満月の撮影
2012年10月30日は、満月 である。人間、お月さまには申し訳ないが、‘満月’となると何となく‘写真に撮っておきたいという衝動’に駆られる。不思議なもんである。

昨日は、中秋の名月後2度目の満月であったが、ここ千葉県茂原市では、丁度中天に月が来るころの雲行きが余り良くなく、綺麗な写真が撮れなかった。

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2012年10月30日23:31

この時間帯では、月は、丁度中天に来るのだが、上述の通り雲の流れが激しく此方も慌てていた。‘ぶれ防止’もセットしていたのだが、‘望遠’で撮ったこともあって(?)少しピンぼけである。




そこで、今年の中秋の名月の時の写真で、本日の命題である‘(満)月の撮影の仕方’について、一言。

実は、これまで普通のカメラで月を撮影するという事は経験が無かった。
そんなもの‘プロの写真家’に任せておけばよいのであって・・、と思っていたからである。

でも他人様では、ここぞ、と思う写真をいつでも撮って呉れる訳ではない。

それに、まだ余りお目に掛かった事のない‘満月の水平線からの頭出し写真’をここ千葉県の九十九里海岸で撮影したいと思い始めたことなど、そんなこんなで、自分のカメラで‘月’を撮影したいという気がして来ていたのである。

先ずは、普通に望遠で撮ってみる。そうすると下の写真のような映像が得られる。

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2012年09月01日23:50

これはこれで、‘満月だよネー’と言ってくれる写真であるが、TV画面に出て来る‘クレーター’までハッキリ見える画像とは大違いである!

せめて、クレーターとまでは行かずとも‘うさぎの餅つき’ぐらいは何とかならないかと考えて‘フラッシュ’を焚いてみたのが、下の画像である。

画像ー45 176-2-3-2
2012年09月01日23:52

カメラによって違うとは思われるが、フラッシュを焚けば、何故こんな風に‘うさぎ’が撮れるのか?そのメカニズムについては今のところ知らない。

しかし、この方法は、写真撮影に疎い私の‘大発見!’である。

ここで、他人様がお撮りになった画像を・・・。

中秋の名月
http://plaza.rakuten.co.jp/oniyama/diary/201109120000/

こんな風に撮るにはどうすれば良いのだろうか? 望遠でないと月が大きく撮れない! 望遠であれば、手前のススキがこんな風に撮れるはずがないのでは?  じゃあ、合成写真?

map.jpg
http://mo.atz.jp/meisyo/plato/index.htm
これはもう普通のカメラではなく望遠鏡の画像。でもこんな風に見えたら、毎日月を眺めていたい気分になるに違いない! 刻々動く姿はどんな・・・・。

ToU_080724_53.jpg
http://mo.atz.jp/meisyo/plato/index.htm
一つ手前の写真の → の部分だそうだが、こんなに鮮明に・・。

次の画像は、‘月面の観光案内’だそうである。こうなったら、もう‘鑑賞用’ではない。

map_l月の‘名所’
http://www.lunarembassy.jp/meigetu/see02.html


月面観光案内

1) 虹の入り江

月齢10日くらいの時、北の欠け際あたりに半円形の綺麗な入江が見えます。ここは昔のクレーターから噴出した溶岩によって、クレーターの南側の縁が壊されて、雨の海と一緒になったものと考えられています。入江の直径は約240kmあります。

2) プラトー

月齢が8日から9日くらいのころ、月の北側を見ていると、楕円形をした黒いクレーターが目に付きます。17世紀の天文学者ヘベリウスが「大黒海」と名付けたほどの黒さを持っています。

3) ストレイシープと月の土地の限定 ポー&メリー 雨の海

フジテレビのキャラクター、ストレイシープと月の土地の限定企画です。ポーとメリーがそれぞれ向き合う形での限定区画販売となっています。現在も販売中です。

4) アリスタルコス

満月の北西部を見ると一際輝くところがあります。それがアリスタルコスクレーターです。このクレーターは月面で最も明るくて、皆既日食や地球照でも確認できます。

5) 第二期販売地 嵐の大洋

第一期に続いて、2002年秋より2004年春まで発売された「月の土地」第二期分はここに位置します。現在販売は終了しています。

6) ケプラー

月齢10日くらいの時、コペルニクスの西よりの、嵐の大洋の中に、コペルニクスよりは小さく、光の筋(レイ)もやや小ぶりなクレーターが見つかります。これがケプラーです。

7) コペルニクス

月齢10日くらいから嵐の大洋の真ん中あたりに光る筋(レイ)を伴ったクレーターが目につきます。コペルニクスと名付けられた、直径約90kmのこのクレーターは、よく見ると中央丘があるのがわかります。

8) アイザッケル・アルフォンスス・プトレメウス

上弦の月のころ、欠け際の中央部よりやや南よりに、3つのクレーターが縦に並んでいる姿が印象的です。南からアイザッケル、アルフォンスス、そしてこの中では一番大きなプトレメウスです。中央のアルフォンススには南北にのびた中央丘が目立ちます。昔、このクレータから火山噴火の活動を観察したという報告があったりします。その真偽はともあれ、興味深いクレーターのひとつです。

9) アリアデウス谷~ヒギヌス谷

このあたりは蒸気の海。アリアデウス谷は長さ約200km、幅5kmの地溝です。ヒギヌス谷はこれより西よりにあり、長さ約300km、この谷の中央にヒギヌスクレーターがあります。これらの先には小さなクレーターがクサリ状に並んでいるようにも見えます。

10) 映画「月のひつじ」記念 静かの海

2002年秋の映画「月のひつじ」公開記念の月の土地はここに位置します。映画にふさわしく、アポロ11号着陸地に近い場所の限定発売でした。現在販売はありません。

11)  静かの海

月面の東寄りにある「静かの海」は、1969年7月21日(日本時間)にアポロ11号から切り離された月着陸船イーグル号が着陸したところとして、あまりにも有名です。軟着陸を成功させるために比較的平らな場所が選ばれたのですが、よく見ると数多くのしわや小さなクレーターをたくさん見ることができます。

12)  危機の海

三日月のころには、中央付近に丸いクレーターのラングレヌスと、その北側の大きなクレーターのように見える危機の海が見所です。海の中は比較的滑らかですが、しわやクレーターも見られます。

13) 湿りの海~ガッセンディ

嵐の大洋の南西部に直径約380kmの湿りの海があります。その入口あたりにやや崩れた円形状のクレーターのガッセンディがあります。このクレーターには中央丘が見られます。月齢10日くらいの時は、クレーターの陰影も濃くて、縁の細かな構造や内部の様子も良くわかります。現在ルナエンバシージャパンが販売している「月の土地」第3期はこの湿りの海に位置しています。

14) 直線壁

(8)の3つのクレーターから南西の「雲の海」の中に、南北に直線状の崖が見られます。「直線壁」と名付けられたこの崖は長さが115km、高さが400mもある、超巨大な崖です。西側の丸いパートクレーターとともに「月面観光名所」のひとつです。

15) ティコ

満月近くになると、太陽光線が真上から当たるため、月はのっぺらぼうに見えます。しかしこの時期に一際目立つのがティコクレーターです。月の南側のクレーターが多い部分に光の筋(レイ)を四方八方に広げているのが観察できます。月齢9日くらいのときが、陰影がついて見ごろです。

16) クラビウス

やはり月齢9日ころ、ティコよりやや南よりに、大きなクレーターがあります。クレーターの内部や外壁にもクレーターが見られて壮観です。クラビウスは表側では最大級のクレーターです。直径は実に230kmもあります。

17) 第一期販売地 レイタの谷メチウス付近

2002年春、日本国内で最初に発売された「月の土地」が位置するのがこの場所です。現在、販売は終了しています



また、中秋の名月について、上記引用資料作成の専門家はこんなご意見も・・・。


http://www.lunarembassy.jp/meigetu/fullmoon01.html
‘中秋’か‘仲秋’か?

結論から言いますと、どちらでもいいようです。
この表現は言わずと知れた旧暦(太陰暦)で使われることばです。四季・春夏秋冬はそれぞれ3ヶ月ずつとなりますが、この3ヶ月を順に「初・仲(中)・晩」と呼びならわすわけです。例えば春1月・2月・3月は初春・仲春・晩春となります。初春や晩春はいまでもなじみのある呼び名ですね。同様に、秋も初秋・仲(中)秋・晩秋です。一般的には、
「仲」は「季節の中ごろの1ヶ月」というニュアンス
「中」は「真ん中」というニュアンス

秋で例にとれば、一般に「仲秋」は「秋の半ばの1ヶ月、すなわち8月」をさし、「中秋」は「秋の真ん中で、特に8月の真ん中15日」をさすという感じです。「名月」といえば、「満月(望)」なので、話しの意味合いからは、「中秋の名月」のほうが秋のお月見には近い感じのようですが、一般的には仲秋の名月のようですね。但し、どちらが正しくどちらかが間違っているといった類の話ではありません。
ここでは「仲秋」を使用します。


仲秋の名月は旧暦の8月15日の月をさします。そもそも古来「名月」というだけで仲秋の名月を意味します。ところで、実はこの日は必ずしも満月になるわけではありません。むしろ満月でないことのほうが多いくらいだそうです。全般的には旧暦8月15日「仲秋の名月」は満月より早く来る傾向があります。
旧暦の1日は「新月(朔)」の日からはじまるので15日は新月の14日後となります。ところが、新月から14日後に必ず「満月(望)」になるわけではないのです。月の軌道や地球の軌道が楕円の関係で、新月から満月になるまでにかかる日数には2日ほどの幅が発生します。平均で約14.76日ということですから、満月は15日よりやや遅れる傾向があるわけですね。他にも旧暦の1日の決め方が幅をもっていること(「新月(朔)の瞬間が含まれる日」)も関係してきます。とはいえ、この「曖昧さ」、わるくないです。生活に関わる「時」のリズムには案外あっているんじゃないでしょうか。



月も、引用資料にもある通り、もう所番地も決まっていて、多分ほとんどの場所に買い手がついている、という事の様であるが・・・。

(つづく)





















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[2012/10/31 11:50] | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
桂文珍師匠の‘枕’
桂文珍という‘天才落語家’は、稀に見る逸物である。

文珍
http://www.sakai-bunka.jp/heartopia/saiji/2011-4-3/hatsuwarai/hatsuwarai.html

もう一人の天才落語家、桂枝雀は、既に自ら命を断ってしまったが、この人のファンは日本国中に大勢居て、いわばどの落語家にも真似の出来ない一種の‘狂気’があった。

枝雀ー2
http://mars-craft.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-1c63.html


この上方落語会の名門・桂一門は一本に纏まっている訳ではないらしい。

文珍は、桂文枝(五代目)の弟子であり、枝雀は、ご存じの通り人間国宝・桂米朝の弟子である。

五代目
http://plaza.rakuten.co.jp/ishigoh/diary/201201030004/

米朝
http://ceron.jp/w/%E6%A1%82%E7%B1%B3%E6%9C%9D?mode=photochange

どうした訳か、名前が‘おもろい’ことに、この天才落語家二人が‘文枝’の‘文’と‘枝’を別け持っている。

そして、もう一人の経営者感覚の名落語家・元三枝師匠が、六代目・桂分枝を引き継いだ。

六代目文枝
http://www.c-o-all.co.jp/mt/creative_of_all/angle/archives/2012/0729_232126.html

なぜ、元・三枝に‘名’といって、‘天才’と言わないかというと、六代目・分枝師匠は、‘落語一筋’ではなく、上述の通り、経営者感覚がある。つまり‘才能’が邪魔をして‘狂気’になれないのである。

そういう意味での‘天才的’という観点からすれば、第一位が枝雀で、第二位が文珍であり、第三位が元・三枝かもしれない。

ただし、これは上方だけの範疇であって、関東は含まない。

‘文珍’は、随分前にTVのキャスターまがいのことをやったことがあるが、これに関しては、‘見るに堪えれなかった’と感じたのは私だけではあるまい。

TV局側も無責任である。彼に落語以外のことに時間を割かせるなどという‘暴挙’は決して許されるものではないことに気付かなかったのだから・・・。

‘国の宝は、人づくり’だと作詞家・いではく氏も言っている(演歌・比叡の風)通り、人材を育ててこそ国の繁栄がある。

文珍もまだ若かったから、当時はその判断が出来なかったのだろうが、今は気づいているに違いない。その証拠に近頃の彼の落語には‘狂気’とまでは言わないが‘殺気’が出始めた!

そんな桂文珍の名作落語・「心中恋電脳(しんじゅうこいのバーチャル)」を見て、これまでとは違った‘一皮剥けた天才ぶり’を見せつけられた。

彼の落語の魅力の一つは、‘枕’がいい。

① この頃の人間、小さい時には、直ぐに電話に出たがる。先日もあるお宅に電話をしたところ、3,4歳の女の子が出たので、「おかあさん、いる?」と言ったところ「要りません!ガチャ」(大笑い)

② この頃髪の毛が薄くなって‘バーコード’になってしまった。先日コンビニのレジの前を通ったら‘ピッ!’と鳴って、‘380円、有難うございました!’(大笑い!)

③ ・・・・・・・

こんな‘枕’とも‘本題’ともつかぬ話が盛りだくさん!

これは大いに笑えたし、‘活用’も出来る。

早速、カミサンに試してみたら、これまた‘大笑い!’

みなさんも是非‘YOUTUBE’で「落語 桂文珍 心中恋電脳」 をご覧あれ!

落語 桂文珍 心中恋電脳 - YouTube0001-2
https://www.youtube.com/watch?v=LPiWRiA6aV4













[2012/10/30 23:36] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘政党政治’は、本当に日本国民を幸せにするのか?(その1)
日本において‘政党政治’を評価するには、

① 政党の‘数’と‘体制’について、これまでの経験を踏まえた上での‘理論的’解明が必要である。

② その解明の条件パラメーターに‘国民性’を考慮せねばならない。

と思っている。

政党政治
http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kensei/kensei-tokubetsuH22.htm

政党政治が成功していると言われるのは、イギリスとアメリカである。この論理を‘国民性’の極めて異なる日本にそのまま適用してよいのだろうか?

政党政治を実現する際に、日本で一番問題になるのは、‘小泉チルドレン’が代表するように、‘実力の無い議員’が独裁者に操られる事による無責任状態の出現である。こうなれば、国民の民意が正確には反映されないという恐ろしさがある。

皆がそうは思っていても、正式には‘攻撃の対象’にはなり得ないという如何にもモドカシイ現象が生じてしまい、その後の手が打てないという地獄に嵌り込む。

①については、以下に示す通り、世界中の‘政治学者’が、政党政治のあり方について研究し、ある一定の方向が示される格好となったという。

これを日本で議論する場合には、やはり②の要素を入れて行かねば、日本人を本当に幸せにする‘政党政治’は産まれて来ないに違いない。そして、更に‘政党政治’は、日本において、本当に優れた政治体制なのであろうか?

‘ Wikipedia ’によって、‘政党政治’を簡単に把握すれば、次のような政党政治の‘類型’で議論があるという。

デュヴェルジェの政党制類型

サルトーリの政党制類型

レイプハルトの民主主義類型

例によって、引用文献が長いので、退屈な方は、端折って貰ってもよいが、赤文字のところくらいは、なぞって欲しい。たったそれだけで、‘にわか政治学者’になれるのだから・・・。国会議員でこんなことも知らない人が多分沢山いるに違いないから、以下の引用資料を読むだけで、あなたの政治学のレベルが国会議員のレベルを越すかもしれない?!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6
政党制

政党制の類型 [編集]

デュヴェルジェの政党制類型 [編集]

1970年代まで、政党制の類型と分析においてもっとも影響力があったのはモーリス・デュヴェルジェの研究であった。彼は政党制を一党制、二党制、多党制に三分し、その中で二党制を称揚した。デュヴェルジェは、政治対立は必ず二者の対立になるものであって、中間的な立場は不自然であるから、二党が対立することが良いと考えた。またデュヴェルジェは、小選挙区制が二党制を生み、比例代表制が多党制を生むという「デュヴェルジェの法則」を提唱した。
このような三分法にもとづく政党制理解では、一党制は独裁を、多党制は混乱をもたらすとみなされた。二党制のアメリカとイギリスがもっとも優れているとされた。
1970年代以後の研究は、二党制以外の政党制の汚点をぬぐい去り、デュヴェルジェの法則の規定力に疑問符を付けた。しかしそうした研究成果は広まらず、二党制の賞賛と小選挙区が二党制を生むという説は一般に広く信じられ、現実政治で影響力を持ち続けた。

サルトーリの政党制類型 [編集]

1970年代にジョヴァンニ・サルトーリが政党の数とイデオロギー的距離の2つを基準にした政党制類型を提唱し、政治学者に広く受け入れられた。サルトーリはまず政党制を競合的なものと非競合的なものに分け、競合的な政党制は数とイデオロギー的距離によって分割した。
サルトーリの分割法は、うまく機能する民主主義として二大政党制と穏健な多党制を取り出した。二大政党制に入れられたのは、イギリス系のアングロサクソン諸国である。穏健な多党制に入れられたのは、ドイツの他、ベネルクス三国やスカンディナヴィア三国などがある。これらの政党制は、イデオロギーの差異が小さいことが共通の特徴である。
またサルトーリは、民主主義ではあるが、政治的には非効率なものとして一党優位制と分極的多党制を指摘した。典型的な一党優位制としては、55年体制の日本、(ジャワハルラール・ネルー、インディラ・ガンディー下の)インドがある。分極的多党制に入れられたのは、サルトーリの母国イタリアの他には、ヴァイマル共和政、フランス第三共和政、フランス第四共和政などが上げられる。これらの政党制は、イデオロギーの差異が大きいことが共通の特徴である。
サルトーリの念頭にあったのは、デュベルジェに対する批判ではなく、その拡張である。デュベルジェは二党制をもって、もっとも効率的な民主主義であるという結論を出していたが、サルトーリはそれに付け加えて、穏健な多党制も効率的な民主主義であると結論づけた。しかしながら、サルトーリも結論から先に入って理論を組み立てた観があり、1970年代のスウェーデンはどう見ても社会民主労働党による一党優位制であるべき[1]だが、穏健な多党制に分類されているし、ベルギーも分極的多党制であるところを穏健な多党制としている。サルトーリがもっとも重視したのは、イデオロギーの差異だからである[2]。しかしながらイデオロギーを差異を計量化して提示したわけではなく、彼の主観で無理に「良い政治」を行っている国をイデオロギーの差異が小さいとしているのはほぼ間違い無いだろう。後に彼は分極的多党制でありながら、良い政治を行っている国としてフィンランドを認めている。[独自研究?]
色々な批判を受けながらも、この分類法は、21世紀初めの現在に至るまで、もっとも大きな影響力を持つものとして政治学者の間で広く受け入れられている。
非競合的政党制
一党制
ヘゲモニー政党制
競合的政党制
一党優位政党制
二大政党制
穏健な多党制
分極的多党制
原子化政党制 - 有力な政党が存在せず、多数の政党が乱立している政党制。

レイプハルトの民主主義類型 [編集]

デュベルジェ、サルトーリらにより、二大政党制が称揚されていた現状に対して、ある側面から批判したのが、アーレンド・レイプハルトである。彼の理論は、政党制を越えて広汎な政治システム全般を取り扱ったものだが、政党制が理論の核とも言える重要性を持ち、またそれが二大政党制の神話を批判する側面があるので、ここに簡単に記す。
まずレイプハルトは、政党制を有効議会政党数を手がかりに、2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制の4つに分類した。その上で2党制と2.5党制とを多数決型民主主義(ウェストミンスター型モデル)とし、優位政党のある多党制と優位政党のない多党制とを合意形成型民主主義(コンセンサス型モデル)とした。サルトーリの政党制との関連性は以下の通りである。
多数決型民主主義
二大政党制
合意形成型民主主義
一党優位政党制
穏健な多党制
分極的多党制
そしてレイプハルトは、多くの面において合意形成型民主主義が優れているという結論を、36か国に及ぶ実証研究の中から「証明」した。レイプハルトによれば、合意形成型民主主義はイギリスに代表される多数決型民主主義よりも、マイノリティ(女性や人種的マイノリティ)の代表性の度合いが高いことから、より「優しい」民主主義である一方、成長率・失業率その他の経済的業績は両者に有意な差がないことを主張している。
サルトーリは、このレイプハルトの合意形成型民主主義を「全くついていけない」と再反論している。


反論すれば、反論し返す方法論は、もう古臭い権力主義者の論争パターンで、‘喧嘩両成敗’と言ったところだろうか?どちらのレベルも一緒なのだろう。

日本の55年体制は、民主主義ではあるが、‘非効率’と指摘されている。今の日本の政治体制は、民主党のお陰で、それ以下になり下がった。

その理由は明らかで、‘非難しか出来なかった’ペテン師達には、実際問題の解決に力を発揮出来る国会議員は、たった一人もいなかったという事である。

何をしてよいのか判らないから、大臣になっても失敗ばかりで、現状は誰も大臣になりたがらない。今度の法務大臣の言動がそのことを象徴している。

野田さん自身も、今頃総理大臣なんかやらなきゃあ良かったと思っているに違いない。失敗を恐れてばかりいる大臣。失敗しない方法は唯一つ。何もしないことだ!

野田内閣総理大臣が、今この‘戦略’を取っている。

noda11.jpg
http://japaaaan.blog65.fc2.com/blog-entry-358.html

もう、日本は世界に先駆けて‘政党政治’を廃止すると宣言した方が良いのではないか?

(つづく)

次回は、日本における‘政党政治’の‘メリットとディメリット’と‘現状分析’について・・・。
















[2012/10/29 09:10] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
語源探し:(その5)‘20歳(はたち)’
‘20歳’と書いてある文字を読む場合、‘にじゅっさい’と読んでしまうと‘教養が無い’というより‘馬鹿!’とさえ言われかねない。

はたちのつどい
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_koho_houdou_2009_1.html

これは、日本人の中学生以上なら誰でも知っているが、外国人には特に難しいらしい。

私も、もう数十年以上前に英国人の英会話教師から聞かれた記憶がある。

その時どんな風に答えたかはハッキリとは覚えていないが、多分いい加減なことを言ってごまかしたに違いない。

それは、今の今まで‘はたち’と発音する‘正確な理由’を知らなかったからである!

ただし、調査の結果もこれぞという‘定説’は無いらしく、しっくりとは納得出来ていない。という事は、強引に自己主張する人を除けば、日本人がきちんとした理由を理解していないのではないかとさえ言える。

‘語源由来辞典'によれば、次のように解説されている。

二十歳(はたち) - 語源由来辞典0001-3
http://gogen-allguide.com/ha/hatachi.html
二十歳(はたち) - 語源由来辞典0001-2-2

上の引用文に出て来る‘助数詞’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A
9%E6%95%B0%E8%A9%9E

助数詞(じょすうし)は、数を表す語の後ろに付けてどのような事物の数量であるかを表す語要素である。数詞を作る接尾辞の一群。同音の序数詞との混同に注意。
日本語の助数詞は、卑弥呼の時代から使用されている。日本語のほか、中国語・韓国語など東アジアの多くの言語、またアメリカ大陸先住民の言語などにある。中国語などでは、例えば「个」は数の後につけて「一个人」(ひとりの人)とするほか、「那个人」(あの人)のように指示代名詞を伴ったり、単独で名詞と結び付いたりする場合も用いるので、類別詞あるいは量詞とも呼ばれる。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q137886128
chiebukuro.png


Q:「二十歳」を「はたち」と読みますが、なぜなんでしょうか?「はたち」の語源が知りたいです。

A1:「果て」は俗説のようです。

「はたち」は「はた」+「ち」に分けられ、「ち」は「ひとつ」の「つ」と同じで「個」にあたる助数詞。
「みそち」(三十個)「いほち」(五百個)という語例があるそうです。
三十歳以上の何十歳は「みそぢ」というように「~そぢ」といわれますが、その「ぢ」は「ち」と同じ。
何歳の歳を一歳から九歳までは「ひとつ」から「九つ」と「つ」であらわされるのと同じで「はたち」となる。

「はた」は「ふた」=2と関係があるだろうと普通いわれている。
「はた」+助数詞の例は「はたたり」二十人、「はたとせ」二十年があり、他の数詞と同じ。
二十日は「はつか」と特別に変化した形で、「か」は時間単位の「日」をあらわす数助詞の古語。

↓年齢以外も「二十日」「二十重(はたえ)」などあることを考えると、
仮にそういう字が実在したとしても、読みからの後づけだと思います。

http://homepage1.nifty.com/hankai/backnum8/mag458.htm
http://blogs.dion.ne.jp/spring/archives/445735.html


A2:「二十歳」は本来「ふたそじ」という別の言葉があります。
それを「はたち」と読ませるのは二十歳という年齢がもつ特別な意味から来ています。
「はたち」は元来「旗乳」と書きました。

それは戦国時代、青年武将たちは20歳になると
主君の紋所を染め抜いた旗を背中にくくりつけて
勇ましく戦場を駆けることができたことから来ているみたいです。

そして旗の竿に通す輪(乳)も年齢に合わせ、二十個ついていました。
現在、神社の幟り旗や大相撲力士の旗にその名残がありますが
二十歳は「命を賭けた決断のできる年齢」を意味する言葉であったみたいです。


A3:「個」を意味する、果てが語源のようです。両手両足の指をあわせて二十本というのが関係しているようです。



どうやら‘スッキリした’由来が私には理解出来ない。でも、こんなに皆が知っている言葉にも不可解なことがあるなんて・・・。

はたちの献血
http://www.jrc.or.jp/blood/news/l4/Vcms4_00001961.html

最近は、もう‘20歳’とは表記しなくなったのだろうか?














[2012/10/28 04:38] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ロングイヤービエン(その2)
前回の内容は、http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-301.html で・・・。

ロングイヤービエンは、‘白夜’とそして‘極夜’の町、考えようによっては‘世界一住みよい町’と言えるそうだ。

画像ー60 097-2
NHK・TV放映像をカメラで撮影

それは、‘なぜ、何故?

(つづく)

以下がそのつづき。(なお、以下の画像で注釈なしのものは、全てNHKTVの画像をカメラ撮影したもの)


画像ー60 107-2
この画像に示す通り、ここ‘ロングイヤービエン’(註:日本語では‘長年鼻炎’?)は、正に北極に近い!こんな極寒の地に何故町が存在するのか? 寒さだけでなく‘極夜’で約2ヶ月間も‘真っ暗’な場所なのに・・・。

画像ー60 079-2
こんなに深い雪の絶壁に囲まれている。ところで、‘絶壁’と‘断崖’の違いを御存知だろうか? そう、切り立った場所を‘断崖’は、上から見た場合で、‘絶壁’は、下から見た場合の表現。

画像ー60 080-2
この地では、勿論‘氷河’は沢山あるらしい。その氷河の洞窟である。これまで氷河の映像は沢山見たことはあるが、氷河の洞窟は初めてである。

画像ー60 083-2
これも氷河の洞窟の別の場所。その場所の環境条件次第で、‘氷の芸術’が鑑賞出来る!これもこの地を観光地にした財産の一つだという。

画像ー60 085-2
この地でのオーロラだが、TV画面をカメラで撮る際のシャッターチャンスが悪くて申し訳ない!以下に、NHKTV画面とは別の映像を3枚。いずれも‘ノルウエ―’でのオーロラ。

オーロラ・ノルウエ―Fredrik-Broms1_med
http://b.hatena.ne.jp/aurora_lummox/20101219#bookmark-27458307

オーロラ・ノルウエ―Lusine-Akopyan1
http://b.hatena.ne.jp/aurora_lummox/20101219#bookmark-27458307

オーロラ・ノルウエ―Thilo-Bubek1
http://b.hatena.ne.jp/aurora_lummox/20101219#bookmark-27458307

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日本のスーパーに当たるお店があり、必要な食材には不自由が無いらしい。

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これも美味しそう!

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この方が、レポーター、俳優の大高洋夫さん。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7
%E9%AB%98%E6%B4%8B%E5%A4%AB

大高 洋夫(おおたか ひろお、1959年6月27日 - )は、日本の俳優である。鴻上尚史主宰の劇団「第三舞台」の旗揚げメンバーとしても知られる。有限会社イイジマルーム所属。

1959年(昭和34年)生まれ。新潟県長岡市出身。新潟県立長岡大手高等学校を経て、早稲田大学社会科学部卒業。
大学入学後、演劇研究会に入会。3年生になった1981年(昭和56年)、鴻上を中心に岩谷真哉、名越寿昭らと共に劇団「第三舞台」を旗揚げ。卒業後、一時テレビ製作会社に勤務するがすぐに退社して復帰。看板俳優の1人として、劇団が活動封印する2001年まで、若手公演以外のほぼ全公演に出演している。
第三舞台での活動の傍ら、テレビや映画へも活躍の場を拡げ、特に80年代後半から90年代前半にかけては『奇妙な出来事』、『IQエンジン』、『子供、ほしいね』、『たほいや』などフジテレビの人気深夜番組に相次いで出演し、「フジ深夜番組の帝王」と呼ばれた。また劇団俳優座、劇団こまつ座などへも客演している。第三舞台が2011年までの活動封印を宣言して以降は、それらに加え鴻上のプロジェクト・KOKAMI@networkにも参加。個性的な外見を持っているわけではないが、存在感のある演技を見せる演技派俳優。また鴻上の盟友的存在で、彼の演出を最も理解できる俳優とも言われる。実際、鴻上の映画初監督作品『ジュリエット・ゲーム』にも出演し、第三舞台封印後の各種プロジェクトでも重要な役どころで起用されている。
2006年から2007年にかけ、テレビ朝日系スーパー戦隊シリーズ『轟轟戦隊ボウケンジャー』で敵の大幹部・大神官ガジャ役を演じた。不気味な悪役ながら、しばしばボケをかましたりする、味のあるキャラで、本人はとても気に入っていた様子。
2006年、サードステージからイイジマルームへ移籍した。


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このお店のオーナーさんから、大高さんにお声が掛かった。

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沢山の方が招待されたが、招待客はそれぞれ自分の出身国の自慢料理を持参する‘仕組み’になっているという。これもこのお店のオーナーさんが考えたパーティー形式なのだろう。実に上手い‘仕組み’である。食材は自分の店で買ってくれるし・・・。

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それぞれの自慢話や苦労話、身につまされる話も多いとか・・・。そりゃあそうだろう、ここまで来たのには色々な事情があってのこと。皆がそうだから、一挙にみんな仲良しになれる!このパーティーにはそんなメリットもあるという訳・・・。

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そして、皆が感じていることをこの人が代表して表現してくれた。オアシスとはぴったりの表現である。苦しいことを経験してきたからこそ‘オアシス’の有難さが見に沁みる!

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そこで、レポーターの大高さんが、集まった人達の出身国をそれぞれの人から聞いて地球儀に‘赤丸紙’を貼りつけ始めた。出席出来なかった人達の分も貼りつけると、44カ国にもなったという。

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画面にある通り、何故こんなに多くの国から、ここへやって来るの?

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答えが揮っている。でも、何故?

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別の日に、大高さんは、フィリピン料理を持参した家族のもとへお伺いをした。

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旦那は、ノルウエ―人らしい。二人は、旦那がフィリピンに仕事に来ている時に知り合ったという。

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国籍の違う二人がここで幸せになったという話を聞いて、ゲストの人達に質問が出た。人が集まって来る為には‘産業’があるはず。では一体ここの主産業は? 彼が答える「炭坑での石炭掘り!」、「ピンポーン!正解で~す」流石に元キャスター。

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黒いダイヤ!石炭です。

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これが坑内の写真。昔のもののようだが・・・。

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1920年当時、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ(各国)が、この利権に目を付け獲得に乗り出したという。今だったら、中国が乗り出すに違いない!

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当時の写真。

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遂に国際条約の締結という事で1件落着!日本もこの条約の加盟国だという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E
3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%
E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84

スヴァールバル条約は、1920年に締結された、スヴァールバル諸島の取り扱いに関する多国間の条約。
内容は、スヴァールバル諸島をノルウェーの統治下におくとする他、ノルウェーの法律は全ては適用されず、また、全ての加盟国は等しくこの島で経済活動を行う権利を有するとされ、さらに、スヴァールバル諸島を非武装地帯とすることも定めている。
原加盟国はオーストラリア、カナダ、デンマーク、フランス、インド、イタリア、日本、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、スウェーデン、イギリス、アメリカ。1924年にソ連(現ロシア)、1925年にドイツが加盟。現在の加盟国は40以上。



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いわゆる経済特区・無税のフリーゾーンという訳。

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大高さんは、その炭鉱へ・・・。

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規模の大きい炭鉱らしい。

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良質の石炭という事の様である。

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そこで大高さんが出会ったのが、‘クロアチア’出身のこの方、ミランさん。炭坑の人気者だそうだ。彼がそう言う理由は、そう戦争!

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クロアチアへ攻め入るロシア軍の戦車。

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彼等は命からがら国を逃げ出したのだ!

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ここへやって来てやっと家族の平和が・・。

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ミランさん一家の出身国、クロアチアは、ここ。

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ミランさんの長男は、こう漏らしている。

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子供の将来は?

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ここでは条約の決まりで、ノルウエ―の国籍は取れない。

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国籍は取れなくても・・。

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町全体の約2~3,000人が一家族だという。

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18歳になった長男にミランさんは氷上バイクをプレゼントした。大人になったプレゼントは、これに決まっているという。

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白夜の町。

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ゲストもみんな感心しきり・・・。

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「さすらいの食いしんぼうさんの旅行ブログ」の御好意により、北欧の写真がご覧戴けます!


http://4travel.jp/traveler/burari/album/10587976/blogparts/

オーロラを見たい方は、是非このロングイヤービエンで!






















[2012/10/27 03:00] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
誤報記事と‘詐欺師’
本日(2012年10月26日)、読売新聞は、一面左トップに以下の記事を掲載した。

読売新聞誤報記事-2

例の、iPS細胞に関する‘誤報事件’に関する読売新聞社内での‘処分’記事である。

社会は、個人の参加で成り立っている。

‘社会’の定義(?)を辞書で調べてみると次のように解説してある。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/101506/m0u/
しゃ‐かい〔‐クワイ〕【社会】
《明治初期、福地源一郎によるsocietyの訳語》
人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「―に奉仕する」「―参加」「―生活」「国際―」「縦―」
2 人々が生活している、現実の世の中。世間。「―に重きをなす」「―に適応する」「―に出る」
3 ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の―」「海外の日本人―」「上流―」
4 共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの―」
5 「社会科」の略。


上記引用文にあるように、‘society’を‘社会’という日本語にした‘福地源一郎’は、明治時代、福沢諭吉と並び称され‘天下の双幅’と言われたという。

また、「福澤の死の際に両者の人物が比較され、福地は才において優る。しかし意思の強固さでは福澤が数等上であると評された。」( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6
%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E
)というから相当な人物であった。

更に、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%B
A%90%E4%B8%80%E9%83%8E

福地は江戸城開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で「江湖新聞」を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件である。


正に、明治初期の‘ジャーナリスト’の第一人者である。

今回の‘誤報事件’は、日本最大の新聞社の一つである‘読売新聞’が、‘功を焦って’の大失敗劇で、‘ジャーナリストの面汚し’であり、‘ジャーナリストの官僚化’を臭わせる。

勿論、読売新聞社も‘法人’であり、‘会社’であるから、経済活動を最大目標の一つにせねばならないことは誰の目にも明白であるが、大袈裟に言えば、‘日本社会の思想’を左右しかねない‘大新聞社’である。

その大新聞社においてさえ、‘他社を出し抜くことにのみ’にエネルギーを注いで、‘国民・社会の為の道しるべ’となる思想形成の役割を放棄していることが最大の問題である。

「・・・、裏付け取材の甘さに弁明の余地はありません。・・・」とあるが、問題は、‘裏付け取材の甘さ’だけではない! 

昨年もノーベル賞候補に挙がり、今回の受賞という時期に起こった‘事件’である。

もう少し、この方面に詳しい‘スタッフ’を読売新聞が抱えていたら、‘森口詐欺師’の言動が‘おかしい or 怪しい’という判断が出来た筈である。

こういうスタッフを置いていないことにこそ‘最大の問題がある’のに、一面左トップ記事にはそんなことは一つも書かれていない!

実は、これこそ‘ジャーナリストとしての大失敗’であることに読売新聞はまだ気づいていないという、この記事こそが‘茶番劇’なのである!

言論界・思想界の第一人者たる自覚が不足しているとしか言いようがない。

現時点での‘政界における不様さ’を糾弾する‘資格の放棄’であり、‘自殺行為’であったとしか思われない。

早急に‘信頼出来る記事、安心して読める新聞’として‘蘇生される’ことを望みたい。

‘読売(讀賣)’新聞なんだから、‘読まれてなんぼ’でしょう。

讀賣新聞といえば、何時も‘ロゴ’が気になっていた。

下の画像を、よ~く見て欲しい! 何処か間違っていませんか?

読売新聞誤報記事0001-2

そう、讀賣‘賣’の字が‘明らかに’間違っているのである。

‘ロゴ’だからいいではないか!では済まされない。今からでも‘ロゴ’を新しくするくらいの‘勇気’が必要である。そうでなければ‘恥っさらし’である!

どなた様が‘揮毫’されたかは知らないが、その瞬間に‘訂正すべき’であった。

それも出来なかった人達が果たして、物事を正確に捕え、‘言論の自由’を叫ぶことが出来るのであろうか?

因みに、‘web’で検索して見たところ、まだ誰もこの‘間違い字’に気付いていないようである。

当の‘讀賣新聞社のHP’にも、そんな記事は当然無い!

<追記>

上記の通り書いた後、気になって‘再調査’をしたところ、ありました!HPに!

 

http://info.yomiuri.co.jp/contact/faq/faq13.html
いまの読売新聞の題字は、1946年7月1日付から使用されています。当時、有名な書家だった印南渓龍(いんなみ・けいりゅう)という人が書きました。隷書体という独特の文字が使われています。

 印南さんは3日間で100枚くらい書いて、その中から、今使われている1枚を選んだと言われています。

 よく見ると、「賣」という字の上の「士」が「十」という字になっていませんか。同じつくりの「讀」と比べてみて下さい。これは間違いではなく、隷書体では、こういう省略がよくあるそうです。



でも何となく‘逃げ口上’のように聞こえて仕方がない!

‘隷書体’にそう言う省略があるのではなく、‘書道の作品’の場合に‘字体変更’があるのであって‘省略’があるのではない!

讀賣の場合、隣に同じ文字(賣)があるので、‘字体’を変化させるのが「書道作品の‘暗黙の’決まり」である。

そのことは、当然作者の印南渓龍先生は、知っておられるからこそ、‘字体’を変えておられる(四と貝の大きさを変化)のだが、多分‘うっかりされて’一を外されたのだろう。

そして、ご本人も、新聞社側も誰も気づかないという‘不祥事’になったのではないか?

これこそ、無責任体制である。今ではもうこの字体は使わないから、それ程の問題にはならないかもしれないが。小学生が新聞を見て‘この字’を覚えていて、‘試験に不合格’となった場合、どう言い訳するのだろうか?

書道作品なら、‘芸術’だから、‘省略’しようと‘書き足し’しようと、それは自由である。

ことは、新聞のロゴである。

社会的重要さを見逃していた、と追及されても致し方あるまい!

‘弘法にも筆の誤り’の場合、弘法大師は‘筆を投げつけて’足りなかった‘点’を正したという。流石である!


















[2012/10/26 12:00] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
肩が‘凝る’という状態
肩が‘凝る’という‘現象’は、普通の大人は皆経験済みであるが、その原因については‘漠然と’は判っていても、その‘メカニズム’については、他人様に正確に説明出来る程の知識は無いのが普通である。

katakori
http://www.suji-suji.com/blog3/

昔、中学生の頃、体育の先生から教わったことだが、「背中を丸めていたら、リンパ管が圧迫されてリンパ液が流れにくくなる。その結果‘肩コリ’が発生する。解消マッサージは、したがって、リンパ液の流れをスムーズにさせればよい。肩のあたりのリンパ液は、下方から上方へ流れているので、親指を使ってリンパ液を下方から上方へ‘押し出すように’動かせば、たちどころに‘肩コリ’は解消する」と言うものだった。

これを約60年間信じて来た。果たして‘リンパ液と肩コリの因果関係’は本当だろうか?

そして、そもそも‘リンパ液’って何?

http://lymph-book.com/lymph_basic/index.html
リンパとは?

人間の体は、血液、リンパ液、組織液という体液からなる水分が、約60%から70%を占めています。 血液の中には「血漿(けっしょう)」という成分が含まれていますが、この血漿の一部が血管の外にしみ出して「組織液」となり、リンパ管に回収されて「リンパ液」となるしくみとなっています。


リンパ管とリンパ節

リンパ節のフィルターで菌を除去

リンパ管の色は透明で、細い管のようになっています。リンパ液とは、そのリンパ管の中を流れている無色透明の液体のことをいいます。 リンパ管は、体のさまざまな部分に張りめぐらされているので、リンパ液も体じゅうに行き渡っています。

リンパ管が組織液を回収する際に細菌や異物も同時に入ってきますが、リンパ管の通り道にある「リンパ節」がフィルターの役割を果たして最近等を除去してくれます。

そのリンパ節は、全身約800個の箇所にあり、特に密集しているのは、耳の下・わきの下・股関節あたりのそけい部です。

免疫機能があるリンパ節は、菌が体内に侵入してこないようにする働きがありますが、リンパ節は多数あるので、一回ではなく何度も繰り返しチェックを行い、異物や菌が心臓や脳に流れ込まないようにしています。
また、血液中に細菌などが侵入すると、「白血球」がはたらき、菌などを退治するように、組織液に病原菌などが侵入した場合には、リンパ管に回収されるしくみになっており、リンパ液と一緒にリンパ節へ運ばれていきます。そしてリンパ節のフィルターでリンパ液から菌が除去されます。


また、リンパの働きのひとつてして重要なものに「老廃物のろ過」という役割があります。リンパ液に入ってくる成分には、栄養素・細菌のほかにもアンモニア・尿酸・乳酸などの老廃物があり、リンパ液と一緒に体内を循環します。
リンパ液は、循環すると必ずリンパ節を通過するので、リンパ節のフィルターによって老廃物を取り除き、リンパ液はきれいにろ過されます。そしてリンパ液は再び静脈に入って心臓へ戻ります。

体を守る「リンパ球」

しかもリンパ節は、白血球の一種である「リンパ球」、さらに残骸などを片付けてくれる「マクロファージ」もつくっています。リンパ節は、細菌の力が強くなってくると、このリンパ球をたくさん作り出して対抗しようとします。病気のときにリンパ節が腫れあがることがありますが、これはリンパ球が体を守ろうとしているためです。

上記のように、リンパ管・リンパ液・リンパ節・リンパ球などのしくみは、体を細菌などから守り、不要な老廃物を外に排出してくれるので、リンパ液の循環が健康な体作りに非常に重要となってきます。きちんと循環すると、細胞は栄養をたくさん取れ、再生力が高まることによってアンチエイジングが実現されるのです。


上記の資料引用で‘リンパの働き’が大凡理解出来た!

それでは、長年の懸案事項である‘肩コリとリンパ’との関係も含めて‘リンパ活用術’とは?

http://homepage2.nifty.com/froms/lymph.htm
メイプル式 リンパマッサージ その1頭部

 細胞への栄養分は、動脈にて各細胞にいきわたり、帰りは静脈で心臓にもどります。
しかし、静脈で運びきれない一部の老廃物などはリンパ液で心臓へと向かいます。

 リンパ液は老廃物・毒素・死んだ細胞・脂肪・乳酸(疲れ)糖質などを体から排出するために
細胞から臓器へ運搬する役目があります。

 血液は心臓というポンプがあるので、30秒で体を一種する猛スピードですが、

 リンパにはポンプが無いために、、体の動きにあわせて、2秒で1cmほどの
ゆっくりした流れなのです。

そのため、ストレスや冷え、運動不足などがあるとすぐに滞ってします。

リンパ液が停滞するとこんな症状が

 ●体重はかわらないのに、顔が太ったみたい。
 ●2重あごが気になるわ
 ●頭部が重く感じる
 ●肩がこる
 ●顔のたるみやホウレイ線が気になる
 ●免疫力の低下(すぐ風邪を引く)

そのままにしておくと、老廃物や毒素もそのまま体に溜め込むことになります。


リンパマッサージリンパマッサージー2

リンパマッサージはエステでも人気
人気の理由は、すぐに目に見えて効果が現れるからです。

といって、エステティックのコマーシャルではございません。

リンパ系の基本さえしれば、自分で簡単に家できるんです!♪


誰にでもかんたん! リンパマッサージに挑戦してみましょう!


この説明で、よ~く理解出来た!

つまり、

「肩コリ等の‘凝り’は、同じ姿勢や圧迫があると‘血液の循環’が上手く行かないから、‘酸素や栄養素’がその場所に運び込まれなくなる。一方‘乳酸等の老廃物’は溜まる一方で、その老廃物は神経を通して脳を刺激し‘痛い’という警告を発する。これを‘凝り’として人間が感じる。リンパは‘老廃物’をリンパ節でろ過する機能を持っており、リンパ液の流れをスムーズに出来れば、‘老廃物が排出出来る’から肩コリは解消出来る」という訳だ。

勿論、静脈も同じような機能を当然発揮するのだが、静脈では取りきれない老廃物を‘血管から外に出て’回収するという‘特別任務’を持っているのが‘リンパ’である。

何だか「‘リンパ’とは、‘相棒’に出て来る‘特命係’の役目である!」 と言えそうだ。

aibou.jpg
http://kazina.seesaa.net/article/95541197.html

警視庁と言う組織(血管)から少しはみ出して(血管から滲み出て)捜査一課が出来ない仕事(静脈が取り損ねた老廃物を取りこむこと)をやってのけて、何事もなかったような顔をして、社会(身体)を正常に保つ、と言ったところだろうか?

中学校で教わった‘肩凝りリンパ説’は間違いではなかったようだ!

マッサージの図を見る限り、肩の付近に溜まった‘老廃物’をリンパ節へ向かって押し出してやるためには、下方から上方へ、が正解である。逆に情報から下方へのマッサージは、絶対に避けるべきである!と言う事も理解出来た!

これでスッキリした!

更に、次のような解説があるが、ここでは‘リンパ’については述べられていない。特に、老廃物は‘血行のみによって’運ばれるという印象を受けるが、リンパ管は、‘静脈と並列に’存在するので、血行を良くすれば、リンパ管の内部のリンパ液も流れが良くなるので、結果としては同じと言えば同じである。しかし、リンパの役目は‘特命係’であることをお忘れなく・・・!

http://kubi-kata-senaka.deniall.com/pain_in_stiff_neck/0903190826.html
「こり」のメカニズムを探る

きっかけは筋肉疲労


ここで、なぜ肩こりが起きるのか、そのメカニズムをみてみましょう。

全身の筋肉は、収縮と伸展を繰り返すことで身体を動かしています。

身体を動かさずにいると、収縮した筋肉はずっと緊張し続け、疲労してしまいます。

たとえば長時間パソコンに向かっているときなどは、ずっと同じ姿勢のまま動かずにいることが多いもの。

そのため、くびや肩周辺の筋肉が緊張状態に陥り、筋肉疲労を起こすわけです     

筋肉が疲労すると、筋肉を構成している筋線経という繊維質の組織が膨張し、筋肉の中を走る血管が圧迫されて血流が妨げられます。

本来、筋肉の中ではブドウ糖が燃焼され、エネルギーに変換されますが、血行が悪くなると酸素の供給が不十分になり、ブドウ糖が不完全燃焼を起こします。

この不完全燃焼のブドウ糖が、乳酸などの老廃物質に替わってしまい、筋肉や周辺の末梢神経を刺激するのです。

末梢神経が受けた刺激情報は、脊椎を伝わり大脳に達することで、「痛み」と認識されます。

この痛みに反応することで、周辺の筋肉はますます緊張し、さらに疲労していきます。

これが肩こりのメカニズムです。


乳酸などの老廃物質は、激しいスポーツをした後に起こる筋肉痛も引き起こすものです。

次は、その老廃物質を排出するために必要な血行について説明しましょう。


キーワードは「血行障害」


肩こりのメカニズムをみてみると、「血行障害」がおおいに関わっていることがわかります。

血行障害とは、血流が滞りがちになること。

筋肉の緊張状態に続く、血行障害が発生した部分には、必要な酸素が十分に供給されなくなり、老廃物質が生じます。

そこから生まれた老廃物質は血管を通って排出されますが、血行障害を起こしていると排出されにくくなります。 (註:ここに、‘リンパ’の役目も入れるべき!)

そのため、筋肉内には老廃物質がどんどん溜まってしまい、ますます肩こりがひどくなるわけです。


肩こりの解消法としてはさまざまな方法が流布していますが、まず血行障害を解消しなければ、根本的な解決にはならないのだと覚えておいてください。


体内を巡る主な血管には、動脈と静脈の2種類があります。

動脈は、心臓から送り出された血液を全身に運ぶための血管で、脈拍がポンプの役割を果たしているため、常に血流が促されています。

一方、静脈は全身を巡った血液を心臓に戻す血管で、動脈と異なり脈を打つことはありません。

血流が促されるのは、周囲の筋肉が収縮・弛緩を繰り返すときです。

つまり、じっとしたまま筋肉を動かさずにいると、静脈が血行障害に陥りやすくなるのです。

これが、肩こりを引き起こす血行障害のメカニズムです。

ですから、まずは肩周辺の筋肉を動かすこと、そしてマッサージをしたり温めたりして、血行を促進することが大切です。


とはいえ、血管は身体中を巡回しているものですから、血行障害は全身の問題でもあるのです。

肩周辺を動かすだけではなく、全身運動を心がけるとよいでしょう。


「肩こりサイクル」はエンドレス


「たがが肩こり」と放っておいたら、どんどんひどくなってしまった − そんな経験はありませんか?

そんな場合は、肩こり特有の悪循環にはまってしまったからと考えられます。

肩こりには、「放っておくとますますひどくなる」という厄介な特徴があるのです。


筋肉の緊張状態が続くと、血行障害が起こり、老廃物質が発生します。

その老廃物質が溜まって神経を刺激する、というのが肩こりのメカニズムです。

このとき、筋肉内は酸素不足になっており、必要なエネルギーを生産できない状態です。
そして、エネルギー不足に陥った筋肉は膨張し、ますます血管を圧迫して…、という悪循環が始まるわけです。


一方、発生した老廃物質は、血流が滞っているため排出されにくく、どんどん筋肉内に溜まってしまいます。

すると、ますます神経が刺激され、さらに肩こりが重くなっていきます。

また、刺激情報が脳に達し、痛みとして認識されると、その情報が神経を伝わって患部を刺激します。

すると、筋肉や血管などがそれに反応し、より一層緊張の度合いを高めてしまいます。

つまり肩こりは、一度発生すると自動的に「痛みのもと」が再生産される仕組みになっているのです。

この「肩こりサイクル」から抜け出すためには、なるべく初期段階で改善することが必要です。

「たがが肩こり」と放置していると、くびや肩、背中の筋肉はガチガチにこり固まり、やがて自力では治せないほど重度の痛みを抱えてしまうかもしれません。

厄介な肩こリサイクルに組み込まれないよう、早期解消を目指しましょう。


なお、肩コリに関する‘蘊蓄’が、Wikipedia に出ている。

夏目漱石による造語・肩こり
http://ameblo.jp/akaics/image-11197141074-11860707156.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82
%A9%E3%81%93%E3%82%8A

言語文化と「肩こり」 [編集]

「肩が凝る」という言葉は、夏目漱石による造語である[要出典]。それ以前はいわゆる肩こりの症状を特に指す用語は日本語になかった。肩こりという言葉が生まれたことで、多くの日本人が肩の筋肉が固くなる症状について自覚するようになったと言われる。
このような言語文化に特有の症状の例としてフランス以外ではまれにしか報告されない重い足(jambes lourdes)が世界的には有名である。フランスでは日本での肩こりと同じように重い足を治すための民間療法なども多く存在している。
英語では肩こりを「stiff neck」「tight shoulders」「shoulder discomfort」「shoulder stiffness」などと表現する。ただ文化的な要素が大きいため日本語の「肩こり」の語意を伝えるには多少説明が必要である。



肩こりの解消で豊かな老後を!

相棒(リンパ)さん、これからも応援しておりますので、ど~ぞ、よろしく!














[2012/10/25 11:50] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
秋の花粉症
‘花粉症’の苦しみは、罹った人でないと理解出来ない!

鼻とり
http://www6.ocn.ne.jp/~tera888/11kafunnsyou.html

春には、‘杉の花粉症’が有名だから、自分の症状も‘杉の花粉症’だと思っている。

ところが、この2,3年前から‘秋の花粉症’症状が目立って来て、昨日など普通のティッシュペーパーの箱二つ分を消費してもまだ治まらない位。

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集中力にも欠けるし、何か仕事をしようという気にもならない。これでは困ったもんである。

数年前に、‘抗ヒスタミン剤’を大量に処方してくれるお医者さんに出会って、‘気持ちが悪くなる位’気持ちよく薬が効くので、‘気持ちが悪くなって’薬を飲まなくなった。

余りに効き過ぎると‘薬害’や‘副作用’がやはり心配になる!

人間の心理状態とは、こんなものなのだろうか?

秋の花粉症で、色々な噂から気になっていたのは、次の4種類の植物である。

① アメリカアリタソウ

② セイタカアワダチソウ

③ ブタクサ

④ アキノキリンソウ


情報が混乱していて、人によって認識が違う!

Aさん「花粉症の元凶は、‘アメリカアリタソウ’で、これは‘ブタクサ’と同じもの」

Bさん「元凶は、‘ブタクサ’で、これは別名‘セイタカアワダチソウ’とも言う」

Cさん「いやいや、‘アキノキリンソウ’が最も怖い。これは、‘セイタカアワダチソウ’とも言う」

Dさん「みんな、違う種類で、一番の元凶は‘ブタクサ’だよ!」

さあ、こうなっては、誰が言うのが正しいのか?それとも皆間違っていて、‘正解は、CMの後’と言うのだろうか?

それでは、‘CM’を!

私にとっては、上述の通りの‘気持ちが悪くなる位’‘気持ちよくなる’薬は、‘セレスタミン’だった。


セレスタミンとは?

http://www.interq.or.jp/ox/dwm/se/se24/se2459100.html

セレスタミン

PR 人気の薬系書籍ベスト30 「くすり本NAVI 」

   概説    作用    特徴    注意    効能    用法    副作用

概説 アレルギー症状をおさえるお薬です。湿疹やじんま疹、アレルギー性鼻炎の治療に用います。

作用 抗ヒスタミン剤と副腎皮質ホルモン(ステロイド)の2成分が配合されています。湿疹やじんま疹のほか、花粉症で症状のひどいときにも使われます。
抗ヒスタミン剤:d-クロルフェニラミン..アレルギー反応を引き起こす体内物質「ヒスタミン」の作用をおさえます。
副腎皮質ホルモン:ベタメタゾン..炎症をおさえたり、アレルギー反応を予防します。
特徴 古くから使用されているお薬です。抗ヒスタミン作用と副腎皮質ホルモンによる抗炎症作用により、優れた効果が期待できます。

注意

【診察で】
持病やアレルギーのある人は医師に伝えておきましょう。
別に薬を飲んでいる場合は、医師に伝えておきましょう。

【注意する人】
病気によっては病状を悪化させるおそれがあります。緑内障の人や、前立腺肥大などで排尿の調子が悪い人は使用できません。

適さないケース..緑内障、前立腺肥大などで排尿障害のある人。
注意が必要なケース..感染症(有効な抗菌剤がない場合)、結核、肝炎ウイルスをもっている人、水痘(水ぼうそう)もしくは麻しん(はしか)の既往がなく また予防接種を受けていない人、胃潰瘍、精神の病気、単純疱疹性角膜炎、白内障、高血圧、電解質異常、血栓症のある人など。

【飲み合わせ・食べ合わせ】
安定剤など脳に働きかける薬と併用すると、作用が強くなりすぎたり、副作用がでやすくなります。服用中の薬は医師に伝えておいてください。
予防接種や皮内テストを受けるときは、この薬を飲んでいることを医師に伝えてください。
飲酒はできるだけ控えましょう。眠気やふらつきなど副作用がでやすくなります。

【使用にあたり】
指示された用法用量どおりに、正しくお飲みください。
長期服用中に、大けがをしたり、手術を予定している場合は、この薬を飲んでいることを担当医に伝えてください。
長期大量服用後に中止する場合は、少しずつ減量しなければなりません。急に中止すると、反動で具合が悪くなることがあります。

【食生活】
眠くなることがあります。車の運転や危険な作業は控えてください。

【その他】
基本的には、短期間の服用にとどめるお薬です。症状のひどい急性期にだけ用いるようにします。医師の診断によりますが、よくなってきたら、減量・中止するようにしましょう。よく効くからと、安易に漫然と続けることは好ましくありません。
効能 蕁麻疹(慢性例を除く)、湿疹・皮膚炎群の急性期及び急性増悪期、薬疹、アレルギー性鼻炎。

用法

【用法
錠剤..通常、成人は1回1~2錠を1日1~4回経口服用する。なお、年齢、症状により適宜増減する。ただし、本剤を漫然と使用するべきではない。
シロップ剤..通常、成人は1回5~10mLを1日1~4回経口服用する。小児は1回5mLを1日1~4回経口服用する。なお、年齢、症状により適宜増減する。ただし、本剤を漫然と使用するべきではない。

【注意】
本剤は副腎皮質ホルモンをプレドニゾロン換算で、錠剤として1錠中2.5mg、シロップ剤として1mL中0.5mg相当量を含有するので、症状改善後は漫然として使用することのないよう注意する。

※用法用量は症状により異なります。医師の指示を必ずお守りください。
副作用 人によっては、眠たくなったり、口やのどが乾燥することがあります。服用期間が1週間くらいまでなら、重い副作用はまずありません。少量であれば長期でもそれほど心配ないでしょう。

ただし、多めの量を長く飲み続けると、副腎皮質ホルモン特有の副作用がでやすくなります。たとえば、高血圧や高血糖、胃潰瘍、骨粗鬆症、感染症などです。もし、長期服用が必要な場合は、注意点や副作用について医師からよく説明を受けてください。

【重い副作用(長期大量連用)】 ..めったにないですが、初期症状等に念のため注意ください
重い感染症..発熱、のどの痛み、咳や痰、息苦しい、下痢、皮膚がピリピリ痛い、皮膚の発赤・水ぶくれ・できもの。
副腎の抑制..副腎の働きが弱くなる。このとき急に服薬を止めると、発熱、頭痛、吐き気、脱力感、筋肉痛などの症状が現われ、まれに血圧の低下を伴うショック症状を起こす。
骨粗鬆症..骨がもろくなる、背中や足腰の痛み、骨折。
胃潰瘍..胃痛、下血(黒いタール状の血液便)、吐血(コーヒー色のものを吐く)。
抑うつ..憂うつ、気分がひどく落ち込む、やる気がでない、悲観的、不安感、不眠。

【副作用(一般)】
眠気、だるい、ふらつき
口の渇き、目のかすみ、尿がでにくい。
いらいら感、不眠。

【副作用(長期大量連用)】
生理不順、にきび、毛深くなる、脱毛
むくみ、血圧上昇。
高血糖、高コレステロール、体重増加。
中心性肥満..顔が丸くなる、肩やおなかが太る。
眼圧亢進、筋力低下。


また、この‘セレスタミン’については、別の資料には次のような注意書きがある。

http://allabout.co.jp/r_health/healthdb/medicinedb
/detail/438903/index.htm

この薬を使ったあと気をつけていただくこと(副作用)

主な副作用として、眠気、不眠、頭重感、悪心・嘔吐、食欲不振、下痢、胃潰瘍、口渇、倦怠感、満月様顔貌、体重増加、発疹、光線過敏症などが報告されています。このような症状に気づいたら、担当の医師または薬剤師に相談してください。
まれに下記のような症状があらわれ、[ ]内に示した副作用の初期症状である可能性があります。
このような場合には、使用をやめて、すぐに医師の診療を受けてください。
全身がだるい、食欲がない、嘔吐[続発性副腎皮質機能不全、急性副腎不全]
妄想、ばらばらな内容の会話や行動、躁状態(上機嫌、興奮、多弁など)とうつ状態(憂うつ、意欲低下、食欲不振、不眠、全身倦怠感など)が交互に現れる[精神変調]
腰背部の痛み、脊椎(特に胸椎、腰椎)、手首のつけ根、股関節付近などの病的骨折を起こし易く、そのための痛み[骨粗鬆症]
筋肉のこわばり、痛み、筋力の低下など[ミオパシー]
のどの痛み、筋肉痛、寒気やふるえを伴って高熱が出る[無顆粒球症]
以上の副作用はすべてを記載したものではありません。上記以外でも気になる症状が出た場合は、医師または薬剤師に相談してください。


私の経験では、何度もいうようだが、上述した通り、この‘セレスタミン’は、実によ~く効く!

でもやはり上記2つの引用文献にある通り、‘副作用’があるから、出来るだけ避けた方がいいに決まっている。

これで、‘CMタイム’終了。

そこで、昔から気になっていた‘4つの疑わしき植物’について、この際徹底的(?)に調査をして、今後誤解の無きよう明確にしておきたい。


① アメリカアリタソウ

amerikaaritaso.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/yaso/tanken/aki/yas_amerikaaritaso.htm

http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-america-aritasou_large.html
アメリカアリタソウ(亜米利加有田草)は、南米から帰化したアカザ科アリタソウ属の一年草です。 以前は全草から取れるヘノポジ油が回虫駆除用の薬草とされましたが、現在では強い毒作用があるとされ、用いられなくなり、野草として扱われています。

一般名:アメリカアリタソウ(亜米利加有田草)
学名:Chenopodium ambrosioides L. var. anthelminthicum A. Gray
別名:Wormseed goosefoot
分類名:アカザ科アリタソウ属
原産地:南米
草丈:30~90cm 花期:7~10月



② セイタカアワダチソウ

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3
%82%BF%E3%82%AB%E3%82%A2%E3%83%AF%E
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セイタカアワダチソウ(背高泡立草、学名:Solidago canadensis var. scabra または Solidago altissima)は、キク科アキノキリンソウ属の多年草である。日本では代萩とも呼ばれ、次節の概要にある通り、切り花用の観賞植物としてハギ(萩)の代用として用いられ、同様に茎を乾燥したものは萩の代用としてすだれなどの材料に利用される。

概要 [編集]

北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。河原や空き地などに群生し、高さは1 - 2.5m、良く肥えた土地では3.5 - 4.5m程度にもなる[1]。茎は、下の方ではほとんど枝分かれがなく、先の方で花を付ける枝を多数出す。花期は秋で、濃黄色の小さな花を多く付ける。種子だけでなく地下茎でも増える。アレロパシーを有する(後述)。
日本における分布状況は北海道の一部から沖縄までとなっており[2][3]、一部調査で北限の変化が確認されたことから、繁殖域が北上している可能性がある[2]。
同時期(次節参照)に増えた帰化植物のブタクサと時折間違われ、花粉症の原因だと言われるが、別の植物である。



③ ブタクサ

ブタクサ(キク科)
http://satowa-jibika.jp/20120806/203831/%E
3%83%96%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B5%EF%BC%8
8%E3%82%AD%E3%82%AF%E7%A7%91%EF%BC%89-2


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B5
ブタクサ(豚草、学名:Ambrosia artemisiifolia)はキク科ブタクサ属の一年草。

分布 [編集]

北アメリカ原産[1]。
南アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアの広い範囲に外来種として移入分布している[2]。日本では明治初期に渡来した帰化植物で、全国の道端や河原などに分布する。
特徴 [編集]

雌雄同株の風媒花。高さは1mほど。開花時期は7〜10月頃。雄花は、約2〜3mmの黄色い小花が複数集まった房が細長く連なり、その下に雌花が数個咲く。葉は細く切れ込む。
同属のオオブタクサ A. trifida は、草丈がブタクサより高く2〜4mほどになる。葉は3つに切れ込み、葉の形からクワモドキとも呼ばれる。
ともに花粉症の原因として知られる。日本国内ではスギ、ヒノキに次ぐ患者数が存在するとされ、秋の花粉症では代表的なアレルゲンである。アメリカでは全人口の5~15%がブタクサ花粉症との統計がある
外来生物法によって要注意外来生物に指定されている。



④ アキノキリンソウ

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%8
2%AD%E3%83%8E%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%
E3%82%BD%E3%82%A6%E5%B1%9E

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%
82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A6%E5%B1%9E

アキノキリンソウ属(アキノキリンソウぞく、秋の麒麟草属、学名:Solidago)は、キク科の属の1つである。黄色い小さな花を多数つけるのが特徴。
属名は、「くっつける」または「欠けたところを修復する」という意味で、ヨーロッパでアキノキリンソウ S. virgaurea が、薬草として用いられていたことによる。

概要 [編集]

北アメリカ大陸を中心に、ヨーロッパ・北アフリカ・中近東・アジアなどに分布しており、一部南米にも分布する種がある。日本にも、アキノキリンソウやミヤマアキノキリンソウなどの自生種がある。100種あまりが知られているが、一部を別属とする分類法もある。
ほとんどすべてが多年草で、茎は直立し、草丈は数十センチから3m以上になるものまである。葉は細く、前縁または鋸歯がある。開花期は夏から晩秋で、小さな黄色の頭状花を穂状または総状に多数つける。外側には1列の舌状花をならべる。
利用 [編集]

園芸 [編集]
欧米ではセイタカアワダチソウなどいくつかの種が花壇の背景用の草花として栽培されている。日本でも、アワダチソウは明治期に、セイタカアワダチソウも少し遅れて切り花用の草花として導入されたものであった。あまりにも性質が丈夫で、しかも花粉症などアレルギー疾患の原因(アレルゲン)とされ、植物のなかでも悪玉の代表のように見られているが、花の色は鮮やかな黄色で花穂も立派であり、園芸種として栽培されていたのもうなずける。
日本ではアキノキリンソウが秋の野草として親しまれたが、現在では見ることが少なくなり、セイタカアワダチソウに取って代わられた格好となっている。
薬用 [編集]
S. virgaureaは、ヨーロッパの伝統医学で、皮膚病やインフルエンザ、咳、腎臓結石の薬として用いられていた。


また、別の文献では、次のように解説されている。

http://soyokaze-jp.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-9079.html
アキノキリンソウは古来から日本の草原や明るい森林に自生している植物で、花はセイタカアワダチソウよりも大きいのですが、全体の大きさはセイタカアワダチソウのようには大きくならず、可憐で美しい植物です。 もちろん花粉症の原因にはなりません。 そもそもセイタカアワダチソウも含め、花粉が虫の体にくっついて運ばれる虫媒花の花粉が空気中に漂い、花粉症の原因となることなど、ありえないことなのです。



<結論>

以上の文献検索から、‘秋の花粉症’を惹き起こす植物は、上記4種類のの中では、

      ‘ブタクサ’のみ

という結論に達した。

従って、上記Aさん、Bさん、Cさんの意見は、間違っていて、正解は、Dさんでした!




















[2012/10/24 22:11] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ひこばえ(蘖/孫生え)のその後とセイタカアワダチソウ
ひこばえ(蘖/孫生え)については、弊ブログ(2012年9月20日・http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-276.html )でも紹介した。

そのブログでは、「この‘ひこばえ(蘖/孫生え)’現象を、もっと上手く活用すれば、‘同じ稲の株’から、2回の収穫が出来はしないか?」と提案していた。そして、その後の‘成長’に期待していたのだった。
9月19日に撮った写真が、以下に示す写真である。

ひこばえー1
2012年09月19日の田圃。8月の終わりに稲刈りを終えて、その後に急成長した‘ひこばえ’

ひこばえー2
もう‘実’が詰まっている。

およそ一ヶ月経過したので、これらに対応する写真を今日(2012年10月23日)撮影してきた。残念ながら、この田んぼの所有者には、‘「ひこばえで収穫をする」という意識が無い’と見えて、無残にも‘耕されて’いた。

画像ー62 018-2
残念がら、その気がないと見えて、耕運機で耕されており期待していた‘ひこばえ’の収穫は出来なくなった。

画像ー62 020-2
それでも、‘生き残った’株の部分を見てみたのが、この写真である。

画像ー62 021-2
望遠で撮ってみると・・・、

画像ー62 022-2
更に拡大して見ると、こんな風に‘稲穂’は重みを増したと見えて垂れ下がっており、十分に‘実’が詰まっているように思われる。

勿論、‘ひこばえ’になる前の第一次収穫と同じ程度とは言えまいが、9月初旬から10月下旬の約2ヶ月間で、もう一度6~7割の収穫があるように思えるのに、なぜもっと積極的に‘ひこばえ’を活用しないのであろうか?

今までやったことが無いから、が理由ならつまらない。

何も、主食の‘ご飯’用に使わなくても、せんべい用でも家畜の餌用でもいいように思うのだが・・・。

そんな訳で、残念ながら‘ひこばえ’の収穫は無理と言う結論と相成ってしまった。



さて、急に季節が‘秋’に向けてまっしぐらの様子となり、朝夕の冷え込みがきつくなって来た。もう、毛布が必要である。

散歩道には、今や盛りと‘セイタカアワダチソウ’が辺りを席巻している!

画像ー62 004-2
玄関を出て直ぐの通りのまだ建築されていない住宅地の空き地にセイタカアワダチソウが鮮やかな彩で・・・。

画像ー62 006-2
土手にも・・。

画像ー62 007-2
この川の名前は、赤目川。昔は‘赤目’がいたのだろうか?

akame1.jpg
http://www1.odn.ne.jp/~mnakamor/shimanto_river.html
この写真の赤目も‘四万十川’で捕れたものらしい。私も高知市で見たことがある。それも1mを越す堂々としたものであった。何でも、この赤目は警戒心が強くそして獰猛な魚。人間が近付くと‘身体の色’が変わる。ご参考までに・・・。

画像ー62 010-2
この散歩道の土手も、今やセイタカアワダチソウが真っ盛りで秋が深まりつつあることが判る。

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セイタカアワダチソウは、ススキとのコラボレーションで一層美しさが増す。

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通りに面したこの辺もセイタカアワダチソウで一杯!

画像ー62 017-2
この画像の中央・上部に見える田圃地帯が、冒頭に紹介した‘ひこばえ’が良く育っていた場所である。

画像ー62 028-2
2012年10月23日は、日本国中が‘嵐’に巻き込まれて風雨は強いし、ここ千葉県・茂原市&白子町でも先程まで雷様はゴロゴロと唸って停電にはなるしで大変だった。その雨上がりの束の間を利用して散歩をされている方達がおられる。

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白サギも夕食の時間だと思われる。

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ここはまた、綺麗に耕されていて、春先の田植えの時期と見紛うばかりである。今からこの田圃で何が始まるのだろうか?

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此方の‘ひこばえ’ももう無理である。

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この土手もセイタカアワダチソウで一杯!

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このセイタカアワダチソウは、‘いらっしゃ~い!’と言っているようで‘お辞儀か手招き’のようにも見える。

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此方は、上へ上へと背伸びしている。名前通りに背が高くなりたいようで・・・。

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そんなこんなで、いつもの散歩コースを一回りしてきた。家へ帰って来て玄関先の花を見てみると、何だか花も赤みが増した感じ。

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このベゴニアも普段より赤く見える。

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これは元々赤いが・・。

10月もあと一週間を残すのみとなった。と言う事は今年もあと70日を切ったという事になる。

野田内閣の不手際で、日本国中が揺れている!

何も判らない‘政治屋’が、政権を取ってみて‘どうしていいのか判らなく’ただ‘ウロウロ’するばかり。
解散も仕方も判らない!厚顔無恥の典型である。

上述の通り、今年ももう本当に70日を切っている。地震・津波被災地も沖縄も泣いている!そして、交付税の支給を待つ地方もみんな泣いている!

さあ、‘月給ドロボー’と言われる前に、早く何とか手を打って!!
















[2012/10/23 22:38] | 旅行・散策 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
語源探し:(その4)‘風呂’
普段この言葉‘風呂’も普通の家庭であれば、ほとんど毎日聞かれる言葉であるが、何で‘風(かぜ)’と‘呂’なのだろうか?

これは、小学校の時、漢字を習った際に一寸だけ‘疑問’に思っていたが、その後何の‘ためらい’もなく使っていてそんなに疑問視もしていなかったが、考えてみるとどうにも判らない!

風呂
http://oishiya.co.jp/bath/
最も憧れる風呂の風景:大きな湯船と沢山の洗い場、そして外の景色

http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/72559.html
「風呂」の語源 は?2011年2月15日(火)
寒い日こそお風呂!でも、そもそもなぜ「風呂」というのでしょうか。日本の風呂の起源は、自然の石穴や窯に蒸気を充満させた蒸し風呂形式のものでした。そのため、穴蔵や岩屋のことをいう「室(むろ)」が「ふろ」に変化したと言語学者の柳田国男はいいます。また、茶道で使われる「風炉」という道具があります。もともと、火を入れて暖をとったり、湯を沸かしたりするもので、沸かした湯の蒸気を利用した蒸し風呂もあったことから、「風炉」と書かれたのがのちに「風呂」になったともいわれています。奈良時代、主たる寺院には、大きな浴室、湯屋が備えてあり、僧侶が仏に仕えるため、垢を落として清浄にする場所として使われていました。それを、『施浴(せよく)』といって、寺に訪れる貧しい人や病人などにも開放したことから、人々の間に風呂の習慣が根付いていったということです。さらに、江戸時代になると、井戸を掘る技術が発達したために、蒸し風呂ではなく沸かした湯につかる風呂の形態に変わっていきました。町には銭湯も増え、こうして、日本人は無類の風呂好きとなったということです。ところで、ゆでた大根に味噌をつけた料理を『風呂吹き大根』と呼びますが、この由来について、江戸後期の随筆に面白いことが書かれていました。風呂に入った者の垢をとる商売人がいて、体に息を吹きかけるとうるおいが出てよく垢がとれたことから、垢とりを『風呂吹き』と呼んだそうです。同じように、熱い大根をほおばるときにもふぅふぅと息を吹きかけますよね。そこで、『風呂吹き大根』と呼ぶようになったとのこと。・・・食べるときにはあまり想像したくないでしょうか。


色々調べて行くうちに、民俗学者の‘柳田國男’氏が、この‘風呂’について考察していることをほとんどの人達が指摘していて、孫引き状態である。

皆自分の責任で‘風呂’の考察をせずに、誰かがこう言っている、で済ませている。勿論このブログでもそうだが・・・。その背景は、① 風呂の意味が判ったって何の意義がある? ② 学問的にはもっと面白いテーマがある。
といった理由なのだろうか?お金にもならないし・・・。

したがって、100年近くも前の‘柳田國男’氏の説(大正4年・1915年)を以って風呂語源談義は終了と言う事の様である。

http://www.konishi-ph.jp/blog.php?ID=201
延寿通信第98号 2011年10月 [延寿通信]

柳田國男の「風呂の起源」

風呂の発生、起源については本欄にて、いろいろな立場から取り上げてきましたが、これまでの理論とは一味違うのが、民俗学者柳田國男の「風呂の起源」です。今から100年近く前に発表されました。残念ながら、あまり深く突っ込んでなくて、結論がややあいまいなのですが、民俗学の立場からみた「風呂の起源」ということで紹介します。
 柳田國男(1875-1962年)は日本の民俗学の生みの親として、民俗学に基づいた沢山の論文、随筆を発表しております。東北地方寒村の民話を集めた『遠野物語』は柳田國男の代表作で、今日も広く読まれております。柳田は大学卒業後、農商務省に勤め、官僚の職にありながら、民俗資料を集めて日本の各地を調査しました。官僚を辞めたのち、朝日新聞社に入社して本格的に民俗学分野を固めて、その一方では民俗学普及に努め、研究成果を発表しました。
  民俗学というのは、風俗や習慣の言い伝えほか、有形・無形の資料を用いて日常の暮らしの歴史を明らかにして、現在の生活文化に反映させてゆく学問です。今、流行の文化人類学に近い学問領域です。
 このような立場で柳田は日本各地の風呂にかかわる民話、言い伝えを集めて、入浴・風呂の起源を論じているのです。民俗学という学問を理解するうえでも、参考になるところが多いのではないかと思います。

1.風呂(ふろ)という言葉の語源

 柳田國男は冒頭に、風呂という言葉の解釈にこだわります。語源というか、風呂と言う言葉が、どこから、どのように発生したか、ということです。
 明治の中頃、わが国で最初に出来た近代的な国語辞書『言海』の編者大槻文彦は、風呂は茶の湯の風炉(ふうろ、ふろともいう:釜をのせて炭火で湯を沸かす小型の炉)からきているという解釈をしておりますが、この説明を柳田は否定しています。
 風呂の構造上、および語句の点では、この風炉というのは風呂に近いので理解しやすいのですが、中世の上層階級の高級な茶の湯の道具は風呂には似つかわしくないと柳田は判断したのでしょう。
 茶の湯説でゆくと、風呂という言葉が中世に生まれたということになりますが、古代から続いている温泉や河川で浸かる行水的入浴、あるいは仏教の浴堂は長い歴史がありますので、時代の面でずれを生じ、十分の説明が出来ません。
 なぜ入浴することを風呂に入るというのでしょうか。また、入浴する場所を風呂場ともいいます。柳田は 風呂(フロ)は森と林にかかわりがあり、森が風をさえぎる暖かい場所ということから、きているのではないかということを一つの説としてあげています。森や林のことを、中国地方はじめ、紀州ではフロとよんでいるところがあるそうです。日本の各地で神の社(やしろ)もフロという地域があり、これらも、やはり風呂につながるのではないかというのが柳田説の一部です。
 一方、山奥に風呂という地名がところどころにありますが、これは、もともと寺の浴場があった場所や、温泉があった所につなげることはできないので、このことは直接、風呂の語源には結びつかない、といっております。



それにしても‘風呂’は、ストレスを忘れさせてくれる最大の癒し空間、現代人には必須の場所・設備であることに間違いない! お風呂に,乾ぱ~い!

kazokuhuro
http://dom.jtb.co.jp/yado/PhotoList.aspx?st=1558002

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http://dom.jtb.co.jp/yado/PhotoList.aspx?st=1558002

そして、関連用語の‘風呂敷’。今ではその名前さえ知らない‘新々人類’が多いと聞く。何故‘風呂敷’?

風呂敷
http://matome.naver.jp/odai/2134681735156948301/2134682411057808703


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7
風呂敷の概要 [編集]

起源は定かではないが正倉院の所蔵物にそれらしきものがある。古くは衣包(ころもつつみ)、平包(ひらつつみ)と呼ばれていた。それが風呂敷と呼ばれるようになったのは室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにしたなどの説があるが明確ではない。言葉自体の記録としては、駿府徳川家形見分帳の記載が最初のものとされる。


風呂敷の寿命も‘風前の灯’なのだろうか?

(つづく)














[2012/10/22 22:56] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
語源探し:(その3)‘屋根’
普段何気なく使っている言葉、よ~く考えてみると現在のものに相応しくないというかその言葉からは想像しにくい物が沢山ある。

例えば、電車に乗った時に「この電車は、00駅を出る時に少々揺れますので、‘つり革’や手摺にお掴まり下さい」と言うアナンウスを聞いたことがあると思う。

この‘つり革’って何?と元来の‘つり革’を知らない平成生まれの‘新々人類’は思うに違いない。何処にも‘革’なんて使ってないからだ。

同じく‘電車’関連で言うなら‘網棚’だって、何処にも‘網’はない!

‘銭湯’だってそうだ。

こんな風に言葉は、社会の文化や風習の変化や技術の進歩で‘様変わり’をする。

さて、今日の話題は‘屋根’である。

画像ー61 115-2

‘屋’は誰でも理解出来るが、‘根’が、どうにも理解出来ない。

‘ね(根)’を辞書(大辞林)で引いてみると、

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%81%A
D%E3%80%90%E6%A0%B9%E3%80%91&stype=1&dtype=0

ね【根】

1 維管束植物の基本器官の一。普通は地中にあって、植物体を支え、水・養分を吸収する。先端に根冠に包まれた生長点があり、根毛をもつ。「植木の―がつく」「竹が―を張る」

2 立ったり生えたりしているものの下の部分。「歯の―」「髷(まげ)の―」

3 物事の基礎・土台。根本。「息の―を止める」「思想の―」

4 物事の起こるもと。根本原因。「悪の―を絶つ」「両国の対立の―は深い」

5 はれ物などの中心になっている堅い部分。「できものの―」「魚の目の―」

6 本来の性質。生まれつきの性質。「―は心のやさしい人だ」

7 釣りで、海底にある岩礁帯。「―魚」

8 名詞の下に付いて、複合語をつくる。

地に根ざしている、立っている意を表す。「垣―」「岩―」

語調を整えるために用いる。「杵(き)―」「島―」


とある。多分、‘屋根’の‘根’は、上記引用文の8にあたり、‘屋が地に根ざして立っている’と言う事になる。

えっ! どう言う事?!

以下の解説で‘謎’が解ける!!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1315522688

Q:語源についての質問です。 屋根は、なぜ天井に近いのに「根」がつくんですか?
lawliet28さん

A:ベストアンサーに選ばれた回答
senyo77jpさん

竪穴式住居のように、古代の家は屋根と壁との区別が明確になく、その全体が地面に接していました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E...

そのことから、もともと「屋根」という言葉は、家を意味する「屋」に全体を支えているという意味の「根」が付き、家全体のことを表していたのではないでしょうか。

のちに柱や壁が独立して屋根が地面から離れた構造になっても、その呼び名が残ったのではと考えられます。



そうか、‘屋根’の始まりは、‘家’という建築物の始まりの‘竪穴住居’を考えればいいという訳である!

tateanakozo.jpg
http://kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp/main/terms/index.html#ta

そして、‘つり革’が革でなくなっても‘つり革’と言うが如し、式で・・・。納得!!

(つづく)













[2012/10/21 22:12] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
語源探し:(その2)‘すき焼き’
日本語を普通に使っていて、そんなに気がつかないが、‘すき焼き’という言葉は、よ~く考えてみると何故‘すき’がつくのだろうか?

すき焼き
http://www.kobebeef.co.jp/shop/suki.html

鉄の鍋が何処にでもあった訳ではない時代に‘鋤’の上でお肉を炒めて食することが流行ったから、それで‘鋤焼き’と言うようになった、とたしか教わったことがある。小学校の時だったから、もう60年も以上前のことである。

鋤、鍬、鎌-thumb-autox340-560 (1)
http://www.rentall-oyama.com/item/2010/12/post-388.html
鋤、鍬、鎌

本当だろうか?

改めて、web で調べてみたい。Wikipedia では以下のように解説してある。

先ずは、‘すき焼き’の‘定義(?)’から・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81
%99%E3%81%8D%E7%84%BC%E3%81%8D

すき焼き鋤焼、すきやき)は、薄くスライスした食肉や他の食材を浅い鉄鍋で焼いてたり煮たりして調理する日本の料理である。調味料は醤油、砂糖が多用される。
一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、葱、春菊、椎茸、焼き豆腐、シラタキなどの具材(ザクと呼ぶ)が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本である。溶いた生の鶏卵をからめて食べることもある。しゃぶしゃぶの薄切り肉は熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚いことが多い。
合わせ調味料の割下を用いた甘辛い味付けの料理の総称として「すき焼き風」という呼称も用いられる。


上記の通り、‘鋤’と言う文字が使われている。60年以上も前の情報もそんなに的外れの情報ではなかったらしい。さらに、下記引用文にきちんと説明がしてある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9
9%E3%81%8D%E7%84%BC%E3%81%8D

歴史 [編集]

鋤焼

日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していた。古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており[1]、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理である。さらに享和元年(1801年)の料理書『料理早指南』では、「鋤やき」は「鋤のうへに右の鳥類をやく也、いろかはるほどにてしょくしてよし」と記述されている。また、文化元年(1804年)の『料理談合集』や文政12年(1829年)の『鯨肉調味方』にも具体的な記述が見られ[1]、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理であった[2]。他にも、すき身の肉を使うことから「すき焼き」と呼ばれるようになったという説もある。この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられている[1][3]。

すき焼き

安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の外国人たちから食肉文化も入ってきた。日本に肉牛畜産の産業がなかったため、当初は中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカから食用牛を仕入れていた。しかし居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加し、のちに神戸の家畜商が横浜へ食用牛を搬送するようになった[4]。このような状況をうけて、幕府は元治元年(1864年)居留地に指定されていた海岸通 (横浜市)に屠牛場の開設を認めた。
1869年神戸に、牛肉すき焼き店「月下亭」が開店した。
関西では先に焼いた牛肉を砂糖・醤油で調味する「すき焼き」が行われており、関東大震災で牛鍋屋が被害を受け多くの店が閉店し、震災後に関西から進出したすき焼屋が牛鍋をアレンジして関東風すき焼きを作り上げ、「すき焼き」という呼称も広がっていった[3][5]。

牛鍋

ぶつ切り牛肉を使った牛鍋
屠場開設から二年遡った文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた伊勢熊(いせくま)が一軒の店を二つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したのが最初の事例とされる[6][1]。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。1867年江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた中川も牛鍋屋を開業した[3]。明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」を創業し、当時主流の味噌煮込み風牛鍋であった[7]。同年、横浜につづき東京の芝にも外国人向け屠牛場ができると牛鍋屋の流行は飛び火し、以後牛食は文明開化の象徴となった[8]。
幕末から明治時代初期の牛肉は質が低く固くて獣臭さが目立ち、それらを緩和するため関東の牛鍋はぼたん鍋や紅葉鍋に類似した内容で、具材は牛肉の薄切り肉を使うことが定着しておらず、角切り肉を使う場合もあり、野菜はネギのみで味噌仕立ての味付けで煮る・炒め煮にする調理法が主流で[6][3][2][5]、ネギを五分の長さに切ったことから明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともあった[9]。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋もこうした味噌鍋が主流であった。しかし、肉質が良くなるにつれて、関東の味付けは味噌から醤油と砂糖などを調合したタレ(割下)が主流になっていった[3][2]。
仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』(1871年)[10]で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していた[11]。1877年の東京における牛鍋屋は550軒を超えるほどであった[3]。
1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらを沢山の割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となった[9][8]。

坂本九のSUKIYAKI (上を向いて歩こう) [編集]

アメリカ合衆国では、1963年に坂本九の曲『SUKIYAKI(原題・上を向いて歩こう)』が大ヒットした。曲名の由来はすき焼きが日本を代表する料理であり、またレコード会社の社長が日本で食べた「スキヤキ」が旨かったからであるとされる。同曲は、1963年6月15日にはビルボードおよびキャッシュボックスの第1位にランキングされた。日本人の歌がアメリカでヒットチャートのNo.1になったのは、現時点でこの曲だけである。


松茸すき焼き
まだ味わったことが無いが、‘松茸すき焼き’、堪えられんでしょうね!

(つづく)


















[2012/10/20 22:02] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
語源探し:(その1)‘刺身’
日本人は、‘刺身’が大好きである。

刺身ー1
http://hitosara.com/0005030024/photo/0005030024F2.html

かつて、坂本九が歌って全米でも大ヒットした‘上を向いて歩こう’が‘すき焼き’という名前に変えられた時に思ったものである。

そう変えた人は、日本人は‘すき焼き’が一番の好物と誤解をしている! 肉が嫌いな日本人は沢山いるが、‘刺身’を喰えない日本人はそういるものではない。

彼等にしてみれば、刺身を喰えない人が周りには多いので、刺身とは思わなかったのだろう。

どうせ‘曲名を変えよう’とするなら‘お刺身’とすべきであった、と思ったことがあった。

刺身ー2
http://dt125kazuo.blog22.fc2.com/blog-entry-496.html

さて、ところで‘刺身’は何故‘刺身’というのだろうか?

早速、web で調べてみた。Wipedia には、次のように解説してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%BA%AB
刺身の登場 [編集]

『鈴鹿家記』応永6年(1399年)6月10日の記事に「指身 鯉イリ酒ワサビ」とあるのが刺身の文献上の初出である。醤油が普及する以前は、生姜酢や辛子酢、煎り酒(削り節、梅干、酒、水、溜まりを合わせて煮詰めたもの)など、なますで用いられる調味料がそのまま用いられた。「切り身」ではなく「刺身」と呼ばれるようになった由来は、切り身にしてしまうと魚の種類が分からなくなるので、その魚の「尾鰭」を切り身に刺して示したことからであるという。一説には、「切る」を忌詞(いみことば)として避けて「刺す」を使ったためともいわれる。いずれにせよ、ほどなくして刺身は食材を薄く切って盛り付け、食べる直前に調味料を付けて食べる料理として認識されるようになったらしく、『四条流包丁書(しじょうりゅうほうちょうがき)』(宝徳元年・1489年)では、クラゲを切ったものや、果ては雉や山鳥の塩漬けを湯で塩抜きし薄切りしたものまでも刺身と称している。関西では江戸時代以降、「作り身」「お造り」などというようになったが、これは「作る」という動詞に調理するという意味があるため、魚の切り方を「-作り」という表現で示すようになったことによる。ただし、原則として鯛などの海の物に限られていたようで、淡水魚の場合は関西でも「刺身」といったことが幕末の喜多川守貞『守貞謾稿(近世風俗志)』に記されている。

刺身の種類 [編集]

ヒラマサの姿造り、日間賀島の民宿にて
作り方や切り方によって多彩な種類がある。
姿作り - 尾と頭を付けた状態で供する。祝い事の席などで用いられることが多い。
平作り
薄作り
細作り
たたき
背越し作り
皮霜作り
洗い
生け作り(「活け造り(活き造り)」の表記も)
松皮作り
花作り
昆布じめ
中落ち - 背骨。または周りの赤身を寄せ集めたもの。中打ちとも。
かき身作り

類似の料理 [編集]

寿司 - 酢飯と生魚の切り身を握る日本料理
イカそうめん - 生のスルメイカを千切りにして、麺のようにしたもの。
ルイベ - 生のサケを冷凍し、切り身にしたもの。元来はアイヌ民族の伝統料理。
ちらし寿司 - 酢飯の上に刺身を盛り付ける。海鮮丼。


イカそうめんは、刺身の範疇から外れているらしい。

でも何といっても刺身の王様は、‘アワビ’である。

awabi.jpg


(つづく)

次回の‘語源’探しは、?














[2012/10/19 22:33] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
月の砂漠と大多喜城(その2)
月の砂漠記念館が、‘水曜日休館’とは知らずに出かけた此方の不注意もあったが、少なくとも‘観光地’たるもの、そこだけが目的で観光客が来る訳ではないことぐらいわかっているのに、どうして‘休館日’を作って平気なのだろうか?

本気で観光資源にしたいと誰も思っていないのだろうか?

少々腹立たしかったが、これが‘田舎’の良さでもあると思い直して、次の目的地‘大喜多城’ へ向かった。

観光地だと思って行ってみると、‘だ~れもいない’状態は寂しくて何だか惨めになるものだが、考えようによっては、我々の一人占めだから、本当はそれが良いに決まっている。

こんな9ヶ条があるという。

人が集まる9カ条
http://www.facebook.com/Orifushi/posts/402882699776563?comment_id=63943387&offset=0&total_comments=5
「高野山真言宗 築港高野山 釈迦院の言葉です。」とあるが、高野山真言宗 築港高野山 釈迦院のHPに当たる資料を調べても出て来ない!一体何故?‘釈迦院が言う’訳は無いから、誰かが言ったのだろうが、それが判らない!
何故10カ条では無くて9カ条なのかも判らない!最近の情報は、孫引きの連続だから、その根源にはなかなか行きつかない。本件もいい例である。

兎に角、人が集まる9ヶ条だそうだ。

「人は‘見てはいけない’と言われたものを見たいと思って集まる」

というのを入れて‘10ヶ条’にして貰いたい!

‘月の沙漠記念館’もこの9ヶ条を‘深~く’受け止めて、‘集客’とは何か?について大いに検討して貰いたい。

さて、月の沙漠から約40km、車で1時間強のところに‘大多喜城’が見えて来た。‘カーナビ’は極めて便利である。道をわざと間違えても、ちゃんと修正してくれる。

日本国中、本当に小幅の2~3mの道だって正確に案内してくれる。素人的には、こんなに素晴らしいソフトは珍しいし、最高である。ただし、何度同じところに行っても道を覚えることが無い。それだけ、利用する人間はうっかりしていると‘馬鹿’になって行く。

さて、‘大多喜城’は、全国的には‘今は’余り有名ではないが、歴史的には‘やや感動する’城である。

何と言っても徳川家康の知恵袋でもあった四天王の一人、本多忠勝の居城である。

最近ここ1~2年、大多喜城へは行っていなかったが、こんな‘幟(のぼり)’が立っていた。

画像ー61 082-2
おやおや、本多忠勝を担ぎ出そうという作戦である!

この企画は素晴しい!

‘NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会’とある。
主催者は、問合せ先:「大多喜町役場産業振興課内」と、あるから大多喜町である。

これは本物かもしれない!?

サミット看板
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌が書かれている。

‘唐のかしら’:家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す。ヤク:ウシ目(偶蹄目)ウシ科ウシ属に分類される偶蹄類。
‘本多平八’:本多忠勝の通称が平八郎だったことによる。

共同宣言0001-2
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

共同宣言0002-2
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

これは、これは本物である!これだけの数の行政が、NHKに‘圧力’を掛ければ、NHKも動かざるを得まいが、もうひと押し‘有力な人物’が必要かもしれない。ただし、その動きが余りにも卑劣であると却って受け入れられないことになり兼ねない。それに、‘作家’の先生は誰なのだろうか?案外そんなところからNHKは動いたりするものであるらしいから・・・。

画像ー61 019-2
これが駐車場から、大多喜城・城址への登城一本道である。

画像ー61 110-2
この沿道にも‘誘致幟’が多数あった。

画像ー61 020-2
これが、再建された本丸と入口である。

http://www.geocities.jp/qbpbd900/otakijo.html
otakijo41.jpg
本多忠勝

大多喜城の歴史

 大多喜の中世の頃の地名は、史料の中に小田喜と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。
 
 16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。
 
 その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
 
 当時の城のようすについて、1609年(慶長14年)にここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。

 城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。
 
 千葉県教育委員会は、この歴史のある大喜多城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館を建設し、昭和50年9月に開館しました。平成18年4月からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。
(現地案内資料より)


画像ー61 072-2
残念ながら城内の展示は‘撮影禁止’だそうだからその様子は伝えることが出来ないが、この大多喜城・城址は、また、‘千葉県立中央博物館・大多喜分館でもあるため、‘江戸風俗図屏風’が展示されていた。

菱川師宣-2
「門外不出とされたアメリカ・フリーア美術館所蔵の菱川師宣筆『江戸風俗図屏風』(17世紀)を京都文化協会とキャノン(株)の「綴プロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)により、高精細複製品がさくせいされ、千葉県立中央博物館に寄贈(大多喜城分館保管)されました。大多喜城分館では、より多くの皆様にご覧いただくために年4回公開します。」とある。

画像ー61 073-2
菱川師宣は、千葉県・鋸南町の出身である。

大多喜城の兜0001-2
そのトイメンに‘体験コーナー’があって、本多忠勝が使っていた兜と陣羽織のレプリカ、重さが同じらしいが、これを試着してよろしいとのことであったため、恥ずかしいことを忘れてしまった私は早速試着したという訳であ~る。画面の右には、引用資料で忠勝がかぶっている兜が見える。

画像ー61 084-2
外に出てみると、大多喜城の絵図がある。

画像ー61 081-2
お客さん達が来た。

画像ー61 093-2
観光バスが着いたらしい。

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城址の裏手へ廻ると、千葉県立大多喜高校(お笑いタレント・渡辺正行の母校)があり、そこの敷地内に大多喜城ゆかりの忠勝が掘らせた底なし井戸がある。

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大井戸の場所を示す絵図。

画像ー61 094-2
大井戸への道しるべ

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この急な坂を下りて行くと

画像ー61 090-2
噂の大井戸が見えて来る。

画像ー61 091-2
大きい! 今でも満々と水が・・・。

大井戸の看板
http://www.geocities.jp/qbpbd900/otakijo.html
看板には、日本でも最大級とある。実はこの大井戸には、地元の或る人の話だと‘大多喜城に纏わる金銀財宝’が隠されていたという噂が広まり、本格的調査が一度は行なわれたが、まだ発見にまでは至らなかったという。
ひょっとすると・・・・。

画像ー61 098-2
駐車場へ向かう下りの道路から見ると深い谷になっている。

画像ー61 104-2
誰も上がってはこない。全くの静けさである。

画像ー61 105-2
崖っぷちに看板が・・。

画像ー61 106-2
これが‘空堀’である。

画像ー61 107-2

http://www.harimaya.com/kamon/column/aoi.html

三つ葉葵立ち葵
左:三つ葉葵  右:立ち葵

徳川氏の葵は「三つ葉葵紋」として有名なものである。そもそも、松平氏に入る以前の徳川氏は新田氏の一族であったといい、本来の家紋は、広忠の墓や日光東照宮などにみられる「銀杏紋」であったといわれている。家康は天下をとると葵紋の使用を禁じたため、島田・伊奈氏らは葵紋の使用を差し止められた。ところが、本多氏はその後も葵紋を用いた。本多氏は、もと加茂神社の神官であったと伝えられ「立ち葵紋」を用いた。長野善光寺の寺紋も「立ち葵紋」だが、これは本多善光という人物が寺を開いたことによるものである。

 家康は本多忠勝にも葵紋を用いぬようにいったが、忠勝は「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族、それゆえ賀茂の神紋である葵紋を用いるのは当然のこと。殿こそ本宗新田氏の「大中黒」に代えられてはいかが」といいはなったので、家康もそれ以上は口にしなかったという。ところで、本多氏は系図によれば藤原氏の後裔を称しているが、忠勝の言葉によれば賀茂氏の後裔が正しかったものと思われる。


画像ー61 108-2
大写しでハッキリと「立ち葵」であることが判る。

画像ー61 100-2
ここに二の丸があった。

画像ー61 109-2
大多喜城の絵図が入口のところにあったのだが、帰りになってやっと気がついた。

画像ー61 111-2
淋しいかな、観光バスはたったの一台のみしか見当たらない。

画像ー61 112-2
観光バスの他には、我々の車ともう一台の乗用車、そしてオートバイが一台のみ・・・。

画像ー61 113-2
御城から下って来て、踏切に差し掛かった。珍しい‘赤信号’である。一両‘編成’(?)の列車が横切って行った。

画像ー61 114-2
先程の踏切を渡って、大多喜駅に近づいてきた。

画像ー61 115-2
駅前には、何だか‘武家屋敷’を思い起こさせるような立派なお店がある。

画像ー61 116-2
ここが大多喜駅前である。

本日の‘月の沙漠’と‘大多喜城’の観光地めぐりはこれで終了した。

兎に角、観光地は‘客を呼ぶ’事に必死にならなくてはいけない!

そんな観点からすると、この大多喜城を巡っての‘本多忠勝・忠朝’大河ドラマ実現が成功することを祈りたい!
















[2012/10/18 11:28] | 観光 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
月の砂漠と大多喜城
2012年10月17日(水)10:00、お客様をお連れして‘外房’では少ない観光地の一つ‘月の沙漠’へ向かった。

我々も外房へ引っ越してきて、案外観光地の少ないのに驚いた。観光地の数としては沢山あるのだが、その‘規模’という観点からすると‘観光地’としての条件が整っていない。

例えば、駐車場の規模である。台数がそんなに多くは無い。これも‘痛し痒し’で、余り観光客が多くないから、そんなに大規模の駐車場は必要ないとして‘小規模’にしておくと、‘駐車場が狭いから’あそこは避けようという事になって、観光客が減るから、益々駐車場が狭くてもいいという事になって‘悪循環’が始まるという訳である。

その影響は、周辺の‘ホテル’や‘食事処’や‘土産物店’にも及んでしまう。

観光客を呼ぼうとすると、先ず‘その地の将来の規模’のことを‘先ず第一に考慮’して、‘観光事業計画’を作ることが必要だと思われる。決して行き当たりばったりで、「先ずは様子を見よう、本格的計画はそれからだ!」という無責任計画は多分後々まで禍根を残すこととなるに違いない。

外房のスポットは、どうやらこの悪循環にみんな陥っているような気がしてならない。そして、このことに担当者が気付いていないのである!

そして、また行政の責任者(知事・市長・町長・村長)が自分の範疇のことしか考えない!連係プレーでしか観光客は呼べないのに、誰かが‘リーダー’となって観光の名所に仕立てようとする気概のある人材がいないのだろう。東京という日本最大の‘消費者’の奥座敷というのに・・・。

タレントの千葉県知事にも弊ブログでお願いをしたことがある。あなたがリーダーなんですよ!と。
このままでは、‘じり貧’状態が続くだけで、観光客なんて全くいなくなるような気がする。


さて、11:25、お目当ての‘月の沙漠記念館’前に到着した。

月の沙漠記念館

http://www.town.onjuku.chiba.jp/sangyoukankouka/
shisetsu/tsukinosabaku_kinenkan/tsukinosabaku_kinenkan_01.html

月の沙漠記念館とは

「月の沙漠記念館」は、御宿をこよなく愛した詩人加藤まさをの作品や資料の展示・公開をはじめ御宿にゆかりのある文人や画家たちの紹介等、御宿の再発見と新しい文化の創造を目指して建てられた夢とロマンあふれる記念館です。


でも何だか様子がおかしい!

車が何処にも止められないのだ。海岸線の道路には、多分‘違反駐車(?)’と思われる車が、そう3~40台。どうやらサーファーの人達らしい。

この海岸通りをぐるりと一回りして、周りを見渡したが駐車場がない!そりゃあそうなんだろう。これだけこの辺の事情に詳しい筈のサーファー達が、路上での違反駐車をしているという事なんだから・・・。

我々は何とかして駐車場を見つけて‘月の沙漠記念館’を見たかった。東京からのお客様をわざわざお連れしたのだから・・・。

海岸線をそう、約1km位は走って左折して月の沙漠記念館の入り口付近に戻ってきた。上の写真の向かって左側の付近にである。

この記念館に「お宅の駐車場は、どこ?」と聞く積りで私が車から降りた。

入口へ来て見たが、どうやら閉まっている様子。表玄関へ来て見て驚いた!

なな、何と、本日は‘休館日!’

張り紙案内には‘水曜日は休館’と書かれている!

これには少々驚いた。この調子では、上述した通り、‘自ら観光客を拒否している’格好になってしまっている。
観光地は‘一日たりとも休んではいけない!’ こんな原則さえ守られていないのだ!

勿論、この‘月の沙漠記念館’の経営は、御宿町である。

担当区分:産業観光課(商工観光班) tel0470-68-2513 だそうであるから、いわゆる‘お役所仕事’なのだろう。いわゆる‘お役人’という人達は、お客が来ようが来まいが、自分の給与が貰えればそれでいいのである。何か企画を立てて予算を取って実行して失敗でもしたら‘首が飛ぶ’ことを恐れて誰も‘新企画’を言い出さないのだ!

さらに、新人が‘新企画’を提案したとしても‘その上司’が「やめとけ!」という。

上司が‘やめとけ’というには2つの理由がある。その第一は、それを認めてやらせて失敗した場合の責任を左遷ということで自分が取りたくないからである。第二は、後輩が自分より優れていることを周囲に見せたくないからである。つまり‘出た杭’を打つのである。

そんな理由から、‘お役所’では‘失敗しない人’が偉くなっていく。‘絶対に失敗しない方法’、それは‘何もしない事’である! そんな訳で、お役所は何もしないのである。

復興庁は、人事を間違えているので‘本来のお役所’になり下がってしまっているから、一年七カ月以上も経っても何も出来ないのである。お役人は、予算の割り振りさえ出来ない。何故なら、割り振りは‘責任のある仕事’だからである。責任の無い仕事、つまり誰かから言われたら‘その通りに’やる。自分の責任ではないと言い張るためである。

ここで改めて言っておきたい。上司から言われたからいやいやながらに給与を稼ぐために行なう‘動作’は‘作業’という。例え上司から言われたことでも‘自分なりに考え、新工夫を加えて自分の責任で行なう’‘動作’を‘仕事’という。

そういう定義からすると、お役所は‘仕事’をしていなくて、‘作業’をしているという事になる。それなら‘ロボット’と同じである。

一刻も早く‘月の沙漠記念館’の経営は民間人に任せた方がいい! お役人は‘それさえ’言い出せないのである!‘何故か?’自分達の仕事がなくなって給与が貰えなくなるからである!

そんな訳で、観光バスもやって来てはいたが、誰も記念館には入れない!

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観光バスから降り立った人達は、多分バスの中でガイドさんから‘今日は記念館は休館’という事を聞いていたのであろう、愚痴をこぼしているようには見えなかったが、虚しく‘鯉’を見るだけ!

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この鯉はでっかく、大きい物は約7~80cm位はありそうだ。

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餌は誰がやるのか、それとも鯉任せなのだろうか?

休館日に申し訳ないから‘鯉でも見て下さい’という‘お役人’の企画だろうか?これなら‘失敗しても’誰も責任は取らなくて済みそうだ!

われわれも、彼らと一緒に、すまなさそうな顔をしている王子様と御姫様をみて早々に立ち去ることとした。

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(つづく)

次回は、‘大多喜城’へ・・・。


























[2012/10/17 22:00] | 観光 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
江戸ものしり考証
江戸時代という長期平和時代 を構築した元祖は、言わずと知れた‘徳川家康’である。

勿論、家康一人の完全なる‘独創’ではないことも確かである。

織田信長や豊臣秀吉の影響 が当然ある。しかし、家康の人生哲学の根本は、やはり家康の素質にある。以前、このブログでもこの英雄3人の‘評価’について書かせて貰ったことがある。( 第Ⅲ象限からの脱出! http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

人物の評価は、沢山のファクターから成立っている。そのパラメーターを2つに絞って単純化して見た。そのパラメーターは、下図に示す通り、(独創力)と(人格)としてみるとかなり特徴が出て来る。


2次元 象限-50001-2
http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

織田信長
http://history4u.net/archives/463
信長は、独創力はあるが‘人格’には少し劣る(鳴かぬなら殺してしまえ・・・)から、第Ⅳ象限という訳である。

豊臣秀吉
http://www.shouzou.com/mag/p11.html
秀吉は、独創力ありでかつ‘人格’もあり(鳴かぬなら鳴かせて見せよう・・・)だから、第Ⅰ象限。

徳川家康
http://amesei.exblog.jp/14390712/
家康は、独創力は信長、秀吉に劣るが、人格は素晴しい(鳴かぬなら鳴くまで待とう・・・)という訳で、第Ⅱ象限に‘貼り付けられる’という訳である。

第Ⅲ象限は、独創力も人格も劣る‘人物’、すなわち‘歴史には登場しない人物’、一般庶民という訳。

あくまで、この評価は‘相対的な’もので、家康が絶対的に‘独創力’に劣るという事ではない!信長・秀吉に比べて‘相対的に’独創力が低い程度だというだけのことである。

しかし、その後の‘実績・評価’からすれば、「いやいや、信長や秀吉よりも‘独創力’においても‘優れていた’のだ」という評価だってあり得る。

江戸時代という日本の‘長期平和時代’の礎を築いたのだから・・。でもでも、それは信長と秀吉はいたからだ!との反論もあろう。

この果てしない評価議論は、ひとまず置くとして、実際には、江戸時代という平和時代が訪れた。この平和時代の‘文化’が、実は現在にも幅広く大きな影響力を持っていると思われる。

ここに興味深い一冊の本がある。

江戸monoshiri
稲垣史生氏の著作である。

今日においても江戸時代の文化が色褪せないのは、その文化の程度が高度に洗練されていたからに違いない。

‘時代劇’が未だに人気を博している最大の理由は、日本人の体質に合致した‘勧善懲悪’という文化が、江戸時代という平和な庶民生活に裏打ちされているからに他ならない。

体制を保つための‘士農工商’という身分制度も、それぞれが世襲制度を保持したためにいわゆる‘競争’という意識を生活の中に取り入れなかったことが、人間性を却って尊重する風習を産んで、みんなが平和を謳歌したことに繋がったに違いない。

先般も指摘させて貰ったが、江戸幕府が開かれた後直ぐに起こった‘島原の乱’が、江戸幕府をして‘仁政’を行なわせる起爆剤となって、その犠牲の上に約260年の平和が保たれた。そして‘鎖国’もがその平和に貢献していたのである。

その江戸時代の文化・風習・習慣を解き明かしてくれるのが、このご本である。

プロローグとしては、このご本の‘ものしり475の考証’の一つを紹介してお開きとしたい。

江戸ものしり
それにしても、‘火事と喧嘩は江戸の華’と言われる‘火事’を、町人・江戸っ子が‘待ち望んでいた’というのも面白い。誰かが損をしないと他の人が儲からない。これを経済が回るという。現在のように老後のためとか将来の生活が不安だからと言ってお金を使わないと経済は回らない。

(つづく)



















[2012/10/16 23:51] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
論語について(その1):プロローグ
‘論語’といえば、「論語読みの論語知らず」 ということぐらいしか出て来ない。

勿論、‘論語’の作者は‘孔子’ではない。‘孫弟子達’が孔子の‘言行録’を纏めたものであることは誰もが知っているのであるが・・・。

孔子の‘子’は‘先生’という意味の尊称。したがって、‘孔’先生である。

儒教の始祖。

面白いことに、当時の宗教の始祖の共通点は、「始祖自身が‘経典’に当たる‘書き物’を自らの手で書かなかった」 という点にある。

世界における現在の‘宗教人口’を見てみよう。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/syukyo01.htm
宗教人口

地球の人間が100人いたら、35人がキリスト教信者、19人がイスラム教信者、14人がヒンドゥー教信者、6人が仏教信者という事に相当します。



そして、主な宗教の‘聖典’を以下に示す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%B8

① キリスト教 - 新約聖書、旧約聖書(聖書)

  『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエスを預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。

② イスラム教 - コーラン、ハディース、啓典(律法、詩篇、福音書)

イスラム教の教典(聖典)としてすべてのムスリムが認め、従うのは、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)唯ひとつである。 クルアーン(コーラン)はムハンマドが最後の予言者として語った内容が、ムハンマドおよび後継者の代によって編集され、書物となったものである

③ 仏教(仏典、経典
      部派仏教 - 法句経、阿含経など
      大乗仏教 - 法華経、般若経など

仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。

仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。
この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saMgiiti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。
その後も、仏典はおよそ二百年間は暗記によって保持され、文字に写されなかった。

④ 儒教 - 経書(詩経、礼記、春秋、論語など)

『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。


上記引用の通り、‘巷間’世界4大宗教と言われる(勿論、4大宗教は定義次第で別のものを挙げることもある)上記の聖典・経典の類は、悉く‘始祖の手で書かれなかった!’のである。

さて、‘論語’に話を戻すと、‘今何故、論語’なの?から始める必要がある。

ここに一冊の本がある。

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著者は、あの「日本人とユダヤ人」で一躍脚光を浴びた‘山本七平’氏である。(1991年没)

彼が、戦後日本の教育の乱れを危惧して、有難いことに、東洋のバイブル(聖書)たる「論語」を我々一般人にも判るように解説してくれている。

そして、あの遠藤周作氏が、この本のカバーの内側に次のような推薦メッセージを寄せておられる。

‘論語の読み方’推薦の言葉・遠藤

遠藤周作氏も言葉を慎重に選んでおられるが、要するに‘戦後の教育’を日教組が駄目にしたという事である。そのことを「デモクラシー(民主主義)は政治制度であって、人間個人の規範とは‘次元’を異にしたもの」という表現をされているのである。

これは、この「論語の読み方」を読んでいく上で、読者が決して忘れてはいけない概念である。

戦後生まれというより、戦前に産まれていても‘戦後の教育制度’の中で教育された日本人は、「論語読みの論語知らず」どころか、

「論語読まずの論語知らず」

であって、最悪である。

このことは、今の中国人にも当てはまる。

毛沢東の「文化大革命」では、‘孔子と封建思想’という名目で‘排除’する闘争がなされたが、1976年毛沢東の死去により、‘儒教思想’は復活する。現首相の温家宝は、2004年 「平和共存五原則」 周年記念演説,世界文明の多様性を肯定し、その先見性孔子の世界観指摘、評価。( http://kerukamo.blog115.fc2.com/blog-entry-130.html

前出の宗教人口に見られる‘儒教人口’600万人強が全部中国人だとしても、中国全人口の0.5%にも満たないから、中国は‘儒教の国’とは言えないのだろう。

儒教の教義は、
「儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 )であるから、今般の中国の動きに儒教思想が現れているとは到底思えない。

‘国の宝は人づくり’

だという基本的な教えさえ守る気配がない。一人っ子政策は果たして大丈夫か?

そんなこんなで、今こそ‘論語’が見直される時だと感じている次第。

今後、この本「論語の読み方」を熟読しながら、日本人だけに止まらず‘人間の生き方と教育問題’について勉強をしてみたい。

(つづく)

















[2012/10/15 23:28] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
チェンソー彫刻
2012年10月13日(土)、第9回エコ・フェスタin千葉 が開かれている会場へ向かった。

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彫刻

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チェンソー彫刻の素晴しさを初めて見た。

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この場所は、数年前‘アウトレット・モール’として大々的に報道され、約百数十店舗で一時期は大人気だった。駐車台数も数百台分が用意され、‘観覧車’のでっかいのもあったが、今は食堂などの数店舗を残すのみで、かんらんしゃも撤去されている。

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会場に入った途端に猛烈な‘騒音’。

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チェンソーを使っての彫刻が、カーバー(彫刻人)十数人で行なわれていた!見物人も多くこの騒音は知らない人が聞いたら‘一体何が起こったの?’と思われそうである。

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カーバーは、写真のように‘防音耳あて’をしているからいいようなものの、見物人同士は‘耳に口を数cmまで’近づけないと会話が出来ない!

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競技大会だから、カーバーに投票権を持つ人達が券を入れて行くのだろう。‘投票箱’が画面の左に見える。

作品を見てみると・・・・

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このクマさんは、この会場で造られたものではなく、ペインティングされている。

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この馬もまるで生きているようである。

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この‘大型金魚’も素晴しいが、お値段が‘何と、70,000円’とある。細かい所まで彫られており、作製時間も大分掛かったであろうから適切の価格なのだろう。

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このフクロウは、‘20,000円’である。これも素晴しい!

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ライオンも、鷲も、熊も・・・。

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8,000円~15,000円の作品がずらり。

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携帯で画像を・・・。

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作製中の‘馬’。なか中の迫力!  題材の中心的なものかもしれない。それにしても‘今にも動き出し’そうで・・・。

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馬とフクロウの‘合体’なのだろうか?

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この久保田さんは、チェンソーを5つも6つも持っておられるようで・・。これだってそう安いものでもあるまいに・・・。

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この鷲は、彩色されているので素晴しさが増している。30,000円也と見える。

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同じ人の作品らしいが、目に特徴がある。リアルそのもの・・。子犬もなかなかの出来。


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さて、作品を造られる時の出で立ちであるが、これももう年季の入った重装備である。多分事故の予防も含めてのことだろう。

こんなプロの方達がおられる事は知らなかった。


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素材の‘丸太’はいつでも‘ど~ぞ!’という訳で沢山用意されている。
趣味が高じてカービングのプロが誕生したのであろうが、これも一つの‘文化’である。

チェンソーでは‘氷の芸術’もあるらしい。この方達はそれも多分おやりなのであろうがこれはやはり寒い土地へ行かないと見れない。寒い所は苦手だが、これも是非見てみたい。氷の芸術の方は‘溶けて無くなる’ところがまたいい!この‘木の彫刻’と違って。

(つづく)

次は‘氷のチェンソー芸術’を・・・。





















[2012/10/14 22:25] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ロングイヤービエン(その1)
‘白夜’は、一日中太陽が沈まない自然現象である。このことは小学校でも教わるから、日本人なら誰でも知っている。

白夜
http://www.toxsoft.com/sswpro/kaisetsu/index.html

白夜の観察
観測地をノルウェーなどに設定して観測日付を夏至の時期にすることで、1日中太陽が沈まない白夜の様子を観察することもできます。太陽に追尾を設定し、薄明・昼光と朝・夕焼けをチェックすることで、空が1日中明るいのを観察できます。


しかし、‘白夜’があるのなら、その反対に‘一日中太陽が昇らない日’があることには誰もが気付いているはずなのに、このことは小学校では、不思議なことに、たしか‘教わらなかった’はずである。

どうしてなのだろうか?

北半球で、‘白夜’が進行中の場合、同時に南半球では‘一日中太陽が拝めない日’が続いている場所がある。その反対に‘南半球で‘白夜’が進行中の場合、北半球のある場所では、‘太陽が拝めない日’がある。

ここで、問題で~す!

Q:‘白夜’の反対語(対語・対義語)は、何でしょうか?

これ、小学校では教えてくれなかった!(質問すればよかった!)

A:‘極夜’といいます。

極夜
http://www.maptour.co.jp/atb/dept_ngo.php/area/ngo_mapstyle_iceland02_03/

極夜
アイスランドは北極圏のすぐそばに位置しているため、夏は白夜、冬の12~1月にかけては太陽が昇らない極夜の季節を迎えます。
夏、レイキャヴィークでの1日の日照時間は約21時間で、北部ではほとんど沈むことはありません。真夜中でも明るく、不思議な世界を体験することができるでしょう。
冬はオーロラが頻繁に現れる「オーロラ帯」の中心に位置しているため、空が晴れて暗くなりさえすれば毎晩のようにオーロラを見ることができます。
アイスランドでのオーロラ鑑賞は9月~4月の約8ヶ月間、一夜で2回程度出現し、様々に色を変え、煌きながら優雅に踊る光のカーテンが夜空を彩ります。
また、この時期は北部では太陽が地平線から50度以上昇ることはなく、レイキャヴィビークでも日照時間が4時間程度と、夏と比べて極端に短くなります。


極夜

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E5%A4%9C
極夜(きょくや、英: polar night)は、日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のことをいい、厳密には太陽の光が当たる限界緯度である66.6度を超える南極圏や北極圏で起こる現象のことをいう。ただし、極圏に位置していなくともアラスカやカナダ、グリーンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアの一部の地域では、正午前後の数時間だけしか太陽が昇らない季節があり、この地域で起こる現象のことも極夜と呼ぶ場合もある。[要出典]
対義語は白夜。 地球の自転軸は、公転軌道面に対して約23.4度傾いており、この傾きが季節によって一日中太陽の昇らない極夜を極圏に作り出している。
毎年、南極圏では夏至、北極圏では冬至前後に起り、南極圏では毎年5月末から約2か月、北極圏では毎年11月末から約2か月の間この現象に見舞われる。そのため特に暗い日として北極圏の英語圏では冬至のことをミッドウィンターと呼ぶ。また、極夜の時期はオーロラが最も綺麗に長く見ることのできる時期とされ、他にも極成層圏雲やダイヤモンドダストを観測することができる。[要出典]


因みに、‘極夜’は、英語では、上述引用にある如く、‘polar night’であるが、‘白夜’は、英語では、①‘white night’②‘arctic night’③‘short night’と翻訳されている(by google 翻訳機能)。

また、‘広辞苑’を載せているカシオの‘EX-word’には‘極夜’の単語は掲載されていない!

更に、‘白夜’については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%A4%9C白夜
NHK放送文化研究所によれば、本来の読みは「はくや」だったが、1970年(昭和45年)[1]に加藤登紀子がリリースした「知床旅情」(作詞・作曲 森繁久彌)のヒットが「びゃくや」の読みを広めるきっかけになったとみる向きが多いらしく、現在ではNHKでも「びゃくや」を標準読みとしている。なお、知床半島は北緯44度に位置しており、白夜になることはない。


とある。しかし、この表記は昔の小学校でどう教えていたかを知らない人の記述に違いない!我々は、昭和20年代に小学生だったが、その時の読みは「びゃくや」だった。恐らく‘森繁さん’も小学校でそう教わったに違いない。昭和45年頃から、というのは少々眉唾??

ノルウェ―に‘ロングイヤービエン’という都市がある。

私は‘長い年月鼻炎’に悩まされ続けている。この日本語「長年鼻炎」に、を直訳すると「long year bien」とはならないか?

そんな訳で、この都市の名前を聞かされて、直ぐに‘親しみ’を感じた!

ロングイヤービエン
http://tabisite.com/photo/14sj1.shtml

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E
3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%
3%83%93%E3%83%BC%E3%83%B3

ロングイェールビーン(ノルウェー語: Longyearbyen)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島にある町。スピッツベルゲン島西部のイース・フィヨルド南岸に面している。人口は約2000人でスヴァールバル諸島人口の大半を占め、1000人以上の人口を有する町の中では、世界で最も北にある。かつては炭鉱町だったが、現在では観光・教育・研究にも重点が置かれている。長らくスヴァールバル総督府を通した政府直轄管理が行われていたが、2002年に基礎自治体に相当する地域行政府(lokalstyre)が成立した。

地理 [編集]

対岸ヒョルス山(Hiorthfjellet)から望むロングイェールビーン。手前はアドベント湾、奥はロングイェール谷。
ロングイェールビーンはスピッツベルゲン島の西から中央にかけて大きく入り込んだイース・フィヨルドの南側に位置している。イース・フィヨルドの中程南側、南西からアドベント湾に注ぐロングイェール川の両岸にまたがる形で町が広がっている。上流側からNybyen、Sverdrupbyen、Haugen、Lia、Gamle Longyearbyen、Skjæringaなどの地区がある。
イース・フィヨルド南岸を西に36km行ったところにロシア人による炭鉱町バレンツブルクがあるが、道路は通じていない。

地質 [編集]

典型的なU字谷であるロングイェール谷に位置している。谷の最奥部には氷河が残っており、両側は台地になっている。谷の崖面には砂岩や頁岩からなる第三紀の地層が露出しており、その下にわずかに傾いた石炭層がある。



‘白夜’とそして‘極夜’の町、考えようによっては‘世界一住みよい町’と言えるそうだ。

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NHK・TV放映像をカメラで撮影

それは、‘なぜ、何故?

(つづく)














[2012/10/13 23:29] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その2):‘気’探索・実感録
・・・・、という訳で香取神宮と鹿島神宮の‘気’を感じる旅が始まった。

女性5名、男性2名。平均年齢は疾うに‘50歳’を越している。いやいや‘60歳’をも・・・。

茂原市から2台の車で出発した。

21012年10月9日午前9:00ジャスト。

メンバーの中には、‘気功歴’何十年のベテランから、数か月の駆け出しまで、果たして‘気’を捕えることが出来るのだろうか?

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11:08 ‘歓迎’のアーチに迎えられて、早速、‘気’を探す行脚が始まった。

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何故か、女性軍は‘等間隔’で横一列に並んでいる!まるで‘清原監督’率いる日本体育大学の‘集団行動’の始まり、とも取れる光景である。‘なに、これ?珍百景’に投稿する程ではないが・・・。この香取神宮の‘気’がもう作用し始めたのだろうか?!

集団行動
http://commonpost.boo.jp/?p=19689

一糸乱れぬ動きから「これはスゴイ!!」と話題になっていた日本体育大学が行う「集団行動」ですが、2011年になって初めて女子バージョンが登場し話題となっています。



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朱塗の大鳥居:参道正面にある第二の鳥居で、鳥居の朱色と周囲の老杉の緑とが良く調和して、神域の入口にふさわしい美観を呈している。

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朱色の大鳥居を潜って、振り返ったところ。

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‘本日はお日柄もよく’といった感じでまるで‘春’を想わせる光景。

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この‘カエデ’の葉っぱは、正に‘春’を想わせる。やはりこの境内には‘気’が多いのだろうか?

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‘新緑’のように美しい!

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秋深まってもう一度来てみたい‘気’になって来た!案外‘紅葉’せずに、このまんまの‘緑’だったりして・・・。

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総門が見えて来た。平成26年に、12年に一度午年の時に行われる‘式年神幸祭’の予告看板が見える。

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大鳥居の朱にもまして美しい総門である。総門は神宮の‘玄関’である。

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手水舎。楼門・拝殿に行く前に、手を洗い、口を漱いで、身を清める。

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楼門。楼門は、‘2階建て’である。下層に屋根がなくて上層に高欄付きの縁をめぐらしたもの。下層に屋根のあるものは,二重門とよぶ。

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総門にもまして鮮やかな‘朱色’である。

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香取神宮の文字がハッキリと見える。

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狛犬の‘阿吽’の‘阿像’の方。「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音。この二つは宇宙の始まりと終りを表す。

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狛犬の‘阿吽’の‘吽像’の方。

http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/faq.htm狛犬って何?
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像です。本来は「獅子・狛犬」といい、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬です。
阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像などは、多くは阿吽になっていません。
獅子・狛犬はもともと別の生き物?ですが、現在ではこの形式を残したもののほうが少なく、形としては阿吽共に獅子に近いでしょう。呼び方も単に「狛犬」に定着しています。

日本に狛犬が入ってきたきっかけは?

 いろいろな説がありますが、現在有力視されているのは大体以下のようなものです。

 インド・ガンダーラを経由して、獅子座思想は中国に入ります。中国人は、龍や麒麟など、様々な霊獣を生み出すのが得意で、獅子も羽をつけたり角を生やしたりしてどんどん空想上の生き物に変質しました。
 いわゆる「唐獅子」と呼ばれる派手な獅子像は、中国文化が生み出した独特のものです。
 中国でも、皇帝の守護獣として獅子像が定着しましたが、それを見た遣唐使が、日本に帰ってきてから、宮中に獅子座思想を持ち込みました。
 しかし、日本に持ち込まれた直後に、一対の獅子像は日本独特の「獅子・狛犬」という形式に変わります。
 向かって右側が獅子、左側が狛犬。獅子は黄色で口を開け角はなし。狛犬は白色で口を閉じ、角がある……というものです。この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像の阿吽などを取り入れたものと思われます。
 仁王も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じだということからでしょう。
 これが日本独特の「狛犬」の始まりで、時期は平安時代後期と言われています。
 つまり、日本の狛犬は、天皇の玉座を守る守護獣像として誕生しました。これを「神殿狛犬」あるいは「陣内狛犬」と呼んでいます。


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この香取神宮に何故‘鹿’がいるのか?
<私の推測>:鹿島神宮の祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)。春日大社が祀る「武甕槌命(タケミカヅチノカミ)」が白鹿に乗ってやってきたことから、春日大社では鹿が神使とされている。従って、鹿島神宮も同じく‘鹿’を神の使いとする。鹿島神宮の名称にも‘鹿’を。これまた従って、香取神宮の祭神・経津主大神(ふつぬしのおおかみ)については、「経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。」(http://www.katori-jingu.or.jp/goyuisyo.htm)と香取神宮・御由緒書にあるとおり、二人の祭神が日本国を治めた間柄。故に、香取神宮も鹿島神宮と同じく神の使いは‘鹿’という訳。では何故、「武甕槌命(タケミカヅチノカミ)」が白鹿に乗ってやってきたか?これは、現時点では、残念ながら‘不明’。

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皆さんの足が止まった! ‘気’を感じる! ‘手のひら’を地球に向けると‘ビンビンと’反応がある!そして次第に‘熱く’なってくる!

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このそんなには大きくもない‘木’の周りに‘気’が一杯!‘木=気’が成立するのだろうか?

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このカエデも新緑そのもの・・・。

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お隣のこの木には何かの‘巣’らしきものが・・・。

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この境内の‘大木’の特徴は、‘根っこ’の部分が地上に現れい出ていること。

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この木の別角度からの画像。‘根っこ’の節くれだった、しっかりとした部分がハッキリと判る。こんな育ち方は、やはり‘気’のせい?

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この経路も‘雰囲気’が違う!‘気’に満ち満ちて入る。

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この杉の木の肌は何故こんな風に?見方によっては、人間か、動物のようにも見えないことは無い?

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御本殿の裏へまわって鹿舎を見て、‘気’の強い場所を巡って御本殿に帰って来たところ。

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御本殿は、拝殿の奥にある。この拝殿・御本殿は現在現在改装中。

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屋根には、古くなった‘檜の木の皮’に植物の種が発芽して、葉っぱを付けている。

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これが有名な‘三本杉’。

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由来が書いてある。

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この木は凄~い!楼門と拝殿の間にある杉の木である。

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直径も背丈もこの境内では‘随一’!大いに‘気’を感じている人もいる。
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総門を後に‘要石’へ・・。

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いよいよ、ここ香取神宮最大の‘気’の場所、‘パワースポット’と呼ばれる‘要石’へ。

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これが、‘要石’。でも‘気’に関しては、先程の鹿舎のすぐそばの‘カエデの木’近傍の場所の方が‘気’が強かった。

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‘要石’の由来。ここ香取神宮の要石が凹凸の‘凸’の方。

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素晴しい‘苔’。ここも‘気’が感じられる。

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何気ない路傍の石’。‘ワンちゃん’の顔に似ている。

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13:07 境内巡ることおよそ2時間。やっと‘そば’にありついた次第。‘亀甲’とは、この一帯の山の名称。

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香取神宮に別れを告げて、千葉県から茨城県へ。利根川を渡っているところ。この辺一体は、行政の‘仕切り線’の乱れが続いたこともあって、‘ちばらき’県と言われているところ。千葉県と茨城県の‘あいのこ’という意味だろう。

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鹿島神宮について、駐車場に、いきなり巨大古木がお出迎え。

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何のとなく通り過ぎているが、この巨木にも多分因縁のある古いお話があるのだろう。今日のところは、このままで・・・。

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この辺一帯の歴史が・・。

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鹿島神宮の見取り図がある。きっとここにも‘気’の強い場所があるに違いない!

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鹿島神宮の道は、‘森林浴の道’に指定してあるという看板。この森林浴が出来ることこそが‘気’のある証拠

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2階建ての門、‘楼門’が見えて来た。ここの巨木にも驚かされる。

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しっかり伸び過ぎて、己を支え切れなくなってしまった巨木。それくらい‘気’が多いのだろう。

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平成26年に‘式年大祭’を行なう看板が見える。この式年大祭は、香取神宮と同じ‘午年’。此方は9月。香取神宮は、6月。

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ここの手水場も立派である。

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総門の朱が眼に沁みる。

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この楼門が‘重要文化財’であるという表示。香取神宮にはこの表示はなかった?

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黄門様の父君・頼房公(家康の七男)の奉納という。そこのところが多分香取神宮との違いなのだろう。今となっては香取神宮も手の打ちようがないに違いない。

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奥宮は、家康の奉納だったとある。

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杉の巨木にも‘苔’が生えている。湿度が高いことを物語っている。‘気’はそれ程強くは無かったが・・・。

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‘根っこ’の頑丈さが表れている。これじゃあ、一寸やそっとでは倒れることは無いのだろう!

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ここ巨木の周りは‘気’が強い。それだけに‘森林浴’の効果が出ているに違いない!

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この木の‘瘤’は一体何だろうか?出来た原因は?

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ここが奥宮。●奥宮:慶長10(1605)年、徳川家康公が奉納した本殿を元和の造営の際に引き遷したもので、需要文化財に指定されています。奥宮の前にある芭蕉の句碑の上部の穴は、耳を近けると「海の音」が聞こえるといわれています。(http://www.sopia.or.jp/kashima-kanko/jingu.html

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奥宮の由来が・・・。

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‘要石’へ通じる道の‘道票’。要石の意味が一目で判る‘絵文字’である。

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この森林浴道は、歩きながら‘気’に気付くことが出来る。車がバンバン走る‘国道’とは雲泥の差である。この‘気’には誰でも気付く。

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これこそ、鹿島神宮の‘要石’。凸凹の‘凹’であることはハッキリわかる。この要石と香取神宮の要石とが地中で繋がっているという。どうして科学的な証拠固めをしないのだろうか?それともやってみたところ、そうではなかった、とでも言うのであろうか?

‘パワースポット’と言われながら、‘気’の強さはそれ程でもない。

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要石の説明。黄門様が本当に掘らせてみたのだろうか?

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要石の見せ方は、香取神宮よりも立派。

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一茶の句である。‘松の花’の意味が今一つ解らない?

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鹿島神宮で最大の‘気’の場所。‘手のひら’にずんずん来る。

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要石から奥宮へ引き返す途中。ここにも‘気’が・・・。

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この道は‘気’が凄い!これが‘数百m’続いている。

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この‘気’の強い場所で‘自分の影’写真を撮ってみた・・・。何だか‘オーラ’らしきものが・・・・??

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拡大してもると、‘頭部の周り’に、何だか、本当??‘オーラ’?

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ここは奥宮の囲いの外の巨木。ここも‘気’が強い!

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御手洗の由来。

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鯉が泳いでいる。不思議なのは、その水位だという。そんなに不思議なのだろうか?湯壺の原理と考えれば・・・?

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このお休み処の風情はなかななかのもの。京都の大きな庭園を想わせる。

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こんなところに‘巨大きのこ’が、多分‘毒きのこ’。

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この‘土盛り’は、‘鳥居’が先般の「3・11」の大地震で倒れた後らしい。一寸待て!‘要石’の威力はどうなっているのだろうか?

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坂道を登っている。‘両手’を‘後組’にし始めたら、‘老化’の進行が速くなっているというが、果たして?

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帰りの拝殿。‘行き’の時におみくじを引いた。‘兇’が出た!これまで何百回と引いたご‘兇’が出たのは初めて。何だか、悲しいより‘嬉しい感じがした。

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14:57  そろそろ日が傾き始めた。最後にまた、影を撮ってみた。

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拡大しても‘オーラ’らしきものは全く見えない。

という事は先程の‘気’の多いと思われた場所での‘影’の‘オーラ’らしきものは‘本物’?

何とも不思議な経験だった。

この香取神宮と鹿島神宮とでの‘気’探しでの結論は以下の通り。


① どちらの神宮にも‘気’の強い場所があった!

② 平均して‘鹿島神宮’の‘気’の方が強いと思われた。

③ ‘パワースポット’と言われている‘要石’付近の‘気’は、どちらの神宮とも‘巨木の付近’よりも弱く感じられた。

④ 本当かどうかは定かではないが、‘気’が強いと思われた場所での‘影の写真’にオーラ?が写った!?


(つづく)

次回は、‘気功’や‘レイキ’の科学的根拠について。






















[2012/10/12 23:30] | 旅行・散策 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー3(香取神宮と鹿島神宮の概要)
香取神宮と鹿島神宮の概要

‘神宮’は、‘神社’より`位’が高い?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317957268

神社と神宮

1 神社と神宮、どう違うのでしょうか?

神社と神宮の区別はこう考えるとわかると思います。

神社=神様が降りてくるところ。用が済めばお帰りになる
神宮=神様が常駐しているところ

神社の「社」は「やしろ」と読みますが、屋代(やしろ)とも書き、これは結界を表します。結界とは神様が降りてくる場所で、紐などで囲った領域をいいます。家を建てるときに執り行う地鎮祭などで、竹を四隅に配し、紐をかけた光景を見ますが、これが社(結界)です。地鎮祭はここに神様をお呼びして、建物を建てる土地を浄化する行事です。

社は神様が降りてはきますが、用が済めば帰ってしまいます。できればいつもいて欲しいと思うのが人情。そこで、神社にお宮(御屋=おみや)を置くことになります。お宮とは神様の住居。家を提供することで神様に常駐していただくのです。

http://www.tamagoya.ne.jp/potechi/b/archives/2008/01/1155.php

2 神社の称号について教えてください

神社の称号には、「神社」といわれる他に「神宮」「宮(ぐう)」「大社(たいしゃ)」「社」などがあり、各々の神社の由緒に基づいて定められています。

「神宮」という称号は、明治神宮や熱田神宮、平安神宮のように、皇室と深いつながりをもつ神社であるとか、天皇を御祭神としてお祀(まつ)りしている神社に用いられます。ただし、単に「神宮」と称した場合は、伊勢神宮のことをさします(「伊勢神宮」は通称であり、正式な名称は「神宮」です)。

「宮」の称号は、八代宮や井伊谷宮(いいのや)のように、親王をお祀りしている神社に用いられます。 なお、東照宮や天満宮、八幡宮のように慣習的に称号を用いる例もあります。

「大社」の称号は、かつて官国幣社(かんこくへいしゃ)制度があったときには、出雲大社のことをさしました。しかし、戦後になってからは、春日(かすが)大社や住吉大社のようにこの称号を用いる神社が増えました。これらの神社は、いずれも旧社格が官幣(かんぺい)大社、国幣(こくへい)大社の神社です。

「社」の称号は、大きな神社から御祭神を勧請(かんじょう)した神社に用いられ、神明社や天神社などがあります

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hikawa-j/situgi/zinjatosaizin/zinzyatos...


(1)香取神宮の概要

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http://www.katori-jingu.or.jp/goyuisyo.htm

香取神宮

香取神宮の御由緒ー2
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html

鎮座地

千葉県香取市香取1697
※平成18年3月27日佐原市・小見川町・栗源町・山田町が合併し、「香取市」が誕生。
(旧:千葉県佐原市香取1697)

御祭神

経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
<又の御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)>

例祭日

4月14日 勅祭

御祭神の神話

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左:鹿島祭神 右:香取祭神

皆さんは、出雲の国譲りの神話をご存じでしょうか?
  香取の御祭神経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、この神話に出てくる神様なのです。
 神話の内容は、はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争い、乱れていました。
 大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで遣わされましたが、  出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまったので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、 顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
 このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。 そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
 経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。

御神徳

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古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く。特に『神宮』の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は下総国の一宮、明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っています。
 奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでいて、広く尊崇をあつめています。
 一般からは家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されています。さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名です。

式年神幸祭

神幸祭は毎年4月15日に行われておりますが、12年に一度の午年には15・16日の両日に掛けて盛大理に執り行われます。
元は式年遷宮大祭の名で20年に一度行われていたとされていますが、戦国時代以降、式年遷宮が行われなくなり、替わって12年に一度ずつ神幸祭を行うことになり今日に至ったとされています。
現在、15日は御神輿を中心として氏子数千余名の奉仕員が行列を組み神宮を出発し津宮へと進み、利根川沿いの鳥居河岸より御座船に移り船上祭、ついで鹿島神宮による御迎祭が行われた後、利根川を遡り佐原河口へ御上陸し御旅所に御駐泊。翌16日も同様に行列を組み、市内を巡幸し、陸路を神宮へ還御というかたちで斎行されています。

国宝『海獣葡萄鏡』

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 直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量4560g、白銅質の円鏡で、葡萄唐草を地紋とし、唐獅子のつまみを中心に獅子・馬・鹿・麒麟などの獣類や孔雀・鴛鴦・鳳凰・鶏などの鳥類、さらには昆虫などを配しています。

 正倉院御物及び四国大山祇神社の神鏡とを合わせて『日本三銘鏡』と称され、昭和28年に国宝に指定、千葉県の工芸品で唯一の国宝です。

要 石(かなめいし)

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古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。



http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html
香取神宮 ~ 豆知識編

香取神宮に祀られている神様は、「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」という神様です。

日本書紀によると、この神様は「国譲り」の話の中に出てくる神様です。
どんな話かというと...
はるか昔、天照大神(あまてらすおおかみ)が葦原中国(あしはらなかつくに:地上=日本のこと)を治めようとしましたが、地上では荒ぶる神々が争いをやめず非常に乱れていました。

そこで天照大神は八百万神を集め話し合いを行い、葦原中国の国造りを行った出雲国の大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の国を譲ってもらうため、まず天穂日命(あめのほひのみこと)、つづいて天稚彦(あめのわかひこ)を派遣しますが、いずれも大国主神に従ってしまい、失敗してしまいます。

事態を重くみた八百万神はもう一度慎重に話し合いを重ねた結果、経津主大神が最もふさわしいという結論に達しました。
そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出で来たので、 二神で出雲に派遣されることになりました。

経津主大神は武甕槌大神と共に出雲国に降臨し、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、国を譲るよう説得します。
結局、大国主神は大御神の命令に全く異議はありませんということで、二神に平国の広矛(くにむけのひろほこ)を差し出し、二神は日本の国を平定することができたとのことです。

その後、二神は国内を巡行し、荒ぶる地上の神々を平定して日本建国の基礎を築いたという、建国の大功神なのだそうです。
そういう神様を祀る香取神宮の御利益は、勝運、開運はもちろん家内安全、産業(農業・商工業)指導、海上守護、心願成就、縁結、安産、交通安全、災難除け等非常に多岐にわたります。

香取神宮の創建は定かではありませんが、言い伝えによると紀元前643年だそうです。
経津主大神は「香取大神」とも呼ばれたりするんですが、こういう古い歴史を持つことに由来するのでしょう。
今でこそ「神宮」と名のつく神社はたくさんありますが、平安時代から江戸時代までは「伊勢神宮」、「鹿島神宮」とこの「香取神宮」の3社のみだったそうです。
この3社をして「三大神宮」と呼ぶこともあります。

伊勢神宮は別格としても、香取神宮は由緒正しき神宮と言えるのではないでしょうか。

香取神宮では年間を通じて様々な祭事が行われていますが、特に大きな祭りは12年に1度行われる「式年神幸祭(しきねんじんこうさい)」でしょう。
毎年4月15日には神幸祭が行われるのですが、12年に1度の4月15日と16日の2日間にわたって行われる行事はかなり大がかりなものらしいです。
約3000人以上に上る人々が昔の装束をまとい、長蛇の行列が香取神宮を出発、佐原の街を練り歩き、船に乗り利根川を渡る。
佐原駅の近くで一夜を明かしたのち、2日目は佐原の諏訪神社、八坂神社を経由して香取神宮に戻ってくるというものらしいです。
前回は2002年に行われたそうなので、次の式年神幸祭は2014年4月、つまり6年後ということになります。



2)鹿島神宮の概要

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http://www.kashimajingu.jp/wp/jingu/jingu01
御由緒

鹿島神社御由緒
遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。

御祭神

鹿島神宮 御祭神
「古事記」「日本書紀」によりますと、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神、イザナギ、イザナミの両神より生まれた火の神カグツチより誕生された、とされています。即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります。

宝 物 :直刀

直刀は、数ある鹿島神宮の宝物の中でも随一のものであり茨城県唯一の国宝であります。鹿島の大神が神武天皇に降ろされたふつのみたまのつるぎは、別名平国剣(ことむけのつるぎ)とも言われ、一振すればたちまち国中が平穏になるという霊剣で、この御剣の御力により神武天皇は日本の建国を果たされました。
この御剣は宮中に祀られ、崇神天皇(すじんてんのう)の御代に、大和の国石上神宮に祀られ、現在に至るまで国の鎮めとして崇拝されております。
神として祀られたふつのみたまのつるぎに擬して鹿島の大神の佩力(はいとう)として鍛えられたのが当宮に伝わる直刀であります。
奈良時代に鍛造(たんぞう)されたと推定される直刀のとっての長さは271センチの長大なものであり、鍛錬(たんれん)の完成度、高い技術力には驚嘆させられます。

直刀
ふつのみたまのつるぎ

重要文化財 梅竹蒔絵鞍
重要文化財 梅竹蒔絵鞍

要石(かなめいし)


要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。

●要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。
水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。
●現在は、要石の下には鯰(ナマズ)がいると言われていますが、始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。

鹿島神宮の要石

●万葉集(まんようしゅう)に、香島の大神おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神奉祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。
●地震歌を一首
ゆるぐとも よもや抜けじの 要石
鹿島の神の あらんかぎりは



http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/05/post_087a.html
鹿島神宮 ~ 豆知識編

先日鹿島神宮へ行ってきました。
前回報告した訪問編に続き、今回は豆知識編をお送りします。
鹿島神宮に祭られている神様は「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」です。

鹿島神宮 大神

前回の香取神宮のときにも触れましたが、日本書紀に出てくる国譲りの話によると香取の神である「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」の副神として日本の国を平定したのだそうです。
参考 : http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html

ところで、日本書紀と古事記ではこの「国譲り」の話が一部違っているのをご存知でしょうか?
日本書紀では武甕槌大神は経津主大神の副神として出雲の国に降りていきますが、古事記では経津主大神は出てきません。
古事記においては武甕槌大神がこの話の主役であり、天鳥船神(あめのとりふね)を従えて出雲の国に降りていき、大国主命(おおくにぬしのみこと)を説得し、葦原中つ国(地上の国=日本)を平定するのです。
日本書紀と違い、古事記の方では武甕槌大神は主役級の扱いですよね。
まあ、神話なのでそもそもどちらが正しいか論じてもしょうがない気もしますが、同じお話なのに登場人物が違うというのも興味深い話です。
どうしてこうなったのか知っている方いらっしゃったら教えてください。
こういうことから、ここの御利益についても香取神宮と似たようなものとなります。
すなわち、必勝成就、旅行安全、五穀豊穣、殖産、安産、事業の創造、新規開拓、開運等様々な御利益があるそうです。

鹿島神宮本殿とご神木
    ↑鹿島神宮本殿とご神木

鹿島神宮がいつできたかについても、香取神宮と同様定かではありませんが、社伝によると紀元前660年だそうです。

香取神宮が紀元前643年なので、それより17年前ということになります。

かなり眉唾ものですが、関東では最も古い神社ということになるらしいです。
もっともその頃の日本は弥生時代なので、少なくともこんな立派なお社は無い筈ですが...
鹿島神宮の年間行事も約90あるそうなんですが、最も大きなお祭りは12年に1度行われる「式年大祭御船祭」だそうです。
正式には「式年神幸祭」と言うのですが、これって香取神宮で行われるのと同じじゃないですか?
行われる年は午の年ということなので、次回は6年後の平成26年ということになるんですが、これも香取神宮と同じじゃないですか。
それもそのはず、前回は書きませんでしたが、このお祭りは鹿島の神と香取の神が12年に一度会うというイベントなのです。

ただ、ひとつだけ納得いかないのがそれぞれのお祭りが行われる日程。
平成14年の例で言うと、香取神宮が4月15日、16日の2日間だったのに対し、鹿島神宮は9月1日と2日の2日間だったのです。
お互い全く違う日にやっても意味ないじゃん。
わざわざ舟にまで乗って霞ヶ浦(北浦)の沖合で出会うはずなのに、5ヵ月も日程が違うなんてかなりボケボケじゃないの?
っていうか、誰もこのことに関して疑問を持たないのでしょうか?


これで、‘事前調査’は終了!

これだけの予備知識さえあれば、両神宮の重要ポイントは見逃すこともあり得まい。

両神宮の‘パワースポット’は、凸凹の‘要石’が中心かも知れない!

その場所での‘気’を本当に感じる執ることが出来るのだろうか?

(つづく)























[2012/10/11 22:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー2(レイキとパワースポット)
昨日に引き続き、香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー2である。

事前調査なしで、その場に踏み込むという‘暴挙’は、時間の無駄である。意味も判らず‘要石’を見たって多分何の感動もないに違いない!

香取神宮で‘要石’を見せられて‘何これ?’で初めて知って、その後に鹿島神宮へ行って、また‘要石’があることに気付いて、‘ここにもあった~!’では、小学生以下である。

‘宇宙エネルギー’の活用の仕方で‘気功とレイキ’には、その手法に大きな違いがあることは昨日の弊ブログに述べた通りである。

さて、それではお約束通り‘レイキ’とは何か?について・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AD
レイキ

レイキ(靈氣、霊氣、霊気などとも表される)とは、日本発祥の民間療法である臼井靈氣療法が日本国内外で発展し普及した代替医療であり、一種の手当て療法である。国外ではReiki(あるいはRay-Ki)と表され、国によっては[どこ?]医療補助の対象となる。日本国外に伝わった後に日本に逆輸入された系統を「西洋レイキ」と区別することもある。また、臼井靈氣療法が元になっていることを明示するため「臼井」または「ウスイ」を前に付加して表記することもある[1]。
「Reiki」は日本語発祥の言葉として、欧米を中心とする海外で認知度が高い。2001年に発行されたイギリスの辞書「Collins English Dictionary」の新版では、新たに収録する日本語の一つとして、「Ramen」「Bento」「Gaijin」などと共に「Reiki」が選ばれている[2]。
有効性を示唆する研究はあるが、その多くには対照群の設定が適切でないなどの欠陥がある。信頼できる研究の成果によれば、レイキが何らかの病気に有効だとする科学的根拠はない[3]。

概要 [編集]

「西洋レイキ」については臼井甕男の始めた臼井靈氣療法が海外で一部簡略化しつつ独自に発展したものである。臼井の弟子の一人であった林忠次郎からハワイ在住の日系人、高田ハワヨへと伝わったものが主だが、若干の別ルートから伝わったものもあることが判明している。
日本国内では実践者が少なくなっていたが、代替医療の受け入れに柔軟な海外の国々で流行し、1980年代のニューエイジブームと共に逆輸入される形で受け入れられ広まった。

効果としては生命の活性化をはかり、生体内のエネルギー・バランスを調整するとされている。ただし即効性のあるものではない。リラックス効果は高く、レイキを受けながら入眠すると熟睡しやすい。レイキは手のひらを通じてエネルギーが流れるというものである。西洋レイキにおける基本的な施術のやり方は、受け手が横になり施術者が全身の12ヶ所に順に手をあてていく。終了まで約30分から60分。しかしレイキは型にはまったものではないので応用をきかせる等、ある程度は自由なやり方で構わない。受け手側は施術中にもし不快感や尿意などを感じた場合は我慢してはならない。ストレスを感じては本末転倒だからである。レイキの習得に特別な修行は必要なく、誰でも身につけられる。

臼井が創設して今日も続いている臼井靈氣療法學會(臼井霊気療法学会)の内部伝承によると、新宗教の教祖の中には臼井靈氣療法を学んだことがある人が少なからずあるといい、生長の家の谷口雅春や世界救世教の岡田茂吉などの名が挙げられている。
最近の傾向として、民間療法としてだけではなく、実践者の自己啓発、能力開発の一環としても広まりつつある。レイキは宗教ではないが、レイキの教室では自己啓発セミナーのようになっている所がある。
また日本では途絶えていたとされる霊氣の伝授者だが、臼井霊気療法学会が現在も存続していることが判明した上に民間療法として石川県の山口家に残って伝わっていたものが近年になって発見された。山口家への伝授の系列は林忠次郎の直伝ということも資料などから証明され、心身改善臼井靈氣療法・直傳霊気として再度組織編制され広く知られるようになった。

歴史 [編集]

伝承によれば臼井甕男(1865年-1926年)が「wikt:安心立命」の境地を求めて1922年(大正11年)3月に鞍馬山にこもり21日間の絶食を行い、21日目の深夜に脳天を貫く雷のような衝撃を受けて失神し、目覚めた時には治癒能力を得ていたという。それを霊気(靈氣、霊氣)と名付け同年4月東京に「臼井霊気療法学会」を設立。翌年1923年には関東大震災が起きたが、その際には負傷者の手当てに活躍したとされる。1926年に死去。
臼井は霊気の伝授レベルを初伝、奥伝(前期・後期)、神秘伝に分けており、英語ではそれぞれファーストディグリー(レベル1)、セカンドディグリー(レベル2)、サードディグリー(レベル3)またはマスターズディグリー等と訳された。臼井が神秘伝まで伝授した(師範)のは21または20人とされるが、その中の1人海軍大佐、林忠次郎(1879年-1940年自死)は退役後1925年(昭和6年)に治療所を開設「林霊気研究会」を設立した。1935年にハワイ生まれの日系2世高田ハワヨ(1900年-1980年)が日本に帰国した際、重度の難病を林忠次郎のレイキにより完治したことから弟子入り。1938年にハワイを訪れた林忠次郎から神秘伝の伝授を受ける。高田は林から神秘伝を受けた13人のうちの最後の1人となる。
高田ハワヨは1970年まではセカンドディグリーまでしか伝授していなかったが、1970年以降サードディグリーの伝授を始め22人がマスターの伝授を受けた。高田ハワヨの孫、フィリス・レイ・フルモトを含めた21人の所属した「レイキ・アライアンス」、22人のうちの1人であった文化人類学者バーバラ・ウェーバー・レイは1982年に、アメリカン・インターナショナル・レイキアソシエーション(現ラディアンス・テクニーク)を設立してレイキの普及に貢献した。アメリカをはじめ、イギリス、カナダ、スペイン、ドイツ、オランダ、オーストラリア、インド、シンガポール、中南米、台湾、香港など世界各地に広まっている。
日本では一旦廃れるも、1980年代にニューエイジブームと共に「REIKI」として逆輸入の形で広まった。その当時は国内ではセカンドレベルまでの伝授にとどまっており、1990年初めにマスターレベルの伝授が行われるようになった。日本国内のみで続けられている霊気は臼井甕男によって創設され現在も存続している「臼井霊気療法学会」がある。


上記引用文には、‘信頼できる研究の成果によれば、レイキが何らかの病気に有効だとする科学的根拠はない[3]。’と書かれているが、もっと正確には‘科学的根拠はまだ見つかってはいない。’と書かれるべきであろう。

多分、‘レイキ’でも‘気功’でも、何らかの病気に‘直接作用して’その病気を完治させるといった種類のものでなないことは確かである。

‘心身の健康’こそ‘予防医学’であって、‘気功やレイキ’を‘対症療法’の分野で取り上げて‘価値が直接見出せない’という‘論法’は、的を得ていない!

ここに出て来る‘臼井甕男’という人は、以下に示す通り、数々の困難な経験をこなしてきた‘強烈な’人だった。
メジャーにはなっていないが、西洋に伝わって‘逆輸入’されるほどの‘技術’を一人で開発したというから、その修業は命懸けだったに違いない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E4%BA%95%E7%94%95%E7%94%B7
臼井甕男

臼井 甕男

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。
生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。
職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざまに経験する。
その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、
「それなら一度死んでごらん」
と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。

断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。

1922年4月に指導法などを定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。


伝えられるところが‘実話’かどうかは、今となっては調査のしようがないが、何の効果もないということであれば、人々は付いてこない。

まだまだ‘西洋医学’も当時はそれほど高度な技術ではなかったろうし、お薬だって今のように効き目のあるものはなくどんな病気にでも‘葛根湯’の時代であったろうから、‘心の安定’で相対的には‘効き目’のある治療法だったのだろう。

それが、今現在、‘宇宙のエネルギー’という観点から‘見直され始めている’という何と皮肉な現象であろうか!

‘薬を飲まなくなったら病気が癒えた’ともいわれる時代である。対症療法も緊急時には欠かせないが、‘根本療法’が脚光を浴び始めて、‘心の安定’が必要視される時代となった今、‘気功とレイキ’の果たす役目もかなりの重さを持ってきたと言えるのではないか・・・。

食わず嫌い程‘勿体ない’事は無い! 

ものの本によると、臼井 甕男が断食をした‘鞍馬山’は、勿論‘源義経’の訓練・修行の場であったことは夙に有名であるが、‘霊気’の気が立ち込める今で言う‘パワースポット’としても有名な場所らしい。

http://www.gainendesign.com/taizan/kurama/kurama.html
鞍馬・貴船奥の院

kurama07.gif
寿命院前にある、護法魔王尊=サナトクマラが650万年前に地上に 降臨したときの様子を表した石庭。 サナトクマラは人類救済の使命を帯びて、金星から天降ったといわれる。
6.5million ys before Sanato Kumara(not Kurama) coming down to the earth from Venus, this tiny garden express so.

kurama12.gif
石灰岩の岩塊に溢れたこの一体に、昔いん石が落ちたとされる。 こうした岩海は非常に珍しい。 魔王殿の本殿がその岩海の真ん中に鎮座し、写真のように周囲は夥しい 石灰岩の巨岩で溢れている。 実際の鞍馬山頂上はさらにこの上にあるのだが、道がなく行けなかった。 おそらく鞍馬山頂上付近にはまた別の巨石があることだろう。
I've never seen such a strange rock garden. A gigantic meteorite, they say, once upon a time fell down to this point. These rocks are all limestone. A meteorite came down to this limestone sea.


さて、‘パワースポット’についての一般認識は次の通りである。博物学者の‘荒俣宏’氏も真剣に検討されているようである。

荒俣宏
http://japan.digitaldj-network.com/archives/51538705.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83
%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88

パワースポット

パワースポット(power spot)とは地球に点在する特別な“場”のこと。和製英語である為、海外では通用しない[1]。
エネルギースポット、気場とも言う。

概説 [編集]

『世界のパワースポット: 癒しと自分回復の旅ガイド』という本では、パワースポットには人を癒すとされる水があったり、人に語りかけるとされる岩があったり、あるいは磁力を発する断層があったりすると解説されている[2]。
欧米ではボルテックス、vortex、ヴォルテックス(渦巻き)の噴出する地、という概念が有る。セドナ (アリゾナ州)などが有名である。
荒俣宏は、「パワースポットは大地の力(気)がみなぎる場所と考えればよい」と述べ[3]、そもそもパワースポットという言葉こそは新しいが、昔から大地の力を得ようとする試みはあった、と指摘した[3]。荒俣は日本で言えば「熊野三山詣で」がとても古い事例であると説明した[3]。荒俣は、本来なら厳しい修験を行ってはじめて得られる力を、その場所に詣でるだけで得られる、身分性別を問わず得られる、という画期的なものであった[3]とし、ただし何の宣伝もなしに人を集められるわけではなかったので言い伝えが用いられた[3]、同様に伊勢神宮にお参りする「お伊勢参り」でも「修験者しか得られないパワーを性別身分を問わず得られる」と宣伝した、と説明した[3]。 All Aboutでは、パワースポットやスピリチュアルスポットなどと呼ばれるようにもなった場所も、本来は信仰の場であって自然崇拝が行われていた場であったところが多い、とされている[4]。 そういう場所は伝統的に霊場とか聖地sacred placeなどの呼称で呼ばれていた。
宗教学的な見地からは、ミルチア・エリアーデは、自然に対する信仰のうち、山、岩などは天上・地上・地下を結ぶ宇宙軸を、大地や水などは死と再生を象徴するもので世俗生活の根底にあり、それを支える世界観の重要な部分をなしていると分析した[5]。(→#歴史)
荒俣は「パワースポットでは自分なりに大地の気を感じることが大切だ」とした[3]。 ただし、パワースポットを巡って何かと批判も多い(後述)。 →#批判

歴史 [編集]

荒俣宏は、昔から大地の力を得ようとする試みはあった、と指摘している[3]。All aboutでもパワースポットやスピリチュアルスポットなどと呼ばれるようにもなった場所も、本来は信仰の場であって自然崇拝が行われていた場であった、と説明されている[6]。
自然崇拝においては風・雷・雲などのほかに、山・大地・川・湖なども崇拝の対象とされている[7]。地上の場に関しては特に農耕民族ではそうである[8]。山は神聖な場所と見なされ、神霊のすみかと見なされたり同時に死者の国と見なされることが少なくない[9]。日本では富士山、英彦山、白山などの形状が秀麗な山や、雨を降らせると見なされている山(雨降山)、特異な形状や温泉・池などが認められる山などが、古くからそして現在でも崇拝されている[10](山岳信仰)。川や湖の神聖視は特に北米のインディアンの諸族に見られ、水の精や水神が住むところだとされ伝説や神話が数多くある[11]。
日本では、1990年代始めには超能力者を称する清田益章が「大地のエネルギーを取り入れる場所」として「パワースポット」という語を使用した[12]。
2000年代に入ると、大衆向け風水やスピリチュアリズムに対する人々興味が高まった。また神社仏閣などを巡る聖地巡礼ブームが起きた。江原啓之は神社仏閣を「スピリチュアル・サンクチュアリ」呼んでいる。[13]。
2010年8月にはYOMIURI ONLINEで、「特別な力が得られる場所として、日本の全国各地で「パワースポット」と呼ばれる神社や山岳に人気が集まっている。」とされた[14] 2010年9月23日にはNHKハイビジョンで『くまもとの風、大地と天空のミステリー くまもとパワースポット大紀行』という番組が放送され、10月18日(NHKワールドプレミアム)などにも再放送された。 近年ではホットスポットと勘違いしやすい為、あまり使われなくなった。[要出典]

様々な説明 [編集]

パワースポットについての説明は様々である。

風水 [編集]

小林祥晃は、「大地のスーパー・パワー」を題材にしたテレビ番組において、初めて風水にパワースポットという語を使用した、と述べた[15]。 李家幽竹は、パワースポットは20年ごとに気の流れが変わり場所も変動するが神社仏閣は気を長期間留める特殊な建築法をしているのだ、とした[16]。また、パワースポットとみなされるのは神社が圧倒的に多く仏閣は少ないが、これについて若月佑輝郎は、仏閣は人々の悩みや悲しみが集まるためパワーが劣るのだと語った[17] 。小林祥晃は、繁華街もパワースポットであり、パワーに惹かれて人が集まった結果であるとした[18]。御堂龍児は、「(風水における龍穴は)"超能力者や気功をやっている人"が言うパワースポットは別物である」と述べた[19]。

科学風の用語を用いた説明 [編集]

地磁気が強い場所ほどパワーが強いとして、携帯型ガウスメーターでパワースポットの地磁気を計測することはしばしば行なわれる[20]。テレビ番組「奇跡体験!アンビリバボー」では、地磁気は「交流磁気」であり、強い地磁気を浴びること自体がパワーの原因だとした[21]。

佐々木茂美は、地磁気が打ち消しあう場所で「ゼロ磁場」なる状態が発生し、そこに「五次元宇宙」からのエネルギーがもたらされると主張した[22]。伊那市の公式ホームページでは「中国湖北省蓮花山のゼロ磁場を発見した有名な気功師 張志祥により、分杭峠のゼロ磁場が発見されました」としている。[23] 若月祐輝郎は、「断層がぶつかり合うと大気中に電磁波が放出され、それを浴びることにより「暗在系」なる世界からのエネルギーがもたらされる」とした[24]。

伊那市の公式ホームページの説明では、パワースポットでは気の力で放射性崩壊が引き起こされ、放射線が出るため、これが健康に良い、と主張する[25]。

また、楢崎皐月[26][27]が『静電三法』[28]で土壌中の電位差によって土地自体が持つパワーがあるとし、プラスのエネルギーを持つ「イヤシロチ(弥盛地)」とマイナスのエネルギーを持つ「ケガレチ(気枯地)」が存在するとし、ケガレチであっても土壌中に木炭を埋設すればイヤシロチに変えられると記述した[29]。これは後に船井幸雄らが継承し主張した[30]。船井幸雄は「イヤシロチ」にいると筋肉が柔らかくなるので、前屈をしてみればイヤシロチかどうかが分かると主張している[31]。この説はそのまま『水琴の音で、パワースポットをあなたの部屋に』という本のパワースポットの説明に取り入れられている[32]。


これ位の基礎知識があれば、香取神宮&鹿島神宮に赴いて、その場所での‘天からのパワー’と‘地からのパワー’を同時に感じることが出来るに違いない。

(つづく)

次回は、香取神宮と鹿島神宮の‘由来’について






















[2012/10/10 22:15] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー1
気功は、‘宇宙のエネルギー’を心身健康のために存分に‘活用する技’である。

気の発見
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/43444069
66/ref=dp_image_text_0?ie=UTF8&n=465392&s=books


従って、当然訓練が必要である。

しかし、訓練の前にその‘宇宙のエネルギー’とは何かについて、きちんとした知識の学習が必要であると同時にそのエネルギーとはどんなものかを‘実体験’することもこれまた大変に重要な課題の一つである。

そんな‘宇宙のエネルギー’なんてものはあるはずがない、と思うのは浅学というものである。

昔から‘パワースポット’と呼ばれる場所がある。こういう‘表現’をすると‘もう付いていけない’という御仁も‘森林浴’といえば、‘そんものがある訳がない!’とは言わない。

森や海岸を散歩したりすれば、‘確実に’気分が違って来る事を‘宇宙のエネルギー’とは意識せずに‘自分自身で体験している’からである。

我々普通のサラリーマンで、30年も40年近くも頑張ってきた人間には、‘宇宙のエネルギー’について考えたり深く研究したりする時間的余裕などなかったのである。

さて、極めて遠い昔、古代ギリシャにおいて盛んだった‘哲学’や古代中国における‘陰陽’というものの考え方、つまり合理的なものの把握の仕方、すなわち‘学問’においては、その手掛かりは‘宇宙のエネルギー’だったことは明白な事実である。

そもそも‘学問’とは、物事、すなわち‘宇宙の成り立ち’や‘宇宙の法則’や‘宇宙&地球上の諸現象’を実際に現れていて確認出来る事実や‘計画された実験’によって知り得た事実をつじつまの合うように論理的に‘整理統一’することであると私は理解している。

‘陰陽’という学問は、「あらゆるものが‘陰’と‘陽’の‘対’からな成り立っている」という‘手法’を採用した。

また、‘哲学’という学問の基本の一つの手法は、「あらゆるものが‘五行’すなわち‘木、火、土、金、水’から成り立っている」という事であったように思われる。古代ギリシャにおいては、既に上記5つの星は発見されていたのである。しかも、これらの5つの星は、普通の恒星とは違う動きをしており、如何にも‘惑っているかのごとき’動きに感じられたから、‘惑星’として‘恒星’とは区別されていた。

http://www6.ocn.ne.jp/~seisan/634/634-36.pdf
21世紀のパラダイム・シフトはアジアから?

東洋では精神と物質は切り離されないものと
してとらえられてきました。中国の「陰陽五行説」
は古代ギリシャ哲学と同じように「水、火、木、金、
土」の五行からなる宇宙生成の理論
であり、かつ人
間道徳の原理でもあったわけです。話を簡単にする
ため、物心一体の概念である中国の「気」について
考えましょう。中国では古代より、気は万物(自然
と人)すべての根源
である
と考えられています。万
物を構成する最小の物質単位(質料)ですがもちろ
ん古代ギリシャの原子説とは異なります。宋学の集
大成である理気論によれば、天地の気は合わさって
一つで太虚(カオス)あり、分かれれば陰陽であり、
あるいは四季となり、五行となるということですか
ら、宇宙が時空方程式の境界条件であるゼロ(無)
から始まるという「ビッグバン理論」とは大きく異
なります。


太陽と月も‘恒星’とは違う動きをするので、やはり当時の学問的分類方法で考えれば‘惑星’という範疇に入れざるを得なかった。

従って、上記5つの惑星+巨大惑星の‘太陽と月’を組み合わせて、暦の‘七曜’が出来上ったのである。

そう言えば、‘地球様’も惑星なのに、何故暦の詳細を決定する際に‘地球’を入れて‘八曜’にしなかったのであろうか?

答えは簡単! ‘天動説’だったからである! 古代ギリシャの‘哲学者’といえども‘自分のこと=地球のこと’は、まさか‘惑星’とは思わなかったという訳である。

現代のこれほど物が判っている時代においても‘己自身のこと’に気がつかない‘偉い人’が多いのは皮肉である!(また、一寸余計なことを!)

さて、またしても‘前置き’が長くなってしまったが、これも‘落語’で言う所の‘まくら’であるのでご勘弁を!

そんな‘和気清麻呂’で、気功を習い始めた連中で、‘宇宙のエネルギー’= ‘気 or 霊気’を体験してみようということに相成ったという次第。

いわゆる‘パワースポット’といわれる場所で、千葉県・茂原市に近い場所は一体どこだろうか?
何度も行って‘宇宙のエネルギー’パワーの存在に気付いておられる我ら気功の先生が‘香取神宮&鹿島神宮’と指定された。誰も不満に思う御仁はいない。

私自身も、そんな意味付けで‘香取神宮と鹿島神宮’を意識したことは無かったので、賛成である。

香取神宮
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html
香取神宮

鹿島神宮
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/05/post_087a.html
鹿島神宮


海外旅行の達人と言われる人達も‘事前調査’を疎かにする人が多い。‘名所・旧跡’と言われる観光地は、それなりの深い深い歴史を持つ場所であって、その歴史的意義は、現地でガイドさんがほんの数分で説明する内容で理解出来るものではない。ましてやガイドさんなしでも行けるという‘自称海外旅行の達人’を気取る人達は、‘歴史的感動’よりも‘羨ましがられる’ことを快感に思う‘病気’に罹ってしまった人が多い。

そんな‘揶揄’に負けてないけない!そんなことから‘下調べ’と相成った、という訳である。

‘天のパワー’と‘地のパワー’を陰陽では、前者を‘陽’、後者を‘陰’とする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
陰陽(いんよう)とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つのカテゴリに分類する思想。陰と陽とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる[1][2][3][4][5][6] 。
このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行説を構成した。

原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。

重要な事は陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。戦国時代末期に五行思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。


西洋の思想にも‘陰陽’の影は残っている。ドイツ語やロシア語では、名詞を‘男女’に分けている。

気功とレイキの違いは何か?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/quest
ion_detail/q1126779181

気功とレイキの違いを言えば、宇宙エネルギー(と言われるもの)を使わせて頂くのは一緒なのですが、気功の場合、宇宙エネルギーを自らに取り込んで集めて対象物に送るという感じになります。“内気”療法とも呼ばれ、集中力と修練が必要です。

レイキ(霊気)の場合は宇宙エネルギーを通すパイプ役に徹し、対象物に流す感じになります。“外気”療法とも呼ばれ集中力が不要です。
なぜ治るのか?は宇宙エネルギーにより、自己治癒力が高まり、癒しや病気の改善がもたらされるからだと思います。
(私達は、宇宙エネルギーの恩恵を普通の状態でも受けているといえます。療法により、更に受けられるように…という考えです)



霊気とは何か?

日本語WordNet(類語)によれば、以下のように説明されている。

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E9%9C%8A%E6%B0%97
霊気

意義素:人や物を包む高まった価値、興味、意味のある雰囲気
類語 :神秘性 ・ 神秘的雰囲気



(つづく)

次回は‘レイキ’についての調査結果を報告する予定。


















[2012/10/09 23:21] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘復原’なった東京駅
東京駅が2012年10月1日に‘復原’リニューアルオープンした。

ごく一般的にいえば、「‘復元’された東京駅」というべきなのに、何故か‘復原’という文字を使う。

‘建築分野の領域’においては、こんな区別をすることになっているそうだ。

http://www.artscape.ne.jp/artwords_beta/%E5%BE%A9
%E5%85%83%EF%BC%8F%E5%BE%A9%E5%8E%9F

復元/復原
Restoration

建造物にかつての姿を取り戻させること。「復元」と「復原」という二つの言葉は、一般的な辞書では区別されることなく同一の見出しとして扱われ「元の状態・位置に戻すこと」と書かれてあり、意味的には同じことになっている。しかし建築分野の領域においては復元とは失われて消えてしまったものを、かつての姿どおりに新たに作ることをいい、復原とは始めの姿が改造されたり、変化してしまった現状を元の姿に戻すことをいう。例えば《東京駅》の修復工事は「復原工事」であり、1968年に解体された建物を再現した《三菱一号館》は「復元」とされている。時代を経て修復をくり返しながら使われてきた建物を復原、または復元する際は、どの時代の姿に戻すのかがしばしば問題となる。《東京駅》の場合、建設された14年の姿に戻すか、空爆で破壊された後に修復した47年の姿にするかが問われた。これは城や寺社仏閣のように火事で失われても何度も同じ場所で建てられてきた文化財などで特に議論される。また、当初の形態を正しく把握しないまま憶測で元の姿に戻した際、歴史上存在しなかった姿になったり、その時点以降の文化の形跡を破壊するようなことにならないか注意する必要がある。

著者: 立石龍壽(大阪市立大学倉方研究室) 


東京駅の場合、上記引用文にある通り、「どのように‘ふくげん’するか」の検討がなされたようである。

マスコミは、随分前から‘大ニュース’として報じるし、主催者側としても‘一大イベント’としての位置づけで大宣伝をするものだから、まあ日本国中で大変な騒ぎである。

復原と言われても、我々70歳ちょい過ぎの人間でも‘元の状態’を知らないから、拝みに行った所で‘感動や感激’は多分余りないのだろう。しかし、そんなに皆が行きたがったり見たがったりしているのなら、‘そんな人達’を見に行ってやろう!

本当は、自分も見てみたいのだが‘田舎者の照れ隠し’でそんな屁理屈を付けて見に行ってみた。

10月9日は、国民の休日・体育の日である。関東地方では、ここのところすっきりしないお天気が続いていたのだが、今日ばかりは暑くもなく寒くもない絶好の行楽日和となった。

予測通り、正に 黒山の人だかりである! と言っても、先ずは東京駅の丸の内側が、真正面から見える‘新丸ビル’の7階へ。この新丸ビルは2007年4月にオープンしたからもう5年も経っているのだが、‘伝統とモダン’が売り物であるだけに東京の表玄関のビルとしては申し分の無い立派さである。

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正面の建物が‘新丸ビル’である。その7階は、レストラン街になっており、ガラス扉を開ければテラスになっていてそこからリニューアルオープンした‘復原東京駅’が拝めるという寸法である。

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超満員という訳ではなく、最前線に一列で並べる程度の混み具合のようである。

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早速昇ってみることにした。かなりの人出である。決してパラパラという感じではなかった。

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皆が、カメラや携帯電話で復原東京駅をメモリーに収めている。

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この坊やも、お母さんの要求を満足してあげているようだが・・・。

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堂々の‘ドーム’の外。、これが今回の主役の一つ、丸の内北口のドームである。

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どっしりとしていて風格がある。このドームの内側天井が素晴しいそうだ。

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ここが中心部。

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中心部を望遠で撮ってみると、人の多さが判る。まるで大きなチョコレート・ケーキに群がる蟻のように見えなくもない。

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人達が出入りしている‘穴’は改札口に直結している中央出入り口である。それだけにタクシーも勢揃いしている。

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此方が南口のドーム。

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望遠を使って大きくして見ると、画面の右最上部に‘黄色い’はとバスが見える。今日は恐らく全国からお客様がどんどんやって来るのだろうから、きっと東京都内観光は超満員に違いない。

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このガラス張りの大きなビルは、東京中央郵便局。のっぽビルだが、ここもJR東京駅から、いわゆる‘空中権’を買ったのだろうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%B8
%AD%E5%A4%AE%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80

東京中央郵便局

住所:〒100-8994 東京都千代田区丸の内二丁目7-2 JPタワー
前身である「四日市郵便役所」は、大阪、西京(京都)とともに1871年(明治4年)の日本の近代郵便制度開始にあたり設けられた、日本最初の郵便役所のひとつである。また、大阪中央郵便局とともに日本初の中央郵便局でもある。

2012年(平成24年)
7月17日 - 東京中央郵便局が、同日プレオープンするJPタワーの1Fに移転。同時に、東京中央郵便局大手町分室と丸の内分室を廃止し、本局へ統合。併せて、郵便事業銀座支店大手町分室もJPタワーに同居し、郵便事業銀座支店JPタワー内分室に移転・改称。併せて、ゆうちょ銀行本店もJPタワーに移転(取扱店番号は変わらず)。[9]
10月1日 - 郵便事業株式会社と郵便局株式会社の合併により郵便事業銀座支店が銀座郵便局と改称。銀座支店JPタワー内分室は銀座郵便局JPタワー内分室と改称。


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この新丸ビルの裏手に回ってみると、こちら側には皇居と国会議事堂が見える。

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画面の上部には‘二重橋’が見える。皆東京駅ばかりに気を取られて、皇居前広場には人がまばらである。

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此方は国会議事堂であるが、新改造内閣が発足しても‘臨時国会’を開きもしない政府。開けば解散が濃厚になるために開かない民主党。‘潔さ’なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。こんな党を誰が選んだのか?それとも国民を騙したのか?解散すれば確実に自民党の連立政権となるだろうという事は国民の95%の人がそう思っている。民主党には、‘結束を固める’という意味合いで自由な発言さえ許されないという見方もあるという。

その点、‘発言に自由がある’のだろうと思われているのが自民党。そう、そう言えば、‘民主党’に‘自由’を付けたのが自民党、すなわち、‘自由民主党’という訳である。さて、此方も今後も行方は?

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新丸ビルの7階、‘展望テラス’の内側である。レストランの順番待ちかそれとも草臥れたための休憩か?空席は無い。

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同じく新丸ビルの3階、高級ブティック。店内の奥に復原東京駅が見えるが、この時刻に店内にはお客はいなかった。

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ここは、ブティックのお隣にある休憩所。ここからも奥に東京駅が見える。豪華なソファもあって素晴しい。

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ここも同じく新丸ビルの3階の男子トイレ、総大理石。高級ホテルのそれと見紛うばかりで、しかもこんなに7階辺りはごった返しているというのに3階は静かそのもの。東京駅付近で‘用を足したくなったら’ここへ来るといい。新しい発見!

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新丸ビルの外へ出た。370台の駐車が可能という新丸ビルの駐車場はご覧の通り満杯。

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ここが新丸ビルの大手町側と東京駅側の‘角っこ’。

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その‘角っこ’から見た東京駅・北口のドーム外観。

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大通りを横切って、東京駅の方へ。‘東京中央郵便局’が左に、‘丸ビル’が右手に見える。

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此方は大手町方面。

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此方は、東京駅・北口から見れば右斜めトイメンに当たる場所。

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大勢の人が交差している。12時近くのこんな時間帯に普段はこんなに人はいない。

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さあ、北口に近づいてきた!

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いよいよ北口入口である。

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この丸の内北口の中は、予想通り、‘黒山’という表現がぴったりの‘人だかり’。

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みんなドームの天井を見に来たのだからそうなのだが、ほとんどの人が天井を見上げて撮影中である。

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とうとう天井が見えた!

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皆見上げている。

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この方も一所懸命!この方が撮影されている画面を此方で撮影して見た。

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噂通り、天井は素晴しい!八角コーナーには、八羽の鷲(両翼約2.1m)が取り付けられている。

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望遠で大写しにしてみると、鷲の様子がよ~く判る。

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素晴しい!
ネットが張られているのが判るが、これは‘ハトの糞害’を防ぐためなのだろう。平和の象徴としてもてはやされるが、一方では‘糞害’を撒き散らして嫌がられる。みんな‘糞害’には‘憤慨’しているという訳。世の中表裏一体!

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ドームの中を八方に取り囲んで関連映像が目まぐるしくCMと一緒に流されている。音が無いだけ助かる。

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ここは立ち入り禁止の場所。東京駅の‘礎’。

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立ち入り禁止のお達しも破って、必死の撮影。

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東京ステーションホテルは、もう相当先まで宿泊予約は満杯だそうで・・・。

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オリンピック招聘のポスターも・・・。

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駅構内は、思いの外普通通りで、というよりは体育の日で休日のためか却って閑散としている。いつも利用する京葉線へ続く構内。約500m先に京葉線のホームが・・。

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丸の内とは反対側の八重洲口方面。やはり普段より人の数が少ない。皆改札口を出てドームか外観を見にに行っているのだから当然といえば当然であるが・・・。

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12時半ごろだから、八重洲口地下街はこれこの通り、ラーメン店街には行列が・・・。

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おやおや、何でこんなところに‘江戸城の模型’が置いてあるのだろうか?

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http://npo-edojo.org/?page_id=8
認定NPO法人 ‘江戸城再建を目指す会’というのがあり、もう10年も前からその活動があった由。

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署名を集めておられるというから、署名をさせて貰った。お二人の方にお話を聞いた。もう数万名の方の署名が集まっているという。江戸城本丸は明歴(3代将軍・家光の時代)の火災で焼け落ちて以来、徳川幕府約250年間江戸城は天守閣なしで過ごしてきた。しかし、こので観光資源やその他の目的で本丸の再建案が登場。その思惑は前出の引用通り。

それに反対する御仁もおられるという。「江戸幕府が必要としなかった天守閣なのに、なぜ今本丸が必要か?」ということらしい。費用も沢山掛かるのに・・という反論なのか?

私「ところで、費用はどのくらい?」

笑顔の向かって右の方「少なくとも2~300億円。」<規模次第では~1,000億円?かも(私の邪推)>

私「尖閣問題でも20億円弱の寄付が集まったのだから、今後活用して貰える法人・団体 & 政府へ働き掛ければそれくらい案外早く集まるのでは?」

回答者様「それがなかなか・・・」

私「私は、歴代の全首相もよ~く存じ上げているし、天皇陛下・美智子皇后様もよ~く存じ上げていますよ!」

相手様「えっ!あなたそんなに凄い方なのですか?!」

私「いやいや、それ程でも・・。私は皆様存じ上げているのですが、相手が私を知らないだけでして・・・」

双方「大笑い!」

そん訳で大笑いした後、ご許可を得て撮影。
担当者様「ハレーションは起こしませんでしたか?」

私「はい、それを恐れて、フラッシュなしで!」

双方「大笑い!」


早く寄付金が集まり、国家事業として政府が取り組むべきでは?

尖閣問題と同様、東京都・石原知事も動いておられる様子。いよいよの場面になったら今の野田首相さんなら‘他人のアイデア乗っ取り犯人’だから、自分の‘功績’を一つでも残しておこうと‘消費税’の自民党案、‘尖閣’の都知事案同様この案も盗みに来る可能性は大!

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こちとらもこの辺で昼食に!

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ジャンボ宝くじでも買っておきますか!

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この長~い行列は、やはり‘女子トイレ’のようだ。

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お婆ちゃんもリュック姿で、どちらから?

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地方から遠路はるばる重い荷物で‘ドーム見学’だろうか?

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もう一度素晴しい‘ドーム復原’の北口の外観を!

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この素晴しい天井!

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外はまだまだ人が増えるばかり・・・。

そろそろ、千葉の田舎へ帰り始めないと年寄り用の空席なんて無いんだから・・・。
























[2012/10/08 22:20] | 観光 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
きのこの‘胞子紋’と松茸の人工栽培
きのこの観察・研究分野に‘胞子紋’を採るという仕事があるという。

‘胞子紋’とは、きのこの胞子の‘文様’である。これをよ~く観察すると胞子の出方が判ると同時に‘胞子を大量に採取’することが出来るので、色々な試験装置で、詳しい観察やその‘きのこの正体’を探ることが出来る。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/kinoko/kiso.html
キノコの基礎知識

1 キノコとは

 キノコは菌類であり、分類学上はカビに近い仲間で、その本体はカビのような菌糸というものです。
 キノコとは胞子をつくるための器官で、ある時期に肉眼で見えるようになったものなのです。
 日本には少なくとも約5000種のキノコがあると言われますが、日本のキノコの分類はまだ十分ではなく正確な数はわかっていません。
 また、日本でとれるキノコの内で正式な名前の付いているものは、約3分の1とも言われています。


きのこの構造

胞子紋0002-2

http://wwwb.pikara.ne.jp/y-lab/kinoko/kinoko2/228.html
ヘビキノコモドキ (テングタケ科、テングタケ属)
A. spissacea Imai

 傘は径4~12cm、卵形~まんじゅう形から平らに開く。表面は帯灰褐色~暗灰褐色、 多少繊維状で、最初は黒褐色粉質の小いぼ(外被膜)が密集、連続しているが傘が開くにつ れてひび割れ、大小の集団となって散在する。肉は白色、ひだは白色、密、縁部は粉状。柄 は5~15cm×8~15mm、灰色~灰褐色で繊維状細鱗片におおわれ、つばより上には だんだら模様がある。つばは灰白色、膜質、縁は黒褐色粒状、柄の基部の膨大部には壊れた 粉質~膜質のつぼが環状に残る。夏~秋、シイ・カシ林、クヌギ・コナラ林などに発生。
 中国ではしばしば中毒が出ている。

ヘビキノコモドキ
ヘビキノコモドキ

*胞子紋は白色。胞子は広楕円形で7×6.3μm。

ヘビキノコモドキのSEM像
ヘビキノコモドキの胞子の走査型電子顕微鏡(SEM)像



http://wwwb.pikara.ne.jp/y-lab/kinoko/kinoko3/349.html
クロハリタケ (イボタケ科、クロハリタケ属)
Phellodon niger (Fr.: Fr.) karst.

 地上生、有柄で高さ3~7cm、傘は不正円形、ほぼ扁平、径2~5cm、隣同士が癒着する。表面はフェルト質で凹凸状、白色の縁部を除いて灰黒色~黒色。肉は上半はフェルト質、下半は皮質で黒色。柄も外側は黒いフェルト質、針は初め白色のち灰色、長さ2mmほど。キノコは乾くと漢方薬用の匂いを放つ。マツ林に群生。不食。

クロハリタケ
クロハリタケ

*胞子紋は無色。胞子はとげ状突起を持つ類球形で、大きさは4.0×3.8μm。

クロハリタケのSEM像
クロハリタケの胞子の走査型電子顕微鏡(SEM)像



http://wwwb.pikara.ne.jp/y-lab/kinoko/kinoko1/034.html
スギタケ (モエギタケ科、スギタケ属)
P. squarrosa (Mull.; Fr.)

 傘は径5~10cm、鐘形~丸山形のち平らに開く。表面は粘性なく、淡黄色~淡黄褐色、 赤褐色のささくれ状の鱗片でおおわれる。ひだは帯緑黄色のち褐色。柄は5~12cm、上 部に暗褐色で繊維質の裂けたつばを持ち、つばの上方は平滑、帯黄色、下方は傘と同様の鱗 片で覆われる。胞子紋はさび褐色。夏~秋、広葉樹の枯れ幹、切り株上に発生。時には針葉 樹の切り株上にも生える。食。北半球の温帯に分布。
 ばさっとした感じのキノコで、ひもちがよく風味に癖がない。ピクルスにすると固い肉の 歯切れがよく、ささくれと色合いが美しい。ただし、時に腹痛、下痢などを伴う中毒を起こ す事がある。また、酒などアルコール類とともに食べるとよくないといわれる。味区分:D

スギタケ
スギタケ

*胞子紋はさび褐色、大きさは5.5×4μm。

スギタケの胞子のSEM像
スギタケの胞子の走査型電子顕微鏡(SEM)像



http://wwwb.pikara.ne.jp/y-lab/kinoko/kinoko1/013.html
マツタケ (キシメジ科、キシメジ属)
Tricholoma matsutake (S.Ito et Imai) Sing.

 傘は径8~20(30)cm、初め球形のちまんじゅう形~中高の平らとなり、ついには 縁部がそり返る。表面は褐色の繊維状鱗片におおわれるが、しだいに裂け目やひび割れが出 来る。
 ひだは密、白色のち褐色の染みを生じる。柄は長さ10から20(30)cm、褐色繊維 状の鱗片におおわれ、頂部は白色。肉は白色、緻密、特有の香りがある。つばは綿毛状、永 存性。胞子は6.5~7.5×4.5~5.5μm。秋、アカマツなどの松林以外にコメツ ガ・ツガ・アカエゾマツ・トドマツなどの森林にも発生する。日本の代表的な食用菌で、東 アジアに分布。
 マツタケは何といっても日本人の味覚にあう。栽培できない事も人気を支える要素なのだ ろう。肉質はきわめてかたく締まり、歯切れ、歯ごたえは格別。柄の薄切りの舌触りもよい が、やはり香りが生命。炊き込み御飯、どびん蒸し、炭火焼き、ホイル焼き、お吸い物から マツタケ酒に至るまで色々な日本料理に香りが生きる。
 味区分:C
 特にアカマツが松食い虫にやられてからは、発生量が激減傾向にある。この写真は佐渡で 採った物であるが、もう4~5年もするとまったく見られなくなるのではないだろうか?

マツタケ
マツタケ

*胞子は広楕円形で、大きさは6.2×5μm。

マツタケの胞子のSEM像
マツタケの胞子の走査型電子顕微鏡(SEM)像



それにしても気になるのは‘松茸(マツタケ)’様

http://www.cc.rd.pref.gifu.jp/forest/rd/shigen/0505gr.html
発芽困難なマツタケの胞子

(岐阜県森林科学研究所)水谷和人

【少なくなった胞子】

マツタケの発芽実験-1
実験に使用したマツタケ

 傘の開いたマツタケをヒダを下にして置いておくと、次の日にはその場所が粉をまいたように白くなります。これは、マツタケの胞子が落ちて厚く堆積したもので、その数はおそらく数億個に達すると思います。マツタケはこのように多量の胞子を散布して子孫の繁栄を図ります。マツタケがたくさん生えていた時代には、驚くほどの胞子が山に飛散していたことでしょう。

 一方、近年の胞子飛散量は、マツタケが減っているのに追い打ちをかけるように、発生したキノコのほとんどを胞子が飛散する前のツボミの状態で採取することから、極めて少なくなっているはずです。

 マツタケの増産を図るためには、若いアカマツ林を増やすことが必要です。しかし、これには長い年月を要すること、またマツ枯れの問題もあります。当面は残存している若いアカマツ林の環境改善を進め、飛散量の少なくなった胞子をいかに効率的に発芽させられるかが重要となってきます。このためには、胞子の発芽に関する情報を得ることが必要です。

【発芽困難な胞子】

 マツタケの胞子は傘の裏のヒダに形成されます。胞子の飛散は傘が開いて裏の膜が破れてから始まります。このような状態のマツタケから胞子を採取し、すぐに栄養が入った寒天培地に播きます。13日目に約1,000個の胞子を観察しましたが、全く発芽しておらず、その発芽率は0%でした。この程度の方法ではほとんど発芽しません。一方、有機酸がマツタケの胞子発芽を促進することがわかってきているので、実際に有機酸の一種である酪酸を添加してみます。すると、発芽率は約7%になり、酪酸は発芽向上に有効な物質であることがわかります。なお、採取した胞子を密封して冷蔵庫に保存すると、発芽可能な期間は、もって一日でした。

マツタケの発芽実験
胞子の採取

マツタケの発芽実験-3
酪酸を添加して発芽した胞子

 胞子は球形で表面も滑らかな特徴のない形態をしており、発芽は一週間もすれば確認できます。よく観察すると、発芽する胞子は膨潤し、内部に油滴と呼ばれる組織がはっきりと確認できます。膨潤しない胞子は、いろいろな方法を駆使しても、何ヶ月待っても全く発芽しません。胞子の膨潤は発芽に対して必須条件のようですが、膨潤しても発芽しない胞子も結構あります。

 シイタケやエリンギなどの胞子は、水に溶いて寒天培地へ播くだけで、三日程度で驚くほど簡単にそのほとんどが発芽します。これに比較すると、マツタケの胞子は発芽しにくく、保存も利かない厄介者です。

【貴重な胞子の取り扱い】

 少なくなった胞子がさらに発芽率が低くては、山にマツタケが増える要素はありません。人が手を加えない限り、減産の歯止めはかけられないでしょう。このため、胞子の飛散を期待するだけでなく、積極的に胞子播種を行う必要もあります。この方法はだれでも容易にかつ広範囲に実施が可能です。いくつかのキノコでは増産に成功していますが、マツタケの成功例はほとんどありません。この原因も発芽率の低さや保存の難しさにあると思います。胞子の発芽向上だけでマツタケの増産が可能になるとは考えられませんが、可能性は高くなることは間違いありません。現状では発芽向上に酪酸の添加が有効と考えられますが、より高い発芽率を得る方法や保存方法などを明らかにする必要があります。



なかなか大収穫への道は遠いらしい。

人工栽培の研究はどうなっているのだろうか? 最新の研究報告がこれだ!

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/27145
食の研究所 > 特集> 日本食の先端科学

今か今かと待ち続けるキノコの発芽

マツタケ、人工栽培への道(後篇)

2011.10.28(Fri) 漆原 次郎

 香りは上品。形も美しい。マツタケは、日本の秋味をつくりだす代表的な食材の1つだ。そのマツタケの生産量が、日本人の“里山ばなれ”やマツ枯れ拡大などのために減っている。

 日本の林で再びマツタケを増やすには「人工栽培」の方法を確立することが決め手となる。

 後篇では、茨城県林業技術研究センターの小林久泰氏に、同センターのマツタケ人工栽培の研究の道のりを聞く。長く険しい道のりを、研究者たちは今なお歩き続けている。

 マツタケの人工栽培化の研究は、苦闘と挫折の連続だった。マツタケの世界に人の手を加えるのは、とても難しいことなのだ。

 マツタケの人工栽培はなぜ難しいのか。

 主な理由に挙げられるのは、マツタケは生きている木の根でしか成長しないということだ。シイタケやエノキダケは死んだ木も自分たちの棲み処にする。対して、マツタケは、マツが光合成でつくりだす栄養をつねに受けながら生きる。マツとマツタケという、生きているものどうしの関係の中に、人が手を入れて成長を促すのは簡単なことではない。

 100年以上になるマツタケ研究の歴史があるにもかかわらず、人工栽培の方法が確立されていないという点からも、その難しさがうかがえる。

苗づくり、植え付け、菌の増殖という3つのステップ

 至難の業のマツタケ人工栽培に挑み続けている研究機関は多い。その1つが、茨城県林業技術センターだ。1991年に「きのこ特産技術センター」を設置し、マツタケの人工栽培のための研究を本格化させた。今は、97年から20年間にわたる長い計画研究の最中にある。

 同センターは、マツタケの人工栽培について、明確なステップを掲げている。それは、「苗づくり」「植え付け」「菌の増殖」という3つからなる。

 まず、マツタケの菌が感染したマツの苗を人工的につくる。そして、それをマツ林に植えてマツタケ菌を定着させる。最終的に、マツ林に「シロ」とよばれる“マツタケ安住の地”をつくりだす。これが3つのステップだ。

 きのこ特産部主任研究員の小林久泰氏が、同センターのマツタケ栽培化への歩みを紹介してくれた。

 同センターはまず県内の試験林で、「効率的にマツタケを成長させる林づくり」に取り組んだ。人工の苗をマツ林の中で育ててマツタケを生やすには、すくすくとマツタケが育つ環境を整えてやらなければならない。

 「山の林には、当然ながらマツ以外の木も生えています。そこで、広葉樹などの木をある程度、間引きします。それに、地面についても有機層を丁寧に取り除きます」

 これで、様々な木が生い茂った林からマツが中心の林へ、また、養分の豊かな地面から養分の乏しい地面へと変わる。他のキノコ類や植物などとの“縄張り争い”に弱いマツタケにとって、こうした極端な環境の方が育つには好都合だ。

 環境整備をした効果はてきめんだった。整備以前は、マツタケが年間1~2本生えるかどうかだった。ところが整備してから2年後の96年以降、マツタケの発生本数はみるみる増加していき、97年には40本まで達した。

 「苗づくり」「植え付け」の先にある「菌の増殖」のための環境づくりの方法が、これで見えてきた。

マツとマツタケは共に手を差し伸べ合って生きていた

 マツタケを育てるには、そもそもマツタケがどのような菌なのかを、より深く知ることも重要となる。

 99年、同センターの研究員だった山田明義氏(現・信州大学准教授)は、野外のマツ林の根を観察することにより、マツタケ菌が「外生菌根」をつくっていることを明らかにした。

 生きている植物の根と共生して生活しているキノコは「菌根菌」と呼ばれる。このうち「外生菌根」とは、根の表面を菌糸が覆い、根の皮層細胞の間にも菌糸が侵入して生活する菌根菌のことだ。マツタケの生態には謎の部分が多く、こうしたことは山田氏らの研究により、ようやく解明されてきた。

 「山田先生は引き続き室内でも、条件を慎重に設定した中で合成実験を行い、マツタケの菌根を再現することに成功しました」と小林氏は話す。

 それまで、マツタケ研究者の間では、マツタケはマツの根に「寄生的に働く」から、マツはマツタケによって衰弱してしまうという見方もあった。

 だが、山田氏の室内研究により、マツタケとマツは共に手を差し伸べながら生きていく関係にあるということが確かめられた。これは、マツタケ菌をマツ苗の根に付けて育てるという方法の正しさを証明することにもなった。実際、同センターは、マツタケ菌をマツの根に付けることに成功している。

容器の改良でマツタケ菌が大量に生育

 信州大学へ移った山田氏が築いてきた研究成果を引き継いだのが小林氏だ。マツタケの菌が付いたマツの苗を確実につくるにはどうしたらよいか。これを小林氏は考えていくことになった。

人工気象室のマツ苗の人工容器
茨城県林業技術センターの人工気象室にあるマツ苗の人工容器。根にはマツタケ菌が付いている。

 同センター内にある「人工気象室」には、透明の容器が多く置かれている。1つずつの容器の中で育っているのは、マツタケ菌を付けたマツの苗だ。小林氏は、マツタケの菌とマツの苗を他の菌から守る専用容器の開発と改良をしてきた。

 “花瓶”に相当するアルミ箔で覆われた器の上に、透明容器の蓋がかぶさっている。その境目をビニールテープで留めるなど手作り感もあるが、実は改良を重ねた優れものだ。

 「一般的な容器では、上の口の部分がすぼまっています。しかし、口がすぼまった容器で苗をつくると、マツ林に植え付けをするため苗を容器から取り出す時、土が崩れてしまいます。そこで、口が幅広の容器をつくることにしました。こうすることにより、土が崩れることなく、ほとんど菌根も傷みません」

 容器の穴の数を多くするという工夫もした。「東京医科歯科大学の金城典子先生をはじめいろいろな方から、密閉容器で生きものを育てるときは通気性を考えないといけないというヒントをもらい、透明容器に開けていた穴を4つから8つに増やしました」。

 すると、それまで低かった容器内の二酸化炭素濃度は、外の環境と同じようになった。マツの光合成が活発に行われるようになり、容器内のマツの根ではマツタケ菌が大量に育っていた。「おそらく、通気性が改善され、マツはより高濃度の二酸化炭素を光合成に利用できるようになり、その結果、より多く生産された糖類が菌に供給されたものと考えられます」。

「2年生存」に成功、キノコは生えてくるのか

 「苗づくり」「植えつけ」「菌の増殖」というマツタケ人工栽培への道の中で、こうして「苗づくり」の改良も重ねられたわけだ。

 実際に小林氏は、マツタケ菌の付いたマツの苗を、環境を整えた森林に持っていき、植え付けを行っている。成果はどうか。マツ林から人工栽培のマツタケは生えてきたのだろうか。

 「残念ながら、まだキノコは生えてきてはいません。ただし、最長2年間のマツタケ菌の生存は確認できています」

 マツタケ菌が菌の状態からキノコの形になるには、菌が根に付いてから3年ないし5年の時間がかかると考えられている。とすると、もうあと1~2年、マツタケ菌の成長が続けば、人工栽培のマツタケの誕生の日も見えてきそうだ。

 「しかし」と小林氏は言う。

 「それにはマツタケ菌の量の多さも必要になると思います。2年の生存という最長記録はつくりましたが、野外のマツタケは何十年も生きています。まだ、2年しか生存させられないというのが実感です。人工のマツタケ菌をマツ林の根に定着させて増殖させる段階では、菌が伸びていかないという大きな課題もあります。伸ばすための試行錯誤をしているところです」

 多くのマツタケ研究者にとって、自分が手がけたマツタケ菌からキノコが生えてくることは悲願であるにちがいない。

 そのゴールまでの道のりは、近いようで遠いのかもしれない。だが、遠いかもしれないゴールを確実に近づけるのが研究の積み重ねでもある。

 「なにか研究での課題が出てくるたび、それをいかにつぶしていくかを考えていきます」と小林氏は話す。問題解決を確実にしていき、すべての条件が揃った日、人工栽培のマツタケは姿を現すのだろう。



焼きマツタケ
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/52114/52114.html

ジャンボ宝くじが当たれば、これでいきますか?(案外、みみっちい!)

ウナギの人工孵化もまだまだ上手く行っていないという。


‘松茸’とかけて‘ウナギ’と解く!

そのこころは?

どちらも‘美味い’が、人工的に造る研究は‘上手く’行っていない! 

お後がよろしいようで・・・・。


















[2012/10/07 20:14] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
自転車‘虫ゴム’の交換
久し振りに自転車に乗ろうと思った。

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急に秋らしくなってきたのとここのところの運動不足の解消のためにと思ったからでる。

半年以上も玄関前にほったらかしにしてある。空気入れを使って空気を入れてみて驚いた。前輪はスムーズに空気が入ったのだが、後輪は直ぐに空気が抜けてしまう。

この自転車は、もう3年も前に友人から古希の祝いにと新車を頂戴したのである。彼等は私が車の免許を取っていないことを知っていたから・・・。

まだそんなに古くは無い筈なのに何故?

小さい時に、古自転車の‘虫ゴム’を交換したことを思い出して、空気を抜いて‘バルブコア’を外してみると案の定‘虫ゴム’が劣化して役に立たなくなっている。

これじゃあ、前輪も‘同い年’だから、と思って外してみると、やはり劣化が始まっている。

たまたま近所に自転車屋さんがあるのに気付いて‘虫ゴム’を‘ただ’で戴いてきた。

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自転車の‘空気閉じ込め機構’は、何十年の歴史があるのだろう、極めて単純だが‘素晴しい’発想である。

虫ゴムとプランジャーの構造
http://bicycle-aaa.jugem.jp/?eid=122

(以下の写真は、引用:http://ameblo.jp/sumiyoke-syoutenn/entry-10611866160.html

英式バルブはこんな構造|名古屋市 守山区喜多山駅から一番近い自転車修理、オーバーホール店「隅除輪業」観察日記0001-1
英式バルブはこんな構造|名古屋市 守山区喜多山駅から一番近い自転車修理、オーバーホール店「隅除輪業」観察日記0001-2

英式バルブはこんな構造|名古屋市 守山区喜多山駅から一番近い自転車修理、オーバーホール店「隅除輪業」観察日記0001-3

この小さな‘穴’をつけて、圧力の高い空気は導入出来るが、それほど圧力の高くない空気(タイヤの中の空気)は‘虫ゴム’の縮む力を利用して外部への吹き出しを‘阻止’するというメカニズムである。

この‘虫ゴム’方式の最大の欠点は、ゴムの劣化である。

「ゴムは、残念ながら‘脱硫現象’を起こす。ゴムの弾性確保のために‘硫黄’が添加してあるが、この‘硫黄(S)’が、特にゴムが‘鉄(Fe)’と接触をすると‘脱硫現象’が加速されて、弾力性の無い‘劣化ゴム’になる。」とばかり考えていたが・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%A0
天然ゴム [編集]

天然ゴムの構造
天然ゴムの構造

天然ゴム (NR) はゴムノキの樹液に含まれる cis-ポリイソプレン [(C5H8)n] を主成分とする物質であり、生体内での付加重合で生成したものである。樹液中では水溶液に有機成分が分散したラテックスとして存在し、これを集めて精製し凝固乾燥させたものを生ゴムという。生ゴムも弾性材料として消しゴムなどに使われるが、硫黄による加硫により架橋させると広い温度範囲で軟化しにくい弾性材料となる。この加硫法による弾性改良はチャールズ・グッドイヤーにより1839年に発見された。硫黄の他に炭素粉末を加えて加硫すると特性が非常に改善され、その含有量によって硬さが変化する。多くの硬質ゴム製品はこの炭素のために黒色をしている。



加硫

加硫(かりゅう)とは、架橋反応の一種で、ゴム系の原材料(生ゴムなど)を加工する際に、弾性や強度を確保するために、硫黄などを加える行程のことである。
1839年、アメリカの発明家チャールズ・グッドイヤー(C.Goodyear)により発見され、1843年にイギリスの発明家トーマス・ハンコック(T.Hancock)により、反応の仕組みが解明された。

反応 [編集]

加硫の模式図
ポリイソプレンへの加硫の模式図

材料の分子内にある多重結合部に反応し、加えられた硫黄を媒介とした分子間結合が、新たに作り出される。この反応により、材料の分子量は増大し、それに伴い、ゴムの弾性や強度が飛躍的に向上する。
ただし、過剰な加硫を行うと、多重結合や分子間の流動性が失われ、弾性が失われる。この性質を利用した材料にエボナイトがある。
加硫剤としては、硫黄のほか過酸化物なども使用され、加える化学物質により、様々な特性を持つゴムを製造することができる。加硫剤の働きを促進させる加硫助剤には、無機系の酸化亜鉛や酸化マグネシウムなど、有機系のステアリン酸やアミン類などが使われる。加硫時間の短縮などの目的で、チアゾール系を中心とした加硫促進剤が添加されることもある。

用途 [編集]

タイヤやゴム製品に使用される。スチールラジアルタイヤに入れられている鋼線は鋼とゴムは接着性が良くないので銅めっきが施されている。加硫によってゴムに数%含まれる硫黄と銅が強力なイオン結合を形成する。1970年代のスティールラジアルタイヤのワイヤは銅メッキで、現在はより強度があるブラス(真鍮)メッキになった。ブラスメッキは銅と亜鉛を陽極に並べてメッキする。最近は鋼線とゴムとの接着をナフテン酸コバルトというものを介在させる界面活性剤で解決する方法が見付かったが環境に悪影響を与える可能性がある。



天然ゴムの劣化に関する知見が次の資料(http://www.cerij.or.jp/cerinews/cn_pdf/cerinews_053.pdf)に解説してある。

ゴムやプラスティックの劣化現象0001-2
ゴムやプラスティックの劣化現象0002-2

この解説によると、必ずしも‘天然ゴムの劣化’=‘脱硫現象’という事ではないらしい?!

どうやら、私が考えていた天然ゴムの劣化現象は、‘脱硫’ではなくて、銅イオンが触媒となって、天然ゴムの高分子が低分子化することによる弾力性の低下であるようである。

ただし、元々の天然ゴムは低分子であるので、それを‘硫黄(S)’によって高分子化して弾力性を持たせたものであった。

低分子化された際には、‘硫黄(S)’原子はどこへ消えたのであろうか?それこそ‘脱硫’?

もう少し本格的に調査をする必要があるのかも知れない。架橋化と高分子化の意味の違いは、一体何?



なお、何故このゴムを‘虫ゴム’というかについては、「日本では‘小さい’ことの表現に‘虫’という事が多いことから、‘虫ゴム’という事になったという」説があるというが、まだこれにも納得がいっていない!

調査することがまたまた増えてしまった。


(つづく)













[2012/10/06 20:51] | 趣味 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
江戸幕府の行政を「仁政」に転換させた男:天草四郎
「仁政」という言葉がある。‘情け深い’政治のことである。

江戸時代が何故‘約260年間’もの長期に亘って安泰の時代であったかについては色々な説があるのだろう。

一義的には、徳川家康の‘戦略’が功を奏していると思われるが、さてその家康の基本路線だけでそんなに長続きをするものだろうか?

誰の‘策略’かは、今後の歴史研究においても‘覆る発見’があるかもしれないが、兎に角、一般市民が‘太平を貪った’事は事実のようである。

科学技術の急速な進歩・発展がなかったこともその大きな要因の一つに挙げてもいいのではないかと思う。その観点からすれば、‘鎖国’ををプラス効果として認めなければならないが・・・。

われわれは、第二次大戦後の教育方針で、進歩、進歩と「進歩こそ、何にも勝る」として価値観を押し付けられ、同時に‘世界平和’を叩き込まれた。

しかし、振り返ってみると‘進歩の強制’と‘世界平和’は、何となく相反する事のように思えてならない。

‘進歩’は競争社会をつくる。‘世界平和’は、(多分)競争社会であってはならないからなのであろうか?

そして、悲しいかな‘世界平和’は‘大きな犠牲の上’にしか存在し得ないという事実がある。

有史以来現在まで、世界中で戦争が起こっていなかった時代は多分なかったと思われる。この原因は、‘人間が向上心を持つ動物である’からなのだろう。

向上心を持つという事は、現状を打破して一歩でも‘上に移行’しようとする。それが進歩に繋がるのだ。
そして、残念ながら‘上に移行’することが‘平和’を乱す事に繋がる。

‘平和’という文字を見れば判る。‘平和’を辞書で調べれば、「やすらかにやわらぐこと。穏やかでかわりのないこと。」とある。

余り変わってはいけないのだ。

その証拠の一つに‘シーラカンス’がいる。

シーラカンス
http://2006-usaminn.blog.so-net.ne.jp/2008-03-07

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%
B7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B9

シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、古生代デボン紀[1]に出現して広く世界の水域に栄えたが、約6500万年前(中生代白亜紀末)の絶滅イベント(K-T境界)を境にほとんど全ての種が絶滅した。
長らくシーラカンス目は全て絶滅したものと考えられていたが、南アフリカにて1938年、現生種の存在が確認され、学会および世界を騒然とさせた。この種が ラティメリア・カルムナエ (Latimeria chalumnae) であり、シーラカンスの代表となる。
その後、1997年にはインドネシアでラティメリア・メナドエンシス (Latimeria menadoensis) の現生が確認されている。これは日本語では生息地域の名を採って「インドネシア・シーラカンス」とも呼ばれるようになる。
シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、白亜紀を最後に化石が途絶え、1938年に至るまで現生種が確認されなかったこと、化石種と現生種の間で形態的な差異がほとんど見られないことなどから、これら2種は「生きている化石」との評価を受けた。


そう、デボン紀といえば、4億年も前の事である。その間形態的にはほとんど同じというから、これこそ‘平和’の象徴である!

人間は進歩することを‘最上’と考える動物であるから、‘形態’を変える。自動車の発明で歩かなくなってしまった見返りが、体の不調を招くと同時に‘出腹の体型’を造り上げつつある。それもほんの数10年間でである。

何とか‘人類の進歩意識’を是正せねばならない時代が来つつあると考えた方がいい。

さて、そんな江戸時代においても‘進歩無き平和な世の中’を‘再現’しようと立ちあがった集団があった。

天草四郎を頂点に戴いての一揆‘島原の乱’である。

歴史書は、どの時代のものでも‘全て偽りである’と言った人達が大勢いる。その時の為政者によって都合のよいように書き換えられたり初めからウソ偽りで固められたりすることは、これまでの常識である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%8F%B2
正史における偽史なのか、それとも歴史修正論なのかを巡る議論

ただし歴史というものには根本的に偽史が練り込まれてしまっていて、“本当の歴史”と偽史は必ずしも区別できるものではない、といったことを言う人はいる。いわゆる“正史”とされるもの、つまり政権の組織で保存されてきた歴史書のというのは、権力者が誰かを雇い書かせたものであるので、当然その権力者に都合よくできごとを歪曲して書かせてしまったり、権力者に都合の悪い事実は一般的に言えば書かれることが無い、と言われることがあるのである。

たとえば若狹和朋は、中国の正史(官史)というのはことごとく偽史だ、と述べた[11]。理由はそれをつくる者が官吏だからだという[11]。「前の王朝の徳がこういういきさつで失われ、天の命が革(あらた)まり、本朝(=今の政権)の世になった」という説き方をしてしまうのが、易姓革命の思想でものごとを見てしまう国の政治書の宿命なのだという[11]。特定の視点でできごとを解釈したり編集してしまうわけである。かくして正史(官史)には異本(バリアント)が存在しないのだという[11]。もしも歴史を記すというのが本当に誠実に行われるならば、取材する相手となる、歴史的な出来事の場に居合わせた人々(目撃者・報告者)の立場ごとに異なったことが報告され異本が何種類も登場することになるはずなのだが、にもかかわらずただひとつの版だけが伝えられるということは、“正史”というのは既に特定の集団の特定の政治的な意図や意味付けによって記述が操作・統制されてしまっている、ということを述べているようなのである。


要するに、全ての‘歴史的事実’は、その伝え方が完全ではないから、事実が事実として伝わらないという事になる。そりゃあそうだろう。映像で収録したとしても全部を完全に収録することは不可能だし、ましてや情報量の少ない‘書き物’では、尚更である。

映像にしてもそれを編集する人の意識次第で、その映像の持つ意味が変わって来る。書き物ではそれ以上に書く人の思いこみで事実は如何様にも変化する。

この現象は、物理学でいう所の「不確定性原理」に似ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7
%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86

不確定性原理

不確定性原理は1927年にハイゼンベルクによって提唱された。量子力学の基礎原理の一つとされ、その発展に大いに寄与した。 ただし、量子力学の基礎が整備された現在は、他のより基礎的な原理から導かれる「定理」となっている(「意見」や「仮説」ではない)。

粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない という事実に対し、それは“元々決まっていないからだ”と考えるのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈であるが、アルベルト・アインシュタインは、“決まってはいるが人間にはわからないだけ”と考えた。この考え方は「隠れた変数理論」と呼ばれている。なお、1926年12月にアインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙の中で、彼は反論に「神はサイコロを振らない(独: Der Alte würfelt nicht. 直訳:神は賽を投げない)」という言葉を用いて表している。[2]
この他にも不確定性原理の解釈には多数の解釈がある。これを観測問題という。どの解釈が正しいのかは現在はっきりしていない。ただし、ベルの定理により現在アインシュタインの考えを支持する人はごく僅かである。
不確定性原理が顕在化する現象の例としては、原子(格子)の零点振動(このためヘリウムは、常圧下では絶対零度まで冷却しても固化しない)、その他量子的なゆらぎ(例:遍歴電子系におけるスピン揺らぎ)などが挙げられる。



「或る粒子の運動量と位置を同時に正確に測ることは出来ない」事を‘不確定性原理’(現在は、原理ではなく‘定理’)という。

つまり、或る‘粒子’(=歴史的事実)の‘運動量と位置’(=正体)を正確に‘測る’(=書き表わす)事が出来ない、という訳である。

それは何故か?

或る粒子の正体を‘測って’情報を得るためには、何かのエネルギーを与えて、その反応をキャッチして分析をしなければならない。

この時、或る粒子に、例えば光(エネルギー)を与えてその反射光をキャッチしてその粒子の状態(運動量と位置)を知ろうとした場合、光エネルギーが、その粒子に一部吸収されてしまった後の状態の様子が跳ね返ってくるために‘正確な’粒子の状態を観測出来ないのである。

もう少し‘下世話な例’で説明をすると、

「警察が、ある犯罪の容疑者(粒子)を逮捕して、その容疑を確かめるために刑事が‘拷問’をした(光を当てた)とすると、容疑者の本来の無実(真の状態)が歪められて‘犯罪自白’となって事件が終了する」

といえば判り易いのかもしれない。

つまり「歴史書」はこういった類の‘或る種のエネルギー’(=勝者・為政者の意向)が働いて真の状態(歴史的事実)が歪められることが多い、という訳である。

これを今後は‘不確定性原理による歴史的事実’と呼ぶことにしたい。‘歴史的事実が事実通りに伝えられないのは不可抗力’なのである。

粒子の場合、その状態を観測するための‘手段’として、使用する‘電磁波’の種類が違えば、出てくる結果も自ずから違って来る。

すなわち、電磁波を‘光’とした場合と‘γ線’にした場合や‘X線’や‘赤外線’にした場合にその結果の状態に違いが生じる。

拷問の場合にだって、優しい刑事と剛腕な刑事とでは‘白状の中身’が変わって来るのと同じである。

歴史書の場合だって、時の権力者の我がままぶりの違いで‘歴史は一変する’というものだ!




さて、前置きはこの位にして、実際の事件‘島原の乱’ではどうだったのだろうか?

この内戦は、恐らく日本の歴史上‘最も凄惨な’戦いであったのだろう。勝者の江戸幕府もその後‘仁政’に転じぜざるを得ない状況になったというから、それはそれは我々の先祖に当たる日本人に大きな大きな傷跡を残した一大事件だったのである。

この‘乱’は、3つの要素が、同時に重なり合ったこともあって双方に莫大な犠牲者が出たのである。

さて、その3要素とは?

① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

② キリシタンによる宗教一揆

③ 飢餓農民による百姓一揆


① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

禁教令は秀吉以来幾度か出されたが、この島原の乱に直接関係のある禁教令は、1612年の直轄領に関してのものと次の年1613年に今度は全国に施行されたいわゆる「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」である。この指示は家康であり、実行責任者は2代将軍徳川秀忠である。これらによってキリシタン大名は完全に消滅した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8
1%E6%95%99%E4%BB%A4

禁教令

狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が発令した物である。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが織田信長によるキリスト教政策もあってさほど効果は無かった。

慶長の禁教令 [編集]

江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。


島原の乱が勃発したのは、1637年であるから、慶長の禁教令発布から24、5年が経過している。その間キリシタン大名の配下だった残留武士達は、在りし日のキリシタン大名による‘仁政’と海外との貿易による経済の活性化の復活を夢見ていたに違いない。
そこへ襲ってきた‘大飢饉’と石高の見積もり誤りによる過酷な年貢取り立てという‘悪政’、これには、幕府によって潰された有馬晴信・小西行長両キリシタン大名に仕えていた武士の残党が‘一気に’‘一揆’を起こす切っ掛けを作ったと考えるのが妥当である。島原の乱が、単に町民・農民キリシタン一揆や単なる百姓一揆ではなく‘統制のとれた戦術を展開する武士の指揮の下に行われた事からも‘武士による政治一揆’の様相を呈するものだると言っても過言ではない。

② キリシタンによる宗教一揆

江戸幕府は、キリシタン大名を慶長の禁教令(1612、16213年)で壊滅させ、1616年には、一般の武士や町民は勿論百姓にまで「キリスト教の禁止」を厳格に示した。

キリシタンは‘隠れキリシタン’にならざるを得なかったこと、そして追放された宣教師の‘予言’(25年後に救世主出現)の下に‘担ぎ出された’天草四郎の登場によって、隠れキリシタンの意気高揚が島原の乱の中核をなす。

天草四郎という人物は、恐らく評判のカリスマ性を多少は備えていた人物であったことも確かなのであろうが、上述の通り‘担ぎ出された’というのが、本当のところだろう。その首謀者は一体誰なのか?
天草四郎ご本人も実は被害者の一人だったのかもしれない!

③ 飢餓農民による百姓一揆


前述の通り、大飢饉に怯える百姓に対し、過剰石高の年貢をあくまでも取り立てようとする島原藩の大名・松倉重政とその長男次代の勝家、これに百姓は我慢の限界をどうすることも出来なかったのである。

これらの3要素が、1637年に揃った!

こうなると‘3集団連合’の意識は一挙に燃え上がる。4万人にも及ぼうとする‘大一揆’である。

幕府側もこれに応えて12万人という大軍を出す。

一揆側の死者は、一名(山田右衛門作)を除いて3万7千名。悉く頭と胴体が切り離されたという。

http://amakusa46.com/02/post_23.html
山田右衛門作とはどういった人物なのであろうか?

山田右衛門作は天草・島原の乱の際、四郎軍の幹部の一人であり、原城にたてこもったのだが、篭城方の全員が玉砕したにも関わらす、ただ一人生き残った人物として知られている。幕府の取調べに応じた彼の口上書は原城での天草四郎軍の内部事情を知りうる唯一の資料となっている。江戸時代に著わされた「阮塘画談」という古記録によれば山田右衛門作は肥前佐賀の人らしい。ポルトガル人に習い、西洋の画法を学び、耶蘇の仏画を描いて生計をたてていたらしい。乱直前の居住地は口之津村であった。当時、口之津では村人全員が原城にたてこもった。そのため右衛門作も本人の意思なのか、あるいは無理強いされたのかはわからないが、ともかくたてこもることになった。そのような経緯から、四郎軍の陣中旗を描くようになったのだろう。彼は四郎軍の幹部として、幕府軍と対峙した3ヶ月の間、城中と幕府軍とで交わされた矢文の起案者の一人であった。その役目を利用する形で、密かに幕府軍と内通し、命を永らえたのであった。四郎軍に対する明らかな裏切り行為ではあるが、彼の存在がなければ、原城での四郎軍の実情は世上に知らされることはなかった筈だ。うがった見方をすれば、四郎軍も歴史の生き証人として、彼を指名したのだと考えられないこともない。少なくとも、事実はそうなっている。右衛門作は口上書のなかで、天草・島原の乱について次のように述べている。「事の発端は、大矢野の千束島にいた松右衛門、善左衛門、源右衛門、宗意、山善左衛門らが、26年前に追放された神父が26年後にこの地に善き人が現れ、そして、この子は人々の上に十字架をかかげるであろうという書き物を残した。大矢野に四郎という若者がいるが、この四郎こそ、その人であるといいふらしていた。10月15日にまず島原で乱が始まった。島原衆は島原城を攻め立てたが、城中の者が防いだため、一旦引き返した。その後、相談し、四郎を総大将として、宗門を守り立てようと決議した。四郎勢は天草の上津浦で兵を上げ、応援に来た島原衆とともに、本戸にて、寺沢藩の家老である三宅藤兵衛を撃ち破り、さらに富岡城を攻めたが、落す事が出来ず、島原の口之津に海を渡ってきた。江戸より長門の守(板倉重昌)が島原城に出陣し、その上鍋島藩勢も加わったことに四郎は驚き、原城に立てこもった。四郎は12月3日にこの古城に入り、その後、島原衆も続々と立てこもり、原城の普請を行った。12月9日には天草衆も原城に籠もった。原城には3万7千人もの人が籠もったため、5人の物頭を決め、同時に島原衆、天草衆のなかから一人ずつ軍奉行を定め、指揮系統を整えた。1月1日幕府方が攻めてきたが、事前に情報を得ていたので、容易に防ぎえた。2月21日、夜討ちを仕掛け、城中の手負いは430人であって、このうち132人は城中に引き取った。城中の鉄砲は530丁あったが、正月20日ころより、玉薬が切れてきた。城中の飯米も2月10日頃より切れてきた。城中には牢人が40人位いて、主に四郎軍の作戦部門にあたっていた。四郎が本丸で碁を指していたところ、幕府方より、石矢が打ちかけられ、四郎も負傷した。周りにいた者5,6人がこのため死亡した。篭城していた一揆方はその光景を見て、四郎様は絶対傷つかない天使様だと思っていたのにと、不吉な思いに捕らわれ、落胆した。」などと供述している。そして自分が生き残った次第も述べている。「自分は、以前の上司である有馬左衛門助殿と矢文で連絡を取り合い、有馬殿に忠節を尽くすことを知らせていたため、落城の時、小笠原右近殿に見つかり、切られそうになったが、有馬殿からの矢文を見せて、命を助けられた。」

裏切りの汚名を覚悟しつつも、
命に対する執着をみせた右衛門作の本当の心境は
果たしてどうだったのであろうか。


幕府側は、勝利を収めたものの、民衆の怖さをこれほど知らされた経験はこれまでになかったに違いない。
戦いの後始末としては、島原藩城主・松倉勝家は‘斬首’。切腹ではなく斬首だったのだが、これは前代未聞の措置である。

そして、その後1.5年の後、ポルトガルとの国交断絶により、オランダ一国のみを許して‘鎖国’という決断がなされるのである。

そして、江戸幕府は、この苦い経験を「仁政」という民衆の思いを受け入れる政治にハンドルを切り徳川260年の謳歌への礎とするのである。

とかく‘平和’は‘犠牲’の上にしかないという。正に‘島原の乱’はその典型である。

しかし、何とか‘犠牲’を最小限にして‘平和’を見出すことは出来ないものか?
現実問題としは、国連の力を以ってしても世界の平和はまだまだ遠い先の夢である。‘話し合い’という犠牲の少ない方法しか残ってはいないことに世界各国の為政者は気付いているのに何故実行が出来ないのだろうか?



この内乱の哀しい物語は、以下の引用に示す‘wikipedia’の「島原の乱」に詳しい。

島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの反乱の一面しか捉えていない。(「勃発まで」にて詳述)。現実には百姓一揆、浪人一揆、宗教一揆が複雑に絡み合った内乱であった。

勃発まで [編集]

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)[1]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。
天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。
ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。

乱の勃発 [編集]

天草四郎の像
天草四郎像

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた[2]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害[3]、ここに島原の乱が勃発する。
ただし、この一揆は島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった[4]。北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った[5]。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた[6]。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという[7]。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する[8]。
これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った[9]。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退[10]。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる[11]。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。
NHK「その時歴史が動いた(2007年1月24日放送)」では当時の著書カリバーリョ弁駁書を元に原城に立て篭もった要因をローマ教皇から一揆軍へ援軍を送るという内密があり、イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル王国[12])の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったという説を提唱している。またカリバーリョ弁駁書では実際にポルトガルは日本への上陸を試みたが出来なかったとしている[13]
原城の籠城戦 [編集]

戦闘の推移 [編集]

海から見た原城跡
海から見た原城の遺跡

原城包囲網
原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した[14]。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた[15]。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。
事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決定した。焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃は失敗した[16]。討伐軍の死傷者は4,000人以上であったという。重昌が派遣される際、柳生宗矩は小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗すると考えて反対したという話がある。
新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲した。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。
1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し[17]、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った[18]。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している[19]。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。
このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(1603~1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。
討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している[20]。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという[21]。また、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わるため、信綱は2月28日に総攻撃を決定。しかし、佐賀藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始された。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。
これによって、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。
全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・柄本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(柄本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

幕府軍 [編集]

幕府派遣軍
上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)
上使 - 松平信綱 1,500人
副使 - 戸田氏鉄 2,500人
諸大名
備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花種俊、安東省菴)
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人
総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)
幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。

籠城軍 [編集]

 島原の乱における一揆勢の主要人物
戦闘員 - 14,000人以上(推定)
非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)
総計 37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、27,000人など異説あり。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったといわれる[22]。ただし、原城の断崖絶壁を海側に降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もある[要出典]ため、実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説[誰?]もある。

処分 [編集]

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった(切腹という説もある)。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。
なお、この一件で幕府はポルトガルと国交を断絶することとなるが、オランダとの貿易がポルトガルとの貿易を完全に代行できるか不明であったこともあり、国交断絶までにはなお1年半が必要であった。

島原の乱以後の天草 [編集]

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。
島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国の丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。現在も鈴木重成を奉った鈴木神社が存在し、天草の人々の信仰を集めている。重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。
重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、天草の実情を無視した寺沢広高による統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。
天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタンの潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。


















[2012/10/05 22:17] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘貯蔵栗’と‘あおし柿’
‘貯蔵栗’という栗があるという。つい最近の話だそうだ。

http://www.yomiuri.co.jp/otona/naturallife/03/iba
raki/20120702-OYT8T00452.htm

笠間の「貯蔵栗」を全国ブランドに

低温貯蔵することで数倍に甘みを増した笠間市の特産「貯蔵栗」を全国ブランドとして売り出そうと、茨城県と笠間市、JA茨城中央が、流通大手「イオンリテール」(千葉市)と提携し、「笠間貯蔵栗研究会」を結成した。同社の産地応援企画の一環で、県内では、大子町の花豆「常陸大黒」に次いで2例目。

 茨城の栗の生産量は全国1位。笠間市は代表的産地で知られる。笠間の栗農家は2009年、海外産に負けないよう、高い付加価値のある商品をと、厳選した大粒の栗を零度で1か月間貯蔵して甘みを増す貯蔵栗の生産を始めた。3%前後の糖度は12%に高まり、粉っぽさが消えてねっとりとした食感になった。

 これにイオンリテールが目をつけた。同社は伝統的な食文化を守ろうと産地と組んで農作物のブランド化や加工食品の開発を手がける「フードアルチザン(食の匠)」を展開しており、笠間の栗は10番目となる。

 同社はまず、11~12月、県内14のスーパー・イオンで販売、お歳暮やネット販売のリストにも掲載する予定。販売量は計約2000キロを見込んでいる。

笠間の貯蔵栗
丹精をこめて作った笠間の貯蔵栗をPRする金子さん

江戸時代末期から7代続く笠間市の栗農家でJA茨城中央栗部会長の金子祥一さん(60)は「手塩にかけて育てた自慢の栗。多くの人に食べてもらいたい」と話している。

(2012年7月2日 読売新聞)


価格が気になるところだが、最高級品‘極み’というブランド物で、

‘内容量:1.5kg 価格 3,990円(税込み)’(http://www.ja-ibarakichuou.jp/kiwami-gift%20package.htm

というから、0℃で貯蔵をしない普通の高級栗よりも高い値段である。高級でない普通の栗は、およそ1,000円/kgらしい。ご参考までに。

従来、「栗は新鮮な内に食べないと‘虫’がついてしまう」という常識があった。

開発された切っ掛けについては情報が無い。想像するところでは、新鮮さを失わないようにとどなたかが冷蔵庫 or 冷凍庫にしまわれていて、一ヶ月ほど後に取り出してみたら極めて甘い栗に変身していた、というところだろうか?

‘発明とか発見’というものは往々にしてそんなもんだったりすることが多い。

渋柿についても同様な偶然があったように思われる。「あおし柿」がそうである。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa
/question_detail/q109943850

「あおし柿」の作り方は,渋柿のヘタに焼酎を浸し,袋に20個ほどをいれて完全に密封します。これを3~4日ほど日なたに置いておくと,渋が抜けて甘い柿をいただくことができます。

南九州では、渋を抜いた渋柿のことを「あおし柿」といいます。中国地方や関西では、「あわし柿」と呼んでいるようです。一般に、渋柿の渋抜きには炭酸ガスやアルコールなどが用いられ、これらを加えて密封すると、柿が酸素不足のため正常な呼吸ができなくなり、この際発生するアルデヒドなどの影響で、可溶性タンニンが不溶性に変わって渋く感じなくなるのだそうです。著者の住む町の山あいにある紫尾(しび)温泉では、温泉に浸けて渋を抜く方法が名物になっています。専用の露天浴槽に夕方5時半から翌朝7時半まで、一晩ゆっくりとつかった「あおし柿」は、ほのかな硫黄の香りと独特の甘みがあって人気です。最盛期には、県外から送られてきて入浴する柿もあって、一晩に、1トン(100袋)近くが入浴する日もあります。


kaki3.jpg
http://www.maff.go.jp/kyusyu/kagoshima/phot/kaki/aoshikaki.html
夕方から翌朝まで、38℃のややぬるめの温泉におよそ15時間かけてつかり、「渋」を抜きます。
入浴料は「柿10kg」400円、「人(紫尾区以外の人)」200円です。(料金は平成19年11月現在)

kaki8.jpg
http://www.maff.go.jp/kyusyu/kagoshima/phot/kaki/aoshikaki.html

‘温泉に入浴させる’と言えば聞こえがいいが、多分この‘発見 or 発明’の切っ掛けは‘自宅のお風呂’だったのだろう。

‘渋柿’は、干し柿にすると甘くて美味しくなるという‘大発見’とは別に、渋柿の‘しぶ’がひょっとして体にいいのかもしれない、と思ったご仁が、お風呂に入れてみて、翌朝食えるもんではないだろうとは思ったが、食して見たら‘甘く’なっていた。こりゃあ、‘大騒動’だったに違いない。

干し柿ほどの手間はかからないし、考えようによっては、干し柿とはもっと違った独特の風情がある。変なもんで、やはり手間がかからず誰がやっても上手く行くものは‘値段’が安い。したがって、商売にはならない。よって、余り流行らない。

渋柿が手に入れば、この‘あおし柿’の味をもう一度味わってみたい。勿論自宅の風呂に一晩漬けておいて・・。

柿が呼吸する時の‘酸素不足’状態を実現させねばならないとしたら、採れたての渋柿でないと無理なのだろうか?















[2012/10/04 22:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ランナーズハイ
‘ランナーズハイ’という言葉が流行り出した(と感じている)。

ランナーズハイ広告チラシ
http://homepage2.nifty.com/hotroom/muryoutirasi.html

人間の体の機能は、考えられないほど不思議な作用をする。医学が発達すると、まるで目を見張るような機能を持っていることが次々と解明されてくる。それでもまだまだほんの少しかもしれない。

話は‘ランナーズハイ’とは違うのだが、私は小学生の頃、転んで膝に擦り傷を負った際に、血液がどんどん流れ出して死んでしまうのかと思ったことがあった。
でも、「血液は固まって流失を防ぐ機能を備えている」ことを説明されて安心した記憶がある。

ただし、まだ今現在でも‘何がどんな風に作用して、だから血液は固まって全部が流れ出したりはしないのだ’と他人様に正確に納得のいく説明をすることは出来ないが・・・。しかし、今や‘ネット’時代、調べれば次のように直ぐに‘正解’を得ることが出来る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%9D%E5%9
B%BA%E3%83%BB%E7%B7%9A%E6%BA%B6%E7%B3%BB

凝固系

凝固系(血液凝固因子)とは出血を止めるために生体が血液を凝固させる一連の分子の作用系であり、そうして固まった血栓を溶かして分解するのが線溶系(線維素溶解系)である。

前駆的な止血の機序

血管因子


末梢の血管が収縮したり、周囲へ漏れた血液が血管を圧迫することで出血を止める。前者の反応には血小板から放出されるセロトニンやトロンボキサンA2が関わっている。またプロスタグランジンE2が局所の神経を敏感にして痛み信号を中枢神経系に送り、患部への注意を喚起する。中枢神経系は生体外の状況を勘案し、末梢の瑣末な損傷を放置してでもその状況から「闘争か逃走か」をすることが肝要と判断すればノルアドレナリンを分泌して更に末梢血管を収縮させると同時に,エンドルフィンで痛み信号を遮断して外的状況を「闘争か逃走か」によって打開することを選ぶ。


小学生のその時に「出血が止まるのは、血液が空気に触れると固まる作用があるからである」という説明で納得していたのだが、正解はもっと複雑な作用が同時進行して止血に至るようである。

素人の我々一般人は、上の引用でも難し過ぎるから、‘脳が情報を得て「闘争か逃走か」を判断して’適切な処置をするのだ!程度の知識でよいのだと思われる。(こんなことで、今後も「通そう」か!)

実際には、下の図式のようなとんでもなく難しい作用が瞬時に起こっているそうだ。

Coagulation_cascade.png
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%9D%E5%9B%BA%E3%83
%BB%E7%B7%9A%E6%BA%B6%E7%B3%BB

血液凝固カスケード(英語版Wikipediaより)

また、固まった血液を溶かして分解する‘線溶系’については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%9D%E5%9
B%BA%E3%83%BB%E7%B7%9A%E6%BA%B6%E7%B3%BB

線溶系

凝固した血餅は生体にとっては異物であり、組織の修復とともに除去されねばならない。このために存在するのが線溶系である。
血漿中のプラスミノゲンが組織型プラスミノゲン活性化因子(t-PA)もしくはウロキナーゼ(u-PA)によって活性化され、プラスミンになる。
プラスミンは凝固したフィブリンを分解し、D-ダイマーその他の分解産物に変化させる。


と言うように難しい説明が続く。

これが完全に理解出来て他人様に説明出来たら素晴しいに違いない!

人間にしろ動物にしろこんな能力が、意識しようとしまいと備わってしまっているのである。

もしも、この作用と同じ機能・働き一つを‘ロボット’に持たせようとすると、10億円かけてもまだ造れないに違いない!

こんなことを考えるだけでも、動物や人間の価値が如何に大切かの判断材料にもなろうというものだ。

さて、そこで‘ランナーズハイ’についてだが、やはり複雑なことが起こっているらしい。

ランナーズハイ

マラソン
http://www.town.kaminokawa.tochigi.jp/f_syougaigakusyu/marathon_race.htm

http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%B3%E
3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4

ランナーズハイ

ランニング中の陶酔状態。ランニング開始後5~15分して身体が運動状態に慣れてくると急に楽になり,セカンド・ウィンド(次息)という状態になる。さらに20~40分走り続けると少し頭がぼんやりするが,非常に気持ちのいいサード・ウィンド(第3息)という状態になる。


この状態になるのには、上述の引用文中に出て来る‘エンドルフィン’が関係しているという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%
E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3

エンドルフィン (endorphin) は脳内で機能する神経伝達物質のひとつである。
内在性オピオイドであり、モルヒネ同様の作用を示す。特に、脳内の報酬系に多く分布する。内在性鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらすと考えられている。そのため脳内麻薬と呼ばれることもある。
マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用「ランナーズハイ」は、エンドルフィンの分泌によるものとの説がある。二人以上で走ると効果が高い。また、性行為をすると、β-エンドルフィンが分泌される。β-エンドルフィンには鎮痛作用がある。



マラソンの際に経験のある方が多いという。そして、このエンドルフィンの作用を有効活用して‘ダイエット’にも挑戦する試みがもう随分前から行なわれているそうだ。

http://sports.geocities.jp/shtaqg/03.html
ランナーの多くはランナーズハイを経験しているといわれています。
走ることが大好き、走らずにはいられないという人は、このランナーズハイを経験していることでしょう。長距離を走るのは苦しいことなのに、なぜランナーの多くは気持ちいいと感じるのでしょうか。これは肉体的には苦痛でも心理的、精神的な快楽を得られるからだともいえます。
マラソンはは知り始めの10分くらいでだんだんリズムが整ってきます。経験を積んだランナーなら、呼吸や心肺機能の変化も予測がつきますし、いつまでも走れるような気分になります。
そして、20分以上は知り続けると、とても気持ちが良くなってきます。脳の中が軽くなり、足も疲れているはずなのに、簡単に走れるような感じがし、表情もゆるんできます。人によっては視覚的にも変化があるという場合もあるようです。
これがランナーズハイです。

熟練ランナーの境地

ランナーズハイという現象は、大脳生理学などの研究でそのメカニズムがすべてではありませんが解明されてきています。走り続けることで、気持ちの良くなる物質、エンドルフィンが脳で生成されるということがわかっています。
エンドルフィンとは麻薬のモルヒネと似た性質をもつ物質です。エンドルフィンは、脳内で生成されると、体の痛みをブロックする作用が非常に強いことがわかりました。
ですから 長距離を走り続けて、体が疲労していたり足が痛くなっていても、エンドルフィンの作用で痛みがなくなり、逆に麻薬特有の気持ち良さが強く症状に出る ということなのです。

人間の体はとてもよくできていて、激しいトレーニングによるストレスに負けないように、それに対抗する麻薬物質が生み出されるのです。それは苦痛をブロックするだけではなく自律神経に作用して、気持ち良くするというのですから本当にすごいメカニズムです。
ランナーズハイを経験した直後、走ることを止めると、休憩に入っても楽しくてうれしくて笑いが止まらないという人もいるようです。
マラソンを始めてすぐ経験できることではないと思いますが、走りこむうちにいつかランナーズハイが訪れるかもしれません。



http://light.kakiko.com/sionta/NouSuper.htm
このページの説明は医学的な根拠に基づいたもの
ではなく、自身の体験談からの考えなどを主に記載してます。

禁オナによって身体的障害や出る恐れもありますので医者と相談して
対応を決める必要もあります。よって、
これから始めようと考えている方はココで紹介している健康法も含めて全て自己責任で、お願いします。

脳内麻薬の仕組み

ここでは脳内麻薬の仕組みや効果などを説明していきたいと思います。

脳内麻薬とは?

脳内麻薬いうのは、あく までも脳の中で介泌される物質であるという点です。
麻薬取締法の対象となっているのは 、天然麻薬にしろ合成麻薬にしろ、すべて「人体の外部の物質」です。


「人体の外部の物質」であっても、脳内麻薬と同じはたらき をするのならば、それはいいじゃないか。
そう思われる方もいるでしょうが、「人体の外 部の物質」である
天然麻薬・合成麻薬と、脳内麻薬には、大きな違いがあります。

「人体の外部の物質」である天然麻薬・合成麻薬は、 脳内麻薬のように、自然に分解されるということがないのです。
また、麻薬取締法 との関連でいうと、脳内麻薬は、当たり前ですが、取り締まりの対象とはなっていません。
色々な出来事に感動して、脳内麻薬がドンドン分泌されたからといって、もちろん捕まる事もありません。

脳内物質のなかにはエンドルフィン類があります。これは、モルヒネと同じような働きをする物質で、「脳内麻薬性物質」とも呼ばれています。もともと脳内にある物質で、麻薬に比べて分解も早く、人間に必要なものです。

例えば、走る事が好きなな人は、つねにうずうずして落ち着かなくなります。
これはエンドルフィンの鎮痛効果がもたらす快感によって走る事にハマっているからです。
長時間走る続けることで、体が疲労を感じ始める事で、脳内エンドルフィンの分泌が増え、痛みを和らげてくれます。
さらに「快感」をもたらし「ランニングハイ」とよばれる陶酔状態に陥ります。

人を好きになり「ドキドキ」するという感覚もまた脳内麻薬によるものです。

脳内麻薬の種類と仕組み

50種類以上の神経伝達物質が確認されていますが、その働きが比較的解っているのは20種といわれています。
精神活動の面で重視されるのはγ-アミノ酪酸(GABA-ギャバ)、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなどです。
この物質は情動に大変大きな働きを起こし、また多数の脳内の部位に大きな影響を及ぼすことで知られています。

人間は何らかの刺激を受けると、大脳でまず解析し、その後海馬に送られます。海馬から「パペッツの回路」と呼ばれる各部位をめぐる流れに乗り、そこで感情が生まれます。生まれた感情はふたたび大脳に取りこまれ、長期記憶などになります。

ドーパミン

快感を増幅する神経伝達物質
興奮すると、ヒトは快感を感じ、身体の動きが活発になり、ハイな感じ人になります。

ドーパミンを過剰に消費するようになると、幻覚や幻聴、妄想などが生じるようになり精神分裂病によく似た症状が出てきます。
ドーパミンは覚醒剤ととてもよく似た構造を持つので、覚醒剤を使用するとドーパミンが放出された時と同じような、
「ハイな感じ」を得ることになります。
覚醒剤依存がやがて精神分裂病によく似た症状を来すのも、ドーパミンの過剰消費と同じ原理です。

ドーパミンを抑制するのがGABA(ギャバ)神経と呼ばれる神経系で、ドーパミンを細胞内に取りこむことで、
ドーパミンの過剰消費を防ぎます。

しかしこのギャバ神経を抑制する機能が人には欠けているため(前頭葉)、
ドーバミンが前頭葉でえんえんと過剰に消費されることがあります。

また、ギャバ神経にはオピオイドを放出する神経細胞がつながっていて、
麻薬性物質の放出を受けると、ギャバ神経の抑制作用が弱められてしまいます。

オピオイド

最期にもたらされる残酷な救い
快感物質と呼ばれる脳内麻薬には、エンドルフィン、エンケファリンなどがあります。

オピオイドとはエンケファリン、エンドルフィンなどの総称を示します。
オピオイドは阿片などの麻薬に極めて近い構造をもちます。

オピオイドの大量分泌により、精神活動の麻痺や感情鈍麻といった状態に入ります。
これは、闘争も回避もできない深刻なストレスにさらされた生物に、「最期の救い」をもたらします。

精神活動の麻痺や感情鈍麻によって、完全な降伏と受身の態勢をとり、現実感のなさによって、
生物は「静かに捕食者の餌食となる」のです。

長期間反復的に回避不能のストレスにさらされた個体は、脳内オピオイド受容体の感受性が上昇します。
これは阿片などの麻薬を反復投与された個体に見られるものと同じ、生理的な反応です。

オピオイド受容体の感受性が上昇した個体は、強烈なストレス刺激……自分で自分の命を危険に晒したり、自分の身体や心を痛めつける行為……なくしては生きていけなくなります。


オピオイド(快楽物質)の過剰放出は、大脳辺縁系の扁桃体(へんとうたい)、海馬(下説明あり)
などにダメージを与えることで知られています。


マラソン中にオピオイドが分泌されることはわりと有名で、マラソンによってオピオイドが分泌された状態のことを「ランナーズ・ハイ」と呼びます。

オピオイド濃度の上昇は、他にも手術、接食障害者の嘔吐などで確認されていて、
また、リストカット、車での暴走等の自傷行為によってもオピオイドは上昇するそうです。

オピオイドの大量分泌は離人症的な症状(うつ病)をもたらします。現実感の喪失、自己と外界を隔てる透明な壁のある感じ、自分のことを遠くで自分が観察している感じ、自分の手足の消失する感じなどです。

■扁桃体(へんとうたい)とは?

人間が生まれながらに持っている強い本能であり、私たちの感情の中でも特に愛と関係があると考えられています。

快感は、あらゆる生き物を行動させる原動力になっています。
人の場合も、恋をするとA-10神経からドーパミンが放出され、脳が快感を感じます。
するとその興奮が自律神経から全身に連絡されます。心臓に伝わると鼓動が早まって胸がドキドキしたり、
顔に伝わると頬が赤くなったり、目が潤んだり、恋愛特有の症状が起こってくるのです。

愛し合っているとき生まれる性の快感は、恋する男女を強く結びつけると同時に、
生き物が子孫を残していくための性行動を生み出す強い原動力になっています。男と女は、脳で愛し合っているのです。

しかし同じ好きになるにしても、人にはそれぞれ好みがあり愛する対象が違ってくるのはなぜでしょうか。
特定の人を好きになったり、嫌いになったりする感情。それは脳のどこで生まれるのでしょうか。

その謎を解く鍵は、脳の奥深くにある扁桃体にあります。この扁桃体が好き嫌いを決めています。扁桃体が好きと判断すると、ドーパミンが流れて欲望の脳・視床下部から快感が生まれると考えられています。こうして男女の愛は生まれるのです。

扁桃体は、好き嫌いを判断する中枢です、出会ったものが自分に有利か不利かそれを判断する中枢といってもいいのです。
扁桃体に損傷を受けた個体は、「恐ろしいもの」「いやなもの」に直面しても、避けようとしなくなります。

■海馬(かいば)とは?

記憶を司る部位である。

感動的な場面や恐ろしい、強烈な体験は海馬に強く残ると言われております。
また、日常的な出来事や、勉強して覚えた情報は、海馬の中で一度整理整頓され、その後、
大脳皮質にためられていくといわれています。
つまり、新しい記憶は「海馬」に、古い記憶は「大脳皮質」にファイルされているのです。

海馬が働かなくなると、私たちは新しいことが覚えられなくなります。
つまり、昔のことは覚えていても、新しいことはすぐに忘れてしまうのです。

海馬は「記憶の司令塔」とでもいえるとても大切な場所ですが、とても壊れやすい性質を持っています。
例えば酸素不足で脳がダメージを受けるとき、最初に海馬あたりから死んでいくといわれています。

また、とても強いストレスにさらされたときにも、海馬は死んでしまう性質があります。
海馬は高性能ですが、とても繊細で壊れやすい精密機械のようなものなのです。

ノルアドレナリン

意欲と生き残るために必須の神経伝達物質
脳全体に広く分布している神経系として有名です。

ヒトは恐怖・驚愕の体験に遭遇するとノルアドレナリンを分泌し、闘争か逃避かの態勢に入り、ストレス体験を終息させるための行動に入ります。

長期間回避不能のストレスにさらされた動物は、やがて無痛覚の症状に至り、ストレスを回避する行動を止めてしまいます。
この無痛覚の状態はオピオイドの作用によるものと考えられています。
オピオイドの拮抗物質であるナロキソン、クロニジン(下説明あり)を投与すると、無痛覚の症状は打ち消されれることになります。

長期間回避不能のストレスにさらされた場合、動物実験ではノルアドレナ