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寺内町(じないちょう、じないまち)<その1>
聞き慣れない言葉であるが、‘寺内町’と書いて、‘じないちょう’或いは‘じないまち’と読む。

これには悲しい歴史が隠されているという。

寺内町・久宝寺の地図
http://blogs.yahoo.co.jp/konngounomizu/16843992.html
久宝寺(大阪府八尾市) - 顕証寺、久宝寺御坊の模式図

寺内町・久宝寺のnishiguch
http://blogs.yahoo.co.jp/konngounomizu/16843992.html
「西口地蔵尊」 ≪↑≫

http://blogs.yahoo.co.jp/konngounomizu/16843992.html

 寺内町の興りは、戦国時代に蓮如が西証寺を創建したことに始まります。

     環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町の様相となり、

     戦国時代における一向宗の拠点のひとつとなり織田信長軍と闘っています。 
       



Wikipedia には、次のように解説されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E7%94%BA

寺内町(じないちょう、じないまち)とは、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落 のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。

寺内町は自治特権を主張または獲得し経済的に有利な立場を得た。これらの特権は、1530年代に大坂の石山本願寺が管領細川晴元から「諸公事免除(守護代などがかけてくる経済的あるいは人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされ、各地の寺内町が一揆を起こす理由ともなった。

商業地である門前町とは異なる



どんな地域に、この寺内町が存在する( or していた)かは、次のデータで判る。

主な寺内町 [編集]

伏木 (富山県高岡市) - 勝興寺
井波 (富山県南砺市) - 瑞泉寺
城端 (富山県南砺市) - 善徳寺
金沢 (石川県金沢市) - 金沢御坊
吉崎 (福井県あわら市) - 吉崎御坊
一身田(三重県津市) - 専修寺
金森 (滋賀県守山市) - 善立寺、金森御坊
赤野井(滋賀県守山市) - 赤野井東別院、赤野井西別院
山科 (京都府京都市山科区) - 山科本願寺
大阪 (大阪府大阪市) - 石山本願寺
金岡 (大阪府堺市北区) - 光念寺、長光寺、佛源寺(浄土真宗仏光寺派の寺内町)
富田 (大阪府高槻市) - 教行寺
枚方 (大阪府枚方市) - 順興寺
招提 (大阪府枚方市) - 敬応寺
出口 (大阪府枚方市) - 光善寺
久宝寺(大阪府八尾市) - 顕証寺、久宝寺御坊
八尾 (大阪府八尾市) - 大信寺、八尾御坊
萱振 (大阪府八尾市) - 恵光寺、萱振御坊
富田林(大阪府富田林市) - 興正寺富田林別院(富田林御坊)(重要伝統的建造物群保存地区)
貝塚 (大阪府貝塚市) - 願泉寺
大ケ塚(大阪府南河内郡河南町) - 顕証寺、大ケ塚御坊
尼崎 (兵庫県尼崎市) - 本興寺、長遠寺(法華宗の寺内町)
小浜 (兵庫県宝塚市) - 毫摂寺
今井 (奈良県橿原市) - 称念寺(重要伝統的建造物群保存地区)
高田 (奈良県大和高田市) - 専立寺
田原本(奈良県磯城郡田原本町) - 教行寺
下市 (奈良県吉野郡下市町) - 願行寺
御坊 (和歌山県御坊市) - 本願寺日高別院



この寺内町の起こりは、上記の引用にある通り、浄土真宗の中興の祖と言われた‘蓮如’にその息吹が始まる‘石山本願寺’である。

蓮如の像
http://www.arima-onsen.com/facility_info125.html
蓮如上人

http://www.ffortune.net/social/people
/nihon-muro/rennyo.htm


蓮如(1415-1499)

明応8年(1499)3月25日、現在の日本最大の宗教団体・浄土真宗の教団を確立し
た大宗教家、蓮如が亡くなりました。のちに慧燈大師の諡号をおくられます。

浄土真宗の中核寺院である本願寺はこれほど大きな宗教団体にしては珍しく、
開祖親鸞(1173-1262)の子孫が代々法灯を守ってきています。蓮如も親鸞の10
世の孫ですが、彼はすんなりと親のあとを次いで本願寺の法主の座についた訳
ではありませんでした。彼の父である本願寺7世存如には正妻の子もおり侍女
に産ませた子である蓮如にとっては不利でしたが、親類一同を巻き込む壮絶な
勢力争いを制して、本願寺第8世の座を手にしました。43歳の時です。

当時の本願寺というのは参拝する人も少ない寂れた寺でした。そのまた部屋住
みの身であった蓮如は若い日々を教義の研究に没頭していました。その一方で
は彼は27歳での最初の結婚以来、生涯で5人の妻に27人の子供を産せています。
そして本願寺の法主となると同時にその多数の子供を、男の子は各地の重要拠
点に派遣し、女の子は有力寺院などに嫁がせて、一気に全国的に浄土真宗の勢
力の拡大を図ります。これは当時の戦国の世において大名達が行っていた手法
を踏襲したものと言われます。

こういう強引な勢力拡大政策には当然他派の反発もあり、浄土真宗は多くの派
から攻撃されることになりました。しかし、しっかりした教義に裏打ちされ、
しかも熱っぽく分かりやすい蓮如の議論には他派の論客もかなわず、比叡山の
襲撃によっていったん京都を退いたものの、北陸を本拠地として庶民の支持を
えて農民たちの精神的支柱となり、大きく教団を成長させます。そして晩年に
は再び京都に戻って山科に本願寺を再建。85歳で大往生を遂げるまで精力的な
活動を続けました。

蓮如はこのように政治的に優れた宗教指導者であったのと同時に思想的にも高
いものを持った宗教家でした。彼は高い宗教的境地に到達したゆえに腐敗した
寺を嫌い野に寝起きした一休禅師とも深い交友がありました。俗を捨てて聖に
なろうとする心自体に民衆を切り捨ててしまう矛盾のあることを知る二人であ
ったが故に、どちらも大衆に人気のある宗教家でした。

蓮如の思想上の最大の功績は親鸞聖人の教えを分かり易く噛み下したことです。
現在真宗のお寺や在家信者が朝夕のお勤めに使用している「帰命無量寿如来、
南無不可思議光」で始まる正信念仏偈も蓮如がまとめたものです。





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%9
C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA


蓮如は

延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。明応5年(1496年)9月に坊舎の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が大坂の源流となったと言われている。建設は堺の町衆、北陸、摂津、河内、和泉の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。

証如影像/本願寺所蔵
なぜ大坂御坊が石山御坊とか石山御堂と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が永禄11年(1568年)に書いた史料によると、

明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々

—反故裏書
と記されている。これによると、柱礎に適した石が土中に揃っていたという不思議な状況に因んで、大坂を石山と呼称したようになったのであろうとしている。

蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。永正3年(1506年)に実如は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。

これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。


歴史的な事実を振り返ってみると、1500年頃から、秀吉が天下を統一し、その後家康が江戸城を開くまでの約100年間は、秀吉が君臨したわずか数十年を除いて日本国中が‘戦争’の繰り返しであった。

その戦争も、武士同士の戦争だけではなく、ここで取り上げたように‘武士団体と宗教団体との対立'をも含め大阪・京都を中心とした地方での大混乱は、貧困と過剰労働により一般庶民が安心して生活できる状態ではなかったと推察出来る。

それだけに時の為政者にあった‘己の出世欲’だけに止まらず彼等の‘天下統一の野望’も良しとせねばなるまい。

兎に角、徳川幕府誕生までの間の‘平和願望’での戦いのお陰で江戸時代の平和はその安泰ぶりだけを見てはならない。その礎にはどれだけに犠牲があったかも同時に味わう必要がある。

寺内町の歴史もそんな訳で悲しい戦争でのいがみ合いに多くの犠牲者を出した歴史でもある。

いまの観光客のうち、どれだけの人達がその地を訪れて、この悲しい物語を理解し今後の平和活動にその教訓を活かそうとするであろうか?

あそこの地酒が美味かったとか山菜は抜群だったとか景色が堪えられないのよ!といった己の馬鹿さ加減をひけらかす小金持ち旅行者の言い草には少々の憤慨を覚えるのは私だけでなくその地に埋もれた幸薄き一般農民の魂もきっとその場でそう思っているに違いない。

平和とは、そんな多くの犠牲を払わねば獲得できない代物である。

それを噛みしめるためにもぜひ是非歴史の重みを探究すべきであると思われる。

さて、この寺内町は、上述の通り石山本願寺という‘宗教団体’と天下統一を目指す織田信長軍団との一騎打ちが地方にも波及した日本の戦争形態では珍しい歴史である。
双方どちらにも日本の平和のためには多くの犠牲を払ってもとの意識が存在したに違いない。

宗教団体は、‘ソフトウエア’で、武士の団体は、‘ハードウエア’で‘天下国家統一’を目指したとのいい方も出来よう。

平和とは、ソフトでもハードでも平和でなければならない。一方だけが平和でもそれは真の平和とは言えないのである。

往々にして、一方だけで満足する輩が多過ぎてその取扱いには困る。

仲間を蹴落として自分だけが‘金持ち’になればいいと思う輩。金さえあれば何でも出来ると感じているからそうなるのかもしれない。そんな奴が、年賀状に「謹賀新年」と書かずに「金が信念」と書いたりする。

一方、精神さえ安泰であれば全てよし、とする宗教団体もある。これも度を超すと「オカルト教団」に見られるようなおかしな現象を蔓延らせる。

そんな意味で、ソフトとハードの戦いの歴史の遺産が「寺内町」という形で現在に残っていることを改めてかみしめたい。



(つづく)






















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[2012/06/29 03:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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