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茂原市の‘掩体壕’
私が住んでいる茂原市に‘掩体壕’なるものがある。第二次世界大戦時に造られたもので、‘飛行機の簡易格納庫’と言えば判り易い。

千葉県茂原市本小轡1108-2 の掩体壕
http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html

茂原市本小轡1108-2 の掩体壕

掩体壕(えんたいごう)は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫。掩体、掩蔽壕(えんぺいごう)、掩壕とも言う。 通常は、コンクリート製で、少ない資材で大きな強度が得られるかまぼこ型をしており、内部に航空機を収納する。簡易なものは爆風・破片除けの土堤のみであり、屋根(天井)が無いものもある。なお英語ではBunker(バンカー)と呼ばれ、名称上は武装拠点であるトーチカと区別されていない。陸上自衛隊では「掩体」、航空自衛隊ではこれを行政上は「えん体」、運用上は「シェルター」と呼称する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E
6%8E%A9%E4%BD%93%E5%A3%95


http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000047981
現在茂原市にある‘掩体壕’の数

質 問
(Question)

茂原市に掩体壕がいくつあるか
回 答
(Answer)

『写真でみるもばら風土記シリーズ21 掩体壕(えんたいごう)が語る茂原の歴史』3ページより
11基ある(地図もあり)


因みに、千葉県には、第二次世界大戦の‘戦争の遺跡’はどのくらいあるのだろうか?

「戦争遺跡を歩こう」http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/index.html) 
この文献によれば、以下の通り、27カ所だという。

千葉県の戦争遺跡

   タイトル(リンク)     場     所            主な遺跡

① 陸軍工兵学校跡  松戸駅周辺 相模台公園  門柱 歩哨舎 陸軍境界石 倉庫

② ロケット戦闘機「秋水」基地  柏 花の井木戸付近  秋水燃料庫跡 自衛隊ミサイル基地 陸軍病院

③ 八柱演習場と鉄道連隊廃線跡  八柱駅周辺 21世紀の森 境界石 記念碑

④ 新京成三咲~前原間  三咲駅~前原駅周辺  境界石 空挺館 教育隊営門 記念碑

⑤ 印旛航空隊掩体壕  印西牧の原駅周辺  掩体壕  航空隊石碑

⑥ 佐倉連隊跡  佐倉 国立歴史民族博物館  12階段 弾薬庫跡 便所跡 油脂庫 石碑 レンガ 壕

⑦ 東京無線電信所船橋送信所跡  行田公園周辺  記念碑 海軍境界石

⑧ 千葉駅周辺その1(鉄道連隊・歩兵学校・気球連隊)  千葉駅周辺 千葉公園  鉄道連隊演習場 陸軍歩兵学校跡 気球連隊倉庫

⑨ 千葉駅周辺その2(連隊区司令部・陸軍病院・鉄道大隊記念碑)  千葉駅周辺   連隊区司令部門柱 鉄道大隊記念碑 陸軍病院門柱

⑩ 成田山 航空科学博物館(金属供出 富獄エンジン)  成田山 航空科学博物館  金属供出された天水桶 富獄エンジン 成宗軌道線

⑪ 国府台陸軍病院跡  市川市里見公園  説明板 陸軍境界石

⑫ 毒ガス研究「陸軍習志野学校」「騎兵連隊」(大久保)  大久保駅周辺  習志野学校跡 門柱 弾薬庫 騎兵連隊門柱 

⑬ 柏 高射砲第二連隊・陸軍柏飛行場  柏 柏の葉公園付近  東部105連隊営門 高射砲第二連隊営門 境界石 馬糧庫

⑭ 東京湾要塞「大房岬」(富浦)  富浦 大房岬  弾薬庫 砲台跡 照明所 魚雷射堡 発電所 兵舎跡

⑮ 洲崎「震洋」特攻基地跡(館山)  館山 洲崎海岸  特攻艇「震洋」基地跡 震洋滑走台

⑯ ロケット特攻機「桜花」基地跡(館山)  館山 三芳村  基地跡?  桜花発射用カタパルト

⑰ 地下航空要塞「赤山地下壕」と掩体壕(館山)  館山周辺 赤山地下壕  館山航空隊掩体壕

⑱ 沖ノ島周辺(館山)  館山 沖ノ島 鷹ノ島公園  壕たくさん

⑲ 城山高角砲台(館山)  館山 城山公園  壕少し

⑳ 検見川送信所(千葉市花見川)  検見川付近  無線基地建物

(21)陸軍柏第四航空教育隊(東部第百二部隊)  柏 高田付近  門柱給水塔 (高田の野馬土手)

(22) 陸軍藤ヶ谷飛行場(下総航空基地)  鎌ケ谷 自衛隊下総基地40サンチ徹甲弾  91式航空魚雷 比叡の錨防空壕 (YS11 P3-C C1)

(23) 松戸飛行場(陸軍飛行第53戦隊)  鎌ケ谷自衛隊松戸格納庫 石碑境界石 古い建物 門柱?

(24) 千葉陸軍高射学校  稲毛 小仲台   石碑 境界石

(25) 茂原掩体壕群  茂原付近   掩体壕 海軍壕 石碑

(26) 四街道 野戦砲兵学校跡  四街道周辺  記念碑 門柱 境界石 陸軍墓地 ルボン山

(27) 流山糧秣廠  流山 平和台周辺  記念碑 (博物館)

(28) 館山戦争遺跡ツアー  館山  赤山地下壕 洲ノ崎海軍航空隊 館山海軍航空隊 掩体壕



茂原市の掩体壕
http://www.99coast.jp/mobara_entaigou.html

現存する掩体壕一覧

掩体壕

所 在 地

開口方向

備考

第1号掩体壕

小林字川代西街都2956-1



住宅敷地内(車庫として利用)

第2号掩体壕

新小轡字南台89

南東

農地内(倉庫として利用)

第3号掩体壕

本小轡字東ノ妻1108-1

南西

大規模なもの。市の看板あり

第4号掩体壕

新小轡字杉屋327-1



一部損壊している

第5号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒351

南西

農地内

第6号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒372

北東

農地内

第7号掩体壕

本小轡宇中上ノ原474

南西

農地内

第8号掩体壕

本小轡字宮久保878

南西

爆撃機用か、大規模。宅地内(倉庫)

第9号掩体壕

東郷字南原857

北東

宅地内(倉庫)

第10号掩体壕

東郷字八幡前903-1

南東

住宅内(車庫)

第11号掩体壕

本小轡字東ノ妻1100

北東

農地内

掩体壕の写真

掩体壕の道路案内看板
http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html

掩体壕の写真
http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/mobara.html

掩体壕の説明看板ー3
http://senseki739.blog118.fc2.com/blog-entry-64.html

掩体壕・茂原市の写真
http://haikyotabi.blog33.fc2.com/blog-entry-40.html


千葉県茂原市、ここにも大東亜戦争の記憶が残っている。
以前に紹介した【陸軍調布飛行場の掩体壕】でも出てきたが、今回も掩体壕が多数残る場所に行ってきた。この掩体壕群は、海軍第二五二航空隊(茂原海軍航空隊)が建設したものであり、この茂原海軍航空隊は、主に外地の戦闘や帝都の防空、さらに特攻作戦に従事した。主要な航空機は、零式艦上戦闘機・九九式艦上爆撃機・彗星艦上爆撃機・月光夜間戦闘機などであった。なので、掩体壕の規模はそれほど大きくない。

http://haikyotabi.blog33.fc2.com/blog-entry-40.html



茂原海軍飛行場の航空写真:

茂原市飛行場・掩体壕の写真
http://www.mobara.ne.jp/katoshin/

1947年米軍撮影の航空写真(USA-M50-82

飛行場の地図:

茂原市海軍飛行場の地図
http://www001.upp.so-net.ne.jp/sotobo/train/haisen/hikojyo.htm

茂原-2

現在の地図 (グーグル地図)の上では、赤い線で囲んだ場所に掩体壕が集中している。

滑走路と言われる道路
http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html

滑走路跡といわれる道路




次のレポート( http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html ) は、建設当時の様子が生々しく、茂原市の掩体壕についての経緯が歴史的資料に基づき詳細に述べられている。その一部を紹介したい。

茂原海軍航空基地

日中戦争が激化し、また、日米関係が悪化していた1941年(昭和16年)7月、国により策定された「国土防衛作戦計画要綱」に基づき、茂原中心部を南北に流れる阿久川の東側、現在の三井化学(株)茂原分工場敷地あたりを中心とした東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)に海軍航空基地の建設が決定した。
その建設が開始されたのは、2ヶ月後の1941年(昭和16年)9月と早く、かなり強引に進められたらしい。時期はちょうど太平洋戦争が始まる直前にあたり、東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(海軍二五二航空隊など)の建設が始まった。
東郷地区住民に対しては、突然の移転命令の通達が出され、以後三次にわたる移転命令により、当時区域内に住んでいた住民は、飛行場用地境界より外500メートルへ強制的に移転させられたという。太平洋戦争の開戦間際の1941年(昭和16年)9月1日に、突然に「用地内住民は実印を持参し、東郷小学校へ午前九時に集合せよ」との通達があり、東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)の105戸の住民たちは、東郷小学校に集められ、そこで強制移転の説明を聞いたのである。それも、予め書類が整えられ、すぐに印を押すことになり、泣く泣く皆印を押して移転に同意させられた。

「大東亜共栄圏形成に占める日本の役割は重大で、この土地における軍事基地の建設は必要欠くべからずものである。時局はまた時間を待てず、住民は三ヶ月以内に用地境界より外五〇〇メートルに移転すべし」


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こうして住民の犠牲の上に出来た、かつての航空基地は、JR茂原駅の北方の工業地帯になっている場所を中心に、新茂原駅東側の住宅地など、茂原市の市街地や周辺農地にわたって存在した。 面積は240町歩(約238ヘクタール)、兵舎敷地40町歩(約39.7ヘクタール)で、完成時想定滑走路の総延長は約3Kmの長さを誇る飛行場になる予定であったが、実際には終戦までに飛行場が完成したとはいえない。しかし、飛行場のおおまかな姿は出来ており、総敷地面積約195ヘクタール、南北に走る幅約80m、長さは約1,000mの主滑走路と他に東西の滑走路1本1,200m×80mの滑走路が1本と1,200m×60mの滑走路が1本であった。戦後になるが、1947年(昭和22年)2月22日に米軍が撮影した航空写真では、滑走路がはっきり写り(2枚上の写真中央の太く白くなっている部分)、飛行場の北側に大きく湾曲した誘導路とその誘導路に沿って掩体壕も認めることができる。

基地本部跡は現在の萩原小学校の場所で、兵舎跡は茂原中学校である。茂原中学校は、1949年(昭和24年)に設立された当初は、兵舎がそのまま校舎として使われていた。三井化学東側の約1,000m道路は当時の滑走路跡とされている。しかし、本当の滑走路は戦後占領軍による接収に引き続く飛行場の復活を恐れた茂原市によって取り壊されて存在しない。今は工場などになっている基地跡の直線的な道路が、当時の名残を留めるようである。基地の東端は、いま大型スーパーや東郷保育所の前にある通称海軍道路と呼ばれているあたりである。

その海軍道路とは、強制移転された住民などが基地内を通行することができないため、基地の外周に沿って敷設された迂回用の道路である。海軍道路は、かつては町の外周という形であったかと思うが、今では周辺に住宅や商業施設も建っているために、基幹道路として交通量も多くなっている。

茂原航空基地を使用した航空隊は、第ニ五ニ海軍航空隊である。ニ五ニ空は、元山航空隊戦闘機隊を母体とし、第十一航空艦隊第二二航空艦隊に所属する航空隊として、1942年(昭和17年)9月に館山基地で開隊し、その後ラバウル、内南洋、硫黄島、フィリピンと転戦した歴戦部隊である。

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ちなみに、「茂原海軍航空基地 昭和二十年八月二十六日現在の飛行科兵器目録」によれば、

茂原海軍航空基地で終戦時米軍へ引き渡された飛行機は、

    零式艦上戦闘機五二型 73機
    零式艦上戦闘機二一型  3機
    彗星艦上爆撃機四三型  1機
    零式練習戦闘機 2機
    白菊機上作業練習機   2機
    九三式中間練習機    4機
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      合計        85機 であった。

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犠牲者も出た掩体壕の建設

掩体壕を作ったのは、多くの徴用工(その大半が朝鮮人)を抱えた海軍の施設部隊であるが、航空基地の飛行場などを造成したときと同様、近隣住民、とくに中学生や農学校生徒なども動員された。

掩体壕を作る工法として、当時海軍施設本部が採用していたのは、Z工法という急速施工工法である。茂原の掩体壕は、この中のZ5工法とZ6工法で施設設営されたという。土を土堆体という小山状に積み上げ、その上を筵などで覆い、さらに太い金網か木枠を被せ、コンクリートを流し固める。コンクリートが固まると、中の土を出して上に載せて覆土とし、擬装した。いずれも、最初に土堆体を作り、これに被せるものとして鉄鋼コンクリートを打設し、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z5工法)か、鉄鋼コンクリートを打設するかわりに木製の型枠を用いてコンクリートを固め、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z6工法)というものである。作業を急ぐあまり、コンクリートが固まらないうちに支柱を抜いて、崩れた掩体壕の下敷きになって亡くなる勤労奉仕隊員も出た。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議を行った。その決議をうけて旧飛行場復活絶対反対東郷地区民大会も、当時の東郷小学校の講堂で開かれた。そして、5月28日には、茂原市全体の代表が2万7千名の署名を携え、国会に陳情に出向き、ついに防衛庁も茂原での自衛隊基地設置を断念せざるをえなかった。

それは海軍航空基地を建設する際に強制的に家を移転させられ、また基地建設に協力させられながら、今後も道理のない戦争と戦時体制への強制的な動員はご免だという住民の意思が実ったものである。



文献を調べて初めて‘茂原市の掩体壕’が、茂原市民にとってどれだけの犠牲の上に存在しているか、またその悲しい歴史を踏まえて二度と戦争は起こしてはならぬという思いがした。

このブログでも紹介したが、私も‘B29’の来襲と墜落という現場にいた経験がある。

上記の通り、昭和30年の茂原市議会の‘基地反対決議’がなかったら、茂原市は間違いなく‘基地の町’になっていたに違いない。

























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[2012/05/30 15:03] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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