私が開発した(?)‘ヒッチ俳句’にこんなのがある。
先程書いてみた。余り出来は良くないが、それはそれとして、ここに‘自転車’という文字が出て来る。 これを‘チャリンコ’と発音して戴くようにお願いしている。 じゃあ、‘ルビ’を振っておけば? という御仁もおられるが、これも色紙(一応)の積りである(落款有り)ので躊躇している。(厚かましいが、私の‘雅号’は、松月で~す。) http://blog.goo.ne.jp/matukaze_2006/e/ed87ff693da898756c143fcefe24ecbe ‘ヒッチ俳句’の意味は、‘歩きながら’作る‘俳句’という事 である。それじゃあ、‘何故、歩きながら?’については、こうお答えすることにしている。 何かの景色や対象物を観察しようとする場合、次の3通りの方法がある。 ① その場所に‘じっとして’よくよく観察したい対象物を眺める。 ② 車や電車や飛行機に乗って、全体を把握しながら、観察したい対象物を把握する。 ③ 歩きの速さで、移動しながら全体の中で観察したい対象物の置かれた‘位置づけ’に配慮しながら観察する。 ①、②、③ いずれもそれなりに‘成果’を期待することが可能であるが、私の推奨は③である。 ‘歩きながら’観察し続けると、色々な‘付帯事項’に気付くことが多い。 例えば、梅林の中をゆっくり歩きながら沢山の‘梅の木’を見て行くと 「な~る程、‘白梅’よりも‘紅梅’の方が先に咲いて、そろそろ紅梅が満開に近くなってから‘白梅’がほころび始めるのか!」 ってなことが判明する。すなわち‘歩きながら’でないと発見出来ないものが沢山あるのだろうな!という気がしている。それが‘新発見’の‘芽’になることがあるのではないか? という訳である。 このことを私は勝手に「‘歩き芽です’の原理」と名づけている。あの偉大な‘アルキメデス’さんに准えて・・・。 そこで、‘改めてこの色紙を見てみよう’(‘鑑定団’風、言い回し) ‘ヒッチ俳句’の‘きまり’は、俳句の‘季語’が‘掛詞’になっていること、たったそれだけである。 この場合の季語は、当然‘紅梅’。これが‘掛詞’であるから、‘こうばい’のもう一つの意味は‘勾配’である。 つまり、この‘ヒッチ俳句’は次の二つの意味を持っている。 (a)冬の寒い時期には、自転車で梅林の中を通り抜けていたが、ようやく春の兆しが見えてふくよかな香りと共に‘紅梅’がほころび始めた。待ちに待った春の到来である。ここは一つ、自転車(チャリンコ)を降りて、ゆっくりと歩きながら紅梅の馥郁とした香りを楽し見ながら自転車を押した、という‘誠に優れた’(?)写生俳句である。 (b)‘勾配’がきつければ、自転車(チャリンコ)に乗ったままでは、その勾配(坂道)を越えることは無理である。仕方がないから、チャリンコを押しながら峠を越えた、という‘誠に下らない’(そうでしょう、登りなんだから)俳句とは言えない、5,7,5なのであります!という訳である。 http://blog.goo.ne.jp/matukaze_2006/e/ed87ff693da898756c143fcefe24ecbe さて、ここで、この‘チャリンコ’という名詞、どうも片仮名で書くこと多いように思われる事もあって‘日本語ではないのでなないか?’とずっと以前から思い続けていた。
こうやって調べて行くと、自転車のことを‘チャリンコ’という説には、な~る程とも思う所があるが、江戸時代において‘子供のスリ(掏摸)’のこと、という事の方が気になりだした。この語源は一体? (つづく) スポンサーサイト
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