京都市左京区岩倉にある実相院門跡には有名な後水尾天皇のご宸翰(しんかん)掛け軸「忍」の一字がある。この字には何とも言えぬ‘高貴さ’が感じられると同時に‘殺気’さえ漂っている。多分これまでの天皇・上皇・法皇の方々の数ある作品の中でも群を抜いているものと思われる。 なお、門跡(もんぜき or もんせき)とは、皇族・貴族がその住職を務められた特定の寺院のことである。
![]() 後水尾天皇ご尊影 http://ameblo.jp/puratina14/entry-11075491900.html?frm_src=thumb_module 実相院のホームページ http://www.jissoin.com/treasure/ によれば、後水尾天皇と「忍」の掛け軸について次のように記述されている。
実相院ホームページには、上述の如く「実相院の寺宝」の項目に後水尾天皇の「忍」の掛け軸がありますよ!と謳っておきながらその「忍」の掛け軸の写真はない。 しかし、情報化社会の中では、マスコミの取材や、個人ブログにこの「忍」の字が登場することになる。ただし、実相院としては年に一度の特別公開があるようだが、それも全部をその年に公開する訳ではないからお目当てのお宝が毎年拝めるということではないらしい・・。
![]() http://bsbrand.gooside.com/picture/2009/20090508/jissouin.htm ![]() 後水尾天皇のご宸翰(しんかん) http://www.thekyoto.net/kyoukyou/0410/041008_01/ これら上の二つの写真は、実相院門跡の掛け軸で、後水尾天皇のご宸翰(しんかん)である。後水尾天皇が‘天皇’であられた、いわゆる在位期間は、1611年から1629年間のわずか18年間強である。お生まれは、1596年であるから天皇になられた時は、弱冠15歳弱である。上皇になられたのは、33歳強であるからこの忍の掛け軸は、15歳から33歳の期間に書かれたことになる。 「忍」の字は、この間の色々な環境条件の中での‘心中’の思いが隠されていると言っていい。後水尾天皇の父君・後陽成天皇は、第三皇子である後水尾天皇(当時は、政仁<ことひと>親王)を江戸幕府の強引な施策(家康・秀忠)により無理やり皇位継承をさせたこともあって、上皇と天皇の間の‘不仲・確執’は1617年の上皇崩御まで続いたという。ただし、1617年と言えば、未だ後水尾天皇は、21歳の若さである。当時の21歳は多分現在の21歳の印象とは異なるとは思われるが、それにしても未だ経験もそんなに無い。46歳の後陽成上皇からしてみると何となく‘頼りなく’思われたのも頷ける。案外これは世間で言う‘確執’というものではなく‘補佐的ご助言’であったのかもしれない、とど素人の私は勝手に解釈している。 それは、後水尾天皇が上皇になられた後、表面的には幕府に‘立ち向かう’のではなく、素直に幕府の意向を取り入れられ、朝廷潰しの幕府の陰謀を防いだのだろうと言う解釈にも繋がる事件が沢山あったという。そしてもう少し飛躍すれば、明治維新寺の‘大政奉還’をも促したほどの朝廷の威信確立に影響さえあったと思われる節があることからも類推出来る。後水尾上皇は、後陽成上皇のお教えを受け入れられていたと考えてもいいのではないか? ![]() 後水尾上皇のご宸翰(宸筆) http://blog.goo.ne.jp/peko430/e/cf061455255cad58b1d7722571477684 さて、上の写真は、修学院離宮の「忍」にの字の掛け軸である。 後水尾上皇は、天皇の中では、昭和天皇(88歳)に次いでのご長寿であった(84歳)。 この修学院離宮の忍の字が上皇のいつの時代に書かれたかは調査不足で私には判っていない。 しかし、天皇の時の忍の字とは、やはり‘風格’が違う。上皇として4代に亘る天皇を補佐(院政・実権)された間に、多分、朝廷や幕府からの色々な圧力に耐え忍ばれたのだろうから、忍の字の背景及び上皇ご自身の経験とご苦労に大きな違いがあるように思われる。 ![]() 後水尾上皇ご尊影 http://www.mitera.org/information/20p-5.html そして、長い間の苦しみから‘忍’こそ人生を生き抜く最善の方法と‘悟られた’に違いない。 因みに、修学院離宮は、後水尾上皇の指示で造営された。造営が開始されたのが1653年というから、上皇57歳の時である。 ![]() にぎり石に書かれた‘忍’の字 http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001295&post_idx_sel=10026714 さてさて、これほど貴重な書も珍しいが、これらがいつでも見れないという‘悔しさ’が残る。 これは実相院側のご配慮で、いつもいつもこんな貴重な資料を公開していたのでは将来傷みが激しくなって、‘消失’の恐れがある。特別公開をするのだからまあいいではないか、ということであろうか? 今やコンピュータ全盛の時代、書画美術品の複製は、本物と見紛うばかりの出来である。どうか我々素人にはこの‘複製品’で十二分である。その場所で‘複製品でいいから、いつでも見れる方がいい!’ 良寛の書に‘天地’という作品がある。本物は、東京・青山の根津美術館にある。この大地には二つの作品があって、それぞれ‘大天地’、‘小天地’と呼ばれている。その‘小天地’の複製が我が家にある。 ![]() 良寛・大天地(根津美術館 HP)http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=00288 残念ながら、根津美術館のホームページには、小天地の写真は現時点では掲載されていないので、他人様のブログの写真をお借りした。有難うございます。 ![]() 良寛・小天地 (根津美術館・はがき) httpblog.livedoor.jpcountry777archives51859707.html この小天地の複製が我が家にある。この書が気に入って15年前に購入した。 ![]() 画像-2 583 posted by (C)mobaradesu 良寛・小天地(我が家にある複製) ![]() 画像-2 591 posted by (C)mobaradesu 良寛・小天地(我が家にある複製・‘地’の拡大) 特に、この‘地’の‘点’の満丸さが、‘良寛の意思’を表しているという。(大の天地も同じ) 複製技術の進歩・発達はここまで来ている。印刷を受け入れる‘紙’の質がやはり本物とは違うから、プロ中のプロはご不満かもしれない。しかし、こんなにも技術革新の進む時代である。本物の紙と瓜二つの紙だって創り出されるかも知れない。 早くそんな時代が来て、出来れば複製でいいから、本物が保存されているその場所に行けばいつでも見られる状態にして欲しい。更に、質を落とすことなく格安で手に入る時代が来ることを願うばかりである。 ご参考までに、上村松園作の複製を下に掲載させて戴いた。 ![]() 上村松園作「虹を見る」 http://bijutsu-shumi.com/2011/09/ 画面寸法 天地32.5×65.5cm 額寸法 天地49.5×左右82cm 販売価格は、15万円弱。 ![]() ![]() ![]() スポンサーサイト
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