] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2014年01月01日(その1):新年明けまして・・・
2014年01月01日になった!

みんな「明けましておめでとうございます!」という。
‘明けたら’何が‘おめでたい’のだろうか?

そんな疑問は昔からあったのだが、「まあ、後で調べてみるか!」で、60年以上の歳月が経ってしまっている。

‘めでたい’と言う意味は言わずと知れたことなのだろうが、もう一度キチンと辞書で見てみると次のように書いてある。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/217707/m0u/
めでた・い
[形][文]めでた・し[ク]《動詞「め(愛)ず」の連用形「めで」に形容詞「いたし」の付いた「めでいたし」の音変化》
1 喜び祝うに値するさま。喜ばしい。「―・く成功する」「―・い席」
2 評価・評判などがよい。「社長の覚えが―・い」
3 (多く「おめでたい」の形で)お人よしである。人がよすぎてだまされやすい。「これで承知するなんて―・い人だね」
4 賞美する価値があるさま。みごとである。
「散ればこそいとど桜は―・けれうき世になにか久しかるべき」〈伊勢・八二〉
[補説]「目出度い」「芽出度い」などと当てて書く。


元旦に‘おめでとう!’と言う場合、上記の意味からすれば該当するのは、1.の‘喜び祝うに値するさま。喜ばしい’であるのだが、どんな理由で元旦が喜ばしいのだろうか?

昔は、‘年が越せない’と言った場合、借金取りが暮れのギリギリまで攻め立てて来るので、居留守を使ってでも‘借金取りをやり過ごす’ことが出来れば、元旦にはまさか取りには来ないから、‘喜び祝うに値するさま。喜ばしい’と言う事になる、そんな意味で元旦は‘おめでとう!’なのだろうか?

それよりも、‘この一年間無事に(?)過ごせた’から‘喜び祝うに値するさま。喜ばしい’という事なのだろうか?

何だかハッキリしないが、‘習慣’と言うものは恐ろしい! 

元旦になれば‘おめでとう!’と言う事に決まっているから、まあ、俺も私も‘言っておこう’と言う事で気分はいい!
そして、神社やお寺へ‘お参り’する。これも毎年の習慣である!

今年も、その習慣に従って、いつもの通り、千葉県・茂原市の橘樹神社(たちばなじんじゃ)へ参拝に行った!

橘樹神社へ参拝に来た人に聞いたことはないが、多分次の質問をした場合、全部をまともに答えられる人は、100人に1人もいないのではないかと思われる。

① 橘樹神社は、何と読む?

② 祀られているのは誰?

③ 扁額の作者は? その作者とこの神社との関係は?

④ この神社の大きなの特徴を2,3つ挙げてみて?

参拝に行くには少なくともその神社仏閣の由来くらいは前以て知識として持っていた方がいいとは思うのだが、大体みんな

a)お賽銭を投げ入れて参拝するための‘小銭’は用意して行く

b) 御神籤を引いて‘大吉’になれば嬉しい!と言って喜ぶ

c) 運転しない人は‘甘酒’を飲む。(たまには運転する人も?)

d) ご祈祷をお願いする。また神符・お守りを購入する

e) 受験生は、‘絵馬’を購入して、願い事を書いてぶら下げる

f) 出店で‘りんご飴’や‘いか焼き’や‘焼きそば’などを買う

g) 焚き火に、昨年使った色々な‘グッズ’を投げ入れる

と言ったことをするために行くのであって、神社仏閣がどんな由来があろうとそんなことはお構いなしである!

でもご参考までに‘橘樹神社’についての上記①~④に関しては次の資料で・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E
7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮。旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む

祭神[編集]
主祭神
弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)相殿神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。
国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式神名帳』には「上総国長柄郡 橘神社」として記載され、小社に列している。その後、延宝8年(1681年)に正一位を授けられた。
中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。
明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。

神階[編集]
元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘樹神」
元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘神」

境内[編集]

本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が寛政12年(1800年)に造営されるまで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていた。


扁額を書いた御仁は、日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎元帥・海軍大将である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83
%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

東郷平八郎
東郷平八郎
http://lunabura.exblog.jp/18491749/
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも[1])と称され国民の尊敬を集めた。


何故、東郷平八郎元帥が、この橘樹神社の扁額を書いたか?については、‘橘樹神社のホームページ’が見当たらないし、この事に関する記事も現時点では見当たらないが、日本武尊と弟橘姫命の故事を元帥が知らない筈はない!海の安全を願う海軍大将としては、ご本人が扁額を差し出す行為は極く自然だと考えられる。

さて、そんな訳で、我が家は、帰省した子供達・孫達も含めて今年も橘樹神社へ参拝することとした!

その前に、運転する人は‘飲む真似’だけの‘お屠蘇’と‘お雑煮’が・・・。


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2014年01月01日09:24 これが今年の我が家から見た‘初日の出’である! 昨夜の夜更かしが祟って・・・??

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孫まで入れて10人分・・。

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初めて床の間に・・・

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拡大!

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13:21 いよいよみんなで‘橘樹神社’へ参拝に、と言う事で玄関に出て見ると‘カイト’が、トイメンの‘Kさんち’の梅の木に引っ掛かっている!

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何だか正月気分で・・・

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カイトのお蔭で、‘梅の木’の芽ぶきの様子が・・・

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13:21 さあ、いよいよ参拝に出発!

(つづく)
[2014/01/01 23:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
私の文化の日(その2)
2013年11月21日の弊ブログに、

http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-719.html
文化の日には、我々も何か‘文化的な事’をと考えた結果、

① 曼荼羅の世界を覗きに行こう!

② 文化の象徴(?)である‘本’について、神田古本市を体験しよう!


という事になった。


と、書かせて貰った。そして、②の神田古本市の様子を体験した記事を先に書いた。

今日(2013年11月24日)は、① の‘曼荼羅の世界’を覗きに行った日(11月3日)の記事である。

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http://www.k3.dion.ne.jp/~kanzoin/
行き先は、慈雲山曼荼羅寺観蔵院・曼荼羅美術館。場所は、以下の通り。
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西武新宿線で井荻駅下車。歩きで約30分、やっと、上図の‘観蔵院入口’の交差点に到着した。

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2013年11月03日(文化の日)13:54

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この交差点が‘観蔵院入口’である。左折するといよいよ曼荼羅美術館である。

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ご案内が出ている。

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‘悉曇’は、‘しったん’と読む。

悉曇(しったん)とは日本に伝わった梵字の一種で「成就」を意味します。6~9世紀ごろにインドで使われていた「シッダ・マートリカー」という文字で、仏教とともに中国に伝わり、7世紀初期に日本に伝来したといわれています。日本で本格的に悉曇が学習されるようになったのは、弘法大師空海をはじめとする入唐僧が中国で学び、多くの梵語文献を持ち帰った平安時代になってからのことです。特に真言宗では悉曇を如来の真実語として捉え、種子(しゅじ)、真言(しんごん)、陀羅尼(だらに)を密教を形成する重要な要素の一つであると位置づけています。



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● 平成25年 第19回 仏画・悉曇特別展のお知らせ

 日 時:平成25年11月1日~5日 AM10時~PM4時(最終日はPM3時半まで)
 場 所:観蔵院曼荼羅美術館本館・別館・本堂・客殿
 入館料:無料

●住職からのご挨拶
 日本文化は、何といっても仏教が基盤です。日本文化のそのものを示す「仏画・悉曇展」は今年で第19回を迎え、内容も回を重ねるたびに質を高めるよう努力して参りました。
 今回も新企画を加え、皆様の満足できることを願い、真心をこめ準備をいたしました。人の心を豊にするためには、すぐれた文化に接することが大切です。開催期間中は様々な仏教文化に出会うことができます。多くの方々のご来山を衷心よりお待ちいたします。
                             観蔵院山主・小峰彌彦

●特別展示会
◇ 曼荼羅特集
  武蔵野大学寄贈 子島曼荼羅(金剛界)・別尊曼荼羅・その他
◇ 染川英輔画伯
  日本画作品展
  「幼年時代」「聖夜ーアッシヂにて」「聖母子」「夢」他
   作者の魂の記録として制作された日本画作品の数々を展示します。
  次作「壇の浦レクイエム」への習作
   「壇の浦真景図」「武者」「船」「顔」他
◇ 截金教室 最初の展示会

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ここが曼荼羅美術館への入り口。

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入口の正面。

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真言宗だから、弘法大師である。

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曼荼羅美術館、という立派な碑が建っている。

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恐るおそる入ってみると・・・

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本日の特別展に、大勢の人達が集まって来ておられた。言葉から、随分遠くから来られたのが判ったが・・・。

内部は、写真撮影禁止だったから、画像はないが、素晴しい仏画が数十点展示してあった。

‘悉曇(しったん)’は、梵字の一種というから、全く意味が判らない。ただし、この悉曇の技法にも色々あるらしく、何となく‘上手・下手’が判るのが面白い。悉曇で、般若心経が書かれていたが、これは素晴しかった!
写真撮影禁止なので、残念なのだが、どうして禁止なのだろうか?不思議である。何かに‘活用’されたって、よさそうなのに・・・。商品価値で禁止というのなら、本来の目的は?と聞きたくなる!

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さて、この碑には、‘真言宗’にとっては大事な中興の祖、弘法大師亡き後の‘腐敗’脱却に一命を賭した興教大師の怨念とでも言えそうなオーラが見える!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81
覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。
平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した。即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であるとした。
真言宗の教典中でも有名な『密厳院発露懺悔文』、空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として著名。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈」の著者でもあった。

経歴[編集]

生誕の藤津庄が京都仁和寺領であったため、13歳で仁和寺成就院へ入り、16歳で得度・出家。奈良東大寺等で学び、20歳で高野山へ入る。古式な真言宗の伝法の悉くを35歳の若さで灌頂し、空海(弘法大師)以来の才と称された。

36歳の覚鑁は、真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が跋扈する有り様であり、真言宗が腐敗衰退した現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
高野山金剛峯寺に大伝法院を建立し座主に就任したのを皮切りに、金剛峯寺座主にも兼ねて就任し事実上同山の主導権を制し、真言宗の建て直しを図るが、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に保延6年(1140年)に、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払い、さらに金剛峯寺追放を行った。

この時覚鑁の命を狙った刺客が、密厳院本尊の不動明王像の背後に覚鑁が潜んでいると判断し同像を切りつけたところ、像から血が流れたのを見て驚愕して引き上げ、覚鑁は辛くも一命を取り留めたという、有名な「きりもみ不動」伝説が生まれた。
この凶行に至る前に、覚鑁は権力の亡者と化した真言宗門徒の有り様を嘆き、密厳院において長期に渡る無言行を修し、直後に『密厳院発露懺悔文』を一気に書き上げる。堕落した僧界の現状を恥じる赤裸々な内容が壮絶な同経文は、「我皆相代わって悉く懺悔す、更にまたその報いを受けしめざれ」という贖罪の決意を明らかにした末文も相まって、現在も真言宗各派において宗教家の自覚を促し自戒する経文として広く唱えられる。

高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に根来山(ねごろさん)に移り、根来寺を建立、大伝法院や密厳院を移し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義を展開する。
康治2年(1143年)の覚鑁の入滅後、根来寺奥之院の霊廟に埋葬され、弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、再び根来山に戻り頼瑜を中心として覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を発展させていく。
後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺派)、真言宗豊山派、智山派の基礎となった。

江戸時代になり、ようやく新義真言宗は紀州徳川家より復興の許しを得て根来寺と共に復興、覚鑁は生前の功績を評価され興教大師の諡号を贈られた。現代では新義真言宗・真言宗豊山派・真言宗智山派で空海の宝号『南無大師遍照金剛』と一緒に『南無興教大師』を唱えている


宗教団体にしろ、政治団体にしろ、会社・法人にしろ、‘人の集団’では、いずれ‘内部抗争’が起き、崩壊へ繋がって行くのは、歴史が証明している。ただし、その集団には建て直しを図る大人物が現れて‘中興の祖’となる。

そんな生き様が、人間の歴史なのだろう。‘中興の祖’だけをピックアップして歴史を学ぶと、またそこから或る共通した‘教訓’を引き出すことが出来るのかも知れない!

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この画像の中心に・・・

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蜘蛛が・・・。

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お寺の境内に、何と‘レモン’の木が・・・。

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立派な‘青いレモン’が・・・。(緑色なのにどうして‘青い’というのだろうか?)

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参道・・・。

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背丈の高い木には、オーラがある!

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この木の一部腐食部分には、‘木の子’が・・。

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松の大木にも、何だか大きな‘ちから’が感じられる!

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こちらが、本来の入り口??

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あそこが曼荼羅美術館。

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これが正面だった。

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ここ、曼荼羅美術館では、こんな素敵なイベントも・・・。

この曼荼羅美術館で、ゲットした資料は次の通り。

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仏画の手ほどき書。

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‘曼荼羅’の意義とその構造については、別途調査して見たい。

(つづく)
[2013/11/24 23:42] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日(その2)
11月3日は、日本国では‘文化の日’として国民の祝日である。

文化と‘対比’されるのは、‘文明’であるが、今日は、その対比については以前にこのブログでも書かせて貰ったからこの事については述べない。

でも、‘文化’の定義的なことについてはこの際確認しておこうと思う。

sample1.gif
http://www.icis.kansai-u.ac.jp/institute.html

‘日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるものとされている’という事は古い昔何処かで聞いたことがある。
この際‘文化’という事に対して、一生に一度くらい、小難しいと思わずに‘Wikipedia’では、どんな記事になっているかぐらい読んでみたって罰は当たるまい!

そんな訳で、‘Wikipedia’での‘文化’を丸ごと転載して見た!

中国に起こった‘文化大革命’は、単なる政治的‘権力闘争’であって、真の‘文化’に関しては‘大革命’などという言葉とは、全く真逆な出来事で、これのよって中国は多くの‘貴重な’文化的遺産を消失してしまったのである。これについては、別途記事にしたい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C
%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD

文化

目次 [非表示]
1 文化の定義
1.1 概説
1.1.1 古典的・日常的な文化
1.1.2 人類学的文化
1.1.3 社会学的文化
1.1.4 考古学的文化
1.2 文化を担う集団
1.3 動物の文化
2 文化の発祥と伝播・変容
3 文化にまつわる議論
3.1 単一発展史観
3.2 環境に対する適応としての文化
3.3 文化についての語り
3.3.1 誰の文化なのか
3.3.2 文化の権利
3.4 カルチュラル・スタディーズ
3.4.1 未開文化の消滅
3.4.2 混血文化としての観光
3.5 多文化主義と文化隔離主義
3.6 文化資本と社会構造
4 ミーム
5 脚注
6 関連用語
7 外部リンク
8 関連書

文化の定義[編集]

概説[編集]

古典的・日常的な文化[編集]
ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化を示す技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである[2]。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語には、文化と区別される教養という語を日中独の言語のようには持っていないので、その間の区分が明示的でない。

人類学的文化[編集]
人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である[3]。
こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・タイラー(1871)の

広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである
— エドワード・タイラー, Primitive culture[4]


である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている[5]。
この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという[6]。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる[7][8]。

社会学的文化[編集]
出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた[9]。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている[10]。ハーバーマスは文化Kulturを「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている[11]。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティークSemantik、フーコーのアーシーブArchiveなどとも関連性が深い[12]。
文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。

考古学的文化[編集]
詳細は「文化 (考古学)」を参照

文化を担う集団[編集]
文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない[13]。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。
文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。
日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。
更に小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。

動物の文化[編集]
現在、文化の定義は人間のという限定を用いなくても、動物が持たないものになるように定義づけられつつあるため、結果として動物は文化を持たないこととなっている。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。
詳細は「文化 (動物)」を参照

文化の発祥と伝播・変容[編集]

ある特定地域の文化も、人々がそれを用いることが有益と判断すれば他の地域でも用いられるようになり、また伝播先の文化と融合して新たな文化を創造することもある。このような作用によって様々な文化が交じり合い、より高度な文化が創られてきたともいえるが、一方で自文化の変容に対しては反発もあり、各種の紛争の要因ともなっている。
例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、中央アジア諸国や東アジア諸国など周辺地域へと伝播していく(上座部仏教や大乗仏教も参照)。その後日本にも伝えられるが、当初はその受容につき激しく争われた(崇仏論争、仏教公伝も参照)。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、神道との融合なども行われた(神仏習合)。

文化にまつわる議論[編集]

単一発展史観[編集]
他の文化を貶め、自分の文化を至高とする思想は世界各地で見られるが、その偏見や差別を正当化するために、文化は異なる進歩の階層があり遅れた文化と進んだ文化が存在するという説が19世紀のヨーロッパの社会進化論を背景にとなえられた。現在遅れているように見える文化であっても、将来的には進歩するという考えである。植民地主義とともに、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させる(近代化)ということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出された。このような観点から、人間を動物園の動物のように見せる催しが流行した(人間動物園)。
後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。

環境に対する適応としての文化[編集]
文化人類学においてマイナー領域であるが、ネオ進化主義と呼ばれる立場(生態人類学)において、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する[14]。

文化についての語り[編集]

誰の文化なのか[編集]
女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。
このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。

文化の権利[編集]
ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。
近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に『発明』されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解[15]は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける[16]。
このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論した[17]が、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた[18]。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている[19]。
また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているという[20]ことが挙げられる。

カルチュラル・スタディーズ[編集]
詳細は「カルチュラル・スタディーズ」を参照
文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。

未開文化の消滅[編集]
人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会というみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として[21]、それに対して文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」[22]と区別した[23]。

混血文化としての観光[編集]
外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである[24]。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある[25]。
一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある[26]。

多文化主義と文化隔離主義[編集]
文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。
文化資本と社会構造[編集]
ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。

ミーム[編集]

「ミーム」および「ミーム学」を参照
ミームとは、文化を形成する情報であり、人の心から心へとコピーされる情報である[27]。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。
ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。
遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。

脚注[編集]

1^ 毎日新聞社編『話のネタ』PHP文庫 p.55 1998年
2^ 太田好信 『民族誌的近代への介入—文化を語る権利は誰にあるのか〔増補版〕』 人文書院、2009年。
3^ 祖父江孝男 『文化人類学入門』 中央公論社〈中公新書;560〉、1979年。
4^ E.B.Taylor (2007) [1871]. Primitive culture: researches into the development of mythology,philosophy, religion, art, and custom.. Kessinger Pub Co. pp. 1. ISBN 142863830X.
翻訳:E.B.タイラー 『原始文化』 比屋根安定訳、誠信書房、1962年。
5^ 村武慶 「文化の変動」『文化人類学』 村武精一,佐々木宏幹、有斐閣、1991年。
6^ クロード・レヴィ=ストロース 「言語学と人類学」『構造人類学』 佐々木明訳、みすず書房、1972年(原著1958年)。
7^ しかし大型類人猿が言語を学習できるということが知られるようになると、文化獲得における重要なイベントである学習を細分化して人間の学習(意図模倣)と動物の学習(単純模倣)をわけ、さらには教示の有無を問題にするという発想もでている。つまり動物が社会化のなかで獲得するふるまいは、単純模倣によってだけ獲得される伝統traditionであり、人間が言語や意図模倣、教示を通した社会化のなかで身につける文化という差異を創出して定義づけ、人間以外の動物には文化を身につけることは困難であるとするのである。
8^ 『心ところばの起源を探る: 文化と認知』 大堀壽夫, 中澤恒子, 西村義樹, 本田啓訳、勁草書房.、2006年。
9^ パーソンズ,T.(タルコット) 『文化システム論』 ミネルヴァ書房、1991年。
10^ Cf. タモツ・シブタニ著、2013年、木原綾香ほか訳「パースペクティブとしての準拠集団」Discussion Papers In Economics and Sociology, No. 1301.
11^ Habermas, Jürgen 河上倫逸ほか訳 (1985-1987) [1981]. コミュニケーション的行為の理論. 木鐸社.
12^ 高橋徹 『意味の歴史社会学─ルーマンの近代ゼマンティック論』 世界思想社、2002年。
13^ 文化 (動物)の芋洗いの項目を参考にせよ
14^ マーヴィン・ハリス 『ヒトはなぜヒトを食べたか—生態人類学から見た文化の起源』 鈴木洋一訳、早川書房〈ハヤカワ文庫—ハヤカワ・ノンフィクション文庫〉、1997年。
15^ Keesing,R (1989). “Creating the Past”. The contemporary Pacific 1 (2): 19-42.
16^ Trask,H-K (1991). “Native and Anthropologist”. The contemporary Pacific 3 (1): 159-167.
17^ マーガレット・ミード 『サモアの思春期』 畑中幸子, 山本真鳥訳、蒼樹書房、1976年(原著1928年)。
18^ デレク・フリーマン 『マーガレット・ミードとサモア』 木村 洋二訳、1995(原著1983年)。
19^ 池田光穂 「第5章 民族誌のメイキングとリメイキング― ミードがサモアで見いだしたものの行方」『メイキング文化人類学』 太田好信,浜本満、2005年。
20^ 太田好信 『民族誌的近代への介入』、2001年、298頁。
21^ The Predicament of Culture:Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 17
22^ The Predicament of Culture:Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 246
23^ 太田好信 『トランスポジションの思想 文化人類学の再想像』 世界思想社、1998年。
クリフォードの分類については太田(1998)の訳pp270を採用した
24^ 山下晋司「『劇場国家』から『旅行者の楽園へ』」、『国立民族学博物館研究報告』第17巻第1号、1992年、 1-33頁。
25^ 荒俣宏 『大東亞科學綺譚』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年。
26^ 山中速人 『イメージの楽園』 筑摩書房、東京、1992年。
27^ リチャード・ブロディ『ミーム―心を操るウイルス』講談社、1998年。


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http://japanecho.net/jp/topic/0107/

ここでは、人間の外には、動物にも‘文化’が存在するとの暗示がなされているに過ぎないが、当然動物も‘文化’を持っているし、植物だって持ってる!松枯れは、松が伝染を防ぐための防護策を持っている話は有名であり、これぞ‘文化’である。これは後日詳細に!

(つづく)
[2013/11/23 23:21] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日
11月03日は、‘文化の日’で、国民の祝日であることも皆知っている。

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http://tokuhain.arukikata.co.jp/seattle/2012/11/post_79.html
「11月4日の日曜日、ワシントン州日本文化市民会館(JCCCW)で文化の日のイベントがあり、行って来ました。」とコメントがあり、この画像のタイトルが‘postcard’となっているところを見ると、「毎年文化の日に一番近い日曜日に行われているこのイベント」への参加を呼び掛ける案内のハガキのようである。アメリカでの‘日本の文化’の象徴がこの図柄なのだろう。

このように、アメリカでも‘文化の日’に一応注目している様子が窺えるが、しかし、何故、その日が‘文化の日’なのか? どんな理由で、そうなったかを正確に何も見ないで‘解説’出来る人は、多分‘1%’もいないのではないか、と思われる。

‘もち’、私もそうなので、例の如く調べてみた!

先ず以って‘ややこしい’のが法律用語である。しかし、我々は‘法国家’に身を委ねている以上、‘ややこしいから知らぬ’と言ってはならない!

小学校の時から気になってはいたが、「5月3日の憲法記念日は、半年前の11月3日が、憲法‘発布の日’で、‘施行’が、5月3日である」のは何故か?

今では、‘発布の日’と言わずに‘公布の日’というようだが、その使い方も専門的にはいろいろ理由があるのだろう!辞書で‘発布’を調べてみると『(法律などを)世に広く知らせること。公布。「憲法ー」』とある(CACIO EX-word)から、きっと‘発布’と‘公布’は同じものなのだろう!しかし、私が小学校で教わったのは‘発布’だった!(えこじ!)

この事に関しては、次のような解説がある。

http://uno.law.seikei.ac.jp/~annen/conhoron.html
法令の「公布」と「施行」という言葉の意味について

 「公布」とは、成立した成文の法を公表して、一般国民が知ることのできる状態におくことをいう。日本国憲法の場合、「法律」については、両議院が法律案を可決した場合に法律として成立する(憲法59条1項、百選213事件)。日本では、法律案が国会の両議院で同時に審議されることはなく、甲議院が可決した法律案を次に乙議院が可決するという手順を踏むので、「両議院が法律案を可決した場合」とは、後議の乙議院が法律案を可決したその瞬間に、という意味になる。法律として成立しただけではまだ公布があったとはいえない。法令は、それが所定の手続を踏んで成立しても、公布されなければその効力を生じない。公布以前には、一般国民はまだその法令の内容を知らされていないはずであり(それは、法理論的なフィクションである場合もあるが)、まだ内容を知らせていない法令によって国民を拘束することはできないからである。ただし、公布されただけで、施行されていない状態では、当該法令はやはりいまだその効力を生じない。  日本では、伝統的に、公布は一つの行為であると考えられてきた。日本国憲法の公布は、公式令の規定に従ってなされた。将来、日本国憲法自体が改正された場合には、憲法96j条2項、7条1号の規定によって、天皇がこれを公布する。  また日本国憲法によれば、憲法改正のほか、法律、政令、条約の4つの法形式を公布するのは天皇の国事行為とされている(7条1号)。もっとも、天皇には公布を拒否する自由はない。  ところで、日本国憲法には、上記の諸法形式の公布をする権限が誰にあるかについては規定があるものの、その公布をいかなる手続と形式とによって行うかについては規定がなく、憲法以外の法令にもこの点についての規定はない。公式令には、この点についての明確な規定があった(12条)。  判例は、公式令廃止後も、法令の公布は官報に登載することによってなされるべきだと述べている(百選214事件)。もっともこれは、公布の手続・形式について明文で規定した法令が存在しない間は、官報に登載することによって公布をなしたといえるという趣旨であって、官報に登載する以外の方法で公布することを規定した法令が制定された場合にその規定が憲法に違反するという趣旨ではないであろう。  法令の公布が官報に登載することによってなされるべきであるとしても、官報を印刷しそれを配布するには、一定の時間を要し、かつ、配布には地方によって時差を生じ得るから、次に、どの時点をとらえて官報による公布がなされたというべきかが問題となる(百選215事件)。この事件では、当該法律が公布の日から施行すると定められていた。

 これに対して、法令の「施行」とは、当該法令の規定の効力を現実に一般的に発動させることであるが、公布と異なり、特別の行為は要しない。日本国憲法については、100条1項が、「公布の日から起算して6箇月を経過した日」を施行日と定めている。法律の施行については、法例1条に原則的規定があるが、実際には、ほとんどの場合、当該法律自体に施行日に関する何らかの定めがある。


さて、‘文化の日’もこの規定から、勿論逃れることは許されない。

その経緯は次の資料に明記されている!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%97%A5
文化の日(ぶんかのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月3日。

歴史[編集]

文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。

<11月3日は>1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。

休日としては、1873年(明治6年)に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911年(明治44年)までは天長節、1927年(昭和2年)に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。

文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる[1]。

一方、祝日法制定当時、参議院文化委員長として祝日法制定の際中心的役割を担った山本勇造が政界引退後に書いた当時の回顧録「文化の日ができるまで」には明治節に関する記述は一切ない。山本によれば、元々、憲法発布は11月1日の予定であったが、施行日がメーデーと重なるという理由で直前に11月3日に変更されたのだという。山本ら参議院側は11月3日を憲法記念日とすることを強硬に主張したが、GHQ側が、11月3日だけは絶対にだめだと主張し、衆議院が5月3日を憲法記念日とすることに同意してしまい、参議院側が孤立する事態になった。そのとき突然GHQ側から、憲法記念日という名でない記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたという。


つまり、話を纏めると、

『憲法記念日が、5月3日に決まった。そして、その憲法の精神が‘「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている’ことから、憲法施行の日、つまり‘憲法記念日’の半年前の‘憲法発布(公布)’の日を憲法の精神に則って‘文化の日’とした』

という事のようである。

いやいや、聞いてみなくては判らぬものが沢山ある。

因みに、‘施行’という文字の意味も次のように沢山あるからご注意を!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A1%8C
施行

施行(しこう・せこう) - 成立した法令を発効させること。この項で述べる。
施行(せぎょう) - 仏教において布施行を行うこと。
施行(しぎょう) - 中世日本において命令や判決を実行させること。遵行とほぼ同義である。→施行状


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http://www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?v=cap00&p=0
これぞ、文化にふさわしいかも?

(つづく)
[2013/11/20 23:05] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘ジャンボタニシ’の卵
‘ジャンボタニシ’の卵と孵化、そして‘エスカルゴ’と‘ジャンボタニシ’の違いは?

もう15年も前のことになるが、沖縄で‘うなぎの養殖’PJに参加したことがある!

当時も既に日本人の口に合う‘うなぎの稚魚’である‘ジャポニカシラス’の捕獲量が減っていて、今ほどではなかったが、一匹約100~150円程もした。

うなぎの生産コストを下げるには、徹底した生産管理が必要である。工程の無駄を省くことが必要であることは勿論、燃料費の節減が大きな目標の一つだった!

うなぎの稚魚を育てる適切な水温は、~26℃であると言われている。

ご承知の通り、水の比熱は、そん所そこらの物質の中では最も大きい。そんな訳で、水の比熱を基準にして‘比熱’が決められている。比熱とは、その物質1gの温度を1℃上げるのに必要な熱量を水のそれと比較した値である。

水の比熱が最も大きいということは、水の温度を上げるのに一番大きな熱量が必要であることを意味している。

うなぎの養殖のために水の温度を上昇させる熱量は、沖縄であると燃料費が安くなり、その浮いた分で本土にうなぎを運ぶ運賃が賄えて余りある。

また、うなぎの養殖には水にカルシウム(Ca)の量が多い程良い。沖縄はサンゴ礁の島が多い。沖縄本島も南半分は川の水にCaが多い。

そんな訳で、沖縄本島を北から南まで、川という川のCa分を測定して回った。

その時、見つけたのが‘エスカルゴの卵’と現地の人が言っていたピンク色した‘卵’だった。

それとそっくりな‘卵’を、ここ千葉県・茂原市・千沢の田圃で見つけた!

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WEBで調査した結果、これは、ジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)である!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A
F%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%82%AC%E3%82%A4

和名:スクミリンゴガイ、ジャンボタニシ

スクミリンゴガイ(学名 Pomacea canaliculata)は、リンゴガイ科(リンゴガイ、アップルスネイル)の1種の淡水棲大型巻貝である。
東アジア・東南アジア各地でイネの害虫となっている外来種である。世界の侵略的外来種ワースト100リスト選定種の1種である。
日本では「ジャンボタニシ」と呼ばれ、かつてはタニシと同じタニシ上科 Viviparoidea に分類されていた。しかし現在の分類では別上科で、暫定的に同目とされているが新生腹足類内で近縁な関係にはなく[1]、非常に疎遠である。

概要[編集]

南アメリカ ラプラタ川流域原産だが、食用として1981年に台湾から長崎県と和歌山県に持ち込まれたのが日本への最初の流入であり、83年には養殖場が35都道府県の500カ所にものぼった[2]。しかし、需要が上がらず、採算が取れないため廃棄された。84年に有害動物に指定されたが、廃棄されたり養殖場から逸出したものが野生化し、分布を広げている。この経過は、アフリカマイマイの場合と共通している。
水田に生息しイネを食害することがあり、問題視される。生息地では、用水路やイネなどに産みつけられる卵の非常に鮮やかなピンク色がよく目だつのですぐ分かる。水路の壁一面に卵が張り付く事もあり、美観上の問題となっている場所もある。

除草の利用[編集]

水田の除草手段としてスクミリンゴガイを利用しようという動きもある。これには均平な代かきと微妙な水管理が必要である。方法は、稲苗が標的となる田植え直後に、水張りをゼロにしてスクミリンゴガイを眠らせる。その後、1日1mmで水深を上げ、雑草の芽を食べさせる。10日後にいっきに5cmの深さにする。こうすれば、株元が固くなった稲よりも、生えてくる雑草を好んで食べてくれるので、除草剤なしで栽培が可能であるという。

食用[編集]

スクミリンゴガイは体内に、広東住血線虫等の寄生虫を宿していることがある。 十分に加熱せず食した場合、寄生虫が人体に感染し、死に至ることもあるので注意が必要である。

駆除方法[編集]

天敵として、カルガモやスッポン、コイなどが知られている。大量に発生した地域では、スッポンの大量放流による駆除が行われている[3]。しかしこれらの駆除の為に放流した天敵を食用に捕らえる人間もおり、問題となっている[4]。
鮮烈なピンク色の卵には苦味があり、原産地の南アメリカですら捕食する天敵がほとんどいない。よってそのほとんどが幼貝へと無事に孵化し、それゆえ本種が爆発的に個体数を増やしているという指摘もある。だがこの卵は水中では孵化できない(卵がイネの株や水路の壁のような濡れない場所に産み付けられるのはそれゆえである)。よって、卵塊を見つけ次第水の中へ掻き落すのは個体数を減らすのに有効な駆除方法である。

飼育[編集]

アクアリウム市場でスクミリンゴガイの黄変種は、ゴールデンアップルスネールの商品名で流通している。水槽内のコケ取りタンクメイトとして飼育されるが、本来イネを食害する草食性の害虫であるように、水草水槽で飼育すると水草が食害にあう。淡水で繁殖するため、水槽内で数が増えすぎる被害も発生する。

種同定[編集]

日本にはリンゴガイ属 Pomacea のうちスクミリンゴガイとラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が生息するが、これらは形態では区別が困難である。
アジアに移入された種はかつてラプラタリンゴガイとされてきたが、1986年、日本産の種はスクミリンゴガイと同定された。しかし遺伝子を調べると、いくつかの県でラプラタリンゴガイも発見された[5]。
アジアに主に生息するのはスクミリンゴガイであるが、ラプラタリンゴガイ、Pomacea diffusa、Pomacea scalaris も発見されている。


スクミリンゴガイ(ジャンボタニシ)の孵化

ジャンボタニシの孵化
http://matabola.blog63.fc2.com/blog-entry-653.html

ジャンボ谷氏の孵化ー2
http://matabola.blog63.fc2.com/blog-entry-653.html

なんと、当然のことながら、この卵から直接‘ジャンボタニシ’の赤ちゃんが誕生する証拠写真を見つけることが出来た!

長年の疑問が、インターネットのお蔭で、また一つ払拭出来た!

<エスカルゴについて>

この件については、次回!

(つづく)
[2013/08/17 23:56] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
猿滑り・百日紅・紫薇花
猿滑り・百日紅・紫薇花、いずれも‘さるすべり’と読む。最初に‘猿滑り’とあるから、他も‘さるすべり’と読むのだろうと何となく思われるが、‘紫薇花’の文字だけ出されると‘さるすべり’とはとても思えない!

今年は、我が家の‘さるすべり’は、どうやら遅咲きのようで、二本のさるすべりがあるが今日になって、やっと一本のさるすべりに花が咲いているのに気付いた!

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この木なのであるが、こちらの角度からでは花は見えない! だから気付くのが遅れたのだが・・・

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家の中から見ると、確かに咲いている!

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ただし、この箇所と、

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この箇所だけ!

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空に近い(?)箇所は、まだ蕾ばかり!

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でも、後の文献にあるように、100日間咲き換え咲き換え咲いて呉れるというから、11月の中頃まで楽しめるというもんだ!

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流石に‘猿滑り’!幹に皮が無い!

http://www.shorinzenji.com/%E5%B0%91%E6%9E%97%E5%A
F%BA%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%AD%A3/

<サルスベリ>
開花時期 6月~9月頃
長い間(100日間)紅色の花が咲いていることから百日紅(さるすべり)というのが由来。
すべすべした触感の樹皮が表面に現れている。
猿が登ろうとしても滑ってしまうことから猿滑と表記されることもある。
実際には、一度咲いた枝先から再度芽が出てきて花をつけるため、咲き続けているように見える。


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百日紅の花 http://pcweb.hobby-web.net/7107/77091.html

‘紫薇花’については?


『紫薇』(北宋)陶弼(七言絶句)

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●書き下し文:

 題:「紫薇(しび)」

人は言う清禁(しんきん)紫微(しび)の郎(ろう)

草は詔(つ)ぐ紫薇(しび)の花影(かえい)の傍(かたわら)

山木(さんぼく)は官況(かんきょう)の別(べつ)を知らず

也(また)紅日(こうじつ)に随いて東廊(とうろう)を上(のぼ)る

●現代語訳:

題:「紫薇(しび)の花を漢詩に詠みました」

人々は静かで厳粛な帝王の宮殿の
紫微(しび: 百日紅(サルスベリ)のこと)の花の咲く
中書省(ちゅうしょしょう)で宿直の任に当たっていて、

詔勅の草案は宮中に咲く紫薇(しび)の花の影のそばで作られています。

山の木々は官僚の遠い任地に向かう厳しい日々を知ることはありません。
それなのに、

この良き日に従って、山の木々が東の廊下で生長していくのがわかります。

●語注:

※紫薇(しび): 百日紅(さるすべり)のことです。
 昔は紫薇は中書省(ちゅうしょしょう)という詔勅をつかさどる
 役所に咲いていた花ですので、官僚達を指す言葉でもあります。
 ちなみに「紫薇郞(しびろう)」はこの場合、宮中で宿直の任に当たる
 役人を指します。

※清禁(しんきん): 帝王の宮殿の、静かで厳粛な様子を示します。

※郎(ろう): 男、官僚を指して言います。

※草詔(そうしょう、くさはつぐ): 詔勅の草案を作ることです。
 これをもとに皇帝が最終的な判断を下すことを、
 視草(しそう)と言います。訓読は対句のためにそうしています。

※花影(かえい):花の影のことです・

※官況(かんきょう): 官僚としての日々の暮らしを指します。
  「官況の別」とありますから、遠くの任地までの別れを指しています。

※也(また): 「また」という意味です。

※紅日(こうじつ): 「好日(こうじつ)」良い日のことです。

※東廊(とうろう): 東の廊下のことです。

●解説:

北宋の詩人の陶弼(とうひつ)の、「紫薇(しび)」という漢詩です。
紫薇は百日紅(サルスベリ)のことで、

昔は詔勅をつかさどる中書省(ちゅうしょしょう)の庭に咲いていましたので、
官僚達を指す花でもあります。

この漢詩では詔勅で遠い任地に向かう同僚達との別れを惜しむ詩になっています。

後の時代には何人もの筆写や模倣がされていますので、その中では、
「官況(かんきょう)の味」となっているものがありました。

この場合、任地で美味しい思いをしたり、
任地で苦い思いをしていることを指します。


‘紫薇’は、紫薇垣(しびえん)の略で、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BE%AE%E5%9E%A3
紫微垣(しびえん)とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。


では、これで終わりと思ったが、‘紫’が気になりだした!

紫式部もそうだし、高貴な色としてこの‘紫’という印象がある!

昔、小学生の時、‘この木’は、‘しば(柴)’。‘この糸’は、‘むらさき(紫)’と覚えたもんである!

では何故、‘紫’が高貴な色なのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB
紫(むらさき)[編集]

「紫」はもともとムラサキ(紫草)という植物の名前であり、この植物の根(紫根)を染料にしたことから、これにより染色された色も「紫」と呼ぶようになった。この名称自体は、ムラサキが群生する植物であるため、『群(むら)』+『咲き』と呼ばれるようになったとされる[1]。古来この色は気品の高く神秘的な色と見られた。また紫草の栽培が当時の技術では困難だったために珍重され、古代中国(漢代以降 - 時代が下ると黄色に変った)、律令時代の日本などでは、紫は高位を表す色とされ、主に皇族やそれに連なる者にしか使用を許されなかった。
『枕草子』の冒頭、「少し明りてむらさきだちたる雲の細くたなびきたる」という箇所は『紫色の雲』という意味と、『群がって咲く(ムラサキの)花のような』という両方の意味があるともされる。なお、ムラサキの花は白色である。

パープル (purple)[編集]

「紫色」の英語に相当する語句が"purple"である。もともとこの単語は、巻貝の一種"purpura"(ラテン語、プールプラ)に由来する。この巻貝の出す分泌液が染色の原料とされ、結果としてできた色もpurpuraと呼ばれた。この染色法を発明したのは現代のイスラエルやレバノンの地域に住んでいた古代のカナーン人であるといわれる。巻貝1個から出る分泌液はわずかであったため、この染色布が貴重なものであり、ローマ帝国の頃より西洋では高貴な身分の者が身に着けていた。この染色によって彩られた紫は若干赤みがかっていたようである。詳しくは貝紫色を参照。
また、英語の"purple"は、紅みがかった紫を指す語で、日本で言う所の京紫である。また、"purple"は、紫と紅の両義を含める場合がある。例えば、怒って顔を紅くする様相を、英語では"turn purple with rage"と表現する。細菌学においても、 "purple" は「紫」ではなく "red"(紅)を指す。紅色細菌 (purple bacteria) などの例がある。

バイオレット (violet)[編集]

「紫色」を指すことがあり、しばしばパープル (purple) に代わって、基本色としての紫を指す単語として使われる。なお、アイザック・ニュートンの定義による虹の7色のうち、最も短波長側の色である紫は英語では"violet"であり、"purple"ではない。この"violet"は本来スミレを意味する単語であり、菫色(すみれいろ)と訳すのが正確である。パープルは赤味の強い紫(マゼンタ)なのに対し、バイオレットは青味の強い紫であり、日本語の江戸紫に似ている。



‘さるすべり’にこんな深い訳があろうとは!

(つづく)
[2013/08/16 23:36] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘真珠記念日’について
昨日(2013年07月12日)のこの弊ブログは、次のように締め括った。

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。肝心の‘真珠記念日’については明日の記事で!

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http://www.mikimoto.com/jp/

(つづく)

そんな訳で、‘真珠記念日’について改めて・・・。

私が小学6年生の頃だから、昭和26年(1951年)で、もう62年も昔のことである。

当時は、戦後数年しか経っていなく、朝鮮戦争の真っ只中で、国民は食べて行くのにやっとという時代であったから‘真珠’を身に着ける人など普通にはいなかった。

真珠の‘まがい物’だって、そんなに‘科学・化学の技術’も発達・進展していなかったから、多分なかったに違いない。もっと言えば、もしも‘まがい物’があったとしたらそっちの方が珍重されて‘高価’だったかもしれないが、何せ私自身が小学6年生だったし、近頃の小学6年生と違って、‘情報量’が少ない時代だから‘真珠のまがい物’が出来たとしてもそのニュースを知る術もなかった。

何故、私が小学6年生の頃のことを話題にしたかというと、6年生の時の‘国語’の授業で

‘御木本幸吉’‘豊田佐吉’のことを教わったからである。

何といっても、この二人の‘日本の巨人’は、当時の小学生高学年以上の日本人なら誰だって知っていた!

‘国定教科書’で教えるのだから当然である。

‘豊田佐吉’、読みは‘とよださきち’であって、‘田’が‘だ’と濁って発音する。その発展が現在の‘トヨタ自動車’だから、何時からどんな理由で‘濁り’を止めたのか等々については別途検討したい。もう既にご承知の方も多いとは思うが、その辺はしっかりと改めて検討してこのブログで紹介する積りである!

さて、本日の‘話題’は、‘真珠記念日’

この歴史と現状の嘆きが、次の引用ブログに詳しい。

http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ddcaba75b3d
e45adbcbb1a52e4b6c776

今日(7月11日)は、「真珠記念日」

1893(明治26)年、三重県鳥羽町の御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養殖に成功した。養殖場を始めてから3年目で、半円形ながら5粒の養殖真珠が収穫された。円形の真珠は1906(明治39)年に完成した。

真珠は貝の体内で生成される生体鉱物である。貝の種類によりさまざまな真珠があるが、加工が容易で美しい光沢に富む天然の真珠は、古くから、世界の人々に純潔と幸福のシンボルとして愛好されきた。この真珠は、約5000年前、既に、ペルシャ湾や紅海で採取された貝の中から発見されたと云われており、クレオパトラが美容を保つ為に酢に真珠を溶かして飲んだとか、秦の始皇帝が不老長寿の薬として探し求めたとか、あの有名な楊貴妃が真珠を粉末にして常用したとか昔から真珠にまつわる話は色々な物語の中にも出てくる。

「わが欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の玉そ拾はぬ」
我が国においても古く万葉集の中にも「あわび」「玉」「白玉」と読まれているものは、真珠の事であると言われており、古くからあった事が伺える。

御木本幸吉は、1858(安政5)年、三重県鳥羽市に生まれた。早くから起業家精神が旺盛だった幸吉は、1878(明治11)年東京、横浜、大阪、神戸といった都市へ視察旅行に出かけた時、真珠が高値で取引されるのを見て以来真珠に取り付かれ、翌1879(明治12)年、英虞湾神明浦で真珠母貝の養殖を始め、1890(明治23)年、東京上野で開催された第3回内国博覧会に母貝を出品した際に、水産学界の権威である箕作佳吉(みつくり・かきち) 博士と知り合い、アコヤ貝の中に砂などの異物が混入すると身を守るため真珠質を分泌して、異物を包み込みその層が厚みを増して真珠になるというアドバイスを受け、人工的に真珠を作り出す研究に取り組んだ。そして、アコヤ貝の殻の内面に半円形の真珠を作り出すことに成功し、1896(明治29)年、特許を取得。この成功をもとに、真円真珠を養殖真珠で作りだすための研究を続け核の周囲に真珠質を取り巻かせる方法によって真円の真珠を作り、世界で初めて養殖真珠の企業化に成功した。

以降、日本近海はアコヤ真珠の生息に適した環境であることが幸いし、三重県、愛媛県、熊本県、長崎県などを中心に、各地に養殖場が作られるようになったが、その当時、真珠は日本の庶民にとって高級品で、国内需要が殆どなく養殖真珠は、その殆どがアメリカを始め、ヨーロッパ各地に輸出されていた。当時の輸送手段は船であった為、真珠は各養殖場から比較的近くにある国際貿易港、神戸港から輸出された。又、真珠の選別や加工をする際の気候条件も適していることから、神戸には多くの真珠会社が設立され、各養殖場から産出された真珠の殆どが神戸に集まってくるようになった。現在でも、神戸は日本の真珠加工・流通の約80%のシェアを誇り、輸出は勿論、国内向けも、その殆どが神戸から流通していると言っても過言ではない。
真珠と言えば日本そして、神戸だった。しかし、今、その日本の真珠、神戸の真珠業界がピンチに立っているようである。

田崎真珠社長の田崎俊作氏は、以下のように言っている。
日本の真珠の品質の良さが世界から評価された背景には、養殖技術、加工技術の高さに加えて、制度面にもあり、「真珠養殖事業法」は、神戸ですべての輸出品のチェックを義務づけ、「質の低い製品を排除し、真珠の信頼を保つ役割があった」(日本真珠輸出組合)という。しかし、阪神大震災での震災復旧下の1998(平成10)年、規制緩和の中で「同法」が撤廃され、輸出前の品質検査がなくなった。そのため、「以前なら商品になるのは全生産量の三割にすぎなかったものが、それまでの水準以下の真珠でも売れるようになった」。調度、アコヤ貝の感染症で品薄に苦しんだ時期でもあったらしい。それで、それまで市場に出なかった真珠が流入し、高品質商品の価格までが低下した。企業ブランドを守るため企業単位での品質標準は保たれたが、神戸の真珠業界は、世界が認めた標準を失った。

今やタヒチやオーストラリアなどで生産される黒蝶や白蝶、中国産の淡水真珠は、生産量でアコヤと肩を並べる。世界の真珠となった今、各国の利害がぶつかり合う中、“お墨付き”を求めて集まっていた真珠は神戸を離れていったと言うのである。困ったものだね~。一度信用を失うと、その信頼回復は難しい・・・。なんでもそうだが、そのとき限りの変な妥協はしないことが大切だよ・・・。

6月の誕生石が真珠であることから・6月1日を日本真珠振興会が「真珠の日」に制定している。


真珠王・御木本幸吉について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A
8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89

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http://www.pref.mie.lg.jp/tokyo/hp/yukari/14.htm

御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王と呼ばれる。

生涯[編集]

誕生[編集]

志摩国鳥羽浦の大里町(現・三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
商才と向上心と社交性[編集]
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、英国の軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったともいわれている。

真珠に到る助走路[編集]

1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に[編集]

幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

アコヤ貝の養殖[編集]

世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例[編集]

中国で実際行われた方法は1167年に公刊された「文昌雑録」巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、中国浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては中国に滞在したキリスト教の神父B.E.X.Entrecollesが1734年にフランス本国に報告している。また、英国人のD.T.MacGowanは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告により欧州では多数の人々が研究実験を行った。
日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、欧州経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始[編集]

1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による厳島(広島県)での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

縁者の協力[編集]

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。

1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめ32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の実兄・久米楠太郎、幸吉の実弟(二男)・御木本松助夫妻、幸吉の実弟(三男)・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の実弟(五男)・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、(猪野三平の子息)猪野若造、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』によれば「ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある」と考えたのではないか、書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。

出店の歩み[編集]

1899年(明治32年)、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する。
1901年(明治34年)、東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する。
1903年(明治36年)、東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出。市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転。
1903年(明治36年)、市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする。
1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。
1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店開設。
1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店。
1929年(昭和4年)、パリ支店開設。
1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店開設。
1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設。

特許取得[編集]

1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、御木本は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は御木本が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお真円真珠についての特許は御木本の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
半円真珠から真円真珠に到る特許
特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。

人々の協力[編集]

1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
親友の四日市の万古焼商人だった川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。
他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

量産体制[編集]

1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞[1]。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を完全に破壊し、多数の餓死者を生み出した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、油田開発を後押しした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。

大往生[編集]

1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は老衰のため96歳で死去した。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったがまだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。

家族[編集]

幸吉の一人息子・隆三(1893年 - 1971年)は一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし1937年(昭和12年)に破産、禁治産者申請へと至っている。
四女あい(1889年12月20日‐1983年2月21日)の夫は、教育学者の乙竹岩造[2]。

天皇との逸話[編集]

1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。
また、第二次世界大戦後、日本各地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。



エピソードと記念すべき作品

1878年(明治11年)家督相続により御木本幸吉と改名
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
若い頃の御木本幸吉(幼名:吉松)

1926年(大正15年)欧米視察へ出発
フィラデルフィア博覧会に「五重の塔」を出品(68歳)
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1932年(昭和7年) 神戸で粗悪真珠を焼却/良品販売の模範を示す(74歳)
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
真珠の火葬

1937年(昭和12年)パリ博覧会に「矢車」を出品(79歳)
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1939年(昭和14年)
ニューヨーク博覧会に「自由の鐘」を出品(81歳)
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

この作品は、昭和14年に作製されたというから満74歳! 私と同い年である!

上記工芸品3点、「五重塔」、「矢車」、「自由の鐘」は、現在‘御木本真珠島’の真珠博物館二階展示室に展示されている。

一度是非見学して見たい!

http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/ana.html
世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます
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 これは、明治38年、伊勢神宮に行幸された明治天皇に拝謁した御木本幸吉が陛下に申し上げた言葉です。幸吉はこの頃、すでに半円真珠の養殖に成功しており、さらに真円の真珠を求めて研究を重ねていました。真珠養殖の成功をきっかけに、今でこそ、幸吉の言葉どおり真珠は私たちの身近な存在となりましたが、それ以前、真珠を身につけることができたのは、貴族や大金持ちなどごく一部の限られた人々だけでした。



上記の通り、「真珠記念日」(7月11日)、「真珠の日」(6月1日)は、同じ‘真珠’に纏わる記念の日なのであるので間違い易いが別の日である。

真珠市場の現状は、上記の通り、一種の‘規制緩和’状態にあるために‘品質の劣化’で‘真珠のピンチ’状態という!

御木本幸吉翁が存命だったら、どんなに嘆かれるだろうか?!

(つづく)
[2013/07/13 23:55] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
7月11日は、何の日?
「7月11日は、何の日?」

と聞かれて、咄嗟に出た答えは、

「セブンイレブンの日!」

聞いた方は、‘真珠記念日’という答えを期待していたが、‘セブンイレブン’という答えは考えもしていなかったために聞いた方が‘驚いた’という話を聞いたことを毎年7月11日が廻って来ると想い出す!

以下の引用文献にある通り、セブンイレブンの設立が昭和48年(1973年)だそうだから、今年でナント‘40周年’である!

その当時のキャッチフレーズは、たしか

「セブンイレブンいい気分、開いてて良かった!」

だったと思う。

勿論、今日では24時間営業であるが、当時は

「朝7時から、夜11時まで」

だから、セブンイレブンだったのである!

http://www.sej.co.jp/sej_case/
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会社概要
名称
株式会社セブン-イレブン・ジャパン
住所
〒102-8455東京都千代田区二番町8番地8
電話番号
03-6238-3711 (代表)
代表取締役会長
最高経営責任者(CEO)
鈴木敏文
代表取締役社長
最高執行責任者(COO)
井阪隆一

設立
昭和48年11月20日
資本金
172億円
従業員数
6,070人(平成25年2月末現在)
平成25年2月期実績
(単体)
・チェーン全店売上高
(国内)
3兆5,084億4千4百万円
・営業総収入
6,175億5千9百万円
・営業利益
1,867億6千万円
・経常利益
1,941億4百万円
・当期純利益
1,124億4千6百万円
・店舗数(国内)
15,072店



日本全国に、何と‘15,000以上’ものチェーン店舗がある!

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http://blogs.yahoo.co.jp/tommiejunior1023/48716426.html

そして、セブンイレブンに限らず、コンビニは、進化し続けている。例えば、7-11の場合の次の進展は:

① 病院へのコンビニ 出店
② 学校へのコンビニ 出店
③ 企業へのコンビニ 出店
④ 行政機関(市役所・官公庁など)へのコンビニ 出店
⑤ ビル・複合施設へのコンビニ 出店
⑥ エキナカへのコンビニ店 出店

がどんどん増え続けるという‘進化’である!

我々が住んでいる千葉県茂原市での‘コンビニの特長’は、‘駐車場’の広さが売り上げを決める!と言わんばかりに駐車場が広い!

先般も地元で‘セブンイレブン’が移転してその跡地というより建屋そのものを活かして‘歯医者さん’が開業した。
移転した先は、同じ通り(国道128号線)の駐車場が5倍もあろうかという場所である。

国道は大型輸送車が通るから、駐車場が狭いと大型車は駐車が出来ないから、7-11が引っ越しをしたのである!

都会では、駐車場に広さは、却って経営を圧迫する。土地使用料金が高いからである。

さて、ここまでの知識に間違いがあることはないのだが、‘セブンイレブン’は、‘純日本製’かどうかを確かめるために、やはり‘Wikipedia’を見てみると、‘日本が発祥地’ではなかった!

残念ながら、私の‘認識の甘さ’だった。イト―ヨーカ堂の鈴木敏文氏の発想で出来たものとばかり思っていたが、違っていた!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96
%E3%83%B3-%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%B3

セブン-イレブン(英: 7-Eleven)とは、アメリカ合衆国発祥のコンビニエンスストアである。日本におけるコンビニエンスストア最大手であり、チェーンストアとしても世界最大の店舗数を展開している。日本ではセブンアンドアイグループの持株会社である、株式会社セブン&アイ・ホールディングスの子会社である株式会社セブン-イレブン・ジャパン(英: Seven-Eleven Japan Co., Ltd.、SEJ)が展開している。
コーポレートスローガンは「日本のおいしい食卓へ。近くて便利、セブン-イレブンです。」。

概要[編集]

発祥の地は米国のテキサス州オーク・クリフである。アメリカ南部の氷の小売店から始まった。電気冷蔵庫が普及する前、どこの町にも氷店はあったが、1927年[1]にセブン-イレブンの前身であるサウスランド・アイス社はサービス向上のため週7日/16時間営業を始め、さらにパンや牛乳なども置くようになった。1946年に現在の名称を用いるようになる。1973年(昭和48年)、日本のイトーヨーカ堂がライセンス契約を受け、日本でサービスを開始する。1980年代になって米国セブン-イレブンは経営不振に陥り、1991年(平成3年)に経営破綻したことでイトーヨーカ堂に買収された。

名称はアメリカ本土では当初、朝7:00から夜11:00(23:00)まで営業していたことに由来している。1963年にラスベガスとダラスで24時間営業を開始し[2]、現在では24時間営業が多い。日本でも以前はこの時間帯で営業している店舗も多数あったが、現在は一部を除いてほとんどの店舗が24時間営業となっている。
開業当時から2010年(平成22年)までのコーポレートスローガンは「セブン-イレブン いい気分!」で、以前は「セブン-イレブン いい気分!」の後に「あいててよかった」と続いていたが、1990年代には「あいててよかった」の一言が消滅している。本家アメリカでは「Thank Heaven, Seven Eleven」[3]であり、やはり韻を踏んでいる。
小売店業界の中では、利益率と成長率ともに非常に高い。その利益の源はフランチャイズ店の展開により、加盟店の個人事業主よりロイヤリティを徴収する形で高い利益率を誇っている。

2005年(平成17年)9月1日、イトーヨーカ堂、セブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンの3社で持株会社「セブン&アイ・ホールディングス」を株式移転により設立して経営統合を行った。


1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。肝心の‘真珠記念日’については明日の記事で!

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http://www.mikimoto.com/jp/

(つづく)

[2013/07/12 23:35] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
風鈴の起源
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http://www.sai-create.com/illustration/2011/0815.html

風鈴の音 は、誰の気持ちをも和まして呉れる。ただし、‘日本人にとっては’という注釈制限がつくかも知れない、とどこかで聞いたことがあるような気がする。

かと思ったら、こんな記事もある!

http://www.log-channel.com/bbs/live/1318817569/
風鈴なんて風流なものは、ある程度の土地を所有する一軒家がやるべき。
間違っても密接した集合住宅などで吊るすべきでない。

[風鈴のルール]

風の強い日は外す
夜間は出しっぱなしにしない
夏が終わったら片付ける
近所の人に迷惑でないかひと言断ってから使用する


やっぱり、日本人だって‘うるさい!迷惑だ!’と思う人が増えて来ているのだろう。

西洋人には‘秋の虫の音’が‘雑音’に聞こえるというから、この頃の日本人も‘西洋人並み’になったと言えるのだろうか?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1371854328
白人は虫の音や風鈴の音を、別の意味でとらえます。虫の声は、恐怖のシーンに使われます。

日本人は虫や風鈴の音を右脳で聞いているという研究もありますが、それはそういう環境で生活しているからです。

逆に日本人は拳銃を打ち合う音を聞いても、伏せないでただ立っているので、「日本人でバカなんじゃないのか」と思われています。つまり、日常生活に銃の音がないので、わからないんです。

虫の音などが響き渡る日本映画などは、西洋社会ではヒットしません。

雑音に聞こえるそうです。

よくアメリカのテレビなんかで大勢の前で発したジョークが全くウケなくて周りがシーンとした時、コウロギの鳴き声が響きます。コウロギの鳴き声は、静けさの象徴ではないかと思います。

音をどうとらえるかは、その人の経験にもよりませんか。虫の声をうるさいと感じる人ばかりが周りにいて、虫の声が聞こえるたびに人がうるさいと言っているのを聞いて育ったら、自ずと、虫の声はうるさい、という気になるのではないでしょうか。日本だって、建て込んだ都会だと風鈴の音が隣人同士の争いの種になると聞きますよ。

はい、熱帯の国でのことです。
蒸し暑い夜の空気を和らげてくれる、涼しげなコオロギの声。
虫たちの合唱に耳を傾けながら、濃密な自然の雰囲気とビールに酔いしれておりました。

そこへ白人がやってきて、
可愛らしく鳴いているコオロギを、殺虫剤で皆殺しにして行きました。
「うるさい!」とか怒鳴りながら・・・。

心理学の実験で、日本人は虫の声を聞くと、脳波にリラックスしたことを示すα波が出現するのですが、白人にはそれはないことが、優位差の有る実験データとして報告されています。


などなど、「音と同時経験」の印象が人間の心理に大きく影響されているという裏付け発言のように思われる!

さて、我が家に今いくつ‘風鈴’があるのか?調べてみた!

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玄関口

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玄関のドアに(内側から)

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玄関のドアに(外側から)

画像ー156 172-2
居間の西側窓

普段余り‘活躍’してはいないが、3つ有ることはある!

本日問題にしたいのは、‘風鈴の起源’である!

一体いつ頃から何の目的で、誰が? ということが知りたくなった。勿論‘白人さん’のお宅には風鈴はあるのだろうか?ということも含めて・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%88%B4
風鈴(ふうりん)とは、日本の夏に家の軒下などに吊り下げて用いられる小型の鐘鈴である。風によって音が鳴るような仕組みになっている。

概要[編集]

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鉄製の風鈴の内部に見える「舌(ぜつ)」

金属・ガラスなどで手のひらに収まるくらいの大きさのお椀型をした外身を作り、それを逆さにして開口部を下向きに吊り下げられるように外側に紐をつける。内側には「舌」(ぜつ)と呼ばれる小さな部品を紐で吊り下げ、その紐の先には短冊を付けて風をよく受けるようにしてある。
短冊が風を受けて舌を揺らし、舌が外身に当たって音を鳴らす。
音は外身と舌の材質になどに左右されるが、日本では一般に涼しげな音と表現されてきた音である。秋を知らせるスズムシなどの虫の声とも似ている。冷房のなかった時代に日本のむしむしとした湿気の多い暑い夏をやり過ごすため、日本人は風鈴の音を聞くことに涼しの風情を感じてきた。
日本では夏の風物詩の一つとなっている。

歴史[編集]

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江戸後期の「風鈴蕎麦」。風鈴を鳴らしながら商いを行った。(深川江戸資料館)

鈴や鐘、太鼓、笛といった音のでる器物は、人類の歴史の古くから人間の暮らしや精神活動に深くかかわってきた。音は、人間にまつろわぬ獣や魔物を追い払って己の生命を守る楯であり、同時に己の仲間である獣や神を引き寄せる合図でもあった。日本でも縄文時代には既に土鈴(どれい)と呼ばれる音を出す用途を意図して作られた器物が存在し、農耕が開始してからも農作物を荒らす動物を追い払うため鳴子を田畑に設置したりしてきたし、現在でも山菜採りなどで山に入るときには熊除けなどのために鈴を腰につけていく。文字を持たない共同体においても人々が神を呼んだり共同体の結束を確認する祭りに楽器と音楽は欠かせないし、日本の祭りでも神や仏を呼ぶのに楽器と音楽を用いる(人間を楽器と考えるならば歌謡と舞踊を用いると表現してもよい)。神社で鈴を鳴らして神に拝むのもそうであるし、仏壇で鈴を鳴らして先祖を拝むのも、除夜の鐘も、根源的には人間が音に対して抱いている観念、すなわち超常的な力を持つものに通じる畏怖と人間が操り制御することのできる親しみとが根底にある

日本では民家の軒先に吊るす風鈴がいつから存在するのかはっきりしないが、寺では通常、相輪や堂の軒の四方に「風鐸」(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられている。

これらは青銅でできており、強い風が吹くとカランカランというやや鈍い音がする。強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味でつけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないという。中国では唐の時代に竹林の東西南北に風鐸を吊り下げて物事の吉兆を占う「占風鐸」というものがあり、それが日本に仏教建築文化とともに伝来したと考えられる。平安時代後期には貴族の屋敷でも軒先に魔除けとして風鐸を吊るしたことがあったというがよくはわかっていない。「風鈴」という表記は鎌倉末期に作られたとされる国宝『法然上人行状絵図』に「極楽の七重宝樹(しちじゅうほうじゅ)の風のひびきをこひ、八功徳池(はっくどくち)のなみのをとをおもひて、風鈴を愛して」とあるが、これは「ふうれい」と読む。絵図の作者が風鐸と書かずに風鈴と記したのは中世には鈴を持って踊るさまざまな田楽風流踊りが各地で流行したことが影響したとも考えられる。

強い風とともにやってくる疫病や魔を除けるための器物として用いられてきた青銅製の風鐸であるが、気温湿度が上がり菌が繁殖しやすく病も広まりやすい暑くなる時期の魔除け道具、すなわち暑気払いのための器具として次第に定着していく。

古代のシルクロード経由の色ガラスではない、無色透明ガラスの製法が18世紀にオランダ経由で日本に伝わると、19世紀には江戸でガラス細工が盛んになり、江戸時代末期にはビイドロ製の吹きガラスで作られた風鈴が江戸で流行を見せる。大正期には岩手県の名産である南部鉄器の産地でも鉄製の風鈴を作るようになった。

各地の風鈴[編集]

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ガラス製の風鈴

現在は、日本の各地で金属(鉄、銅)、ガラス、陶器、木、木炭、水晶など様々な材質の様々な形状の風鈴が作られている。

鉄製のものには、岩手県の伝統工芸南部鉄器でできた南部風鈴がある。銅製のものとしては、富山県の伝統産業高岡銅器の真鍮製の高岡風鈴、神奈川県の伝統工芸小田原鋳物の砂張(さはり)製の小田原風鈴がある。金属製のものはリーンと長い音が響く。
ガラス製のものは全国にあるが、昭和になってそう名乗りはじめた江戸風鈴が知られている。琉球ガラス、諏訪ガラスなどでも作られている。現在では中国などで作って輸入していることも多い。チリンチリンと短い音がする。
兵庫県姫路の伝統工芸である明珍火箸を近年、風鈴として使うように作った火箸風鈴というものもある。二組(四本)の火箸を吊るしてその中央に舌を下げてお互いにぶつかりあうようにしたものである。
ごく近年には、軒先に吊るさないで室内に針金などで吊るし、人為的な振動を加えて鳴らすようにしたものなどもある。

音声・動画[編集]

日常生活音の中で聞こえる風鈴の音(ヘルプ / リンク)

注意[編集]

密集した住宅地やマンションにおける風鈴の音は、生活騒音に分類されることがある[1]。

風鈴に関する行事[編集]

川崎大師風鈴市…神奈川県の川崎大師の7月の行事。平成23年で16回目で比較的新しい行事であるが。日本各地の風鈴が販売される。平成22年は47都道府県900種類が集まった[2]。
浅草寺ほおずき市…東京都の浅草寺の7月の行事。風鈴も多数売られ、ほおずき市に風鈴はつきものである。
岩手県奥州市の水沢駅では毎年6月から8月にホームにたくさんの風鈴を吊るし、日本の音風景100選に選ばれている[3]。
熊谷や岐阜などと並んで猛暑になる群馬県前橋市を走る上毛電車では、毎年6月から8月に電車内に風鈴をたくさん吊るして「風鈴電車」(2両1編成に100個の風鈴)として走らせている[4]。

関連項目[編集]

鈴…神具、楽器としての「すず」。
鈴 (仏具)…仏具としての「りん、れい」。
釣鐘…つりがね。
鐘…かね。
銅鐸…どうたく。日本の弥生時代の遺跡から出土する。
土鈴…どれい。日本の縄文時代の遺跡からも出土する。現在も作られている土器や陶器の鈴。
モビール…吊り下げて楽しむインテリアの一種。
ウィンドチャイム…楽器。


外人と風鈴など

こんな記事を見つけた!

http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1372664204/
「なぜ日本人は暑い季節にスーツで働いてるんだ!?」外国人が驚愕
2013.07.01 雑学

クールビズ NHKBS1の『cool japan』で「涼む」という特集をしました。日本人の夏の工夫です。

 予想通りというか、外国人がまったく理解しなかったのは、「金魚」。

「魚を見て、どうして涼しくなるんだ?」「金魚以外も涼しく感じるのか? サバとかタイを見ても涼しいのか?」なんて疑問が連発しました。

「風鈴」も理解されないだろうなと思っていたら「いや、風が吹く。だから、鳴る。だから、音を聞くと風が吹いているんだなと想像できる。
だから少しは涼しいと予想できる」という意外な意見が主流でした。

 そうか、そうか、「風鈴」は理解できるのかとちょっと安心して
「いや、待てよ。風を知るから涼しいのなら、『風鈴』じゃなくても木の葉とかでもいいの?」と聞くと
「そうだよ。風で揺れるものならなんでもいい」と当たり前じゃないかという顔で、外国人全員に答えられました。

「どうして日本人は、こんなに涼む方法をたくさん持っているんだと思う?」というやや強引な質問をすると、
「本来、働いてはいけない7月と8月になんとか働こうとするから、いろいろ工夫するんだろう」という、
番組のコンセプトを根底から破壊するようなコメントがイタリア人からでました。


これじゃあ、外人が風鈴を買うことなんか期待しない方がいい!

それでは、‘南部風鈴の音’をごゆっくりど~ぞ!


https://www.youtube.com/watch?v=mStFPTy2F5E

こちらも結構いい音が・・・・。


https://www.youtube.com/watch?v=tEN3lyJix1k

(つづく)
[2013/07/09 16:31] | 学習と文化 | トラックバック(280) | コメント(0) | page top
‘七夕’って何?
七夕の風習 は、日本人なら誰だって知っている!

そして、どんなことをするかも大体の人が知っている。

ただし、大きく分けて2つのやり方がある。

① 自分の家庭中心に行なう場合

A5D6A5EDA5B0070520002_convert_20130708235326.jpg
http://shinji-channel.seesaa.net/article/102282930.html
a) 願い事を短冊に書いて吊り下げる。
b) 処分の仕方:昔は近くの川に流したが、今はそれはない。短く切ってゴミとして出す。燃やすことは各自治体で制限がある。

② 商店街が中心になって行なう場合

仙台七夕2012_a
http://tokuhain.arukikata.co.jp/yamagata/2012/08/post_40.html
仙台の七夕飾りは7種類あり(短冊、紙衣、折鶴、巾着、投網、屑篭、吹流し)、それぞれに意味があって願いが込められています。その中で最も目立つのが巨大な吹流し。球や直方体などの下に吹流しが下がっています。仙台七夕まつりはこの吹流しの競い合いのように見えます。
a) この場合は、願い事を短冊に書いて吊り下げることはしない!
b) 処分の仕方:一部の噂では、飾りの‘使い回し’があるのではないか?と言われている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361303263
平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂

Q:平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂
昔、聞いた噂なのですが、平塚市の七夕飾りが1ヶ月後に仙台で再利用しているとの話がありますが、真偽のほどをご存知の方は居ますか?

A:再利用は単なる噂で、都市伝説に近いものかと思います。

仙台七夕まつりの飾りは本物の和紙がほとんどで、笹を用いる本格的な飾り付けを行うことが「売り」で、七夕飾り1本を作りあげるのに80万円から100万円がかかることも珍しくありません。使われた飾りはその年限りのもので、基本的に使いまわしはしないとのこと。

使いまわしの噂は、平塚の七夕まつりが新暦の7月7日、仙台の七夕まつりが旧暦の8月7日に行われているための類推かと思います。


ただし、仙台の飾りの‘有効活用’はあるそうです!

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%B8%83%E5%A4%95
仙台の七夕飾りの活用

日本国内においても2007年(平成19年)に仙台七夕で使用された七夕飾りが鹿児島県鹿児島市に運ばれ、同市の中心部商店街である天文館の11の通りに計90個飾り付けられ「奥州仙台夏飾り[10]」が開催された。さらに同県薩摩川内市の中心部商店街にも仙台七夕の飾りを5体寄贈し、仙台の七夕工房の職人が薩摩川内に赴いて七夕飾りの作り方を指導した。仙台七夕の飾りは川内花火大会(2007年(平成19年)8月16日)の際に飾られた。また2008年(平成20年)からは、薩摩川内市民が作る仙台式と川内式の双方の七夕飾りが「川内七夕まつり」で飾られる。


そんな訳で、七夕祭りが商店街の活性化のために活躍するというパターンで‘或る進化’を遂げているというのが現状のようである。

それでは、本来の‘七夕’とは、どんな歴史を持っているのか?

次の引用文献は、見ただけでうんざりするほど長~い!

でも、これだけ知っていれば‘一端の’七夕学者である!

さあ、‘読破’して下さい!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

七夕(たなばた、しちせき)は、中国、台湾、日本、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[1]。

起源[編集]

日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。
七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説 は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首[2]」が文献として初出とされている[3]が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている[4]

日本語「たなばた」の語源 は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会[5])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[6]。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[7]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[8]。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[9]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[10]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[11]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

風習[編集]

日本[編集]

ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。[12]
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。

中華圏[編集]

香港[編集]

現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。
坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。

台湾[編集]

台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南[13]や鹿港[14]ではzh:做十六歲[15]という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

時期[編集]

中国[編集]

元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

日本[編集]

日本では、天保暦(和暦)など旧暦7月7日であり、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ[16]、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[17]。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。

天候など[編集]

多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。
統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。
七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

日本の七夕祭り[編集]

仙台の七夕祭り

1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

主な七夕祭り[編集]

新暦に行う地域[編集]

埼玉県深谷市(深谷七夕まつり)
神奈川県平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)
神奈川県藤沢市慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(七夕祭)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)(清水七夕まつり)
富山県高岡市戸出町(戸出七夕まつり)
富山県下新川郡入善町(舟見七夕まつり)
大阪府交野市(七夕祭)
徳島県徳島市新町橋東公園(七夕バルーンリリース)
旧暦・月遅れに行う地域[編集]
秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)
岩手県陸前高田市(うごく七夕まつり)
岩手県陸前高田市(けんか七夕まつり)
宮城県仙台市(仙台七夕)
福島県いわき市平(旧平市)(平七夕まつり)
茨城県水戸市(水戸黄門まつり)1991年まで「水戸の七夕黄門まつり」
茨城県土浦市(土浦キララまつり)1989年まで「土浦七夕まつり」
群馬県桐生市(桐生八木節まつり)
埼玉県狭山市(入間川七夕祭)
埼玉県小川町(小川町七夕まつり)
埼玉県ふじみ野市(旧上福岡市)(上福岡七夕まつり)
千葉県茂原市(茂原七夕まつり)
東京都杉並区阿佐谷(阿佐谷七夕まつり)
東京都福生市(福生七夕まつり)
富山県高岡市(高岡七夕まつり)
石川県珠洲市(宝立七夕キリコ祭り)
岐阜県大垣市(七夕まつり)
愛知県安城市(安城七夕まつり)
愛知県名古屋市(円頓寺七夕まつり)
三重県松阪市(松阪七夕まつり)
山口県山口市(山口七夕ちょうちんまつり)
香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)
福岡県小郡市(七夕神社七夕大祭)
大分県大分市(大分七夕まつり)
旧暦でも月遅れでもない地域[編集]
愛知県一宮市(おりもの感謝祭一宮七夕まつり)

全国七夕サミット[編集]

七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。
第1回:1996年8月 宮城県仙台市
第2回:1997年7月 愛知県一宮市
第3回:1998年8月 富山県高岡市
第4回:2000年7月 神奈川県平塚市
第5回:2001年 石川県根上町(現能美市)
第6回:2003年8月 愛知県安城市
第7回:2004年7月 千葉県茂原市
第8回:2005年7月 愛知県一宮市
第9回:2006年8月 富山県高岡市
第10回:2007年7月 大阪府枚方市・交野市
第11回:2010年7月 神奈川県平塚市
第12回:2011年7月 群馬県前橋市
予定[編集]

新暦の七夕における月齢[編集]

2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。
2007-07-07: 月齢22 ○
2008-07-07: 月齢4 ◎
2009-07-07: 月齢15 ×
2010-07-07: 月齢25 ◎
2011-07-07: 月齢6 ○
2012-07-07: 月齢18 ×
2013-07-07: 月齢29 ◎
2014-07-07: 月齢10 △
2015-07-07: 月齢21 △
2016-07-07: 月齢3 ◎
2017-07-07: 月齢13 ×
2018-07-07: 月齢24 ○
2019-07-07: 月齢5 ○
2020-07-07: 月齢16 ×
2021-07-07: 月齢27 ◎
2022-07-07: 月齢8 ○

旧暦の七夕(伝統的七夕)[編集]

国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している[18]。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。

国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)

2006-07-31
2007-08-19
2009-08-26
2010-08-16
2011-08-06
2012-08-24 [19]
2013-08-13
2014-08-02
2015-08-20
2016-08-09
2017-08-28
2018-08-17
2019-08-07
2020-08-25

織女星と牽牛星の伝説[編集]

詳細は「牛郎織女」を参照

説話[編集]

こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

物語[編集]

昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命は機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

星空[編集]

織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。
グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。


読破のご感想は?

残念ながら、今年2013年7月7日の深夜の千葉県・茂原市の夜空には、‘天の川’はお出まし遊ばなかった!

(つづく)

[2013/07/08 23:59] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜町と竹(その2)
昨日のこのブログは、

この‘タケの情報館’が見ものである!

(つづく)

で終わっている。

この‘タケの情報館’は、千葉県立‘大多喜県民の森’の建屋の中にある。

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入口玄関

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これがタケの情報館の入り口

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中には様々な‘竹製品’が展示してある。

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かなりの広さである。所狭しとばかりに地元で採れた竹に細工を施した作品も数々あるようだ。

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芸術作品である!

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ズームアップしてみると、その細かさに驚かされる!

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竹という‘素材’の綿密さが醸し出す優れた芸術性が活かされている。

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いやはや素晴らしいとしか言いようがない!

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この立体感も素晴らしい!

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プロの彫り師がおられるのだろうか?

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この竹細工の素晴らしさは超一流である!

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これもまた日本人の繊細さを物語っている!

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私には、これが最も優れた作品に見えた。

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これらもみんな趣味の域を通り越している!

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釣り竿の素材としては、カーボンファイバーより優れていると言われるが、職人さんの減少も手伝って値段が高い!

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これらの作品は、芸術的でなく実用的である。

次が竹の‘新用途’

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成長が速いことがメリットの一つだが、竹炭にした場合のメリットも大きいらしい。

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竹って漠然とは知ってはいるものの、その本質を知っている人はそんなに多くはない。竹の需要はもっとあってもいいのではないかと思われる。

外の景色も素晴らしかった。

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2013年07月02日14:06

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2013年07月02日14:09


(つづく)
[2013/07/03 23:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜町と竹(その1)
千葉県夷隅郡大多喜町は、竹の子(筍)の産地として有名だという。

千葉県夷隅郡大多喜町 - Google マップ0001
‘Google’マップ
ピンクの色で囲まれた場所が大多喜町である。

この町は城下町である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%9A%E5%96%9C%E7%94%BA
大多喜町(おおたきまち)は、千葉県夷隅郡にある町。町内の大多喜城は徳川四天王の1人本多忠勝がいたことでも知られる。

歴史[編集]

合併前[編集]

大多喜地域は戦国時代から城下町として繁栄した。応仁の乱以後守護大名が台頭し、長南の武田氏、万木の土岐氏、小浜の槍田氏、安房の里見氏がこの地方で衝突していた。小田喜根古屋城は1544年(天文13年)武田氏から里見氏の武将正木時茂が取って代わり、里見氏の支配を受けた。

1590年(天正18年)徳川四天王の1人本多忠勝が10万石を与えられ約11年間領知した。忠勝は里見氏に備えて城を整え、城下町の整備、六斎市の開市を企てた。本多氏以後たびたび城主が替わり、1703年(元禄16年)から松平氏が9代続いたが、大多喜地域の大部分が他藩領、旗本知行地として支配を受けた。明治維新により大多喜県、木更津県、千葉県と行政区画が変遷し1889年(明治22年)老川村、西畑村、総元村、上瀑村、旧・大多喜町が誕生した。しかし、大多喜地域は次第に衰退し財政力が豊かではなかった。そこで、町村規模の適正化、福祉の推進、地方自治の発展、行財政の強化のため旧5町村が町村合併促進法により合併し、現在の大多喜町が誕生した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。


この名将が統治をした町に何故‘筍’なの?と思って調査したが、まだ、答えを探し切っていない!大喜多町の公式HPにもその答えは見つからない・・・。

2013年07月2日、久し振りに大多喜城を訪れた。長男夫婦が休みを取って帰って来て、山の中の田園風景を見たいと言ったからである。

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そして、今‘NHK大河ドラマ’誘致実行委員会が出来、本多忠勝・忠朝の生き様を大河ドラマに、という願いである。勿論これが実現すれば、大多喜町の再開発の糸口になるし、筍の売り上げだって大幅に上がり何倍にもなるに違いない!

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もうこの‘幟’は、何千本も立てられているようである。町中至る所に幟あり、という状況のようだ。

大多喜城についての基本知識は、以下の通り!

http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=451
:大多喜城分館は大多喜城のことですか?

:通常そう呼ばれています。それは当館が旧大多喜城本丸跡に建ち、博物館の外観が天守閣造りになっているからでしょう。しかし正確に言えば旧大多喜城は本丸・二の丸・三の丸などからなり、城域は当館の他に県立大多喜高校や、いすみ鉄道大多喜駅などを含みます。

:大多喜城分館の形は、大多喜城の天守閣を再現したものですか?

:残念ながら、旧大多喜城の天守閣は現在残っておりません。大多喜城については、天守閣があったのか?あったとしたらどのような天守閣があったのか、などについて不明の部分が多く、良質の資料も残されておりませんでした。昭和50年に当館を建設する際は当時残された資料と江戸期の一般的な天守閣を参考に推定復元しました。



本日のテーマは、‘竹’!

さて、千葉県には、‘県民の森’が6箇所ある。

kenmin_no_mori_map (1)
https://www.pref.chiba.lg.jp/shinrin/kenminnomori/

その内の一つ、大多喜町県民の森が、大多喜城の直ぐそばにある。

https://www.pref.chiba.lg.jp/shinrin/kenminnomori/otaki.html
大多喜町県民の森

概要

房総半島の東南部「城と渓谷の町」大多喜町の北西に位置し、房総丘陵の緑豊かな森林の一角にあります。

面積は61ヘクタールで、尾根沿いに施設されている遊歩道や展望台からは、大多喜城と周囲の山並、大多喜平野が一望できる自然環境に恵まれた憩いの森であります。

林内には、スギ、ヒノキ、マツを主林木として、ツバキ、ナラ、モミジ等が混生し、メジロ、ウグイス、ホオジロなど野鳥も数多く生息しており、春は新緑に秋は紅葉と、森林浴や自然観察が楽しめます。

特に大多喜町は県下でも有数の竹林面積を有しており、古くからタケノコや竹ホウキ等竹加工品の生産が盛んな地域であることから「竹をテーマ」とした県民の森として整備されております。

大多喜県民の森の周辺には千葉県立総南博物館(大多喜城)、千葉県薬草園、大多喜町総合運動広場、町営野球場、テニスコート、海洋センタ-、町立図書館、大多喜町中央公民館や物産センター等の文化、体育施設が整備されています。

主な施設

タケの情報館、竹工芸センター、芝生広場、研修館、竹笹園、遊歩道、フィールドアスレチック、キャンプ場、ログキャビン、野鳥観察舎


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イノシシ注意!の看板、これがいい!東京・上野の森にはあり得ない!!

さて、この場所にある竹の情報!

この‘タケの情報館’が見ものである!

(つづく)
[2013/07/02 23:33] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
梅とプラム
‘梅’を和英辞典で引くと、‘plum’と出ている。

しかし、反対に‘plum'を英和辞典で引いてみると‘セイヨウスモモ’‘プラム’とあり、[俗用的に]ウメ(正しくは ume、Japanese apricot)との記述も見える。

そして、国語辞典で‘プラム’を見てみると‘西洋スモモ’と書いてある。(和英・英和・国語辞典は、‘EX-word’<CASIO>)


それでは、ということで、‘酒’を‘梅’に付けてみると

‘梅酒’は、和英辞典には、‘ume liqueur’と書いてある。

‘ume liqueur’を‘Google’翻訳ソフトにかけると‘梅リキュール’と訳される!

‘梅酒’は、‘Google’翻訳ソフトで英訳すれば、‘plum wine’と出て来るのである。

色々な‘立場’で言い方が変化するものなのだろうか?(詳細は、最後に!)

‘日本語’では、‘梅’と‘プラム’は、全く別物である!

「‘写真機’と‘カメラ’とは違う!」と言う如きものなのだろうか?

‘写真機’とは、‘蛇腹式’のカメラだと私は思っているので、‘写真機’は‘カメラ’とは別物である。

まあこの議論は、本質を明らかにせねばならない程の‘大問題’ではないが、外人さんに説明する時には、注意が必要なのかもしれない!


さて、悪い癖でまた前置きが長くなってしまって恐縮だが、春の‘収穫物’として、我が家の庭で‘梅’と‘プラム’が獲れたのである!勿論、ほんの少しなのだが・・・。

面白いことに、梅の木もプラムの木もこの地・千葉県茂原市千沢へ引っ越してきた時に庭に植えたのだから、もう19年目に入ったことになる。そして、今年の収穫が一番多かったのである! 去年までは、どちらとも6~7個止まりだったのであるが、どうした訳か今年は例年より随分多かった!

‘桃栗3年柿8年’というが、我が家では、それに加えて‘ウメ・プラム19年’と言わねばならないことになる!

先ずは、‘梅’から・・・・。

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2013年16日16:02

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私(男♂)の手のひらに平たく‘3つ’がやっとだからかなり大きい! 梅干しになっても‘一口’では口に入らない!勿論、‘梅干し’を一口にしようとする‘野蛮人(?)’もいないだろうが・・・。少し黄色くなるまで収穫せずにいたからそれも大きくなった理由かも??

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梅は皆採り終わったので、計量して見ると約1.7kg! 近年にない‘大量!’なのだが、梅栽培農家も豊作なのだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/assoman/20130602/1370160973
2013年梅の収穫-今年は大豊作でした(岐阜市)
2013-06-02,17:16
今年の梅の収穫を、今日行いました。

春先の花は見事だったし、「ようけなっとるようだなぁ」と思っていたのですが、息子に頼んでとってもらうと、バケツ2杯と洗面器3杯分。今までにない大豊作でした。

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2012年は結構実って「良かった良かった」と言っていたのですが、
こんな量になるとはびっくりです。

バケツいっぱい4kg弱なので、15kgぐらいあるのではないでしょうか。実が小さめなので、もう少し置いていたらもっと重くなったかも?例年3~5kgぐらいなので、今年は全く別格です。


例年の‘5倍’(?)くらいもあったようだ! よそ様でも大豊作! やはり今年の異常気象のお蔭かも?



続いて‘プラム’の方は・・・。

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2013年16日15:58

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2013年16日15:58

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2013年16日15:59

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2013年16日15:59

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2013年16日15:59 まだ、完熟していないのは、収穫は‘赤~く’なってから・・・。愉しみは後日!

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プラムは赤くなったものだけ獲って来たので、数は少ないが、結構甘くていける!赤くないのは梅である。

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プラムも梅もどう見ても‘見てくれ’は良くない!商品になりそうなのは高々‘10%’くらい。これじゃあ、梅農家やプラム農家は‘農薬’を撒きたくなるのも頷ける、ということに思えるのだが・・・。梅やプラムにも実際には‘農薬’は撒かれているのだろうか?

画像ー146 020-2梅の葉
こちらが、‘梅の葉’

画像ー146 007-2プラムの葉
こちらが、‘プラムの葉’。‘梅の葉’に比べて、‘細長~い!’まだどちらも‘実が青い’時には、この比較でも区別がつくのかもしれない!?

さて、混乱の解消のために、次のブログを・・・。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/quest
ion_detail/q1011932565

Q:スモモ、プルーン(西洋スモモ)、杏子(アプリコット)、梅、の分類を教えてくだ...
suzuki_koichiroさん

スモモ、プルーン(西洋スモモ)、杏子(アプリコット)、梅、の分類を教えてください。
スモモ、プルーン(西洋スモモ)、杏子(アプリコット)、梅、の分類を教えてください。

英語では、

prune=西洋スモモ、
apricot=アンズ、
plum=スモモ、梅、アンズ、

というようになっているようで、何が近いか遠いか、どれがどれなのか混乱します。
これらの木(果実)がどのように関連しているのか、教えてください。


A:ベストアンサーに選ばれた回答
kira_kira_1998さん

プラム(学名:Prunus/英名:plum)
科 : バラ科 Rosaceae
属 : サクラ属 Prunus
サクラ属を更に細かく分類した中に↓

アンズ/杏/杏子/アプリコット
(学名:Prunus armeniaca/英名:Apricot)
属: サクラ属 Prunus
種: アンズ armeniaca
梅の近縁種であり、容易に交雑する。

(学名:Prunus mume英名:Ume)
属 : サクラ属 Prunus
種 : ウメ P. mume
果実を利用する豊後系ではアンズとの交雑により大型化している。

スモモ(学名:Prunus salicina/英名:Japanese plum)
属 : サクラ属 Prunus
種 : スモモ P.salicina
同じバラ科サクラ属の梅、杏、桃の花粉を利用して人工授粉させることができる。

「plum=スモモ、梅、アンズ」
サクラ属(Prunus:英名:プラム/plum)の中にスモモ、梅、アンズは属しているので
総称としてスモモ、梅、アンズもプラムと呼ばれることがある。

「apricot=アンズ」
アプリコット/apricotはアンズの英名であって分類上の名称ではない。

「prune=西洋スモモ」
プルーン/pruneは西洋スモモのうちの乾果に適した品種群の総称、もしくは果実(乾果)を指す。

情報が色々ごちゃ混ぜになってしまっているのだと。

プラムを更に三つの節に分けて考えると、

1:Prunus節(オールドワールドプラム)
2:Prunocerasus節(ニューワールドプラム)
3:Armeniaca節(アプリコット)


スモモは1、梅とアンズは3に分類されるので、梅とアンズがより近い存在だと思われます。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9
%E3%83%A2%E3%83%A2%E4%BA%9C%E...


あ~ホント難しいですね。素人なのでうまく説明出来なくてスミマセン。
果物屋さんで売っている、デザート用のプラムも様々で・・・↓
http://www.tsuji.ac.jp/hp/seika/prune/prune/france/prune1.htm
http://www.kudamononavi.com/zukan/plum.htm#NO04

回答日時:2007/6/19 07:20:31


来年の収穫はどうなるのだろうか?

(つづく)
[2013/06/19 00:18] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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