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アニモ像
以前岡山に勤務したことがある。この岡山の‘売り’は‘桃’である。従って(?)岡山駅の前広場には桃太郎の銅像がある。

okayama10.jpg
http://www.uchiyama.info/oriori/insho/eki/okayama/
JR岡山駅前の桃太郎銅像。一緒に写っている‘ハト3羽’は、家来ではなかった!お間違えなきように。でも家来のように見えるのが不思議!


実は、名産が桃で、桃太郎はその伝説があるところからの桃太郎である。直接の結びつきはないものの、名産が桃だから、 桃太郎伝説 を揺るぎなきものにしたに違いない。

日本全国に桃太郎伝説があると言われるが、次に引用した文献によると‘三大伝説+α’と言われるようにそれぞれに根拠があるらしい。

http://www.asukanet.gr.jp/tobira/momotaro/momotaro.html

桃太郎伝説のブログ看板


 全国に伝わる桃太郎の物語は,実は大和政権(大和朝廷:大和王権)による全国統一の戦いと
深く関わっているようです。桃太郎の三大伝説地である岡山県,香川県,愛知県を訪ねてみました。
<このページの内容>

桃太郎の物語

桃太郎の前の予備知識 日本神話に登場する「桃」のこと

岡山県の桃太郎『温羅(うら)伝説』

香川県の桃太郎

桃太郎伝説発祥の地 奈良県磯城郡田原本町

愛知県犬山市・岐阜県東濃地域の桃太郎

日本ライン桃太郎伝説

桃太郎神社(岐阜県加子母)



そんなこともあって、岡山県総合グラウンド陸上競技場は、最近まで‘桃太郎スタジアム’の愛称で親しまれていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1
%B1%E7%9C%8C%E7%B7%8F%E5%90%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%
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岡山県総合グラウンド陸上競技場

当施設は県内唯一の日本陸上競技連盟第1種公認陸上競技場で県下最大規模の収容能力を有する。各種陸上競技の大会・記録会及び全国大会県予選・選考会などが毎年行われる。愛称は桃太郎スタジアム(ももたろうスタジアム)であるが、2010年3月1日より「カンコー学生服」をブランドとする尾崎商事の命名権取得(5年契約、年間1,000万円)によりkankoスタジアム(カンコースタジアム)へ改称された[1]。



いわゆる‘桃太郎スタジアム’(現在は、kasnko.スタジアム)は、JR岡山駅の真北にある。

岡山県総合グランド地図JPEG
http://www.okayama-momo.jp/

岡山県総合グランドの案内図
http://www.okayama-momo.jp/


この中に、‘アニモ’・有森優子の像 が建っている。

アニモ像

http://sculpture-japan.com/s2/0189/s.htm
設置場所:岡山県総合グラウンド《岡山県岡山市いずみ町》
タイトル:animo 有森裕子
制作年:平成16年
作者:上田 久利
メモ:寄贈 山陽新聞社
撮影: 平成19年6月2日



これだけの情報では‘アニモ’の意味が不明である。

有森優子さんの‘愛称’は、‘アリモリ’の‘リ’抜け(その理由は伏せておく)で、‘アリモ’と呼ばれていたそうであるから‘アリモ’なら理解出来る。

解説プレートなるものが‘アニモ’像に付随している。

アニモのプレート
http://ameblo.jp/241190/entry-10558303245.html

アニモのプレート-2
http://ameblo.jp/241190/entry-10558303245.html

『 animo は、スペイン語で魂・勇気・気力の意味である。有森裕子が、バルセロナ五輪で地元の人から「アニモ、アニモ」と声援を受け、好きな言葉となっている。』と読み取れる。

有森裕子自身は、「 スペイン人は、私の‘愛称・ニックネーム’を‘アリモ’と知っていて、応援してくれている、と思っていたが、レースが終わって一緒に走った山下さんにこの話をしたところ、彼女にも‘アニモ’と言って応援してくれたということを聞いて、やっと‘アリモ’ではなく‘アニモ’だったことに気づいた。」と語っている。(2012年6月19日・NHKラジオ深夜便)

Google の翻訳機能で‘ Animo!’を翻訳して見ると、

翻訳

‘元気を出して!’と翻訳された。

確かに‘応援’の言葉だ。これを有森さん自身は‘アリモ!’と聞こえたそうだから、これは私だけへの励ましと思ったという。自分のニックネームを叫ばれたのだからきっと気分が良かったに違いない。

そのお陰もあってか、堂々の‘銀メダル’である。
偶然とは言いながら、思わぬ味方になって呉れたという‘エピソード’である。

前々から言われていることだが、彼女には‘珍しいエピソード’が多過ぎる。

彼女がマラソン選手になるまでにも数々の偶然や珍しい出来事が多い。

オリンピックに出て記録を残した時にも色々な偶然が多い。
ひょっとすると彼女は‘宇宙人’の一人かも知れない。本人は自覚はされてはいないようだが・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A3%AE%E8%A3%95%E5%AD%90

有森裕子

有森裕子 銀
http://blog.goo.ne.jp/sc-sagamihara/e/608997c54158ddeda6ccf333d74b8faf

プロフィール [編集]

岡山県岡山市出身。岡山市立牧石小学校、岡山市立岡北中学校を経て就実高等学校へ進む。中学時代はバスケットボール部に所属したが、校内運動会の800メートル競走で3回優勝していた。高校入学の際、陸上部に入部を希望するも、中学から大学までの一貫校である就実では中等部から持ち上がってきた素質ある陸上選手がおり、他の中学校から来た素人同然のランナーなど不要であると言われる。しかし有森は諦めず、1ヶ月後に入部を認めさせた[2]。高校時代に陸上競技で目立つ結果は残していないが、有森が高校に入学した年度に始まった全国都道府県対抗女子駅伝に、第1回から第3回まで補欠で登録されるという、同大会役員によれば大会史上唯一の記録が残っている[3]。このころの有森は、日本の女子長距離走の第一人者であった増田明美にあこがれ、増田について書かれた記事を練習日誌に貼っていた[4]。

高校卒業後、高校の陸上部顧問の推薦を得て日本体育大学に進学[4]。1年の時に関東学生陸上競技対校選手権大会の3000mで2位、また3年間補欠であった全国都道府県対抗女子駅伝に、4度目の正直で正選手として出走を果たす。が、生まれたときに股関節脱臼だったこともあり怪我が絶えず、その後は2年半に亘り鳴かず飛ばずで、密かにトライアスロン転向を目論み(女子の第一人者がいないという安易な思惑からであった)、親の仕送り全部を使って高額なトライアスロン用自転車を購入した。ところがその自転車は盗まれてしまい、そのことで有森は我に返ったという。3年の冬に学生駅伝にメンバーとして選ばれ、以降、有森は陸上競技からの転向は考えなくなった。全日本大学女子駅伝では区間賞を獲得している。

大学で競技者としての生活は終えて卒業後は教師になるつもりでいた。父親が教師をしている影響で、高校時代から体育教員志望であったという。しかし、教育実習期間中に、何の特別な準備もせずに出場した記録会で自己ベストから2番目の好タイムで優勝したことで、進路を実業団へと変える。折しもリクルート事件の真っ只中にあったリクルート社に、半ば押し掛けのような形で自分から連絡を取り、全くの無名で記録も残していない身でありながらその熱意を監督の小出義雄に認められ、陸上部への入部を果たす。

初マラソン日本最高・日本最高記録達成 [編集]

1990年の大阪国際女子マラソンがマラソン初レースだった。中間点を過ぎて先頭集団から脱落するが、その後も粘り続けて2時間32分台の記録で6位に入賞する。この記録は当時の初マラソン日本女子最高記録であった。1991年にも大阪国際女子マラソンへ2年連続で出場。レース後半に入った35Km手前からカトリン・ドーレと激しく首位を競り合うが、終盤でドーレに突き放される。惜しくも優勝はならなかったものの日本人ではトップでゴール、2時間28分台の2位と健闘し、当時の日本最高記録を樹立。同年開催の世界陸上東京大会女子マラソン代表にも選出され、一躍日本女子のトップランナーへ世間の注目を集め始めた。
この間の1990年、有森は日本陸上競技連盟(日本陸連)が初めて行った高地トレーニングに山下佐知子らとともに参加した[5]。

世界陸上4位入賞・オリンピック代表選考騒動 [編集]

同1991年夏に東京で開かれた世界陸上競技選手権大会のマラソンでは、メダルには届かなかったが4位入賞を果たし、バルセロナオリンピック(1992年)代表の有力候補となったものの、その時点ではまだ代表内定は出なかった(山下佐知子が日本女子最高の2位入賞で銀メダルを獲得、先にバルセロナ五輪内定に決まった。荒木久美は12位)。有森はその後バルセロナ五輪国内選考会の一つである、翌1992年1月の大阪国際女子マラソンに出場予定だったが、左足の怪我の為に欠場。又次の同年3月の名古屋国際女子マラソンも回避し、バルセロナ五輪女子マラソン代表選考は決定をただ待つのみとなった。

そのオリンピックの女子マラソン代表の座をめぐり、有森が出場しなかった1992年1月の大阪国際女子マラソンでは、有森の日本最高記録を更新して2:26:26のゴールタイムで優勝し、バルセロナ五輪代表を確定的にした小鴨由水に次ぎ、2:27:02の好記録で2位となった松野明美と比較されることになる。当時の国民的な大論議となり、松野が自ら五輪代表決定直前に「私を選んで下さい」という異例の記者会見も大きな話題となった。しかし代表選考の結末は、最後の3人目に有森の方がマラソンの経験と実績が買われて、山下・小鴨と共にバルセロナ五輪女子マラソン代表となった。それでも、有森よりも記録が良かった松野を落選させるという、日本陸連の不透明で曖昧な選考方法に抗議の声が殺到、有森の所属するリクルート等にも誹謗中傷の電話や手紙が相次いだという。
その後、有森と松野は20年間に渡って一度も互いに言葉を交わすことはなかった。後に『[劇場版]ライバル伝説 光と影』の映画鑑賞企画において20年ぶりに再会した際、有森は「20年間、松野明美を避けて来た」、「以前も何回か対面の機会はあったのですが、心情簡単には会えないなと思いまして、私の方が避けていました」と心情を吐露している[6]。

バルセロナ五輪で銀メダル [編集]

その1992年バルセロナ五輪女子マラソン本番での有森は、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワに追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイクの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げた。
しかし有森は、競技場へ入る直前でエゴロワに引き離されてしまい、惜しくも8秒の差で五輪優勝はならなかった。それでも2位入賞でのゴールを果たし、見事に銀メダルを獲得する。日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝以来、64年ぶりの五輪メダル獲得という快挙を達成する。奇しくも有森は人見と同郷(岡山出身)であり、その上銀メダルを獲得した日付も同じ8月2日(日本時間・現地では8月1日)というおまけも付いた。さらにその8月2日は、人見の命日(享年24で夭折)でもあった。
しかし、その後の有森は足底筋膜炎や、小出監督やチームメート等との軋轢等もあってスランプに陥った。「何故走り続けるのか」という事に答えが出ず、苦悩する時期が続いてマラソンは暫く走れなかった。その頃はよく、机の引き出しにしまっていた銀メダルを何度も見つめては「御免なさい」とつぶやき、メダルに向かって謝りながら泣いた事もあったという。さらには「もう死んでしまいたい」と、真剣に思い詰めたりしていたらしい。それでも「このまま選手生活を終わらせたくない」とも常に考えていた有森は、1994年足の踵の手術成功をきっかけに、再び走る事への意欲を持ち、次の1996年開催のアトランタオリンピックにも女子マラソン代表で目指す事を決意する。

アトランタ五輪で銅メダル [編集]

1995年、五輪選考レースだった北海道マラソンへバルセロナ五輪以来、約3年ぶりのフルマラソンに出走する。そのレース前日の記者会見で有森は、今までの苦悩を思い巡らせながら「もう一度スタートラインに立てて嬉しい」と涙を見せた。北海道マラソン当日は、気温25度前後と小雨の涼しい好条件の中をスタート。有森はレース前半から独走となり、粘り強い走りが復活。当時の大会新記録を樹立し、マラソン初優勝を遂げる。この成績が高く評価されて、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出。二大会連続の五輪出場となった。
1996年アトランタ五輪女子マラソン本番での有森は、30Km地点で2位集団を抜け出してスパート、トップを走っていたファツマ・ロバを追いかけ始める。その後33Km過ぎでは、前回のバルセロナ五輪に続いて、ワレンティナ・エゴロワとの激闘を繰り広げた。しかし35Km手前でエゴロワとは徐々に引き離され、苦しい表情を浮かべながらも3番手の位置を死守していた。

そして有森は優勝したファツマ・ロバ、2位のエゴロワに続いて陸上競技場へ入る。4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得した。二大会連続の五輪メダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初めての快挙である。

ゴール後のインタビュー(インタビュアーは、藤井康生【日本放送協会アナウンサー】)で「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った姿は感動を呼んだ。「自分で自分をほめたい」という言葉はフォーク歌手高石ともやが書いた詩の一節を引用したもので、この詩を初めて聞いたとき涙を流して感動し、いつかこの言葉を言いたいと暖めていたもので、その年の流行語大賞に選ばれた。なお、「自分で自分をほめてあげたい」は誤記である。

この年、肖像権の自主管理(それまで日本の陸上選手は、日本陸連が選手から肖像権の預託を受け、陸連が日本オリンピック委員会に一括して委託していた[7])を主張し、自らプロ宣言を行いCMに出演。事実上日本の「プロランナー」第1号となった。有森のプロ宣言や上述のライツの影響もあり、日本オリンピック委員会は選手の肖像権の一括管理を断念した[8]。




有森裕子さんの場合、何かの珍事が起こるような気がする。
これも彼女の他人いない‘資質’が醸し出す作用なのだろう。彼女には他人をどうこうする‘企み’など一切感じられない。

稀に見る優れた感性である。

2008年3月20日に認定特定非営利活動法人スペシャルオリンピックス日本の理事長に就任。
また、母校の日本体育大学で講義(教員・客員教授)を受け持ち、教員になるという若い頃の夢を実現させている。

今後も今の仕事を通じ、‘女桃太郎’となって、世界中に‘活力’を与え続けて欲しい。

今、スペインは、経済危機に陥っている。

あのバルセロナでの声援のお礼に、有森裕子さんと共にスペイン国民に‘元気を出して!’というメッセージを皆で送ろうではないか!

スペイン国の皆さん、元気を出して!

さあ皆さん、ご一緒に・・・、

‘Animo a todos los países de la España!’






























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[2012/06/20 11:42] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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