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天才画家ターナーの実力と魅力
イギリスの天才画家・ターナー の名前は、専門の方達には日本でも知られていたに違いないが、一般の人には、夏目漱石の小説「坊っちゃん」‘ターナー島’として紹介されたためにターナーが有名になったと考えていいのかも知れない。

流石に天才の絵は不滅で、現在そのターナーの絵が今後の‘絵の在り方’に影響を与えそうだと言われ始めているという。

そもそも夏目漱石が「坊っちゃん」を発表したのは、明治39年というから、35歳でこの世を去ったこれまた天才・正岡子規が亡くなった明治35年(1902年)以降である。従って、正岡子規は、漱石が「坊っちゃん」を発表したことは知らないということになる。子規は漱石がロンドンに留学中に亡くなっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E3%8
1%A4%E3%81%A1%E3%82%84%E3%82%93


『坊っちゃん』(ぼっちゃん)は、夏目漱石による日本の中編小説。1906年(明治39年)、『ホトトギス』4月号別冊付録に発表。のち『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に収録された。

漱石自身の役柄 [編集]

漱石自身は自らが示唆するように、作品中では教頭の「赤シャツ」なのだろうか。『私の個人主義』には、次のように書いている。
「当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。」



教頭の‘赤シャツ’が漱石だったとは驚きである。それを踏まえて、「坊っちゃん」の‘さわり’の部分を見てみる。

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html

坊っちゃん 夏目漱石

漱石 1000円札
http://www.bidders.co.jp/item/117226303


<前略>

船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針のように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。

赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。

「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。

ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。

つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、 これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか と余計な発議をした。
赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。

この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私も江戸っ子でげすなどと云ってる。

マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染の芸者の渾名か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。

<後略>



ta-na-.jpg
http://treeart.exblog.jp/15063212/
ターナー 「チャイルド・ハロルドの巡礼」

赤シャツ(=漱石)は、ロンドンでターナーの‘どの絵’を見た記憶から、「四十島」(=青嶋)の松を見て‘ターナーの絵’の様だと言ったのだろうか?

web で調べてみると、やはりそこに関心のある方がおられて、次のようにコメントしておられる。

http://treeart.exblog.jp/15063212/

 さて、まるで植木屋が剪定したようなこの木は、いったい何の木だろう。日本ではあまりお目にかからないうえに、視力0.1ではなおさらわからない。
「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」
・・・すると野だいこが、どうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツは、そいつはおもしろい、われわれはこれからそういおうと賛成した。
 おなじみ漱石の『坊ちゃん』である。赤シャツがいう「ターナーの画」とは、この「チャイルド・ハロルドの巡礼」だったかもしれない。
 ちなみに、松山市では今でもその島をターナー島と呼ぶそうである。




http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2006/08/post_8a92.html

ターナー島を詠んだ子規の句碑
これは、ターナー島を見渡す海岸にあった正岡子規の句碑です。

「初潮や 松に浪こす 四十島(しじゅうしま)」

この句は明治25年に詠まれたもので、明治39年に発表された坊ちゃんよりも14年前の作品です。どうやらこの島は「坊っちゃん」によって有名になるよりずっと以前から、名勝として知られていた様ですね。漱石もそれを踏まえて作品に登場させたのでしょう。あるいは、この句を作った子規から教えてもらったと考えるのが一番自然かも知れないですね。



現在のターナー島
http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2006/08/post_8a92.html
現在のターナー島(四十島)

古い時代のターナー島
http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2006/08/post_8a92.html
昔のターナー島



漱石は、ロンドンに留学していた時に、ターナーの絵を見たに違いない。

http://mallord.web.fc2.com/
ターナーは主要作品をイギリスに遺贈しています。そのため、ロンドンにあるテート・ブリテンやナショナルギャラリーで多くの作品を見ることができます。これらの美術館は充実した名作を数多く展示しているにも関わらず、入場料が無料です。


坊っちゃんを書くに当たっては、子規と約2カ月弱同居した程の中だった漱石は、上述引用文の通り四十島のことを子規から聞いていたためにその絶景を‘赤シャツ'(=漱石)に「坊っちゃん」の中で言わせたのだろう。
それに、‘漱石’というペンネームだって実は子規のペンネームの一つを子規から貰ったものだったのである。

子規と漱石
出典:「正岡子規入門」監修・和田茂樹 編集・和田克司 (思文閣出版)

「・・・夏目漱石の下宿愚陀佛庵に仮寓、以後五十二日漱石と同居。・・・」と書かれている。

愚陀佛庵
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/archive/20090901 愚陀佛庵


また、漱石のペンネームについては次の解説がある。

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/mq/ten-h/t01-4.html

日本一のペンネーム・子規

正岡子規の切手
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/archive/20090901


 子規の本名はというと正岡常規。墓碑銘には「處之助」「升」「子規」「獺祭書屋主人」「竹ノ里人」が登場します。
 「處之助」は幼名。学校へ行く年になって「トコロテン」とからかわれてはいけない、と外祖父の大原観山が子規4・5歳のとき、易の地風から「升」と改めました。これ以降、友人や母から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれています。

 「子規」は明治22年、喀血した時より「啼いて血を吐くほととぎす」にちなみ使われています。明治11年、12歳の折り、初めて作った漢詩が「聞子規」というのも因縁めいています。
 「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの。
 「竹ノ里人」は東京の住まいを呉竹の根岸と称し、そこで暮らしていたことからつけたものです。

 子規は雅号だけでも百あまり持っています。「筆まかせ」雅号の章には中の川の子規邸にあった桜の木から「老桜」と号したのが十歳ごろ。山内伝蔵より「中水」をもらったがあまり気に入りませんでした。十五・六歳の時、大原観山より桜の形容として「香雲」という号に変えています。

 「筆まかせ」に登場する雅号は他に「走兎」「風廉」「漱石」「士清」「子升」「常規凡夫」「眞棹家」「丈鬼」「冷笑居士」「獺祭魚夫」「放浪子」「秋風落日舎主人」「癡夢情史」「野暮流」「盗花」「四国仙人」「沐猴冠者」「被襟生」「莞爾生」「浮世夢之助」「蕪翠」「有耶無耶漫士」「迂歌連達磨」「情鬼凡夫」「馬骨生」「野球」「色身情仏」「都子規」「虚無僧」「饕餐居士」「僚凡狂士」「青孝亭丈其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁癡仏」「情魔癡仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之丞」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」「一橋外史」「猿楽坊主」。
 他には「桜亭仙人」「緩寛人」「於怒戯書生」「無茶苦茶散人」「四国猿」「弄球」「能球」など。

 子規の雅号の中に「漱石」があり、「筆まかせ」には「漱石は今友人の假名と変ぜり」とあります。

また、ベースボールを「野球」と命名したのが子規と言われているのは「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」としたからなのですね。
「名前/無用の雑学知識」(ワニ文庫)によると、名前の記録保持者は滝沢馬琴。戒名も加えて35というペンネームということで名前の横綱に挙げられていますが、これなら正岡子規が日本一多いペンネームの持ち主と言えそうですね。

参考資料/「筆まかせ」正岡子規著 改造社(子規全集)
「子規の素顔」和田茂樹著 えひめブックス







さて、肝心の‘ターナー’は?

ターナー自画像 1799
http://ah-london.com/sight/tate.html
ターナーの自画像 ( 1799年 )


次のような解説がある。

http://mallord.web.fc2.com/
画家ウィリアム・ターナーの人生

絵画を集めるのは得意でも、描くのは苦手と形容されるイギリスにおいて、ターナーは国家を代表する画家で、ロマン主義に属し、西洋絵画史においても本格的な風景画家の先駆者の1人とされています。

本名はジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーといい、1775年にロンドンのコヴェント・ガーデンで生まれました。この町は、映画「マイ・フェア・レディ」でオードリー・ヘップバーンが歌っていた舞台になっており、現在も大道芸が多く行われている観光スポットととしてにぎわっています。

父は理髪師であり、母は精神的な病気によって十分に子供の面倒を見ることができない状態でした。ターナーは学校教育を受けることもほとんどない状況で幼い時代をすごした後、13歳になると風景画家のトーマス・マートンに指示して絵画を学びました。

その後、1年ほど経過してからロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学し、1797年にはロイヤル・アカデミーに初めての出品を行います。2年後の1799年には24歳にしてロイヤル・アカデミー準会員、1802年には27歳で正会員となっています。

幼少期には恵まれた環境では育っていなかったと考えられるターナーですが、画家としての成功は若いうちに収めることができていました。1803年の「カレーの桟橋」や1812年の「アルプスを越えるハンニバルとその軍勢」ではロマン主義的な表現がされています。

しかし、そのまま波風が立つことなく画家としての人生を歩んでいたわけではありません。44歳になったターナーは、1819年にイタリアへ旅に出ます。当時のイギリスの画家にとって、イタリアという西洋美術の中心となっている場所へ行くことは憧れとされていました。その中でも、ベネチアは特にお気に入りの場所となり、それ以降にも幾度となく訪れています。イタリアを訪れたことは、画家としてのターニング・ポイントになったと考えられています。

イタリア旅行に行ってからは、曖昧な描写が増え、光や大気がもたらす効果に重点を移していく傾向が見られるようになっていきました。1842年に描かれた「吹雪-港の沖合の蒸気船」はそのような傾向を色濃く反映しているのですが、当初は酷評されることとなりました。

世界的に見てもターナーの作品が充実している美術館として、ロンドンのテート・ブリテンがあります。イギリスといえば大英博物館があまりにも有名であるために知名度がそれほど高くはありませんが、イギリスの中でもトップクラスの美術館です。
近代美術を集めたテート・モダンが独立して別の美術館になって以来、テート・ブリテンは名画の集まる美術館として雰囲気も統一されています。色々な画家の絵が集められていますが、その中でも数多く揃えられているのがターナーの作品群です。

実際に訪れた時に感じたことですが、他の画家の絵画が前置きになっていて、ターナー・コレクションがメインになっているような印象を受けました。もちろん、捉え方は人によって様々ですが、個人的にはこの時にターナーという画家を好きになりました。
小さな作品から本格的なものまで揃えられていますので、ロンドンに行くときにはぜひ立ち寄っていただければと思います。



話題のターナー作品

ターナー作 吹雪
http://atorie.minaduki622.com/?eid=1148424 
「 The Snow Storm 」=「吹雪-港の沖合の蒸気船」1842年作 (67歳)

後述する通り、NHKによれば、『特殊撮影や映像合成などで活躍する日本のVFXの第一人者・野口光一さん』の解説では、このターナー作「吹雪」が、現代・未来に通じる or 未来へ引っ張る絵画だという。


ターナー作 難破船
https://marichulambino.wordpress.com/2007/11/15/an-idea-from-mamang-pulis-neighborhood-cop/
William Turner.「 The Shipwreck 」=「難破船」 1805年作 (30歳

この難破船は、1805年の作で、ターニングポイントとなったイタリア旅行へ出発したのが上述の通り、1819年であるから、その14年前の作品である。

67歳のターナーが、「吹雪」を描くに当たって、「・・6時間自分の体を舟のマストに括りつけて、吹雪によって舟と波と空間がどんな動きをするかを‘観察し続けた・・・」と言うから‘狂気の沙汰’である。そして、それによって未来へ通じる‘連続性’を表現したという。

一方、30歳の時の作品「難破船」は、動きの状態を描いているが、これは動きの‘一瞬’を捕えはしているが、連続性に欠ける‘静止’の状態であって、これは‘連続性’の「吹雪」には決して‘及ばない’という結論らしい。

ターナー様ご自身だって、‘きっとそう思っているに違いない!’と思われる。

これで、絵画鑑賞の際の‘チェックポイント’を一つ増やすことが出来た。

「 ・・・この絵にもっと‘連続性’があったらもう少し‘活きて来る’のになぁ~・・」とかなんとか言えば、ど素人でも‘一端の絵画評論家’のように聞こえるではないか!

勿論、どんな絵にも言っていいかどうかは知らないが・・・。

反論を喰えば、言ってやればいい。

「・・・昔のターナーは、‘しかじかかくかく’で、絵画に‘連続性’を持たせたんだぜ!・・・」と。

でもこれは、本当に‘ど素人’と判っている人にだけしか使ってはならない事は言うまでもない!


https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120613-10-03926

番組タイトル:極上美の饗宴「渦巻く大気をつかめ~ターナー・究極の風景画~」

番組内容:イギリスが世界に誇る名画、ターナーの「吹雪」。うねる嵐の海を、ぼやけたように描いた斬新な風景画。魅力はどこにあるのか?最新映像技術で嵐の動画を作って解明する!

詳細:イギリスが世界に誇る名画がある。国民的画家ターナーの「吹雪」。蒸気船が嵐の海に翻弄される光景を、ぼやけたように描いた不思議な1枚。19世紀半ば、風景画の常識を覆した革命的な傑作である。魅力はどこにあるのか?なぜ、ぼやけたような画面なのか? 特殊撮影や映像合成などで活躍する日本のVFXの第一人者・野口光一さんが、CG動画を作ってターナーの秘密に迫る。すると、自然の力をとらえる巧みな計算が見えてきた!
























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[2012/06/19 07:31] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
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