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月の砂漠と大多喜城(その2)
月の砂漠記念館が、‘水曜日休館’とは知らずに出かけた此方の不注意もあったが、少なくとも‘観光地’たるもの、そこだけが目的で観光客が来る訳ではないことぐらいわかっているのに、どうして‘休館日’を作って平気なのだろうか?

本気で観光資源にしたいと誰も思っていないのだろうか?

少々腹立たしかったが、これが‘田舎’の良さでもあると思い直して、次の目的地‘大喜多城’ へ向かった。

観光地だと思って行ってみると、‘だ~れもいない’状態は寂しくて何だか惨めになるものだが、考えようによっては、我々の一人占めだから、本当はそれが良いに決まっている。

こんな9ヶ条があるという。

人が集まる9カ条
http://www.facebook.com/Orifushi/posts/402882699776563?comment_id=63943387&offset=0&total_comments=5
「高野山真言宗 築港高野山 釈迦院の言葉です。」とあるが、高野山真言宗 築港高野山 釈迦院のHPに当たる資料を調べても出て来ない!一体何故?‘釈迦院が言う’訳は無いから、誰かが言ったのだろうが、それが判らない!
何故10カ条では無くて9カ条なのかも判らない!最近の情報は、孫引きの連続だから、その根源にはなかなか行きつかない。本件もいい例である。

兎に角、人が集まる9ヶ条だそうだ。

「人は‘見てはいけない’と言われたものを見たいと思って集まる」

というのを入れて‘10ヶ条’にして貰いたい!

‘月の沙漠記念館’もこの9ヶ条を‘深~く’受け止めて、‘集客’とは何か?について大いに検討して貰いたい。

さて、月の沙漠から約40km、車で1時間強のところに‘大多喜城’が見えて来た。‘カーナビ’は極めて便利である。道をわざと間違えても、ちゃんと修正してくれる。

日本国中、本当に小幅の2~3mの道だって正確に案内してくれる。素人的には、こんなに素晴らしいソフトは珍しいし、最高である。ただし、何度同じところに行っても道を覚えることが無い。それだけ、利用する人間はうっかりしていると‘馬鹿’になって行く。

さて、‘大多喜城’は、全国的には‘今は’余り有名ではないが、歴史的には‘やや感動する’城である。

何と言っても徳川家康の知恵袋でもあった四天王の一人、本多忠勝の居城である。

最近ここ1~2年、大多喜城へは行っていなかったが、こんな‘幟(のぼり)’が立っていた。

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おやおや、本多忠勝を担ぎ出そうという作戦である!

この企画は素晴しい!

‘NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会’とある。
主催者は、問合せ先:「大多喜町役場産業振興課内」と、あるから大多喜町である。

これは本物かもしれない!?

サミット看板
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌が書かれている。

‘唐のかしら’:家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す。ヤク:ウシ目(偶蹄目)ウシ科ウシ属に分類される偶蹄類。
‘本多平八’:本多忠勝の通称が平八郎だったことによる。

共同宣言0001-2
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

共同宣言0002-2
http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/cat119/post-22.html

これは、これは本物である!これだけの数の行政が、NHKに‘圧力’を掛ければ、NHKも動かざるを得まいが、もうひと押し‘有力な人物’が必要かもしれない。ただし、その動きが余りにも卑劣であると却って受け入れられないことになり兼ねない。それに、‘作家’の先生は誰なのだろうか?案外そんなところからNHKは動いたりするものであるらしいから・・・。

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これが駐車場から、大多喜城・城址への登城一本道である。

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この沿道にも‘誘致幟’が多数あった。

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これが、再建された本丸と入口である。

http://www.geocities.jp/qbpbd900/otakijo.html
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本多忠勝

大多喜城の歴史

 大多喜の中世の頃の地名は、史料の中に小田喜と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。
 
 16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。
 
 その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
 
 当時の城のようすについて、1609年(慶長14年)にここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。

 城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。
 
 千葉県教育委員会は、この歴史のある大喜多城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館を建設し、昭和50年9月に開館しました。平成18年4月からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。
(現地案内資料より)


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残念ながら城内の展示は‘撮影禁止’だそうだからその様子は伝えることが出来ないが、この大多喜城・城址は、また、‘千葉県立中央博物館・大多喜分館でもあるため、‘江戸風俗図屏風’が展示されていた。

菱川師宣-2
「門外不出とされたアメリカ・フリーア美術館所蔵の菱川師宣筆『江戸風俗図屏風』(17世紀)を京都文化協会とキャノン(株)の「綴プロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)により、高精細複製品がさくせいされ、千葉県立中央博物館に寄贈(大多喜城分館保管)されました。大多喜城分館では、より多くの皆様にご覧いただくために年4回公開します。」とある。

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菱川師宣は、千葉県・鋸南町の出身である。

大多喜城の兜0001-2
そのトイメンに‘体験コーナー’があって、本多忠勝が使っていた兜と陣羽織のレプリカ、重さが同じらしいが、これを試着してよろしいとのことであったため、恥ずかしいことを忘れてしまった私は早速試着したという訳であ~る。画面の右には、引用資料で忠勝がかぶっている兜が見える。

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外に出てみると、大多喜城の絵図がある。

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お客さん達が来た。

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観光バスが着いたらしい。

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城址の裏手へ廻ると、千葉県立大多喜高校(お笑いタレント・渡辺正行の母校)があり、そこの敷地内に大多喜城ゆかりの忠勝が掘らせた底なし井戸がある。

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大井戸の場所を示す絵図。

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大井戸への道しるべ

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この急な坂を下りて行くと

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噂の大井戸が見えて来る。

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大きい! 今でも満々と水が・・・。

大井戸の看板
http://www.geocities.jp/qbpbd900/otakijo.html
看板には、日本でも最大級とある。実はこの大井戸には、地元の或る人の話だと‘大多喜城に纏わる金銀財宝’が隠されていたという噂が広まり、本格的調査が一度は行なわれたが、まだ発見にまでは至らなかったという。
ひょっとすると・・・・。

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駐車場へ向かう下りの道路から見ると深い谷になっている。

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誰も上がってはこない。全くの静けさである。

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崖っぷちに看板が・・。

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これが‘空堀’である。

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http://www.harimaya.com/kamon/column/aoi.html

三つ葉葵立ち葵
左:三つ葉葵  右:立ち葵

徳川氏の葵は「三つ葉葵紋」として有名なものである。そもそも、松平氏に入る以前の徳川氏は新田氏の一族であったといい、本来の家紋は、広忠の墓や日光東照宮などにみられる「銀杏紋」であったといわれている。家康は天下をとると葵紋の使用を禁じたため、島田・伊奈氏らは葵紋の使用を差し止められた。ところが、本多氏はその後も葵紋を用いた。本多氏は、もと加茂神社の神官であったと伝えられ「立ち葵紋」を用いた。長野善光寺の寺紋も「立ち葵紋」だが、これは本多善光という人物が寺を開いたことによるものである。

 家康は本多忠勝にも葵紋を用いぬようにいったが、忠勝は「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族、それゆえ賀茂の神紋である葵紋を用いるのは当然のこと。殿こそ本宗新田氏の「大中黒」に代えられてはいかが」といいはなったので、家康もそれ以上は口にしなかったという。ところで、本多氏は系図によれば藤原氏の後裔を称しているが、忠勝の言葉によれば賀茂氏の後裔が正しかったものと思われる。


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大写しでハッキリと「立ち葵」であることが判る。

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ここに二の丸があった。

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大多喜城の絵図が入口のところにあったのだが、帰りになってやっと気がついた。

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淋しいかな、観光バスはたったの一台のみしか見当たらない。

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観光バスの他には、我々の車ともう一台の乗用車、そしてオートバイが一台のみ・・・。

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御城から下って来て、踏切に差し掛かった。珍しい‘赤信号’である。一両‘編成’(?)の列車が横切って行った。

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先程の踏切を渡って、大多喜駅に近づいてきた。

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駅前には、何だか‘武家屋敷’を思い起こさせるような立派なお店がある。

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ここが大多喜駅前である。

本日の‘月の沙漠’と‘大多喜城’の観光地めぐりはこれで終了した。

兎に角、観光地は‘客を呼ぶ’事に必死にならなくてはいけない!

そんな観点からすると、この大多喜城を巡っての‘本多忠勝・忠朝’大河ドラマ実現が成功することを祈りたい!
















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[2012/10/18 11:28] | 観光 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
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