伊達政宗公騎馬像 http://blogs.yahoo.co.jp/dachshund_taro/42943373.html 伊達政宗が自ら設計したと言われる青葉城(青葉城は‘雅称’で、正式名は‘仙台城’という)は、1601年築城が開始され、翌年にはほとんど完成を見たという。関ヶ原の戦いは1600年10月21日である。政宗は東軍に加わって家康が三成討ちに引き返した後東北に留まって上杉の家康追討を阻止した。その功績のお陰で築城についても家康の許可を貰うに当たり比較的すんなりと事は運んだのだろう。その面積は約2万坪で、江戸城に次いで2番目に広い。(因みに、江戸城は約70万坪) http://joukan-tamashy.web.infoseek.co.jp/joukan/miyagi/sendai/sendai.html 青葉城復元模型写真 http://aiailife.seesaa.net/article/95347942.html 関ヶ原の戦い後の築城は家康の許可無しには当然無理だった事は容易に想像出来るし、青葉城の場合も上記の通りである。各大名がその権勢を誇り近隣大名への威圧感を醸し出すには、天守閣は大事な役目を果たしたに違いないが、その構築に当たっては、幕府の戦略下に置かれたことは間違いない。 註):「天守閣」に‘閣’をつけて表し始めたのは、明治に入ってから或いはその少し前頃と言われている。また、通常の「天‘守’閣」を「天‘主’閣」と記するのは、信長の‘安土城’のみで、①信長のゼウス(天主)信仰との関係或いは②信長が唯一‘てんしゅかく’で生活していたために、‘主の住い’の意味を強調した 等の意見がある。 http://nownow.tenkomori.tv/e185547.html ところが、上図を見ても判る通り、青葉城には‘天守閣’がない! 当然これには‘伊達政宗の戦略’が隠されているに違いない。 天守閣がなかったお城は、青葉城だけではない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88 天守閣のなかった③&④のケースは‘外様’が多いという。それはそれなりの意味があったに違いない。 親藩・譜代・外様の定義とそれらの分布図を以下に示した。 親藩・譜代・外様の定義: http://okwave.jp/qa/q5618721.html 政宗は、関ヶ原の戦いでは、東軍に属したが‘外様’である。その理由は、上記の通り‘戦国大名’とは、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1426992464 だったから、仙台藩は‘外様’である。 分布図: http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q02_daimyouhaiti.htm さてさて、本題のテーマである‘青葉城に天守閣がなかった理由’につては、次のような解説がある。 http://morinomiyako.blog37.fc2.com/blog-entry-53.html ご参考までに、ただ一つの「天‘主’(閣)」である信長の安土城復元図を示す。 ただ一つの「天‘主’(閣)」安土城復元図:http://naraten.blog24.fc2.com/blog-date-20111012.html 以上の如く、天守閣一つに絞ってみても‘時代背景’、‘諸大名の思惑’が蠢いていて数々の憶測・推理・創作が入り混じっての‘歴史観’には興味が尽きない。 その中でも‘独眼竜・政宗’の時代を生き抜く戦略には‘敬服’せざるを得ない。 今の、またこれまでの政権与党は勿論、野党の政治家の人達それぞれに、もっと‘己の戦略’が欲しい。全くの‘勉強不足’と指摘されても仕方がない程のテイタラクである! そろそろ一年を迎えようとしている‘東日本大震災’に関しても、何ら手が打てず進展しないと思われていしまっているのは、‘政治家がの大半が、全てを他人様の責任にすり替えるから’である。そんな政治家は不要、‘総入れ替えが相応しい’のかも知れない。 政宗時代に東北地方は以下の二つの大地震・津波に襲われている。 この時に政宗公の打った手が今回の東日本大震災の復旧・復興に参考になるのではないか? http://www.jma-net.go.jp/sendai/jishin-kazan/higai.htm この時、伊達政宗の打った手とは? (つづく) スポンサーサイト
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