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帰らないコール
今からかなり昔、電電公社からNTTに変わった直後の頃(1985年)だったと思われる。民営化されたことからこれまでの事なかれ主義から脱却して兎に角売り上げを上げることに邁進した時代があった。まだ携帯電話やPHSが売り出される前の頃である。公衆電話の売り上げ増に注目したNTTは「帰るコール」と称してキャンペーンを張った。予定より帰宅が遅くなる時には‘まだ帰れない、少し遅くなる。帰る時にはもう一度そろそろ帰るという電話を’と婉曲的表現で‘かえるこーる’と称し、‘帰る’を‘蛙’にひっかけて蛙マスコットを登場させた。これで、なるほどと思わせ売り上げはかなり向上したという。



毎年暮れやお盆時になると高速道路は超満員40~50kmののろのろ渋滞は極く当たり前、新幹線も200%の乗客、飛行機も一か月前には売り切れと日本列島は休みどころではなくなる。それに事故でも起ころうなら被害は通常より大きくなるに違いない。何とかならないのだろうか?

‘帰るコール’があるのだから、‘帰らないコール’があっても良いのではないか?
暮れやお盆に帰省する場合、標準家族つまり夫婦と子供二人が帰省する場合、見栄を張っての新しい洋服なども必要かも知れないし、往復の旅費やこれまた往復のお土産代、それにお年玉やお小遣いを合計すると10万円などできくはずがない。多分平均で20万円位と考えた方がよかろう。





こんなに進化が著しい情報化社会だから‘帰らないコール’への習慣替えがあっても良いのではないか?
年末や正月にテレビ電話や画像通信でお爺ちゃんやお婆ちゃんには孫の生き生きしたリアルタイムの画像を見せればいい。双方向の会話だって今じゃぁ何でもない技術だ。第一上に述べた交通機関や道路が混まないからのんびりと一寸した好きなところへの遠出も可能かもしれない。また、経費の節減になるから以前から買いたいと思っていた買い物も出来るかもしれない。

でも、映像と本物とはやはり違う。孫はやっぱり抱っこしたい。そんな要望もごもっともである。物事は何も‘1’と‘0’で考える必要はない。帰省は二年に一度という習慣にしてしまえば、実際に会う時の喜びは毎年の場合よりも倍増する。電話が普及し始めていつでも家族や友人と話が出来る時代になった時、ふと‘感激’がなくなったな、と感じたことがあった。それに故郷で長居をしているとついついいざこざが起こる。孫だって来てもいいけど早く帰ってくれた方がよいとの感想も聞く。

いわば毎日電話連絡をしていてお互いの様子が判っていれば、何も帰省を行事だと思って無理やりする必要はない。電話はそんな意味では、逆に人間から感激を奪う一つの道具とも言える。便利が必ずしも人間の幸福に直結する訳ではない。

今年も色々な事件が続出し、政治家の資質がこれほど問われた年はなかった。来年は果たしてどんな風が吹くのだろうか?残念ながら今年もやはりジャンボ宝くじはかすりもしなかった。











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[2011/12/31 20:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
旅行・散策(1)渋温泉&地獄谷
2011年12月28日に、長野善光寺・湯田中温泉・渋温泉・地獄谷への旅に老夫婦でに出ることになった。娘夫婦K一家のご招待である。K一家は息子二人の4人で一足早く渋温泉泊まりの黒姫山スキーにと前日夜出発し、渋温泉の旅館で落ち合う段取りである。

こちらは、九州生まれでスキーなど一度も経験もなく、それに年相応に手足も動かなくなっているのでスキーはご遠慮申し上げた。東京駅から新幹線で長野駅へ行き、善光寺さんをお参りして湯田中温泉・渋温泉へのコースである。だが東京駅に行くまでにもう早速失敗をしでかした。自宅は千葉県外房線のローカル駅から太平洋へ向かって約6kmのところにある。自宅からそのローカル駅まではバスはもう15年も前に廃止になっているので車がなければ生活が出来ないのである。

前の晩、寒い所での二泊三日の旅支度に懸命になってコンパクトに纏め上げてバッグに詰め込んだのに、その大切なバッグをこともあろうに車に積み込まなかったのだ。何という失態!駅と自宅は約6kmだから、往復でも20分で済む。ローカル線だから上り電車は30分に一本。自宅へ引き返してみると大切なその荷物は、ちゃんと玄関前に鎮座ましましているではないか!出がけに女房殿が毛糸帽子がないと言いだしたのだ。私はそのバッグを玄関先に置いたまま一旦部屋へ舞い戻ってその帽子探しをし、ようやく見つけて車を早く発進させるよう促した。運転は女房殿しか出来ない。そんな‘不慮の’出来事があったため、ついつい自分のバッグを車に乗せることを忘れてしまっていたのだ。

この事件で、女房殿は不思議にちっとも怒らない。なぜだ!何故だ!お歳をお召しになって‘怒ることなど馬鹿馬鹿しい’とお悟りになられた訳でも何でもない。きっと今後この二泊三日の内にこんな出来事が今度は自分の責任で起こらないとも限らないとそうお思い遊ばされたに違いない。新幹線の予約指定席には10分間の余裕で間に合った。そんな訳で出だしから少々の波乱含みでもあったが、予定通り長野駅に到着した。

私は善光寺さんには仕事の関係上何度もお参りしたことがあるし、どうせ泊まりの出張であったから、朝一番での新幹線に乗って東京へ帰るのなら少々の二日酔いでも間に合うようにと長野での泊まりは駅前のビジネスホテルに決まっていた。そのビジネスホテルも健在である。ただし、長野駅の駅舎が‘仏閣型駅舎’だったのに、新幹線の開通と同時に新しく生まれ変わったという。(http://ja.wikipedia.org/wiki/長野駅

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新幹線開通前までの長野駅(仏閣型駅舎)
http://oniheru.fc2web.com/ekisya/nagano.htm

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nagano1 (1) posted by (C)mobaradesu

現在の長野駅
http://lonelytraveler.cocolog-nifty.com


善光寺さんは、関係者には申し訳ない表現だが、今や信仰の対象と言うより‘観光資源’化されてしまっている。
‘旅行が趣味’とのたまうご仁が沢山おられるが、世界遺跡というとんでもない重要かつ厳かな場所へ詣でてもそこへ行く時に下調べもせず或いはその遺産の重要性も認識せず、ただ‘有名だから’という理由だけで大金と時間を使って訪れる観光客が多い。嘆かわしい次第である。

まだ善光寺さんは世界遺産に登録はされていないが、その運動は続けられている。
http://sekaiisan-zenkoji.com/seturitumokuteki/seturitu.html

そこで、こちらも、その観光客一族ではない証拠として、事前に以下のことを調査した。

① ご本尊:一光三尊阿弥陀如来様
② ご本尊様の由来:インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折  りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像
③ 善光寺伽藍造営時期と名前の由来:皇極天皇三年(644年)に勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を  取って「善光寺」と名付けられた。
④ 現在の伽藍の建立時期:宝永四年(1707年)には現在の本堂が落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整  えられた。
⑤ 年間の参拝者数:年間約600万人。

http://www.zenkoji.jp/

少なくともこれくらいの予備知識は、善光寺さんにお参りする人全員が必要だと思う。

さて、その予備知識のおかげで何が判ったか?

① ご本尊様が、阿弥陀如来様であるから、浄土宗や浄土真宗のご本尊様と同じ。したがって、拝み文句は、「な  むあみだぶつ」であって、「なむみょうほうれんげきょう」ではない。
② 日本最古の仏像であるから、やはりインドで造られた。それなら日本で造られた最古の仏像は?どうやら飛鳥  寺の大仏。601年に造られたらしいので、どちらが日本最古の仏像か?或いはこれら以外に年代測定が出来  ない仏像があるかも?
③ 本田義光(よしみつ)の功績を讃えて、とは、一体何故?物部氏と蘇我氏の対立と関係がありそう。
④ 当時の建築技術の素晴らしさが眼前に。でも何故何度も災害に遭ったのか?
⑤ 伊勢神宮が年間860万人を超えたことでニュースになった位だから、600万人は凄い!

まだまだ、‘お戒壇巡り’や‘牛に引かれて善光寺参り’って何?等々調べること沢山在り。
そんな訳で、一寸残念だったのは、肝心のその‘お戒壇巡り’が、暮れの28日だったこともあってお正月の準備清掃のため入場不可だったこと。このお戒壇巡りには深い意味と立派なご利益があるというのに。

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画像 002 posted by (C)mobaradesu

そんな訳で、この写真の本堂には、①の一光三尊阿弥陀如来様が安置されており、7年に一度のご開帳という。

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画像 005 posted by (C)mobaradesu

「このびんずる(賓頭廬)尊者様は、お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力(超能力に似た力)が大変強い方でした。俗に「撫仏」といわれ、病人が自らの患部と同じところを触れることでその神通力にあやかり治していただくという信仰があります」という説明書きがあります。私も尊者様のおつむに触れさせて頂きバッグ忘れのリカバリーショットを・・・。





さて、お昼もとっくに過ぎたので、信州戸隠そばを頂いて湯田中温泉へと特急に乗った。暮れの28日の午後というのに電車はさほど混んでもなく無事に湯田中駅へ到着。本日娘夫婦のK家と合流する渋温泉の旅館からの出迎えの車に乗り込んだ。2,3日前に降った雪が5cmほど積もった道を運転慣れした番頭さんがくねくねと走る。約10分でご到着だ。

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画像 013 posted by (C)mobaradesu

旅館の窓からは、湯けむりと温泉まんじゅうの看板が見える。
早速その旅館の内湯に浸かったが、これまた最高!渋温泉には大グランドホテルはない。我々が泊めて頂いた旅館も部屋数が12とかで、この位の規模がのんびりするには丁度良い。
娘夫婦K一家の常宿とかで、女将さんも従業員も皆愛想もいいしテキパキと仕事をする。そうこうする間にK一家様のご到着である。孫達二人は、1日に70本近くも滑ったというから驚きである。上は中学2年生、下は小学校6年生で、どちらも野球に精進しているから背丈も伸びてきてとうとう我々老夫婦は追い抜かれたしまっている。

夕食はこれまたご馳走ばかりで久し振りに腹八分を通り越してしまった。明日はまたK一家は早くからスキーだというので早めに就寝ということになった。我々老夫婦は、明日はかの有名な地獄谷のお猿さんの温泉浴を見学するのと、渋温泉の外湯巡りが待っている。

さて、今朝になっても雪は降らない。K一家は年に一度のスキーを思う存分にということで早朝に黒姫へ出かけて行った。残った我々老夫婦は、先ずは渋温泉街の下見。夜の遅い温泉街は朝10時になってもまだ何処も店を開けていない。温かい温泉まんじゅうを食べたいと思ったが、薄戸のあいた店では冷たいのしかないという。これには一寸驚いた。そうかもしれぬ。買い手のないまんじゅうをそう長くふかしてばかりはおれないのだ。

地獄谷のお猿さん温泉浴を見学すると言ってもそう簡単ではない。
渋温泉から約2.5km離れた‘特別区’への道は、雪が10cm以上積もった崖っぷちの多い坂道だから、素人の運転は禁止されているからプロの大型タクシーということになっている。歩きは認められているようである。しかし、個人責任で処理することになっているという。日本人はこの習慣に慣れていないのでそんな無茶は誰もしない。歩きの人に何人か出会ったが、皆外人ばかり。

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期待通りお猿さんが温泉入っている。世界中でここだけという。ただ吃驚したことは、人間様の通りを猿が一緒に歩いている。これは事前に調査したがこの情報はなかった。でもこれは観光客が心配することではなかった。お猿さんの方がちゃんと知っていて人間に危害を加えないのだ。旅館の女将の話によると、きちんと餌付けがなされているので心配はいらないとのことであったが、歩道まで出て歩くというところまでは教えては呉れなかった。

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この地獄谷温泉のお猿さん浴場まで大型タクシーの停留場から徒歩で約15分。その途中にあるレストランの屋根には巨大なツララが・・。空調機の大きさと比較すればその大きさが判る。

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地獄谷野猿公苑:http://www.jigokudani-yaenkoen.co.jp/

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海外でもこの地獄谷のお猿さん温泉浴の話は夙に有名らしく、我々が滞在した約2時間の時間帯でも35%位は外人さんだった。

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お猿さんにも学習能力があって、生まれてそんなに月日が経っていないと思われる小猿さんだってちゃんとカメラ目線に耐えている。次の写真がそうだ。

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でも何だか余り訓練され過ぎているお猿さんに会うのも一寸淋しい気がした。だって我々はお猿さんが温泉の中でふざけ回っているのを見たかったのに、何とも温泉の中だけは‘誠にお利口さん’なのである。ここまで訓練が行き届いていると、もう‘ロボット’である。褒め言葉で言えば、‘上手い役者’である。勿論、よくよく教えが厳しいと見えて、誰一人(?)餌をねだることもない。餌を与えないで!とも、目線を合わせないで!とも、注意書きにはある。
何となく、人間が見に行ったのではなく、‘見せられに行った’という不思議な感じがした。
当のお猿さん達は一体どう思っているのだろうか?多分やはり‘役者’の気持ちなのかも知れない。結局こうやっておれば、飯が食えると認識しているのだろうか?

結局最後は、ボス猿と思われる大きな図体の猿が駐車場まで来て見送ってくれた。これもお猿さんの演技だとすれば、これはもう観光と言う商売のネタに過ぎない。お互い生きていくためには我慢、我慢!

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この猿はこの役目をすることに決められているのだろうか?気に入らないかもしれないが、この地獄谷全体のお猿さん達のために頑張って下さい!今後ともよろしくお願い致します。ただし、もう少し‘笑って!’商売には、愛嬌が肝心!

地獄谷お猿さん温泉に別れを告げて渋温泉に戻った。まだ夕食には時間があるので渋温泉の最大の特徴である‘外湯巡り’をすることにした。
部屋に戻ると外湯巡りの‘鍵’が置いてある。9か所ある外湯は、この鍵一つで何処のにでも入ることが出来る仕組みになっている。上手い仕掛けだ。

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画像 014 posted by (C)mobaradesu

信州渋温泉:http://www.shibuonsen.net/

天の邪鬼の精神はこの歳になっても抜けない。九番目から入ることに決めた。かなり熱い。単純な造りで洗い場もないし、客も大勢居たから早々に逃げ出すことにした。8番目は清掃中という。7番、6番に入って宿に戻った。やはりのんびり出来るのは旅館の湯だ。今度は誰もいない旅館の大(中?)浴場で時間をかけてゆっくりと湯に入り直した。

部屋の床の間に掛け軸が掛かっている。

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画像 015 posted by (C)mobaradesu

「花無心招蝶」と草書体で書かれていて「花は無心にして蝶を招く」と読むのだと女将さんが教えてくれた。作者は、藤沢赤心さんといいこの辺では有名な書家らしい。日本人に生まれながら、日本人が書いた掛け軸の字も読めないようでは情けない。

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画像 129 posted by (C)mobaradesu

大盤振る舞いの旅館の夕食を皆でわいわい言いながら済ませた後、雪のちらつき始めた渋温泉街を散策することにした。アルコールの御蔭で寒さは感じない。無料の卓球場もあれば、昔懐かしい射的屋も店を構えている。

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雪のちらつく温泉街での夜の散策、あぁ、もうそろそろ消えていく風景かも知れない。

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次の写真は、夕食後2時間も経っていないのに‘ラーメン’を食べようかと相談をしているところ!これじゃあ、孫達も大きく伸びるはず。

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画像 178 posted by (C)mobaradesu

今回の温泉行の結論はこうだ。

観光地や遊園地の持続発展、大成功の根本原理・戦略に関して言えば、リピーターの数とリピートの回数を増やす‘仕組み’がその計画の中にあるかどうかでその善し悪しが決まる。
よく例に出されるのが、ディズニーランドでありラスベガスである。何故リピーターが増えるのか?何故リピート回数が増えるのか?その最大の理由は、その‘規模の大きさ’にある。勿論大きさと同時に‘豪華’でなければならぬ。

では、豪華で大規模であることが何故大勢の客を呼ぶことが出来何度も同じ場所へお客に足を運ばせるのか?
答えは明快である。豪華で大規模であれば、当然ニュースバリューがある。マスコミが宣伝費の半分以上を持ってくれるからである。頼みもしないのに勝手に宣伝してくれるのだ。それは、つまり豪華で規模の大きい○○ランドを紹介することによって一般人が見てくれる。見てくれればそのマスコミにスポンサーがつく。だから、マスコミは、○○ランドから一切お金を貰わずに食って行ける。一方、マスコミが報道した内容を見た一般人は、どうしてもそこへ行きたくなる。それが人情というもので、自然の動きである。





では、もう一つ、何故一度言った人間が何度も行きたがるのか?これも答えは簡単である。規模が大きいから一度に見きれない、一度に体験出来ないから、帰る時点でもう既に見ていないところをもう一度来て見てみようと決断しているのである。こうだからリピート数が増えない筈がない。

これが‘からくり’である。さて、それではどの程度の豪華さとどの程度の規模があれば大成功を勝ち取ることが出来るのか?これを考える場合に見落としてはならぬ重要事項は、一つの催し物を決して長期間行ってはならないという原則を忘れてはならない。そのことは、この成功の‘原理・原則’が教えて呉れている。人間は同じ経験を余り何度もしたくないからだ。少数のプロを除いては。一般人は‘飽きる’という性格を持っている。しかし、プロは同じことを何度繰り返しても飽きない。飽きないどころかプロは‘その奥行き’を深めることが出来る。逆に同じことを繰り返しても飽きない奴、これがプロであるとも言える。

これらの原理・原則は、誰しも経験しているのに、さて自分が経営をする際には上手く出来ない。これも人情のなせる業である。丁度、上手な字を見て上手い、凄いということは判っても自分では書けないと同じことのように思える。そこを上手く乗り越える術、これが訓練である。頭では理解出来ていても実行は難しい。

経営なんて誰にでも出来る訳ではない。訓練と経験と決断、この繰り返し、積み上げである。

今回の温泉行の結論、これは上記の結論とは違う‘新しい発見’をした。何も豪華で大規模ばかりがリピーターとリピート数を増やす訳ではない。こじんまりとしてはいるが、本当に心を癒してくれるそんな居場所。
こんなに嬉しい温泉旅行は72年間初めてであった。K一家に大いに感謝!これが結論である。
















[2011/12/30 11:05] | 旅行・散策 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
一般人の電車の乗り方(その3)
実質的には余り迷惑にはならないし、目をつぶったり目線をそらせば済むことであるが、ただ見てしまうと‘腹が立つ’行為が電車の中でこのところ頻繁に行われていて、いわば一種の‘文化’になったのでなないかと錯覚しそうな行為がある。

電車の中での‘化粧’である。
恐れ入った行為で、傍若無人を地で行く。何故こんな破廉恥な行為を平然と出来るのであろうか?
1分以内で、ちょっと‘崩れ’を直す程度なら、却って奥ゆかしくていい‘光景’でもある。



測った訳ではないが、10分も15分も掛けている連中が多い。大体化粧前(ビフォア)より化粧後(アフター)の方が‘醜く’なっている。そもそもこの行為をする連中は、ビフォアでもほとんど美人はいない。アフターでなお悪くするのであるから、‘手間賃’と‘化粧品代’が無駄である。化粧品メーカーの売り上げに寄与しているので、多少の経済効果をもたらしているから社会経済にとっては少しの価値がある。メリットと言えばたったそれだけである。





特に女性の‘美しさ’は、内面つまり心の美しさが表に出ると言うから、大衆の面前で堂々と化粧をする精神・心は、‘化粧’の意味をしっかりと把握・理解していないことになる。
‘化粧’を辞典で引いてみると、第一番目に「紅・白粉(おしろい)などをつけて顔をよそおい飾ること。美しく見えるよう、表面を磨いたり飾ったりすること。」とある。

つまり、化粧をすることとは、第一義的には、‘美しく’なるように‘化ける’のある。
ところが、電車を化粧室としか解釈出来ない連中は、‘醜く’なるように‘化けている’訳である。しかも、‘化ける’場合には、‘元’が判っては拙かろう。

そんな訳で、何とかならないかと何時も思うが、出張っていって彼女達に面と向かって説得する勇気はまだ持ち合わせていない。









[2011/12/28 00:38] | 学習と文化 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
一般人の電車の乗り方(その2)
電車での迷惑三つ。① 座席に座っていて足を組む奴。② 座席に座っていて足を投げ出す奴。③ 荷物を‘直に’床に置くやつ。許せない!床に直に尻を着けて座る馬鹿学生は最近急に減ってはきたがこれは何故?いいじゃあないか、自分が汚れるだけだからというご仁もおられるが、いや、そうではない!そのまま座席に座られたら‘被害は伝染する’。‘尻着け座り’は言語道断だから議論する価値もない!

迷惑三つは、ほとんどがいわゆる‘若者’である。偶にはあなた何年生きて来たの?と思わず言いたくなる初老の人も見かけることがある。何故三つの行為は繰り返されるのか?きっと‘自分が楽だから’なのであろうと思われる。良くしたもので、誰かが楽をすれば誰かが苦しむ。繁栄は犠牲の上に・・の議論をする程深刻なことでもあるまいが・・・。自分の行為が自分の範疇だけで終わることは滅多にないから、社会生活を送る以上重々注意が必要だと今更ながら電車に乗る度に考えさせられる。

電車会社も公共の乗り物である以上、少しでも皆の‘しあわせ’のためにアイディアをもっと出すべきである。禁煙や電話の注意はしても、最も大事な‘乗り方’については、どうも無関心のようで大いに気になる。
シルバーシート(プライオリティシート)については以前に書かせて貰ったが、これは即刻廃止すべきで、そんな特別席でなくても不自由な人には‘どうぞ!’といつでも席を譲る道徳を乗客に訴える義務がある。今のままの特別席では若い人はこう考える。「不自由な人は特別席へどうぞ!と電車会社やバス会社が言っているではないか。普通席では、そんな面倒なことやる必要はない筈だ!」

つまり、今のままの特別席状態を続けると、当初の善導の意味が伝わらず、却って‘逆教育’の危険性を孕んでいることになりはしないか?という訳である。この解決策は、上述通り即刻特別席を廃止することで解決出来る。





では、今回問題にしている三迷惑の追放は如何になされるべきであろうか?
ロマンスシートの電車ではなかなか難しいかもしれないが、座席が横並びの電車内ではその効果は抜群のように思える。先ず車内の通路に座席の直下から車内の中心へ約30cmの幅で太く白線を引く。そして、車内放送で車掌さんがこう宣うのだ。

「いつもご利用有難うございます。車内の混雑解消のためこの度皆様のご了解を得て新しいサービスを開始することに致しましたので皆様のご協力をお願い致します。もう皆様方お気づきと存じますが、座席の下に白線を設けました。この白線は何かと申しますと座席にお座りのお客様の履物領域線でございます。お座りのお客様はこの領域から1cmたりとも履物を出してはなりません。お立ちのお客様のご迷惑になるからです。もしも領域線を越えておれば、どうぞお立ちのお客様はその人の履物を思う存分踏みつけてやって下さい!領域線をはみ出して迷惑になる荷物も余り壊れない程度に踏んづけてやって下さい。責任は我々電車会社が持たせて頂きますのでご安心下さい。どうかよろしくお願い致します。」

座っているお客は、足も荷物も‘踏みつけられる危険性’がある。踏みつけるお客は、踏みつけられたお客から‘いちゃもんをつけられる危険性’がある。電車会社は、お客同士で争いになった場合、‘お客のどちらからも下手をすれば訴えられる危険性’がある。

これ、現代版‘三方一両損、大岡裁き’ではなかろうか?



現代人は余りにも他人との諍いや危険性のあることとの関わりを避けようとする傾向が強くなり過ぎている。
自分に痛みを感じなくては、他人の痛みは判らない。
だから、車内で或いは路上で起こった事件の犯人に向かうことはしなくてもよいが、被害者を助けようともしない。それが、住みよい社会を作る邪魔をしているのだ。
近所の子供が悪さをしていても誰も怒ったり諭したりしないではないか!

電車の車内の一本の白線が、少しでもこの役目をする切っ掛けになれば幸いである。








[2011/12/25 12:05] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
一般人の電車の乗り方(その1)
電車は公共の乗り物であるから個々人が勝手な乗り方をされては困る。前に「学割運賃の学生の電車の乗り方」について書かせて貰ったが、今回は一般人の電車の乗り方についての私の意見である。
一番の不愉快は、‘席を譲らない’事に発する問題である。実はこの不愉快は、逆に最も嬉しいそしてみんなの気持ちを幸せにする‘機能’も持ち合わせている。‘やり方次第’で、こうもプラスとマイナスがはっきりする事例はそんなにはない。これは例をあげる必要もないほど皆が経験していることである。





次に不愉快なことは、‘網棚に荷物を置く’ことに関する事態である。なんでもないとお考えの方も多いようであるのでこれまでそんなに問題視もされなかったかもしれないが・・・。
網棚の使い方の‘鉄則’は、二つである。① 座席に座っている人は‘原則として’(どこやらの政党みたい!)使うべからず。② 荷物を置く場合には、その荷物の最も‘薄い幅’を正面にして倒してはいけない、の二つである。

①の解説:‘原則として’の意味は、膝に抱えきれない荷物もない事はないからである。もともと電車には皆何らかの荷物を持って乗る。手ぶらは少ないのである。同じ料金で乗っているくせに、座席には座るは‘荷物席’も占領するはでは許されまい。
②の解説: ここで最も言いたかったのはこのことである。上の文語ではお判り頂けないかも知れないが、要するに網棚での自分の荷物が占領する面積を最も小さくせよ!ということである。朝の通勤電車などでよく見かける風景であるが、もう少し皆が譲り合って網棚に荷物を置けば‘手持ち’の客も楽になるし、第一車内の混み合い方が減ろうというものである。

何だか、一歩でも家を出ると‘皆が敵’と皆思い込んでいる様な感じさえあるのは、学校教育のなせる業なのか家庭や社会全体の風習なのか?誰かの科白のように、‘人類皆兄弟’の日はいつ頃来るのだろうか?











[2011/12/23 10:54] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
地球危機を救う方法(その2:金融危機はこうして乗り越えろ!)
金融危機は何故起こるのだろうか?その原因は? Wikipedia に掲載されている説明は以下の通りである。

主に信用創造の逆回転である信用収縮によって金融危機へと至ることになる。
銀行による信用創造が活発に行なわれるようになると、預金などの信用貨幣は急速に増大した。信用創造によって生まれた信用貨幣は、誰かが銀行から借金をすることで生まれる。そして信用貨幣の価値は本源的には借手である「誰か」の債務返済能力が保証している。そのため、借手の返済能力が低下すると信用貨幣はその価値が危ぶまれることとなる。
信用創造によって経済全体の貨幣は現金よりも多くなっているため、そもそも全ての預金を現金と交換することは出来ない。しかしながら銀行は通常、信用貨幣を現金貨幣に交換することを制限していないため、銀行への貸手(預金者)は、信用貨幣の価値に不信感を抱いた場合、現金貨幣へ交換する取引(引き出し)を行なうことになる。通常時、預金の引き出しは統計的に一定量を超えることはないため、銀行経営は成り立っているが、預金債権者が一定量をこえて引き出しに殺到した場合は、これに応じることが出来なくなる。これが取り付け騒ぎである。
こうして銀行による信用構造が崩壊するなか、銀行の貸し出し先は返済を求められる。返済によって経済世界から信用貨幣が減少する。結果として経済活動は低調になる。いくつかの借手はこれを返済することが困難と見こまれ、信用貨幣の一部は不良債権化する。ここで借手が資金繰りのショートを起こして倒産すると、債権放棄(借手に対する贈与)を余儀なくされた銀行は危機に陥る。
このような恐慌状態に陥る可能性がある状態を、金融危機と呼ぶ。例えば銀行が多額の不良債権を抱えた場合は、上述の恐慌状態に陥る危険が高まっているため、金融危機が起きていると言える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/金融危機



ど素人の我々に言わせれば、簡単に言うと、銀行の預金者が‘社会不安’を感じて、銀行に預金を下ろしに行ったところ預金者が殺到して銀行にそれだけの現金が無かったために銀行が倒産を余儀なくされ信用貨幣の価値が低下し金融危機状態となる、ということのようだ。

それなら政府がそうならないようにすれば良い。
つまり預金者が銀行に殺到しないようにすることだ。
預金者が銀行に殺到するのは、自分が預けたお金が返ってこないと思うからだ。
この時政府が預金者にこう言ってやれば良い。「皆さん、政府には有り余るほどのお金があります。どうか安心して下さい。銀行の預金がなくなることはありませんから、今預金を下ろさないで下さい」と。
こんな声明を出すだけでは誰も信用しないから、政府は実際に国民にお金を配れば良い。
額が少なければ信用されないから、例えば、国民一人当たり年間100万円を即出すことを約束すれば良い。
そして、直ちに実行するのだ!
でもそんな大金どうやって工面するのかって?
簡単、簡単!政府が日銀に一万円札を印刷させそれを国民に配れば良い。これが‘政府紙幣’である。

その額は、計算を簡単にするために、日本の人口を1億人とすれば、
  100万円/人・年 × 1億人 = 100兆円/年
年間100兆円分だけ一万円札を印刷して国民に配れば、多分‘金融危機’は起こらないに違いない。
そして、政府は国民に向かって「これからず~と先、10年、20年先まで一人年間100万円を配り続けますよ。だから安心して下さい」と追い討ちをかけると金融危機・経済危機は確実に回避される。





さて、それでは何故そんなことが出来るのか?

このやり方が、合法的ではないということであれば、早急に法律を改正して合法的にすれば良い。
世界の歴史的背景を探ってみるとこんな例はいくつもある。第一次大戦の時も第二次大戦の時も戦争終結前後には負け組みは大体この方法を採ったという。日本だってその経験がある。関東軍が朝鮮銀行に通貨を発行させて軍資金を賄っていたという話は余りにも有名な話だ。アメリカが何故これだけの軍事費を提供出来るのか、それはアメリカの国家予算とは別に本物のドル紙幣をこっそり印刷してこれを軍事費の隠れ予算としているからだと言う見方もある。

戦争終盤に‘負け組み’がこ

れをやると全て失敗する。第一次大戦のドイツがいい例だ。
何故負け組みがやると失敗するのだろうか?
答えは極めて簡単だ。
紙幣が兌換の場合は‘金’という担保がついているが、兌換でない場合の担保は何か?それは発行した国の‘国力’に他ならない。戦争負け組みには当然‘国力が無い’事が‘バレバレ’であるから、本物の紙幣をいくら印刷してもその紙幣に価値が無いことが判っているから失敗するのだ。



経済大国は多分‘地下資源’か‘技術資源’を持っている。不幸にして、‘日本の地下には資源が無い’。だが国民が一生懸命苦労して研鑽を積んだから‘技術’という資源を確保する事が出来た。
ただし、日本の現状は経済的に‘怪しくなってきた’ことは日本人は皆感じている。何故そうなったのか?答えは簡単だ。自民党も公明党もではあったが、それに輪を掛けて今の政権政党の民主党には‘国民を安心させる施策’が皆無に等しい」のである。

国民は将来が不安だからと言う理由でお金はあるのに‘消費しない’。メーカーは必死になって利益を上げないと会社が倒産すると言うので、買ってもらえる商品を作る。競争会社より良くて安いものをと大量生産方式を取って安い商品を‘大量に作る’から商品が溢れかえる。競争会社も同じ作戦を取るから、社会には良くて安いものが充満する。その結果は、デフレと円高であり、メーカーの利益は出ず輸出は伸び悩む。

だから、だから今こそ政府は、国民に年間一人100万円づつ配るのだ。それを20年間約束するのだ。
そうすれば、誰だって貯蓄なんてする奴はいない!購買力は上がる。インフレになれば行け行けドンドンだ。
世界に向かっては、「日本の地下を掘ったら、一万円札が100兆円ほど出て来ました。どうやら埋蔵量は20年間分くらいありそうで・・・」と言ってやれば良い。

日本の地下資源は技術だから、その本まものの評価は世界中が認めているから‘担保’になる。一万円の価値が世界中から見放される事態は起こりようが無い。上手くやれば、むしろ世界中から絶賛される。ギリシャ援助を直ぐにやれば良い。円をつぎ込むのだ!

こんなこと本当に出来たら・・・。

因みに、一万円の製造コストは22円だというから、100兆円作製の費用は以下のようになる。
    
    100兆円は、一万円札が100億枚(100兆÷1万=100億)だから、

    22円/枚 × 100億枚 = 2,200億円 (0.22%)

    意外に安い! ‘政府紙幣の発行’さっさとやろうよ!








[2011/12/20 20:08] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘5分前’と‘テイコク’ホテル
私の友人A君が経営をしている会社を訪問した時のことである。
会社に到着したら受付嬢が「お待ち申し上げておりました」という。「いらっしゃいませ」だけよりも‘お越し頂くのは存じ上げておりました’の気持ちが入っているだけに、何となくその会社への‘好感度’が上がるというものだ。
応接室まで案内されたが、廊下にはおよそ20m置きに‘標語 or 注意書き’みたいなものが眼につき易い所に貼ってある。そこにはただ‘5分前’と何とも謎めいたことが書かれている。

私は、社長のA君とは挨拶もそこそこに聞いてみた。「廊下の‘標語’みたいなやつ、あれ一体何?」
「おお気づいたか。あれは社員から‘標語’を毎年一回募集しているが、今年の‘最優秀作品’なんだ」という。
彼の説明はこうだった。

「会社というものは個人の集合体で、その個人個人が言わば他人とは違う‘特別任務’をこなしているのだから、‘会議’は会社組織にとっては最重要行為の一つだ。その会議をきちんと有効活用出来るかどうか、それがその会社の命運を担っている。」「なるほど、な~る程」「そこでだ、会議有効活用の第一歩は‘定刻開始’という訳だ。そのためには、全員が、5分前には席に着いていること。それがあの標語の意味であり、素晴らしい表現だとは思わないか?」





「経営のトップは、何も素晴らしい事業計画を自ら常に創り出さなければならないということではない。社員にその環境を与えること、それも重要なテーマの一つだ。」彼はそう付け加えることを忘れなかった。

会社経営の第一歩が、実は会議の有効活用にあるなんて、気付かなかった。
その緊張感が会社の経営方針にも貫かれているであろうし、事業計画にも反映されていると見えて、彼の会社の経常利益の伸び率はこの数年6~7%だという。
5分前の実行のおかげで、会議はほとんど予定時間内に終わるという。
会議が長引けば、全員のその後の予定が狂ってしまうことになり、延いては納期の遅れに繋がらないともか限らない。そしてそれが会社の信用の善し悪しにも繋がることにもなろう。



そう言われれば、時刻については思い出すことがある。
帝国ホテルでの出来事である。その日は、或る有名な会社の社長が書いた経営に関する本が上梓されその出版記念パーティが行われることになって私も出席することとなった。
開始定刻になったが、まだ出席予定の人数には達していない様子ではあったが、司会を担当したその会社の総務部長さんが、定刻通り始めると言う。

image_main帝国ホテル
image_main帝国ホテル posted by (C)mobaradesu
http://www.imperialhotel.co.jp/j/

その口切りが何とも素晴らしかった。
「ここのホテルは、‘テイコク’ホテルだから、まだお見えになっておられない方々には恐縮ですが、このパーティも定刻に始めねばなりません!」拍手だけでなく‘喝采’まで起こった。当の社長さんもニコニコ顔である。
多分普段からこの会社では、‘時刻’ということに関して、A君の会社と同様厳しい管理が行われているに違いない。駄洒落もこんな風に上品に使われることもある。

日本の新幹線や通常の電車にしても、時刻の正確さは世界一というのは常識である。
どうやら、日本人の‘時刻’や‘時間’に関する‘慣性’が技術立国たる所以であるような気がしてきた。









[2011/12/18 10:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
学割運賃学生の電車の乗り方
通学学生は、一般的には誰でも‘学割運賃’である。何故‘学割運賃’なのか?それは、まだ稼ぎのない学生とその学生の保護者がサラリーマンであれば二十歳前の学生の親であるから、会社においてもまだそれ程高い地位にもいないだろうから収入もそんなに多くはないし、出費も一番多い時期のはずである。だったら、将来の国を背負って立つであろう学生には期待を込めて負担の掛からないようにしてあげようという交通機関のというより国民全体の‘支援’の意思表示だろうと見た方がいい。

学生諸君はこんな経緯があることをもっときちんと自覚すべきである。
最近の通勤・通学交通機関での高校生の‘乗り方’を眺めてみると、「世の中で苦労をして汗水流しながらこの国の繁栄を支えている人達がおられるからこそ自分達学生は安い学割運賃で乗車出来るのだ」と自覚している高校生が何%ぐらいいるのだろうか?多分限りなく0%に近いと思われる。





自分の親或いはそれ以上のこれまで国家・社会を支えてきた‘ご老体’が、そばに立っていても席を譲ろうとはしない。それどころか、席が空くと我先にと空いた席へまっしぐらの情景を経験された方は多いと思う。
その子達の親は、通っている学校の先生達はその子達にどんな道徳教育をしているのだろうか?
座席に座っている時にも大きな通学鞄や部活の道具を通路に直に置くし、足は丸で‘とうせんぼ’でもしているかの様に通路に投げ出したまま居眠りをしている。
教育をしない人達にとって、‘自業自得’と言えばそれまでだが、何とも嫌な光景である。

「学生は、余程の理由のない限り、どんなに空いていても通学の往復時には‘絶対に’座席に腰掛けてはならない」これが私の主張である。疲れていた時も?などという疑問を持つ過保護親は、自分の子供の教育のためにそんな発言をしてはならない。過保護が‘ひ弱な子供’を作っていることは知りながら、自分の子供だけは、などとの戯言は社会が認めてはならない!









[2011/12/16 10:10] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
シルバーシート(プライオリティシート)の功罪
昔は、‘シルバーシート’と言っていたが、何時頃からそうなったかは知らないが、今は‘プライオリティシート’と言うらしい。いわゆる電車やバスの中の特別シートのことである。設置された当時は、これこそ老人や妊婦さんや身体の不自由な人あるいは乳幼児連れの人に対する優しさ行為の象徴としてもて囃されたものである。
しかし、皆が皆賛成ではないことが時間が経つにつれ段々判ってきた。大分手前の駅で乗った人が、何故それ程よぼついてもいない老人に席を譲らねばならないの?といった一種の‘不満’が表に出始めたのだ。
そのプライオリティシートのに席をとった乗客の場合、大体‘居眠り’である。気がつかない振りをする。

優先席
http://www.jreast.co.jp/equipment/equipment_1/car/index.html


また、もう一つの弊害は、そのプライオリティシート以外のシートに座っている乗客が、必要としている老人等に席を譲らないのである。乗客皆に、そんな人はプライオリティーシートの方へ行くべきだというという‘席を譲らない口実’を与えてしまった。
今や、残念なことに、そのプライオリティーシートでもそれ以外でも老人や席を必要としている人達にに席を譲るのは、十分に座る資格のある‘老人のみ’になってしまった。何とも情けない‘福祉国家’であろうか!





今や、鉄道会社やバス会社は、一刻も早くプライオリティーシートを廃止すべきである。
‘弊社では、プライオリティーシートをこの度廃止することにしました。どうかどの席でもお

座りの方は、席を必要とされる方かもしれないと思われたら、是非恥ずかしがらずに席をお譲り下さい’とアナンウスを何度も繰り返しながら・・・。

自主的でない行動は、人々に‘感動’を与えることは出来ないのだ。
小学生の時からこのことを教え込むことこそ、福祉国家・福祉社会への第一歩である。









[2011/12/15 23:37] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
おかかえ医者の苦悩
毎年のことであるが、今年も忘年会の季節がやってきて今や真っ盛り。
こんな時いつも思い出す話がある。
私の友人の祖父に当たる方が、これまた大変豪快な御仁で、大会社の会長をされていた時のこと。
大会社の社長・会長となると、民間の会社では並みの忙しさではないと言う。普段いつものスケジュールが無茶苦茶であるから、健康管理が一番の問題だと言う。
その会社もご自分が創業者であったことから、公務員と違って代わりがいない。重要であればどんな会合にも自ら出席される。したがって、当然夜のご帰還がいつも遅い。





ご自分にも自覚はあって、それで‘おかかえ医者’を雇っておられた。
忘年会のシーズンになるといつもその‘おかかえ医者’に言っておられたそうだ。
「あんたは、私にもう少しアルコールは控えめに、睡眠を十分に取るようにと仰るが、私は宿命上、アルコールを減らすことは出来んし、睡眠を十分にとっておる暇は無いンじゃ。わしの状況はわかっとるじゃろが。あんたが言っておることはわしのカミサンが言っておることと同じじゃ。それしか言わんのならあんたはいらん。アルコールをこれまで通り飲んで、睡眠が足りなくても、わしが健康で過ごせる方法を考え出すのが、医者のあんたの役目ゾ!」

まあまあごもっともなご意見だけど、そのかかりつけのお医者さんは、いつも返事に窮しておられたそうだ。
ただ、どんな処方箋・行動規制を作られたか、その会長さんは、昨年の夏93歳まで元気で頑張っておられ現役のままお亡くなりになったそうだ。

私も出来たらそのお医者の先生に処方箋を書いて貰いたい。
明日もまた不本意ではあるが、今年7度目の忘年会が待っている。











[2011/12/13 12:33] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘横綱不在’と‘牛と白鳥’
私の友人に‘駄洒落の天才’がいる。
彼は情報関連の或る会社を経営しており、私がたまたま近くへ用事があったため、その用事を出来るだけ早く切り上げて彼の会社を訪問することにした。
相変わらずの笑顔で迎え入れて呉れたが、社長室に‘奇妙な’標語が掛かっている。
「横綱不在」‘何これっ!?’の風景である。彼は相撲が大好きで、特に‘千代の富士’の熱狂的ファンである。
勿論社長室には今も千代の富士の土俵入りの写真額が掲げられている。

千代の富士
1263183473.jpg sponyu.blog99.fc2.com


私は聞いてみた。「何これっ!? 今の大相撲に日本人の横綱がいないってこと?」

「いやいや、そうとは違う」
「じゃあ、何?」
「これ実は、この社長室‘禁煙’ってこと」
「何がぁ~・・・」
「英語だ、英語!‘横綱不在’を英語で言えば?」
「判んねえ~」
「‘横綱不在’は、‘No sumou king’じゃあないか!」
「なるほど!、No smoking! ね 」
いやはや参った。‘禁煙’の日本語訳が、「横綱不在」とは!



今度は、‘会議室で会社の概要を聞かせる’という。
会議室へ入った途端、またここにも巨大な‘標語’が掲げられている。
これもまた‘判じ物’だ。
「牛と白鳥」という標語があって、牛と白鳥の写真入りである。

108牛
108牛 posted by (C)mobaradesu
108.jpg aso-milk.jp


白鳥
06_hakuchou_2.jpg hananusubito.blog13.fc2.com


「また、何これっ!?」
「まだ判らんのか?アナロジー能力不足だよ!」
「まてよ、待てよ!」
「おい、早くしろ!」
「ナーる程、わかった判った!‘も~スワン’だろう!?」
「じょう~でき!」

こんな訳で、彼は‘禁煙’とは言わずに婉曲的表現で、タバコ拒否を告げているのだ。
これには、禁

煙と言われて不機嫌な顔をする人も、笑いながら納得するそうだ。
これも彼の‘駄洒落精神面目躍如’と言えそうだ。

この標語ばかりが気になって、会議室で聞いた会社概要は、すっかり忘れてしまった。










[2011/12/12 11:40] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
地球の危機を救う方法(その1:食糧危機からの脱出!)
地球の危機は多方面から迫って来ている。先ず一番深刻なのは人口増加による食糧危機。次にエネルギーの枯渇、そして温暖化。経済危機も金融危機も戦争の危機もあるが、これらは何とか各国の政府が力を合わせれば解決できるかも知れない。人口増加とそれに伴う食糧危機は、各国の協力があってもなかなか回避できない深刻な問題である。ここまでは、これまでに問題化されているからご承知の話。

さて、徐に食糧危機を救う奇抜なアイディアは無いかと考えて見た。
食物のDNAを‘さわる’遺伝子組み換え食品の有害性が問題視されている時期に、誠に穏やかではない話題の提供は拙いのかもしれないが、ブレーンストーミングの場合の珍アイディア(でも無いかもしれない)として提案したい。
このアイディアが認められて実用化されれば、世界の食糧危機は一挙に(?)解決、どうでしょうか?





今の食料の生産高が、生産量はそのままで、‘相対的に’約8倍になる方法。
実は、消費量を1/8に落とせば、生産高が相対的に8倍になるという方法。
1/8に落とす方法は、人間が1/8しか消費しないやり方。

その方法とは、DNAを触って人間の身長を1/2にすることだ。
DNAを触って人間の身長を延び縮みさせる事ができるかどうかも知識不足で不明であるが、兎に角人間の身長を何らかの方法で1/2に出来たとしよう。
そうなれば、人間は3次元であるから、縦・横・奥行き(厚さ)それぞれが1/2になって、多分体重も体積も1/8になるに違いない。そうなればしめたもので、一人当たりの消費量も1/8になるという‘カラクリ’である。

また、‘副作用’もあって、住宅は当然相対的に広くなって、きっと‘ウサギ小屋’ではなくなるに違いない。
電車も混まなければ、新調する洋服だって生地の量も少なくなるし値段はきっと下がるに違いない。エネルギーの消費量が少なくなれば、公害問題も減少し、川や海だって直ぐに綺麗になること請け合いというものだ。
森林の伐採も少なくて済むだろうし、貴重なマツタケだってタラフク食えるというもんだ。











[2011/12/11 23:32] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
永遠に死なない方法?(その1)
死なない方法があるという。ただし、今既にあるのではない。考え方はあるが、それを実現する方法はまだ確立されていない。ただ、我々は皆‘死なない方法がある’とは考えたことが無いから、そんなものがあるはずはないということでそれ以上の探索は誰もしない。だから、死なない方法を探究する‘学問’は進展しない。

これまでの人類の歴史上での大きな課題は、死なない方法ではなく、死を先送りすることつまり‘長寿’の努力は探求されてきた。秦の始皇帝然り、徳川家康も然りである。しかし、長寿は探求したとしても‘死なない方法’を探究しようとはしなかったのではないか?古代エジプトでは、‘生き返る’とは信じられていたかも知れないが。

前置きが長くなったが、その方法とはこうである。
人間が生きていると自分で自覚するということはどんなことか?多分プロの医学研究者に言わせると違った答えなのかもしれないが、ど素人にとっては以下のようなことではないかと思われる。

自分の脳の記憶や意識が、‘自分は何処の誰平’だと判断した瞬間に‘自分’を意識して、なおかつ‘自分は生きている’と感じることではないか?

改めて自分で自分を振り返ってみた場合、‘たったそのくらいのこと’で生き死にを判断しているのではないかと思われる。さて、それでは‘永遠に死なない’方法とは、‘自分という事が認識できる状態’で‘生きている’と認識できる‘方法’ということになる。例え長寿になったとしても自分を自分と認識できなければ、自分自身としては‘生きている’ということにはならない。他人には生きていると判断されたとしても・・。





もう少し話を簡単明瞭にするためには、人間が、‘肉体’と‘意識’とで出来ていると割り切ればよい。
‘死ぬ’ということは、肉体(ハードウエア)と意識(ソフトウエア)が同時に‘死滅’してしまう‘はず’だから、人間は永遠に生きることは出来ない、という結論となっているだけである。
意識というソフトウエアは多分その大部分は自分の‘脳の中の記憶(記憶はハードウエアか?)’として存在する。意識とは何ぞやの議論はここではせずに、意識もメモリーとして存在するから‘物質’と見做すと仮定する。何故‘物質’と見做すことを強調しているかというと、意識がメモリーとして‘持ち運べる’かどうかを議論するためである。



周辺技術を見回してみると、大容量メモリーの開発は目まぐるしく光ディスクやフラッシュメモリーでは何十Gなど格安で素人にでも手に入る時代となった。人間の頭脳の記憶容量がどの位大きいかの正確な値は知らないが、我々凡人なら普通の光ディスクが100枚もあれば事は足りる。
この媒体を使って、‘意識’であるソフトウエアたるハードウエアを人間から人間に移そうというのである。

上手く移せたとすれば、移した前後の人間は、ある範囲内では同一人物ということになる。すなわち、意識のコピーを他人に受け取らせるのである。受け取らされた御仁は否が応でも‘原版’の人間の意識を受け継がざるを得ない。死にそうな人間から活き活きとした人間に意識がコピーされたら自分を原版人間と意識できるから、原版人間はそのまま行き続けることが出来る。その繰り返しが上手く行けば‘永遠に死なない人間’が登場するという訳だ。

只今現在、まだ技術として完成されていないのは、‘読み取り・書き込み’の技術である。人間の頭脳から意識を一旦光ディスクにメモらせた後、他人様の頭脳に書込まねばならない。これは恐ろしいことである。人格の変換が起こりうるからである。

はてさて、この倫理問題を先に解決しておかないと技術は出来たとしても実用化は難しいに違いない。









[2011/12/10 15:27] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
明日から英語がしゃべれます!
最近、聞き流し方式英会話習得術?の流行りもあって、英会話に関する宣伝合戦は一向に衰えを見せない。我々の歳(アラセブン)になると海外での単独ツアーなどという‘冒険’は、正に‘暴験’であるから内外の人に迷惑を及ぼす種になりかねないし、添乗員さん付きは実に極楽であるから英会話の必要を感じない。少し自信があったりすると却って不幸になったりする。

私の友人などの話では、300時間も英会話の訓練を受けたのでこれで大丈夫とばかり、家族で海外旅行とやらに勇んで出かけたのは良いが、添乗員さんなしの自己メニューでの挑戦であったため、何でも‘Yes!’という日本人の悪癖が祟ってロスアンゼルスからハワイに家族は向かったのに、何故か荷物はサンフランシスコへ着いたという悲しい笑い話をしてくれた。その時から彼は、海外旅行や海外出張時には‘余り言葉の話せない身障者’の真似をすることにしたそうだ。一番先に車椅子を美人に押して貰って飛行機に乗れるし、言葉でなく‘書き物’で荷物の手配状況を親切に示してくれるので、これが一番だと生活の知恵を披露してくれた。





でもこの方式は何だか人に嘘をついているようで心苦しいし、そうと判明したら‘大事件?’になるかも知れないので何となく気が進まない。

別の友人の話では、‘明日から英語がしゃべれます!’が実現しそうだという。
彼によれば、その‘原理’は極めて簡単で、‘英会話をしゃべる人の頭脳のしゃべる機能部分だけその記憶情報を自分の脳に移せばよい’という。原理は簡単だが、その‘方法’は難しい。
脳のどこにその情報が存在するのかから始まって、‘移し方’も問題である。でも世界中でそんな研究もかなり以前から長期間に亘って行われているというからそんなに馬鹿にした情報でもなさそうである。よくスパイ映画などで、一日にして相手国の言葉をマスターする場面に見入った経験が誰しもあるに違いない。

言葉の障害を乗り越える努力こそ面白いという考え方も当然あるが、やはり怠け者の人間としては明日から英語がしゃべれたらそれに越したことは無い。



将来型のコンピューター開発の世界では‘考えるコンピューター’がそろそろ登場するという。

話題の人物は、ジェフ・ホーキンス。
彼が追い続けてきた情熱の一つは「脳の働きをあきらかにしたい。そして、その働きを人工の装置の上で実現したい。つまり、人間のように考える機能を持った、真の知能を備えた機械をつくりたい」という思いだったそうだ。
<出展:考える脳 考えるコンピューター [単行本]ジェフ・ホーキンス (著), サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) >

こんなコンピューターが実現したら、その質にもよるが人間はどう対処すべきか?今から考え始めておく必要がある。





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[2011/12/08 13:26] | 学校と教育 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
太陽光発電の課題(その1)
太陽光発電は、今や自然エネルギー活用の‘横綱’となりつつあるように見える。一般家庭用の発電システムの開発が進むと同時に東電が近々今月12月中におよそ3,800世帯分程度のメガソーラ発電所を稼動させるという。

しかし果たしてこの太陽光発電システムは今後の電力供給のメジャーとなり得るのであろうか?

メジャーとなるには少なくとも二つの条件をクリアーしなければならない。その条件とは、① 技術の信頼性、特に長期使用にその性能を落とさずに稼動出来るかどうかである。② 経済効果、すなわち価格、特に初期投資が少なくて済むかどうかである。
①の技術の信頼性については、新製品での実稼動信頼性試験が当然行われてはいないから、謂わば‘商用試験’装置を消費者は買わされている状況である。したがって、その信頼性は、‘推定’でしかない。十分な検討データの上に立った‘推定’ならまあ許されるが、商売の競争相手に勝つための或いは上層部からの指示期限を遵守しただけの‘自己保全’的な推定なら御免被りたい。会社が生き抜くために仕方が無かったなどという‘事件発覚後’の申し開きは、TVドラマ上だけの事件であって欲しい。





さて、②の経済効果、これは世界全体のではなく、個人の家庭にとってのという仮定で、簡単な計算をして見てその効果について考えてみたい。
一般標準家庭、これはTV・CMでは、大体一家4人(夫婦と子供二人)とされているからここでもその例に従ってみる。年収600万円。10年間必死の思いで貯蓄に励み、頭金を準備して今後20年のローンを組んでの新築計画に‘組み込まれる’のが、太陽光発電システムだ。最近やや価格は下がってきたとはいうものの、この標準家庭の一戸建ての場合、約200万円が相場らしい。本体約2,000万円に追加の200万円。この状況下においては、少々の倹約家でも案外OKを出す。ここが、売り込み方の秘策である。本体の10%程度ならまあいいか、となっているのではなかろうか。ローンを支払い続けていてその日の生活を切り詰めている家庭なら、家計を預かるカミサンは、決して200万円のローン上積を許可する筈が無い。

標準家庭では、年間の電気代は凡そ12万円/年、つまり、ひと月1万円/月ということになる。
これは、単純計算すれば、200万円÷12万円/年 = 16.67年
つまり、16年半以上何の故障も無く稼動し続けて‘やっと’ペイするという計算になる。
ご自宅のトイレやお風呂それに屋根等の外装について考えて見て下さい。よく持っても10年一寸がいいとこでしょう!
その時になってやっと気が付くのが落ちという訳である。
最近は10年保証をキャッチフレーズにした太陽光発電システム商品もあると聞くが、これは果たして大丈夫なの?と首を傾げざるを得ない保証である。まさか、10年も経てば俺達いないよ、という数十年前の建売住宅の商法でもあるまいが・・・。



そんな訳で、10年までは保証してもらうことを信じても、残りの6.67年、これは自己負担である。敢えて言うなら10年経った後、もう一度200万円が必要となることは眼に見えている。

地球温暖化解消に寄与出来るなどという宣伝文句に直ちに飛びついてはいけない!
何を証拠に炭酸ガスを出さないと言い切れるのか?太陽光発電システムの構造物や部品及び梱包材料の生産時或いは輸送時の排ガス等々を総合して考えれば、簡単にエコだとか温暖化対策寄与などとは言えないのではあるまいか。

まだまだ、太陽光発電システムの‘矛盾’に関して、国家レベルでの検討がなされるべきかもしれない。
この‘矛盾’に本当に気付いているのは、実は生産業者かもしれない。










[2011/12/07 16:45] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
山口百恵さんと‘資本主義’
経営者養成講座という研修事業を展開する会社があって、もう40年以上も前であるが、その研修を受けたことがある。この研修の内容が事実に即していたかどうかは知らないが、我々100人の研修受講生に講師から先ず始めに設問の提示があった。
それは、当時売り出し中の‘山口百恵さん’の所属事務所‘ホリプロ’の経営方針についての設問だった。多分、研修のために創られたのだろうと思われるが内容というのは以下の通りであった。

51JJABy6uiL._SL500_AA300_(山口百恵さん)
51JJABy6uiL._SL500_AA300_(山口百恵さん) posted by (C)mobaradesu
http://www.amazon.co.jp/
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BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%
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  「絶大の人気を誇る山口百恵さんの稼ぎを会社の収入の何%にすべきか?」

という設問である。一瞬誰もが耳を疑った。何という設問だ!? 稼げるだけ稼がせれば良いではないか!だが、講師の説明に研修受講生は皆納得した。会社の経営にとって極めて重要なことの一つに‘危機管理’があるという。百恵さんの収入を会社の収入の100%とした場合、もしも百恵さんが突然の事故に遭遇して稼ぎが全くなくなった場合のことを想定してみれば、従業員の給与はおろか社長まで収入にありつけない状態に陥るではないか。
第一百恵さんの身体を酷使することにもなり兼ねない。だからこそ、そういった意味での‘危機管理’が必要なのだ。百恵さん以外のタレントを確保して、もしもに備えねばならない。さあ百恵さんの稼ぎ比率を何%にしておけば、百恵さんもそれ程のプレッシャーを感じずに、また社長以下従業員も安心して働けるか?





研修受講生はまだ経営に実際には携わったことのない人達ばかりである。したがって、まだまだ自信を持って‘何%’という研修受講生は一人もいない。
沈黙が暫く続いて、講師の先生から発言があった。「100%はまずいことはお判りでしょうから、75%と思う人挙手を!」約半数の研修受講生が手を挙げた。「それでは、50%と思う人!」後残りのほとんどが挙手をした。「では、25%と思う人!」最後まで挙手しなかった私ともう一人の研修受講生二人だけが手を挙げた。
「それでは、ご納得のいく説明を致しましょう!」ということで話が始まった。内容はこうである。「安定した4本脚のテーブルを例にして説明を・・・」



「4本脚では、テーブルは極めて安定しております。脚それぞれが会社の収入だと仮定します。百恵さんの収入が75%を占めるとした場合、何かの突発事故発生で百恵さんの収入が途絶えたとします。ということは、4本脚の
3本が無くなったら、テーブルは‘ずっこけ’ます。したがって、危機管理という概念からすると75%では、会社経営が上手く行くでしょうか? 50%でも残りの2本脚で立つ場合極めて不安定です。そう、25%なら、4本脚のうち1本が無くなったとしても、不安定でもありますが、そこそこ安定してテーブルが直ぐにこけることも無いものと思われます。したがって、危機管理の点から考えて会社の安定は25%前後が正解だと思われます!」
思わず皆が拍手をした。判り易いではないか!皆が納得した。そこで出たがり屋の私が手を挙げた。「先生、経営を考える基本は‘4本主義(発音は、しほんしゅぎ)ですね!」先生が「あっ!それ使わせて頂こう!」

ホリプロで実際にそんな経営が行われたかどうかは不明であるが、今や押しも押されもしない芸能界の雄である。











[2011/12/06 23:35] | ビジネスと経済 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
徒然草の第八十五段と‘裁判’と‘特許’と‘進歩’
あの‘徒然草’の第八十五段で、兼好法師は実に旨いことを言っている。
‘狂人の真似とて大路を走らばすなわち狂人なり’
① 悪事をしでかしておいて、その積りはなかったという。また、② 人の真似はしたくないと言う。いずれも思い上がった言動である。

① の場合の典型は、裁判においてである。‘殺意があったかどうか’で争われ罪の重さが違う。殺された人の家族にとっては何とも歯がゆい思いだ。殺意がなかった、偶然そうなったと言われても死んだ人は家族には帰って来ない。殺意がなくても殺意があっても殺人を犯せば、罪と罰は同じでなくてはならぬと鎌倉時代に既に兼好法師は喝破していた。何故現代においてこんなに被告人に有利な判決がなされるのだろうか?

② の場合については、‘人の真似をしたくない’というより‘人の真似をしてはならぬ’とい方が現代を言い表している。勿論、‘特許’と言う個人・法人の権利を守る事が当然の世の習いであるからでもある。他人の真似をしていると食ってはいけないと言うのが現代社会のようでもある。そうでなければ進歩がないからとも言われる。そういい続けられ続けたために、それが丸で人間の幸福に繋がっているという錯覚が生まれているのではないか?

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http://shiina2001ryou.cocolog-nifty.com/na/2010/09/post-116a.html


進歩こそ素晴らしい!という考えはそろそろ人間は考え直す時期に来ているのではないか?
何故なら、人間同士の争いは、その大部分が‘進歩のため’が原因ではないのか?より良い生活・より進歩した生活が良しとされる社会。これが霊長類と豪語する人間の行き方だろうか?
地球上に数億年も生き残っている生物は、或る時期から‘進歩をやめた’生物である。動物も植物も。





乗り物も‘自転車’どまりでいいではないか!

自動車産業が世界の経済を引っ張る先頭にいる。この車社会のお蔭で経済格差が起こり、環境問題が起こり、歩くのを止めさせられたお蔭で健康問題が生じている。そして、これまで何万人の人達が犠牲になったのだろうか?原発が人間にもたらす害以上の害をもたらしているのに‘利益’が大だからで見過ごしていて良いのだろうか?
これがまたエネルギー確保という問題を生むから平和の維持が出来なくなるのではないか?
歳を取ってくると進歩について行けなくなる。若者の音楽は‘雑音’にしか聞こえない。まして‘スマホ’なんて・・。
何時まで経っても年寄りの真似を皆がした時代、これこそ老人が活き活きと生活できる社会だ!

第八十五段の締めくくりに、兼好法師はこう述べている。
‘偽りても賢を学ばんを、賢といふべし’すなわち、冗談でも賢人の道を進めば、賢人と呼んでも過言ではないという訳だ。
靴屋の息子は靴屋を継ぎ、八百屋の息子は八百屋を継ぐ。そんな平和な時代に早く後戻りして欲しい。量販店やスーパーマーケットなど糞喰らえだ!
原因は、DNAの変化が、時代の変化に追いつかないからだと思われる。



進歩はあっても良いが、‘もう少しゆっくりと’を御願いしたい。












[2011/12/04 20:42] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
原子力発電(原発)と報道について
今、日本人にとって最も‘関心の深い話題’の一つは、‘原発問題’である。‘原発’とは、タイトルにも示した通り、‘原子力発電’の省略語であることはいうまでもない。ただし、現在の日本で、‘原子力発電’や‘原発’と言えば、‘核分裂方式による原子力発電’のことを指すことになっているという。

核分裂
核分裂反応 http://blogs.yahoo.co.jp/btn07or/64142804.html

核融合
核融合反応 http://www.phys.shimane-u.ac.jp/miyamoto_lab/ToRookey.html


言葉通りの原子力発電には、実はもう一つの方式、そう‘核融合方式による原子力発電’がある。ここまで核分裂方式による原子力発電の弊害が大きくなってくると、今や‘原子力発電=原発’は、最早社会的に受け入れられなくなった。
我々も含めて、その道のプロでない一般の人々にとっては、報道機関による誇大宣伝としか映らないジャーナリストの不勉強さのお蔭で、‘真実が歪められる’恐れはないのか?と、大事件の度に思うことがしばしばある。





‘ダイオキシン事件’がそうであったように、ジャーナリストが上手く利用された社会的事件は数々あるらしい。
多少の科学的知識がある御仁が、これまた一端の専門家気取りで解説(怪説?)しようものなら、それこそ社会を大混乱に導きかねない。
聞くところによると、‘核融合方式による原子力発電’は、水素と水素の核融合反応で、核融合後に生じるのは、He(ヘリウム)である。したがって、核分裂反応によって生み出される半減期が約30年もあるCs(セシウム)のごとき有害物質を生み出すことはない。
では何故、核融合反応による原発を推進している人達は、何故もっと声高にもう一つの原発を主張しないのか?
フランスと日本は、共に核融合反応による原発推進の‘旗手’ではなかったのか?

もともとビッグバン以来の‘宇宙エネルギーの生み出され方’は、‘核融合’によるものであり、地球が最もその恩恵を受けている太陽からのエネルギーの源は、水素と水素の核融合反応によって生み出されているはずである。
今の話題が‘原発=人類の敵’と言う結末となって、折角の有効なエネルギーの活用がなされない事態が生じる前に、もう一度‘原発’の根本的・本質的問題に考えを巡らす時期ではないかと思う。それには、その斯界の権威に是非ご登場願いたいと思う一人である。

勿論、‘完全に安全なもの’など存在しない。だから、少々無理をしても‘差し引き’人類に有利であれば、それは使うべきではないか、という主張には一寸賛成しかねる。核融合方式が今やその論理でやり玉に挙げられているようにも思える。また、核融合原発は、核戦争兵器の製造資源を生み出すという観点からの反対意見・反対運動もあるという。

夢の核融合の裏側
http://www.jcan.net/tanpoposya/doc/200402tsuchida.htm
日本政府にITERの誘致を断念させたのは反対運動の力
http://www.jttk.zaq.ne.jp/hibaku-hantai/iter.htm
国際熱核融合実験炉(ITER)の問題点
http://www.nuketext.org/topics1.html

しかし、核融合原発を夢見てその研究に邁進しておられる方達の希望とその技術がどこまで進んでいるかの現実を知りもしないで、‘原発は危ない’、‘核融合も危ない’との判断で意見を言ってしまうと今後の希望は見えなくなる可能性がある。

勿論、核融合原発の実験機としての‘ITER’は現時点で完全には安全ではないかも知れないし、どうやって1億度以上の高温を維持するか等の技術的確立は未だなされていないらしい。しかし、問題点は完全に判っている。完成までに‘危ない橋を渡らねばならない’から、‘実験もするな!’とのノーベル賞受賞者もおられるようであるが、速度は遅くても良いから、人類の今後にとって必要な技術と受け止めて戴き、こんなやり方をしなければいけないという‘指針’を頂戴したいものである。どんなに人類が頑張っても‘原理的に不可能だ’というのなら話は別であるが。

iter.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~rt6k-okn/fusion.htm


今の‘車社会’を全世界が認めている。我が国は絶対に車禁止という国はない。その観点からすると、車に対して人類は何故こんなにも寛容なのだろうか?
ひょっとして自分が乗っている車が人身事故を起こすかもしれない確率がどれくらい高いかを知っている人達が何故車社会を否定しないで核融合原発に反対の意思を示すのだろうか?

所詮、個人は‘身勝手’で‘いい子ぶりをする’ということだけでお茶を濁してしまっていいのだろうか?








ミラクルマスター






[2011/12/02 16:25] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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