通常、
「卒意」は、「用意」の対語として使われる。
たとえば、次のように‘プレゼンテーション’の‘極意’として「用意」とは違った‘その場の雰囲気に応じての咄嗟の判断での行動に結びつく‘意’である、として‘活用’される‘概念’である。
次の例を見れば、その使われ方が理解出来る。
http://www.fujixerox.co.jp/support/xdirect
/special/future_c/report/re11011.html
さて、最後に菊地氏から紹介していただいた言葉、「用意」と「卒意」をご紹介して本稿を閉じたいと思います。卒意とは、演芸、文芸などで用いられる概念で、用意との対語です。ここでいう用意するとは、客を迎える準備を行ない、空間を演出し、客の登場を待つというように、あらかじめ行なう行為であり、主人が主体となり客を意識するものです。
一方、卒意とはその場の雰囲気に応じてとっさに判断・行動することであり、「主人」だけが主体ではありません。「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントであるといいます。
噺家が、膨大な演目を暗記しながら(用意)、何を話すのかは当日の客層を見て判断し、即興的に演目を決めて語り始める(卒意)様子は、用意と卒意の典型といえます。
フューチャーセンターの記憶や記録を残すとという仕事にも、事前の用意とともに、場の中で即興的に生み出されたものや、関係性の中で生まれたものを記録する、卒意の書も重要であることを、菊地氏の言葉は物語っているように思います。
用意と卒意の精神で、みなさんのフューチャーセンターの記憶をとどめる方法論をぜひ発見してみてください。
さらに、次のようにもやはり、ビジネスマンにとって「卒意」が大事だと強調されている。
http://mba.globis.ac.jp/blog/osaka-staff/57.html
プレゼンテーションの名手に学ぶ! ~落語家の「用意」と「卒意」~
落語家が高座に上がるときに大事にすることがあります。
「用意」と「卒意」というものですが、ご存知でしょうか?
茶の湯の「おもてなし」の精神をあらわす言葉なのですが、
「用意」は、お客さまを迎える主催者が事前に行う準備。
「卒意」は、主客一体となって、場をつくりあげること。
この「用意」と「卒意」が落語では極めて重要なのです。
寄席以外の落語会などでは予め演目を開示している場合もありますが、
寄席では通常、どの噺を喋るかは高座で決めます。
なぜなら、寄席の高座に上がって、客層や「まくら」で話す話題の
反応などを見て、その日その時のお客の年齢層や興味、落語の知識レベルに
合った噺を選ぶためです。
客席を見渡す為に、コンサートや芝居などと違って、
寄席や落語会の客席は明るくなっています。
それほどまでに落語家は「用意」と「卒意」を常に意識しています。
この「用意」と「卒意」は我々ビジネスパーソンが
プレゼンテーションを行う際にも極めて参考になりますね。
プレゼンテーションにおける「用意」とは、
-中身の作り込みをしっかり行い、確認をしておく。
-プレゼンする相手がどんな人で、どんなプレゼンが求められるか
イメージし、反論に備えたり、詳細を求められたりした場合に
対応できるよう準備をしておく、など。
「卒意」とは
-専門用語を並べ立てたりせず、聴き手のレベルや聴きやすさを意識する。
-早口にならないようにし、随所に理解しやすいような“間”を作る、など。
一方、「卒意」が「作意」の対語として用いられる場合がある。
‘書道’の場合にこの語が存在することに‘意義’がある。‘書道’の場合に何故意義があるかというと、それは‘道’を極めようとする場合の‘究極の意識’を示唆しているからである。
この場合の「卒意」こそ、およそ‘道’という名のつく‘修行’には欠かせないもののように思われる。
‘剣道’、‘柔道’然り、‘華道’、‘茶道’これまた然り。
そして、スポーツにおいても然り、と思っている。
この弊ブログで何度も取り上げさせて貰った
‘勝つと思うな’の気持ちこそ「卒意」なのである。
この場合の‘卒’は、‘卒業’の意味での‘卒’である。
つまり、「卒意」とは、‘意を卒業した状態’、すなわち、‘見られる、思われると意識しそうな相手’から卒業してしまった状態’を指すのである。
そうすれば、正に
‘己の真の姿’が実現する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%
81%93%E7%94%A8%E8%AA%9E%E4%B8%80
%E8%A6%A7#.E4.BD.9C.E6.84.8F
書道用語一覧
率意(そつい、卒意とも)とは、手紙や草稿など書作品としての制作意図を持たずに、自己の欲するまま自由に特色を発揮して書くことをいう。作意に対する語。
作意(さくい)とは、作品の制作意図。率意に対する語。
http://heimatlos.tea-nifty.com/heimatlos/2007/12/post_2062.html
卒意と言うこと
藤原行成について先日の記事で、「かな文字よりも漢文のほうが出来が良く見えたりします。なぜだろう。」と触れた後に
ふと思い立って調べた所、現存する彼の作品の内、明らかな真跡は漢字のもののみだとかで、
やはりなあ、と思った。
彼の手になるとされる作品のうち仮名文字は、
例えば、「上手に見せたい」という気負いや「どうです?私の字は巧いでしょう」という気取りの漂うキザな筆跡だったり、
或いは、
まるでウラナリの坊さんか尼さんが、諸行無常を託ちながらも憂き世の見栄に囚われつつ筆写したような、生気もなければ覇気もない、鬱々とした筆跡だったりする。
あれらが仮名文字の鑑として人口に膾炙していると聞いても、これまで私には、どこがどう良いのか判らなかった。
今般彼の漢字をじっくり眺める機会を持って、あの品の良い豪放さや、健康な精神性がありありと伝わる筆致は確かに稀有だと思ったし、この人物と、あの仮名文字の退屈そうな御仁が同一とは、やはり思えない。
要は、「彼の」仮名に漂うキザな暗さが、漢字には全く無いのだ。
習字を始めた頃の書道の先生や、小学校一・二年の担任の先生から教えられて以来、私も重々自戒していることだけれど、
書に限らず全てにおいて、
卒意とは、極めて難しいが、不可欠の要素だと思わされる。
この作者も「書に限らず全てにおいて」と明言しておられる。流石である!
また、次の引用文献「卒意の書」には、この弊ブログで取り上げた
‘蘭亭叙’こそ、この‘卒意’が実践されていると解説しておられる。

小山天舟著 「書に道をもとめて」より
http://members3.jcom.home.ne.jp/sancotei/sancotei/zu_yino_shu.html
卒意の書
私たちが筆を手にするとき、必ずと言っていいほど、誰かに見せる見られるということを前提に書くものです。書道展や展示会、あるいは競書に出品する作品はもちろんのこと、日常の手紙や署名にしてもそうです。
人の目に、少しでも上手そうに、きれいに、達筆そうにみられたい。これは誰もが抱くごく自然な心情です。ましてや、「書は人なり」とか「書は心画なり」などと言われれば、なおさら人目を気にしないわけにはいきません。当然、人目を意識して書かれるものは、練習を積み、多くの枚数を費やすことになります。だから、そこには力作が生まれます。
こうやって書かれた書は、本人の努力のかいあって、字形は整い、線は練れて立派なものでしょう。どこにもスキがなく、失敗もない洗練された書には、確かに感心させられるものです。でもこれは、あくまでもよそ行きの書の姿です。本当の意味での「書は人なり」の書でしょうか。正装し、背筋を伸ばし、行儀を整えるのは、他者に対する姿勢です。それが、平素の自分自身の姿でしょうか。人は絶えず緊張ばかりはしてられません。リラックスして、心を解き放った心身こそ、その人の本来の姿ではないでしょうか。そういう心持ちで書かれた書とは、どういうものなのでしょう。
かの書聖王羲之は、のどかな春の日に、一族知人を招いて宴遊会を催しました。豊かな自然の中で、酒を飲み、興が乗っては詩を作る。宴は人々を楽しませました。多くの詩ができ、寄せれたところで、王羲之は序文蘭亭序をしたためることにしました。楽しく心地よい酔いにまとわれた筆は、全くの即興で紙面に墨跡を残していきました。書き上げたなら、すぐに見せようという気は無く、後で清書するつもりだったのでしょう。ですから、行間に脱字を書き加えたり、字を消して書き直したりしている部分があります。作品作りという計算などない、自然体の書です。にもかかわらず、同じ文字はすべて字形を変えて表現するという変化の妙を示している所などは、さすが書聖と言われるゆえんでしょう。後日、あらためて清書した王羲之ですが、何枚書いてもうまくいかなかったそうです。あの時の、あの雰囲気の中で、自然に書かされた筆致には及ばなかったのです。きちんと書き上げようという緊張感が、書聖の筆にもプレッシャーを与えたのでしょう。あきらめた王羲之は、ミスのあるのは承知で、我が最良の作として伝え残すことにしました。体裁良く作られた完成品より、失敗は有れども筆勢豊かな作を上としたのです。この王羲之の書に対する姿勢の中に、自然体の書(卒意の書)の価値を見出すことが出来ます。
このように、作意的意識を持たず、その時の自然な気持ちで書かれた卒意の書なる名品は他にもあります。
まずは顔真卿。戦争で亡くなった甥の霊を祭った時の祭文の草稿である『祭姪文稿』や、集会で席次を乱した者に対する抗議文の草稿『争坐位稿』が卒位の書です。『祭姪文稿』は、かわいがっていた兄の子に対する悲しみの思いで、『争坐位稿』は、無礼者に対する怒りの気持ちで書かれています。共に、深い感慨を込めて書いたものとはいえ、草稿ですから、王羲之の『蘭亭序』同様、書き加えたり、書き直したりしている部分が見受けられます。両者とも、しかるべき人に渡す書状ですから、きちんと清書したものがあったはずですけれど、それらは残っていません。後世に残る石碑を数多く書いた顔真卿でが、まさか下書きが古典となって伝えられようとは、夢にも思わなかったことでしょう。
日本の書人のものでは、小野道風の『屏風土代』がそうです。これは、醍醐天皇の宮廷に新調された屏風の色紙形に揮毫を頼まれた道風が、作品の構想を練った際の下書きです。随所に文字の訂正や書き込みなどが見られ、字形を工夫した様子が伺えるものです。その筆致は、実にのびのびとしており、変化にも富んでいます。やはり、本番ではないという気楽さが、筆をここまで走らせたのでしょう。
以上のように、作意に専念せず、その時折りの素直な気持ちの中で書かれた書は、その人の本質、ありのままの姿を表出させるものです。現実の私たちの世界でも、そんな書には、まずお目にかかることはありません。今という時代にあっては、尚のことでしょう。それだけに、こういった卒意の書を目にすると、筆者の誠の真意をかいま見たようで、嬉しくなると同時に、書人の平素からの技量の高さを知ることができ、感服させられます。あえて、卒意の書を意識的に残した王羲之は別として、顔真卿や小野道風にしてみれば、やや面はゆい気持ちかもしれませんが。
私たち自身も、何かに出品する場合だけ鍛練するのではなく、日々の日常書でも自ずと実力が発揮できるよう、普段から腕を磨いておく必要があるのではないでしょうか。いつ何時、誰かに卒意の書を見られるかもしれないのですから。その時、軽率の書と思われないためにも。
果たして自分の練習書の中に
‘卒意の書’と言えるかもしれないものがあるだろうかと探してみた。

これまでの‘作品’は、やはり‘余所行き’のもの。しかし、この練習書は、‘練習’と思って書いているから‘心構え’が違う! 悪い方(?良い方にかも?)にである。 墨の濃さも違えば、字の途中の‘止め’の部分もきちんとしていない!
しかし、全体の気分は、伸び伸びとしていて書き手が‘硬直’していないことを窺わせる。
昔から、
「練習は、本番のように」 「本番は、練習のように」と言われていることは、誰でも百も承知である。でもそれが出来ない!やはり、他人を意識しているからなのだろう。
この‘創作日記’にしても自分自身の‘日記’だと認識してはいるが、いざ書き始めると‘誰かに見られるから、もう少し体裁を整えよう!’などという‘雑念’が入り込む。
なかなか‘意図’と‘現実’はマッチングしないものである。
では、「卒意」を心掛けて、例えば、書を書いたり、テニスの試合をしたり、ゴルフをしたりする場合、これホントに「卒意」になっているのだろうか?
そんな意味合いでは、‘家庭の中での言動’は、或る意味では‘裃(かみしも)’を脱いでしまっているから案外「卒意」の状態かもしない。
‘パンツ一つ’、これが「卒意」実践の極意なのかもしれない。
(つづく)



