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喫茶去(きっさこ)
「喫茶去」という言葉がある。‘きっさこ’と読む。

随分昔からこの言葉とは‘お知り合い’になっている。
書道の先輩から教えられたからである。その先輩の字を‘色紙で貰った’ことがあり、今でも大事にしまってある。

喫茶去0001

その時、『この‘喫茶去’という意味は、「お茶を飲んだら(‘さっさと’)去れ!」という意味ではなく、「お茶でも一緒に飲みましょう」という意味だから、お間違いのないように・・』と言い含められていた。

最近、或る人から「もともと‘去れ!’の意味が正しい」というご意見を頂戴した。
これはこれは、曖昧なことではいけないという気になって来た。

広辞苑 第四版 p.631 には次のように書かれている。

喫茶去

【喫茶去】[仏]禅語。お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、後には、お茶でも召し上がれ、の意に解され、日常即仏法の境地を示す語と誤解された。


とある。

やはり、‘もともと’の意味は、‘…飲んで来い’という。‘…飲んで去れ’でないのは何故なのだろうか?

こうなったら、‘プロ’にご登場願うのが一番である。

臨済宗妙心寺派 宝津院 ホームページ ( http://www.kissako.org/houtsu/ )を見てみると、次のように親切に解説してある。

http://www.kissako.org/kissako/

「喫茶去」は「お茶でもいかがですか?」という意味です。
お茶でもいかが・・・ごゆっくり。

ただし、禅語としての「喫茶去」のニュアンスはそれとは少し違います。

しかし、それはそれとしてごゆっくりサイトをご覧いただければと思います。

「喫茶去」の本来の意味ですか? ・・・ 「喫茶去」

禅語「喫茶去(きっさこ)」

● 相反する意味

  茶席の禅語、あるいは禅語をやさしく解説した本を読むと、
 「まあ、お茶でもお飲みなさい」と解説されます。

しかし、禅語としての本来の意味は「お茶でも飲んで去れ」
 あるいは「お茶でも飲んで来い」と叱咤する語
です。

広辞苑にも以下と書かれています
 「お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、
  後には、お茶でも召し上がれ、の意に解され、日常即仏法
  の境地を示す語と誤解された」


● 趙州喫茶去

  この言葉は次のような話にちなんでいます。

趙州禅師のところに二人の修行僧が来た。

師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧一: 来たことがありません
師 : 喫茶去

もう一人の僧に趙州がたずねた。

師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧二: 来たことがあります
師 : 喫茶去

院主が師に尋ねた。

院主: 前に来たことがない者に『喫茶去』とおっしゃり、前にも来たことがある者にも、『喫茶去』とおっしゃる。 なぜですか?
師 : 院主さん!
院主: はい。
師 : 喫茶去

● 意味を拾えば

訓註 禅林句集(改訂版)
  「まあ、お茶を一杯召し上がれ」 

茶の湯 禅語便利長 (主婦の友社)
 「喫茶はお茶を飲むの意味、去は意味を強める助字。
  従って、お茶でも飲もうよの意味」

禅語字彙 (柏林書店)
 「茶でも飲んで行け」の機語。

禅語辞典 (恩文閣出版)
 「喫茶し去れ」お茶を飲んでから出直してこいの意味。

禅林名句辞典 (国書刊行会)
 「むずかしい話は抜きにして、まあお茶でも召し上がれ。
  お平らに、お楽にという意味」

● 結局のところ

  これがどちらの意味でも、よいと思います。 どちらの意味にしても、人生を豊かにする教訓が含まれています。

ちなみに、「ゆっくりお茶でもお飲みください」は「且座喫茶(しゃざきっさ)」と言うべきなのです。



上記引用文から、結論として「これがどちらの意味でも、よいと思います。 どちらの意味にしても、人生を豊かにする教訓が含まれています。」と言われてしまうとそれはそれまでなのだが、内容・意味・歴史(?)を知っているのといないのでは大違いなのである。

因みに、上記引用文の中で次の事が気になった。

茶の湯 禅語便利長 (主婦の友社)
 「喫茶はお茶を飲むの意味、去は意味を強める助字。
  従って、お茶でも飲もうよの意味」


そこで、「去」の字に‘助字’の意味があるかどうかを「漢和辞典」【 新選漢和辞典 机上版 (小学館)】で調べてみた。

喫茶去0007

少なくともこの漢和辞典には‘去’の文字が‘助字 or 助辞’として使われるという記載は見つからない。

しかし、次の文献では、‘助辞’と言っている。

http://nihonnokakejiku.blog135.fc2.com/blog-entry-21.html

「喫茶去」の「去」は命令形の助辞で、単に意味を強める助字と見て「お茶をおあがり」という意味に解する説と、臨濟録の「且座喫茶とは異なり、「茶を飲んでこい」あるいは「茶を飲みにいけ」で、茶を飲んでから出直してこいと相手を叱咤する語であるとする説とがある。趙州が三者に対し一様に「喫茶去」と言ったのについては色々な解釈がある。

道元禅師は「いはゆる此間は、頂〓にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗管道曾到不曾到なり。このゆゑに、先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶(誰か畫樓沽酒の處に在つて、相邀へ來つて趙州の茶を喫せん)。しかあれば、佛祖の家常は喫茶喫飯のみなり。」という。



誰か‘道元禅師の言っていること’を解説してェ~・・・!



<追記>

広辞苑で調べようとする際に、広辞苑そのものは重いから、「CASIO]の‘EX-word’を使う。
これで‘喫茶去’を調べてみた結果が次の写真。‘大発見’である!

画像ー13 027
画像ー13 027 posted by (C)mobaradesu

‘本物の’広辞苑の写しには、上述の通り

【喫茶去】[仏]禅語。お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、後には、お茶でも召し上がれ、の意に解され、日常即仏法の境地を示す語と解された。

とあるのだが、「CASIO]の‘EX-word’の喫茶去の画面には、‘誤解’の‘誤’が抜けて‘解’となっている。これでは意味が異なって来るに違いない。

しかし、‘誤’が抜けてなくなっていると指摘した場合、「・・我が方には、‘誤りがない’」と言われるのが‘落ち’かもしれない!






























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[2012/07/01 14:55] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top
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