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中秋の名月:台風通過の一日始末記
昨日(2012年9月29日)、今日の中秋の名月は、台風17号の日本上陸が予報されていたことから、念願の‘水平線からの満月の頭出し’を拝む訳にはいくまいということで、千葉県・茂原市付近の外房海岸へ出かけては見たが、雲が厚く海岸線からの月の出観測は見事に失敗した。

このことは昨日の弊ブログに認めておいた。

そんな訳で、2012年9月30日の‘中秋の名月’を中心に画像でおっかけてみた。

昨日の夜、ほんの一時だけ‘一日前の中秋の名月’が我が家の玄関先(外房海岸線から直線距離で約6km)に顔を出した。

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9月29日20:55

一日前の中秋の名月が「遅ればせながら、やっと・・・」という顔つきをしている。

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9月30日03:04

9月30日になって、17号台風はまだ関東地方には影響していない為に、雲一つない程の‘晴天’である。
でも、この月は、9月30日にはなったものの、やはり中秋の名月とは言わないのかもしれない。その日の‘月の出’以降の月を‘本当の’中秋の名月と言うのだろう。でも素人にはその区別はつかないが・・・。

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9月30日03:05

兎に角明るい。この写真は当然‘フラッシュ’を使っていない。人間の眼の瞳孔は、カメラ以上に明かりを取り入れることが出来る場合もあると見えて、肉眼で見た場合、この写真よりも‘明るく’感じられた。03:05だから、周りはみんな寝静まっている。いわゆる‘丑三つ時’を少し超えた時間帯である。

これだけ明るければ、新聞だって、見出しの活字くらいは楽に見える。

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9月30日06:35

さて、夜が明けて、朝方の6時半を過ぎれば、この季節はもうこんなに明るくなっている。
昨日の丑三つ時超えに撮影した場所とほぼ同じアングルである。勿論、お月さまは西の空から消えてしまっているが・・・。

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06:36

このアングルの方向を眺めていたら、急に鳥の集団が現れた! でも烏(カラス)とは違うようだ。

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06:37

鳥の集団が、此方へ近づいてきた!一羽だけ、何故か‘白い’のが混じっている。

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06:37

ここで、‘旋回’し始めた。

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06:37

同じ写真をPCで拡大して見た。明らかにカラスとは違う。こんな時、専門家ならこれは‘これ’と判断出来るのだろうが、こちとらは、自慢じゃぁ無いが、鳥は‘カラス’、‘ハト’、‘サギ’、‘ツル’、‘ツバメ’か‘スズメ’ぐらいしか区別がつかない。‘タカ’と‘ワシ’の区別も知らない。

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06:37

でもこんな‘編隊’を組むのだから、きっと‘渡り鳥’に違いない。

月と真雁
http://yamataka.blog.ocn.ne.jp/abasoto/cat6092788/

この写真は、他人様のものだが、‘マガン’と書かれている。丁度中秋の名月のあたりに移動するのだろうか?

マガン
http://www5.famille.ne.jp/~kabukuri/06wildlifes2007.html

天然記念物のマガンが、今年もシベリアから蕪栗沼に渡ってきました。9月22日に最初の24羽が沼に降り、25日には近くの田んぼで落ち穂を食べていました。マガンの数は、12月にピークとなり、宮城県全体で10万羽以上になります。 9月22日、昨年度より一日遅くマガンが蕪栗沼にやってきました。マガンは、ハクチョウやカモと同じガンカモ科の渡り鳥で、翼を広げると150cmにもなる大きな水鳥です。シベリアの北極圏に近い場所で子育てをして、4000kmもの渡りをして日本にやってきました。


マガンとは、こういう鳥らしいから、私の撮った06:37の写真とはどうやら違うものらしい。この先‘ガマン’して‘マガン’の調査でもしてみますか?

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06:47

やっと地上にも朝日が入り始めた。こんな穏やかな日に台風が来るなんて・・・。

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お昼からは、外に出してある花鉢の移動。玄関も臨時花壇になってしまった。

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靴脱ぎだって・・・。

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22:35

台風の真っ最中に、これこそ本物の‘中秋の名月’が姿を現した!

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22:36

真っ黒い雲が、猛烈なスピードで南から真北へ流れて行く、その合間の一瞬!
九州に住んでいたころに、やはり台風には何度も出くわしたことがある。台風の‘眼’の中に入ったこと何度かはあった。台風の眼の中では‘風は吹かない’。最初は、千葉県・茂原市の真上を17号が通過して‘眼’に入ったのかとも思ったが、風は滅法強い。風速30m/秒位の感じである。従って、眼ではない!

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22:42

雨は止んでしまったが、猛烈な風である。竹が大いに‘しなって’いる!

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22:52

また、中秋の名月が顔を出した。

画像ー55 223-2
22:52

直ぐに雲が隠してしまう。これで今年の中秋の名月は‘見納め’と言う事になってしまった!

願わくは、明日の‘十六夜の月’の‘水平線頭出し’を拝みたい!

(つづく)















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[2012/09/30 23:35] | 観光 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
中秋の名月:海岸水平線からの頭出し撮影(その2)
台風17号と18号が同時に日本列島に近付きつつある。

18号はどうやら逸れるらしいが、問題は17号である。

台風17号の針路
http://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/typhoon/1217.html

これじゃあ、9月30日の‘中秋の名月’を関東地方では、見れないに違いない。

9月30日の‘月の出’は、茂原市や白子町の海岸線では、次の時間帯になっている。
(以下の図面及び月の出等の時刻表の出典:http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10508/cgi/Srss2.php

日の出・日の入り、月の出・月の入り、9月30日ー20001-2

千葉県・茂原市&白子町での9月30日の‘月の出’時刻は、下表の通り、17:10(±2)であるが、台風17号の予想進路とガチンコしてしまう。

日の出・日の入り、月の出・月の入り、9月30日0001-2

そこで、一日前の今日(29日)と一日後の10月1日の月の出時刻を調べてみた。

日の出・日の入り、月の出・月の入り、9月29日0001-2
日の出・日の入り、月の出・月の入り、10月1日0001-2

上表の通り、千葉県・茂原市~白子町近辺の太平洋海岸での‘月の出’時刻は、

9月29日: 16:38(±2)

9月30日: 17:10(±2)

10月1日: 17:42(±2)

となっている。この表からすると、月の出時刻は、‘一日に約32分’ずつ遅れる、と言う事のようだ。勿論緯度が違う所ではそれなりに違うはずであるが、ここ千葉県・茂原市近辺では、そうなるらしい。

因みに、‘日の出’の方は‘一日に約1分’ずつ遅れることが読み取れる。と言う事は、夏至と冬至では、日の出の時刻が約180日分、つまり3時間違うという訳である。夏至で4:30だとすると、冬至では7:30頃と言う事になる。

そんな訳で、今日(2012年9月20日)、月の出の時刻16:38に合わせて外房海岸へ出かけてみた。

果たして、念願の‘水平線からの月の頭出し’が拝めるのか?

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16:37

±2分はあるものの、1分前であるが、残念ながら水平線の頭出し方向・位置(これは上図で確かめてある)は、かなり厚い雲で覆われていて、月は見えない。ましてや、今日の‘日の入り’は、17:23(±2)だからまだ明る過ぎる。

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16:38

西側にカメラを向けると、まだ沈んでいない‘太陽’がいる。

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16:39

我々の影が、なが~く伸びている、ということはもう太陽様はお隠れになる寸前(と言ってもまだ40分近くあるが)であることが判る。それにしてもなかなか東側の水平線は晴れてくれない。

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16:42

犬連れで海岸を散歩しておられる二人組が目の前を横切られているが、その向うの水平線は、却って雲の厚さが増したようにさえ感じられる。今日も無理かも?!

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16:44

南の方面であるが、だ~あれもいない。やはりこちらも雲が厚い。

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16:44

反対に此方は北の方面。此方も人っ子一人いない。やはり、‘トア・エ・モア’状態。

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16:44

此方は、真東。この画面の左手のところから‘月の頭出し’が実現する。もう実現しているのだろうが、雲が邪魔をして見えないだけ!

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16:46

西側を見ると、いつもは綺麗な夕焼けのはずだが、今日は夕焼けも綺麗にはならない!

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16:48

10分が経過した。もう月は満丸になっている頃かもしれないが、その気配も感じられない。

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16:49

また犬の散歩。もうこれじゃぁ、多分月の顔さえ拝めないに違いない! 明日は、台風17号。残念ながら、今回も諦めることにした。

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16:52

カーナビまでが、さびしそうな顔をしている。

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16:54

帰途についた道路での最初の白子町の交差点。何故かいつもここでは赤信号に引っ掛かる。

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16:54

この辺は白子町の‘繁華街’。こんなホテルが10数軒あって、東京から大学生・高校生・中学生達が夏休みにはテニス合宿で大賑わいするらしい。今日は土曜日なので、ちらほらと学生達も歩いている。屋内コートだって何面か準備されているという。

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16:56

もうそろそろ暗くなり始めているのに、まだまだ頑張っているようだ。

そんな訳で、今回の中秋の名月前日の‘月の水平線頭出し’を拝むことは出来なかった。明日の本チャンは勿論台風で拝めない。残るは10月1日の‘十六夜’に賭けるのみ。台風一過で望みはある!

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20:53

21時近くになって、やっと自宅の玄関先に、一日前の‘中秋の名月’様がお出まし遊ばした。
湿度が高いと見えて、ぼんやりと霞んでいる。画面の下部に黒~く見えるのは‘杉の木’。

画像ー55 050-2
20:53

望遠で撮ってみたが、一日前とはいえ、ほぼ満月に近い!

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20:54

露出時間の調整次第で、こんな風にも撮れる。

さあ、十六夜の月に期待して!台風17号様、どうか外房の雲を一緒に連れて行って・・・。

(つづく)





























[2012/09/29 23:01] | 観光 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
和歌を俳句に 俳句を和歌に‘変身’?
俳句は、最短の文学と言われる。そして、それに続く最短次席は、和歌である。17文字と31文字、その差はたったの14文字であるが、いずれにも‘優れた特徴’がある。

俳句は、その短さ故に、色々な工夫がなされた。

‘季語’という発明である。季語を使うと、例えば‘今は秋ですよ’と言わないで‘秋の状況’を想像することが出来る‘仕組み’になっている。

‘名月’というだけで、‘秋’の満月を俳句を知る人は‘間違いなく’連想出来る仕組みなのである。

俳句も日本文化も知らない外国人には、この‘仕組み’=‘ルール’は理解出来ていないから、説明が要る。

因みに、‘Google’の翻訳機能を使ってみると、

・名月(めいげつ)→ Bright moon <名月は、陰暦8月15夜の月を指す。中秋の名月のこと>

・満月(まんげつ)→ Full moon  <満月も季語として使う場合は‘秋’>

だから、‘秋’という感覚は表現されていない。もっとも、外国人は‘Bright moon’と聞くと‘秋の満月’を想い起こすのかどうかは知らないが・・・。

そして、俳句の‘最大の特徴’の一つは、‘嬉しい’だとか‘悲しい’だとかを‘その直接的表現’を使わずに別の文語で表現することである。

したがって、俳句のその境地を実感として味わったことのない御仁にとっては、「それが、どうした?」ということになって、「俳句のどこが面白いの?」という結果となってしまう。

‘噛めば噛むほど味が出る’という。噛まないで‘味だけ’享受しようとしても、それは本来の‘奥深い味わい’には当然到達出来ない。

9月の後半になると、最大のメディアであるTVが、各局ともこぞって3時間番組をゴールデンタイムに放映する。何の奥行きもない痴呆タレントを大勢集めて・・・。

一寸眼には、面白い場面もあるが、15分で飽き飽きする。‘芸’や‘知識’に奥行きが無いから、○×式のクエッションには正解を出しても奥深い解説には程遠い。

その点、‘落語’という日本の古典芸能には深みがあり、奥行きがある。しかし、TV番組には採用されない。

これは由々しき事である。受け入れ側も供給側も‘受験’での成績で点数の良いことがいいことだという、全くつまらぬ価値観を持ってしまった20世紀最大の過ちである。

じわじわと‘ボディブロー’が利いて来て、表面・上っ面だけしか見えない、そして己のためだけの価値観しか持たない‘官僚’を作ってしまったから、日本の外交は上手く行かない。

日本が世界に誇る最大の文学‘源氏物語’における‘権謀術策’や反対に‘他人への思いやり’のこころ持つという気概を日本人がもう少し幼い時から訓練されていれば、こんな惨めな現状にはならなかったに違いない。

この傾向は、中国にも韓国にも、そして西洋にも見られて、‘文明の発達スピード’を良しとした根本思想が間違っていたことを証明するものであろう。

もう少し‘進化の速度’は遅い方がいい!

日本人は、今やその魂のあり方を根底から勉強し直してみよう!と言う訳で余りにも‘飛躍’した、そして、‘こじつけの論理展開’で、こんなことを・・・。

そんな訳で、‘和歌で詠まれた情景’を‘俳句’にしてみたら、どんな俳句になるのか?
反対に、文語数足らずの‘俳句’を14文字付けくわえて‘和歌’にしたら、どんな生まれ変わりをするのだろうかと考えた。

こうすることによって、‘俳句の良さ’&‘和歌の良さ’を十分理解出来ることになるのではないかと想像出来る。

それが、延いては世界民族の理解へ繋がる???のではないかと勝手に想像して・・・!


(1)先ず最初の課題:和歌を俳句へ‘転換’したら・・・、の巻

「秋来ぬと・・・」(秋こぬと、とは読まないように!)

秋きぬと
http://brush.art.coocan.jp/snap11-15d.html

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども
 風の音にぞ驚かれぬる (藤原敏行)
 たれをかも知る人にせむ高砂の
 松も昔の友ならなくに (藤原興風)」


此の前半の和歌が本日の主題。

この和歌には、次のような素晴しい‘解説’が付いている!

http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-549f-1.html
秋来ぬと

                               藤原敏行

  秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

                            (『古今集』・169)

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 藤原敏行(ふじわらのとしゆき) 生年不詳~延喜7年(907年)または延喜元年(901年)。平安時代初期の歌人、書家。藤原南家の藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麿の子。従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人で、家集に『敏行集』がある。
 空海とともに能書家としても名高い。『古今集』に十六首、『後撰書』に四首が採られている。一世代前の歌人と比べて技巧を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、六歌仙の一人の在原業平(ありわらのなりひら)から紀貫之(きのつらゆき)へ橋渡しをした歌人である。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「藤原敏行」の項などより)

 本歌は『古今集-秋歌』の冒頭に掲げられており、立秋の日に詠んだと言われています。「秋が来たと目にははっきりとは見えないけれど、風の音にハッと秋の気配を気づかされたことよ」というような意味となります。

 この歌が詠まれた背景として、「立秋の日から風は吹き渡るもの」という当時の常識があったようです。それは「生活実感に基づいた常識」というよりは、平安貴族たちの「文学的な常識」です。したがってこの歌もそれを踏まえて詠まれたのであり、実景をそのまま詠んだわけではなく、写生的な要素のまったくない心象風景の歌であるのです。

 さはさりながら、写生さながらの「目にはさやかに見えねども」「風の音にぞおどろかれぬる」。この描写の確かさ、豊かな感性には「驚かされ」ます。視覚と聴覚の対比が実に巧みだと思います。見ても秋は感じられないが、風の音ではじめて秋の気配が感じられたというのです。写実に迫る、あるいは写実を超える「イマジネーションの力」というようなことを考えてしまいます。
 
 赤子が獲得する五感は、視覚よりもまず聴覚だそうです。興味深いことにこの歌は図らずも、赤子の成長のプロセスと符合しているわけです。そこに、ともすると平安貴族という高等遊民の「言葉のお遊び」に堕してしまいがちだった、後代の和歌と一線を画する何かがあるように思います。
 それらの言葉のお遊びとは、イマジネーションの深度が何段階も違うようなのです。それがこの歌を古今有名なものとし、後世多くの類歌、類句が作られたゆえんなのではないでしょうか。

 ところで、ハッと驚かされた「風」とはどんな風だったのでしょう?その風とてもイマジネーションの中の風であるわけです。人のイメージの世界を盗み見ることは不可能です。ですから作者・藤原敏行にしか分からない風です。がしかし、「強い風」だったのか「弱い風」だったのだろうか、という問いかけだけはしたくなります。

 さてどっちだったのでしょう?二百十日前後に吹き荒れる野分(今の台風)のような激しい風だったのだろうか。そうすると確かに「風の音」が現実味を帯びてきます。しかしこの歌が詠まれたのは立秋、それにこの歌の風趣からしてそのような凄まじい風はそぐわないように思われます。
 案外、涼を運んでそよと吹くような微風だったとも考えられるのです。ですから本来は風音など聞こえないはずです。しかし藤原敏行は心の耳でしかと風の音を聞いた、それは秋の気配を感じさせて思わずハッと驚かされる確かな音だった…。

 (大場光太郎・記)

(筆者註)大場光太郎氏:http://be-here-now.cocolog-nifty.com/about.html
神奈川県厚木市在住。
山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)出身
自宅にて行政書士事務所開業満12年。
趣味は読書、詩、俳句など。
森羅万象探求者(雑学大好き人間)。



さ~て、この古今集の‘名和歌’をどうやって‘名俳句’に転換するか?

兎に角、‘14文字’を削らねばならない!

 最後の‘14文字’を単純に‘カット’してしまえば・・・、

 秋来ぬと目にはさやかにみえねども

となった、俳句の‘5、7、5’にはなるが、‘それがどうした!?’である。

 上述の解説にあるように、‘視覚と聴覚’の対比で‘聴覚優位’を出さねばならない。しかも‘秋’という、そんな直接的‘季語’を使っていいのだろうか? でも取敢えず・・。

目に見えぬ風の音聞き秋を知る

これじゃあ、小学生の‘作文’である。

 少し勝手に情景を変化させてみる。

微睡(まどろ)みて風の音にぞ秋を知り

まだまだ‘文学’に到達しない!

 もっと「イマジネーション」を働かせて・・。

名月や風の音から教えられ

これも駄作。解説なしには判らない!全く元和歌の雰囲気は無い!

⑤ それならと、いよいよ‘盗作’!

秋風や根岸の里の侘び住まい

これじゃあ、何の意味もない!

 いい加減に‘力作’を・・。

名月もきっと驚く風の音

名月も人も驚く風の音

目に見えぬ風の音こそ秋運び

風の音名月さえも驚かせ

名月と語り始めた風の音

秋来ぬと思わせぶりな風の音


ああ、これじゃあ、俳句の‘は’の字にも辿りつけない!

 最後に芭蕉の句の作り替えを

身にしみて大根からし秋の風  はせを

身にしみて音だけを聞く秋の風  Kissy


(つづく)

次回は、芭蕉の「古池や・・・」を和歌に変身!













[2012/09/28 19:11] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
アイディア一杯の100円ショップ
100円ショップに行って驚くのは、① その商品の種類の多さ ② アイディアの豊富さ、そして③ 値段の安さ である。

昨日(2012年9月26日)TV/朝日で、何と‘100円ショップ’の最新情報 が放映された。

「最新ランキング」という。

http://www.tv-asahi.co.jp/onegai/up_rank/120926/index.html
2012/9/26

すぐに欲しくなる!100円ショップ「キャンドゥ」商品総選挙開催!

全国に825店舗を展開し、生活に根差している100円ショップといえば「キャンドゥ」!

この1年間で発売された最新100円グッズ、さらにはロングセラーを誇るグッズの中から
専門家が本当に欲しいと思った商品を得点順で発表!

収納用品はもちろん、キッチン・お風呂グッズやアイデア商品までトータル20商品を
一挙にご紹介しちゃいます。

アイデアあふれる商品、多機能な商品、グッズのプロを唸らせる商品続々登場!

※商品は全て105円です。以下が今度発表された‘ベスト10’である。

最新ランキング|お願い!ランキング|テレビ朝日0001-2最新ランキング|お願い!ランキング|テレビ朝日0002-2


ベスト10が示されているが、私が気に入ったのは、次の3点である。私の評価順位は、①,②,③で・・・。

① 第5位:「ワンタッチ針」

評価:針の穴を形成している金属に‘切れ目’を入れるなんて! 天才の発想だ! 敬服!

ワンタッチ針
http://ameblo.jp/shibukazu999/image-10874267321-11191176678.html

ワンタッチ針拡大ー2
http://blog2.lively-now.com/?cid=14851

67.jpg
http://smastation.info/00%E5%86%86%E3%8
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針の穴の頭のくぼみから、糸を押しつければ、‘見事に’糸は針の穴に入るという寸法だ! 老人・老人予備軍天国の日本に最適だ!


② 第3位:「立つしゃもじ」

評価:本当に‘しゃもじ’は、ご飯をよそった後での置き場所が無い! 立つだけでなく‘横置き’まで・・。素晴しい!の一言。

立つしゃもじー1
http://amizuki.exblog.jp/10957780/

立つしゃもじ
http://amizuki.exblog.jp/10957780/

これには解説は要らない。

③ 第6位:「コードタグ」

評価:これまた結構!本当に助かる。

コンセントには色々なコードが差し込んである。これを区別しようというもの。どの装置のコードかは、‘手繰らないと’判らないから、‘タグ’を付けとこう、という‘駄洒落’でもある!

tag1.jpg
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kei100yen_choi
ce3/view/20120508/1336410962


使い方は、この通り!

コードタグ
http://item.rakuten.co.jp/hyakuemon/yamada-758/

ベスト10に選ばれた商品は、いずれも素晴しい! 

また、百円ショップに行く楽しみが増えた。

ところで、日本国中にある‘百円ショップ’の数は? その前に‘100円ショップの歴史’について。


http://ja.wikipedia.org/wiki/100%E5%86%86%E3%
82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97


歴史 [編集]

前史 - 十銭ストア [編集]

現在の100円ショップに近い業態を営んだ戦前の例として、高島屋が全国に展開したいわゆる『十銭ストア』が挙げられる。 1926年(大正15年)に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、1930年(昭和5年)には難波南海店に「高島屋十銭ストア」[1]を開設[2]。その後1932年(昭和7年)にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開し、大好評を博したという[2]。 1937年(昭和12年)に施行された百貨店法によって規制が強まると、高島屋は均一店事業を本社から切り離して「株式会社丸高均一店」を設立[2]。1941年(昭和16年)には全国に100店を超えるチェーンを築いたが、その後の太平洋戦争により経営基盤を奪われ、実質的な廃業に至った。なお、残存したいくつかの店舗は1952年(昭和27年)に「株式会社丸高」のストア部門(後に「高島屋ストア」)として再出発し、2003年(平成15年)にはイズミヤに買収され、商号を「カナート」へと変えて現在に至っている[2]が、戦後のこれら店舗はいわゆる100円ショップの業態をとってはいない。
1935年頃を1とした場合の現在の物価指数はおおまかにいって1,800前後であり[3]、当時の10銭は現在の180円程度に相当するということになる。
「十銭ストア」の取り扱い商品は「日常家庭生活に必要なものは殆ど全部」に及んだ[2]。商品調達にあたっては均一店専門の納入業者を開拓、生産者との直接取引を導入するとともに、生産者への指導・援助も行い、均一店向けの商品開発や商品の標準化にも積極的に関与したという[2]。

1960年代の催事販売 [編集]

100円ショップに見られるような均一低価格による販売手法は1960年代から行われていたが、当時のそれはスーパーや百貨店などの催し物として1週間程度の期間に限るものであった。この販売形式を「催事販売」、これを行う業者を「催事業者」と呼び、催事業者らは各店舗を定期的に巡回して催事販売を行った[4]。この様な場で販売される商品の大半は、100均メーカーと呼ばれるメーカーの商品を中心に安定供給出来る定番商品と、これに質流れの金融品や仕入先が何らかの事情で現金化を急ぐために販売した「処分品」と称される商品からなり、当時100円以上で販売されていた商品も含めすべてを100円で販売した。さらに販売後のトラブルに対応するためスーパーなどに取引口座を開設し、クレームなども催事販売をした店舗を通して対応しながら、各地への移動を繰り返しながら販売を行っていた。

1980年代~固定店舗の出現 [編集]

日本初の100円ショップ「ライフ」

日本初の100円ショップ

従来の催事販売はしばしば好評を博していたが、1985年3月に有限会社ライフの創業者・松林明が愛知県春日井市に日本初の固定店舗による100円均一店をオープンし「100円ショップ」と命名して販売を開始した。その後現在の100円ショップチェーン最大手の大創産業(「ダイソー」)創業者の矢野博丈は商品の品質アップに力を入れる(一部には採算割れの商品も含む)ことで、催事販売を依頼するスーパーや百貨店の信用を勝ち取り、1991年に最初の常設店舗を開設した。これ以後は「キャンドゥ」「セリア」「ワッツ」といった、後に株式公開する同業の他社も参入して店舗網を広げた結果、新たな販売チャンネルとしてメーカーから認知されるようになり、バブル崩壊後の日本の経済状況(物価の上昇のないデフレーションの状態等)ともあいまって急速に店舗数が増加し、「不況時代の成長業界」とも称されるようになった[4]。また2000年代からは100円ショップ型の生鮮コンビニという業態も登場し、その先駆けとして1996年に九九プラスが「SHOP99」(現 ローソンストア100)が出店を開始した。
その結果、2010年までには、いわゆる「バッタ屋」時代に主流だった、金融品や処分品を安く仕入れて販売することは少なくなり、大量の店舗による販売力を生かして国内外のメーカーへ自社専用商品(プライベートブランド)の形で大量に生産を委託することで、仕入れ価格のダウンと品質の確保を両立させることが多く行われるまでになった。たとえばダイソーでは、数百万個という単位での「一括製造」を行いコストを下げている。しかし、製造コストは下がるものの、在庫コストは莫大なものとなる。


100円ショップの‘店舗数に関しては、探し切れない。

御参考までに、‘ダイソー’さんの店舗数は、以下の通りである。

http://www.daiso-sangyo.co.jp/company/profile/index.html
店舗数

国内 … 2,680店舗(2012.5)
海外 … 28カ国、658店舗(2012.5)



コンビニに比べれば、まだその数は少ないが、‘おもろい’商品は、圧倒的に多い。これから、またどんな‘珍商品’が登場するのだろうか? 楽しみである。

















[2012/09/27 23:45] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
雨後の‘きのこ’(その1)
‘雨後のタケノコ’という言葉がある。物事が相次いで出て来ることを丁度‘タケノコ’が一雨ごとにニョキニョキと出て来ることに准えての表現である。

こういう時には、‘動き’の原因があり、それに連鎖反応まで手伝って、予告なしに表面に出て来る事まであり得る。

今の季節だから‘雨後のきのこ’と言っていいのかも知れない。

‘きのこ’には、‘絶品’と言われる特上品から‘毒キノコ’まで、極めて範囲が広い。

そんな訳で、数日前誕生した、また本日(2012年9月26日)誕生した‘新’の付く人達を、更に今後誕生するに違いない‘新’の付く人達を‘きのこ’に例えるなら‘どんなきのこ’と呼べるだろうかと考えてみた。

(1) 民主党‘新’代表 : 野田佳彦氏  → ホコリタケ科の‘オ二フスベ’

野田佳彦
http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2012/01/11/10syusyo/
民主党‘新’代表・野田佳彦首相

野田佳彦首相(55)が1回目の投票で計1231ポイントのうち3分の2に迫る818ポイントを獲得、他の3候補に大差をつけて再選された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8
B%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%99

オ二フスべの特徴

Calvatia nipponicaは日本特産で夏から秋、庭先や畑、雑木林、竹林などの地上に大型の子実体を生じる。一夜にして発生するので驚かれるが珍しいものではない。
子実体は白色の球状で、直径は20~50cmにも達し、あたかもバレーボールが転がっているように見える。幼菌の内部は白色で弾力があるが、次第に褐色の液を出して紫褐色の古綿状になる。これはグレバと呼ばれる乾燥した菌糸組織(弾糸)と担子胞子から成る胞子塊である。成熟すると外皮がはがれて中の胞子塊があらわれ異様なにおいを発生する。胞子塊が風に吹かれると次第に弾糸がほぐれて胞子を飛ばし、跡形もなく消滅する。胞子は球状で突起がある。
肉が白い幼菌は皮をむいて調理し、はんぺんのような食感で食用になる。味はうまくもないがまずくもない。
今まで長らく、一夜にして急に発生する特徴からオニフスベの成長を捉えた映像が存在しなかったが、日本テレビの番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の企画「DASH村」において、シイタケ栽培記録用に24時間体制で回していた観察カメラが脇にたまたま生えたオニフスベをとらえ、偶然にもその成長の様子を記録することとなった[2]。


さて、‘オ二フスべ’を‘きのこ図鑑’で見てみると次のように解説してある。

http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AA%E3%8
3%8B%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%99

きのこ図鑑・社団法人 農林水産技術情報協会

オニフスベ
学名:Lanopila nipponica (Kawam.) Y. Kobayashi
(ホコリタケ科 オニフスベ属)

オ二フスべきのこ図鑑

夏から秋にかけて庭先や畑などに発生する。庭先にボールのような変なものが生えてきたとか、竹やぶに人間の頭蓋骨のようなものが捨てられていると騒がれることがある。 大抵はこのオニフスベの仕業である。若いうちは食用になる。

[特 徴]
きのこは球形ではじめは白色。大きさは人間の頭ほどになる場合もある。きのこが成熟すると茶褐色になり、胞子を飛ばす。胞子を飛ばすと最後には何もなくなってしまう。



http://kinoko-ya.sakura.ne.jp/00jap/onifusube01.htm
オニフスベ
Lanopila nipponica (Kawam.) Y.Kobayashi

オ二フスべ試食

3年ぶりでオニフスベを試食した。径十五センチほどの幼菌である。下部の虫の入った部分を切り捨て、包丁で皮を剥く。リンゴを剥くのとは違って、包丁を当てて引っ張るだけで厚さ一ミリほどの外皮がすーっと剥ける。真っ白なケーキのようだ。これを厚さ一センチほどにスライスする。その感触もスポンジケーキを切る時に似ている。

まず、生でかじってみた。ごくありふれた菌臭なのだが、マツタケの香りと反対で、決して好ましい匂いではない。くせの強い生木をかじっているような味がする。以前に試食した時は、紙のような繊維質が歯に残ったのだが、こんどのはきのこが若いせいか、すっと喉に落ちる。ただ、生木のような味とともに歯とその周辺に残ったわずかな残滓がけっこう気になる。味が口の中に滞留するのである。

次にオーブンで焼いてみた。焼くと少し茶色っぽくなる。醤油をかけて口に入れた。あの菌臭はそのままで、舌触りも生の時と大差ない。はっきり言ってまずい。次にフライパンに油をしいて炒めてみた。やや焦げ目を付けてから口に運ぶと、これまた生で食った時と大差ない。焼いても炒めても、菌臭が消えないのである。

つぎに賽の目に切って味噌汁に入れてみた。豆腐と違って汁の上でプカプカ浮いている。十分熱が通った頃合いをみて碗によそり、口に入れる。やはりまずい。じつにまずい。図鑑には「食」と記されるキノコだが、「採ったけど、まずいから結局捨てた」という話をよく聞く。だったら、採らないことだ。そのひと言を言いたいための試食だった。おそらく、ヨーロッパで食されているジャイアント・パフボールと混同されているせいだろう。図鑑に「食」とあるせいで、どれだけたくさんのオニフスベが採られ、家庭のごみ箱に捨てられたか想像に難くない。
私はなんとなくオニフスベが好きなのである。子供に見つかると必ずボールのように蹴飛ばされるきのこ。隠れても目立ち過ぎる間抜けなきのこ。写真のオニフスベを抜いて、カメラを向けたら、我が家の愛犬がオニフスベに向かってわんわん吠えた。やはりボールでないことは分かるらしい。犬にも不気味な存在感の伝わる奇妙なきのこなのである。
だから、食いもしないのに採ってほしくないと思う。それは、「野に咲くサクラソウが好きだ。だから採るな」と言うのと同じで、たんなる自分のエゴイズムである。「鯨を捕るな」というのとも同じだと思う。まったくの独りよがりのエゴイズムだけど、このキノコは絶対にまずいので、そっとしておいてほしいと思う。



我が家で採れた‘オ二フスべ’
画像ー54 011-2
幼菌のようである。

画像ー54 012-2

二つに割ってみると、中は‘真っ白’。幼菌の証拠である。

これが、熟してくると・・・・、

オ二フスべ(1)
http://music.ap.teacup.com/masaki333/502.html

口裂けの部分から割ってみると、中にはもう別の組織が発達している。

オ二フスべ(2)
http://music.ap.teacup.com/masaki333/502.html

どうやらこれが‘胞子’となって、空中に飛散して、最終的にはバラバラになって消滅してしまうという。

以上の情報から、‘オ二フスべ’の特徴を整理し、野田佳彦首相と対比すると次のようになる。

① 一夜にして‘発生’する。 → 偽マニフェストで国民を騙し、一夜にして政権を盗った民主党の一員。

② 幼菌の時は‘真っ白’で、食すことが出来る。 → 国民には‘真っ白’に見えて、これは食えるかもと思わせた。

③ 食感は、ハンペンのようで、決して美味くない! → 歯応えが無く、しゃきっとして、‘期限’を切れない!いつまで経っても‘検討中’。

④ 時間が経って中を割ってみると別組織が出来ていて、その胞子は‘風に吹かれる’と、跡形もなく消滅する。
 → 離党者続出と今年の暮れ(?)の総選挙での惨敗を予言している。

⑤ ‘オ二フスべ’は、‘ホコリタケ科’→ ‘誇り’だけは‘高い’らしい。


そんな訳で、民主党・‘新’代表・野田佳彦首相は、‘きのこ’に例えるなら、‘オ二フスべ’であるという結論に達した。



(つづく)

次は、‘新’自民党総裁。




















[2012/09/26 22:18] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
火星の分析とロケット・エンジンの改良
弊ブログでも‘火星移住計画’が、単なる‘お話’だけではなく、実際に計画を実行するために‘各種実験’が行なわれていることも紹介した。

その実験も火星の現在に状況を或る程度把握していなければ、的確な実験が出来ない。

従って、現在火星探査ロボットが送り込まれている。

その探査ロボットについては、次のような記事がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3
%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3
%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9C%E3
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マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory、略称:MSL) は、アメリカ航空宇宙局 (NASA) が火星探査ミッションで用いる宇宙船の名称である。探査機ローバー、愛称キュリオシティ (Curiosity) を装備している。

マーズ・サイエンス・ラボラトリー - Wikipedia0001-2-2

キュリオシティは、2004年に火星に降り立ったマーズ・エクスプロレーション・ローバー (MER)(スピリットとオポチュニティ)の5倍の重量があり、10倍の重量の科学探査機器を搭載している。火星に着陸後、キュリオシティは火星表面の土と岩石をすくい取り、内部を解析する。最低でも、1火星年(2.2地球年)は活動する予定で、これまでのローバーよりも広い範囲を探索し、過去と現在の火星における、生命を保持できる可能性について調査する。

ミッションの経過状況

MSLは当初、2009年に打ち上げられ、2010年10月に、火星に着陸する予定であった。ただし、NASAでは2機か3機の全く同じローバーを同時に送ることが議論されており、そのためには打ち上げを2011年まで遅らせる必要があった。MSLの目的の一部は、将来のサンプルリターン・ミッションのために適当な着陸場所を見つけることだが、この案の推進者は、複数のローバーを使って一度に複数の地域を探索したほうがよいと主張した。NASAの太陽系部門のディレクターであるアンディー・ダンツラー (Andy Dantzler) は、MSLの開発は、2009年の打ち上げに向かって順調に進んでおり、この期限に間に合わせるために、最大限の努力をすると語った。ジェット推進研究所のエンジニアたちは、非公式にではあるが、MSLのデザインは、将来のローバーにも利用されるだろうと語った。
2008年に開発費用の超過が問題となり、試験に十分な時間がとれないとして、2008年12月4日、NASAは打ち上げを2011年に延期することを発表した[1]。打ち上げ延期による追加支出は4億ドルで、最終的な予算総額は23億ドルになるという。複数のローバーを打ち上げる可能性については言及されなかった。
2008年11月から2009年1月にかけて、NASAは全米の学生・児童からローバーの愛称を募集した。5月27日、9,000件以上の案の中からカンザス州の12歳の少女が提案した「キュリオシティ(Curiosity、好奇心)」が選ばれたことが発表された[2]。

2011年11月26日15時02分 (UTC)、MSLを搭載したアトラス Vがケープカナベラル空軍基地から打ち上げられた[3]。

2012年6月11日、NASAはキュリオシティが8月6日5時31分(UTC)ごろに、ゲールクレーター内にあるアイオリス山(Aeolis Mons)のふもとに着陸する見込みであると発表した[4]。

2012年8月6日、NASAはキュリオシティが8月6日5時32分 (UTC) に、ゲールクレーターの中にある高さ3マイル、直径96マイルの山のふもとに着陸したと発表した[5]。

(筆者註)このことから、地球から火星までの飛行期間は現状のロケットエンジンでは8カ月以上であることが判る。

2012年8月22日、NASAはキュリオシティの着陸地点に、2ヶ月前に亡くなった小説家のレイ・ブラッドベリに因み「ブラッドベリ・ランディング(Bradbury Landing)」と名づける案がチームから出され、NASAもこれを承認したと発表した。22日はブラッドベリの誕生日である[6]。

キュリオシティの仕様 [編集]

キュリオシティ
キュリオシティの構造

キュリオシティは長さ3m、総重量は900kgあり、そのうち80kgが科学機器の重量である(MERは長さ1.5m、重量は174kgであり、そのうち6.8kgが科学機器の重量であった)。75cmくらいまでの障害物を乗り越えて進むことができる。走行速度は、自律航法の場合、最大90m/h程度であるが、数々の状況(電力レベル、視界、地表の荒さ、スリップなど)を考慮に入れると、平均では30m/h程度となると思われる。2年間の活動期間の間に、最低でも19kmの距離を移動する予定である。

電力源としては、プルトニウム238の崩壊熱を利用する原子力電池(RTG)を使用する。火星探査機でのRTGは、バイキング1号とバイキング2号着陸機でも使用実績がある。昼夜や季節に関係なく一定の電力が得られるうえ、余熱はパイプを通じて探査機のシステムの保温に使用できる。キュリオシティで使われるRTGはボーイング社が開発した最新のMulti-Mission Radioisotope Thermoelectric Generatorと呼ばれるタイプである。重量は約50kgで4.8kgのプルトニウム238を搭載しており、打上げ時の事故で衝突、爆発、再突入による落下が起きてもプルトニウムが守られるように保護層で覆われている[7]。ミッション初期には約2000Wの発熱から125Wの電力を得られ、14年後でも100Wの電力が得られる。キュリオシティは1日に2.5kWhの電力が得られる(太陽電池を使用していたMERでは1日に約0.6kWhの電力しか供給出来なかった)。

キュリオシティが活動を予定している地域の火星の気温は、+30から −127℃の間で変動すると予想されている。このため、Heat rejection system (HRS)を使って機器の温度を維持する設計となっている。長さ60mのパイプ内にポンプで流体を流し、MMRTGからの熱で保温する。温度が上昇しすぎる場合は冷却にも使える。
キュリオシティに搭載された記録装置の容量は約4ギガバイトしかないため、打ち上げ時点では容量の大部分は着陸用ソフトに使っており、そのままでは最小限の探査しか行えないが、地球から遠隔でアップデートできるように設計されているため、火星到着後は不要になったソフトを観測器機の制御用ソフトに更新してから本格的な運用を始める[8]。


現状は、次の3つに焦点が絞られている。

① 超小型高性能分析装置を積んだ‘走行ロボット’が、‘粘土鉱物’を採集すべく2カ月の旅に出発している。
  その結果は、今年の10月には、情報が得られるのだろうと予測されている。

② 粘土鉱物の採集と分析 :‘生物’の存在の是非を左右する‘粘土鉱物’の採取と最大の関心事、その‘分析’。分析技術は、‘ガスクロ技術’。

② 新ロケットエンジンの開発 : 従来のロケットエンジンでは、早くても火星まで片道‘約8カ月’。この‘約8カ月’が乗組員には耐えられない。そこで、新エンジンン、‘プラズマ’を利用した技術で、10倍のスピードを確保しようとしている。



(つづく)





























[2012/09/25 12:25] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
巨大‘きのこ’?
2012年9月24日(月)朝、千葉県・茂原市・千沢の我が家の植え込みで、不思議な‘ボール’状の物体をカミサンが発見した。

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何でもない普通の植え込みの中である。

ただ単に‘根っこ’もなければ、何の抵抗も感じなかったから、最初見た時には‘発泡スチロール’の‘玉’かと思った。風に吹かれて何処からか飛んできたのだろうと思った。

この市の異常気象には困ったものである。降雨量なしの猛暑が一ヶ月以上も続いたかと思えば、今度は一週間‘豪雨’も含めて長雨である。この一週間~10日間は、10分降れば一時間日照りを繰り返した。

そして、今度は10月の終わりころの気候となって、夜は長袖のパジャマに布団を着ないと寒い位の最低気温が20℃を切ってしまうという‘荒れ模様’である。

植え込みの中から取り出してきて見ると、どうやら‘きのこ’のようである。

‘上面’、‘下面’及び‘横面’を撮影して見た。一見、巨大な‘かぶ’

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上面

直径は約=‘15cm’である。

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下面

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横面

全くの満丸ではないがために、それぞれ形状は異なるものの、それぞれに特徴的なものは見つからない。

‘きのこ’だったら‘根っこ’が有ってもよさそう(?)だが、下面にはそれも見つからない。

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半分に割ってみた。中は一様に真っ白で、‘きのこ’の風体をしている。内部に複雑な‘組織’があるのかも?と予測していたが、全くなし。

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重さを測ってみた。

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入れ物を載せて、‘0g’に設定。

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大凡、‘300g’である。

直径は約‘15cm’であったから、‘全くの球形’だと仮定すると、体積(V)は、半径(r)と直径(h)とで次の公式で表される事は小学校か中学校で教わった。

V=(4/3)πr³=(1/6)πh³

∴ V(cm³)=(1/6)×(3.14)×(15cm)³=(1/6)×(3.14)×3,375cm³

        =1,766.25 cm³

従って、比重ρ(重さ/体積)は、

ρ = 300g/1、766.25cm³ ≒ 0.1699(g/cm³) ≒ 0.17(g/cm³)

と言う事になって、水の比重の 17% しかなく、おおよそ、水の(1/6)の比重しかないので、完全に水にに浮く。

測定結果のまとめ:

① 重さ:約300g

② 体積:約1,766 cm³

③ 比重(密度):0.17(g/cm³)

④ 香り:きのこの香りがする。強烈な‘臭い’はしない。


さ~て、この‘きのこ’(?)の正体は? ということで、‘ web 'で調べてみた。

あった、あった!2010年の6月、北海道での出来事だそうだ。

巨大きのこ
http://ameblo.jp/angel-loman/entry-10573407969.html
<筆者註)何だか、‘火星の白人’の頭部のようでもある?>

直径約40センチの巨大キノコが、北斗市茂辺地の山下豊一さん宅の庭先に生えた。白く、ぶよぶよして軟らかい。

庭は製材所跡地で、木くずが敷き詰められた状態。妻の光子さんは「しゃれこうべかとびっくりした」が、隣家の久保田スミ子さんが「キノコだべさ」と取り上げた。

函館キノコの会の石垣充一会長によると、ホコリタケ科のオニフスベ。道南での確認例は少なく、「食べられるが、あまりおいしくないと思います」



● ホコリタケ科オ二フスべ

http://www.kinocoya.jp/illust/edible/onifusube.html
onifusube.jpg

名称:オニフスベ
説明:通常球形で、巨大になるとややつぶれた形になります。はじめ白色、柔軟でやや粘性をおびています。肉は充実、弾力のある柔軟な肉質、味、においとも温和。成熟するとにおいが悪く、黄色から黄褐色になり、茶色い水溶液を吐き出し、崩壊していきます。写真は高畠町役場の敷地内で発見したものです。
科目:ホコリタケ科オニフスベ属
学名:Lanopila nipponica
発生:夏から秋、竹やぶ、広葉樹林、草地、ツツジの下などに発生。
見分け方:きのこは巨大なボール状で、白色ですが、のちに成熟して外皮がはがれると茶褐色になります。直径は20~40cmです。
料理:表皮をむいて調理します。はんぺんのような口あたりなので汁物、炒め物などに。ただ、あまりお勧めはしません。



http://www.geocities.jp/kurihara
naoki333/2010.10-1

埼玉県オ二フスべ
畑に生えたオニフスベ・埼玉県本庄市児玉町秋山

職場に、何やら入ったスーパーのレジ袋を持って彼はやってきた。
 意味ありげにちょっとニヤニヤした顔は、その袋の中に何か変わったものが入っていることを物語っている。
 数日前には、昔同僚だったMさんから「畑に妙なソフトボールくらいの白い丸いものがある」という電話をもらったばかりだった。それは大きなホコリタケの仲間の「オニフスベ」ということで片付いたのだが、図鑑には「食える」と書いてあるので、オリーブオイルをしいた鉄板の上で焼いて食ってみたのだった。(Mさんはなじみの日本料理のお店に持ち込み調理してもらって食したという)ところが、これが採ってからずいぶんと時間が経ってしまったためか、とても“美味しい”というものではなかった。それでも、“これは食べ方が悪いのかもしれない”と思い直して、さらにおでんの汁の中に入れて、はんぺんのように食ってみようと試みた。「オニフスベははんぺんのようである」と書かれているのを複数見たり聞いたりしたので、ならばはんぺんのように食ってやろうと思ったのだ。ところが、これは焼いた以上に不味かった。キノコのいやな臭いが増幅された上にオニフスベ自体はゴムのようになって、一口噛んで呑みこむのがやっとだった。確かにどの図鑑を見ても「食える」とは書いてあっても、「美味しい」とは書いていない。体を持って実感である。はたして、プロに調理してもらったMさんのオニフスベはどんな味だったのだろうか。



http://www.a8k.jp/hanagasa/kinoko/076.html
76-4.jpg

ホコリタケ科オニフスベ属Lanopila nipponica (Kawam.) Y. Kobayasi.
 不思議な不思議なキノコ‥名前も不思議だ【どうしてこのような名前になったのかな?】大型のものならカボチャの新種かとでも思うかもしれない。ホコリタケの超大型としてあつかいましょう!といってもやはりピンと来ませんね~しかしこんな目立って、すぐ正体がわかるキノコもそうそうないでしょう!なにしろ見つけたらまず色を見る事。白から茶褐色に変色して行くが、割って中味が白色なら食べ頃ですよ黒ずんできはじめたら不食,イヤー,オニフスベだとわかってしまえばこんなわかりやすく、また料理しやすいキノコもないでしょう!夏から秋、雑木林、タケ林、田畑のあぜみちや庭園と神出鬼没!単生か散生する。径20~50センチ、表面はなめし皮っぽく白色。のちに褐色を帯びてゆくが、食用は白色時。スライスしてゆがいてかわをむき、すき焼.バター炒め.鉄板焼き.とうふ汁.酢の物と、なかなかレパートリーは広く、珍味ですよ


締め括りとしては、ちゃんとしたお堅い情報を!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
A%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%99

オニフスベ

分類
界 : Fungi
門 : Basidiomycota
綱 : Basidiomycetes
目 : ハラタケ目 Agaricales
科 : ハラタケ科 Agaricaceae
属 : ノウタケ属 Calvatia
種 : オニフスベ C. nipponica
学名
Calvatia nipponica
オニフスベ(鬼燻、鬼瘤、学名:Calvatia nipponica Kawam. ex Kasuya & Katum.)とは担子菌門ハラタケ目ハラタケ科のキノコ。別名:薮玉(ヤブダマ)、他にヤブタマゴ、キツネノヘダマ、テングノヘダマ、ホコリダケなど。江戸時代は、他のホコリタケ類とあわせ馬勃(バボツ)とも呼ばれた。
なお、従来はホコリタケ科オニフスベ属(Lanopila、後にLangermannia)とされていたが、分子系統学に基づく分析の結果、オニフスベ属は廃名とされてノウタケ属に組み込まれ[1]、現在の分類に変更された。

特徴 [編集]

Calvatia nipponicaは日本特産で夏から秋、庭先や畑、雑木林、竹林などの地上に大型の子実体を生じる。一夜にして発生するので驚かれるが珍しいものではない
子実体は白色の球状で、直径は20~50cmにも達し、あたかもバレーボールが転がっているように見える。幼菌の内部は白色で弾力があるが、次第に褐色の液を出して紫褐色の古綿状になる。これはグレバと呼ばれる乾燥した菌糸組織(弾糸)と担子胞子から成る胞子塊である。成熟すると外皮がはがれて中の胞子塊があらわれ異様なにおいを発生する。胞子塊が風に吹かれると次第に弾糸がほぐれて胞子を飛ばし、跡形もなく消滅する。胞子は球状で突起がある。

肉が白い幼菌は皮をむいて調理し、はんぺんのような食感で食用になる。味はうまくもないがまずくもない。
今まで長らく、一夜にして急に発生する特徴からオニフスベの成長を捉えた映像が存在しなかったが、日本テレビの番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の企画「DASH村」において、シイタケ栽培記録用に24時間体制で回していた観察カメラが脇にたまたま生えたオニフスベをとらえ、偶然にもその成長の様子を記録することとなった[2]。

近縁種 [編集]

近縁種は地球上に広く分布するが、地域によって別の種に分かれる。
オセアニア、ヨーロッパ、北米、中国に広く分布する種 C. giganteaは、ジャイアント・パフボール("Giant puffball"、「巨大なほこり玉」)と呼ばれる。実際、日本のCalvatia nipponicaは同種と当初は混同されていた。
Calvatia nipponicaはアフリカ、インドに分布する Lanopila wahlbergii Fr. に近縁との説もあったが[1]、lanopilaがノウタケ属に編入された現在では、同属になると思われる。 



さ~て、食べるかどうかは??

とうとう食べてみることとした!


初めての‘オ二フスべ料理である。

まず、オリーブオイルで炒めた後、塩コショウ(クレイジーソルト)での味付けのみ。見るからに美味しそう!

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食べてみての感想:

① きのこには普通にある‘シャキシャキ感’がない。

② ほのかに‘きのこの香り’のする‘はんぺん’というところ。勿論このオ二フスべ自身には味がないので、味付け調味料次第で、その評価は変わるだろうと思われる。

③ 天ぷらにして、カレー味のお塩で食すれば、きっと合うに違いない!

④ ビールのつまみにピッタリ! 焼酎にも合うに違いない!

そんな訳で、まだ半分は残してある。時間が経つと‘白色’→‘褐色’に変化するそうで、そうなったらもう食べられたものではないそうだから、近々に・・・・。



















[2012/09/24 22:00] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
秋分の日と秋分日
国民の祝日・秋分の日は、今年は昨日9月22日である。

例年秋分の日は「9月23日」という感覚がある。では何故今年は、22日かと言うとこれは誰でも気が付く。

オリンピックの年だから‘閏年’。従って2月が一日多いから、例年の23日と言う日は‘気象学’的に言えば、今年は‘暦上’の一日前になる。したがって、秋分日(しゅうぶんび)が22日であるから、‘秋分の日’は、22日。

ところが、どうやらこの計算だけでは済まない事情があるらしい。

‘秋分の日’と‘秋分日’は意味が異なるが、今まで‘秋分の日’が‘秋分日’と違う日になったことは無いという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E
5%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5

秋分の日 は毎年9月23日ごろ。祝日法の上では「秋分日」としており、地球が秋分点を通過する日(日本時間)としている。国立天文台が作成する『暦象年表』という小冊子に基づいて閣議で決定され、前年2月第1平日付の官報で発表される。つまり、2年後以降の天文学における秋分日は計算によって求められるが、2年後以降の秋分の日は確定していない のである。ただしこれまでに、天文計算によって求められた秋分の日付以外の日が秋分の日とされたことはない。なお天文計算上、1979年は9月24日で、1980年から2011年までは毎年9月23日で変わらず、その後2012年から2044年までは閏年に限り9月22日、平年は9月23日と計算される[1]。なお、2012年の秋分の日は116年ぶりに9月22日になるが、土曜日と重複する(ただし国民の祝日制定後としては初となる)。次に9月24日が秋分となるのは2103年となり(22世紀もこの年と2107年の2回だけ)21世紀中には生じない(ただし、9月24日が振替休日の年もある)。



実際に、4年前のオリンピック年、つまりその2008年という閏年の時の秋分の日は、9月22日ではなくて、9月23日なのである。

秋分の日 - Wikipedia0001
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5
%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5

(将来の日付はあくまで計算に基づく予測であり、将来の天文学的観測により変わる事があり得る)

不安定要素は何か?

二十四節気を配置する方法には、古来次に述べる二つの方法があり、中国暦では清の時憲暦に至るまで、日本の暦では天保暦に至るまで、いずれも‘平気法’が用いられた。しかし、現在は、‘定気法’が用いられている事による。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A
E%9A%E6%B0%97%E6%B3%95


定気法

平気法 のように1太陽年の時間を平均して節気を求めるのではなく、太陽の天球上の通り道である黄道と天の赤道の交点すなわち春分点を基点として24等分し、こうして導き出された15°ごとの黄経上の特定の度を太陽が通過する日に節気(正節)と中気を交互に配していく。このため空間分割法とも呼ぶ。現在、中気は黄経30°の倍数、正節はそれに15°足したものとされている。

この方法(定気法)では、節気から節気までの日数が不均等になる。冬至ごろには地球が公転軌道上の近日点に位置するため、太陽が黄経上の15°を移動する速度がやや早くなり、節気間の日数は14日余りとなる。一方、夏至ごろには太陽の移動速度がやや遅くなり、節気間の日数は16日余りとなる。日数が不均等となる不便さがあるものの、太陽の実際の位置を反映し、春分・秋分は必ず太陽が真東から昇り、真西に沈む日となる。

平気法 ではすべての中気が太陰太陽暦における月と対応し、中気を含まない月を必ず閏月とするが、定気法を採用するとこの対応関係は崩れる。節気間の日数が不均等なためひと月の中に中気が2回含まれることがあり、その分中気を含まない月が多くなる。そのため、いくつかの月が中気を含めばよいと定義しなければ欠月ができるので、中気を含まない月であっても閏月とは限らない(旧暦2033年問題参照)。冬には正節間の日数が1朔望月に近くなる(あるいは更に短くなる)ため、中気の日付は月が変わってもほとんど変化していかない。このため冬に閏月が設けられる可能性は低い。一方で夏前後には節気間の日数が一気に増えるので月ごとに中気がずれていき、閏月が生じる可能性が高くなる。ここ200年をみても閏11月、閏12月、閏正月は一度も存在しない。一方で閏5月が最も多く存在している。

定気法は中国では清の時憲暦、日本では江戸時代の天保暦からはじめて採用された が、定気の考え方は古くから提唱されていた。隋の劉焯は皇極暦を作成するに当たり、二十四節気の決め方にも新しい提案をした。これは周天を24等分し、その分点を太陽が通過するごとに節気の日付を決めるようにするものであった。時憲暦や天保暦で採用された定気法は黄道を24等分したものである。現在でもこの方法で二十四節気が決められている。



因みに、2010年の24節気における‘定気法’と‘平気法’による違いを以下に示す。

平気法 - Wikipedia0001
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%97%E6%B3%95

少し判りにくい記述であるため、もう少し違った説明の仕方の記事を次に示す。

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics
/html/topics2012_2.html

秋分の日が動き出す

国民の祝日に関する法律では,秋分の日は秋分日となっており,具体的な日付が記されていない.ここでいう秋分日とは二十四節気の秋分を含む日,つまり太陽が秋分点を通過する日のことである.このような定義の仕方は秋季皇霊祭が休暇日に定められた明治11年(1878) 6月5日 太政官達 第23号のころから変わっていない.

変わっていないといえば,秋分の日は長らく9月23日のままであった.平成24年(2012),これがついに9月22日となる.9月23日でなくなるのは昭和54年(1979) 9月24日以来33年ぶり,9月22日になるのは明治29年(1896)以来116年ぶりの出来事である.今回はこのあたりの背景について考えてみよう.

図1:地球の運動と季節
図:1地球の運動と季節

地球は1年かけて太陽の周りをまわっている(図1).地球の自転軸は地球の運動面に対して垂直ではないから,北極側が太陽を向く時期と逆を向く時期が存在することになる.北半球においては前者が夏で後者が冬,その中間は春や秋となり,地球が軌道上のどこにいるかによって季節は定まる.この軌道上の位置をより細分化したものが二十四節気であり,とくに先の4点はそれぞれ夏至,冬至,春分,秋分と呼ばれている.1年=365日と思っている人もいるだろうが,この地球の運動=季節のめぐりこそが,真の1年=1太陽年≒365.2422日=365日+6時間弱なのである.

図2:二十四節気と閏年
図2:二十四節気と閏年
この,6時間弱という端数のために秋分点通過時刻は年々遅くなっていく(図2).といっても,4年経つとその累計はほぼ1日になるから,4年おきに1日増やす,つまり閏年を作ることでだいたい元の状態に戻すことができる.このように,季節と日付が大きくずれていかないようにすることが閏年を設ける理由であり,このような暦をユリウス暦1という.ユリウス暦の1年の長さは平均365.25日になる.


このとき日付がどうなるか,少し具体的な時刻を使って考えてみよう.はじめに秋分点を通過する時刻が10時だとすると(表1の例1),通過時刻が遅くなる過程で秋分の日の日付も変わることがわかる.だが,2時だとすると(例2),日付は変わらない.秋分の日はこれまで長い間,例2のような状態にあったわけである.


表1:秋分点通過時刻と秋分の日
秋分の日が動き出す0001

一方,0.2422 × 4 = 0.9688 だから,4年に1日の割合だと1 - 0.9688 = 0.0312日 ≒ 45分 だけ補正しすぎることになる.このため,4年後の通過時刻は逆に約45分ずつ早くなっていくのだ.平成24年の秋分の日が22日のように早くなるのもこれが原因である.

過剰な補正量は400年で3日に達するから,その分だけ閏年を減らすほうが長期的なずれは少なくて済む.そこまで考慮して定められた暦が現在も使われているグレゴリオ暦2であり,この場合の1年の長さは平均365.2425日となる.

表2:ユリウス暦とグレゴリオ暦
秋分の日が動き出す0002

実際に年ごとの秋分の時刻をグラフに表すと,図3のようになる.なお,本トピックスでは,説明を簡略化するために1太陽年≒365.2422日等の平均値を用いたが,秋分など二十四節気は地球から見た太陽が特定の位置にくる瞬間,たとえば秋分の場合は太陽の視黄経が180°になる瞬間の中央標準時として定義されるものであり,厳密には章動や月・惑星の影響,地球自転の変動なども考慮に入れる必要がある.

それでも,平年では1年あたり6時間弱ずつ遅れ,閏年になると4年前よりも少し前に戻る様子は十分に見て取れると思う.また,当分は4年おきに秋分の日が9月22日になること,しだいに9月22日となる割合が増えていくことなどもわかるだろう.

図3:秋分の変動(予測を含む)
図3:秋分の変動(予測を含む)
1) 紀元前46年,この暦を導入したローマの英雄ユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)の名に由来する.

2) 1582年,この暦を導入したローマ法王グレゴリオ13世の名に由来する.

暦象年表2012より


これらをじっくり読めばよ~く理解が出来る。

こんな風に簡単に‘秋分の日’とは言うけれど、その歴史は、天体観測と共になかなか複雑であり、そして面白い!














[2012/09/23 11:49] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘かわせみ’について
我が家の境界線に‘小川’がある。

昨年あたりから、‘かわせみ’が姿を見せ始めた。本当のところは、もう何年も前から‘かわせみ’はこの川っ淵に住み着いていたのだろうが、当の私が昨年ごろから段々仕事に出る回数が減って、‘日中’と言っても日本と中国のことではなく‘ひなか’と言う意味だが、その日中にこの小川付近に‘私が出没する’回数が一段と増えたことによるのかもしれない。

川蝉ー1
http://wasyu.exblog.jp/13328894

この写真は他人様の引用である。

兎に角、2,3日に一度は‘かわせみ’様を拝むことが出来るのである。多い日には2度も3度も出くわすことがある。

いつもカメラを持ち歩いている訳でもないので、まだ私のカメラには収めることが出来ていないのが残念である。
携帯電話では、腰の携帯入れから出そうとする‘その物音’で、一瞬の内に逃げ去ってしまう!

画像ー53 079-2

この小川に‘かわせみ’が出没するのである。

画像ー53 126-2

そして、‘かわせみ’様が‘お止まり’遊ばすのが、二つ上の写真の中央に何故か存在する‘鉄の棒’。これを大写ししたのが上の写真で、その先端には今は‘かわせみ’ならぬ‘赤とんぼ’が止まっている。

この一週間で7,8回は‘面会’している。

画像ー53 099-2

一番上の写真は、何台かある私のPCの一台の待ち受け画面に‘採用’しているくらいの写真で、その‘美しさ’には目を見張っていて、ず~と見ていても見飽きない。

それなのに、‘かわせみ’については何にも知らない! 何故‘かわせみ’と言うのかさえ。

こんな時には、やはり‘ web ' が役に立つ。

いつもの‘ wikipedia ’には次のように解説してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

カワセミ(翡翠、翡翆、魚狗、川蟬、学名:Alcedo atthis)は、ブッポウソウ目カワセミ科に分類される鳥。水辺に生息する小鳥で、鮮やかな水色の体色と長いくちばしが特徴で、古くはソニドリ(鴗〈「立」偏に「鳥」〉)、ヒスイ、青い宝石と呼ばれることもある。


色々な漢字の書き方があるようだ。‘川蝉’だけは誰でも読めるが、他は読めない! クイズ番組‘タイムショック’にこの漢字が出れば‘宮崎美子さん’辺りは読めるに違いないが・・・。

kawasemi
http://blog.goo.ne.jp/nori_pee/e/52529178dc4553254975aa390ecf2dbe

名前の由来については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

名称

カワセミは「川に棲むセミ」の意で、この「セミ」は古名の「ソニ」が「ソビ」に変化し、それが転じて「セミ」となった。その「ソニ」の「ニ」は土の意味で、ソニ(青土)からきた。また、近縁の「アカショウビン」などのショウビンもこの「ソニ」から来た。
カワセミは、それを表す(読む)漢字が沢山ある。川蝉、翡翠、魚狗、水狗、魚虎、魚師、鴗などがあり、川蝉はセミとは関係がなく、「カワセミ」の音を当てた漢字。魚狗、水狗、魚虎、魚師などの漢字はカワセミが巧みに魚を捕らえる様子から来た。



要約すれば、「川に棲む青い土」 が語源ということになる。

更に、書き方が沢山あるらしく、‘鴗’(立扁に鳥)とも書くらしいが、これは流石の‘宮崎美子さん’でも読めないのかもしれない!(でも、やはり彼女は読めるかも?)

‘鴗’と書くところを見ると、川で獲物を取った場合にも‘川を濁さない’のだろうか? ‘立つ鳥は跡を濁さず’というから・・・。

かわせみー2
http://photozou.jp/photo/show/165247/7315839

かわせみ
http://photozou.jp/photo/show/165247/7326398

上記の写真もこれら二枚の写真も‘引用’であるが、実に素晴らしい! こんな写真は恐らく少なくとも‘一週間’は現地で粘らないと撮影出来るものではない!(感謝!)

‘形態’、‘分布’、‘生態’や‘保護’については次のように述べられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

形態

全長は17cmほどで[4]、スズメよりも大きいが[5]、長いくちばし(嘴峰長3.3-4.3cm[6])のため体はスズメほどの大きさ[7]。日本のカワセミ科のなかでは最小種となる[4]。くちばしが長くて、頭が大きく[4]、頸、尾、足は短い。オスのくちばしは黒いが、メスは下のくちばしが赤いのでオスと区別できる[8]。また、若干メスよりオスの方が色鮮やかである[5][9]。頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い[4]。
カワセミは本来は青くなく、光の加減で青く見える。これを構造色といい[10]、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである。

分布

ヨーロッパとインド、東南アジアにかけて分布し、広い分布域の中でいくつかの亜種に分かれている。暖かい地方では定住するが、高緯度地方のものは冬には暖かい地域に移動する。日本では亜種カワセミ A. a. bengalensis が生息し、北海道で夏鳥だが、ほかの地域では1年中見ることができる。

生態

海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、公園の池など都市部にもあらわれる。飛ぶときは水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声(古い自転車のブレーキ音とも形容される)を挙げることが多い。
採餌するときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。水中に潜るときは目からゴーグル状のもの(瞬膜)を出し水中でも的確に獲物を捕らえることが出来る。また、水中に深く潜るときはいったん高く飛び上がってから潜る個体も存在する。捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな獲物は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこむ。消化出来なかったものはペリットとして口から吐き出す。足場は特定の石や枝を使う事が多く、周囲が糞で白くなっていることが多い。ゴーグル状のものは地上にいるときでも時々見ることが出来る。
繁殖期にはオスがメスへ獲物をプレゼントする「求愛給餌」がみられる。つがいになると親鳥は垂直な土手に巣穴をつくる。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って50cm - 90cmほどもある横穴を掘る。穴の一番奥はふくらんでおり、ここに3個 - 4個の卵を産む。 
卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけながら成長し、羽毛が生え揃うと巣立ちする。せまい巣穴の中は当然ヒナの糞で汚れるが、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっており、巣立ちのときまで羽毛が汚れないようになっている。若鳥は胸の橙色と足に褐色味がある。
非繁殖期は縄張り意識が強く、1羽で行動する。水上を飛んだり、えさ場が見渡せる枝や石の上で休む姿がみられる。

保護

日本のカワセミは河川の護岸が進むと巣にできる場所を失い20世紀に著しく減少した。
1992年度(平成4年度)から北海道旭川市で石狩川にかかる秋月橋付近に、カワセミが巣穴を掘り進むための入り口の穴をあけた護岸ブロックが設置され、効果があった[11]。以後、カワセミ営巣ブロックが日本の各地に設けられた。


かわせみー3
http://photozou.jp/photo/show/165247/7326392

こんな凄~い光景には中々出会えない。

勿論、この小川で上の写真のような光景に出会えることは無いが、この小川には、何度も弊ブログで紹介した通り、カニさんが住んでおり、また巨大なオタマジャクシも存在したが、そのオタマジャクシも今は蛙になったようである。

画像ー53 105-2

画像ー53 106-2

そんな訳で、この小川には‘食べ物’は豊富である。

どうか、一日も早く、あの‘止まり木’ならぬ‘止まり鉄棒’に‘かわせみ’様がお止まり戴けますように・・・。
そして、一瞬のシャッターチャンスをお与え頂きますように・・。
















[2012/09/22 12:01] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大相撲は、‘スポーツ’か?
いやはや大変なことになった!


大相撲を錦絵
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/61561668.html

この弊ブログでは、何度も‘国技たる’と言う表現は使わなかったが、大相撲の不人気の大きな原因の一つは‘NHK’の無様な‘ダイジェスト放送時間帯'にある、と指摘してきた。

そして、大相撲は‘スポーツ’か? という話題があるとも書かせて貰った。

調べて行くうちに、他の分野でもそう言う認識は有ったのだが、大相撲を論じるには‘浅学非才’であると認識せざるを得ない状況となった。

先ず、

1) 大相撲は、日本の‘国技’か? そもそも‘国技’とは何か?

(2) ‘スポーツ’の定義は何か? 大相撲はスポーツか?


これら二つについても‘きちんとした議論’が出来るだけの‘基礎知識’がないことをハッキリと‘自覚’させられたのである。

これらの基本的知識なくして、大相撲を論じてはいけないし、他人様の議論を‘引用’してもいけない! と気が付いた。

さて、それでは‘国技とは?’から・・・。

① 国技とは? 
Wikipedia にはこう書かれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%8A%80
国技(こくぎ)とは、一般には、その国の特有の技芸、ある国の代表的な競技のことである。たとえば一般的には、スポーツ競技や武術 等々である。

ただし、厳密な定義は存在しておらず、事実上の”国技であるものもあるし(米国のベースボールなど)、各国の法令でわざわざ定めてあるもの(デ・ジュリ)もある(カナダのラクロスやアイスホッケーなど)。また、その国で最も人気のあるスポーツとも必ずしも一致していない。
米国で言うとアメリカン・フットボールやベースボールなどがそれにあたり、日本で言えば相撲がそれにあたるとみなされることがある。

基準

広義の国技は、人によってさまざまな意味で使われるが、おおむね次の二つのどちらかの意味で使われることが多い(国花・国鳥と類似する)。
国家機関によって特別の地位・待遇を与えられているもの
例:テコンドー(韓国)、アイスホッケー(カナダ)
国民に深く親しまれ、その国の文化にとって特に重要な位置を占めるという考えが提唱され、一定の範囲で広められているもの
例:相撲(日本)、野球(アメリカ合衆国)
前者の場合は、国家機関から法令等で正式に「国技 (national sport) 」としての地位を認定されている。後者の場合は、歴史が古く、その国の伝統文化と深く結びついていると愛好者の間でみなされていれば国技であるとする考えもあれば、現在国民の間に人気が高く、競技者人口や観戦者人口が多ければいいとする考えもあって、定まった意味内容はない。
国技の条件として、その国で生まれたものでなければならないと考える者もいる。しかし、国民から深く愛されているスポーツが、外国に起源を持っていることが判明するというケースも珍しいものではない。
国民的スポーツ
国技と呼ばれているスポーツでも、必ずしもその国で人気ナンバー1のスポーツとは限らない。確固たる人気を得たスポーツであっても、様々な理由で国技として認知されないことがある。特に、そのスポーツが「外国から輸入されたもの」という認識が強く、より一層自国の文化に根ざしたスポーツや伝統武道が他に存在する場合には国技と見なされないケースが多い(例:日本における野球、中国におけるバスケットボール、フランスにおけるサッカー)。この場合、「国民的スポーツ」などという表現をすることが多い。
一方で、海外から伝わったスポーツが国技としての地位を得るに至った国も多い(例:台湾における野球、英連邦諸国におけるクリケット)。
また、国技として認められるには至らないが、世界大会などで常に上位を占める競技をお家芸などと称し、国技に準ずるものと考える場合がある。

世界各国の国技

世界各国の国技を挙げる。法令で定められているもの、“事実上のもの”に分けて挙げる。そして、

法令で定められているもの として、世界各国の国技が沢山列挙されている。 

そして、

法令で定められていないもの として

日本 - 相撲、武道(柔道・剣道)

 との記載がある。
このことから、

「日本は、国技を法令で定めていない」

と言う事を、少なくとも‘大相撲を論じる’前に‘認識’しておく必要がある。ここからは、‘大相撲は国技か?’について・・・。

② 大相撲は‘国技’か?

何となく、今大騒ぎになっている‘領土問題’と観点が似ているようにも思える。

‘事実上のもの’として‘我が国の領土だ!’と韓国が言っている‘竹島’問題と考え方が酷似している。

私は、‘国技館’と言うから‘大相撲は国技’だとばかり思っていた。大相撲が国技なら‘相撲は国技’だという方程式が成り立つ。

ここで注意が必要なのは、‘大相撲’と‘相撲’の違いである。‘スポーツ’を論じる時に大いなる注意がいる。

後述するが、「相撲はスポーツではない!」という見方の多くは多分「‘大相撲’がスポーツではない」との立場の様である。

wikipedia の国技の項にも、‘相撲’とあるだけで、‘大相撲’とは書いていない。‘相撲’=‘大相撲’と思いがちだが、場合場合によっては、必ずしも同じものではなく、‘区別’をした方が良い場合があることを認識して議論をしないと、議論が発散して収斂しないことになる恐れが生じる。

註):ここでいう‘大相撲’とは、「日本相撲協会によっておこなわれる‘相撲興行」のこと。 誤解無きように。

次のようなブログがあるが、これは‘相撲=大相撲’との認識で書かれたものである。区別していたら、意見が変わっていたかもしれない!

http://smartass.blog10.fc2.com/blog-entry-1851.html

「相撲は国技にあらず」by日本相撲協会
2007-11-30-Fri
今まで、「日本の国技は相撲ということになっている」もしくは、「厳密には決まっていないが、そういうコンセンサスを得ている」と思っていました。そして、ちょっと語弊があるかもしれません、「その背景としては、日本相撲協会がうまいことやってそういう認識を得ることに成功した」と思っていました。つまり、「相撲協会の陰謀」とまでは言いませんけれど、「国技館」という名称が奏功して、「相撲は日本の国技たる地位を得た」と信じていました。

ところが、こんなライブドア・ニュースを見て、あれ、どうなってるの?と思いました。

相撲はいつから、どういう経緯で国技と見なされるようになったのだろうか。早速、日本相撲協会の広報部に聞いたところ、驚愕の事実が発覚!

「相撲は国技ではありません」

なんと、当の日本相撲協会から否定されてしまいました! どういうことですか?
  → ライブドアニュース:「「国技」をめぐる日本と世界の不思議な事情」
ほんとうです。驚愕ですよ。どういうことなんですか……。相撲協会の返事はこうだったようです。
「国技館で行われているために、そう思う方々が多いのではないでしょうか。国技館は、日本相撲協会が相撲を行うために建てた施設で、明治42年の6月に開館されたのですが、完成前までは『常設館』という名称の予定でした。しかし、完成した際に「国技館と命名しよう」という提案があり、それが了承されたため、現在の名称になったんです。そのあたりから、相撲は国技といわれてきたのでしょう」
  → (同)
はい、こういうおおよそのことは知っていました。で、事実はその通りにしても、「……こういう経緯で、相撲は国技と言われてきており、国民のコンセンサスも得られていると思います」と言ってしまうのかと思っていたのですが、そうでないのが、実はびっくりです。

※すでにライブドアニュースは削除されています。ライブドアニュースが参照していたのは、この記事です。
 → R25:「え、相撲って国技じゃないの?~「国技」をめぐる日本と世界の不思議な事情」(掲載日 2007.11.22) ※URL補正(2010/11/17)

もし、相撲協会に背負う気がないなら、わたしも「相撲は国技」っていう認識を捨て、今後はそういう方向で発言していきたいと思っています。ちょっと皮肉な言い方をすれば、島国根性的なナショナリズムの抜けない大相撲の現状を見ていると、むしろ「国技」と呼ぶにぴったりだと思うのですが、もし、相撲協会が引き受ける気がなく、日本の国技を見直すことが可能であるなら、わたしは「柔道」を押したいと思います。理由は、「日本発のスポーツであり、かつ、国際的な競技にまで広がっていること」、「老若男女(ちと「老」は苦しいかも)を問わず、広く愛好者がいること」、また、「国際大会にもそれなりの好成績を残していること」などが上げられます

剣道や弓道あたりも、日本的な種目で「国技」とも言えると思うのですが、愛好者がひどく国内に限定されている感があります。また、相撲は「男女に等しく愛好者がいる(※「見物」でなく「実技」という点です)」とは言えないし、アマチュアでは国際大会がおこなわれるようになっているようですが、大相撲では外国人差別などが色濃く残っているようで、その点が個人的には嫌なんです。「国技」を決めるにあたって、なにもわざわざ、女性があまりしない種目を採用することもないでしょう。

それに比べたら、柔道は、男女とも愛好者(競技者)がいて、なおかつオリンピックなどの国際大会でも、近年多少ピンチの感がないでもないですが、まだまだ日本が活躍していると思います。

相撲協会に「国技」を背負う気がないようですから、わたしは今日から、「日本の国技は柔道の方がふさわしい」と言うことにしたいと思います(「野球」を推す人がいらっしゃるようですが、まだまだ女性の競技者は少ないし、柔道や相撲をさし置いてわざわざ西洋の球技を採用することはないと思います。強いと思いますけどね、日本の野球)。



しかし、‘大相撲を国技である’と言う人達も沢山おられる。その根拠として挙げられる‘物的証拠’は、日本相撲協会の次の表現である。

日本相撲協会寄付行為0001-2
http://www.sumo.or.jp/kyokai/goannai/0024/index.html
この日本相撲協会と言う‘財団法人’を設立するための基本的事項を定めた‘寄付行為’に定められた‘第3条’の‘わが国固有の国技である相撲道を’の文語。これを以って‘大相撲は国技だ’という。

そして、次のような‘回答’もある。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251262507
Q:相撲は国技ではないというのは本当ですか?

A:財団法人日本相撲協会が1966年4月1日に財団法人大日本相撲協会から改称する際に文部省に提出した寄附行為第3条(目的)に「この法人は、わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を練磨し、その指導普及を図るとともに、これに必要な施設を経営し、もって相撲道の維持発展と国民 の心身の向上に寄与することを目的とする。」と明記し昭和41年文部省令第6号として監督官庁からの省令認可されています。現在の文部科学省も昭和41年文部省令第6号を踏襲してるので大相撲に限らず相撲は国技だと中央官庁からも認められているので国技です。


ここは議論の分かれ目で、日本相撲協会も‘寄付行為第3条では、‘相撲は国技だ’とは言っているが‘大相撲’が国技だとは言っていないのである。‘国技である相撲道を研究し’と言っているだけに過ぎない。従ってこのコメントの‘大相撲に限らず’は省かれるべきなのであろう。これも‘相撲=大相撲’と誤解している。

これは誰もが知っている‘レスリングとプロレス’の違いの認識があったら、こんな誤解にはならないはずであるのに・・・。

また、‘大相撲’に関しては、‘吉田司家’の意見も重要である。こんな単行本も有る。

http://www.amazon.co.jp/dp/4915796884?tag=o
shieteba-goo-22&linkCode=as1&creative=6339

原点に還れ―国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風吉田善門 [単行本]
吉田 長孝 (著)

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

歴史的に相撲の形式を整えてきたのは吉田司家である。横綱を考案し、免許を与えつづけ、その土俵入りも指導した。行司への教育はもちろん免状も渡した。その吉田司家の後裔が、存廃の危機にある大相撲に「歴史に学べ」と一言を呈す。相撲廃止の危機は明治時代にもあった。それを二十三世追風はどのように乗り切ったか。歴史に学び、原点に還ることこそ、今、必要だ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉田/長孝
1944年、熊本市生まれ。1951年、24世追風引退により7歳で25世追風を継承。13歳で九州場所前夜祭において横綱鏡里・吉葉山の三段構えを司式した。明治神宮での横綱推挙式において41人目横綱千代の山から59人目横綱隆の里まで横綱及び故実門人を授与し、熊本の吉田司家邸内にて1985年まで立行司木村庄之助、式守伊之助以下三役格の行司の免許状も授与してきた。また、1919年から始まった全国学生選手権の個人優勝者に「絹手綱」を1985年まで授与した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



なかなか複雑になって来た!

この本の中身は読んでいないから‘正確なところは判らないし、判断しようもない’が、単行本のタイトルにある‘国技相撲廃止の危機’と言う文語からすると、吉田司家では、‘当然’のことだが、「‘相撲も大相撲も’国技である」との認識のようである。

一方、「‘大相撲’は国技ではない 」と言う観点からの発言は、次のブログに‘その理由’が述べられている。

http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone9
98/diary/201103230000/

2011年03月23日
相撲は神聖な国技などではない(23日の日記) (1)

「ニュース(250065)」
[ 文化 ]

 劇作家の山崎正和(やまざきまさかず)氏は、2月25日の朝日新聞で、わが国の相撲の歴史と昨今の八百長騒ぎについて、次のように述べている;


 相撲は神聖な国技だという人がいますが、筋の通らない話です。起源の点でも大陸から朝鮮半島を経て、日本に輸入されたという説が有力です。日本固有とは言えません。

 相撲はもともと、農作物の豊凶を占う宗教儀式でした。神様に見せるパフォーマンスだったんですね。それが神事といわれる起源なのでしょうが、神事に結びついた競技は、流鏑馬(やぶさめ)など相撲以外にいくらでもあります。

 また、今はパフォーマンスじゃなくスポーツだと言う人がいるかもしれませんが、両者は対立する概念ではなくなだらかな関係性を持っています。

 例えば、新体操やフィギュアスケート、チアリーディングなどはダンスそのもの、芸術に近いものです。本来は美しい演技を楽しむもので、クラシックバレエと似たパフォーマンスなんですね。今は演技を数値化し、勝ち負けをつけて競技スポーツとして認知されているだけの話です。

 プロレスに八百長があるかどうかは知りませんが、あれもお客さんは鍛え上げられた肉体や鮮やかな技に、お金を払っているのではないですか。相撲がかつて宗教的儀式だった時代に、スポーツとしての実質的な勝敗が問題にされなかったのと同じです。

 国技としての成り立ちを、奈良時代の相撲節会(すまいのせちえ)に求める向きもあるかもしれません。確かに相撲節会は、平安時代まで天皇臨席のもと、公家が国家行事として行ったものです。しかし農民を強制的に集めて、相撲を取らせ、それを公家が見ていたわけで、ローマ帝国の奴隷競技と変わりません。

 ■国技の根拠薄弱

 武家社会になると国家から離れていき、江戸時代には剣術、柔術より社会的に、はるか下にみられていました。当時、盛んだった勧進相撲は、寺社が神社仏閣の造営、再興の資金を集めるためのものですが、侠客(きょうかく)の金もうけの道具となって、たちまち腐敗していきます。反社会的勢力との結びつきを嫌った江戸幕府は、厳しく取り締まります。

 相撲取りも武士から脱落した浪人者です。当時、相撲取りと侠客は同類と見られていたんですね。芝居の演目でも知られる「一本刀土俵入り」も、相撲取りになりそこねた青年が博徒となり、昔、世話になった女性を助けるというお話です。

 国技と呼ばれるようになったのは、明治時代です。柔道や剣道ではなく相撲が国技となったのは、あくまで偶然だったと私は見ています。旧幕臣で、明治天皇の侍従を務めた山岡鉄舟が大の相撲好きで、天皇に相撲を教えたというんですね。さらに欧化政策に抵抗する保守派と結びついて、地位が一気に上がったのだと思います。明治42(1909)年、東京・両国に常設小屋、国技館が建設され、いよいよ大相撲が国技として認知されていきます。その後、相撲協会の財団法人化によって、裏付けも得ました。

 昭和の初めには、メディアの発達とともに大衆化し、第2次世界大戦へと向かう中で、外来スポーツの排除というナショナリズムと結びついた。それで一気に国民的なものとなるのです。私も子どものころの記憶にありますが、双葉山、男女ノ川(みなのがわ)というスターが大人気を博しました。

 こう見てくると、相撲は大して神聖ではなく、国技である根拠も極めて薄弱。国家と結びついていた期間も長くない。賛否どちらにしても、大相撲を特別視する必要はないことが分かると思います。

 ■防げない八百長

 さて、八百長問題です。これは今の相撲界では防げません。新弟子のころから寝食をともにし、おかみさんの世話になり、兄弟子にしごかれ、という前近代的な疑似家族の関係があるのです。相撲界は、そんな間柄の部屋で構成する一族です。親しい力士が十両から幕下へ転落する危機にある、となったときにフッと力が抜けることを誰がとがめられるでしょうか。賭博と結びついていない限りは、どっちが勝っても面白ければそれでいいんです。

 あまり露骨に八百長をやれば、真剣勝負を楽しんでいた人は去っていき、それでも相撲が好きだという人が残る。それだけのことです。市場原理に委ねればいい。お客を楽しませるのがプロスポーツですから、相撲協会が真剣勝負が魅力だというのなら、そうすればいい。一方で八百長があったとしても、お客が楽しんでいるなら、またそれでいいのです。司法で断罪するような形で八百長の全容解明みたいなことをするのは、あまり賛成できません。プロスポーツの魅力は均質なものではありません。

 国技と名乗って国の監督下にあるから、八百長はけしからんと言われるのであって、国と関係がなければ、八百長だ何だと騒ぐ必要がありますか。相撲協会が国技と言いたいなら言えばいいが、国が優遇する必要は、まったくありません。プロレスだって何だって、あらゆる格闘技が、国とは何の関係もなくやってるじゃないですか。国技の名の下に、大相撲を権威化、神格化したことが、禍根を残したのです。

 もしファンが見放して大相撲がなくなるなら、私はそれで構わないと思っています。確かに大相撲のファンは多い。なくなれば、寂しい思いをする人も多いでしょう。しかし、これは習慣の問題で、歴史の中でなくなったものは、帯刀やちょんまげなどいっぱいあるんです。今ある伝統文化をすべて残すとなれば、お金がいくらあっても足りません。

 雪舟の名画、これは保存しなきゃなりません。しかし相撲は今も生きている興行営業なのです。


2011年2月25日 朝日新聞朝刊 12版 17ページ「オピニオン-国が特別視する必要はない」から引用

 ここに述べられた意見に、私は賛成です。賭博にからんだ八百長なら、それなりに刑法が適用されるのが当然ですが、日頃から世話になった兄弟子がカド番だなどという特別な状況なら、勝負に多少の手心が加わっても、返って人情味が増して相撲の魅力が増大するというものではないでしょうか。あくまでもスポーツとしてガチンコ勝負でなければ気に入らないという方は、学生相撲でもお楽しみになるのが宜しいと思います。


このコメントにも相撲に‘大’を付けて欲しかった!

③ ‘スポーツ’の定義は何か?

http://plaza.rakuten.co.jp/sportssite/4000/

スポーツ は、英語のsports(sportの複数形)のカタカナ表記である。sportという単語は江戸時代後期の英和辞典に見られるが、スポーツという日本語が定着したのは大正年間のことである。 語源はラテン語のdeportareにさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」という語感、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感から、古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在のsportに至ったと考えられる。 その原義は現在も保持されているが、意味するものは時代とともに変化している。17世紀~18世紀には、sportは新興階級の地主ジェントリの特権的遊びである狐狩り等の狩猟を第一に指した。 しかし19世紀に入ると、キリスト教徒 (muscular christian) 運動や、運動競技による人格形成論が台頭。sportとは、スポーツ専門組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする運動競技を第一に意味するようになった。これが現在も行われている近代スポーツである。 一方、明治以来の富国強兵、殖産興業の国策を執っていた日本では、遊び戯れるという意味のスポーツが公には肯定されず、国民体育としてスポーツが認識されるようになり、昭和初期には原義とは異なった価値観で発展を遂げた。従って、マインドスポーツと言われ、欧州では記事が新聞のスポーツ面で扱われるチェスや囲碁が国際スポーツ大会の種目になっていたり、五輪の公式競技採用を目指しているという事実に対しては違和感を示す日本人が極めて多い。また、アジアオリンピック評議会がアジア室内競技大会の種目としてテレビゲームを「eスポーツ」として採用したことを決定した際には、JOCでさえ「そもそもスポーツと言えるのか」という反応を示した。


これじゃあ、何でもスポーツである。議論する気にもならない。

ただし、大相撲はスポーツか?という我々の‘大命題’を論ずる場合には、‘狭義の’(=‘競技の’(?))意味でのスポーツでよい。

④ 大相撲はスポーツか?

http://k21komatsu.blogspot.jp/2007/09/blog-post_27.html
木曜日, 9月 27, 2007

大相撲はスポーツではない

朝青龍問題、力士リンチ死亡事件と問題山積みの大相撲だが、私は大相撲をスポーツと思ったことが一度もない。あれはスポーツでなく、彼らが言っているように「興行」でしかない。こんなことはマスコミで働いている人なら誰もが周知しているであろう。それなのに、大相撲は国技だと政府に断わりもなく厚かましく名乗っている。文部科学省は大相撲を国技と認めたことはこれまで一度もない。

私が大相撲が スポーツでないという理由 はいくつもある。まず第一に同部屋対決がない。以前は一門対決すらなかったので、少しはマシになったと思う人がいるかもしれない。しかし、柔道、剣道、テニス、卓球、バトミントン、アマチュア相撲・・・、どんなスポーツでも同一チームの選手同士で試合をしている。しかし、大相撲にはそれがない。剣道なんかいつも警視庁同士で戦っているような気がする。(笑)

次に大相撲の取組表は協会が勝手に作り変えることができる。どんなスポーツでも対戦表というのは事前にすべてわかっているはずだ。大相撲がスポーツならば、横綱は上位15人と対戦すると初日に決めるべきである。こうなれば、いくら新入幕力士が勝ち進んだとはいえ、横綱にあたるなんてことはありえない。

いずれにしろ、取組表は横綱を優勝させるようなために作られている。ナンセンスとしかいいようがない。なんで平幕力士が優勝しちゃいけないのだろうか。幕内最高優勝は横綱を倒さなければいけないのだろうか。そうならば、幕内だの十両だの区分けする必要性はなくなる。全く矛盾に満ちている。そもそも相撲は取組といって、試合と言わない。これは習慣かもしれないが、やはりスポーツならば試合というべきだろう。

大相撲は巡業やトーナメント戦を積極的に行って、相撲の普及活動に力をそそいでいる。しかしである。これらの取組はいつも怪我しないように、手抜きで行っている。これも信じられない。高い入場料を取って取組を行っているのだから、どんなときでも真剣に行うべきではないだろうか。つまり、これらは所詮「顔見せ」でしかなく興行なのである。

また、大相撲は入場者数を発表していない。今日どんなスポーツでも入場者数を発表している。それなのに、8割ぐらいしかお客が入っていないのに、満員御礼という垂れ幕を下ろしたりする。税務署は何をしているのだろうか。こんな税金にルーズなスポーツが他にあるだろうか。

だから、私は大相撲をスポーツと呼ぶことはできない。ただ、大相撲は日本の伝統文化であり、歌舞伎などと同様に世界に誇れるものである。それなのに、リンチで力士を死亡させるとは憤懣極まりない。これはスポーツと興行を混同している証なのかもしれない。
投稿者 小松克彦 時刻: 12:55


ここまで明確に指摘されると、これまで私が思っていた‘大相撲の図式’

  相撲 → 大相撲 = 日本が誇れる国技 ≒ スポーツ

という‘変な’方程式は、完全に成り立たなくなってしまった!

私が得た結論:

<1>‘相撲’はスポーツであるが、‘大相撲’はスポーツではない!

<2>‘相撲’は、国技であるが、‘大相撲’は国技ではない!

<3> 従って、‘大相撲’は、スポーツでも国技でもない!

<4> ただし、‘相撲’は、スポーツであり、国技である。


最後に、こんなブログがあることを紹介しておきたい。

http://blog.goo.ne.jp/kzuo007/e/1aae73bf
246a673478932e95dbb4f8f2

相撲は国技であるが大相撲は国技ではない。
2010-06-22 04:37:14 | 社会

・大相撲の多くの力士が野球賭博、かけマージャン、かけ花札等の疑いがかけられている。大相撲も終わりである。しかし日本の国技は相撲であり日本相撲協会が興行する大相撲は日本の国技ではない。相撲ファンとしてはここで頑張らなくてはならない。

・大相撲には以前より不満が多かった。八百長が多いのではとのうわさもあった。外国からの力士は真面目に頑張るが日本の力士は関取になると給料と後援会からの支援に満足してしまってだらけてしまっている力士が多いとの話もあった。酒の上とは言え一般人ファンへの暴力事件もあった。暴力事件も暴力団との関係もあるとのうわさが立ったことも何度かあった。もちろん全ての力士ではないとは思われるのだが。

・今回の野球賭博事件では100人近くの力士が名前を連ねているようだ。親方、床山さん達も名前を連ねているようだ。そのうちに後援会の担当者、相撲協会役員にも広がることがなければよいがと心配するものである。当然後ろには資金集めのための暴力団の活動があるものと推定される。

・これだけ多くの力士が関与していることは大相撲を興行日本相撲協会全体では普通に黙認されていたものと考えざるを得ない。今まで分かっていたはずなのにそれを更生させようとした動きもなく、内部からの告発もなく、助けを求める動きもなかったのだ。これは、力士や親方だけでなく相撲協会関係者全員が関与していたものと考えざるを得ない。

・こんな大相撲を私たち多くの相撲ファンが応援していたと思うと情けなくなる。こんな日本相撲協会の興行に多くの後援会が騙されていたと思うと残念である。企業からの勝ち力士えの賞金もかけごとに使われていたと思うと残念である。こんな日本相撲協会に文部省が多くの税金を使っていたと思うと残念であるとともに政府のいい加減な税金使用にも腹が立つ。何故「事業仕分け」に上がってこなかったのだろうか??。事業仕分けも国民の生活にマイナス効果が出る事でなく、このような税金事業を対象にしてほしいものだ。

・よくは知らないが相撲は昔からの日本特有のスポーツ、力比べとして伝統として残ってきているものだ。奈良・平安時代には毎年七月に宮中で天皇の前での奉納相撲が儀式としておこなわれていたようである。私は企業に就職してすぐに若い人達と企業内での職場対抗相撲を始めた。もちろん強くはなかったが友達と職場の名誉と我々の意地をかけての苦しい相撲の鍛錬は今でも多くの相撲友達として消えることなく続いているのだ。こんな相撲もあるのだ。

・あくまでも大相撲は日本相撲協会が主催する単なる金儲けのための一つの興行である。名古屋場所だけの話ではない。大相撲が無くなってもよい。日本相撲協会が無くなってもよい。相撲が国技であって大相撲は国技ではない。相撲ファンよ今後も頑張ろう!!!。















[2012/09/21 11:41] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ひこばえ(蘖/孫生え)
夏の時期に‘草刈り’をすると、温度と湿度が多いため、草は‘切られた場所’を‘頭’にして一挙に伸びて来る。

そのスピードは、通常の伸び方の数倍のような気がする。これは‘草刈り’経験者なら誰でも知っている。

メカニズムは多分違うと思われるが、‘稲’の場合も、一寸眼には‘同じ現象’が起こっているように思える。

昔は稲刈りは、10月の終わり以降だったように思う。

何故、稲刈りが早くなったかについての専門家の意見もあろうが、私は次のように考えている。勿論、‘品種改良’の効果もあり得るのだろうが・・・。

それは、‘田植え機’が普及した所為である。

では、何故‘田植え機’の所為なのか?

機械が田植えをする場合、機械的効率を上げるためには、苗の重さが軽い方がいい。機械の部品の部分で軽量化が図られるから、田植え機そのものも軽量化が図られ動力を喰う燃料費も安くなるし、機械そのものも低価格になる。

‘苗の重さ’が軽いという事は、時期的に‘早く’田植えをするという事になり、従って‘稲刈り’が早くなるという寸法である。

さて、稲刈りが早くなると‘奇妙な’現象が起こる!

それが、稲における‘ひこばえ(蘖/孫生え)’と言う現象である。

何となく、この‘ひこばえ(蘖/孫生え)’現象を、もっと上手く活用すれば、‘同じ稲の株’から、2回の収穫が出来はしないか? という訳である。

今年も我が家の近くの田圃では、早い所は8月の下旬に、遅くとも9月の上旬には稲刈りが終わっている。

9月19日の夕刻、8月の下旬に稲刈りが終わった田圃を見てみた。

予測通り、ひこばえ(蘖/孫生え)現象で、何だか田植えをして3ヶ月以上たった状態のようで、稲穂までちゃんとついていて、中身も、いわゆる‘乳状’ではなく、きちんとした‘実’になりそうな雰囲気である。

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2012年09月19日16:39 の田圃である。ここら一帯は、8月の下旬には稲刈りが終わっていた。

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角度を変えてみていると、ちゃんと田植えをして、3か月が経った頃の様子に似ている。

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更に近づいてみると、稲穂が付いていることが確認出来る。

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稲穂はまだ付いたばかりで、中身が軽いと見えて、垂れ下がるまでには至っていない。上手い具合にここ数日強い夕立が毎日やって来るので‘水田’となっている。

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この付近では、中身が重くなり始めているようだ。

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ここのところまだ例年と違って、日中は30℃を越す日が続いている。それも異常であるが、これなら案外‘立派な米’の収穫が期待出来そうである。

今後どんなに成長するかをカメラで追ってみたい。



ひこばえ(蘖/孫生え)については次のような解説がある。

http://okwave.jp/qa/q2664515.html
稲刈りの後の切り株に米が実っていることがあります

Q:稲刈りの後の切り株に米が実っていることがあります。
なぜ切り株に稲穂が出て米が実るのでしょうか?
そのお米は食べられるのでしょうか?
どなたか教えてください

投稿日時 - 2007-01-14 00:17:06


A:稲の刈り取り後に生長したものをひこばえといいます。なぜひこばえが出来るかは次のように説明できます。
稲は田植え後分けつといって株が分かれて生長します。1本の苗で多いときは約50本の株になります。稲穂がついてからも分けつして株基に生長点が出来ますが生殖生長が優先されますから後から出来た生長点は生長が止まります。その後稲が十分に成長して籾が成熟すると生長点が成長してきます。

刈り取り間際の株基には小さな芽が出ています。

稲が刈り取られるとひこばえが成長を始めます。

稲は積算温度(最高気温を足した数字)で花芽分化しますから夏の高温期なので約1月で花芽が分化します。その後出穂(穂が出ること)して成長しますが十分栄養生長が出来ないためほとんどが不稔といって実が入りません。仮に生長しても稲の実を付けるのに必要な花粉を作る時期(減数分裂期といいます)には低温になり花粉が出来なくなりますから実はならないでしょう。極早生の稲なら結実しますが葉の面積が少なく同化できるデンプンも少ないので販売出来る米にはならないと思います。今生産の主力のコシヒカリではひこばえの収穫は無理です。
刈り取りの終わった水田の地温が上がり根の生長に高温障害を起こし養分の吸収が出来なくなりますから株の保っている栄養分でしか生長出来なくなるのも一因だと思います。極早生の品種で湿田の時は籾の中が牛乳のようになる(乳熟期といいます)までなることはあります。
私が住んでいる関東を基準に書きましたが暖地では登熟(稲が実ること)するかもしれませんがおそらく屑米にしかならないでしょう。

余談ですが 転作のため飼料用に栽培した稲を早刈りした後追肥すればかなりの収量が期待で来ます。

投稿日時 - 2007-01-14 10:02:03



今年の異常気象から考えると、どうやら‘余談’ではなさそうになってきたのでは?

この解説は、初めから‘稲については’‘ひこばえ(蘖/孫生え)’で収穫をすることは無理という前提で話を進めておられるようだが、アフリカなどでの‘飢餓’を考えれば、もう少し‘真剣に’お米増産の技術を積極的に開発すべきでなないのだろうか?

ひこばえ(蘖/孫生え)の方法なら、田植えは一回で済むし、2度目の収穫は極めて短期間に終えることが出来そうではないか!?

今後の世界全体での‘食糧危機’に備えて、是非是非この‘ひこばえ(蘖/孫生え)増産’の研究を前向きに進めて欲しい!

(つづく)


















[2012/09/20 08:24] | 農業 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大相撲不人気の原因と2012年9月18日の波乱
大相撲は‘スポーツ’か?という話題があるらしい。

この問題は後述するとして、何度もこの弊ブログでも取り上げさせてもらったが、‘大相撲の不人気’は一体何が原因なのだろうか?

正直な話、今場所が始まって3日経った時、やっと今月は奇数月だから‘大相撲の月’だと気が付いた。

前にも指摘しておいたが、NHKの無様な放送体制が‘大相撲不人気’の最大の原因の一つである。

何故か?

人気を盛り上げなければならない、と言うより大相撲の興奮を享受すべき大多数の日本人サラリーマンに、大相撲の勝負動画をNHKが‘わざと’見せないように見せないようにしているからである。

サラリーマンは、ほとんどの人が‘Live’で大相撲を見ることが出来ない。まだ、17:00には、仕事が終わらないからである。NHKの大相撲番組担当者だって、18:00まで誰一人退社する御仁はいないはずである。

そして、これこそ全く視聴者を‘なめて’いるのだが、その日の大相撲ダイジェスト放送が、翌日の、というか‘深夜の1:00過ぎ、遅ければ3:00ごろなど言うのも決して珍しくない!

こんなこと一つ取ってみても何故NHKの関係者は理解出来ないのだろうか?

自分達は、しっかりとした映像さえ電波に乗せれば役目は終わりと思っているのだろうか?

今だって、国家予算を貰っている? 番組製作費用は、皆さん方の‘受信料’と言っているが本当なのだろうか?

http://www.nhk.or.jp/faq-corner/01nhk/01/01-01-01.htm
Q:NHKとはどういう事業体なのか?

A:(財源について)NHKが自主性を保っていくためには、財政の自立を必要としますが、それを実現しているのが受信料制度です。
NHKの運営財源は、すべての視聴者のみなさまに公平に負担していただくように放送法で定められています。政府のほか、財界などいかなる団体の出資も受けていません。(政府から支出されているのは、政見放送の実費や国際放送の一部の実施経費のみです。)
NHKが、視聴者のみなさまの要望に応えることを最大の指針として放送を行えるのも、受信料制度によって財政面での自主性が保障されているからです。


というから、国民の税金を予算として使っている訳ではないようだ。

しかし、根本に係わることとして「NHKの使命は、公共の福祉のために、全国にあまねく放送を普及させ、豊かで良い番組による放送サービスを行うことにあります。」というから、‘国技たる大相撲の放映権を持っている’以上、もう少しダイジェスト放送をその日の内の少なくともサラリーマンの就寝前(23:00前)までに行なって欲しい。

深夜の放送を誰が見ると思っているのだろうか?

それとも‘公共放送’と言っている以上、ダイジェスト版を放送しておかないと‘ケチ’をつけられた時に言い逃れが出来ないからという消極的なと言うより責任回避で深夜にでも、と言う事なのだろうか?

まあ、そんな訳で、‘満員御礼’の垂れ幕が15日間で3日降りればいい方だ、みたいな状況を創り出している最大の‘仕掛け人’(?)は、やはりNHKなのであろう。

さて、それでも、こちとらは、普通のサラリーマンさんとは‘ちと’違って暇があるから第4日以降見ることにしている。

今場所は、一昨日(8日目)まで全勝が5人。昨日、稀勢の里と高安に土がついたから、昨日(9日目)まで全勝力士が、なんと3人。白鵬、日馬富士、旭天鵬。旭天鵬においては、前々場所優勝したが前場所はたったの一勝という‘変な’力士である。

昨日まで全勝の上記3人は、いずれも‘モンゴル’出身。相撲はもはや‘モンゴル人’に乗っ取られた感があることは誰もが感じているに違いない。

ところが、ここが日本人の何とも‘奥ゆかしい’ところ。誰もそんなに悔しがらないのだ!そりゃあ、聞かれりゃあ、悔しいですね!とはいいうものの、腹の底では誰もそんなに悔しがってはいない。

朝青龍がいた時には、多少‘この野郎!’と思っていた人は多かったらしい。朝青龍が負けるところが見たくて大相撲放送を見ているという人までいたくらいだったから。

今の横綱・白鵬の人格や旭天鵬の人の良さが、モンゴル人を受け入れているのであろう。

さて、今日の波乱は何と言っても‘栃煌山’が横綱・白鵬を破った一番である! 栃煌山は、これまで一度もこの横綱に勝ったことがなかった。したがって、誰も予想だにしなかった。

(これ以降の写真画像で、引用註がないのは全てNHK・TV画像をカメラで撮影したもの)

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次の一瞬!

白鵬負ける
http://www.sanspo.com/sports/photos/20120918/sum12091818090006-p1.html

白鵬不覚
http://www.sanspo.com/sports/photos/20120918/sum12091818090006-p8.html

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一瞬の出来ごとに流石の横綱も驚いている!

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もっと驚いているのは、勝った方の栃煌山である!

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引き上げる時には、もう敗れたことを忘れている、この表情。この気持ちの切り替えこそ大横綱の風格。

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そして、引き上げる途中で、今日も勝って全勝の日馬富士と共にビデオを‘冷静に’見ている。

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金星インタビューを受ける栃煌山。何となく頼もしく見える。

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旭天鵬負ける
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120918-00000070-jijp-spo.view-000

残念ながら、旭天鵬に今日土がついてしまった。

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如何にも悔しそうな旭天鵬。でもまだまだ、一敗。魁皇無き後の最高齢者。まだ優勝の望みは皆無ではない!

大相撲は‘スポーツ’か?は、後日。

(つづく)


















[2012/09/19 07:25] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「卒意」の真の意味(その2)
「卒意」の書は、通常‘自覚’されているものではない。王羲之の‘蘭亭叙’を除いては。

ここでいう「卒意」とは、「用意」の対語のそれではなく、「作意」の対語のそれである。

全く‘他人を意識する’ことなく、自分自身の世界に‘入り浸っている’状態を指す。

「棟方志功」の、あの‘異常’とも思える‘創作意欲’と‘その行動’をTV動画で一度や二度は皆見たことがあるに違いがいない。

munakata5.jpg
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9
F%E6%96%B9%E5%BF%97%E5%8A%9F

棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。



‘道’と名のつく‘修行’においては、この「卒意」が重要であることを弊ブログで何度も強調した。

何故なら、‘道の修行’においては、‘他人の目’は不要だからである。もっと言えは‘不要’というより‘邪魔’なのである。

一見、‘社会生活・社会通念’からの‘逃避’の様であるが、そうではない。

不思議なことに、その境地に達した人の‘作品’(これはスポーツの場合では、その‘行動’を指す)にしか、人間を感動させる要素がない!

前回、前々回は、王羲之の‘蘭亭叙’が、‘雑念’のない「卒意」状態での‘作品’であると強調させて貰った。

ところが、色々調査して見ると知らないことだらけ。前回の‘卒意の書’の中に出て来た‘本人は意識していなかった’のだが、他人様が‘これこそ「卒意」の書だ!’という書があるらしい。

凄~いブログが見つかった!

keisetulogo.gif
http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm
書道家・國分溪雪さんのブログである。

‘卒意の書’の第一に挙げられているのは、やはり王羲之の‘蘭亭叙’。

http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm

率意の書<その1>王羲之の『蘭亭序』・・言葉の陰影
<4世紀六朝時代の人、生没年?東晋という王朝の名門王一族の一員>

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八柱第三本 (故宮博物院)

この書を見てどんな感じがしますか・・・
『蘭亭序』梗概 
 永和九年癸丑、禊のため群賢が蘭亭に集まった。流暢曲水、一杯の酒一編の詩があれば充分ではないか・・・仰げば宇宙は大、見下ろせば万物が盛んであり、思いを馳せれば視聴の娯しみを極むるに足りる。 そもそも生涯を送るに、胸中を静かにしまう者もあれば、自由奔放に振舞う者もある。人の生き方は無限に異なり静動も同じではないとはいえ、境遇が喜ばしく得意の時は誰しも自分に老いや死が迫っていることなど気づかない。やがて倦怠が訪れ感情は対象とともに移ろい、やるせない感慨が支配する。すべては束の間に過去のものとなるのに、それでもなお気持ちを動かさずにはいられない。まして、生命はついに尽きる・・・ 
 死生はひとつ,7百年生きた人生も,生まれてすぐ死んだ子どもの人生も同じ・・・そんな哲学はもとより偽りに過ぎない。後世の人が我々を見るのも、我らが晋の人々を見るのと同じこと。ここに今日集まった者たちの名を列挙しその作品を収録する。世が異なり変わっても感動の泉は同じ、きっと心を動かしてくれることだろう。
 
 羲之の行書の名品『蘭亭序』、宴後、幾度となく書き直したがこれ以上のものは書けなかったという所謂率意(忽卒)の書として有名だ。彼は、351年地方官への転出を願い出て、右軍将軍会稽内史となり中央を去った。この会稽は現在の紹興市で、彼は40歳半ばでこの地方一帯の長官となったのである。蘭亭は会稽の西南14キロほどの景勝地で、この曲水の宴は永和九年(353年)3月3日に開かれた。この宴の趣向は多くの文人墨客が、流水れに浮かんだ觴(盃)がゆき過ぎる前に詩を作るというもの、この日は42人中15人が罰盃を飲むことになったようだが、残り27人が作った38首が『蘭亭集』として一冊にまとめられた。その序文をその場で書いたのが羲之のこの『序』なのである。彼は中央の役職のチャンスを蹴っている。客観視できる眼を持つといえば良い言い方だが、彼の政治家としての弱さ、陰でもある。早くに父親を亡くしたという生い立ちもあるが、彼の書つまり手紙、文章を読むとある種の屈折(陰)がある。言葉そのものというより言葉の陰り、言葉にならない翳りが書に反映している。つまり、書はその人間の陰影・・・。政治の場面での彼のふるまいの中に、理想やビジョンを持ちながらも成し遂げられない脆弱さが生い立ちと共に書に陰影をおとしている。


率意の書<その2>顔真卿の『争座位稿』・・・剛直という人生の筆致
<中唐の政治家・景竜3年(709年)生、貞元元年(785年)伝没>

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  この書きぶり如何ですか?
『争座位稿』梗概(765年)

・・・ま昼間に人の金を掠め盗るのとなんら変わりはないではありませんか。まったくどおりに合わないことです。君子は礼を以って人に対するのであってその場しのぎで対するなどということは聞いたことがありません。よくよく考えてみて下さい。軍容は仏道を修行し深く仏法を信じていると聞き及んでいます。まして洛陽を回復して逆賊を滅ぼし、天子を戴いた功績があるではないですか。これは官民共に尊敬するところであり、どうしてあなたと相違がありましょうか。その上名利には恬淡、些細なことで一喜一憂することもないあなたが、わずかばかりの地位のことでその志を乱すことがありましょうか。
そもそも年長者を尊び、宗廟では爵位を尊び朝廷では位階を尊びます。人の守るべき道、礼・幼長の序というものがあるのです。・・・・の席次は古来からこういうものでこれまで乱れたことはないのです・・・・

 剛直さゆえに官界生活は順調ではなく、左遷の連続であった顔真卿、その彼が腐敗しきった官吏に抗議した文稿『争座位稿』。56歳の作、官僚の会議での席次を乱した郭英ガイを弾劾する書簡の草稿である。その叩きつけるような書きぶりは、<屋漏痕><蚕頭燕尾>などの言葉でその書の特徴が語られるのだが、まさに政敵を怒鳴りつけている場面が見えるようで力の入った生々しい筆致は、書道史上初めて登場したとも言われる・・・書き手の姿が見えてしまうところが彼の新しさでもあり、醜怪さでもあるところ・・いい意味でも悪い意味でも書は人なり・・・の表現は彼から始まったのである。
 安禄山の挙兵を察知した彼が「文人としての自分は、兵器を以って戦えるものか・・・」と連日呆けてみせていたが、結局、腐りきった権力に截然と立ち向かったのは顔家のみであった。兄と慕う顔杲卿は捕らえられ、舌を抜かれ、手足を切断されても毅然としていたという。これら親族への追悼文である『祭姪稿』は彼の無念を訴えるようにちぢに乱れ、墨で消し書き直した箇所が沢山ある。『争座位稿』『祭姪稿』『祭伯稿』三稿といわれるこれらは、率意の書である故に性情がよく出ているのである。
正義・・・・は必ず負ける。。。世の常?
 既に戦う力のない唐王朝は、玄宗を蜀の国へ逃したが、近衛兵の造反によりさらに悲劇的な最期を迎え、907年唐は滅亡する。国破在山河・・・杜甫は長安をこう詠んだ。王朝の衰退と共に官吏の荒廃夥しく、その中で如何に自分の正義を表現でき得るか、強く憂国の念を抱いていた彼は、単に識者で忠節の人物ではなく、筋金入りの正義の人である。
 最期は徳宗の命を受け、反将の説得に赴きついに賊手に命を落とした。この忠烈悲壮の生涯が、書人としての地位を高く格付けしたのは否めないのも・・・アイロニカル!
    ★空海の『風信帖』はこの顔真卿の影響を明らかにみることが出来る。
次回は率意の書<その3>として『風信帖』を取り上げる予定♪


率意の書<その3> 空海の『風信帖』訣別の予兆?・・・Disparity
<平安時代の思想家・774年生835年高野山にて没>

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<京都護国寺>
宇宙の謎解きのヒント?
「五大(地、水、火、風、空)に韻(ひびき)あり」

風信帖は空海が最澄に贈った尺牘(今は3通)を集め1卷としたもの、最初の尺牘の冒頭「風信」とあるところからこう称ぶ。
<帰朝後の立場の逆転・親密は亀裂の萌芽>
空海と最澄は平安初期の2大高僧で、最澄の方が8歳年嵩だが、初めは極めて密接な交流があった。空海が807年に帰朝すると最澄は、弟子を遣わし唐からの経典を借用したいと申し出たり、812年真言の伝授を請うなど繰り返し願い出をしている。この依頼に対する空海の返書のひとつがこの風信帖であるのだが、しかしその後ふたりには訣別が・・・816年、最澄の申し出拒否の手紙を最後に・・・
さて深い溝とは?(佛教用語が飛び交うような論となり難しすぎ!で、言及できないので抽象論を)
 両者が相入れない訳は、同時代の偉大な宗教家が、絶対に両立し得ない思想を抱いていた点に求められねばならないだろう。共通項がありながら、大乗仏教の真髄を何に求めるかというもっとも困難な究極の課題・・・
 空海の積極的な独創(密教思想の厳しい追求)に対し、新たな形を作り出す方向にではなく、既存の形を壊す方向性という意味で「負の独創」というような、消極的なそれと・・・この負の独創性のあり方に、日本文化の特質を見出すという背景があるためだろうか、空海が孤立して見えたりさえする・・・とまれ、ふたつの独創がぶつかり合った結果といえるのかもしれない・・・・・・

『風信帖』梗概 (812年頃)
うれしいお手紙をいただきました。風に乗り雲に乗り、天から届いたようあります。これを拝読しましたが、まさに雲や霧が晴れ、日の光が射し込むように晴れ晴れとしたものでありました。あわせて天台宗の法文まで頂戴いたし、恐れ多くまた嬉しくて手で触れることこともできぬほどでありました。
寒くなってまいりました。私め、お求めに応じて比叡山の御山に登りたいものだと思ってはおりましたが、その時間がなくてかないませんでした。今にして思うと残念で私とあなたと私の弟子・室山3人が会談して仏法について話し合い、共に仏法の教えを宣べ伝え仏の恩徳に報いたいものと存じております。
できますれば、ご足労ですが、私どもの寺の方へお出かけくださいませんでしょうか。ぜひともぜひとも。不具。空海より。
九月十一日 比叡山におられます最澄様へ


平安初期の能書家嵯峨天皇・空海・橘逸勢を三筆と竝称するが、中でも傑出しているのは、嵯峨天皇の師でもあった空海である。空海が天性の腕を磨いたのは31歳で入唐してからのこと。留学すること2年、唐の都長安で筆法や書論を勉励。空海みずからも「少年時、しばしば古人の遺跡を臨せり」と述べているように、中国の筆跡を臨摸し手習いの稽古をしたようだ。当時の書法の実情から察するに、二王(羲之・献之)のものであったと思われる。しかし、この留学にて当時興りつつあった顔真卿一派の新しい書法を学んで帰国しているのである。二王の風神を得、天衣無縫の妙あり・・・と評され本人もサゾカシ得意の作であろう・・・?(ちなみに弘法は筆を選んでいまーす・・・)



この「卒意」の書に関する‘評価’は、通常の御仁では出来ない。

書の裏にある歴史と諸々の思惑が、必然的にその書に現れるという御指摘である。正に「書は人なり!」

でも、それを‘紐とくことが出来る’実力は、どこから来るのだろうか?

精進の足りなさが、ひしひしと・・・。

まだまだ、沢山の‘「卒意」の書’があるらしい。

(つづく)














[2012/09/18 11:51] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「卒意」の真の意味(その1)
通常、「卒意」は、「用意」の対語として使われる。

たとえば、次のように‘プレゼンテーション’の‘極意’として「用意」とは違った‘その場の雰囲気に応じての咄嗟の判断での行動に結びつく‘意’である、として‘活用’される‘概念’である。

次の例を見れば、その使われ方が理解出来る。

http://www.fujixerox.co.jp/support/xdirect
/special/future_c/report/re11011.html


さて、最後に菊地氏から紹介していただいた言葉、「用意」と「卒意」をご紹介して本稿を閉じたいと思います。卒意とは、演芸、文芸などで用いられる概念で、用意との対語です。ここでいう用意するとは、客を迎える準備を行ない、空間を演出し、客の登場を待つというように、あらかじめ行なう行為であり、主人が主体となり客を意識するものです

一方、卒意とはその場の雰囲気に応じてとっさに判断・行動することであり、「主人」だけが主体ではありません。「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントであるといいます。

噺家が、膨大な演目を暗記しながら(用意)、何を話すのかは当日の客層を見て判断し、即興的に演目を決めて語り始める(卒意)様子は、用意と卒意の典型といえます。

フューチャーセンターの記憶や記録を残すとという仕事にも、事前の用意とともに、場の中で即興的に生み出されたものや、関係性の中で生まれたものを記録する、卒意の書も重要であることを、菊地氏の言葉は物語っているように思います。

用意と卒意の精神で、みなさんのフューチャーセンターの記憶をとどめる方法論をぜひ発見してみてください。


さらに、次のようにもやはり、ビジネスマンにとって「卒意」が大事だと強調されている。

http://mba.globis.ac.jp/blog/osaka-staff/57.html

プレゼンテーションの名手に学ぶ! ~落語家の「用意」と「卒意」~

落語家が高座に上がるときに大事にすることがあります。
「用意」と「卒意」というものですが、ご存知でしょうか?

茶の湯の「おもてなし」の精神をあらわす言葉なのですが、
「用意」は、お客さまを迎える主催者が事前に行う準備。
「卒意」は、主客一体となって、場をつくりあげること。


この「用意」と「卒意」が落語では極めて重要なのです。

寄席以外の落語会などでは予め演目を開示している場合もありますが、
寄席では通常、どの噺を喋るかは高座で決めます。

なぜなら、寄席の高座に上がって、客層や「まくら」で話す話題の
反応などを見て、その日その時のお客の年齢層や興味、落語の知識レベルに
合った噺を選ぶためです。

客席を見渡す為に、コンサートや芝居などと違って、
寄席や落語会の客席は明るくなっています。
それほどまでに落語家は「用意」と「卒意」を常に意識しています。

この「用意」と「卒意」は我々ビジネスパーソンが
プレゼンテーションを行う際にも極めて参考になりますね。


プレゼンテーションにおける「用意」とは、
 -中身の作り込みをしっかり行い、確認をしておく。
 -プレゼンする相手がどんな人で、どんなプレゼンが求められるか
  イメージし、反論に備えたり、詳細を求められたりした場合に
  対応できるよう準備をしておく、など。

「卒意」とは
 -専門用語を並べ立てたりせず、聴き手のレベルや聴きやすさを意識する。
 -早口にならないようにし、随所に理解しやすいような“間”を作る、など。



一方、「卒意」が「作意」の対語として用いられる場合がある。

‘書道’の場合にこの語が存在することに‘意義’がある。

‘書道’の場合に何故意義があるかというと、それは‘道’を極めようとする場合の‘究極の意識’を示唆しているからである。

この場合の「卒意」こそ、およそ‘道’という名のつく‘修行’には欠かせないもののように思われる。

‘剣道’、‘柔道’然り、‘華道’、‘茶道’これまた然り。

そして、スポーツにおいても然り、と思っている。

この弊ブログで何度も取り上げさせて貰った‘勝つと思うな’の気持ちこそ「卒意」なのである。

この場合の‘卒’は、‘卒業’の意味での‘卒’である。

つまり、「卒意」とは、‘意を卒業した状態’、すなわち、‘見られる、思われると意識しそうな相手’から卒業してしまった状態’を指すのである。

そうすれば、正に‘己の真の姿’が実現する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%
81%93%E7%94%A8%E8%AA%9E%E4%B8%80
%E8%A6%A7#.E4.BD.9C.E6.84.8F

書道用語一覧

率意(そつい、卒意とも)とは、手紙や草稿など書作品としての制作意図を持たずに、自己の欲するまま自由に特色を発揮して書くことをいう。作意に対する語。

作意(さくい)とは、作品の制作意図。率意に対する語。




http://heimatlos.tea-nifty.com/heimatlos/2007/12/post_2062.html
卒意と言うこと

藤原行成について先日の記事で、「かな文字よりも漢文のほうが出来が良く見えたりします。なぜだろう。」と触れた後に

ふと思い立って調べた所、現存する彼の作品の内、明らかな真跡は漢字のもののみだとかで、

やはりなあ、と思った。

彼の手になるとされる作品のうち仮名文字は、

例えば、「上手に見せたい」という気負いや「どうです?私の字は巧いでしょう」という気取りの漂うキザな筆跡だったり、

或いは、

まるでウラナリの坊さんか尼さんが、諸行無常を託ちながらも憂き世の見栄に囚われつつ筆写したような、生気もなければ覇気もない、鬱々とした筆跡だったりする。

あれらが仮名文字の鑑として人口に膾炙していると聞いても、これまで私には、どこがどう良いのか判らなかった。

今般彼の漢字をじっくり眺める機会を持って、あの品の良い豪放さや、健康な精神性がありありと伝わる筆致は確かに稀有だと思ったし、この人物と、あの仮名文字の退屈そうな御仁が同一とは、やはり思えない。

要は、「彼の」仮名に漂うキザな暗さが、漢字には全く無いのだ。

習字を始めた頃の書道の先生や、小学校一・二年の担任の先生から教えられて以来、私も重々自戒していることだけれど、

書に限らず全てにおいて、

卒意とは、極めて難しいが、不可欠の要素だと思わされる。



この作者も「書に限らず全てにおいて」と明言しておられる。流石である!

また、次の引用文献「卒意の書」には、この弊ブログで取り上げた‘蘭亭叙’こそ、この‘卒意’が実践されていると解説しておられる。

書に道を求めて0008-2
小山天舟著 「書に道をもとめて」より

http://members3.jcom.home.ne.jp/sancotei/sancotei/zu_yino_shu.html

卒意の書

 私たちが筆を手にするとき、必ずと言っていいほど、誰かに見せる見られるということを前提に書くものです。書道展や展示会、あるいは競書に出品する作品はもちろんのこと、日常の手紙や署名にしてもそうです。
 人の目に、少しでも上手そうに、きれいに、達筆そうにみられたい。これは誰もが抱くごく自然な心情です。ましてや、「書は人なり」とか「書は心画なり」などと言われれば、なおさら人目を気にしないわけにはいきません。当然、人目を意識して書かれるものは、練習を積み、多くの枚数を費やすことになります。だから、そこには力作が生まれます。
 こうやって書かれた書は、本人の努力のかいあって、字形は整い、線は練れて立派なものでしょう。どこにもスキがなく、失敗もない洗練された書には、確かに感心させられるものです。でもこれは、あくまでもよそ行きの書の姿です。本当の意味での「書は人なり」の書でしょうか。正装し、背筋を伸ばし、行儀を整えるのは、他者に対する姿勢です。それが、平素の自分自身の姿でしょうか。人は絶えず緊張ばかりはしてられません。リラックスして、心を解き放った心身こそ、その人の本来の姿ではないでしょうか。そういう心持ちで書かれた書とは、どういうものなのでしょう。
 かの書聖王羲之は、のどかな春の日に、一族知人を招いて宴遊会を催しました。豊かな自然の中で、酒を飲み、興が乗っては詩を作る。宴は人々を楽しませました。多くの詩ができ、寄せれたところで、王羲之は序文蘭亭序をしたためることにしました。楽しく心地よい酔いにまとわれた筆は、全くの即興で紙面に墨跡を残していきました。書き上げたなら、すぐに見せようという気は無く、後で清書するつもりだったのでしょう。ですから、行間に脱字を書き加えたり、字を消して書き直したりしている部分があります。作品作りという計算などない、自然体の書です。にもかかわらず、同じ文字はすべて字形を変えて表現するという変化の妙を示している所などは、さすが書聖と言われるゆえんでしょう。後日、あらためて清書した王羲之ですが、何枚書いてもうまくいかなかったそうです。あの時の、あの雰囲気の中で、自然に書かされた筆致には及ばなかったのです。きちんと書き上げようという緊張感が、書聖の筆にもプレッシャーを与えたのでしょう。あきらめた王羲之は、ミスのあるのは承知で、我が最良の作として伝え残すことにしました。体裁良く作られた完成品より、失敗は有れども筆勢豊かな作を上としたのです。この王羲之の書に対する姿勢の中に、自然体の書(卒意の書)の価値を見出すことが出来ます。

 このように、作意的意識を持たず、その時の自然な気持ちで書かれた卒意の書なる名品は他にもあります。
 まずは顔真卿。戦争で亡くなった甥の霊を祭った時の祭文の草稿である『祭姪文稿』や、集会で席次を乱した者に対する抗議文の草稿『争坐位稿』が卒位の書です。『祭姪文稿』は、かわいがっていた兄の子に対する悲しみの思いで、『争坐位稿』は、無礼者に対する怒りの気持ちで書かれています。共に、深い感慨を込めて書いたものとはいえ、草稿ですから、王羲之の『蘭亭序』同様、書き加えたり、書き直したりしている部分が見受けられます。両者とも、しかるべき人に渡す書状ですから、きちんと清書したものがあったはずですけれど、それらは残っていません。後世に残る石碑を数多く書いた顔真卿でが、まさか下書きが古典となって伝えられようとは、夢にも思わなかったことでしょう。
 日本の書人のものでは、小野道風の『屏風土代』がそうです。これは、醍醐天皇の宮廷に新調された屏風の色紙形に揮毫を頼まれた道風が、作品の構想を練った際の下書きです。随所に文字の訂正や書き込みなどが見られ、字形を工夫した様子が伺えるものです。その筆致は、実にのびのびとしており、変化にも富んでいます。やはり、本番ではないという気楽さが、筆をここまで走らせたのでしょう。
 以上のように、作意に専念せず、その時折りの素直な気持ちの中で書かれた書は、その人の本質、ありのままの姿を表出させるものです。現実の私たちの世界でも、そんな書には、まずお目にかかることはありません。今という時代にあっては、尚のことでしょう。それだけに、こういった卒意の書を目にすると、筆者の誠の真意をかいま見たようで、嬉しくなると同時に、書人の平素からの技量の高さを知ることができ、感服させられます。あえて、卒意の書を意識的に残した王羲之は別として、顔真卿や小野道風にしてみれば、やや面はゆい気持ちかもしれませんが。
 私たち自身も、何かに出品する場合だけ鍛練するのではなく、日々の日常書でも自ずと実力が発揮できるよう、普段から腕を磨いておく必要があるのではないでしょうか。いつ何時、誰かに卒意の書を見られるかもしれないのですから。その時、軽率の書と思われないためにも。



果たして自分の練習書の中に‘卒意の書’と言えるかもしれないものがあるだろうかと探してみた。

有田紀史雄の卒意の書0001-2

これまでの‘作品’は、やはり‘余所行き’のもの。しかし、この練習書は、‘練習’と思って書いているから‘心構え’が違う! 悪い方(?良い方にかも?)にである。 墨の濃さも違えば、字の途中の‘止め’の部分もきちんとしていない!

しかし、全体の気分は、伸び伸びとしていて書き手が‘硬直’していないことを窺わせる。

昔から、

「練習は、本番のように」 「本番は、練習のように」

と言われていることは、誰でも百も承知である。でもそれが出来ない!やはり、他人を意識しているからなのだろう。

この‘創作日記’にしても自分自身の‘日記’だと認識してはいるが、いざ書き始めると‘誰かに見られるから、もう少し体裁を整えよう!’などという‘雑念’が入り込む。

なかなか‘意図’と‘現実’はマッチングしないものである。

では、「卒意」を心掛けて、例えば、書を書いたり、テニスの試合をしたり、ゴルフをしたりする場合、これホントに「卒意」になっているのだろうか?

そんな意味合いでは、‘家庭の中での言動’は、或る意味では‘裃(かみしも)’を脱いでしまっているから案外「卒意」の状態かもしない。

‘パンツ一つ’、これが「卒意」実践の極意なのかもしれない。


(つづく)















[2012/09/17 22:16] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
地球の巨大地震と‘太陽の黒点’との関係
まだまだなかなか復旧・復興が進まない2011年3月11日の東日本大地震。

そして、新しく発表された‘南海トラフ巨大地震’予測。日本は一体どんな手を打つべきなのか?

南海トラフ震度
http://mainichi.jp/graph/2012/08/30/20120830k0000m040001000c/001.html
2012年08月29日

3・11の約半年後に、九州大学・宇宙環境研究センターが、‘太陽の黒点’と‘地球の地震’とに何らかの関係があるという見通しを発表している。

http://technews.blog42.fc2.com/blog-entry-1448.html

太陽:黒点少ない時期、巨大地震頻発 九州大宙空環境研が分析

太陽の黒点数が少ない時期ほど巨大地震の発生頻度が高いことが、
湯元清文・九州大宙空環境研究センター長(宇宙地球電磁気学)のチームの分析で分かった。
東日本大震災も黒点数が少ない時期に起きた。
太陽の活動が地球内部に影響を及ぼす可能性を示す成果として注目される。
11月3日から神戸市で開かれる地球電磁気・地球惑星圏学会で発表する。

太陽の黒点数は約11年周期で増減を繰り返し、地球大気の状態を変化させている。
チームは地球内部にも何か影響を与えていると考え、1963~2000年の太陽の黒点数と、
同時期に発生したマグニチュード(M)4以上の計32万7625回の地震との関係を調べた。

その結果、M4・0~4・9の地震の65%が、太陽黒点数が最小期(約2年間)の時期に起きていた。
M5・0~5・9、M6・0~6・9、M7・0~7・9でもほぼ同じ割合だったが、M8・0~9・9では、
28回発生した地震の79%が最小期に集中していた。また、黒点数が少ない時期には、
太陽から吹き出す電気を帯びた粒子の流れ「太陽風」が強まる現象が毎月平均3~4回あるが、
その現象時に、M6以上の地震の70%が発生していた。

太陽風が吹き荒れると、地上の送電線に巨大な電流が誘導され、大規模停電を起こすことが
知られている。湯元センター長は「太陽と地震の活動をつなげる要素は不明だが、地震の謎を
解明する手がかりにしたい」と話す。【田中泰義】
毎日新聞 2011年9月26日 東京朝刊


太陽の黒点とは?

太陽の黒点-2
http://news.ameba.jp/image/20110819-138/
太陽の「黒点群」:NASAの太陽観測衛星SOHOがとらえた2009年9月の黒点群。 Image courtesy SOHO/ESA/NASA

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99
%BD%E9%BB%92%E7%82%B9


太陽黒点(たいようこくてん、英: sunspot)とは、太陽表面を観測した時に黒い点を散らしたかのように見える部分のこと。単に黒点とも呼ぶ。実際にはこの部分も光を放っているが、周囲よりも弱い光なので黒く見える。太陽黒点は、約9.5~11年毎に増減を繰り返している
黒点が暗いのは、その温度が約4,000℃と普通の太陽表面(光球)温度(約6,000℃)に比べて低いためである。発生原因は太陽の磁場であると考えられている。
黒点は太陽の自転とともに東から西へ移動する。大きな黒点群の中には太陽の裏側を回って再び地球から見える側に出てきても消えていない、1ヶ月ほど存在する寿命の長いものがある。

名称

黒点の中の特に暗い部分を暗部、暗部を取り巻くやや明るい部分を半暗部と呼ぶ。また、黒点はしばしば複数個が集まった状態で現れることが多く、このような黒点の集まりは黒点群と呼ばれる。黒点群は黒点の集まりのことを指すが、黒点が1つしか見えない時でも「黒点群」と呼ぶ。

黒点群は、その形態によって分類がなされている。大きく分けると「双極性黒点群」と「単極性黒点群」があり、双極性黒点群は黒点が東西に広がっていて、群の東側と西側に比較的大きな黒点があるものである。この形態は多くの黒点群に見られる。単極性黒点群は極が1つしかない黒点群で、双極性黒点群の片方の極が消失したものである。黒点の多くが「先行黒点」と「後行黒点」と呼ばれる2つの黒点が東西方向に並んで現れ「黒点対」と呼ばれる。
黒点は数の少ない「黒点極小期」に南北の緯度30度付近に現れ、次第に数を増しながらやがて「黒点極大期」には緯度15度付近に多数出現する。黒点が多く出現する北緯40度から南緯40度までを「黒点帯」と呼ぶ。
黒点群の細かい分け方にはチューリッヒ天文台の分類があり、東西の広がりなどによりA型、B型、……、J型などと9種類に分けられている。このような分類は、黒点群の活動度を調べる上で重要である。

太陽黒点の周期 520px-Ssn_yearly
太陽黒点の400年間の歴史。黒点の数をウォルフ黒点相対数(en:Wolf number)の値で集計したもの。1790年から1820年はダルトン極小期(en:Dalton Minimum)、1645年から1715年はマウンダー極小期(en:Maunder Minimum)

1843年にドイツの天文学者ハインリッヒ・シュワーベが初めて黒点の数がおおよそ10年周期で増減をくりかえしていることを発見した。この増減は太陽活動と密接な関係がある。1755年から始まる活動の山をサイクル1として、2011年現在はサイクル24に入ったところである。

発生原理

黒点は太陽磁場によって生み出されていると考えられている。

太陽磁場

太陽の回転に伴って太陽内部には数十億アンペアの電流が発生している。これによって1ガウス程度の強力な磁力線が南北方向に発生する。太陽の回転は32日で1周する高緯度地帯より27日で1周する低緯度地帯の方が速く、赤道部の動きに引きずられて南北方向の磁力線も東西赤道部に巻き付くようにズレてゆく。緯度によってことなる回転から生じたズレは半年後には赤道部で1周し、3年後には磁力線も6周ほど巻き付いてしまう。こうして何年もの間に東西赤道部を中心に引き伸ばされ狭い範囲に平行して走り密度を増した磁力線は互いに反発しあい、部分的に光球面から浮き上がり、コリオリの力を受けてねじられる。黒点の磁場は数千ガウスにもなる。

黒点発生

東西方向に並んで現れる黒点対は太陽磁場が光球面から飛び出た後で戻ってゆく経路に発生していると考えられている。強い磁力線によってプラズマガスの対流が妨げられるため表面温度が下がると考えられている。

太陽黒点と電波伝播

地球の電離層は、太陽黒点の数に影響を受ける。短波帯以下の電波伝播は電離層の影響を大きく受けるため、無線の通信状態も大きく影響を受ける。独立行政法人情報通信研究機構・宇宙天気情報センターでは観測された黒点数を「指数」(SSN:Sun Spot Number)として発表している。

太陽黒点と地震の発生

太陽黒点が少ない活動極小期に巨大地震の発生頻度が上昇することが、九州大学宙空環境研究センターの分析結果によって指摘されている。分析データは1963年から2000年のもので、約11年周期で訪れる太陽黒点数最小期(いわゆる「サイクルn」の逆の時期)の2年間にM4.0~4.9の地震の65%が発生、M5.0~5.9、M6.0~6.9、M7.0~7.9でもほぼ同様の割合だったが、M8.0以上の巨大地震に至っては全28回のうち79%が最小期に発生していた。また、太陽黒点が少ない時期における月3~4回の強い太陽風発生時には、M6.0以上の地震の70%が発生している。なお、2011年の東北地方太平洋沖地震も太陽黒点が少ない時期に発生したものである。太陽黒点の減少で巨大地震が増加する原因は現時点では不明だが、この分析結果から太陽活動が地球の内部にまで影響を及ぼしている可能性がある。


また、こんな統計処理まで出現している。
太陽の黒点の数と経済
http://plaza.rakuten.co.jp/OmMaNiPadMeHum/diary/200810030000/

http://plaza.rakuten.co.jp/OmMaNiPadMeHum/diary/200810030000/
太陽黒点活動と景気循環との連動については、限界効用理論の提唱者の一人として有名な経済学者、ウィリアム・ジェヴォンズが1876年に、科学雑誌『ネイチャー』に「商業恐慌と太陽黒点」という論文を発表している。 

‘太陽黒点が少なくなると経済活動が落ち込む’ことを発見したのだ。

上のグラフは太陽黒点数とアメリカの非農業部門生産指数を表しており、驚くほど一致していることが分かる。

現在の世界経済市場の大混乱は太陽の黒点の減少がもたらす必然である可能性が高い。



約11年の周期で、太陽の黒点の増減がやって来る。と言う事は、地球の巨大地震と経済も、この太陽の黒点に一番影響されているという事になる。この事実にもう少し信憑性が出て来るなら、対処の仕方が随分楽になる。

一番‘しんどい’のは、何をするにも‘予測が立たない’事である。

この2~3年、無事に巨大地震の動きが止まっていて呉れれば、その先数年以上は多少安心して生活が出来る、という保証が欲しい。

南海トラフ巨大地震は、明日にでも起こるかもしれないとの不安があったが、これなら少しは安心、ということになればいいのだが・・・。

太陽の黒点^1
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010083101
August 31, 2010
 ニュージャージー工科大学の新型望遠鏡ニュー・ソーラー・テレスコープ(New Solar Telescope)で撮影された太陽の黒点(7月2日撮影)。8月下旬公開のこの画像は、可視光下で最も詳細に黒点の様子をとらえているという。
















[2012/09/16 14:58] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
王羲之の蘭亭叙について
王羲之の最高傑作は、何と言っても‘蘭亭叙’である。

王羲之・蘭亭叙’472px-Lanting_P3rd
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%
A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lanting_P3rd.jpg

『蘭亭序』(神龍半印本、部分) (‘序’なのか‘叙’なのかについては、以下の引用文献に詳しい)

我々のようなお習字の段階から中々脱出出来ない程度でも、当然名前は知っているし、臨書の一回ぐらいは行なった事がある。

それはそれでいいのだが、書道の先生からは、この‘蘭亭叙’には‘何らかの経緯’があることも聞いてはいた。そして、肝心なことは、この‘蘭亭叙’を王羲之が書いたのは、彼が‘少々酒に酔っていた’らしい、というのである。

まあ、少しは書道の‘道’に近づきたいと思っている輩にとってはかなりの‘重大事件’である。

そして、もう一つの‘事件’。それは‘蘭亭叙’と言われている書等が、実は‘王羲之の真筆ではない!’という事である。

それに、この‘謎めいた事件’の‘首謀者’が、唐の太宗というから、恐らく事件は複雑に違いない。時の最大の権力者が首謀者であれば、そして国が中国であれば、権謀術策蠢く‘こころ踊る’物語があったに違いない!

だからこそ謎は謎を呼んで、それだけに一層‘王羲之’の名声を高めることにも繋がっているようにも思われる。

こうなればもう web に頼るしかない!

いやいや、素晴しいホームページを発見!ここに王羲之・蘭亭叙の謎めいた物語の全貌が記されている!

書のさんぽ タイトル sanpo
http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm

蘭亭叙の解説

1 蘭亭叙とは
2 蘭亭叙の評価
3 蘭亭叙の読み
4 蘭亭叙現代語訳
5 蘭亭序か叙か?
6 蘭亭叙の種類
7 蘭亭叙の分類
・ 双鉤填墨について
・ 模本の名品
・ 刻本の名品
8 八柱ってなんだろう
9 蘭亭の真跡は実在?
10 会稽山はどこ
11 王家と蘭亭叙
12 蘭亭叙だましとられる

という‘目次’つきである。

この著者のホームページを開いて頂ければ一目瞭然なのであるが、このオーナーのプロフィールを御紹介しておきたい。40年弱も書道に邁進されている。一つ一つ文献の裏付けがあり、いい加減な情報ではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/jibun/jibun.htm

★ ようこそ ★ m(._.)m
                                        
「書のさんぽ道」にお出かけいただきありがとうございます。
管理人の近藤莊岳です。
 
****年に永年勤めた職を定年退職し、このページを開設したシルバー世代です。

タイトルの「書のさんぽ道」は、書という道を楽しみながら散歩気分で歩いている
けれども時々(しょっちゅう)あちこち寄り道をするとの意で付けてます。

住まいは、武蔵野の面影が残る東京の東久留米市で、市内には黒目川と
落合川という2つの清流が流れる自然豊かな町です。人口は約11万人、

都心から北西へ約24Km。北東は埼玉県新座市、西は東村山市、南は
西東京と小平の2市、北は清瀬市に接しています。(一部市広報より)

趣味は?
以前は、アウトドアー派で、釣り・ゴルフ・スキー等朝早くから遊び歩いてましたが
最近は、今流行のデジタル一眼を肩にあちこち・・・。いずれにせよ遊び大好き人間!

書は?
何気なく始めて、いつしか40年弱。その間各種展覧会の審査員等歴任。
最近は、遊び心で書く小作品と、書いた書を自分で表装し楽しむ。(自己勝手流)      

平成元年 有志を募り書を楽しむ「游墨会」を結成。 毎年池袋で展覧会を開催。
平成21年には、20回記念展を計画中。 
 
H20.8 記   

?? モットー ??
・これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。
これを好む者は、これを楽しむ者に如(し)かず。



・物事を知っているだけの人は、その物事の好きな人にはかなわない。
物事の好きな人も、その物事を楽しんでやっている人にはかなわない

結論
何でもいいから楽しんでやりましょう。それが一番!
   
「知之者不如好之者  好之者不如楽之者」      論語より



このプロフィールを拝見して驚いたこと二つ。

①‘モットー’が、昨日弊ブログでご紹介した‘小山天舟先生’のものと同じ! やっぱり達人は同じなのだ!

② お住まいが、‘東久留米市’だそうである。私が日頃から感心・尊敬している書道の達人先生も、実は東久留米市に在住されておられる。何でも門下生は、30名以上だとか。東久留米市には書道の達人がそんなに沢山住んでおられるのだろうか?



さて、王羲之の‘蘭亭叙’について、当面知りたいのは、次の二つの項目である。

<1> 王羲之が、‘ほろ酔い気分で’書いたのは本当か?そうなら、何故それが彼の最高傑作なのか?

<2> 何故、‘真筆’がないのか? ‘太宗の陰謀’とは?

この疑問に答えて頂くためには、時代背景の説明が必要である。特に、関連する人達の生きた年代とプロフィール


(1)王羲之 : (303年~361年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8
E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B

王 羲之(おう ぎし、Wáng Xīzhī、303年 - 361年[1])は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる[2]。

業績

王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。
他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られる。

略歴

王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた[8]。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる[9]。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。



(2)褚遂良: (596年~658年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E9%81%82%E8%89%AF
褚遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は唐代の政治家、書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。

経歴

褚亮の子として生まれた。本貫は杭州銭塘県。617年、薛挙が自立すると、その下で通事舎人をつとめた。618年、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。636年、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。644年、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。
649年、太宗が死去するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。しかし、655年に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のヴェトナム中部)にまで流され、そこで死去した。
子に褚彦甫・褚彦沖がいたが、ともに愛州に流されて殺された。705年に褚遂良の一家は名誉回復されて、爵位を戻された。

書風(「褚法」)

褚遂良・拓本 Chu_Suiliang_Sheng_Jiao_Xu0
『雁塔聖教序』(部分、拓本)

六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。
遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている。



(3)唐の太宗: (599年~649年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A
4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)


太宗170px-TangTaizong

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝(在位:626年9月4日 - 649年7月10日)。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。

経歴

即位前

4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため世民という諱がついたというエピソードが伝えられている。16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。
同618年(武徳元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子され、高祖(李淵)が急死した際に直ちに即位する必要があるため、常に高祖の傍についていなくてはならず、李世民に比べれば戦功が少なくならざるを得なかった。
建国の戦功に比してその地位が報われていないと、李世民とその側近達は不満を有するようになった。その対策として高祖は天策上将(てんさくじょうしょう)なる称号を李世民に与え、また弘義宮と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。
しかしその後も世民側の要求は止まらなかった。李建成も李世民に対抗して、高祖に訴えて世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こした(玄武門の変)。この政変により、高祖は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。

貞観の治

太宗は即位直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受ける。『旧唐書』によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い渭水に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている[1]。
627年、元号を貞観と改元した。そして房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。
文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
これらの充実した政策により、太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されている。

晩年

太宗の晩年は立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、太宗は弟の魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天の台頭の要因となることとなった。
644年(貞観18年)、高句麗へ遠征(唐の高句麗出兵)が行われるが失敗に終わり、それから5年後の649年(貞観23年)に崩御した。
崩御後に諡号として文皇帝(ぶんこうてい)と贈られたが、674年(上元元年)、高宗により文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に改められ、更に749年(天宝8年)、玄宗により再度文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして754年(天宝13年)に玄宗により文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。

歴史的評価

後世、名君の中の名君と称えられた太宗であるが、その像にはかなりの粉飾が見られる。『旧唐書』の編纂に参考資料とされた太宗実録の編修をした許敬宗という人物は、賄賂によりその記録を歪曲することがあったと両唐書の許敬宗伝に書かれている。また、即位に関して兄の李建成や弟の元吉をクーデターで殺害しており、高句麗への2度の遠征に失敗している。

しかし、隋末唐初の混乱から国土を回復させ、後の唐の土台を築く治世を行ったこと、唐の領土を広げ、北方異民族の脅威を長年に渡って取り除いたこと、兄の李建成に、李世民の存在が皇太子の座を危うくしていること感じて殺害することを進言した魏徴の命を助け、彼を始めとする部下たちの諫言をよく聞き入れたことなどから、粉飾されていることを割り引いても、中国史上でも有数の名君であることには、まず間違いはなかろうと思われる。正妻の長孫皇后や徐賢妃など、美貌ではないが賢女であった女性の諫言も聞き入れることがあったようである。
太宗は能筆家として知られ、臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど書に対する関心が強かった。また書聖と謳われる王羲之の真筆に対して異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたる智永という僧が持っていた「蘭亭序」の真筆を手に入れ、それを死後に昭陵に納めさせた と伝えられている。


(1)王羲之 : (303年~361年)

(2)褚遂良: (596年~658年)

(3)唐の太宗:(599年~649年)

という、この事件に関連のある人物の時代背景・年齢が明らかとなったので、設問の解明に進みたい。
事件が起こったのは、王羲之の死後300年以上も経った時代である。


<1> 王羲之が、‘ほろ酔い気分で’書いたのは本当か?そうなら、何故それが彼の最高傑作なのか?


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rantei/kaisetu/kaisetu.htm


1 蘭 亭 叙 と は 

 蘭亭叙は、王羲之の法帖のなかで最も有名であり、書を学ぼうとしている人の必修帖です。

 王羲之が永和9年(353)の3月3日、蘭亭(今の浙江省紹興市にあった別荘の名前)に41人の文人達を集めて流水曲水の宴を開きました。

その時に詠まれた参加者の詩の冒頭に、王羲之が鼠鬚筆(鼠の鬚で作った筆)を以て、宴の様子を後々まで伝えようと書いた草稿です。

王羲之はこれを書いたとき酔っていたと言われ、後に草稿を何回も書き直しましたが、草稿以上の文字が書けず、それをそのまま残しておいたものです。

 総文字数は324字であるが、同じ文字はことごとく変化し王羲之自身も最高傑作であると認めたと伝えられている行書の名品で、

行書を学ぶ者全ての人が一度は書いているものです。ここではその変化の様子を解明しようとしているのです。

  しかし、蘭亭叙の真筆は此の世にはないのです。唐の太宗皇帝(598-649)が王羲之の蘭亭叙をこよなく愛し、肌身離さず大切にしていたそうです。

太宗皇帝が亡くなる時、王羲之の蘭亭叙も自分と一緒に埋葬するように遺言し、一緒に埋めさせてしまったのです。

ですから真筆は二度と見ることが出来ません。  


 私達が現在目にすることの出きる蘭亭叙は、唐太宗皇帝が生前に、搨書人(とうしょにん)という複製の専門家を宮中に雇って書かせたものと、

臣下で書に優れた者(欧陽詢、虞世南、楮遂良等)に臨書させたもの です。

これらの書は、真跡に最も近いものとして、後世の書家はこれを学んでいるのです。

蘭亭叙が何種類もあるのはこうした事情によるのです。同じ蘭亭叙でも書いた人により微妙に違っていますが、それが又蘭亭叙の面白いところかもしれませんね・・・。


2 何故「蘭亭叙」は何故評価が高いのか?


 王羲之が書聖と仰がれ、蘭亭叙が古今一の名品であると評価されたのは、王羲之の没後三百年以上経ってからです。

唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛好し、弁才からだまし取ったのはあまりにも有名です。

太宗皇帝が在世中、蘭亭叙の複製を多くの臣下達に作らせ、後の書の手本として普及させたのも一つの要素かもしれません。

しかし、皇帝がいかに蘭亭叙を寵愛しても、蘭亭叙そのものが書としての魅力がなければ後世に残るはずがありません。

蘭亭叙が何よりすぐれている点は、「卒意の書」であったことだと言われています。

卒意の書とは、上手く書いて人に見せるという意識がなく、心の感ずるまま自由に書くことです。

書いた動機が純粋なだけに、それが見るものを引きつけるのでしょう。

王羲之が宴の終わった後、序を清書しようと何回書いても、最初に書いたものに及ばなかったのは卒意の書ではなかったからではないでしょうか。

さらに、蘭亭叙が書かれた背景を見ると「曲水の宴」という風雅な世界があり、それが知らず知らずのうちに書ににじみ出ているのです。

自分の宝である友人を集め、風流な曲水の宴を開き、酒を酌み交わし、風光明媚な世界に浸った至福の一時に書かれた書。

これが蘭亭叙であり、後世の人がその魅力に引きつけられるのだと思いますが・・・。



<2> 何故、‘真筆’がないのか? ‘太宗の陰謀’とは?

上述の引用文献にある通り、

蘭亭叙の真筆は此の世にはないのです。唐の太宗皇帝(598-649)が王羲之の蘭亭叙をこよなく愛し、肌身離さず大切にしていたそうです。

太宗皇帝が亡くなる時、王羲之の蘭亭叙も自分と一緒に埋葬するように遺言し、一緒に埋めさせてしまったのです。ですから真筆は二度と見ることが出来ません。


したがって、複製が沢山あるという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


6 蘭 亭 叙 の 種 類 

 蘭亭叙は沢山の種類があります。

一説には100を超える種類があるとも言われています。王羲之不滅の名品である蘭亭叙が、何故こんなに多くの種類があるのでしょう?。

それは、本物は唐太宗とともに埋葬されてしまったからです。

現在私達が目にすることの出来る蘭亭叙は、唐の太宗皇帝が搨書人(とうしょにん)という書の複製の専門家に蘭亭叙を沢山複製させたのと、

臣下で書に秀でていた、欧陽詢・虞世南・楮遂良らに命じて蘭亭叙を臨書させたものが世に出回っているからです。

従って私達は本物の「蘭亭叙」は目にすることは出来ませんが、複製本や臨書本を通して王 羲之の書に接することが出来るのです。

搨書人や臨書した者によって、多少表現や書き方が違います。したがって○○の書いた「蘭亭叙」、△△の書いた「蘭亭叙」というように幾つもの「蘭亭叙」があるのです。


更に皇帝は、複製された蘭亭叙や臨書された蘭亭叙を石碑に刻し、それを拓本にし、行書の手本として多くの人々に与えました。

ここにも刻し方や手本により何種類かの蘭亭叙が生まれました。

いずれの蘭亭叙であっても、初期のものは王羲之の本物の蘭亭叙をみて書いたり複製したものでしょうから、そこには王羲之の書法が出ているわけです。

後の人々は、これが真跡に近い。あれがいいと評論していますが、誰も本物を見ていないのですから、それは自分の経験と分析から論じているのでしょう。

同じ蘭亭○○本といっても、1つ1つの文字を詳細に比較すると、微妙に違っているのがあります。

これは、初期本を後年模写したか模刻したものでしょう。とすれば、同じ蘭亭であれば古い方がより王羲之の筆法に近いはずです。

淺学の私にはどの蘭亭叙が、王羲之の筆法に近いのか解りませんが、先人がよかれといっているものを、良しとして学ぶのが精一杯です。



そして、‘真筆’の行方は?


http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


9 蘭 亭 叙 の 真 跡 は 実 在 す る ? 


蘭亭叙の真跡は、唐の太宗皇帝崩御とともに一緒に埋葬され、此の世から消えてしまった!!と どの本を見ても書いてあります。


しかし、こんな一説もあります。


太宗から約255年後のAD904年に、朱全忠(しゅぜんちゅう)という人が、唐の昭宗を殺害し唐王朝を滅亡させました。

やがて唐王朝の中心であった長安はだんだんすたれ始めました。そんな時、長安近くに拠点を持っていた温韜(おんかん)という武将(賊将)が、唐王朝の墓をあばいて中の宝物を全部持ち去りったと言うのです。



太宗皇帝の墓はとても立派で御殿のようでした。中心には正殿、その東西には石台があり、その石台の上には皇帝が大切にしていた宝物が鉄の小箱に入れられて置いてあったそうです。


温韜(おんかん)が鉄の小箱を開けてみると、太宗皇帝が収集した沢山の書跡が現れました。 当然その中には王羲之の真跡「蘭亭叙」が入っているはずでしょう。

温韜はそれらをことごとく持ち出し、ちまたに売却したとのことです。従ってこの世の中の何処かに蘭亭叙の真跡がある という説です。

真意の程は別として、どんな形にしろ真跡の「蘭亭叙」が此の世に残っていて欲しいという気持ちは私だけではないでしょう。



そして、そして、太宗の陰謀が・・・!

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


12 太 宗 皇 帝  弁 財 か ら 蘭 亭 叙 を だ ま し 取 る 

法帖のコレクターでもあり書道家としても有名であった中村不折(1866-1943)画伯が1920年に描いた「賺蘭亭図」がある。


これは、 太宗皇帝の使者が弁財の所に訪れ蘭亭叙をだまし取る場面の絵であり、現在東京近代美術館に収蔵されているものです。

中央の僧が弁財で、左が皇帝の使者  どの様にしてだまし取ったかを色々な資料を基にして見てみます。

弁財      
「賺蘭亭図」  中村不折作

★唐太宗は随末の混乱期に父を助けて天下統一をし、後に皇帝となり、唐時代約300年の基を作った人です。

王羲之の書をこよなく愛し、羲之が書いた真跡はほとんど集め、その数は数百点にもなっていたそうです。しかしある時、羲之が書いた「蘭亭叙」があると聞きどうしてもそれが欲しくなりました。


その蘭亭叙は、羲之から7代目に当たる(12項参照)智永禅師が大切に永欣寺(えいきんじ)に保管していたものです。

智永没後は、その弟子であった弁財禅師が大切にしていました。
 
どうしても蘭亭叙が欲しい皇帝は、何度も弁財に使者を出しましたが、弁財は「蘭亭叙はどこにいってしまったのか分かりません」と、とぼけていました。


なんとしても蘭亭叙を手に入れたい皇帝は、臣下で一番の知恵者といわれる蕭翼(しょうよく)を呼び、弁財の持っている蘭亭叙を策略で取ってこいと命じました。


命を受けた蕭翼は身分を隠して永欣寺滞在し、言葉たくみに弁財に接近していきました。ある日蕭翼と弁財は書道談義に花を咲かせ、王羲之の話しになりました。
 (相当懇意になった頃を見計らって)

(以下、何かで読んだものです  何であったか記憶無し m(_ _)m ペコ)


○蕭翼 「王羲之の書で一番は楽毅論だと思うね」

△弁財 「いや蘭亭叙ですよ」

○蕭翼 「蘭亭叙は偽物で本物は無いと聞いているが。伝説でしょう」

△弁財 「とんでもない。蘭亭叙は実在するよ」

○蕭翼 「嘘でしょう。伝説ですよ。私は見たこともないね」

△弁財 「私は見た」

○蕭翼 「どこで」

△弁財 「私が持っているから」

○蕭翼 「本当に本物かな??」

△弁財 「嘘だと思うなら見せましょう」
   弁財は隠していた所から本物の蘭亭叙を持ってきた

○蕭翼 「禅師やはりこれは偽物ですよ」

△弁財 「そんなはずはないが・・・・・」

○蕭翼 「私は王羲之の書は沢山見ているがこれは偽物ですよ」

△弁財 「どうして偽物と分かるのか」

○蕭翼 「この字も、あの字も、王羲之はこんな字は書きませんからね」

△弁財 「私は本物と思いますが・・・」


  その時来客が来ました。弁財は大切な蘭亭叙をその場に残して応対に
  蕭翼は急いで持いた「偽の蘭亭叙」とすり替えてしまった。
  やがて戻ってきた弁財に


○蕭翼 「やはりこれは偽物のようです。よく見てください」

  と言って蕭翼はその場を去った。

  本物の蘭亭叙を持った蕭翼は都に帰って皇帝それをを差し出した。

       皇帝は大喜びし、褒美を与えたとか・・・・・・・・・・・・   


まあ、こんなことが平気で出来るのも中国人ならではの感も無きにしも非ず、といったところ。

現在の中国人の‘無茶振り’を見ても‘何でも有り’が、やはり中国なのだ。これだけの人口のなせる技に違いない! 彼等にとっては、どうやって仲間を蹴落とすか?! これが四〇〇〇年の歴史を誇る中国人の処世術なのだろう。

でも、一般の中国人は実に優しい!

これは‘残留孤児’事件を見れば判る。人種を超え、国の縛りを超え中国人には‘人を大切にするこころ’がやはり四〇〇〇年の歴史として燦然と輝いている。

さて、締め括りとして、‘蘭亭序’か‘蘭亭叙’かについて。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


5 蘭 亭 序 か 蘭 亭 叙 か ? 
 

 書道関係の本や資料を見ると、「蘭亭序」と書いてあるものと「蘭亭叙」と書いてあるものがあります。私達はどちらを使えばいいのか迷います。

王羲之が、蘭亭での宴遊で詠まれた詩歌集につけた序文という意味からすれば、「序」が正しいのかと思いますが・・・どうして「叙」の文字が使われるようになったのかと疑問に思います。

中国には昔から生前の本名を死後には使わないという風習があるのだそうです。

中国北宋時代(1000~1100年頃)の書の第一人者であった蘇軾(そしょく)(東坡は号)が、父の諱(いみな)(生前の本名)が「序」であったため、

この文字を使うのを避け、「叙」を使うように改めました。このことを「避諱改字」(ひきかいじ)といい、

後の人々がこれにならって「蘭亭序」を「蘭亭叙」と書くようになったのです。

結論として私達は、どちらを使っても良いと思いまが、同じ文書内ではどちらかに統一したほうが良いでしょう



それにしても、この‘蘭亭叙’事件には、何故‘楊貴妃’が登場しないのだろうか?






















[2012/09/15 20:46] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「伝統と革新」(その1):書道
「伝統と革新」、昔からよく言われる言葉である。

以前もこの頃も‘伝統’を理解しないで、‘革新’に突っ走る人が多い。

例えば、筆を使う‘書’にしても、功を焦るのかどうかは知らないが、‘奇妙な字’を書いて素人受けをして‘名人気取り’の御仁も多い。

書道は、お習字から始まって、独学も含めた‘臨書’を毎日欠かさずやることの実行なくして‘書道’という‘道’には到達しない。

ただし、ここまでやっても‘書道’のほんの発端についたばかりで、本物はここから始まる。

「‘道’を極めること」、これは‘目標値’であって終わりではない。‘道’を極めることに‘完成’だとか‘終わり’という事は無い! いつも言われる通りである。

手元に一冊の本がある。

書に道を求めて0001-2
小山天舟 著 「書に道をもとめて」

小山天舟:

埼玉の人で、名前は清、号を天舟と称し、尾上柴舟に師事した仮名の書家で、日本教育書道連盟理事長や日本書道美術館理事長等を歴任している。

この本の中から‘臨書手本’を抜粋。

<1> 書のこころを育てる方法

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「実際に書を書いて‘楽しむ’ことこそ、書のこころを育てる最大の方法」と言っている。この考え方は、スポーツにもその他の芸術にも通じるものであろう。実際にこの度のロンドン・オリンピックに於いても‘金メダリスト’達は異口同音に‘楽しんだ’と感想を漏らしている。

楽しめば、‘何か特別の力’が生まれるものらしい。

これも‘楽しむ’事が、その‘作用’の基本になっているのだろうが、次のような事例について‘生理学的’な研究がなされているという。

<娘の酌>:昔から‘娘の酌’は、‘何よりも酒が美味くなる’という。‘呑み手’の方が酌をしてくれるのが自分の娘だと認識した瞬間から‘お酒の味を変化させるホルモン’が‘呑み手’の方に抽出されるという研究があるらしい。(これは別途説明)

きっと‘書道’の方でも、素晴しい先生の手解きやお手本があると‘字が上手くなるホルモン(?)’が身体の中で抽出されるのかも知れない。

人間の体の仕組みは、ことほど左様に上手く出来ているものらしい。

<2> 書の古典に親しむ
臨書の古典として掲げられている代表作。

① 九成宮醴泉銘(唐)欧陽詢(76歳)

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書に道を求めて0006-2

② 雁塔聖教序(唐)褚遂良(58歳)

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③ 蘭亭叙(晋)王羲之

書に道を求めて0007-2

解説にある通り、残念ながら、王羲之の真筆版は残っていないというから、次の写真版は‘臨書’なのであろう。褚遂良のものかも(??)

書に道を求めて0008-2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%
98%AD%E4%BA%AD%E5%BA%8F

蘭亭序(らんていじょ)は、王羲之が書いた書道史上最も有名な書作品。

<前略> 王羲之の書の真偽鑑定を行った唐の褚遂良は『晋右軍王羲之書目』において行書の第一番に「永和九年 二八行 蘭亭序」と掲載している。<中略>

王羲之の真跡は現存せず、蘭亭序もその例にもれない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨摸したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。
墨跡では清の乾隆帝が蒐集した三点の模写本が有名である(北京故宮博物院所蔵)。
八柱第一本は虞世南の臨摸であろうと董其昌が推定した。墨気が抜けたうえに入墨も多く一見不鮮明であるが、西川寧は、王羲之の真跡に最も近い双鉤填墨本であると評価している。元時代に張金界奴が献上したので、張金界奴本ともいう。
八柱第二本は褚遂良の臨摸ともされていたが、現在は北宋の無名の人の臨摸と推測されている。線が細いのが特徴的である。
八柱第三本は馮承素の臨摸といわれる。筆路が鮮明であるのが特徴的で、高校の教科書などで紹介されることが多いが、逆にそれが不自然過ぎると指摘されることもある。割り印として使われた「神龍」の印が、端に半分残っているので神龍半印本ともいわれる。「神龍」は唐時代の年号である(2008年、江戸東京博物館で日本初公開された)。
ともあれ、各臨本を実際に初唐の能筆が臨摸したという根拠はない。<後略>



④ 風信帖(平安)空海

書に道を求めて0009-2

書に道を求めて0010-2

その他、この「書に道をもとめて」の本に掲載されている‘臨書手本’は、紙面の都合上もあり、割愛。

最後に‘かな’の臨書手本として、この本の著者・小山天舟先生の短冊を。

小山天舟短冊 201106-S2722
http://fukuchishoten.com/index.php?main_page=popup_image&pID=21573
小山天舟短冊

これらの素晴しい作品の臨書を毎日続けられるか?これが‘書道における伝統’を守るためには是非とも必要な工程であり、これこそが伝統を超えて革新を齎す原動力である。

(つづく)



















[2012/09/14 11:16] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
学会での‘駄洒落類’等の‘横道話’メモ
2012年9月13日に‘テクノブリッジ’というセミ学会 があった。

「地球の正体(その1)」という題名で話をさせて頂いた。

第22回テクノブリッジ資料・地球の正体(その1)-20001-2-2

材料技術を基本とした実業で頑張っておられる人達の集まりである。高名な大学の名誉教授もおられる。


その時の‘駄洒落類’等の‘横道話’メモ

<1> これはスライドの一枚

3ヶ条0001-2-2

説>:

①「きょうよう」とは、「今日(或る)用事があって・・・」という場合の「今日用」
②「きょういく」とは、「今日(どこそこへ)行く」という場合の「今日行く」

すなわち、この二つは同時に使う‘フレーズ’で、「今日(或る)用事があって、(どこそこへ)行く」という‘フレーズ’を部分的に取りだした二つという訳である。

つまり、老齢者にとって大事なことは、「毎日、何かの用意があって、出かける」ことが出来れば‘足腰’も衰えを知らず、他人と会話をする機会も増える訳だから‘ボケる’暇がないという訳である。

このご提案は、「頭の体操」で、一世を風靡した、あの‘多湖輝先生’のご発想である。
多湖輝先生
http://www.gpara.com/article/cms_show.php?c_id=15632&c_num=14

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5
%A4%9A%E6%B9%96%E8%BC%9D

多湖 輝(たご あきら、1926年2月25日 - )は、日本の心理学者。東京未来大学名誉学長。千葉大学名誉教授。多湖輝研究所所長、東京都・「心の東京革命」推進協議会会長、特定非営利活動法人「0歳からの教育」推進協議会理事長、東京アマチュア・マジシアンズクラブ会長など。
1966年に発表したクイズ本「頭の体操」シリーズはベストセラーとなり、以来約40年間に23巻までの続編が出版されている。また「頭の体操」という言葉そのものも、クイズやパズルの代名詞として日本では広く定着している


多分、日本では、これまでも今後も‘駄洒落’で、多湖輝先生の右に出る人はいない!

③ そして、「カレーを食べない」とは、そうやって出かける場合、‘カレーを食べていると、一層‘加齢臭’がしそうだから、出来るだけ‘カレーは食べない’ようにしようという貧困な私の発想。

<2> 言葉には‘省略’がある!

① 「こんにちは!」:これは、日中他人様にお会いした時の‘ご挨拶’であるが、よくよ~く改めて考えてみると、‘今日は’という、そこで終わっているから何の意味か判らない。多分「きょうは、お天気もいいようですが、お元気ですか?」という‘フレーズ’を言おうとするのだが、最初の‘きょうは’だけで後が省略されてしまっているのだろう。そして、‘きょうは’が‘今日は’でもあるために‘コンニチは’に変化したのではないか?そんな風に思えば多少納得がいく。

② 「ただいま!」:これは、通常自宅へ帰って来た時や会社へ帰って来た時の‘決まり文句’である。でもでも、これもよくよ~く考えてみると‘ただいま’で終わっているから、帰って来たという意味になる訳がない。多分「只今帰って来ました」が、やはり省略されて、①同様、頭の部分だけ残ったと思えば、これまた納得がいく。

因みに、英会話では

おはよう!  → Good morning!
こんにちは! → Hi there! 
こんばんは!   → Good evening! 
ただいま!  → I'm Back!
只今帰りました! → I went back now!

Google の翻訳機能を使うと、上記のように訳されて出て来る。本当の会話ではどう言うのだろうか?「ただいま!」は「 I'm home !」という事は聞いたことがある。何とも情けない!

③ 「川が流れる」と一般的にはいう。しかし、これも「川には水が流れる」の‘には水’が省略されている、だけではないが、まぁ、そんなところかも?

④ 「目が見えない」と言うが、「目で物が見えない」の‘で物’が省略。

⑤ 「耳が聞こえない」。これはやはり‘で音’が省略されているのである。

因みに、③,④、⑤に関連する文章を‘Google'で翻訳して見た。

広島市には何本もの川が流れている。
彼は、耳が聞こえない。
彼女は、目が見えない。

(翻訳)

A lot of the river runs through the city of Hiroshima.
He is deaf.
She is blind.

③ の‘川は流れる’は、英語でも‘ river runs 'だそうだから、‘川が流れる’という表現の様である。
しかし、‘川が流れる'というのは厳密な意味では、間違っている。‘川’自身が‘流れて’何処へ行こうというのだ? 


<3> 太陽系の8つの惑星の内、地球だけに何故‘星’が付いていないのか?

説> :

太陽と惑星の大きさ比べ
http://fdsfamily.blog.eonet.jp/fdsfamily/2006/08/

古代ギリシャ時代から、惑星の内、5つ惑星、すなわち‘水星’‘金星’‘火星’‘木星’‘土星’は既に発見されていて‘惑星’という名前を付けられていたらしい。その当時は、まだコペルニクスさんやガリレオさんがいなかったから‘地動説’は存在せず‘天動説’だったから、‘地球’が‘惑星’なんて、誰も思いもしなかったのだろう。そして、驚くことに‘太陽’も‘月’も‘惑星’として分類されていたという。したがって、この‘7つの惑星’で‘七曜’が決められた。

我々が60年以上前に教わった太陽系惑星には‘冥王星’が含まれていたはずだが、2006年に‘冥王星’は、太陽系惑星から‘外されて’‘冥土(冥途)’へ旅立った!

それ程‘惑星の定義’は、ややこしい!

さて、‘地球’の呼び名に‘星’が付いていないのは、多分‘天動説’が信じられていたから地球を‘惑星’とは思わなかったからというのが正解らしいが、それでは日本語での‘序数(順序数)’の場合、「1つ、2つ、3つ、4つ、5つつ、6つ、7つ、8つ、9のつ、10」という。では、何故‘10’に‘つ’が付いていないのか?
答え:‘5つつ’が‘つ’を2つ持って行ってしまっているから・・。<これはみんな知っていたと見えて、拍手’は無かった!


<4> 原子モデルの電子配置について

原子の説明では、原子核に‘陽子’と‘中性子’があり、その原子核の周りを‘電子’があたかも‘惑星’の如く‘軌道’を形成して‘公転’を行なっているという。この‘惑星公転軌道’は、太陽系では、最も太陽に近い‘軌道’が‘水星’で次に‘金星’と順次太陽から遠ざかる。

原子モデル img_1013072_22161241_1
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshiono/22161241.html

原子の場合、‘軌道’に当たる部分を‘殻’という。そして、‘水星軌道’に当たる最も原子核に近い‘殻’を‘K殻’と呼ぶ。そして、原子核から遠のくに従って‘L殻’‘M殻’‘O殻’・・・・と呼ぶ。

では、問題で~す。殻の呼称に‘アルファベット’を使用しているのなら、何故‘A殻’‘B殻’という順序になっていないのでしょうか? 誰からも答えがない。皆が寝ていた訳ではない!

答え:実は、この‘殻’を決めた時代には、まだ‘未確定・未確認の要素’が多く、そこで‘ボーア’さん達学者の先生達が協議して、「ひょっとすると、まだ原子核に近い所に‘殻’が存在するかもしれないから、取敢えず‘10個’分の‘余裕’を残しておきましょう!」という事で話が纏まり、そんな訳でアルファベットの‘第11番目’の‘K殻’から始まったと思えば‘多少の納得’が行く。これ、正に‘計画’的!(ただし、これは私の作り話)<拍手喝采!?>
 

<5> テクノロジーについて

テクノロジーとは、‘生産性・コスト・売上’にまで考慮しなければ、真のテクノロジーにはなり得ないと狭く定義すると、その‘進歩’は、遅々たるものである。‘テクテク’‘ノロノロ’しか進まない。従って、‘テクノロジー’という。




















[2012/09/13 23:54] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘自殺’の現状 (その1)
昨年の春に、中国からの留学生約50人に‘日本の文化’について講義するよう頼まれた。その際、彼等に「日本をどう思っているか?」と尋ねてみた。

およそ70%以上の中国からの留学生が「日本は自殺者の多い国」と答えた。

それまでに日本国での自殺者が年間3万人程度であることはニュースなどで知ってはいたが、世界各国との相対的データについては知識がなかったので、彼らと一緒に調査することにした。

その結果について、やはり驚かされた。

日本人の‘自殺率’が国際的に極めて多かったからである。

① 世界各国の自殺率と日本の自殺率

‘自殺率’は、国民10万人当たり何人という表現の方法をとる。次の図表を見て戴きたい。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
自殺率の国際比較2770-6

ご覧の通り、世界で、日本は‘堂々の’第8位 に君臨している!  24.4人/10万人という数字である。

予測としては、多分‘50位’程度だろうと思っていただけに、その時のショックは大きかった。

一方、中国は第27位で、13.9人/10万人 であるから、日本とは10人以上も差がある。
どうやら、中国人の留学生の70%が‘日本は自殺者の多い国’と思っているのは、中国では‘日本’に関してそんな教育がされているのだろう。

そして面白いことに彼等は自分の国の自殺者率については誰一人知らなかった。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
自殺率の国際比較2770-4
白抜きの国は、統計数字がない国

<傾向ー1> :旧ソ連圏・旧共産圏諸国が自殺率が高い。
<傾向ー2> :イラン、エジプト、ジャマイカ、ヨルダン、そして内戦の続くシリア等の国には自殺者がほとんどいない。

この傾向の理由は一体何なのだろうか?


さて、日本の場合、10万人当たり24.4人という事は、年間約3万人近い値である。

自殺者数の推移0001-2-2
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2012/pdf/index.html

自殺者数の推移0001-3-2
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2012/pdf/index.html
青線:男性  赤線:女性 緑線:合計

ここ10年間以上、年間3万人~3.5万人の間にある。年間3.5万人だとすれば、1日当たり約100人言う計算になる。これはまさしく異常である。平成9年を境に急速に増加した原因は一体何故?


日本の自殺率の高さについては次のような解説がされている。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
日本

 日本の自殺率の高さについては、WHO精神保健部ホ
セ・ベルトロテ博士はこう言っている。「日本では、自殺
が文化の一部になっているように見える。直接の原因
は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって
自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範とし
て自殺がとらえられている。これは他のアジア諸国やキ
ューバでもみられる傾向だ。」
こうした点は当の国の人
間では気づきにくい見方かと思われる。(自殺許容度と
実際の自殺率との相関を図録2784に掲げた。)
 英エコノミスト誌(2008.5.3)は女子生徒の硫化水素ガ
ス自殺(4月23日)の紹介からはじまる「日本人の自殺
-死は誇らしいか」という記事で日本の自殺率の高さ
について論評している。経済的な要因についてもふれ
ているが、記事の主眼は日本人の文化的な要因、ある
いは社会的特性であり、上記の見方と共通している。
「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直
ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃
げない行為として承認されることさえある。サムライは
自殺を気高いものと見なす(たとえ、それが捕虜となっ
てとんでもない扱いを受けないための利己心からだと
はいえ)。仏教や神道といった日本の中心宗教は明確
に自殺を禁じていたアブラハム系信仰と異なって、自殺
に対して中立的である。」日本政府は9年間に自殺率
20%減を目標にカウンセリングなどの自殺対策に昨年
乗り出したが、同誌は、重要なのは社会の態度である
と結論づけている。「一生の恥と思わせずにセカンドチ
ャンスを許すよう社会が変われば、自殺は普通のこと
ではなくなるであろう。」




② 世界各国の男女別自殺率

次に、男女別ではどんな傾向があるのだろうか?

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
世界各国の男女別自殺率2772


図には、x軸方向に男性、Y軸方向に女性の値をプロ
ットした。男女同一線より左では女性が男性を上回り、
右では男性が女性を上回っていることを示している。
 ほとんどの国で男性が女性を上回っているが、特に、
自殺率の高い旧ソ連・旧共産圏諸国では大幅に男性
の自殺率が女性を上回っていることが目立っている。
同じように自殺率が高い国の中でも、日本、韓国、スリ
ランカとは男の自殺者の高さで別のグループに分けら
れるといえよう。

 世界の中で女性の自殺率が男性より高い唯一ともい
える国は中国である(特に農村部)。理由を外婚制に求
める説については図録2424参照。この他、女性が男性
と比べてそう低くない国としては、インド、及び香港、シ
ンガポールといった中国人の多い国が挙げられる。



それにしても日本政府の現職大臣の自殺報道には少なからず驚かされた。私と同い年である。

大臣自殺20120910194239c3a
http​://www3.nh​k.or.jp/ne​ws/index.h​tml

http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/news/post_26755
松下忠洋金融担当大臣が10日午後、東京・江東区内の自宅で首を吊っている状態で見つかり、病院に運ばれましたが搬送先の病院で死亡が確認されました。警視庁などによりますと家族がカギを開けて部屋に入ったところ、松下大臣を発見したということです。警視庁は室内の状態から自殺を図ったとみて、死因や詳しい状況を調べています。



以降何回かに分けて‘自殺の問題’を考えてみたい。


(つづく)




















[2012/09/12 23:59] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
朝露の頃
2012年も9月の中旬に入ったが、まだ気象情報での最低気温は、25℃を下回る日は少ない。しかし、この気温は‘百葉箱’の中の‘気温’と決められているから、実際に感じる気温とは10℃以上の開きがあることも稀ではない。

例えば、気象庁発表の気温が36℃という時。それはそれで‘暑い’。しかし、アスファルト上での実測値は50℃を越しているというTV中継を見た人は多いだろう。

これは、気温が低い時、すなわち‘寒い’場合には、マイナスの方にシフトする。例えば、最低気温が‘+3℃’と発表されているのに‘霜が降りている’事は誰でも経験があるに違いない。

‘0℃’以下にならなければ、‘原理的に’不可能であることは誰しも判っている。だから、例え‘百葉箱’の中が‘+3℃’であっても、地表面では‘0℃’以下になっていることを物語っている。これまでの経験からすれば、気象庁発表の最低気温より地表面の温度は‘4℃’低いと思っていいようだ。だから。最低気温が‘4℃’以下では‘霜が降りる’。

しかし、気象関連の人達も気温の表現・表記の仕方は、一旦決めた以上‘定義’をそうそう簡単には変えられないのだろう。データに継続性がないからというのも一つの理由であろうが、本当のところは、実は適切な‘定義の仕方’が見つからないからであろうと思われる。

それ程、地表近辺部分の‘温度の地表からの高さ依存性’が強過ぎる。

と言う事は、赤ん坊の乗っている‘乳母車’の、‘その赤ん坊の高さ’は、‘大変危険’と言う訳だ。しかし、それに気が付かない母親が多いのか、それとも‘乳母車製造メーカ’が無責任なのか知らないが、一向に改善される気配がない。

そんな訳で、最低気温情報とは違って‘外はもう秋’である。ただし、これは周りが‘田圃’と草の生え放題のまばらな新興住宅地だからであろう。

夜も22時を過ぎると玄関のドアや窓を閉めないと寒い位である。

今朝、我が家の玄関前での‘御来光’までの時間に撮影した風景。

9月1日から、‘満月の水平線からの頭出し’を撮影しようと頑張ったが、遂に果たせなかった‘月’が、夜明け前の青空に輝いている。

画像ー51 034-2
5:22

肉眼ではよ~く確認出来るのだが、この写真では・・・。

画像ー51 022-3
5:22

望遠で拡大して見ると、9月1日が満月だったから、10日が過ぎている。下弦の月も通り過ぎて‘逆三日月形’になっている。

月の満ち欠けサイクル01_cycle_l
http://88d.jp/feature01/feature1.html

この図から言えば、9月11日は、‘25日’の月に当たる。次の満月は、‘19日’後の9月30日。‘中秋の名月’である。  この時こそ、‘満月の水平線からの頭出し’を撮影をするチャンスである。曇りや雨にならぬよう祈るのみだが、果たして・・・。

画像ー51 039-2
5:24

我が家には‘ブーゲンビリア’が2種類ある。此方の写真の方は色が薄い。

画像ー51 040-2
5:24

此方が色の濃い方である。 でも聞くところによると、この‘赤い’花びらのように見えるのは、実は‘花びらではない’らしい。

http://happamisaki.jp-o.net/green/others/bougainvillea.htm

ブーゲンビリアの花bougainvillea04

ブーゲンビリアの花は鮮烈でとても目立つ美しい色をしています。花といっても厳密には花びらではなく苞の色です。 苞の中に小さな花のようなものが突起していますが、これは花の萼になります。ブーゲンビリアに花びらはなく、同じオシロイバナ科のオシロイバナにも花びらはありません。ブーゲンビリアは中南米に14種類ほどがあり、つる性の低木で結構鋭い刺があるものが多いです。最近では斑入り種類も出回っています。中南米が原産ですが、沖縄や東南アジアにもよく植えられています。本来生息地では年中咲いている花なのですが、日本の夏は暑すぎる事と長日条件になる事もあって、夏は花が咲き難くなるようです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BC
(がく、蕚は異体字、英: calyx[1])とは、植物用語の一つで、花冠(花弁、またはその集まり)の外側の部分をいう。ひらがな書きで「がく」とすることも多い。萼の個々の部分を萼片(がくへん、英: sepal[1])という。多くの場合、花弁(「花びら」のこと)の付け根(最外側)にある緑色の小さい葉のようなものが萼である。萼は花全体を支える役割を持つ。
また、果実に残り付いている萼は、蔕(へた)と呼ばれることがある。


‘へた’と言って戴けると判り易い。‘ナス’を思い浮かべれば一発で理解出来るから、‘へたな’説明より余程判りがいい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%9E
(ほう)とは、植物用語の一つで、花や花序の基部にあって、つぼみを包んでいた葉のことをいう。苞葉ともいう。また個々の苞を苞片という。
多くの場合、普通の葉より小さくて緑色をしたものである。しかし、花弁(「花びら」のこと)や萼に見えるような植物もある。逆に葉としてよく発達し、本当の葉の方が退化している例もある。



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5:24

これで、ブーゲンビリアの‘花’‘萼(がく)’‘苞(ほう)’の区別がついた。

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5:29

http://www.geocities.co.jp/col
legeLife-Labo/6084/jukujikun.htm

「百日紅」と書いて「さるすべり」と読む。漢字と読み方がまるで対応していない。このような、二文字以上になって読み方が確定する訓読みを「熟字訓」という。熟字訓の例は、「田舎」「土産」「海老」など日本語にはたくさんある。

 「さるすべり」は、高さ5メートルほどの木である。夏を中心に花を咲かせる。花は白いものもあるが、赤いのが一般的で、原産地の中国では、次から次へと花を咲かせ、百日にもわたってどこかに花を咲かせているので「百日紅」と呼んだ。しかし、日本ではその幹がつるつるしているので、木登りの上手な猿でさえ登れないということで「さるすべり」と呼んだ。猿が聞いたらなめるなよと思うであろう。「百日紅」は中国語であり、「さるすべり」は日本語であって、それぞれ目のつけどころの違う名づけ方をしている。しかし、考えてみれば日本における漢字の使われ方はすべてこれと同じである。「花」はもともと中国語を示す文字であり、「はな」は日本語である。「百日紅」にせよ「花」にせよ、文字表記は中国語であり、読み方は日本語なのだから、文字が一文字か三文字かということに大した違いはない。


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5:30

二つのブーゲンビリアとサルスベリと・・・。

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5:32

この風船蔓(ふうせんかずら)は、見事だった。そろそろ下の方から風船の色が茶色くなってきたが最上部には未だ‘花’が咲いている。

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5:34

まだ5時半を少し回ったばかりというのに、‘蚊’も‘宵っ張りで早起き’である。二匹が同時に止まった。

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5:35

これは何と言う名前の花か知らない。朝露が付いている。

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5:37

御来光は、いよいよ我が住宅地域にも顔を出し始めた。5:37である。

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5:38

この敷地内の最も南側にある瀟洒な住宅も朝日を一杯に浴び始めた。引っ越してきた時から、ここを‘外房の軽井沢’と勝手に呼んできたが、‘無粋な’電柱さえなければ、そんな気がする。「・・でんちゅうなるしろものなかりせばとおぼえしか・・」である。兼好法師ならきっとそう表現するに違いない。そうでしょう、ねえ師匠?

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5:39

この光景を見るのが今朝の最大の目標。やっと見つけられた!

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5:39

我が家には未だ御来光は届いていない。

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5:42

でも、もうそろそろに違いない。辺りの空気は、ピ~ンと張り詰めて来た。清々しいい一瞬である。

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5:43

この写真は、我ながら‘傑作’である。草や葉っぱの上には水が溜まらないように出来ている。それは何故か?
植物の‘根っこ’が水を欲しがるからである。

本来植物は、炭水化物をつくるために、‘葉緑体’を太陽にさらすための‘草や葉っぱ’を持っているが、そこには‘水分’は必要ないのである。むしろその‘葉緑体’付近には水分がない方がいい。何故なら、水分があれば‘蒸発’が起こって‘蒸発熱’のために‘葉緑体’付近の温度が下がってしまって、炭水化物をつくるための‘炭酸同化作用’の反応が遅くなってしまうからである。

そのため‘葉緑体’を持つ‘草や葉ぱ’は、その表面に‘産毛(うぶげ)’を生やして、その産毛の作用で‘はっ水性’を確保して、水が来れば、その水を‘まんまる’の水の塊にして自分の根元に落下させるという‘特技’を持っている。

そんな訳で、‘朝露’が出来て、何となく‘風情’が生じるという事になる。
これも‘夜明け前’の微動だにしない無風状態だから、ほぼ満丸に近い朝露が滑り落ちずに‘一瞬の間’だけ見れる時間帯なのである。

したがって、どうしても御来光の前に‘この素晴しい一瞬’の間に‘朝露を探す’必要があったのだ!

みごと成功! 従って、この写真は‘私の宝物’という訳である。

もう一枚の朝露の「5:39の写真」は、そんな意味で価値が低い。水が草の表面で‘玉っころ’になっていないからである。

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5:43

これは‘葛の花’。残念ながら今年亡くなられた「ちい散歩」で有名な、あの地井武男さんが嫌いな植物だった。
どんな植物の上にも‘這い登り’、その下の植物から‘太陽の恵み’を奪い取ってしまう性質があるから、あの優しい地井さんには向かなかったのだろう。

でもこの葛の生命力が買われて、‘砂漠化防止’対策用植物として活用が計られる見通しだと言う事も聞いている。世の中上手くしたもので、みんな悪いことだらけ、というのもないということらしい。

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5:55

玄関先の‘郵便受け’の上にも朝露があるが、草の上の露に比べれば、余り面白いものでもない。

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5:56

そろそろ秋口だというのに、この玄関先の木は、初春のように‘新芽’が出ている。この木にとっては普通のことなのか?それとも異常気象のなせる業なのだろうか? 今迄気付きもしなかった。

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5:57

玄関から見える‘借景’の杉の木のてっぺんに‘鳥’がいる!

画像ー51 137-2
5:57

望遠で拡大。

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5:57

いやいや、立派な‘アオサギ’である。

アオサギ
http://torimiyuyu2008.web.fc2.com/aosagi.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82
%A2%E3%82%AA%E3%82%B5%E3%82%AE

アオサギ

全長88-98cm。翼開張150-170cm。体重1.2-1.8kg。上面は青みがかった灰色の羽毛で被われ、和名の由来(漢字表記の蒼はくすんだ青色のことも指し、中国語名と同一)になっている。種小名cinereaは「灰色の」の意で、英名(grey)と同義。また淡灰色の長い羽毛(飾羽)が混じる。下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。頸部から胸部にかけて黒い縦縞が入る。頭部は白い羽毛で覆われ、眼上部から後頭にかけて眉状の黒い筋模様(眉斑)が入る。後頭は眉斑と繋がるように黒い羽毛が伸長(冠羽)する。雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には2つの白い斑紋が入る。雌は雄に比べるとやや小型で、冠羽と飾羽が短い。
虹彩は黄色。



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6:14

お馴染みの‘集団移動’をしたカニさん達。朝食のご様子。

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6:21

此方は、御来光のお出まし遊ばされる東の空。枝の先に‘トンボ’が何匹か止まっているのが見える。

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6:23

此方は、我が家の二階の屋根に止まっている‘トンボ’。もうここには御来光が既に・・。

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6:24

もう、玄関まであと一息。

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6:28

御来光直前の東の空。‘トンボ’は動こうともしない。よ~く見ると‘蜘蛛の巣’も見える。静かな中に人間の知らない昆虫や小動物の‘死闘’が有るのかも知れない!(註:蜘蛛は昆虫ではない!)

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6:31

遂に我が家にも‘御来光’が・・。6時31分。

画像ー51 202-2-2
6:31

望遠での御来光。

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6:38

玄関も一挙に明るくなった。直物は当然としても、建物まで生き生きとして来た。やはり‘太陽’は、凄~い!

画像ー51 263-2-2
6:43

こうして、やっと平穏な一日が始まった。

画像ー51 009-2-2
6:52

朝食を終えたのか、カ二さんが一匹、我が家へお散歩に。

画像ー51 009-2-3
6:52

まぁ平和な陸の孤島・千葉県茂原市千沢の一日の始まりである。

そろそろ本格的に涼しくなって呉れればこれに越したことは無いのだが・・・・。




























[2012/09/11 23:47] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
蟻の‘複眼’
もう半世紀程にもなる昔に‘走査型電子顕微鏡’(Scannig Electron Microscope:SEM)で‘蟻の複眼’を撮影したことがある。

SEM装置
http://www.kagawa-u.ac.jp/kenkyu/kougakukiki/n1_18.html

この写真のように今ではコンパクトになっているが、当時昭和43年頃のSEM装置は、‘電子銃’部分が大きくて長く全体の装置の‘高さ’は、2.5m位はあったように思う。だから、フィラメントを交換するにも半日仕事であったが、今や交換は15分もあれば出来るほど周辺技術は進歩している。

蟻の手0001-2

蟻の手0002-2

蟻の手0003-2

蟻の手0004-2
白く見える‘破片’は、‘ごみ’である。

この蟻の種類も判らない。倍率も表示されていない。何とも‘不適格’な画像で申し訳ないが、当時からこのように‘SEM’では‘原理的に’鮮明な画像が得られた。

次のような解説ブログを見つけた。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast
/242831/203483/18213538

昆虫の目で見える世界

昆虫の眼は、個眼という小さな眼がたくさん集まった複眼と単眼の二種類があります。複眼を構成する個眼の数は昆虫の種類によって異なりますが、アリで約100個、ショウジョバエで約1000個、ミツバチで数千個、チョウやトンボでは1万個以上にもなります。多くの昆虫は複眼の間にいくつかの単眼をもっていますが、単眼をもたないものもいます。複眼はものをも見るための眼ですが、単眼は光の明るさを感じる働きをします。

アリの眼は5つあり、複眼が2つ、頭頂部に3つの単眼 をもっています。複眼の拡大写真を見ると個眼ひとつひとつの形が六角形になっていることがわかります。もし個眼が丸い形だとすると、光を取り入れることができない隙間ができてしまうことになります。六角形だと隙間なく個眼が並ぶことになります。

昆虫は複眼でどのようにものを見えているのでしょうか。よく複眼の見え方の例として、ひとつひとつの個眼に物体の像をひとつずつ描いた図を見ることがあります。しかし、実際には、ひとつひとつの個眼で物体を見ているのではなく物体全体を複眼全体で捉えています。つまり、個眼ひとつひとつには、物体の各部分の倒立した像ができていることになります。あるいは、もっと単純に、まるでデジタルカメラのCCDセンサーのように個眼ひとつひとつで物体の各部からやってくる光を捉えていると言った方がわかりやすいかもしれません。



私が‘蟻の複眼’をSEMで撮影をした目的は、‘昆虫の研究’と言う訳ではなかった。

当時の我々の研究に役立つ走査型電子顕微鏡(SEM)の威力を理解して貰うために、誰でも聞いたことがあるが‘見た事のない’画像でアピールしようというものだった。

したがって、蟻には‘複眼’があることは知っていたからそれだけのことで、‘単眼’が3つ有る事は知らなかったから、残念ながら‘単眼’のSEM写真は私自身の資料の中には無い。そして‘複眼を構成している個眼’が‘六角形’であることにも注意が払われていないから、‘な~るほど、六角形だわい!’と言う画像もない。 ‘無知’ということは、こんなにも情報にならないものなのである!

そこで、ネットから蟻のSEM 写真を拝借。細部がよ~く見れるようにとのご配慮からだろう、通常の見せ方と‘天地’が逆転していることにご注意を!

蟻の頭部SEM12529
http://www.pref.oita.jp/soshiki/13002/denken-mushi.html
蟻の頭部

蟻の単眼SEM12530
http://www.pref.oita.jp/soshiki/13002/denken-mushi.html
蟻の‘単眼’

蟻の複眼SEM12531
http://www.pref.oita.jp/soshiki/13002/denken-mushi.html
蟻の‘複眼’

誠にお見事な画像である!(感謝!)

そこでやはり気になったのが、上記の引用文献での解説の表記。

「・・・。複眼を構成する個眼の数は昆虫の種類によって異なりますが、アリで約100個、ショウジョバエで約1000個、ミツバチで数千個、チョウやトンボでは1万個以上にもなります。・・・」

‘アリで約100個’は‘ナシ’である! 何かの間違いに違いない。
どちらの写真画像も複眼の中の‘個眼’が、‘100個’ではない。
千から数千個ぐらいの感じである。

他人様の‘画像’を勝手に操作してはならないが‘悪用する’積りは当然ない。‘活用’させてもらうために一部分を‘拡大し、コントラストを強く’して見た。これでやっと‘六角形’と判断出来る。

蟻の複眼SEM12531-2

次の‘?’は、複眼で見た場合、実際には彼らには‘どんな風に’見えているのだろうか?上記の通り少しの解説はあるが・・・。

http://www.elsa.hokkai-s-u.ac.jp/~oka
zaki/cambridge/aug/rep_0827.html

ハエの視覚

6月にケンブリッジ大学の動物学教室の公開講座で動物の視覚の話がありました。 それまで全然知らなかった、実に興味深い世界の話でした。

動物の体の大きさと目の焦点距離の間には下の図のような関係(体が大きいもの ほど目の焦点距離が長い)があります。ほとんどの動物は図の2本の曲線で囲 まれた領域にはいります。シロナガスクジラは地球上でもっとも 大きな動物ですから、シロナガスクジラが大きな目、したがって焦点距離も長い目 を持っているのは不思議なことではありませんが、おもしろいことに、ワシも くじらと同じくらい長い焦点距離の目を持っています。 長い焦点距離の目は物体を大きく見ることができる目ですから、 ワシの場合は獲物を捕らえるために、目の焦点距離が極限まで長くなった わけです。ワシ以外にも、(ある種の)くもとカメレオンが、体のサイズに比較して 非常に長い焦点距離の目を持っています。ワシ、(ある種の)くも、カメレオンは、 全く異なる動物ですが、環境に適応して、 非常によく似た構造の目を持つことになったんだそうです。

動物の大きさと目の焦点距離の関係focallengths

前置きが長くなってしまいました。書きたかったのはハエの視覚です。 ハエは目が大きいし、複眼なので、なんとなく目が良さそうに思ってましたが、 実際には上の図からもわかるように焦点距離が非常に小さいので、 物体から20cmくらいの距離にまで近づかないとよく見えないんだそうです。 さらに、複眼だからよく見えるだろうと思っていたのは 大間違いで、複眼は目としては機能が劣っていて、像をあまりはっきり結ばない そうです。したがって、 例えばハエが僕を見るときには下の写真のような感じに見るんだそうです。

ハエが見た映像flyview



引用ばかりで申し訳ないが、次のような、これまた素晴しい解説もある。

http://aiaicamera.seesaa.net/article/2
6099547.html

複眼を真剣に考察してみるの巻

昆虫の目は、複眼と呼ばれるしくみになっています。
これは目の集合体で、1万とも2万とも言われる目が集まったものです。
トンボの場合は、半球面体の外面に1個1個の目が集まっており、それが左右ペアで頭部にセットされています。
この1個1個でとらえた像を脳の中で結び、風景を組み立てています。

このしくみはデジカメに言い換えればわかりやすくなります。
ひとつの画素が明るさや色を読み取り、それをジグソーパズルのように組み合わせて1枚の写真にするのと似ています。300万画素のデジカメは、300万の像を組み合わせて1枚の写真にしています。

よく間違いやすいのは、1個1個の目が像を結んでいるのではないということです。
トンボの前に人が現れた場合、1個1個のトンボの目に1人の人の像が映るのではなく、分割された一部分が映るということです。
例えば、1個の目には人の頭、1個の目には人の胸あたりというかんじです。
これらのひとつひとつの情報を組み合わせて、人の全体の形をとらえます。

しくみの話は以上ですが、それでは実際にどのように見えているのでしょう。ここが気になるところです。

ひとことで言えば、下の写真のような360度パノラマ写真になります。

360.jpg

ただ、360度パノラマ写真というのは横方向の連続であり、トンボの複眼は半球面体ですから、上下方向にも360度パノラマになるわけです。
上下左右360度パノラマということは、文字通りまわりが全部一度に見えているわけで、下の写真のような見え方をしているのかもしれません。

360-2.jpg

トンボも引力を感じてきちんと体を水平に保つわけですから、真ん中の空の面積が大きくなれば高いところを飛んでいると理解するでしょうし、小さくなればその逆と理解するでしょう。

以上、複眼の見え方について書いてみましたが、あくまでもこれは理論です。
実際には、後ろ方向を向いている目の数はかなり少なく、前左右方向に重点を置いた目の配置になっています。
背後から虫とり網でねらったときなどにトンボが首をかしげるのは、よく見えない後ろ方向を確認しようとしているところです。

このしくみと似ているのが、イージス艦のレーダーです。
イージス艦には6角形の板を4面にくっつけたフェーズドアレイレーダーというものがあり、これで360度監視しています。
厳密に言えば、さらに電波の位相を変えてくまなく見るしくみになっています。
だから、6角形の平面の板で90度の範囲のものを、さも真正面からとらえたように処理できるわけです。
トンボはこれができないために、首をかしげるのですw

いずれにしても、複眼のしくみというのはものすごい高度なシステムであり、人間さえも持っていない高等器官です。
進化の違いと言えば違いでもあり、広く浅く見えて繁栄につながったのがトンボ、その逆が人間ということになります。

なお、複眼を構成している1個1個の目は6角形をしています。
ハチの巣で有名なように、一定の面積に最大個数を隙間なく頑強に配置するのが6角形です。

かなり抜粋して書きましたが、詳細に書くと一冊の本ができあがって印税で幸せな生活をすることになりますので、このへんでやめておきますw



こんな素晴しい複眼の画像もある。

複眼 3e64cbb2
http://karapaia.livedoor.biz/archives/51971057.html

走査型電子顕微鏡(SEM)の価格は、半世紀前も現在も特殊なオプションを付けなければ、一式でおよそ‘1,500万円’である。年々技術は進歩し、低価格化が進んで価格が約半世紀ほぼ同じと言う商品も珍しい。

数億円の宝くじに当たった場合の大型購入物の第一の候補が‘これ’と前から決めている。

それ程‘SEM’で覗く‘顕微鏡の世界’は、‘望遠鏡で覗く天体’と同様‘おもろい世界’ なのである。





















[2012/09/10 14:14] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
蟻の‘手’
今年の8月の半ばに、偶然にも我が家の玄関先で 「蟻による‘セミ死骸の解体作業’」を見ることが出来た。

画像ー35 012-2-2
2012年8月17日 午前6:53

よ~く見ると、もう大分前から‘解体作業’は開始されていたように見える。なぜなら、写真の右上が‘頭’に当たると思われるが、セミの4枚の‘羽’はもう既に‘付け根部分’から切り落とされているからだ。

‘作業人(蟻)’は、沢山と言っても数十匹だが、何せこの蟻の集団は‘身体が小さい’。目にははっきり判るのだが写真には判定出来るようにはなかなか撮れない。したがって、写真をPCで拡大して見た。

画像ー35 012-2-3
6:53

ピントは今一だが、少しは見易い。

画像ー35 012-2-4
6:53

もう一段の拡大写真である。

画像ー35 023-2-2
7:30

それから、約30分後には、4枚羽の小さい一枚が、こんなところまで‘引っ張られて’きている。

画像ー35 026-2-2
7:30

驚くことに、この写真の直ぐ上の写真とこの写真の‘カメラの示す撮影時刻’は同じ‘7:30’であるから、最大で‘たった1分間’で、‘2cm’は動いている。

画像ー35 030-2-2
7:31

その‘1分後’の写真がこれであるから、この2分間で、置いていたスケールから移動距離を見ると、

   28.5cm ー 21.0cm = 7.5cm

7,5cm も動いている。この羽を動かしている‘蟻の数’は、何匹なのだろうか?

PCで拡大して見ると、

無題-2
7:31

なな、何と、‘たった一匹の蟻’で、この作業をやっているように見える。‘赤丸’で囲った中に一匹の蟻。どうやらこの一匹のみ。

ここで‘たった一匹で’と言うのには‘信憑性’がない訳ではない。

昔、小学校か中学校の時に教わったことがある‘三好達治’詩に、次ような素晴しい詩があった。

    蟻が蝶の羽を曳いて行く。ああ、ヨットのようだ。

 

http://www.geocities.jp/youji15126/34miyosimusi.html

題:土

  蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのやうだ


 晴れた日の朝、高く昇りはじめた光を浴びた田舎の道。辺りはたけだけしく稲の葉が天上を突き刺している。ふと乾いた土の上を見ると紋白蝶が歩いている。アレッ、と思ってかがみこむと、蟻が蝶を引っ張っているではないか。風が吹いたのか、蝶の羽が揺れる。と、天上の青空が青い海原に逆転し、はるかの高みから蝶の羽のような帆を張ったヨットを見ているのだ。
 そんな夢想に達治の詩は誘う。夢想の世界では日常のわずらわしい繰り返し事も、ややこしい人づきあいも、やるせなく心の底にたまりつづける澱もどこかに消え、潮風が胸底をきよめるように、何だかさわやかになる。



‘パクリ’で、

 蟻が
 蝉の羽をひいて行く
 ああ
 ヨットのやうだ

では、締りがつかない!

画像ー35 047-2-2
7;39

見上げれば、空は8月17日というのに、秋の‘うろこ雲’になっている。まだまだ地上は暑いと言うのに・・。
やはり、今年は異常気象のようだ!




この蟻の身長は、約0.2cm。

簡単に計算するために、人間の身長を2m(=200cm)とすると、人間はこの蟻の‘1,000倍’の大きさである。

したがって、運搬の速度を計算して見ると、

蟻の時速は、2分間で7.5cmであるから、一時間には、7.5cm × 30 = 225cm = 2.25m/h

これを人間の大きさに換算すると、

(2.25m/h) × 1,000 = 2.25km/h

この羽一枚の重さは、多分、写真から判断・推定すると、蟻の体重の少なくとも‘10倍’はありそうである。

2mの身長の人間が己の体重の約10倍(~700kg)の荷物を引っ張って、一時間に2km以上運んだことに相当する。何の‘装置’も使わずに、である。

これだけでも‘蟻の持つパワー’の大きさが判るというものだ。

さて、やはり気になるのは、蟻はどうやって引っ張っているのだろうか? 蟻の‘手の格好’は?

そう言えば、およそ45年も昔、‘電子顕微鏡の凄さ’を判って貰う積りで、‘蟻の実態’を‘走査型電子顕微鏡’(SEM)で撮った記憶がある。資料を探してみると、あった、あった!

蟻の手-2

同じ種類の蟻かどうかは判らないが、こんなに‘凄~い!’手(?)をしているのである。

(つづく)

次は、その時‘SEM’で撮った‘蟻の複眼’の写真を公開予定。





















[2012/09/09 11:06] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京スカイツリーと夏の雷と飛行機雲と
2012年9月8日朝6:46。NHKラジオニュース

東京スカイツリーで、‘落雷’の実態調査研究がなされているという。東大の‘何とか言う’先生が、スカイツリーが出来る時に、観測装置を設置されたのだそうだ。

‘落雷’の被害は、その‘巨大エネルギー’のお陰で、見過ごし難い被害となる。送電線が被害を被ると停電や電話やPCなどの電子機器などにも影響が及ぶ。

日本では、「‘夏の’落雷」のデータが、このスカイツリーに観測装置が設置されるまで、一件も(?)なかったのだそうだ。

‘夏の’と敢えて言葉を添えたのには訳があると仰る。

それでは反対に「‘冬の’落雷データは?」とアナが聞くと「それは沢山あるんです」と仰せである。

さて、その理由とは?

先生のご説明によると、雷様は、-10℃の雲の中に大電力(電気という表現だった?)が或る理由で溜まって、それがある切っ掛けで‘落雷’となる。

おや? この‘ー10℃’何処かで最近?

先生のご説明が続く。

「そんな訳で、夏と冬では雷の発生する‘雲の高さ’が違うのです!

<なーるほど! これは我が‘弊ブログ’http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-261.htmlで夏と冬とで‘飛行機雲の出来る高度’議論をしたばかりだった!>

「冬のデータが沢山あると言うのは、-10℃の高度、多分2,500m当たりだから、それなりに‘近い’ので少しの高さに観測装置を置いておけば‘落雷’の観測が可能なのです。」

<冬の場合地表温度が、0℃の場合は、-10℃の高度‘Xm’は? -10℃=(-0.6℃/100m)בXm’

∴ ‘X’=-10℃×(100m/-0.6℃)=1,000m/0.6=1,667m

つまり、冬の場合、地表面が、0℃であれば、雷の発生する-10℃の雲の高度は、1,667mである。
もしも、地表面の温度が‘8℃’だとしても、3,000mで、2,500mと先生が仰せの場合の地表面温度は‘5℃’である。これが冬雷の発生頻度が高い北陸地帯の気温なのだろう。>

先生のお話では、‘東京タワー’の場合でも夏の落雷観測には‘少し、高さが足りない’と言うことだった。

早速ネットで調べてみた。あった、あった!

http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2012/08/0821.html
スカイツリーで 雷のナゾに迫る (2012年8月21日放送)


スカイツリー落雷観測 20120821_01

今、世界中から注目を集めているのがこちらです。
今年開業した東京スカイツリーです。
高さ634メートル、周りに高い建物が少ないなど雷が落ちやすい条件が揃っているからです。

スカイツリー落雷観測 20120821_02

大勢の観光客でにぎわいを見せる東京スカイツリー。
真剣なまなざしで空を見上げる男性がいます。
雷研究の専門家東京大学の石井勝教授です。

スカイツリー落雷観測 20120821_03

これまで半年で10回以上、雷が落ちているスカイツリー。
数多くのデータを集めることで、雷による被害を減らす対策につなげたいと、石井教授は研究を行っています。

スカイツリー落雷観測 20120821_04

東京大学 石井勝教授
「ここで雷を観測をする、そういうチャンスを逃す手はないと思いまして。
我々の生活に不可欠なシステムですね、通信システム、情報システム、社会インフラストラクチャー。
そういったものに雷が及ぼす障害をできるだけ減らしたい」


スカイツリー落雷観測 20120821_05

まず始めたのが、雷の電流を測る装置を設置することです。
電流の大きさや流れる時間によって、被害の大きさが左右されるからです。
強力な電流を測定するため特別に開発された巨大なコイルを、展望台よりも高い、地上497メートルに設置しました。

スカイツリー落雷観測 20120821_07

観測を始めて半年。
これまでに3回、雷のデータをとることに成功しています。

石井教授
「最初に今年取れたデータですね。
5月なんですけれど、夏の性質を持った雷」

スカイツリーで初めて記録された電流の波形です。
0.3秒という短い間に6回も電流が大きく変動していることが分かります。
最大で1万アンペア以上、通常パソコンで使用する4千倍を超える電流です。

電流の急激な変化が電子機器の故障を招く、夏特有の雷の特徴として浮かび上がってきました。
石井教授は、できるだけ多くのデータを蓄積して、被害の軽減につなげたいと考えています。

スカイツリー落雷観測 20120821_11

東京大学 石井勝教授
「こういう自然を相手にする研究観測というのは、腰を据えてと言いますか、最低でも5年、可能なら10年は続ける必要があります
どんな対策を施したら、やり過ぎず、かつ必要十分な対策になるか、そういったことをより確かなものにするために、こういった研究というのは大変に役立つと思います」

すかいつりー落雷観測 20120821_12

スカイツリーで始まった新たな研究。
雷の実態を解明しようという挑戦が、この夏、続いています。

鈴木
「東京スカイツリーは、落ちた雷が鉄塔を伝って地下へと流れるという構造になっているため、危険はないということです」

森本
「ただ、東京タワーがスカイツリーの(建設)前にはあったじゃないかと思われる方もいると思いますが、東京タワーの場合、落雷の回数を見てみると、年に1回程度。
これに対してスカイツリーは、半年間で10回以上ということで、やはり高さが違うんですね。

雷対策の研究が加速すると期待されています」



気になったのは、‘飛行機雲’が発生する高度の空間。この時‘雷雲’が発生していれば、「航空機への‘落雷’」が心配となる。( 勿論、雷雲が発生している空間には、‘雲を造るための核’になる‘チリ’などがあるから、‘飛行機雲は出来ない!’)


「航空機の落雷被害について調べて見ると次のような‘長文の回答’があった。ご参考までに・・・。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2069952.html
質問

Q:飛行機に落雷する?

航空機への落雷 koukuki
http://nandemo.ciao.jp/otenki-nandemo/kam
inari-nandemo/taisaku/setsubi/post-109.html


質問者:dejioti3 投稿日時:2006/04/03 22:49
「4月2日岐阜上空を飛行中の航空機2便が落雷を受け、1機はエンジンが停止、1機は気体の先端部が焦げた」と新聞記事がありますが、雷雲の中を飛んでいれば、同じ電位になって、またその上(下?)でも地球とは離れていて、それでも落雷するのかと考えます。また、地上では、車・電車など金属は外を電気が流れて、安全だと聞かされていますが、それとの関連はどうなりますか。車より飛行機の方が雷には弱いのですか。

A:回答 (4件)
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No.4ベストアンサー10pt

回答者:atom1回答日時:2006/04/04 03:36
先ず、人体を含めた動物(植物も)、は科学的分類では有機物といい、人体は炭素C、酸素O、窒素N、水素Hが99.5%、ミネラル合計0.5%で構成されている事になっています。体重の60~65%がHとOで出来た水といわれています。
原子核の外周を回る電子の軌道がHが1つ、C、N、Oは2つ目、と言うこともあり、原子核と外周軌道の電子の距離が金属元素たちより、核との結合が強く、容易に千切れません。

 これに対し、アルミニウム(Al)や鉄(Fe)などの金属原子の軌道は3っや4っ5つ有って、原子核から遠いためか、原子核と外周の電子との結合力が弱く、金属原子の塊になると、外周の電子たちは飛び出して ★自由電子になって金属内を飛び回っています。
 これらの特徴はすべて、自然創造の神様が設計したもので、この神様に作られた人類は好奇心で神様のアイデアを ★後追い分析して、原子たちの性質を記録したものです。

 原子同士が多数結合して自由電子が飛び回る性質の原子たちを金属と名づけているのです(詳細省略)。
これに対し、H、C、N、O、は炭素以外は塊になれず、同じものがくっつけるのは、多くて酸素の3つ(オゾン)です。でもこの4人は、Cの紐の周囲にくっついて、栄養素、細胞、肉体を作り水の流れで栄養を運び、生物を作っています。

● 電気の目で見れば、金属は電気の良導体。人体は、自由電子が出来ないので、金属のように電流が流れないので ★絶縁物 とか、外部の電荷(電気の粒子)から放出される静電気の吸引反発力で、4原子たちは、+電気の原子核と-電気の電子の位置がずらされて+-の電気が誘発される(分極すると言う)ことから ★誘電体 とも言います。
 勿論、電気力が強ければ電子は千切られます。水もHとOですから当然同じ性質を持ちます。

● 雷雲は絶縁性物質で塵を核にしているものも多いといわれています。上昇気流で水蒸気がかく乱されて電気を帯びることが分かっています。
 ★雲中放電や、アメリカでは何事も規模が大きく1km~2Kmもはなれた雷雲同士の放電も目撃されていると聞いていますから、結果の事実から逆判断して、+電気に帯電(電気を帯びた)したところと、
-に帯電した水滴の雷雲があると理解できます。

 電荷の量(密度)が濃くなると、そこから放出される電界の強さが強力になり(電気力線が濃くなり)、その静電気の力を浴びる相手物質が水や油や人体などの誘電体(絶縁物)であれば、それを+と-に分極したり、強力な場合は、分子や原子から-電気の電子を引きちぎって、-電気群と+電気群を作り出します。

 参考★ 雷雲の標準タイプは、昔から、雷雲の地球と相対した底面は-電気に帯電していると言われています。

 相手がアルミ、ジュラルミン、亜鉛、鉄などの金属であれば、自由に飛び回る-電子群は、+電気に帯電した雷雲の方に引きつけられて、厚さは薄いけれど機体金属の表面に集まり、-に帯電した水滴の雷雲であれば、航空機の機体の金属内自由電子は反発されて、押しやられ、機体の表面には+電気が誘導されます。
この現象のことを、静電気の力で相手の物質に電気を誘発したので(または誘導したので)、物理や電気工学で、●静電誘導 と名づけています。

 電気力線(静電気の力)を放出する+に帯した雷雲部分と機体に誘発された-電気との間に電池またはコンデンサーのように電圧が発生するから、中間の水滴(絶縁)を破って放電したと考えられます。-に帯電した雷雲部分なら、機体の+電気との間で中間の水滴の絶縁を破って機体と放電し中和したと考えます。

 雷雲と機体の間が乾燥した空気なら(成分は窒素と酸素ですから)絶縁性強く、放電しなかったでしょう。でも雲の水滴の中ではありえませんね。水はもともと+-に分極していますし、ミネラルの塵や埃を含んでいると、イオン化されていますから、絶縁が弱いです。
 機体を流れる電流は、勿論身軽な電子電流です。密度の濃い部分から低い方に流れ中和します。
詳細は、研究されていないはずです。


A:No.3ベストアンサー20pt
1件
回答者:peko_pee回答日時:2006/04/04 02:53
雲の中でも場所によって電位差は生じます。
地面まで届かなくても雲の中だけで放電することがあります(空中放電)。
その雷の通り道にたまたま飛行機がいれば「落雷」ということになるのだ
と思います。空気中を流れるよりは流れやすい金属を選んで走る性質がある
のはご存知のとおりですから。
なのでその現象の表現のしかたとして「落ちる」というよりは「通過する」
というほうがイメージしやすいかもしれません。

何十年も前の話ですがアメリカの有人ロケット・アポロ12号が打ち上げ直後
に雷に打たれ、一部の計器が一時的に不調をきたしたようです。それでも月
へ行って無事に戻ってきましたが…。

専門家ではありませんのでもし表現に誤りがありましたらゴメンナサイ。

A:No.2
0件
回答者:ymmasayan回答日時:2006/04/03 23:47
車もタイヤで絶縁されて宙に浮いているのに落雷します。
飛行機も結局のところ同じです。

車の外側を電流が流れるので車内にいる人が安全なのと同様に
飛行機の中にいる人も感電に関しては安全です。
ただ飛行機自体が故障すれば別ですが。

先日、スカイマークでも落雷事故が問題に成っていましたね。

A:No.1
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回答者:First_Noel回答日時:2006/04/03 23:19
ちょっとした瞬間的な電位差が生じたところを発端として,
大電流の電流経路にされてしまうことになります.
(例えば,電子なだれなどで誘引してしまう.)

飛行機にこのような大電流が流れても,車と同じように,
中の乗客が感電することはありません.

しかし,車の電流経路(例えばフロントガラスフレーム~タイヤ)に
触れていると感電するように,飛行機でも電流経路となった部分は大電流により焦げます.
(因みに車や飛行機など,金属で囲まれている中は電流経路とはなりません.)

大電流により強力な磁場が生じて,それによりまた電流が誘起されて,で,
電気的にも磁気的にも電子系が支障をきたす可能性もあり,これもまた車と同じです.



航空機パイロットの方達は、‘雷雲’についての知識は十分にお持ちだろうから安心だが、上記回答では、航空機への落雷があったとしてもパイロットや乗務員・乗客には被害が及ばないことがちゃんと記されている。

でも、航空機の機器への被害はありそう。

‘雷は避けて通る’これが‘大空’でも‘家庭’でも原則のようだ!




















[2012/09/08 12:06] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
この‘物流の速さ’!
或る‘セミ学会’で、‘地球の正体’というテーマで発表させて貰えることになった。

9月13日(木)が本番である。これは、一か月前から判っていたスケジュールであるが、いつも通り切羽詰まらないと原稿とスライドが出来上らない。

いろいろ調べているうちに、どうしても‘或る本’の中身が読みたくなった。

9月5日のことである。
この本を買いに行くのも本屋まで約10kmもあるから一寸面倒だ。
ネットで注文して見ようと思った。

明後日、9月7日に手元に来れば十分である。

注文した日時 : 9月5日午前10:57

その日の夕飯時に‘キンコ~ン!’と鳴る。今頃何?とカミサンが出る。いやいや、本が来たのだ!

手に入れた日時: 9月5日午後07:32

この間、(19:32)ー(10:57)= 8:35
なな、なんと「8時間35分」の早業!

都会ならいざ知らず、千葉県茂原市、それも市と町の境近辺という、いわば‘陸の孤島’とでも表現したくなるような場所なのに!

画像ー50-2-2

こんな格好で届けられた。お見事である!

本は、以下の写真の通り。

奇跡の星-2-2

読みたかった内容は、次にあるような‘地球が持つ奇跡’の全貌である。

奇跡の星0001-2-2

それから、次の日(9月6日)にかけて、色々なデータを収集し、一枚の‘凝縮版・原稿’を約10時間かけて書き終えたのは、9月7日午前2:23である。

第22回テクノブリッジ資料・地球の正体(その1)-20001-2-2

これから、スライド約20枚の作製が待っている。

地球の正体を語るには、太陽系惑星についても調査をしなくてはならないし、勿論‘太陽と地球と月’の相互関係についても述べる必要があろう。

今年最大の‘天体ショー’、5月21日午前中に起こった‘金環食’。偶然にも‘雲’の出方が良かったと見えて、ど素人の私が‘普通のカメラ’でその瞬間を撮影出来たことは弊ブログでも紹介した。( http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-142.html

いよいよその写真の出番が巡って来た。このセミ学会には、‘天体学にも詳しい’大学教授の参加も見込まれている。

画像ー8 056-3
2012年5月21日午前7:38の金環食。場所:千葉県茂原市千沢。

(つづく)
















[2012/09/07 11:16] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
火星移住計画と宇宙服
‘火星移住計画’が実際にあると言う。

画像ー41 033-2-2
火星 

上の写真も含めて、以後の写真画像は、NHK・TV【2012年8月28日・NHK/BSプレミアム】のTV画面をカメラで撮影したもの。


まさか? 真面目に、‘本当に’?

そう思うのは私一人ではあるまい。

‘火星探検や調査’ではない。‘火星移住’である。

‘地球’という人間にとっては極めて住み易い星があるのに‘何で?’

その‘火星移住’の最大の目的は、‘人類の継承’という。

これまた唐突な話で、中身が読めない!



この事業の提案とりまとめ・仲介役をする(?)スポンサーは、「 Byte Internet 」というオランダのプロバイダー会社。


http://mars-one.com/en/sponsorships/silver-sponsors
byte-200-100.png


Byte Internet

Byte Internet is a webhosting provider for professionals with a strong focus on service, technology and reliability.

The company was founded in 1999 and with a fast growth over the years, it is a renowned and stable player in the Dutch webhosting market.

Byte offers fast, reliable and scalable webhosting. Specialities are advanced cluster hosting and optimized Magento hosting.

バイトインターネット

バイトインターネットサービス、技術と信頼性に重点を置いた専門家向けのウェブホスティング·プロバイダです。

同社は1999年に設立され、年間で急速な成長と、それはオランダのウェブホスティング市場で有名な、安定したプレーヤーです。

バイトは、高速で信頼性の高いスケーラブルなウェブホスティングを提供しています。特産品は、高度なクラスタホスティングおよび最適化されたMagentoをホスティングしています。



http://mars-one.com/en/mission/mission-and-vision

logo_marsone.png

Mission, Vision and Feasibility
Mars One’s mission objective


Mars One plans to establish the first human settlement on Mars by April 2023. The first crew of four astronauts emigrate to their new planet from Earth, a journey that takes seven months. A new team will join the settlement every two years. By 2033 there will be over twenty people living, working and flourishing on Mars, their new home.

ミッション、ビジョンと実現可能性
火星は一つのミッションの目的


火星は一つは2023年4月によって火星の最初の人間の移住を確立する予定です。 4人の宇宙飛行士の最初の乗組員は、地球、7ヶ月かかりますから、彼らの新しい旅の惑星に移住する。新チームは隔年で移住に参加します。 2033年では20人、生きている作業や火星、彼らの新しい家に繁栄の上にあるでしょう。


The vision of Mars One

A manned mission to Mars is one of the most exciting, inspiring and ambitious adventures that mankind can take on. We see this as a journey that belongs to us all, and it is for this reason that we will make every step one that we take together. This will also be our way to finance the mission: the mission to Mars will be the biggest media event ever!
The entire world will be able to watch and help with decisions as the teams of settlers are selected, follow their extensive training and preparation for the mission and of course observe their settling on Mars once arrived. The astronauts will share their experiences with us as they build their new home, conduct experiments and explore Mars. The mission itself will provide us with invaluable scientific and social knowledge that will be accessible to everyone, not just an elite select few. Join us in this adventure. Put it on Facebook, Twitter, LinkedIn or whatever platforms are available to you, and spread the word!

‘火星は一つ’のビジョン

火星への有人ミッションは、人類が上に取ることができる最もエキサイティングな刺激的で野心的な冒険の一つです。我々は、私たちすべてに属して旅としてこれを参照してください、そして、それは我々が一緒に取ることがすべてのステップ1を行うことをこのような理由からです。また、これはミッションの資金を調達するための我々の方法になります:火星へのミッションは、これまで最大のメディアイベントになるだろう!
全世界が見て、入植者のチームが選択されているような意思決定を支援する、ミッションのために彼らの大規模な訓練と準備をたどり、もちろんかつて火星に到着した彼らの沈降を観察することができるようになります。彼らは彼らの新しい家、行動実験を構築し、火星を探検宇宙飛行士は、私たちと彼らの経験を共有します。ミッション自体は誰にでもアクセスできるようになります非常に貴重な科学的·社会的知識を提供してくれるだけではなく、エリートは数を選択します。この冒険に参加しましょう​​。 FacebookやTwitter、LinkedInやどんなプラットフォームでそれを入れて、あなたが利用できますし、単語を広げる!



A realistic plan

The Mars One team has worked on this plan since early 2011. That first year saw us research the feasibility of the idea extensively and exhaustively, scrutinizing every detail with countless specialists and expert organizations. In this analysis we not only included the technical elements, but also comprehensively discussed the financial, psychological and ethical aspects.
We have met with several established, international aerospace companies who can design and deliver the essential hardware components for the Mars mission. These have written letters of interest that support our plan.
We have an impressive list of people who support the mission to Mars, our ambassadors. One of them is Professor Dr. Gerard 't Hooft, Physics Nobel Prize winner of 1999.
We were this thorough in our preparations for a reason. A project as ambitious as sending a manned mission to Mars can only be presented credibly when it can stand on its own two feet. We have a feasible plan and a way to finance it. We are ready to go, will you join us?

現実的な計画

火星は一つのチームは2011年初頭以来、この計画に取り組んできました。その最初の年は、私たちは数え切れないほどの専門家や専門機関との細部を精査し、広範囲かつ徹底的にアイデアの実現可能性を調査しました。この分析では、我々は唯一の技術的な要素が含まれていただけでなく、総合的に、金融の心理的、倫理的側面を議論されていません。
私たちは、火星ミッションに不可欠なハードウェア·コンポーネントを設計し、提供することができますいくつかの確立、国際的な航空会社と会ってきた。これらは我々の計画をサポートする目的の文字を書かれている。
私たちは、火星、私たちの大使への使命を支える人々の印象的なリストを持っています。そのうちの一つは、教授ジェラルド'トンホーフ、1999年の物理学ノーベル賞受賞者です。
我々は、理由のための私達の準備は、この徹底しました。それは自分の足で立つことができたときに、火星への有人ミッションを送信するなど意欲的なプロジェクトとしては、唯一の信憑性に提示することができます。我々は、実行可能な計画とその資金を調達する方法を持っています。我々は行く準備ができている、あなたは私たちに参加するのだろうか?



さて、この計画の‘是非’は別に議論するとして、この計画は着々と進んでいると言うから‘市民権’を得ていると思った方がいい。

実際には、寄付も体験参加申し込みも移住申し込み(?)も開始されているようだ。

われわれ多少技術開発に携わったものからすれば、「‘宇宙服’の開発はどうなっているの?」という設問が頭に浮かぶ。

‘宇宙服一着の値段’は? まで気になり出すと言うもんだ。

それには、‘JAXA’が次のように答えている。

jaxa_logo.gif
http://iss.jaxa.jp/iss_faq/env/env_016.html

Q:宇宙服の値段はいくらですか

A:スペースシャトル用に米国が開発した船外活動用宇宙服(Extravehicular Mobility Unit: EMU)は、宇宙服アセンブリが100万ドル(約1億円)、生命維持装置が900万ドル(約9億5千万円)で合わせて1,000万ドル(約10億5千万円)します。

もう少し詳しく言うと開発費は、宇宙服アセンブリ(Space Suite Assembly: SSA)43セット、生命維持システム(Life Support System: LSS)13セットを製造するのに1億6,700万ドル(1ドル=120円換算で約200億円)かかりました。

なお、船外活動用宇宙服は各パーツ毎にいくつものサイズが用意され、宇宙飛行士の体格に合わせて、パーツを交換します。また、グローブは宇宙飛行士毎に用意され、ひとつ20,000ドル(約220万円)します。

EMUの構造(宇宙服アセンブリ(SSA)と生命維持システム(LSS))
emu.gif



この宇宙服の性能を確認するための‘実験’も既に行なわれていると言う。

画像ー41 007-2-2
220万円の手袋をはめての実験が始まろうとしている。

火星の大気温度は、地球に比べて‘遥かに’低い。定量的な数値は別の機会に詳細に検討するが、気温が低いのは、火星が地球より太陽からの距離が長い(地球と太陽との距離の約1.5倍)ことと質量が地球に比べて小さい(約1/10)ことの理由により、太陽光のエネルギーが放射状に散乱されるからおよそ距離の2乗分の一となることと質量の小さいことによる大気の薄さから保温効果が少ないこと、この二つの理由による。

火星の表面温度は、

最低:133K(-140℃),平均:210K(-63℃),最高:293K(+20℃)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%98%9F

平均で、-63℃ と言うのなら、試験は、少なくともー100℃以下で行なわなければ意味がない。

画像ー41 011-2-2

画像ー41 013-2-2

画面の温度表示は、-117℃ とあるから安心出来るというものであろう。じっと触って約40分間の実験だったと言う。

上述の‘マーズワン’の記述には、余り明確には書かれていないが、‘火星移住’の大きな根拠の一つに、「‘地球への隕石の衝突’から人類を守る」という思惑(?)があるらしい。冒頭に述べた通りである。

ご案内の通り、恐竜の絶滅の原因の一つに挙げられ最近段々信憑性が増してきたのが、‘隕石衝突説’である。

画像ー41 068-2-2
恐竜絶滅の一大原因と考えらている地球への隕石の衝突(6,000万年以上前?)空想図。

隕石の衝突は、中々予測出来ないという。つまり、今話題を提供しているオリオン座の‘ベテルギウス超新星爆発’が、巷間囁かれているように、640年前に起こっていたとすれば、光速で640年掛かる空間を‘質量の大きい岩石’が届くのにどれだけの時間がかかるかの計算式は知らないが、今の内閣ではあるまいが‘近いうちに’その影響がないとは限らない。

ベテルギウスの超新星爆発の‘物的影響’は、ベテルギウスの自転軸からのずれ角度の確か4%以内でなければ安全と言う事で地球は今のところ‘セーフ’だそうだから、少なくとも‘ベテルギウス’からの影響は無いのだろうが・・・。

画像ー41 017-2-2

‘科学シュミレーションドラマ’では、もう火星到達後の実験計画が示されているという。

一方、火星移住の前には、当然火星探索が必要であるが、片道約一年弱間の長旅に‘乗組員’の精神的不安定が解消出来ないだろうと言う説があって、‘火星移住’など実現不可能だと言い張る学者も多数いると言う。

ただ、そんな不安要素には目もくれず、下の写真画像のような‘火星未来都市’のイラスト描きちゃっかり組もいると言う。

画像ー41 078-2-2

さて、この‘火星移住計画’、2033年に‘計画実行’というから、あと21年後である。さあ、どういう展開になるのだろうか?

‘こちとら’は、‘満月の水平線からの頭出し瞬間撮影’さえまだ出来ていない状態なのに・・・。

それで、‘立待月’も‘居待月’も曇りばかりで撮影は不可能だった。

2012年の‘中秋の名月’は、9月30日だそうだ。この日まで、‘満月の水平線からの頭出し瞬間撮影’は延期ということで・・・・。

(つづく)



















[2012/09/06 11:01] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
二日遅れの‘頭出し’を見る
2012年9月3日は、二日遅れの‘満月’である。こんな言い方があるのかどうかは知らない。

昔の言い方は、陰暦16日が‘十六夜(いざよい)’で、陰暦17日が、‘立待月(たちまちづき)’である。

その後、陰暦18日:‘居待月’

    陰暦19日:‘寝待月’

    陰暦20日:‘更待月(ふけまちづき)’、そして次が‘下弦の月’となる。

したがって、9月3日は、陰暦(旧暦)の7月17日で、‘立待月’である。

この‘立待’が‘忽ち’の語源と言う。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/112112200000/
たちまち【▼忽ち】

(副) 〔補説〕 「立ち待ち」の意かという
[1] 物事が短時間内に行われるさま。またたく間。



日の出・日の入りは、普通TVで報道してくれるが、‘月の出・月の入り’は調査出来ないものかと思っていたが、‘案ずるより産むが易し’で、web で直ぐに見つかった。素晴しい‘ソフト’である。

地図上で、自分の好きな場所を‘クリック’すれば、‘たちどころに’計算してくれる。なにも考えることは無い!
それも‘グリニッチ’を基準地として、である。

こんな便利なことは無いが、それだけに‘今の人が、物を考えなくなった’という‘恨み’もある。その議論はさて置いて、今は‘9月3日の’千葉県・外房海岸での‘月の出’時刻を知りたい、の一念だった。


http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10508/cgi/Srss2.php によれば、次の通り。
日の出・日の入り、月の出・月の入りの時刻と方位を計算

(1)緯度・経度・標高と年月日、グリニジ時の時差を与えれば、その地点での地平線における日の出・日の入り、月の出・月の入りの時刻と方位を計算します。
(2)緯度・経度・標高は、グーグルマップを利用して決めることもできます。

(3)グリニジ時の時差は、経度が15度変化すると1時間異なることを目安に、デフォルト値を与えています(グーグルマップ取得時のみ)。

(4)計算には、標高・測心位置・視半径・大気差・ΔTを考慮しています。大気差の計算には、0℃,1018hPaの値を用いています。

(5)結果は、グーグルマップ上に表示されます。日の出・日の入り、月の出・月の入りの方向が、各々- - - -線で表示されます。

(6)結果は、地方時・グリニジ時・日本時で表示されます。

(7)結果は、日の入り 298 5/18 18:42 (±2) のように表示されます。
298は太陽が沈む方位で、北から時計回の角度。
5/18 18:42 は、太陽の中心が地平線に達する日時です。
(±2) は、太陽の先端が地平線に達し、地平線から消えるまで、日没に要する時間範囲(分)を示しています。

(8)高緯度地帯では、一日中、太陽・月が沈まなかったり昇らなかったりする日があります。その時は、太陽・月の次の入出没の月日を示します。

(9)太陽・月の位置計算には、井上圭典・鈴木邦裕共著「天体位置略算式の解説」(海文堂株式会社、1991年4月初版発行)を用いています。



早速このソフトで計算して貰った。

日の出・日の入り、月の出・月の入り、時刻と方位0001-2-2

日の出・日の入り、月の出・月の入り、時刻と方位0001-3-2

決定しました!

9月3日の千葉県・外房海岸での‘月の出’時刻:19:10(±2)

そこで、‘懲りもせずに’‘水平線からの月の頭出し’に3度目の挑戦と言う訳である。


さて、今日は‘河岸を替える’事にして、‘いわし’の漁業で名高い片貝漁港に行って‘立待月’を見ようと言う事になった。

九十九里といえば、‘いわし漁’。いわし漁といえば‘片貝漁港’である。漁港の海は、太平洋の荒波を直接受けないから、穏やかである。それに‘波乗り兄ちゃん’達もいないし、漁船の作業も終了しているから‘癒し’には最適である。

先ずは、本日の‘水平線月の頭出し’観測現場の下見から・・・。

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17:01

この場所ならきっと水平線からのベストショットが撮れそうだと思われる。しかし、この水平線近くの‘青さ’は、本当に‘青空’だろうか? それとも‘青色’を雲が反射しているだけなのだろうか? 素人目には区別がつかない。こちらは‘外海’であるが、癒しの漁港はこの外海を抉ったところに人工的に作られている。

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17:07

その漁港である。漁港の始動は朝が早い。明るくなる前にはもう漁船は出発するから、帰還も早くこの17時過ぎには漁港は静まり返っている。それが我々無関係の人にとっては‘癒し’の場所となる。遠くからこの漁港内で釣りを楽しむ人達も多い。今日もちらほら釣り客が来ていた。

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17:09

漁港は湾になっていて、対岸にはそれなりの数の漁船が船体を休めている。影は私の影であるが、この長さからして、夕日が相当傾いていることが判る。

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17:16

いつもは穏やかな漁港内であるが、今日は‘三角波’(?)が立っていて、いつもの穏やかな湾内の水面は見えない。その代わり、初秋の海風がこの夏の暑さを忘れさせる。

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17:28

この片貝漁港は、成田空港からそんなに遠くは無いため国際線の発着が頻繁である。この飛行機も何処の国へ行くのだろうか?

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17:36

この飛行機雲を従えた飛行機も先程の飛行機とは違った国へ行くに違いない。

飛行機雲の正体:

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211347272
Q:飛行機雲って正体はなんですか? 飛行機からなにかがでてるんですか?飛行機雲は高...
ojamall2000さん

飛行機雲って正体はなんですか?
飛行機からなにかがでてるんですか?飛行機雲は高いところにとんでますけど。

A:ベストアンサーに選ばれた回答
sakulaxxxxさん

飛行機が出す排ガスが雲になる→×
飛行機が出す排ガスがもとになって雲ができる→○


上空で、湿度が100%を越える状態になっているにもかかわらず、
雲ができない状態を過冷却状態といいます。
そこへ飛行機が飛んで、燃料の排ガスを出すと、
その排ガスに過冷却の水蒸気がくっついて微細水滴や微細氷となり、雲を作ります。

寒い日に息を吐くと白いのができますね。
息の中の水蒸気が冷やされて水滴となり、白く見える。
このとき、水蒸気は目に見えないような空気中の塵(チリ)にくっついて水滴になるのです。
南極では、チリが殆どないから、吐く息が白くならない。
白くなった吐息は、水滴がすぐに蒸発してあっというまに見えなくなりますけど。

水蒸気が水滴になる原理は同じですが、
飛行機雲ができる過程は、吐く息が白くなるのとはまったく別物です。
すなわち、飛行機が出す水蒸気で雲ができるわけではありません。

上空の高いところは気温が低く、また、地上付近と違って大気が比較的安定していますから、
微細なチリやほこりが少なく、雲になろうにもなれない過冷却状態ができやすい。
そこを飛行機が通ってチリやほこりをばらまくと、
それらを核に水蒸気が水滴に変わり雲になる、というわけです。

人工雲も飛行機と同じ原理です。
過冷却の空気中に沃化銀のほこりをまきます。
すると雲ができる。当然ですが沃化銀だから水蒸気とは異なる。
過冷却はいつもおこるわけではないので、
実際には飛行機雲ができないことの方が多いですよね。



と、言う訳で、飛行機雲は、‘過冷却状態の空中’にしか出来ないという。

それでは、この写真の空中の温度が本当に‘過冷却状態’かどうかをど素人ながら、計算して見たい。

この時必要な‘知識’は、空気中の温度は、或る限られた高度の範囲(地上20,000mまでぐらい)では、100m高度が増すにつれて、0.6℃気温が下がって行くと言う常識である。

例えば、真夏の富士山の山頂は8℃くらいだという。

この常識を頼りに計算して見ると次のようになる。

(-0.6℃/100m)× 3,776m = ー22.7℃

つまり、海抜‘0m’の地表面よりも富士山の頂上は、22.7℃低い事になる。

その海抜‘0m’の地表面の気温が、30.7℃だとすると、富士山の頂上は、8℃ と言う訳である。

この‘単純な’計算法で、上の写真にある飛行機の高度での気温を計算すると次のようになる。

勿論、この場合の高度を仮定せねばならないが、通常の安定飛行高度の約10.000mよりも少し低いと思われる。成田空港を出発してまだ10分も経っていないだろうから。

そこで、高度:7,000m と仮定。

その高度での気温計算式は次の通りとなる。

① 地上の温度からの低下温度:

  (ー0.6度/100m)× 7,000m = -42℃

② この日のこの時間の地表温度:28.5℃

従って、7,000m 上空の気温:

   28.5℃ +(-42℃)= ー13.5℃

これじゃあ、‘過冷却’になっている訳で、飛行機雲が出る訳だ。

それでは、逆に‘飛行機雲’を見つけたら、その飛行機の‘おおよその高度’を言い当ててみる計算式を。

過冷却だから、-10℃と仮定する。上の計算式でもうお判りだろうが、次のようになる。

言い当てようとする飛行機の高度を‘X’とし、その場合の地表気温を‘Y’とすれば、次の式が成り立つ。

過冷却の状態の高度‘X’mの気温は、

ー10℃ = (地表気温‘Y’℃)-(‘X’mまでに下がる温度)だから、

-10℃ = ‘Y’℃ -(-0.6℃/100m)בX’m

∴ ‘X’m = (ー‘Y’℃ー10℃)×(100m/-0.6℃)

つまり、

夏の季節で、Y=30℃の場合、

‘X’m = (-40℃)×(-166.7<m/℃>)

     = 6,668m

となって、「地表面の気温に10℃を足して、それに166.7を掛ければ、その高度が出る」と言う事になる。


冬の季節だと、地表面の気温が10℃だと仮定すれば、その高度は、

‘X’m = (-20℃)×(-166.7<m/℃>)

     = 3,334m

となって、冬は飛行機の高度が低くても‘飛行機雲’が出る計算となる。




さてさて、飛行機雲の件はこの位にして、肝心の‘月の出’はどうなるのか?

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17:46

東の空がやはり不安である。

この写真を見せて「夕刻の写真。今カメラ目線は‘東’か?それとも‘西’か?」の質問をしたら、99%の人が「西」と答えるに違いない。

だって、光の‘光源’と思われる‘一点’から‘放射状に光が発射されている’から、夕方なら‘西’に決まっていると普通は考えるに違いないからだ。

でも「それが設問なら、答えはきっと‘東’」と答える人が1%は居るかもしれない。そんな人は、単に‘天の邪鬼’と言うのではなく、受験術に馴らされてしまった人か、或いは‘クイズ王’の成れの果てなのかもしれない。

こんな風に‘何でこんなことが起こるのか?’説明出来ない事が多い。これもきっと‘西側にある雲の様子’と係わりがあるのだろうが、私にはその理由がまだ判ってはいない。

勿論、答えは「東」である。

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17:48

九十九里漁業協同組合の文字が見える。漁港のそばには、ちゃんと‘冷凍設備’が備わっている。

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17:50

この飛行機も何処の国へ行くのだろうか?

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17:54

西の空はもう真っ赤に染まっている。月の出まで、あと75分。それまでに‘一杯’と言う事になった。

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18:25

前回来た時には、名物の‘いわし’の刺身。従って、今回は‘あじ’。これがまた、いわしに劣らず‘絶品’。遂に‘生ビール’3杯。

うっかりすると、19:10の‘月の出’を忘れてしまいそう。でもでも・・・。

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19:13

遂に‘月の出’の時刻を過ぎてしまった。やはり外海のあの水平線の‘青’は、青空の‘青’ではなかった。雲が反射していた‘青’だったのである。

残念だが、明日の‘月の出’に賭けるしかない!

因みに、先程の‘月の出’検索ソフトで、9月4日の月の出時刻を見てみると

    19:43(±2)

という。

果たして、明日は水平線は‘晴れ’なのであろうか?

(つづく)