fc2ブログ
茂原市(千葉県)の七夕祭り(その4)
昨日(2013年07月30日)に引き続き、

茂原市の七夕祭り

茂原七夕-2

‘YOSAKOI 夏の陣2013’&‘七夕おどりパレード’編

茂原市(千葉県)の七夕祭り(その4)

④ 礼神伝SHALL稲毛<千葉市>

画像ー162 248-2

画像ー162 249-2

画像ー162 250-2

画像ー162 253-2

画像ー162 254-2

画像ー162 257-2

画像ー162 258-2

画像ー162 259-2

画像ー162 261-2



<カメラマンや観客の姿!>

カメラマンも観客も必死で盛り上げている! この夏祭りは、みんなの‘共有財産’なのである!

画像ー162 251-2

画像ー162 263-2

画像ー162 264-2

画像ー162 265-2

画像ー162 266-2

画像ー162 267-2

画像ー162 268-2

画像ー162 269-2

画像ー162 272-2

画像ー162 273-2

画像ー162 274-2

画像ー162 410-2
「わしゃあ、もう疲れた!」「こ、これからが本番!」

画像ー162 374-2
「お次は??」

画像ー162 394-2
「この飲み物、観戦の必需品!」

画像ー162 411-2

画像ー162 412-2
「この白線から、足を出すと危ない!」

画像ー162 283-2
「ああ、疲れた!もう帰ろうよ!」

画像ー162 284-2
「この場所は、許可なき者、立ち入り禁止!」「だって、撮りたいんだもん!」「駄目!」

画像ー162 285-2

画像ー162 288-2

画像ー162 290-2
審査員の先生方も誰一人居眠りなんかしていない!「でも、一寸疲れました!田中市長、大丈夫ですか?」

(つづく)
スポンサーサイト



[2013/07/31 23:53] | 地域活性化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
茂原市(千葉県)の七夕祭り(その3)
昨日(2013年07月29日)に引き続き、

茂原市の七夕祭り

茂原七夕-2

‘YOSAKOI 夏の陣2013’&‘七夕おどりパレード’編

<2> チームの競演!

① 紫音ーSION(しおん)<大網白里市>(その1)


画像ー162 166-2

さあ、準備が整った!

(つづく)

① 紫音ーSION(しおん)<大網白里市>(その2)

画像ー162 178-2

画像ー162 183-2

画像ー162 183-3

画像ー162 171-2
画面左上の屋上に注目!

画像ー162 173-2

画像ー162 174-2
ご夫婦は、子供さんに見せようと必死である! この屋上は‘この日のため’に造ったのではないかとさえ思われるくらい絶好の観覧場所である!

画像ー162 186-2

画像ー162 188-3
この‘フラッグ’を操るお兄ちゃんが凄~い!

画像ー162 191-2

画像ー162 192-2
この小さい子は、このフラッグ振りの息子?? 両方とも頑張れ!

画像ー162 193-2
ここでちょいと力が抜けて・・・。

画像ー162 194-2
風にもう一度載せた!

画像ー162 197-2

画像ー162 197-3
この‘楽々とした’表情!

画像ー162 198-2

画像ー162 200-2
審査員席の前でもアッピール!

画像ー162 202-2
車椅子の人達も何だか‘元気を貰った’ような感じ!


② 楽天舞<匝瑳市>

次は、匝瑳市から来て頂いた‘楽天舞’である! このチームも元気一杯!

画像ー162 203-2

画像ー162 205-2

画像ー162 206-2

画像ー162 207-2

画像ー162 208-2

画像ー162 209-2

画像ー162 209-3

画像ー162 210-3

画像ー162 213-2

画像ー162 216-2
プロ野球でも‘楽天’は一位を独走中! 頑張れ、楽天舞!

画像ー162 217-2
少々草臥れた! 熱中症、大丈夫??

画像ー162 218-2
こちらは‘公認の’カメラマン!



③ 長南紅古蓮<長南町>

画像ー162 220-2

画像ー162 221-2

画像ー162 222-2

画像ー162 230-2

画像ー162 236-2

画像ー162 241-2

画像ー162 243-2

画像ー162 244-2
おっと、傘を差した!

画像ー162 247-2

「有難うございました!」礼に始まって礼に終わる!いいじゃあないですか!!

(つづく)
[2013/07/30 23:53] | 地域活性化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
茂原市(千葉県)の七夕祭り(その2)
昨日(2013年07月28日)に引き続き、

茂原市の七夕祭り

茂原七夕-2

‘YOSAKOI 夏の陣2013’&‘七夕おどりパレード’編

をど~ぞ!

7月28日の予定は次の通り!

茂原七夕-4-3

茂原七夕-4-5

‘YOSAKOI夏の陣2013’に出場チームは、上記の表通り、12チーム!

これが、‘茂原市・七夕祭り’の華である!

<1> 会場までの風景

‘時刻表’によれば、PM2:30 から開始になっている。そんな訳で、我が家を出発したのが、13:40。
スーパーの駐車場に着いたのが、14:12。これなら14:30の開始に十分間に合う!

画像ー162 142-2
2013年07月28日14:16 茂原市では、昨日の弊ブログで紹介した通り‘七夕祭り(関東3大七夕)’が盛大に行なわれるために、‘天の川’という名前を貰った川がある!

画像ー162 142-3

画像ー162 143-2
これが‘天の川’である。場所は、市役所の直ぐ脇である。上の看板に説明がある通り、川全長に亘って‘天の川’というのではないらしいが・・・。

画像ー162 145-2
この堤防は、‘桜の名所’であり、それはそれは美しい桜並木がこの天の川の両岸に約2kmに亘って存在する!

画像ー162 146-2
さて、市役所へ行く橋を渡らずに反対方向に左折すると、7~8分で会場である。段々雰囲気が出て来た!

画像ー162 147-2
ボランティア団体の人達の応援で、車椅子の人達もこの‘YOSAKOI’を見に来られたようである。

画像ー162 148-2
気温はどんどん上昇し、多分33℃には達していた。案外風があってそんなに苦しいこともなかったが、やはり暑い!

画像ー162 149-2
練り歩く場合は、ここがスタート地点である。

画像ー162 150-2
衣装を付けた‘踊り子?’も休憩中なのだろうか?

画像ー162 152-2
茂原市の商店街には、まだ戦前?からの商店が残っている。その一つがこの‘陶磁器屋’さん。

画像ー162 152-3
この看板が年代を感じさせる!‘塩’という古い漢字は、探そうと言ったって探しようがないくらいの‘しろもの’である!

画像ー162 153-2
トイメンのこちらの蕎麦屋・更科さんも随分古い!建物は既に‘100年’は優に越しているに違いない!軒先の低いことが、それを物語っている!

画像ー162 154-2
この道の突き当りが、無料休憩所になっている。

画像ー162 155-2
左折したところに、聞いたこともない‘単語’のお店が出ている!

画像ー162 156-2
向うの会場近くには、人だかりがしているが、兎に角炎天下を10分も歩くともう汗だくである!

画像ー162 158-2
丁度いいところに、スーパーがあった! 普段は気付かないのだが・・・。

画像ー162 159-2
この中で、一寸涼しい空気を!

画像ー162 160-2
この四つ角を右折すると‘会場’である! ここは、素通りの会場ではなく、審査員の偉い方々がおられて、審査をされる会場だから、行き止まりになっている!

画像ー162 161-2
出場チームの‘山車?’が到着した!

画像ー162 162-2
この奥が審査会場である!

<2> チームの競演!

① 紫音ーSION(しおん)<大網白里市>(その1)

画像ー162 163-2

画像ー162 168-2

画像ー162 169-2

画像ー162 170-2

画像ー162 172-2

画像ー162 166-2

さあ、準備が整った!

(つづく)
[2013/07/29 23:30] | 地域活性化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
茂原市(千葉県)の七夕祭り(その1)
私の居住地、千葉県茂原市の‘七夕祭り’がやって来た!

千葉県茂原市は、房総半島の中央東部に位置する、人口9万人を越す[ 90,847人(推計人口、2013年6月1日)]中堅都市である。茂原市に住んでいて、自分達の茂原市の人口が凡そ9万人位ということを知らない人が多いので、念のため。

千葉県茂原市 - Google マップ(1)0001
‘Google’マップ
茂原市の位置:ピンクで囲まれた部分


茂原市(もばらし)は、千葉県のほぼ中央東部に位置する市。天然ガス(ヨウ素)の生産量では日本一

地理[編集]

千葉県のほぼ中央東部に位置する。都心から約70km圏内、千葉市から約30kmの距離。面積100.01km2、東西11.7km、南北13.1km。古い街道筋にあり、かつては交通、商業の要衝として栄えた。明治中期には天然ガスが発見され、近代産業が発展した。それに伴い市内には多数の関係企業が立地している。市中心部は外房線沿線特に茂原駅周辺に住宅地や商店街が立ち並び長生地域における人口・商業・産業集積の場となっている。

地形[編集]

市の大部分は沖積層であり、市西部の山地は洪積層によって形成されている房総洪積台地である。標高は、南東部の低地で海抜約8~9m、市街地は11m前後であり、西部の大部分が20~100m(最高点117.7m)前後である。また、茂原市や九十九里沿岸地域では地盤沈下が大きな問題となっており、毎年10cm前後の沈下がみられた。原因としては、天然ガスかん水の汲み上げ、表層の地下水の汲み上げ等の人為的な要因によるもののほかに、沖積層の軟弱地盤の自然圧密による自然的要因で生じるものなどが挙げられる。そのため、千葉県では天然ガス採取企業と「地盤沈下防止協定」を締結し、地盤沈下防止対策がとられたが、現在でも広範囲の沈下があり、一部では年間2cm以上の沈下を続けているところがある。

気候[編集]

年間平均気温は15℃前後、年間降水量は約1,500mm前後。夏場は県内の中では特に気温が上がり、猛暑日になる日も珍しくない。

歴史[編集]

地名の由来[編集]

茂原の地名は、平安時代に藤原黒麻呂によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「藻原」が[1]、江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。

友好都市[編集]

オーストラリアの旗 ソルズベリー市(オーストラリア連邦南オーストラリア州)
2002年5月25日茂原市制施行50周年記念式典に併せ、茂原市において「姉妹都市協定書」に本調印が行われた。茂原市とソルズベリー市は赤道を挟み緯度、経度がほぼ同じであり、面積、地形、人口規模等、共通点が多い。また、茂原市内の中学校と交流したり、ソルズベリー市と美術作品の交換、相互訪問が行われている。

公共施設[編集]

文化施設
茂原市立美術館・郷土資料館
茂原市立図書館

運動施設
茂原市市民体育館

医療施設
公立長生病院

茂原市出身の有名人

お富さん(切られの与三郎の相手役)
小倉優子(タレント)

茂原市関連の有名人

荻生徂徠 - 14歳の時、父・方庵が将軍徳川綱吉の咎を受けたため、家族とともに母の実家のあるこの地に移り住んだ。徂徠は、ここで漢籍を学び、後世に名を残す大学者となる基礎を築いた。


さて、茂原市の七夕祭りとは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E5%8E%9F%
E4%B8%83%E5%A4%95%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A

茂原七夕まつり(もばらたなばたまつり)は、千葉県茂原市で毎年7月下旬に開催される七夕祭りである。平塚・狭山と共に関東三大七夕祭りの1つに挙げられる。

概要[編集]

開催期間:7月下旬の金曜日~日曜日(3日間)
会場:茂原市JR茂原駅周辺商店街
この3日間に、茂原駅の周辺商店街が七夕飾りで埋め尽くされる祭りである。七夕飾りはコンテストも行われる。飾りだけではなく、近年では土曜日の「もばら阿波おどり」、日曜日の「ちばYOSAKOI夏の陣」等ダンスやパレードも充実したイベントとなっている。ダンスイベントでは、茂原市民会館も会場となる。
祭りの模様は例年8月上旬に千葉テレビ放送で1時間枠で放送される。なお、この番組では祭りの模様と茂原市周辺の観光スポット情報があわせて紹介される。

歴史[編集]

1954年 - 茂原市榎町商工会が夏枯れ対策として七夕祭りを開催
1955年 - 茂原市などが主催し、第2回茂原七夕祭りとして開催
1976年 - 第1回もばらおどり開催
2000年 - 第1回ちばYOSAKOI夏の陣開催
2004年 - 茂原七夕祭り50周年
2009年 - 第55回茂原七夕まつり
第55回には、日本で初めて、明治6年に明治政府が太政官布告第一号をもって廃止した七夕が再現された。
2011年 - 東日本大震災の影響による節電協力のため、全イベントを19:00で終了し、ライトアップは中止

主なイベント[編集]

もばら阿波おどり
第23回(1976年)から開始。当初は「もばらおどり」として開催されていた。2008年の第54回から「もばら阿波おどり」と改名。周回コースとなる。毎年地元の連が10連程度参加している。

ちばYOSAKOI夏の陣
第46回(2000年)から開始。こちらは地元だけではなく、他の千葉県内ないし他都道府県の団体が参加することがある。



茂原市の‘市章’がシャネルのエンブレムに酷似している!

茂原市のエンブレム
http://www.actiz.jp/areaprofile/municip
alityprof1.html/?t=1&pid=12&mid=210

茂原市の市章:茂原市の頭文字「も」を図案化したもの。力強い円の交錯は、人の和、産業の和、自然の和を意味し、茂原市の力強い円満な姿を表現するもの。この規定は、公布の日から施行し、昭和47年5月1日から適用する。

chanel_logo.jpg
http://kousuituushin.blog48.fc2.com/blog-entry-98.html
シャネルのエンブレム:シャネルは、1910年、ココ・シャネルがパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店したのが始まりだそうだから、茂原市が市章を制定した昭和47年5月1日には、シャネルのエンブレムは既に存在していた!

まあ、パクリじゃあないのだろうが・・・。余りにもよく似過ぎている!

マリリンモンローが、1960年にマリクレール誌のインタビューを受けた際に「‘シャネルの5番’を着て寝る!」と言った時、私は、二十歳を過ぎていたが、「‘しゃ’れたものを着‘寝る’」で‘シャネル’と覚えようとした記憶がある。何故なら、そんな香水があることなんて知らなかったからである! 当時は、暗記のために‘駄洒落’が活用されたものである。その名残だったのだろう。‘1192年鎌倉幕府’は、‘いい国創る’と覚えたように。でも最近は、鎌倉幕府の始まりは、少し年代がずれているらしい!?これはまた別途。


前置きはこの位にして、さて肝心の‘茂原市・七夕祭りの昨日(2013年0月27日<土>)の実際の現場の様子をカメラに収めて来た!

茂原七夕-2
茂原七夕0001-2

2013年07月27日(土)17:54~19:18の間84分(1時間24分)間に撮った写真の数、129枚。

茂原市に余り関係の無い人にとって、そう意味のある写真ではない。しかし、これらの写真の一枚一枚に茂原市の‘風景’が感じられる。したがって、出来る限り‘アルバム’の積りで掲載したい。

26日~28日、3日間のスケジュールは、次表の通りである。

茂原七夕-4

この日、27日(土)のイベントは、

茂原七夕-4-2

となっており、お目当ては、‘もばら阿波踊り’である。

勿論、その前に‘七夕の飾り付け’を見るのも目的である!

それでは、‘茂原市・七夕祭り’の写真集を!

画像ー162 012-2
2012年07月27日17:54 我が家から車で或るスーパーまで行き、その駐車場に車を置いて、炎天下を約20分歩いて、やっと‘七夕祭り’の雰囲気が伝わってくるところまで来た!

画像ー162 013-2

画像ー162 014-2

画像ー162 015-2

画像ー162 017-2

画像ー162 018-2
ある旅館の中庭で‘スイカ割り’をしている!

画像ー162 019-2
おっと!

画像ー162 019-3
奥さんが、棒でたたこうとした瞬間、一人の坊やがスイカに近づき過ぎたために、お父さんが中へ割り込んだのである!結果は、奥さんはスイカを叩かず、旦那の頭を・・・。きっとこんな写真は世界中に無い筈!

画像ー162 020-2

画像ー162 021-2

画像ー162 022-2

画像ー162 023-2

画像ー162 024-2

画像ー162 025-2

画像ー162 026-2

画像ー162 027-2

画像ー162 028-2

画像ー162 030-2

画像ー162 031-2

画像ー162 033-2

画像ー162 034-2

画像ー162 037-2

画像ー162 038-2

画像ー162 040-2

画像ー162 041-2

画像ー162 043-2

画像ー162 042-2

画像ー162 044-2

画像ー162 045-2

画像ー162 047-2

画像ー162 048-2

画像ー162 052-2

画像ー162 053-2

画像ー162 056-2

画像ー162 060-2

画像ー162 061-2

画像ー162 062-3

画像ー162 065-2

画像ー162 068-2

画像ー162 069-2

画像ー162 071-2

画像ー162 074-2

画像ー162 078-2

画像ー162 080-2

画像ー162 082-2

画像ー162 083-2

画像ー162 085-2

画像ー162 086-2

画像ー162 088-2

画像ー162 087-2

画像ー162 091-2

画像ー162 092-2

画像ー162 094-2

画像ー162 095-2
我々が買った‘じゃがバター’!

画像ー162 096-2

画像ー162 097-2

画像ー162 100-2

画像ー162 102-2

画像ー162 107-2

画像ー162 112-2

画像ー162 113-2

ここからが、‘茂原・阿波おどり’の風景!

画像ー162 115-2

画像ー162 116-2

画像ー162 117-2

画像ー162 118-2

画像ー162 119-2

画像ー162 119-3

画像ー162 121-2

画像ー162 121-3

画像ー162 122-2
外人さんも?夫婦??

画像ー162 123-3

画像ー162 126-2

画像ー162 127-2

画像ー162 127-3

画像ー162 129-2

画像ー162 130-2

画像ー162 133-2

画像ー162 135-3

画像ー162 137-3

画像ー162 141-2
駐車場へ戻って来たのが、19:18

今年は、茂原市の七夕飾りと阿波踊りを満喫出来た!

明日はm‘よさこい踊り'を!

(つづく)
[2013/07/28 23:56] | 地域活性化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
参議院の役目とコストパフォーマンス
参議院‘通常’選挙の際に、いつも少し話題になって直ぐに消えてしまうことがある。

それは、

‘参議院って本当に必要なの?’

という事である。

c2456678.jpg
http://blog.livedoor.jp/nandeya_umeda/archives/50607977.html

‘参議院は必要ない’と言うには、どんな‘証拠’が必要なのだろうか?

ただし、その十分なる‘証拠’が見つかったとしても、‘憲法の改正’が必要だから、現行の憲法を改正するには先ず96条の改正から始まって・・・となると大変難しい!

そんな訳で、今回の参議院通常選挙に当たっての与党大勝後の課題での私見で、私は‘憲法改正’派に廻った!

私の70数年の人生の中で、参議院があって本当に良かったという‘事件’の遭遇した覚えはない!

‘だから、必要ない!’という程単純には出来てはいないが、やはり‘参議院のコストパフォーマンス’、つまり‘費用対効果’は、こんな折だから検討しておくのも無意味ではないと思う!

‘有るものを無くす’にはそれなりの理屈が必要である。

先ずは、参議院とは何か?から・・・。

参議院のHPに掲載されている「よくある質問」には次のように書かれている

http://www.sangiin.go.jp/japanese/goiken_gositumon/faq/a01.html#A01
国会全般について

Q1:なぜ日本は二院制を採用しているのですか

A1:国会は、衆議院と参議院の二つの議院から成り立っています。このしくみを二院制といいます。

二院制の利点としては、
(1)国民の様々な意見をできるだけ広く反映させることができる
(2)一つの議院の決めたことを他の議院がさらに検討することによって審議を慎重に行える
(3)一つの議院の行き過ぎを抑えたり(抑制)、足りないところを補ったり(補完)できることなどがあります。

Q2:二院制を採用している国はいくつありますか

A2:列国議会同盟(IPU)の資料によると、2013年4月現在、189か国中77か国が二院制を採用しています。なお、主要国首脳会議(サミット)に参加している国(日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、ロシア)に限ると、すべてが二院制を採用しています。

Q3:参議院は衆議院とどこが違うのですか

A3:任期、選挙制度、解散の有無、権限などが異なります。詳しくは「参議院のあらまし」の「国会の基礎知識(国会の地位と権能)」をご覧ください。

Q4:衆議院の優越とは何ですか

A4:憲法は、衆議院と参議院の意思が一致しないときに、いくつかの点で衆議院の方に強い権限を認めています。これを衆議院の優越といいます。詳しくは「参議院のあらまし」の「国会の基礎知識(両議院の関係)」をご覧ください。


少なくとも、上記‘二院制の利点’を見る限り、参議院が是非とも必要という答えにはならない!

(1)国民の様々な意見をできるだけ広く反映させることができる

これは、参議院がなければならない理由にはならない。これを参議院の必要条件と言うなら、衆議院だけでは‘国民の様々な意見をできるだけ広く反映させることができない’という事の裏返しだから、衆議院を馬鹿にしている評価となってしまう恐れがある。上記(2)も(3)についても同じことが言える。

実際には、衆議院を小馬鹿に出来る程の人物が参議院にいるとは思えない!参議院議員の中には‘人気タレント’的な存在で、只々政党の言う通りにすればいいという‘張子の虎’先生もおられるようで、そんな人に言っちゃあ悪いが貴重な税金で‘雇っておく余裕’など今の日本にはないのである!

この観点からも、コストパフォーマンスが良いとは全く言えない!

参議院の必要を説く人の中には‘ねじれ現象’こそ参議院の意義などと平気で言う人もいるが、Q4&A4でお判りの通り、衆議院の優越がある限り‘ねじれ’の意味など‘議論のための議論’に過ぎないことを認識すべきである!

改めて、‘参議院’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2
参議院(さんぎいん、英語: House of Councillors)は、両院制をとる日本の国会を構成する議院(日本国憲法第42条)。

概説[編集]

日本国憲法下で衆議院とともに国会を構成している一院(日本国憲法第42条)。イギリス議会やアメリカ合衆国連邦議会など、欧米の議会における上院に相当する。旧憲法下の貴族院とは異なり全国民を代表する選挙された議員で組織される(日本国憲法第43条第1項)。参議院の名称は、8世紀の大宝令制定直後に追加された令外官の参議に由来する。
参議院議員の任期は6年で、衆議院議員の任期(4年)より長い。衆議院はたいてい任期途中で解散となるため、実質的な任期の差はさらに広がる。また、解散がされる衆議院と異なり任期途中での解散がなく、3年ごとに半数改選が行われる。内閣不信任決議は衆議院のみの権限であるが、参議院の権限は決して無視できないものであるため、内閣は常に両院を意識する必要がある。確かに、内閣総理大臣の指名、予算の議決、条約の承認については衆議院に絶対的な優越があるが、法律案の議決については相対的な優越しかなく、憲法改正案の議決に関しては完全な対等である。しかも、憲法ではなく法律にもとづく国会の議決に関して対等の例が数多くある。このため、参議院を無視してしまうと法律案その他の議決に重大な障害となるため、内閣は常に両院の総意(これには、衆議院の優越により衆議院の意思がそのまま両院の総意となった場合をも含む)にもとづき行動しなければならない。
貴族院を前身とする参議院には玉座がある。また、衆議院にも「御所席」と称せられる玉座が置かれている。

特質[編集]

良識の府
参議院は解散のない長期在任規定から政権選択にとらわれることなく有識者によって審議される「良識の府」と呼ばれる。ただし参議院が新設された当時の議論では「良識の府」などという議論は全くなく、誰がこのようなことを言い出したかは不明であり、由来は不明である[2]。また、設置の目的に存在したものでもない。
河野謙三が参議院議長になってから参議院改革が徐々に行われた。正副議長の党籍離脱の原則、審議時間の確保、小会派への割り当て質問時間の増加、自由討議制の導入、決算重視の審査、押しボタン式採決の導入などが図られたが、抜本改革にはほど遠い状況ではある。
再考の府
衆議院先議案が衆議院で可決した後に参議院に送付されて国会で二度目の審議に入ることが多いことから「再考の府」とも呼ばれる。予算は衆議院先議規定があり、条約や法律も政権にとって重要法案は多くが政権側によって衆議院先議法案となりやすい。与野党対立法案では衆議院可決後に参議院で審議未了で廃案や継続審議となることもある。
学習院大学教授の福元健太郎が参院発足後の1947年から2000年に政府が衆議院先議に提出した7106本の全法案を分析すると、衆議院が可決した法案を参議院が実質修正したり廃案になった例は8%。審査回数で参議院が衆議院を上回ったのは22%という結果が出た[3]。一方で、政策研究大学院大学教授の竹中治堅は「参議院は戦後日本の政治過程において多くの場面で現状を維持する方向で影響を与えてきた」と分析している[4]。
政局の府
参議院議決が政局になることから「政局の府」とも呼ばれる。
佐藤栄作首相は、「参議院を制する者は政界を制する」と語り、たびたび重宗雄三参議院議長のもとに出向き、法案成立の協力をあおいだ。また、竹下登首相は「参議院を笑う者は参議院に泣く」と語り、参議院を軽視することを戒めた[5]。衆議院優越規定があるが、法案の採決における衆議院優越規定について出席議員の3分の2以上という高いハードルを課していること、参議院に解散がなく任期の長いことが影響している。参議院に首相に対抗しうるボスが出てくる傾向は、のちに、村上正邦や青木幹雄、輿石東らでもみられている。
1975年には、伯仲国会のなかで政治浄化が課題だった三木政権の政治資金規正法の採決では可否同数となり、議長決裁で可決されて成立する決着を迎えた。ねじれ国会になると、1998年の問責決議可決による閣僚辞任、2008年には第二次世界大戦後初の日銀総裁空席やガソリン税暫定税率期限切れによるガソリン大幅値下げ、与党を無視した野党による強行採決による証人喚問など、与党が急に解決できない政治課題が度々出てきた。また、2005年の郵政国会では参議院での郵政民営化法案の否決が、衆議院解散という最大の政局へつながった。

意義[編集]

「参議院不要論」および「両院制#意義」も参照
一般の両院制の意義と同様、衆議院とは異なるプロセスで選挙や審議を行い、多元的な国民の意思を反映することが期待される[6]。

沿革[編集]

1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では立法機関(天皇が有する立法権の協賛機関、5条)として帝国議会を置き、帝国議会は衆議院と貴族院の二院からなった。民選(公選)議員のみからなる衆議院に対して、貴族院は、皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成された。
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は立法機関として国会を置き、国会は衆議院と参議院の二院からなる。衆議院および参議院はいずれも民選議員のみによって構成され、衆議院議員および参議院議員(国会議員)は「全国民を代表する選挙された議員」と定められた(43条1項)。
GHQの示した憲法改正案(マッカーサー草案)では衆議院のみの一院制とされていたが[7]、日本側の反発を予想し、実際には当初から民選の二院制を視野に据えていた[要出典]。マッカーサー草案の提示は、1946年2月13日に外務大臣公邸にてGHQ民政局長ホイットニー准将が吉田茂外務大臣、松本烝治憲法改正担当国務大臣と会見した際に行われたが、草案を見た松本国務大臣がその場で、一院制では選挙で多数党が変わる度に前政権が作った法律をすべて変更し政情が安定しないことを指摘し、二院制の検討をホイットニー准将に約束させている[8][9]。
その後、帝国議会と枢密院での議論のために法制局が作成した想定問答集では、「問 一院制を採らず両院制を採る事由如何」「答 一院制を採るときは、いはゆる政党政治の弊害、即ち多数党の横暴、腐敗、党利党略の貫徹等が絶無であるとは保し難いのであって(以下略)」[10]と「政党政治の弊害」を両院制を採る理由としている。
たとえ、1回の選挙で勝利し1院で過半数を取ったとしても、第二院があるため法改正を自由に行えない、法改正を自由に行うためには2回続けて選挙に勝利しなければならないという仕組みは、法律の改革の迅速性を犠牲にしながらも、間接民主主義の問題点である多数党が民意を離れて暴走することを防ぐのに有効であり、1回の選挙で勝ったからと言って暴走すれば2回連続では選挙に勝つことはできず、国民は多数党の行動を見ながら真に立法権を託せるか時を置いて第2院の選挙で決することができる。この「1回の選挙の結果では大きく法律は変わらない」というシステムは、「保守対革新」「資本主義対共産主義」「右翼対左翼」といった2極対立の戦後社会において、社会の安定性に寄与したと言える。


上記参議院のなんたるかを知った上で、次に‘参議院不要論’についても‘現状分析’をしておく必要がある。

足りない脳みそと足りない情報で‘自分の意見’を構築しても‘意見’としての意味や権威は最早始めっからなかったに等しいし、そんな自分勝手な意見で議論を戦わせるとしたら、それこそ無駄の3乗という結果になってしまい国益を損ね、地球の資源の無駄使いという結果となってしまう!

ましてや、自分には‘虚しさ’が残るのみである。

だから、文献調査や専門家のご意見をある程度調査検討することこそ‘己の意見構築・感想’をもつ時に必要なのである。

例えば、外国旅行に行く場合、何の知識もなく現地について「ああ、これがコロセウムか!第二次大戦でこの辺もやられたのだなあ」などという‘笑い話’にもならない何処かの国の参議院議員さんもいたとか、ということになりかねないのである!

面倒でも、「あの人の意見は一理ある!」と言われるためには、少なくとも‘正しい知識’が必要なのであるから、一寸我慢して・・・。

‘ツイッター’や‘フェイスブック’には、往々にして‘解説や文献引用’の余裕が無いため無知識やその場の感情だけでの意見が多いのには‘嫌悪感’さえ覚えることがある。勿論、お遊び意見なら許せるのだが、そんな薄っぺらな無駄情報使いは許されるのだろうか?

「その中には素晴らしい意見も隠されているのだから‘拾い出せばいい’」などという馬鹿げた意見をノタマウ御仁もおられるようで・・・。困ったものである!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%A
D%B0%E9%99%A2%E4%B8%8D%E8%A6%81%E8%AB%96

参議院不要論(さんぎいんふようろん)とは、日本の国会において参議院は不要であるため廃止をし、一院制にしようという主張。参議院無用論ともいう。各国の両院制批判の現状についても本項で解説する。

目次 [非表示]
1 主張
1.1 衆議院の「カーボンコピー」化
2 憲法施行時における暫定的一院制の想定
3 その他
4 各国の状況
4.1 イギリス
4.2 フランス
5 参考文献
6 脚注
7 関連項目

主張[編集]

不要論は大きく分けて、一般的な両院制への批判と日本独特の理由との2種類がある。
一般的な両院制への批判としては次のような主張がある。
政治学者のアーレンド・レイプハルトは、両院制を推奨する前提として(1)人口が多い(2)連邦制である(3)多民族国家である、のうち2つ以上に当てはまる場合とし、日本は「人口が多い」という条件しか当てはまらないため参議院は不要である、と結論付けている[要出典]。

アメリカなどのような連邦国家では、連邦を構成している州・国の利害の調整の場として単なる人口比率にかかわらず各州・国が代表を送り出せる場としての上院が必要になるが、日本は連邦国家ではない。
北欧を中心として、国連加盟国の過半数は一院制を採用している。
両院の存在は時間と金の無駄ではないかという、コストの問題[要出典]。

フランスの政治家エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスが主張した「第二院は第一院と同じ意思決定をするのなら無駄である。また、異なる意思決定をするなら有害である」という伝統的な不要論がある[1][2]。ただし、シェイエスらがフランス革命期に作った一院制の議会である国民公会は暴走を起こし、政敵である少数派を次々に死刑にする恐怖政治を引き起こしている。恐怖政治はテルミドールのクーデターにより終結させられ、一院制の国民公会はわずか3年でなくなり、その後できた共和暦3年憲法では、恐怖政治への反省から、二院制の議会が作られている。また、シェイエスのこの批判は貴族院のような特権的第二院に対するものであり、参議院など直接公選の第二院に対する批判としては妥当ではないとする主張もある[3]。

日本独特の理由としては次のような主張がある。

参議院の「衆議院のカーボンコピー」化。(#衆議院の「カーボンコピー化」にて後述)

現在の都道府県地方区を一選挙区とした上での定数配分自体が各都道府県の人口を適切に反映できない。(一票の格差)
歴史的には、参議院は貴族院を継承したものであって、明治憲法改正の手続き上あるいは政治上の必要から残されたものにすぎない、とする[要出典]。

衆議院の「カーボンコピー」化[編集]

参議院の「衆議院化」によって、元来参議院に期待されていた「良識の府」としての機能が、十分に果たされなくなっているとする批判がある。これは「衆議院のカーボンコピー」化と言われる。
明治憲法における日本の二院制は非公選の貴族院と公選の衆議院とを対置するものであった[4]。戦後に公選の参議院になった際にも、被選挙権が30歳以上と定められ、全国区制を採用するなど、できるだけ有識で党派に属さない議員が増えるような努力がなされ[要出典]、政府や衆議院に対して是々非々で臨み党議拘束の弱い存在であることが期待される[5]。国会当初は参議院は衆議院とは異なる政党構成を有し、4割強の議席を無所属議員が占めていた[6]。中でも最大会派であった緑風会はその思想を体現し、独自性を発揮したとされる[7]。しかし、緑風会の衰退とともに参議院は次第に「政党化」し、衆議院と同じような党派対決の場へと変貌した[8][6]。まとまった行動を取るために政党化それ自体はやむを得ないが[5][9]、衆議院の政党の党議拘束を受け入れると独自性を失い「カーボンコピー」と化す[10][12]。

また、参議院の設立当初には、異なる選挙方法で選ぶことが望ましいという趣旨から、衆議院の中選挙区制と差別化するために参議院は全国区と地方区に分けた選挙制度を取った[13][14]。しかし、全国区制は後に党派依存の要素が強い比例代表制へと変えられた[15][14]。現在では衆議院も参議院も「選挙区+比例区」の構成となっており、このような中で、衆議院と変わらない参議院に存在意義を見い出せない、とする。
(なお、上院は世界各国の例を見ると、間接選挙や任命制を用いるなど有徳有識の者を集めることを目的とされ、その議員は下院議員より敬われる傾向がある[要出典]。また、国民の代表となる下院よりも権限が弱く、その有識者による議員立法や、下院をチェックし法案の修正案を提示することなどに特化して、存在意義を示している場合が多い。また、下院のような政党対政党の対決をよしとせず、政党化しないで中立な視点から有識者による審議を目指す傾向にある。)

憲法施行時における暫定的一院制の想定[編集]

日本国憲法第101条では憲法施行の際、参議院が未成立の時は衆議院単独で国会とすることを規定している。そのため、1947年5月3日に参議院が成立していなかった場合、衆議院の一院のみで立法府とし、暫定的に一院制を想定していた。現実には1947年4月20日に参議院選挙が行われ、憲法施行時に参議院が成立していたため、暫定的一院制は行われなかった。
日本国憲法施行時に憲法に規定されている機構が存在しなかった例としては、憲法施行から3ヶ月後の1947年8月4日に発足した最高裁判所がある。ただし、最高裁が存在しない期間について憲法に特別の規定はない。

その他[編集]

参議院不要論は衆議院議員および一時期を除いて長期間に渡って衆議院多数与党であった自民党から主張されることが多く、そのことから参議院不要論は単に「審議・採決の手間と時間を減らし、自民党の議案を通しやすくしたいだけではないか」との批判も強い[要出典]。事実、自民党は参議院で過半数拮抗(伯仲国会)や過半数割れ(ねじれ国会)になれば不要論を唱え、逆に参議院で過半数または安定多数になれば不要論を唱えなくなる傾向がある[要出典]。
近年では、「何も決められない政治」の打開策として、参議院廃止が唱えられるようになった。大阪維新の会・幸福実現党のように、参議院廃止を公約として掲げる政党も現れた[要出典]。また田勢康弘のように、参議院廃止を提言する政治評論家・ジャーナリストもいる[要出典]。
日本国憲法では、第42条から第44条、第46条から第51条、第53条、第54条の第2項・第3項、第55条から第64条、第67条において、参議院や両院制に関する文言が存在するため、一院制にするためには憲法改正をする必要がある。
参議院不要に対し、参議院が不要なのではなく、参議院の衆議院化こそが問題なのであり、参議院改革によって存在意義を取り戻せるという考え方がある(参議院改革論)。
参議院は不要だが、一院制への移行ではなく貴族院を復活させる考え方が保守論者の一部にある[要出典]。この場合、貴族議員(すなわち貴族制)を復活させる場合はもちろんのこと任命制を導入する場合でも憲法改正が必要となる。

各国の状況[編集]

イギリス[編集]
世襲による構成を続けてきた貴族院は民主化が進むにつれ、国民からの批判にさらされてきたが、そうした要望にこたえ、1911年のパーラメント・アクトに代表される貴族院改革がなされてきた[16]。その一方で1977年労働党大会をはじめ貴族院廃止論があったが、現実的な政治課題とはならなかった[16]。

フランス[編集]
1791年憲法以降、一院制と二院制とが繰り返されてきたが、1853年の第三共和国憲法以来現在に至るまで二院制が採用されてきた[17]。その間、第五共和国憲法制定および1969年に、一院制の是非について国民投票が行われたが、いずれも否決されている[17]。なお、フランスの二院制は国民議会と間接選挙によって選出される元老院で構成される[18]。

参考文献[編集]

前田英昭 「参議院を考える」 (PDF)、『政治学論集』 (駒澤大学)第46号1-45頁、1997年9月30日。 NAID 110000189893。2013年7月20日閲覧。
朝火恒明 「参議院と政党政治 : 日本政治における参議院の諸問題」、『学習院大学大学院政治学研究科政治学論集』 (学習院大学大学院政治学研究科)第14号1-58頁、2001年3月31日。 NAID 110000494451。2013年7月20日閲覧。
脚注[編集]

^ 前田 1997, p. 11.
^ 美濃部達吉 『議会制度論』 日本評論社〈現代政治学全集〉、1930年、120-121頁。2013年7月20日閲覧。"シイエースの有名な言である『第二院は何の役に立たうか、若しそれが代議院に一致するならば、それは無用であり、若しそれに反對するならば、それは有害である』"。
^ 前田 1997, p. 12 ただし、前田論文には「シェイエスが批判したのは、代議院とは異なる型の特権的第二院であり、直接公選の第二院ではなかった。」とあるのみで根拠は示されていない。.
^ 前田 1997, p. 7.
^ a b 前田 1997, p. 26.
^ a b 朝火 2001, p. 5.
^ 前田 1997, p. 30.
^ a b 朝火 2001, p. 3.
^ 欧米の第二院も政党化しているが、このような批判はされない[8]
^ 前田 1997, p. 28.
^ 朝火 2001, pp. 21-22.
^ 参議院に対する「党議拘束」の実体は衆議院議員の党議が参議院議員を拘束するものではなく、党議が衆参両院議員の共同で形成される「衆参一体活動」であるとする論説がある[11]。
^ 前田 1997, p. 14.
^ a b “参議院議員選挙制度の変遷”. 参議院. 2013年7月20日閲覧。
^ 朝火 2001, p. 37.
^ a b 前田 1997, p. 4.
^ a b 前田 1997, p. 5.
^ 前田 1997, p. 8.



これだけのことを調査・検討するだけで、ある参議院議員よりも‘正しい判断’が下せるというものである。

やっぱり、参議院は要らない!

ただし、次回は、参議院があったお蔭で日本が救われたという数少ない例を探しに・・・。さて、どんな旅になるのやら・・・。

(つづく)
[2013/07/27 10:51] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
‘ボケ防止’と弊ブログのランキング
dfc4870e.jpg
http://motemotelife.doorblog.jp/?p=3

世の中で、‘自慢話’ほど嫌われる ものはない!

最も好まれる人物は‘失敗談’しかしない人である! 

image1771.jpg
http://ilysuzuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/

失敗談しかしない人の周りにはいつも人が集まってくる。何故だろうか?

つまり、要するに、早い話が、ええっと!

人は皆大なり小なり失敗を繰り返しているから、失敗談をする人の話で‘癒される’のかも知れない!

逆に、人間は‘或る評価’を待っている時ほど‘興奮’する。高い評価を期待するからである。

この‘心境’は、大学の合格発表に収斂される。

しかし、よ~く考えてみると‘大学の試験’ほど人間を差別するものはない!

「あなたは、‘頭が悪い’とまで直接には言わないが、成績が悪いから、入学お断り」という訳であるから、これこそ何だか‘人権無視’の憲法違反だと思うが、‘大学入試は憲法違反だ!’と訴えた人は多分誰もいないはずであるし、誰も不思議がってはいない!

丁度、「人間の命に直接関わるから、絶対安全が保証出来ない限り‘原発反対!’」ということを大声で叫んだり運動を盛んに行なう人達が、‘絶対安全が保障されていない’飛行機や車に乗って‘反対運動’をやっていることに似ている!

何だか不思議な世の中である!

自分の位置づけや人からどう見られようと‘そんなの関係ない’と悟ってしまうと一見素晴らしい人のようにも見えるが、社会生活を送る上では、他人様に迷惑をかける始末となる。

歳を取ると段々他人のことが気にならなくなり、ことほど左様に自分のことも気にならなくなってしまい、遂には‘ボケ’の状態となる。

‘ボケ防止’を叫んで、その対策に躍起になる人が多い。

しかし、私は‘ボケ防止’反対派である。

‘ボケ’は何の為にあるか?を考えれば直ぐに何故かが理解出来る。

① そろそろ‘死期’が近づいたと、本人は認識しなくて他人が認識するためのものである!

② 本人自身が、‘死の恐怖’から逃れるためには、‘ボケて’いなくてはならない!

これが‘自然の成り行き’というもので、これを医学が発達したからと言って‘ボケ防止’を行なうのは本人のためにならない!

周りが、その人のために‘苦労したくない!’という身勝手を助けるための行動としか私には映らない!

逆に、世間が気になっているということは、‘まだボケていない’という証拠でもある。

ところで、この‘FC2’のブログは、自分のジャンル毎に毎日‘ランキング’が発表される!

それも‘登録ジャンル’とその‘サブジャンル’でどちらもランキングがつくのである。

私の‘登録ジャンル’は、‘日記’。このFC2の場合、この‘日記’で登録している人の数は約37万人。

そして、‘サブジャンル’は、‘創作日記’で登録人数は約1万人である。

さて、これ以降は決して自慢話ではなく‘ボケ防止’であるからお間違いなく!

本日(2013年07月26日)のランキングは、以下の通り。

画像ー162 008-2

日記ジャンルでは、768位/371,227人中

創作日記というサブジャンルでは、18位/10,511人中

画像ー162 001-2

サブジャンルTOP20

画像ー162 001-3

その拡大

毎日、朝一番にこのチェック!

これは、やはり‘ボケ防止’になる。もっと受けるやつなんてことは、始めからないが、自分の記録としてどんな考えだったかをチェックするのに大いに役立つし、新しい知識も随分増えた。

(つづく)

[2013/07/26 19:24] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
憲法改正問題
一昨日のこの弊ブログで、参議院議員‘通常’選挙での与党大勝の後、政府の三大課題について次のように書かせて貰った。

参議院議員‘通常’選挙 は、大方の予想通りに終了した。

これからは、次の3つが大きな‘課題’である。

(1)消費税

(2)憲法改正

(3)原発


この3課題について、今後現時点での私見を纏めておきたい。

という訳で、一昨日、昨日とで(1)消費税についての私見を述べた。

本日(2013年07月25日)の話題は、

(2)憲法改正問題

である。

kokkaigizidou-thumb-800x461 (1)
http://www.daiichisekizai.com/blog/2009/10/entry_555/

現時点での‘憲法問題’は、議論の焦点が二つに分かれている。

① 憲法の内容を変更するために‘第96条’の内容を変えるべき

② 改正すべき内容:第9条と一院制


が大まかなところである。先ず、

① 第96条の先行改正(国民投票の変更)

この事についての各政党の意見は、次の通りである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95
%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88%E4%B8%80%E8%A6%A7

第96条の先行改正(国民投票の変更)

● 自由民主党:発議要件のハードルが高すぎる。過半数が妥当だ。(国民投票の厳格化もあり得る)

● 日本維新の会:96条をまず改正し憲法のゆがみを正していく。

● みんなの党:96条改正による「軟性憲法化」を主張する。

● 民主党:ハードル下げるのみでなく中身の議論が欠かせない。

● 生活の党:手続き的規定から改正するのは乱暴だ。

● 公明党:中身の議論の前に手続きだけ改正するのは不透明だ。

● 日本共産党:狙いは9条改正で、ハードルを低くするのは国民を欺く。

● 社会民主党、みどりの風、新党改革、新党大地・真民主、沖縄社会大衆党、日本未来の党は、改正不要。


これは、自民党が言うように‘憲法改正の発議要件のハードルが高過ぎる’から、時の政権が‘憲法改正’の発議が出来ない。これでは100年経っても200年経っても同じ憲法のままということになりかねない!

時代の進み方は、100年前に比べて格段にそのスピードが速いのに、憲法が時代を反映しないという不都合が生じることは明らかである。その他諸々のことで‘100年前’のことが現在通用するだろうか?この事を考えれば憲法だってその時代を反映したものでなければならない。

ただし、発議は、国会議員の過半数で良いが、国民投票は‘過半数’ではいけない!国民投票のハードルを国会議員のハードルよりも高く設定することで‘主権在民’が全うされる!

私の意見

96条改正私案発議は、衆参両院とも過半数。国民投票のハードルは、‘60%’。そして、この60%以上というのは、投票総数の60%以上であって、投票権者のそれではない! 投票しなかった人には、判定の権利は与えられないのが原則とすべき、だから。


② 改正すべき内容:第9条と一院制

この課題についての各政党の意見。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3
%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88%E4%B8%80%E8%A6%A7

第9条と一院制

● 自由民主党:9条改正すべき(自衛隊は違憲)。一院制は不要。

● 日本維新の会:9条改正すべき。一院制にすべき。

● みんなの党:9条改正不要。一院制にすべき。

● 民主党:9条改正すべき。一院制不要。

● 生活の党:9条改正すべき。一院制不要。

● 公明党(自衛隊は合憲)、社会民主党、みどりの風、新党改革、新党大地・真民主、沖縄社会大衆党、日本未  来の党は、いずれも、9条改正不要。一院制不要。


私の意見

9条改正すべき。一院制にすべき。

今更ながら、こうやって自分の意見を書きものしてみると以上の二つの課題については、


● 日本維新の会:96条をまず改正し憲法のゆがみを正していく。

● 日本維新の会:9条改正すべき。一院制にすべき。

という「日本維新の会」の意見と同じことになってしまう!

ただし、ニュアンスはいろいろ違うのだが・・・。

そんな訳で、一つの政党の中でも‘方向の大筋’は同じでも細かいところでは、意見が違うのは当たり前である。
したがって、同じ政党の中でも案件ごとに‘採決は自由’という方法を採らなければ、ご本人の意見がはんえいされないという悲しいことになりかねない。

一方、政党に一票を入れたのだから纏まってもらわねバ意味が無いとの主張があるのは当然である。

政治案件には複雑な事情が織り込まれているから、細部に亘って全員の意見が同じなどということは‘奇跡’に近い!

私は、前から‘政党政治の破綻’を唱えて来た!

それぞれの案件には、それぞれが‘政党の枠’を外れて己の信念をさらけ出すべきである。

次回は、‘参議院の意義’について意見を書かせてもう積りである。

(つづく)
[2013/07/25 10:13] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
消費税について(その2)
昨日(2013年07月23日)のこの弊ブログで取り上げたのは、

消費税について(その1)

である。

参議院議員‘通常’選挙も終わって、ねじれ国会は解消された。

従って、

これからは、次の3つが大きな‘課題’である。

(1)消費税

(2)憲法改正

(3)原発


この3大課題について、現時点での私見を‘日記’の形で残しておきたいと思っている。

そんな訳で、先ずは消費税について

(1)消費税について

論点は、次の‘3つ’である。

① 消費税を上げると、本当に国家の税収増になるのか?

② 消費税の在り方:軽減税率と複数税率

③ いつから?


その中でも、先ず第一に

① 消費税を上げると、本当に国家の税収増になるのか?

について、資料を引用しながら、私の出した結論は、

私の結論:消費税増税は、現時点では、必ず国家の税収増に繋がる!

ということで、昨日のブログは終わっている。

本日のテーマは、

② 消費税の在り方:軽減税率と複数税率

先ず、参考のために‘世界148カ国’の消費税について見てみたい。

mp01.jpg
http://kitakanzeikai.com/main/kitazeimusyo/zei12.html
部分再掲
r_6823811img20120828143820-2.jpg
5%の国は、ナイゼリア、台湾、カナダ、そして日本の4カ国のみである!

消費税の在り方について、各政党の意見は次の通りである。

本日現在の‘Wikipedia’には、次の解説が掲載されている。(註:アップデートされていない個所もある)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E

国会に議席を有する政党の消費税への姿勢[編集]

自由民主党[編集]
党内には上げ潮派と増税派が混在するが、これまで消費税導入や引き上げは全て自民党政権の下で行われてきた。2009年の総選挙においては、麻生首相は、消費増税の前に景気対策や国会議員の定数削減など歳出の削減を行うと表明しつつも、その後で税率を上げることは避けられないとする主張であった。この選挙において、自民党は、消費税を4年間上げないと明確に公約した鳩山代表が率いる民主党に、歴史的大敗を喫することとなった。野党となった自民党の谷垣執行部のもとでは、税率10%への引き上げを党議決定している。2012年6月、消費税増税法案を民主党ならびに公明党と合同で提出。消費税増税法案は、衆議院で採決を行い賛成多数で可決された[128]。

民主党[編集]
結党当初は、新進党が提出した増税中止法案に反対していた。岡田代表時代は、年金目的消費税を主張していたが、小沢一郎が代表に就任してからは、これを凍結。2007年の参議院選挙では、消費税引き上げを否定している。鳩山代表が就任後の2009年の総選挙では、無駄を省けば歳出を大幅に減らせるとして、4年間は消費税率を引き上げないと公約している。しかし、鳩山内閣において歳出の削減は進まず、鳩山の突然の辞任後に成立した菅内閣では一転して消費税引き上げを示唆することとなった。次の野田内閣では、野田首相が財政規律を重視し消費税率引き上げを表明した。民主党内には、小沢派など消費増税反対派が半数を占めていたため、党内採決をとらず前原政調会長がとりまとめを一任するという形で議論を打ち切ったことで党内の溝が深まった。2012年6月、消費税増税法案を自民党、公明党と合同で提出し、党議拘束をかけて衆議院で採決を行い可決された[128]。この動きに対して、党内の最大派閥である小沢派などが造反した。

公明党[編集]
2009年の総選挙時にはマニフェストにおいて消費税率引き上げを示唆している。翌年の参議院選挙ではトーンダウンして財政再建目的での増税には反対を表明し、社会保障のあるべき姿を先に議論すべきとしていた。2012年6月、消費税増税法案を民主党ならびに自民党と合同で提出。消費税増税法案は、衆議院で採決を行い賛成多数で可決された[128]。

みんなの党[編集]
基本的に経済成長にともなう財政再建を目指す上げ潮派である。当初は増税の前にやるべきことがあるとして、絶対反対は明言していなかったが、消費税引き上げを目指す野田内閣に徐々に批判を強めている。

日本共産党[編集]
基本的に公共事業費や防衛費を削減することや大企業や大資産家への増税による財政再建を主張しており、一貫して反消費税の立場をとる。

社会民主党[編集]
導入された「日本社会党」時は消費税そのものに反対し、消費税廃止法案まで提出するほどであった。「社会民主党」改称後の自社さ連立政権時代には一転して消費税引き上げを容認。連立を解消し、再び消費税率引き上げが行われるムードになると増税反対を表明し、共産党に歩調を合わせて直接税の増税を主張している。

新党改革[編集]
2010年の参議院選挙において2020年頃には複数税率などの条件付きで税率を10%以上にせざるを得ないとしているが、代表の舛添氏は社会保障の切り込みが不十分であるとして野田内閣の増税路線には批判的である。


消費税で議論が必要なのは、その‘在り方’であるのだが、残念ながら、この事に関しての議論が少な過ぎる!

今の‘多くの’というより‘ほとんど’が、どの商品に対しても‘一律に’5%から8%にという議論ばかりである。

低所得者に関しての議論、つまり生きて行く上での最低限の権利を確保するための消費税とは何かの議論をもっと為政者はすべきである!

すなわち、食料品や飲み物といった毎日の生活に欠かせないものについては、消費税‘0’に、といった議論が少な過ぎるのである。

我々のように年金のみの収入しかない老人も含めて‘低所得者対策’を緊急に打つべきである!

政府においても、こんな議論はとっくの昔に済んでしまっているに違いないのだが、どうやら消費税が2桁に到達してからに、などという我々からすれば如何にも不届きな意見があるという!

<軽減税率について>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E
軽減税率[編集]

軽減税率は食料品を始めとした生活必需品と贅沢品を区分けし、非課税にしたり税率を低税率にするものである。消費税という税制度は逆進性が高いことが問題となっており[1]、その逆進性の問題へ対応するために軽減税率などが多くの国で導入されている。しかしこの非課税課税の区分けや税率は多くの議論があり、また各国で違いがある[2]。
例えばカナダではドーナツ5個以内は外食とみなされ消費税6%、ドーナツ6個以上ではその場では食べられないとみなされ食料品となり消費税は非課税となる[3]。ドイツではハンバーガーを食べる場所により変わり、店内で食べると外食とみなされ消費税19%かかり、テイクアウトにすると食料品とみなされ消費税7%となる[3]。
所得が低いほど消費に占める生活必需品の割合が大きいことに着目した制度であるが、高所得者にも軽減税率が適用されるため、金額ベースでは絶対的な消費が大きい高所得者がより多くの恩恵を受けることとなる。このため、必ずしも所得再分配の観点から好ましいとは言えないという批判がある[1]。



http://www.nta.go.jp/ntc/kenkyu/ronsou/46/takada/hajimeni.htm
食料品等に対する軽減税率の導入問題
 
髙田 具視
税務大学校
研究部教授
要約

1 研究の目的

 少子・高齢化の急速な進展などの経済社会の構造変化や危機的な財政状況を背景として、あるべき税制の構築に向けた改革論議が進められており、今後、消費税の役割を高めていくことが税制上の大きな課題となっている。
 消費税は、消費水準に応じて比例的に負担を求めることができ水平的公平に資するという特長を有している反面、所得に対する負担割合は逆進的となり、この逆進性の問題が消費税に対する不満の大きな要因にもなっている。
 今後、消費税率の引上げ論議が本格化していく際には、逆進性への対応策が大きな論点の一つとなり、食料品等に対する軽減税率の導入を求める声がこれまで以上に高まっていくことは必至であろう。
 そこで、本稿では、消費税の食料品等に対する軽減税率の導入問題に焦点を当て、そのあり方等について考察する。

2 研究の概要等

(1) 逆進性の実態と対応策

 実収入に対する消費税の負担割合は、実収入の増加に従ってやや低下する傾向があるが、税制全体としては依然としてかなりの累進性が確保されている。一方、食料品に対して軽減税率を適用した場合の負担の変化(試算)を見ると、相対的な負担割合を緩和する効果は認められるものの、高所得者層にもより高額の軽減効果が及ぶため、必要となる財源の大きさに比し低所得者層の負担軽減効果はさほど期待できず、効率性の観点からは疑問が多い。
 逆進性に対応するための具体策については、様々な手段が考え得ることから、その得失等を総合的に勘案しながら、適切な選択あるいは組合せが検討されるべきである。

(2) 食料品等に対する軽減税率制度のあり方についての考察

 軽減税率の導入は、制度の簡素化や経済活動に対する中立性に反し、また、税収面への影響も大きいなど、これまで多くの問題点が指摘されてきている。しかしながら、今後の消費税率引上げの前提条件として、その導入が政治的に不可避となることも予想され、特に、食料品の扱いを中心に具体的な仕組みのあり方について検討しておくことは重要である。
 そこで、売上税法案や平成2年の見直し法案など過去の政府提案における食料品に対する特例措置の内容にも触れながら、そのあり方について考察した。

イ 対象となる食料品の範囲
 軽減税率の対象となる食料品の範囲については、低所得者層への配慮という政策目的に照らせば、日常的な食料品に限定することが望ましい。
 しかしながら、家計調査などの客観的なデータに基づき、対象となる食料品を合理的な基準で選定することは困難である。また、「生鮮食料品」や「基礎的食料品」として特定することについては、既存の制度に確立した概念がないほか、食料品は一般的に生鮮なほど高価なものが多いといった問題もあり、生鮮食料品等の概念を用いて税法で新たに特定し、定義づける意義、実益は見出せない。そうすると、対象範囲を限定する方法としては、主要国にも見られるように、いわゆる贅沢品を限定列挙して軽減対象から除外することが現実的かとも考えられるが、贅沢品の範囲をどのような基準で特定するかなど問題も多い。
 このように、食料品の一部を合理的な基準で区分することは困難であり、また、食料品の中に税率区分を設けることは国民の間に混乱を生じかねないことから、過去の政府提案においても食料品全体が特例の対象となっているものと考えられる。
 また、軽減税率の設定は消費税の適用税率を異にするものであることから、対象となる食料品の判定に混乱が生じないよう、その範囲を明確にする必要があるが、これを法令だけで網羅的に規定することは不可能である。したがって、法令の解釈、あるいは予想される限界事例等について、通達等により予め統一的な取扱いを定めることが重要となる。
 なお、食料品の定義については、過去の政府提案の内容を基本として検討されることとなろうが、過去の政府提案では食料品の譲渡は非課税であり、仕入税額控除の仕組みが機能しないのに対し、軽減税率の場合には仕入税額控除が可能となり、前段階の税負担は小売段階で調整されるので、基本的には最終消費財たる食料品を対象とすれば十分であろう。

ロ 食料品の譲渡の範囲(飲食サービスとの仕切り)
 食料品の譲渡に対して軽減税率を適用する場合、いわゆる飲食サービスとの区分をどう仕切るかという難しい問題がある。基本的な考え方としては、設備の提供を伴うものや配膳その他の人的サービスを伴うものは、飲食サービスとしての役務の提供の性格が強いものと言えよう。しかしながら、外食産業の形態は多様化し、譲渡かサービスかの区分は一層困難になってきており、また、外食が一般的に贅沢であるという考え方自体が時代錯誤ではないかとの批判もあり得よう。軽減税率の対象を「譲渡」か「サービス(役務の提供)」かという基準で区分する考え方を見直す必要があるのかもしれない。

ハ 税率水準と問題点
 軽減税率を設ける場合の税率水準については、税収への影響(食料品のウェイト2割強⇒1%当たり約5千億円)等を考慮して設定される必要があるが、軽減税率の導入は、あくまで税率引上げに伴い拡大する逆進性の緩和策と位置づけるべきであり、少なくとも制度変更時の水準は維持すべきである。
 なお、ゼロ税率は、課税ベースが大きく侵食される、対象範囲の拡大を誘引する、恒常的に還付が生ずる事業者が多発するなど問題が多く、採用すべきではない。

ニ 食料品以外の生活必需品
 食料品に軽減税率を設けることになると、書籍、新聞、医薬品、公共料金、住宅、医療(現行では非課税)等々に軽減要望が拡大していく可能性が極めて高いが、そもそも、何が生活必需品か否かを合理的な基準で特定することは不可能である。食料品に対する軽減税率の導入は、軽減対象の際限のない拡大という問題もはらんでいる。

(3) 制度面、執行面への影響等

 消費税の複数税率化は、その制度設計の困難性のみならず、仕入税額控除等の諸制度、さらには、事業者の事務負担、税務執行面にも様々な影響を及ぼすことから、その導入の是非については、こうした点も合わせた慎重な検討が必要である。

イ 仕入税額控除制度
 軽減税率が採用されれば仕入れについて複数の税率が存在するため、適正な仕入控除税額の計算という観点から、ヨーロッパ型のインボイス方式の導入が不可欠になるという意見が多い。他方で、インボイス方式の導入に対しては、従来から事業者の事務負担や免税事業者の取引排除の問題を懸念する指摘がなされてきている。
 食料品の仕入れはほとんどの事業者に存在すること等から、現行の請求書等保存方式の下で食料品の軽減税率に適切に対応していくことは困難であろう。もっとも、インボイス方式の導入問題については、今後、消費税の役割を高めていくのであれば、免税事業者からの仕入れについて税額控除を認めている現行制度の理論上の矛盾を解消し、公平性、透明性をより高めていくことが、消費税に対する国民の理解を深める上でも重要であり、複数税率化の有無にかかわらず、早晩、取り組んでいくべき課題と考える。なお、平成15年度の税制改正により免税点の水準が大幅に引き下げられるなど、インボイス方式に向けた環境は変化してきており、同改正後における事業者の実態等を踏まえつつ、我が国におけるインボイス方式の具体案についても検討を進めていくべきであろう。

ロ 中小事業者に対する特例措置
 平成15年度の税制改正後においても約230万の免税事業者のほか、200万戸を超える免税農家が存在する。食料品に軽減税率が導入され、標準税率と軽減税率の水準に一定以上の差がある場合には、農家を中心に恒常的に還付申告が可能となる事業者が多発することになるが、免税事業者が還付を受けるためには、課税事業者を選択し、本則計算による申告書を提出しなければならない。このため、農家の納税事務負担への配慮という問題を惹起し、それに対応するための新たな特例の創設を巡って難しい政策判断を迫られることになるであろう。
 また、簡易課税制度については、複数税率の下では適正なみなし仕入率の設定が困難になるという問題が生ずる一方で、すべての零細事業者に本則計算を求めていくことが可能か、あるいは現実的かという問題もあり、公平性を重視して制度を廃止するか、あるいは、簡素性を考慮して一定の見直しを図りつつ制度は今後とも存続させるか、いずれにしても大きな政策判断が必要となる。

ハ 執行上の諸問題
 食料品が軽減税率になれば、多くの事業者に対象品目の仕分け、レジの改造や取替え、申告納税事務の手間といった負担が増加する。
 また、課税庁においても、食料品に該当するかどうか、あるいは譲渡に該当するかどうかの判定等について個別の事例に対応できるような専門的知識を持った職員の養成が必要となるほか、膨大な還付申告や事後調査に適切に対応するための事務量の確保など執行体制の大幅な見直しも必要になろう。

3 まとめ

 政府税制調査会の累次の答申では、「軽減税率を設けるべきか否かという問題は、政策的配慮の必要性と制度の中立性・簡素性との間の比較考量により判断すべき問題である」と指摘しつつ、食料品等に対する軽減税率の採用は、消費税率の水準がヨーロッパ並みである二桁税率となった場合の検討課題であるとの考え方が示されている。

 逆進性への対応策としての食料品に対する軽減税率の導入は、所得階層別の消費税の相対的な負担割合を緩和する効果は認められるものの、所得の高い層ほど軽減額も多くなるなど効率性の観点からは疑問も多く、逆進性対策として有効なものとは言い難い。その一方で、対象となる食料品の範囲や飲食サービスとの仕切りなど具体的な仕組みの構築に多くの困難が予想されるばかりでなく、中小事業者に対する特例措置など他の制度に与える影響も大きい。また、事業者の事務負担の問題、特に農家の還付申告のための納税事務負担への配慮といった新たな難題を惹起するほか、税務執行面に与える影響も大きく、税制の基本原則である中立性や簡素性の大きな阻害要因となる。
 こうした軽減税率による逆進性の緩和の効果とその導入に伴う様々な問題を勘案すれば、軽減税率の導入は経済的合理性に著しく反しており、将来的に二桁税率となっても、可能な限り単一税率を維持すべきである。そして、逆進性への対応については、低所得者層の絶対的負担の軽減を主眼として、社会保障制度等を通じたきめ細かな配慮による対応を中心とすることが適当であり、低所得世帯への税額控除(還付)方式についても、将来的な課題として、その採用の是非について真剣な議論、検討がなされるべきであろう。

 いずれにしても、逆進性への対応策については、それぞれの施策の得失等を総合的に勘案しながら、適切な選択あるいは組合せが検討されるべきであり、少なくとも、二桁税率になれば軽減税率を導入することを所与のものとして議論、検討していくことには慎重であるべきと考える。


いやいや驚いた!

長年‘税務’に関することを研究されて来られたプロ中のプロの方のご意見だから疎かにする気持ちはないが、‘制度’というものは厳しいものである。またそれを‘厳格に’維持して行こうとすれば、或る程度‘血も涙もない’と思われるかもしれない‘措置’を断行すべきことも薄々理解出来た!

でも、もっと各政党とも、政党のためなどという党利党略のためといったレベルの低い意識ではなく‘本当に生活に苦しい人達’のことを考慮して議論を戦わせて欲しい!

<複数税率について>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E
複数税率[編集]

贅沢品か生活必需品かによって税率を変える多段階方式の消費税を導入する事で低所得者層の負担に配慮している国も多い。ただしこうした税制はどこからを贅沢品とみなしどこからを生活必需品とみなすかで議論が紛糾し、政治問題化する。[42]という問題や、記帳申告実務に多大な労力を要するという問題もある[43]。これらの事情から5%引き上げ時に多段階税率方式が見送られた経緯もある。
現在、与野党の税制調査会や各政治団体等で、税率アップの議論に伴いこれら話題が活発に議論され始めている(詳しくは政治動向の欄を参照)。



消費税の在り方について、引用資料を活用し自分の意見を構築しようと試みたが、‘制度’などという厚い壁に押し戻されそうになった!

もっと簡単に、単純に物事は進まないのだろうか?

ここで取り上げた‘軽減税率’も‘複数税率’の問題も‘商品の区分け’の問題である!

それらを今実施している国々の事情について、もっと真剣に調査を実施し、その結果を日本の国情に照らして修正を施せば、きっと良い‘消費税税制’が日本で実施出来ると確信する!

消費税実施で‘世界一の先進国’になることを安倍政権は行なう‘義務’がある!

どうか一日も早く‘いつからやる?’に対しての答えを出して欲しい!

‘いまでしょう!’という言葉は、少々聞き飽きた!

(つづく)
[2013/07/24 15:03] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
消費税について(その1)
参議院議員‘通常’選挙 は、大方の予想通りに終了した。

これからは、次の3つが大きな‘課題’である。

(1)消費税

(2)憲法改正

(3)原発


この3課題について、今後現時点での私見を纏めておきたい。

日本国中、‘皆評論家’で、自分の意見をキチンと纏めて書きものにする人は少ない!他人様のご意見に‘ケチ’をつけるだけである!

かの‘芥川龍之介’が評論家に向かって‘吐いた言葉’が有名である!

http://pub.ne.jp/Shography/?entry_id=4553343
龍之介のおもしろい詩?があるのよ。
百足 ちっとは足で歩いてみろ
蝶蝶 ちっとは羽根で飛んでみろ 


解釈は色々あるのだろうが、‘俺は百足’と称している評論家さんよ、ちったぁ、自分の足で歩いてみろよ!蝶蝶に対しても同じである!

もともと‘或る問題’に関して、‘意見が分かれる’理由は、各人の‘経験’と‘分析・構築能力’に掛かっていることは先刻来ご承知の通りである。

全員が‘同じ経験’をし、‘能力’に変わりがなければ、‘意見’は、分かれない!

そう言った意味では、‘同一民族’では風俗習慣が同じに近いし、能力という観点からしても或る程度同じと見るのが客観的見方である。

したがって、‘同一民族・同一国家’が一番‘安定’していて‘安全’なのである。

そんな観点からすると、案外‘日本は恵まれている’と言える。

安倍総理には、こんな‘キャッチコピー’をと前々から思っていたが・・・。

ref_l.jpg
http://blogos.com/discussion/2013-01-29/speech_president_abe/

「私に任せれば、‘安’心・‘安’全が‘倍’増します!‘安倍’です!」

これは、‘特許・実用新案’も何も無いので自由にお使いを!(勿論、使われはしまいが・・・)

さて、またちょっとだけ脇道にそれたが、本題の消費税について・・・。

(1)消費税について

論点は、次の‘3つ’である。

① 消費税を上げると、本当に国家の税収増になるのか?

② 消費税の在り方:軽減税率と複数税率

③ いつから?


消費税に関して議論をし、少なくとも自分の意見を他人様に説明する人は、最低このぐらいのことに関する知識と見識を持つべきである。ただ、自分の身の回りだけしか見ないで‘わぁわぁ騒ぐ’のは恥ずかしいと認識すべきだろう。

その前に「‘消費税’とは何か?」についてわれわれ一般庶民はどれくらいの知識レベルであるかのか?これも認識しておく必要がある。例えば、諸外国の消費税率や消費税の‘掛け方’について全く知らない人には‘日本の消費税’について他人様に語る資格はない!自分勝手に高い安いを想うことは勝手であるが・・・。

そんな訳で、先ず「‘消費税’とは何か?」について・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E
消費税(しょうひぜい)は、消費に対して課される租税。日本においては、消費税法に規定する消費税と地方税法に規定する地方消費税の総称。

目次 [非表示]

1 分類
1.1 個別消費税
1.2 一般消費税
1.3 総合消費税
2 軽減税率
3 消費税の歴史
3.1 世界
3.2 日本
4 各国の消費税率
4.1 EU加盟諸国
4.2 EUに属さない欧州諸国と地域(NIS諸国を含む)
4.3 アジア諸国
4.4 北米・中南米諸国
4.5 中東諸国
4.6 その他の諸国
5 各国の消費税収が国税収入に占める割合
6 消費税がない国と地域
7 国の税収およびその中の消費税収入の推移
7.1 日本
8 日本の消費税制度の諸議論
8.1 制度の趣旨について
8.1.1 物品税と消費税
8.1.2 導入された理由
8.1.3 逆累進性
8.1.4 複数税率
8.1.5 インボイス
8.1.6 消費地課税主義
8.2 制度上の諸議論
8.2.1 益税問題
8.2.2 非課税
8.2.3 輸出免税
8.2.4 社会保険との関連
8.2.5 二重課税
8.3 消費税増税問題
8.3.1 国際通貨基金(IMF) の見解
8.3.2 ポール・クルーグマンの見解
8.3.3 ジョセフ・E・スティグリッツの見解
8.3.4 日本国内の学者・エコノミストの見解
8.3.5 日本新聞協会の主張
8.3.6 経済への影響
8.3.7 福祉財源として
8.3.8 景気刺激策としての提案
8.4 国会に議席を有する政党の消費税への姿勢
8.4.1 自由民主党
8.4.2 民主党
8.4.3 公明党
8.4.4 みんなの党
8.4.5 日本共産党
8.4.6 社会民主党
8.4.7 新党改革
8.5 政治的な動向
9 イタリア
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク


消費税に関する‘Wikipedia’の記事の目次だけでもこれだけの分量!うんざりせずに、URLをクリックして一度は目を通しておこう!

一例だけ。
800px-TVA-UE-2007.png
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3
%82%A4%E3%83%AB:TVA-UE-2007.png

EU諸国における一般消費税率

注目は、EU加盟国においては、15%未満の国はないということと‘スエ―デン’及び‘デンマーク’は25%であることを覚えておこう!


さて、このブログで取り上げる‘消費税’に関しては、上述の通り、次の‘3つの論点’である!

① 消費税を上げると、本当に国家の税収増になるのか?

② 消費税の在り方:軽減税率と複数税率

③ いつから?



① 消費税を上げると、本当に国家の税収増になるのか?

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20100703/1278169815
消費税増税は本当に税収を増やすのか?

個人的に色々あって、しばらくブログの更新をお休みしていました。
その間に菅直人政権が発足したのですが、この政権は菅首相をはじめ、仙谷官房長官、野田財務相、枝野幹事長、玄葉政調会長と、消費税増税を主張する政治家ばかり要職についた政権でした。案の定、菅総理は突然消費税増税を打ち出し、この問題が参院選の最大の争点になっています。
しかし、今回の選挙では、最初に消費税10%への増税を打ち出したのが、やはり増税派である谷垣総裁や石破政調会長を擁する野党自民党で、菅総理はそれに相乗りする形で消費税増税を打ち出しています。そのため、与党と野党第一党の双方が消費税増税を訴え、社会党、共産党、国民新党、みんなの党などの小政党がそれに反対するという奇妙な構図になっています。一方で、たちあがれ日本や日本創進党のように消費税増税を支持する小政党もありますし、公明党や新党改革のようにその中間にいる政党もあります。
また、増税の目的についても民主党の内部ですら意見はまちまちで、「社会保障費に限定」、「増税しても雇用が増えるように使えば景気は良くなる」、「財政再建」、「法人税率引き下げの財源」と方針が一致していません。どうもはじめに増税ありきで、目的はただの口実に過ぎないのかと疑念を抱いてしまいます。
ただし、これらの消費税増税に関する議論には、一つの前提があると思います。それは、

‘消費税増税をすれば増税分だけ税収は増加し、それ以外の税金は減少しない’ということです。

しかし、この前提は必ずしも正しくありません

その一例として1997年(平成9年)消費税増税が行われた時の話をしてみます。

この時、消費税はこのときは3%から5%へと2%引き上げられました。そして、この時は同時に社会保険料引き上げや所得税特別減税の廃止も行われ、合わせて「9兆円の負担増」と呼ばれました。
今回、消費税10%という数字が出ていますが、これは消費税の5%引き上げと言うことになります。一般に日本で消費税が1%上がると、消費税税収が2兆円程度増加すると言われています。ということは、消費税5%引き上げで10兆円程度の税収増、言い換えれば国民負担増になるわけです。つまり、1997年の国民負担増は、現在消費税が10%に引き上げられた場合と、同程度の影響を経済に与えると考えられます。

まず、1997年の消費税増税について、税収がどうなったかを見てみたいと思います。財務省のページに一般会計税収の推移のグラフがあるので、それを見てみましょう。

1997年は平成9年ですが、この年を境に税収は大きく落ち込み、それ以降、1997年の水準を回復した年がないことがわかります。消費税増税は税収を増やすという目的には失敗したことになります。

010.gif
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/010.gif
一般会計税収の推移:財務省 一般会計税収の推移:財務省 一般会計税収の推移:財務省 このエントリーをはてなブックマークに追加

また、主要税目の税収の推移を見ると、1997年(平成9年)以降、消費税は増税で増加しているものの、所得税や法人税の落ち込みがそれ以上に大きいことが分かります。

011.gif
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/011.gif
主要税目の税収(一般会計分)の推移 主要税目の税収(一般会計分)の推移 主要税目の税収(一般会計分)の推移

さらに、1997年(平成9年)を境にして歳出も増大しており、税収の落ち込みと歳出の増大によって公債発行額は大きく増えています。つまり財政赤字が増大して、財政再建からは遠ざかってしまったことになります。

003.gif
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/003.gif
一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移 一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移 一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移

このような税収の落ち込みや歳出の増大の原因ですが、これは明らかに景気の急速な悪化によるものです。1997年に名目成長率、実質成長率とも大きく落ち込んでいます。

gn-20091012-16.gif
http://www.garbagenews.com/img/gn-20091012-16.gif
日本の経済成長率をグラフ化してみる……(下)グラフ化とオマケ:Garbagenews.com 日本の経済成長率をグラフ化してみる……(下)グラフ化とオマケ:Garbagenews.com 日本の経済成長率をグラフ化してみる……(下)グラフ化とオマケ:Garbagenews.com

ただ、この1997年には「9兆円の負担増」だけではなく、アジア通貨危機も発生して、日本経済に大きな影響を与えました。また、この年には北海道拓殖銀行や山一証券といった大手金融機関の破綻も相次ぎ、金融不安も広がりました。

従って、この景気悪化が単純に「9兆円の負担増」によるものとは決めつけられません。原因についてはもっと考えてみないといけないでしょう。

さて、僕がこのようなことを考えていたとき、id:nyanko-wonderfulさんが1997年の消費税増税(3%→5%)と1989年の消費税導入(0%→3%)の時の経済を比較した記事を書いてくれました。

89年と97年の消費税増税の影響 - DeLTA Function 89年と97年の消費税増税の影響 - DeLTA Function 89年と97年の消費税増税の影響 - DeLTA Function

この記事で双方の時期の経済指数のグラフを比較していますが、1997年に見られた実質成長率、デフレ、労働条件の悪化は、1989年には見られないことが分かります。だから単純に消費税増税が景気を悪化させるとは言えませんし、その他の増税や社会保険料などの負担増についても同じ事が言えるでしょう。
また、金融危機が始まった97年Q4から急激に経緯が悪化しているので、1997年の不況の主因は金融危機だと考えられます。ただし、この時の経常収支は大きく減少してはいないので、海外の金融危機が輸出の大幅な減少を招き、急速に景気が悪化した2008年(リーマン・ショック)とは、違う原因であると考えられます。だからアジア通貨危機が景気悪化の原因であるとは言い切れないでしょう。
また、1997年の日銀の金融政策に大きな変化はないので、金融政策がこの不況の原因ではありません。ただし、日銀が突然の不況にほとんど何もしなかったことも事実でしょう。

それでは、何が1997年の不況の原因だったのでしょうか?
竹森俊平氏の本に同年の金融危機を取り上げた本があるのですが、その中に日本の不況の原因を論じた部分がありました。

1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)
1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)
作者: 竹森俊平
出版社/メーカー: 朝日新聞社
発売日: 2007/10/12
メディア: 新書
購入: 11人 クリック: 177回
この商品を含むブログ (84件) を見る

この本によると、当時の橋本政権は「9兆円の負担増」を実施する前、金融システムの問題について何も知らず、金融危機が発生してから初めて事態の深刻さを知ったようです。大蔵省などの官僚が財政再建に不利になるような情報を出そうとしなかったのと、大量の不良債権を抱えた金融機関(山一證券がその代表ですが)が不良債権を隠蔽して引当てを行わなかったことが、その理由でした。このような情報不足が、橋本政権の判断を誤らせてしまったようです。
そして消費税の増税を初めとする「9兆円の負担増」やアジア通貨危機、金融自由化(「日本型ビッグバン」)によって金融機関の経営危機に対する政府の態度が微妙に変化したこと、さらに金融機関の破綻が始まるとマーケットから流動性が消えて資金調達ができない金融機関が出てきたことなどが影響しあって、これほどの不況を招くことになりました。
ただ、アジア通貨危機については、アジア通貨危機が日本の金融危機を招いた側面よりも、金融危機に陥った日本の金融機関がアジアから資金を引き上げ、アジア通貨危機を悪化させた側面の方が大きかったようです。

このように、1997年の不況による消費税増税の失敗の原因が政府の情報不足にあったのならば、今回の消費税増税でも同じような間違いを繰り返す可能性があると思います。

今回の消費税増税も財務省の主導であり、民主党も自民党も財政再建を重視する財務省の考え方を取り入れて消費税増税を打ち出しているのでしょう。ということは、財務省が財政再建や消費税増税に不利になるような情報を伝えようとしない可能性は大きいでしょう。その結果、政府に十分な情報、特に消費税増税が景気に与える悪影響に関する情報が伝わらず、政府の判断が楽観的になってしまい、消費税増税を実施して、「思いもよらぬ」不況に陥ってしまう、そんな危険は少なくないでしょう。

このような事態を避けるためには、

政府に財務省の情報だけを入れるのではなく、消費税増税がが景気に与える悪影響についても様々な人や組織から情報を入れる必要があるでしょう。

そして、消費税増税が大きく景気を悪化させる危険性がある場合は、勇気を持って消費税増税の凍結や撤回を断行すべきでしょう。

現在、日本はデフレであり、需給ギャップが大きい(需要が供給を大きく下回る)状態です。消費税増税は消費や設備投資を低下させる効果がありますから、このような状況では消費税増税はすべきではないでしょう。
現在の財務省主導の消費税増税論ではこの点は無視されて、財政悪化ばかり注目した粗雑な論*1ばかりマスコミで報じられています。このような状況は、1997年に政府の情報不足を招いた状況によく似ていると思います。だから、このような状況こそ、消費税増税を失敗に導くのではないでしょうか。

*1:例えば「日本がギリシャになる」というような、両国の違いを全く無視した財政危機を煽る論調が語られています。


ここに解説してある通り、橋本政権でも情報不足だったというから、もしも今‘民主党政権’だったらと考えると‘ゾッとする!’

このような情報はもう‘現政府’はご承知だろうから、多分心配はない!

私の結論:消費税増税は、現時点では、必ず国家の税収増に繋がる!

(つづく)
[2013/07/23 12:32] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
参議院議員通常選挙
2013年、参議院議員通常選挙 は、昨年の暮れに自民党・安倍政権が発足して以来待ちに待った選挙である!

遂にその日が来た!

ここで少し‘豆知識’を・・・。

Q:衆議院議員の選挙は、「総選挙」というのに対して、参議院議員の選挙には‘通常’という言葉が入るが何故?

A:次の通り。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AD%
B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%8
0%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99

参議院議員通常選挙(さんぎいんぎいんつうじょうせんきょ)は、国会議員のうち参議院議員を選ぶための日本の選挙である。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数を改選する(日本国憲法第46条)。なお参議院議員通常選挙は任期満了による3年ごとの選挙のみを指し、これ以外の再選挙や補欠選挙は「通常選挙」には含まれない。

概要[編集]

参議院も衆議院と同様に全国民を代表する選挙された議員で組織される(日本国憲法第43条1項)。通常、参議院議員通常選挙は任期満了の日の前30日以内に行われる(公職選挙法32条1項)。しかし通常選挙を行うべき期間が参議院開会中または参議院閉会の日から23日以内にかかる場合、参議院閉会の日から24日以後30日以内に行う(公職選挙法32条2項)ため、任期満了後に行われる場合もある。

参議院議員通常選挙は全国規模の国政選挙ではあるが、総議員を一斉に選出するわけではなく半数改選であるから「総選挙」とは呼ばず、公職選挙法32条では3年ごとの参議院議員選挙を「通常選挙」と呼んでいる(ただし、国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条4号では「総選挙」について、「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆参問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから、憲法7条4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれる、と解するのが通説である[1][2])。公職選挙法により、参議院議員通常選挙の期日は少なくとも17日前に公示しなければならないとされている(公職選挙法32条3項)。


今回の選挙の争点は色々あった。各政党で強調するところが違ったのも‘見もの’であった。

① 経済問題 
② 原発問題
③ 消費税問題
④ 憲法問題
⑤ 沖縄基地問題
⑥ TPP問題
⑦ 尖閣島等外交問題

等々数え上げれば沢山あり過ぎた。

安倍政権での最大の‘課題’は、与党(出来れば、自民党単独で)過半数を確保すること!つまり‘ねじれ解消’が最大の関心事だった。

開票の結果、見事 自民党の‘課題’は達せられ、‘ねじれ解消’が実現した!

今朝(2013年07月22日)の新聞は、各社とも当然一面トップでその結果を伝えている。

画像ー161 118-2
2013年07月22日の朝日新聞の第一面

画像ー161 118-3
2013年07月22日の朝日新聞の‘天声人語’

画像ー161 115-2
TBS・TV ひるおびの画面

見る影もないのが、民主党である。

「政権を是非担当させて下さい!」と出来もしない項目を並べ立て国民を騙した‘詐欺集団’の民主党。国民は皆知っていたのである。

企業なら倒産した上に詐欺罪で実刑判決が出るところであると思われるのだが、国会議員にはそんな法律は適用されないで、まだ国民の税金で‘のうのうと’暮らしていけるという特権があるらしい。

その張本人たる執行部にいた議員様や首相・大臣経験者が、国民が怒っていることにも気付かずに応援演説に行くという、とんだ茶番劇を演じたもんだから、民主党の幹部が応援演説をすればするほど、された候補者は落選するという皮肉な結果となった!

<開票結果>

( 画像は、お断りor コメントしていない場合は、全てNHK・TVの放映画面をカメラで撮影したものである)

画像ー161 064-2
2013年07月22日02:13:16 この時点ではまだ1議席が決まっていなかったのであるが・・・。

画像ー161 065-2
2013年07月22日02:13:28 この時点で画面表示の‘残’が‘0’になった!

画像ー161 068-2
2013年07月22日02:13:56 それから‘26秒’遅れて、‘臨時’ニュースに相当するテロップが流れた! 

画像ー161 072-2
2013年07月22日02:14:28

画像ー161 075-2

画像ー161 077-2

画像ー161 080-2

画像ー161 099-2

画像ー161 101-2

画像ー161 103-2

次の画面で、みんなの党・代表の渡辺喜美氏がなんという発言!???

画像ー161 109-2
2013年07月22日 TBS・TV‘朝ズバ!’に出演の渡辺喜美氏

「私達の場合は、‘ナベノミクス’と言いまして・・・・」 これにはびっくりした!

正直言って、これは‘アベノミクス’の‘捩(もじ)り’であり、悪く言えば‘パクリ’である。

何と言う‘主体性の無い’情けない発言なのだろうか? 技術の世界では‘無断特許使用’で‘犯罪’である!
この発言一つで、‘みんなの党’の政策はみんな‘パクリ?’と思えて来た!

勿論、彼は、第一次安倍内閣の時の‘閣僚’だから、‘アベノミクス’の構想の半分は自分のもの、と思っていて‘ナベノミクス’という言葉を使ったというかも知れないが、お粗末である!

よそ様のいい所(とこ)どり、では余りにも情けない!

参議院の在り方や消費税、憲法問題についての私自身の意見については次回に・・・。

(つづく)
[2013/07/22 23:55] | 政治と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2013年・大相撲夏場所・千秋楽の大予想、大外れ!
昨日(2013年07月20日)の弊ブログは、次のように締め括っていた。

画像ー159 135-2
(以後の画像は、全てNHK・TVの放映画面をカメラで撮影したもの)

この稀勢の里の顔がいい!

この時点での明日千秋楽の‘大予言!’

① 稀勢の里は、勝って‘12勝3敗’。→ 横綱審議会に掛けられて横綱へ昇進!

② 白鵬は、日馬富士に敗れて、2敗。日馬富士は、10勝!

横綱昇進の理由:

<1>:両横綱を破った

<2>:白鵬の連勝を阻止した

さて、明日は参議院選挙よりもこの大相撲の方がきっと面白い!

(つづく)

本日の結果は、

② 白鵬は、日馬富士に敗れて、2敗。日馬富士は、10勝!

は、見事予言が当たった!

しかし、

① 稀勢の里は、勝って‘12勝3敗’。→ 横綱審議会に掛けられて横綱へ昇進!

は、誠に見事に‘大外れ!’である。これで照明出来たのは、「‘八百長’はなかった 」という事である。

<稀勢の里敗れたり!>

2013年07月21日、大相撲夏場所千秋楽で、私の大予想に反して、綱取り大関・稀勢の里があっさりと敗れてしまったのである!

           千秋楽これより三役

画像ー160 009-2
東の三役

画像ー160 011-2
西の三役

画像ー160 012-2
東の三役揃踏み!

画像ー160 013-2

画像ー160 014-2

画像ー160 015-2
東西の入れ替わり!

画像ー160 016-2

画像ー160 018-2

‘小結に叶う’一番は、一番後に紹介!

画像ー160 039-2
さあ、始まった! 稀勢の里の横綱昇進向けての大一番!

画像ー160 041-2
二力士が、土俵に上がった!

画像ー160 042-2
おやおや、琴奨菊の方が対戦成績がいいんだ! でも今場所は、勢いが違う、大丈夫!私の予測通り‘絶対に’稀勢の里の勝利間違いなし!

画像ー160 044-2
この目つき・・・

画像ー160 045-2

画像ー160 051-2

画像ー160 046-2
この4枚の写真とも、表情から見てとれるのは、稀勢の里には‘神’が乗り移っている!という感じ・・・。

画像ー160 056-2
さあ、制限時間一杯!

画像ー160 057-2
にらみ合って・・

画像ー160 058-2
稀勢の里が‘速過ぎる! この一瞬に‘乗り移った神’が、さっと消え去った!

画像ー160 059-2
この顔からすると、もう‘神頼み’は期待出来ない! 本人もそう感じたのだろうか?

画像ー160 075-2
さあ、立った!稀勢の里は、右上手を取ろうとしたのに・・・

画像ー160 076-2
琴奨菊に切られてしまった!

画像ー160 077-2
その後、上手は取れず・・・

画像ー160 060-2

画像ー160 061-2

画像ー160 078-2
腰は琴奨菊の方が低い! これではもう稀勢の里は危ない!

画像ー160 079-2
あ、あ、あ・・・・

画像ー160 063-2
勝負あった! 大予想は‘大外れ!’

画像ー160 068-2
琴奨菊は、冷静だった!

画像ー160 069-2
この時点で、どんなに悔しがったってもう遅い!

画像ー160 072-2
来場所から出直しであるが、もうチャンスは巡って来ないのかもしれない! この予想が外れることを願うのみ!残念!

さて、千秋楽最後の取り組み。私の予想は、‘日馬富士の勝ち’! 果たして???


画像ー160 088-2
横綱は、10勝が最低ライン!

画像ー160 092-2
これまでの対戦は、25 VS 14 これは、多分、白鵬の‘ぶ’が一番悪い相手に違いない!

画像ー160 097-2
年齢は、日馬富士が1歳上。

画像ー160 098-2
闘志は満々!

画像ー160 100-2
にらみ合って・・・・

画像ー160 109-2
おっと、オカシイゾ!

画像ー160 110-2
あれよ、あれよ・・・・

画像ー160 101-2
おや、おや・・・・

画像ー160 114-2
やっぱり、右わき腹が????

画像ー160 103-2
来場所は、‘全勝優勝’で・・・。予想は大当たりだが、余り気持ちが良くない!

画像ー160 104-2
やっぱり、‘負けてやったか?’それは白鵬の場合、ない!


それでは最後に、誠に見事な‘鶴龍の右上手投げ’をど~ぞ!

画像ー160 028-2

画像ー160 030-2

画像ー160 029-2

画像ー160 031-2

こんな‘豪快な’上手投げは余り見たことが無い!

遂に全国民の希望が通じないまま‘千秋楽でござりまする’ということになってしまった!

(つづく)
[2013/07/21 23:58] | 大相撲 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2013年・大相撲夏場所・14日目の大一番!
2013年の大相撲・夏場所も、13日目に各段階の優勝が全て決まってしまうという史上初めての出来事が起こってしまった!

これはもう、幕内最高優勝さえも予め大相撲全体の流れに呑み込まれてしまって‘予定の行動’だったと言っても過言ではない‘運命’だったに違いない!

それはそれとして、特に不思議ではないが、不思議なのは‘稀勢の里’の運命 である!

この力士の運命は何に‘操(あやつ)られている’のだろうか? と、思いたくなる程の不思議さである。勿論、彼自身でさえも自覚症状は無いに違いないが・・・。

前半戦の7日目の時点で‘3敗’した時には、後半戦には、両横綱に大関陣がいるのだから、その後全勝でも12勝3敗、そんな奇跡は起こり得ないからもう稀勢の里の横綱昇進は駄目だと関係者も含めて日本国中の大相撲ファンは皆そう思ったに違いない!

私は、実はその時この‘稀勢の里が奇跡を起こす!’と確信していた!そしておまけに‘優勝’だってあり得る、と思っていたのである。

‘優勝’は上記の通り、もっと強い運命の大渦に呑み込まれたしまったが、昨日(13日目)の時点で、今日(14日目)の勝利を確信していた!

これは大相撲協会丸ごとの‘一種の八百長’という指摘さえ出て来るほど、この‘稀勢の里’の運命は‘奇異’である!

今日、14日目の‘奇跡’の一番は、

画像ー159 109-2

画像ー159 110-2

画像ー159 111-2

画像ー159 111-3
稀勢の里の‘廻し’のこの部分が気になる!やはり‘ゲン担ぎ’なのであろうか?

画像ー159 113-2
全勝街道まっしぐらの白鵬だが、彼も運命に翻弄される!

画像ー159 116-2

画像ー159 117-2

画像ー159 118-2
ここで、先に立ったのが白鵬! 行事待った!である。

画像ー159 120-2
もう一度仕切り直し!

画像ー159 121-2
ここで、これが運命に翻弄されている証拠の、‘今度は白鵬が待った’をかけた!

この横綱の‘待った’は、稀勢の里の威力である!

遂に両者は3度目に‘激突’! 後は見ての通り・・・

画像ー159 122-2

画像ー159 123-2

画像ー159 124-2

画像ー159 229-2
‘寄り倒し!’

画像ー159 125-2

画像ー159 231-2
座布団が乱れ飛ぶ!

通常、座布団が乱れ飛ぶのは、‘横綱、だらしないぞ!’の意味あいが強いのであるが、今回は、それに加えて‘大関・稀勢の里よくやった!’の意味が込められていた!

画像ー159 128-2
しかし、冷静な大横綱!

画像ー159 129-2
稀勢の里が、こんなに冷静とは! これぞ正に彼が‘運命に翻弄’されている証拠!

画像ー159 130-2

画像ー159 132-2

画像ー159 133-2

画像ー159 135-2

この稀勢の里の顔がいい!

この時点での明日千秋楽の‘大予言!’

① 稀勢の里は、勝って‘12勝3敗’。→ 横綱審議会に掛けられて横綱へ昇進!

② 白鵬は、日馬富士に敗れて、2敗。日馬富士は、10勝!

横綱昇進の理由:

<1>:両横綱を破った

<2>:白鵬の連勝を阻止した

さて、明日は参議院選挙よりもこの大相撲の方がきっと面白い!

(つづく)
[2013/07/20 23:24] | 大相撲 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ヘルシンキオリンピック、今でも残る記憶
今朝(2013年07月19日)のNHKラジオで、‘今日は何の日?’のコーナーを聞いて古い記憶が甦った!

7月19日は、

‘ヘルシンキオリンピックが開催された日’といっている。

ダウンロード (8)
http://shigekeura.exblog.jp/18319584/

私は、当時中学1年生、昭和27年(1952年)のことである。

いつもの‘Wikipedia’で、7月19日を見てみると次のような‘事件’が取り上げられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%BB%8A%E6%9
7%A5%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%AE%E6%97
%A5_7%E6%9C%88#7.E6.9C.8819.E6.97.A5

7月19日[編集]

① 土用入り

② 祇園祭が初めて官祭として実施(970年 - 天禄元年6月14日)

③ 即位9日目のジェーン・グレイが逮捕・廃位され、メアリー1世がイングランド女王に即位(1553年)

④ 太平天国の乱: 天京攻防戦が終結。太平天国が清に敗れ、14年に及ぶ太平天国の乱が事実上終結(1864年 - 同治3年6月16日)

⑤ 普仏戦争勃発(1870年)

⑥ ミュンヘンでナチス・ドイツの宣伝省の手により退廃芸術展が開催される(1937年)

⑦ ビルマの独立運動家アウン・サンと6人の閣僚がウー・ソーに暗殺される。 (en:Burmese Martyrs' Day)(1947年)

⑧ 第15回夏季オリンピック、ヘルシンキ大会開幕(1952年)

⑨ マサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスが、1927年8月に処刑されたニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの無罪を宣言(1977年)

⑩ モスクワオリンピック開幕。西側諸国が不参加(1980年)

⑪ アトランタオリンピック開幕(1996年)


⑫ 二千円札発行。42年ぶりの新額面紙幣(2000年)


ヘルシンキの他に‘モスクワ’も‘アトランタ’の開催日もあるから、7月19日という日は、オリンピック開催日の‘当たり日’なのかもしれない!

このヘルシンキオリンピック開催で覚えているのは、

<1> 日本が戦後初めて出場を許された大会

<2> ザトベック選手が活躍、その走り方が・・・。

<3> レスリングで石井庄八選手が金メダル

<4> 橋爪四郎選手が、銀メダル

ということぐらいである。

一番印象に残っているのは、やはり‘ザトベック選手’の‘走り方’である。

20100104204159.jpg
http://d.hatena.ne.jp/arumakant/20100104/1262600534

1952_Helsinki_g_07.jpg
http://www.omegawatches.jp/jp/spirit/sports/olympic-timekeeping/helsinki-1952
トップを走るのがザトベック選手

‘人間機関車’という異名をとって、世界中でその走り方が‘真似される’ようになったことだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E
3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B6%E
3%83%88%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF

エミール・ザトペック(Emil Zátopek、1922年9月19日 - 2000年11月22日)は、チェコ(現役当時はチェコスロバキア)の陸上選手。

経歴[編集]

ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。また、インターバルトレーニングの創始者としても知られている。
妻のダナ・ザトペコワも陸上競技選手で、ヘルシンキオリンピック(1952年)のやり投競技で金メダル、ローマオリンピック(1960年)のやり投競技で銀メダルを獲得している。
いわゆるプラハの春の際には、自由化を求める「二千語宣言」の署名者の一人となったため、続くソ連軍のチェコ侵攻のあとは国内で冷遇される日々が続いたが、1989年の民主化により復権した。

エピソード[編集]

1936年、ベルリンオリンピックの5000m・10000mでともに4位入賞を果たした村社講平の力走に、当時13歳の少年であったザトペックは感銘を受ける。
1981年4月、多摩ロードレースに出場するために来日したザトペックが「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うのなら」と一緒に走ることを快諾、5kmをザトペックと共に走った。
レースの後、ザトペックは「今日は我が人生で一番幸福な日だ。私にとってのヒーローであるムラコソと一緒に走ることが出来たのだから」と語り、その感激を語っている。


そして、そのザトベック選手が、上記引用資料の通り、最も尊敬していたのが1936年のベルリンオリンピックの際に5,000m及び10,000mで4位入賞を果たした日本の‘村社講平’選手だったというから、その話は日本国中で話題となった。

因みに、そのヘルシンキオリンピックでの日本選手団の活躍は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E
3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%AA%E
3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%
E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%B8%E6%89%8B%E5%9B%A3

ヘルシンキオリンピック日本選手団は1952年にフィンランド・ヘルシンキで行われたヘルシンキオリンピックの日本選手団各選手の試合結果。選手名及び所属は1952年当時のもの。

メダル獲得者[編集]

金メダル[編集]
石井庄八(レスリングフリースタイルバンタム級)

銀メダル[編集]
鈴木弘(競泳100m自由形)
橋爪四郎(競泳1500m自由形)
鈴木弘・浜口喜博・後藤暢・谷川禎次郎(競泳800mリレー)
北野祐秀(レスリングフリースタイルフライ級)
上迫忠夫(体操競技徒手)
竹本正男(体操競技跳馬)

銅メダル[編集]
上迫忠夫・小野喬(体操競技跳馬)


今年、2013年は、8月10日から世界陸上が始まる!

学校も夏休み! 大いに夏を満喫する時期が来た!

(つづく)
[2013/07/19 23:56] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
スリランカに‘ネッシー’が?(その2)
昨日(2013年07月17日)の弊ブログは、

スリランカに‘ネッシー’が?(その1)

について、‘電子紙芝居’でその正体を追った!

これは、

TBS・TV‘日立世界ふしぎ発見!’での‘出来事’である!

その続編が、今日のテーマである。

いよいよ、スリランカ国の湖に出没する‘ネッシー’の正体が暴かれる!

そもそも、この捜索の元となった写真が次の画像である。

画像ー157 046-2
大分昔の写真で、カラーでもなさそうだし、保存状態も良くないと見えてその詳細は見えにくい。

元祖・ネッシー(?)の、いわゆる「外科医のネッシー」の画像は次の通りである。

2fbad09d.jpg
http://www.xzukan.net/archives/20428171.html

上の二枚の写真の共通点から、スリランカ国の湖の‘ネッシー’伝説(?)が生まれたとしても不思議ではない!

でもスリランカ国では、これは‘ネッシーではない’ことは、始めから判っていた!なにせ、この写真の撮影者は、この湖のある国立公園の当時園長さんだった博士自身が正体を知った上での撮影だったからである!勿論、その博士自身も最初は大変驚かれたという!

さて、それではお持たせしました! スリランカネッシーの正体解明の‘電子紙芝居’のはじまり、はじまり!

昨日のブログの最後の2枚から・・・。(画像が全て、TBS/TVの画面をカメラで撮影したものである)

画像ー157 105-2
出た~! ‘ネッシー’の正体とは?????

画像ー157 106-2
「こ、これは、ほ、本物です!」

スリランカ国の‘ネッシー’とは一体どんな生物なのか?

画像ー157 110-2
なに、これっ!

画像ー157 117-2
‘象’だ!スリランカ国の‘ネッシー’は、象だった!

画像ー157 114-2
象はこうやって水中を泳ぐ事が出来るそうな!

画像ー157 120-2
湖の島、赤い線の場所を象が行き来しているのだという! 仰天もの!

画像ー157 122-2
近づいて来た!

画像ー157 123-2
鼻を持ち上げて呼吸をしている! これが‘ネッシー’の騒ぎの基になったのだろう。

画像ー157 126-2
上陸!

画像ー157 127-2
一体象は何しにこの島へ?

画像ー157 129-2
「先生、どうしてなんです?象さんが、ここまで必死になって泳いで来るなんて・・」
「そう、その理由はこの島にあります。我々も島に上陸して見ましょう!」

ってな訳で、捜索隊は、象が辿りついた島に上陸して、その‘原因’を探ることになったのである。

画像ー157 135-2
「これを見て下さい!」

画像ー157 136-2
「これって、ただの草?」

画像ー157 139-2
「そう見えるでしょうが、象はこの草が大好きなんです!」

画像ー157 140-2
「この辺一帯に生えている草が象の餌なんです・・・・。」

画像ー157 141-2

画像ー157 142-2
「こうやって?」

画像ー157 143-2
「根っこの土を食べないように・・・・」

画像ー157 145-2
「この島には、象の餌がまだ残っているのです。この島特有の草ではありません。この湖一帯の陸地には生えている草ですが、象が普段生活している場所にこの草が無くなると、こうやって泳いでもこの草を食べにやって来るのです。勿論、元気な象だけしか泳いで来れませんから、それは象集団の中でお互いに判っているのでしょう。元気な象は、そこの草は余り食べずにこうやって泳いでやって来て少しでも象集団全体の餌を確保しようという訳です。人間も象に見習うことだってありそうですね!」

(註:と言ったかどうかは判然としないが、多分??)

では、どうして象は、‘この島’に‘この草’があることを知っていたのだろうか?

画像ー157 146-2

「へ~、人造湖が出来る前のことを象集団の‘DNA'が記憶していたということですか?」

画像ー157 148-2

画像ー157 149-2

画像ー157 151-2
「そんな訳で、この‘川鵜’が巣作りをしている木は、人造湖が出来る前に陸上に生えていた木なのです。この木が、逆に‘この湖は人造湖ですよ!’と教えてくれているのです!」

(註:「ガッテンして戴けましたでしょうか?」とは言わなかった!)

画像ー157 152-2
ダムが出来て、水配分がコントロール出来た上に‘リゾート地’が出来て、この場所は今後大いに発展しそうだという。

画像ー157 043-2
既に出来上っているリゾート地。

画像ー157 040-2

画像ー157 041-2

画像ー157 044-2

画像ー157 038-2
ここは建設中の・・・

画像ー157 153-2

画像ー157 154-2

画像ー157 155-2

画像ー157 156-2

画像ー157 157-2

画像ー157 161-2

画像ー157 165-2

画像ー157 166-2

画像ー157 167-2

画像ー157 170-2

画像ー157 172-2

画像ー157 173-2
「いやいや、象集団の‘賢さ’にも感動しました! 世界中の人間もこんな風に・・・・」

「‘ネッシー’の正体、正解は、‘象’でした!」

パチ、パチ、パチ!!

スリランカ国の湖に生息(?)する‘ネッシーの正体’は、‘象’だった!というお話・・・。

(つづく)

[2013/07/18 23:17] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
スリランカに‘ネッシー’が?(その1)
スリランカの湖に‘ネッシー’の情報!

これは、2013年07月13日(土)のTBS・TV‘日立・世界ふしぎ発見’の中での話!

‘ネッシー’ってなに? という人達のために・・・。

2fbad09d.jpg
http://www.xzukan.net/archives/20428171.html
ネッシー

1934年4月1日、外科医ロバート・ケネス・ウィルソンが撮影。通称「外科医の写真」
当時この鮮明にネッシーが写った写真が公表され「偽者だ」「いや本物だ」と論争が巻き起こったそうです。
しかし、1994年にヘビの模型と潜水艦の玩具を使った偽の写真だったことが関係者からの告白で判明。
4月1日にエイプリルフールネタで撮影したものだったようですが、思いのほか回りが盛り上がってしまったため嘘だと言い出せなくなったようです。


実は偽物だったのだが、この写真が、余りにも有名になり、‘ネッシー’と言えば、‘この格好’!というまでになってしまったのである。噂は恐ろしい!事実をも包み隠してしまう!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC
ネッシー(英: Nessie)は、イギリス、スコットランドのネス湖で目撃されたとされる、未確認動物「ネス湖の怪獣 (Loch Ness Monster、ロッホ・ネス・モンスター) 」の通称。未確認動物の代表例として世界的に知られ、20世紀最大級のミステリーとして語られてきた。

概要[編集]

特に1933年以降、イギリス最大の淡水湖であるスコットランド北部のネス湖で多くの目撃例が報告され、写真や映像が公表されてきた未確認動物。「ネッシー(Nessie)」の通称は世界的に使われるが、日本においては特にこの名が浸透している。科学の進歩で謎や不思議の少なくなった20世紀において、未確認飛行物体と並ぶ最大級のミステリーとして語られてきた。
その正体については諸説が提唱されてきた。目撃談や写真に捉えられた形状から、恐竜時代に栄えた大型水棲爬虫類である首長竜プレシオサウルスの生き残り、あるいは世代を経て進化した姿という説が、古くから最も知られている。太古に絶滅したとされる大型獣が生存していたとすれば大きなニュースであり、ロマンをかき立てられる話題でもあることから、期待を込めて支持を集めてきた面もある。他には竜脚類の生き残り説や魚類説など、多数ある。
しかし、目撃証言や写真・映像の多くが、既知動物や船舶、流木、航跡、または波動など自然現象の誤認であるか、あるいは捏造と判定され、大型獣が生存している可能性を否定する動物学者は多い[1] 。


という訳で、今回も

「この‘ネッシー’が‘あの格好’で、‘スリランカの湖’に現れた!」

という‘写真’を手掛かりにTBS・世界ふしぎ発見!のスタッフが現地入りしたという訳である。(以後の写真は、断り・引用文献名が無いものは全てTBS/TVの画像をカメラで撮影したもの)

その写真が‘これ!’

画像ー157 046-2
いやいや、上記「外科医の写真」とそっくりである!

画像ー157 026-2
これが、インド洋に浮かぶ‘輝ける島’スリランカ国!

画像ー157 027-2
スリランカ航空で出発!

画像ー157 028-2
前の首都・コロンボへ到着

画像ー157 029-2
早速、‘噂の湖’へ直行!

画像ー157 030-2
これが‘ネッシー’がいるかもしれない湖!

画像ー157 045-2
素晴らしいリゾート地帯である。

画像ー157 032-2
一見海のようであるが、湖!

画像ー157 046-2
これがこの湖で過去に撮られた‘ネッシー’の写真!

画像ー157 049-2
素晴らしい眺めである。

画像ー157 050-2
本当に‘ネッシー’は、いるのだろうか?

画像ー157 053-2
そこへ、この写真を撮影した‘外科医’ならぬ‘国立公園・初代園長’さん、登場!

画像ー157 055-2
「あなたが、この写真を撮影された、というのは本当ですか?」

画像ー157 057-2
「ええ、当時私がこの国立公園の園長だったのです!」

画像ー157 058-2
「その時、撮影したのです!」

画像ー157 059-2
「えっ!やっぱりこれは‘ネッシー’だ!」

画像ー157 060-2
「私も、‘ネッシー’だと思い吃驚してシャッターを切ったのです!」

画像ー157 062-2
それじゃあ、その‘ネッシー’とやらを探しに同じ場所へ・・・。

画像ー157 063-2
勿論、この博士には‘ネッシー’の正体は判っている! さて一体、その正体とは?

画像ー157 065-2
段々、‘現場’へ近づいてきた! 写真とそっくりな場所へ!

画像ー157 066-2
これがあそこで・・・。

画像ー157 068-2
これが‘ネッシー’!

画像ー157 067-2
「そうそうこの場所だ!間違いない!」

画像ー157 069-2
だが、湖面には何も現れない!

画像ー157 070-2
辺りの風景と写真を重ね合わせてみると・・・。‘ピッタリ!’

画像ー157 072-2
「ここですよね! バンザ~イ!」

画像ー157 074-2
「でも今日は現れそうに無い!」

画像ー157 075-2
遥か向うに‘船’が!

画像ー157 076-2
「あの辺りで、何か見なかった?」

画像ー157 077-2
「あっちの方向に‘何か’いたよ!」

画像ー157 080-2
‘ワニ君’だった!

画像ー157 081-2
双眼鏡で遠くを探す!

画像ー157 082-2
こうやって、その日は‘ネッシー’君は現れずじまいで・・・・。

画像ー157 086-2
次の日も虚しく・・・。

画像ー157 088-2
カワウが木の上に巣を・・・。

画像ー157 089-2
これは、‘川鵜’! 下嘴の文様で判る! このブログで散々検討済みである!

画像ー157 091-2 
ということはここはやはり‘海’ではない。湖なのである!

画像ー157 093-2
捜索開始から3日目・・・。

画像ー157 094-2
な、何かが湖面で動いた!

画像ー157 096-2
つ、遂に‘ネッシー’が・・・!

画像ー157 100-2
キャスターも大興奮!

画像ー157 105-2
出た~! ‘ネッシー’の正体とは?????

画像ー157 106-2
「こ、これは、ほ、本物です!」

スリランカ国の‘ネッシー’とは一体どんな生物なのか?

(つづく)
[2013/07/17 23:49] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
もっとスリランカ国に敬意を!
今日の日本の繁栄の基礎は、スリランカ国のお蔭 と言っても過言ではないことがハッキリと判った!

2013年07月13日(土)のTBS・TV、お馴染みの‘日立世界ふしぎ発見!’の番組が取り上げたのが、‘スリランカ国’

画像ー157 290-2
以後の画像は、断り・注釈の無い限り、全てTBS・TVの画面をカメラで撮影したものである。

以下に示す‘首相官邸’の‘Facebook’の記事に出て来る安倍首相の発言「今ある日本はスリランカのお陰である」の歴史的事実は一体何か?

その答えを‘日立世界ふしぎ発見!’が示してくれたのである!

150469_340990339334065_10018137_n.jpg
2013年03月14日 首相官邸での共同記者会見

https://www.facebook.com/sourikantei
首相官邸
3月14日
サンスクリット語で「光り輝く島」を意味する、スリランカ。
今晩はスリランカのラージャパクサ大統領を官邸にお迎えしました。

今ある日本はスリランカのお陰である。そんな感謝の想いを持って、今日の会談に臨みました。

スリランカは、戦後の日本の国際復帰を後押ししてくれた歴史があります。

1951年のサンフランシスコ講和会議の際、当時のセイロン代表として出席していた、後のスリランカ大統領のジャヤワルダナ蔵相が、「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」として、日本を国際社会の一員として受け入れるよう、訴えてくれたのです。



img_1266783_36470087_9.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/taraikeniti/folder/1266783.html?m=lc&p=4

クイズの問題については別途取り上げたいが、もっと‘重要な’情報が今回の番組には含まれていた。多分、スリランカ大統領の日本訪問に際してスリランカ国の初代大統領の功績に注目した‘TBS’が急遽この番組を作製したのではないかと推察出来る。

さて、その内容とは?  ‘電子紙芝居’でど~ぞ!

画像ー157 008-2
スリランカ出身の経済学博士・タレントの‘にしゃんた’准教授が登場!

画像ー157 007-2
‘社会人落語家’というジャンルを開拓!

画像ー157 009-2
「スリランカとはこんな国」という落語を一席!

画像ー157 026-2
これがスリランカ国

画像ー157 014-2
首都は、‘コロンボ’ではない!と強調。 何だか舌を噛み総な首都!

画像ー157 045-2
リゾート地も素晴らしい!

画像ー157 362-2
駐日大使も登場!

画像ー157 363-2
スリランカと日本の関係について・・・・。この後、日本の今の繁栄の基礎となった「サンフランシスコ講和会議」について言及!

画像ー157 365-2

画像ー157 366-2

画像ー157 367-2

画像ー157 368-2

画像ー157 369-2

画像ー157 370-2
タレントの皆さんも神妙な面持ちで・・・。

画像ー157 387-2
岩倉具視使節団が欧州視察の折にスリランカ(セイロン)へ立ち寄った。

画像ー157 388-2

画像ー157 389-2

画像ー157 392-2
夏目漱石もイギリス留学の帰りに立ち寄ったという。

画像ー157 393-2

画像ー157 394-2

画像ー157 395-2

画像ー157 397-2
そして、遂に第二次世界大戦勃発!

画像ー157 398-2
当時のコロンボ

画像ー157 399-2

画像ー157 400-2

画像ー157 401-2

第二次世界大戦終了後のサンフランシスコ講和会議でのスリランカ(セイロン)の演説に関して‘大統領府’へ大統領に会いに・・・。

画像ー157 404-2

画像ー157 405-2

画像ー157 406-2

先ずは、今年の3月に日本をご訪問戴いた時のことから・・・。

画像ー157 408-2

画像ー157 409-2

画像ー157 410-2

画像ー157 412-2

画像ー157 413-2
多摩動物公園の像は、スリランカからの贈り物!

画像ー157 414-2

画像ー157 416-2

画像ー157 415-2

画像ー157 419-2

画像ー157 420-2

画像ー157 423-2
さて、本題のサンフランシスコ講和会議での演説について、お話を伺うことに・・・。

画像ー157 425-2

画像ー157 426-2

画像ー157 427-2

画像ー157 429-2

この会議では、ナント‘日本分割案’が議論されたというのである!

画像ー157 430-2

画像ー157 431-2

画像ー157 432-2
それに関して、当時蔵相で、後に初代大統領になった‘ジャヤワルダナ’氏が演説!

画像ー157 433-2

その内容とは?

画像ー157 434-2

画像ー157 435-2

画像ー157 436-2

画像ー157 438-2

早速、その演説の原稿があるという‘ジャヤワルダナ’資料館へ

画像ー157 439-2

画像ー157 440-2

あった、あった! これがその演説の原稿(本物)!

画像ー157 441-2

画像ー157 442-2

画像ー157 443-2

画像ー157 444-2

画像ー157 445-2

画像ー157 446-2

画像ー157 447-2

この演説で多数の国が心を動かされたという!

画像ー157 448-2

画像ー157 449-2

画像ー157 450-2

画像ー157 451-2

私は当時のことはよく覚えている!小学校6年生だった。吉田茂首相が‘全権大使’という役目だったこと、その言い回しも記憶にある。ただし、スリランカ(セイロン)が、こういう‘援護射撃’をしたことは知らなかった!多分、新聞やラジオでは‘報道されなかった!’のではないかと思う。

画像ー157 454-2
資料館館長さんの説明

画像ー157 456-2

画像ー157 457-2

画像ー157 459-2

画像ー157 461-2
1996年永眠!

画像ー157 464-2
この方こそ、今の日本の繁栄を齎した大恩人なのである!

画像ー157 465-2
この‘まなこ(眼)’こそ、‘ブッダの眼’かも知れない!

画像ー157 468-2

演説原稿の翻訳を探し出せた! ミスプリもあるようだが、引用文のまま掲載。

http://www.d7.dion.ne.jp/~tomoca/nettaigo/address_jr_ja.htm
サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説

1951年9月6日 アメリカ合衆国サン・フランシスコに於ける、対日平和条約の締結と調印のための会議に於けるセイロン(スリ・ランカ)政府代表団々長J.R.ジャワルデネ閣下の演説 / J.R.ジャワルデネ閣下は現在スリ・ランカ民主主義社会主義共和国の大統領であらせられる。
スリランカ大使館(東京)資料から

 賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反ばくする企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。
 私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代衣ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。
即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを述べて置いてもよいと思うのです。
 ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。

 イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、アメリカはこれに賛同しました。
両国は又、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを支持しました。

 これ等の諸国の間では又、違った考慮から、条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を忘れ兼ねて、意見がわかれました。
敢えて意見として述べますが、完全に独立した日本のための主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に開催された連邦外相のコロンポ会絨に於いてでありました。このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、南アジア及び東南アジアとして知られている地域の一員として考えられました。世界の富と人口の大部分を含み、最近になって漸く自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、今尚苦しんでいます。
 この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、それを確保するためにコロンボ計画として現在知られている計画が着手されました。
 ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事にかかった経過を説明され、そしてその後にアメリカ代表ダレス氏と相談されたことを説明されました。
今我々の前にある条約は、これ等の協議と折衝の成果であります。
私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。私は現時点に於いて、日本と進んで和平を討議したいとする諸国の聞で達成出来る同意の最大の共通な尺度を告げていると、私は主張します。

 日本に対する態度に於いて、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。日本の自由という事柄について付帯的な他の問題があります。即ち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に限定されるべきであるか、或いは近隣のいくつかの小さい島々にまで広げるべきであるか。若しそうすべきでないのなら、これ等の島々は如何にすべさか。台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返還されるべさか。若しそうすべきであるのなら、中国のどちらの政府へ? 中国は平和条約会議へ招くべきか。若しそうであるのなら、どちらの政府を? 賠償は日本から強要すべさか。若しそうなら金額は。日本が自国の防衛を組織するまでは、どの様にして自らを防衛するのか。

 日本の自由という中心問題について、我々は究極には同意することが出来ました。そして条約はその同意を具現しています。他の問題については際立った意見の相違がありましたが条約は大多数の見解を具現しました。若しこれ等の諸問題の或るものが違った方法で解かれていたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。然し大多数が我国に同意しないという事実は、自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、我国が調印するのを控える理由にはなりません.

 最初に私が言及しました関連のある事柄は、日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、日本が自由にならなければ解決不可能であると我国は思います。
自由の日本は、例えば国連組織を通じてこれ等の問題を世界の他の自由諸国と討議することが出来、早目に満足すべさ決議に到達出来ましょう。本条約に署名することにより、我々は日本をしてそうすることが出来るようにさせます。即ち日本が中国を承認すると決定するならば、中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、そして日本をして印度と平和友好条約を結ぶことが出来るようにさせると私が述べるのは、大変嬉しいことであります。若し我々が本条約に調印しなければこれ等起こり得ることは、何れも起こり得ないでありましょう。

 何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
 私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.

 セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

 我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

 そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?

 私は興味をもって、次の事に注目します。即ちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、新聞及び宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、及び公開の集会の自由を保証しようと要求しています。-----ソ連の国民自身でさえも所有し享有したいと心から執着したいであろう自由をです。

    (注---和訳資料はここまで。以降の数行は欠損)  


JR・ジャヤワルデネ全権代表のサンフランシスコ演説資料(英文・和文)を提供してくださった駐日スリランカ大使館元通訳の故渡辺氏に敬意を表します---かしゃぐら通信KhasyaReport


この演説によって、セイロン(スリランカ)は、賠償権放棄を宣言し且つ日本の分割統治に反対の意思表示をした
そして、‘日本に自由を!’と訴えて呉れたのである!

これによって、日本は、真の‘独立’を勝ち取ることが出来たのである。

実はこの事は、日本人の大半が知らない!

この番組の中での発言の様子からすると‘黒柳徹子’さんだって知らなかった?と思われる。

今の小学校や中学校の教科書には掲載されていないのだろうか?

TBSが、この「日立世界ふしぎ発見」という番組を通じて、この事実を周知させようとしたことからしても多分教科書には掲載されていないという推察が成り立つ!

もしもそうだったら、早急に文科省は、この大事な事実を教科書に掲載するよう指導すべきではないか?

私も機会があれば、是非近々スリランカを訪問して、この原稿を拝見したいものだ!

(つづく)
[2013/07/16 23:51] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
2013年・大相撲夏場所・中日の3取り組み
2013年の 大相撲・夏場所 も昨日(7月14日)で中日である。

明暗を分けた‘3取り組み’が面白かった! (画像は、TV画面をカメラで撮影したものである)

今場所は、次の通りの背景がある!

画像ー157 529-3
TBS・TV

従って、今場所の‘眼玉’は、何といっても「‘稀勢ノ里’の横綱取り 」だったのであるが、中日を待たずして3敗!

ナント腑甲斐無い話だろうか?

さて、昨日の取り組みの前に、稀勢の里が‘3敗目’を喫した7日目の場面をど~ぞ!



<(番外)7日目、稀勢の里が豪栄道に敗れ、‘3敗’目!>

画像ー157 531-2
TBS・TV

画像ー158 134-2
NHK・TV

画像ー157 532-2
TBS・TV

画像ー158 135-2
NHK・TV

画像ー158 137-2
NHK・TV

画像ー158 136-2
NHK・TV

画像ー157 533-2
TBS・TV

TV画面の‘テロップ’には、‘綱とりならず稀勢の里’とあるが、‘3敗’で優勝すれば、綱は獲れる筈なのに、ど~してこんな表現が現時点で使われるのであろうか? 当然、白鵬が3敗になる可能性は少ないにしても・・・。

一寸、腑に落ちない表現である! 勿論、13勝以上での優勝か準優勝という‘理事長発言’はあるのだろうが・・・。
勝負の世界は、何が起こるか判らない! 

頑張れ、稀勢の里!

2013年07月14日、中日(8日目)の‘3番’!


<取り組み(その1)>:稀勢の里 VS 旭天鵬

画像ー158 009-2
以下すべて、NHK・TV

画像ー158 011-2

画像ー158 014-2

画像ー158 019-2

画像ー158 020-2

画像ー158 015-2

画像ー158 021-2

これなら‘堂々たる大関相撲’じゃぁないか! この調子で千秋楽まで頑張れば、ひょっとすると‘奇跡’が待っているかも?? 優勝すれば、文句なし!頑張れ、稀勢の里!

これって、‘明暗’の内のどっち? → ‘暗’の中の‘明’!


<取り組(その2)>:白鵬 VS 安美錦

これは、曲者中の曲者! 横綱・白鵬が、ひょっとしたら、という期待と不安が・・・。何故なら、安美錦は、横綱・日馬富士と同門。この時点で、横綱・日馬富士は、一敗していて、白鵬と差がついている! 安美錦にとっては、‘援護射撃’の絶好のチャンスなのであ~る!

画像ー158 030-2

画像ー158 102-2

画像ー158 103-2

画像ー158 105-2

画像ー158 107-2

画像ー158 108-2

画像ー158 101-2
今場所、一番‘危なっかしい’勝負!尾車親方は、「日頃の練習と技の磨き方が、こんな場面でも勝利を逃さない!」と絶賛。

勿論、‘明’! しかも38連勝は、双葉山の記録‘69連勝’に迫った自己記録の‘63連勝’を抜くかもしれない!

画像ー158 058-2
横綱、余裕の笑み!


<取り組み(その3)>:千代大龍 VS 日馬富士

画像ー158 063-2

画像ー158 064-2

画像ー158 074-2

画像ー158 127-2

画像ー158 075-2

画像ー158 122-2

画像ー158 123-2

画像ー158 128-2

完璧な相撲で‘千代大龍’の勝ち! この試合の明暗は? → 日馬富士にとっては‘暗’だが、千代大龍にとっては‘明’であり、旋風男の異名が罷り通る大一番となった!

画像ー158 090-2
言っちゃあ悪いが、そんなにイケ面ではない! これこそ、昨年流行った‘ワイルドだろう?’である!

笑顔がいい! あんたが‘横綱’目指して呉れ! と言いたくなるではないか!

画像ー158 094-2
この‘目つき’がいい! まるで、やんちゃ坊主だ!

画像ー158 110-2
解説は、元大関・琴風の尾車親方。

① 白鵬は、万全!未だに‘進化’している。お見事!

② 稀勢の里は、このまま全部勝って12勝3敗なら望みはある!

③ 日馬富士は、本来の‘搗ち(カチ)上げ’を取り戻さないと‘本領発揮’が出来ない!

④ 千代大龍は、何にも恐れない態度がいい!

画像ー158 097-2
中日の後半戦の勝敗表

画像ー158 098-2
明日の取り組み! 果たして稀勢の里は??

最後にもう一度、千代大龍の笑顔を!

画像ー158 120-2
明日の琴欧州戦で勝利をしたら、これぞ‘旋風男’! 頑張れ、千代大龍!

(つづく)
[2013/07/15 09:23] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘熱中症’予防特製ドリンクの開発!
今年の気象現象は‘異常’である!

ilm09_ae02003-s.jpg
http://www.geocities.jp/shirokujira0621/article/heat/heat1.html

‘異常’というのは、ここ10年くらいの気象と比べて一寸違うのかな?ということで‘異常’と言っているだけである。

地球の歴史における‘色々な変動’と比較すれば‘異常’どころか‘普通過ぎる’くらい‘平常・安定’である。その事の方がむしろ‘異常’と言ってもいいくらい・・・。

さて、この‘異常現象’で問題になるのが‘熱中症’である。

昨日(2013年07月13日)も‘NHK’ニュースは次のように伝えている!

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130713/k10013026071000.html
ニュース詳細

”熱中症”2人死亡866人搬送
7月13日 20時53分

”熱中症”2人死亡866人搬送
NHKが各地の消防などに取材してまとめたところ、13日、熱中症とみられる症状で全国で少なくとも866人が病院に運ばれ、2人が死亡し、5人が意識不明の重体となっています。

このうち、東京・あきる野市では、13日昼前、80歳の女性が「息が苦しい」と訴えて病院に運ばれ、その後、死亡しました。
消防によりますと、熱中症とみられるということです。
また、三重県紀宝町では13日午前、山林で伐採作業をしていた31歳の男性が「意識がもうろうとする」などと訴えて病院に運ばれましたが、その後、死亡しました。
NHKが各地の消防や警察に取材して午後8時現在でまとめたところ、13日は▽神奈川県で90人、▽大阪府で69人、▽福岡県で66人、▽愛知県で65人、▽東京都で63人など、全国45の都道府県の少なくとも866人が熱中症とみられる症状で病院に運ばれました。
東京都と三重県の2人が死亡し、4つの都と県の5人が意識不明の重体となっています。



heatstroke1.gif
http://www.hosp.yashiro.hyogo.jp/park/nurse/heatstroke.htm

また、前置きが長くなって申し訳ないが、この際‘熱中症’についての‘正しい知識’には一応目を通しておいた方がいい!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E4%B8%AD%E7%97%87
熱中症(ねっちゅうしょう、heat disorder, disorder due to heat, heat illness)は、暑熱環境下においての身体適応の障害によっておこる状態の総称[1]。屋内・屋外を問わず高温や多湿等が原因となって起こる。日射病とは違い、室内でも発症するケースが多く、年々増加傾向にある。高温障害で、日常生活の中で起きる「非労作性熱中症」と、スポーツや仕事などの活動中に起きる「労作性熱中症」に大別することが出来る。下記の熱中症の分類は臨床医療の現場で混乱を招くため、熱中症I度・II度・III度と記すように日本神経救急学会の熱中症検討委員会により改定された。
熱中症については厚生労働省[2][3]、文部科学省、環境省[4]でそれぞれ指導・対策が公表されている。

熱中症の重症度分類(日本神経救急学会による)[編集]

I度(軽症 日陰で休む 水分補給)
II度(中等症 病院にかかり補液を受ける必要がある)
III度(重症 救急車で救命医療を行う医療施設に搬送し入院治療の必要がある)
III度熱中症の診断基準は(1)暑熱への曝露があり、(2)深部体温39℃以上または腋窩体温38℃以上、(3)脳機能・肝腎機能・血液凝固のいずれかひとつでも異常徴候がある、異常(1), (2), (3)を満たすもの。血液凝固は体温の過度の上昇によって体タンパク質が壊れ内出血をした結果, 内出血を止めるために血液が凝固するために起こる. 言い換えれば, 熱射病になった後に起こる症状である。

熱中症の症状 [編集]

めまい、失神、頭痛、吐き気、気分が悪くなる、体温が高くなる、異常な発汗(または汗が出なくなる)など。

熱中症の種類(旧分類)[編集]

従来は下記のような用語が用いられていた。
熱失神 (heat syncope)
熱痙攣 (heat cramps)
熱疲労 (heat exhaustion)
熱射病 (heat stroke) → 日射病 (sun stroke) とは別モノである[5]

   熱失神 熱痙攣 熱疲労 熱射病
意識 消失 正常 正常 高度な障害
体温 正常 正常 ~39℃ 40℃以上
皮膚 正常 正常 冷たい 高温
発汗 (+) (+) (+) (−)
重症度 I度 I度 II度 III度 

熱失神[編集]

原因 直射日光の下での長時間行動や高温多湿の室内で起きる。発汗による脱水と末端血管の拡張によって、脳への血液の循環量が減少した時に発生する。
症状 突然の意識の消失で発症する。体温は正常であることが多く、発汗が見られ、脈拍は徐脈を呈する。
治療 輸液と冷却療法を行う。
分類 I度

熱痙攣[編集]

原因 大量の発汗後に水分だけを補給して、塩分やミネラルが不足した場合に発生する。
症状 突然の不随意性有痛性痙攣と硬直で生じる。体温は正常であることが多く、発汗が見られる。
治療 経口保水液(水1Lに対し砂糖40g、塩3g)の投与を行う。
分類 I度

熱疲労[編集]

原因 多量の発汗に水分・塩分補給が追いつかず、脱水症状になったときに発生する。
症状 症状は様々で、直腸温は39℃程度まで上昇するが、皮膚は冷たく、発汗が見られる。
治療 輸液と冷却療法を行う。
分類 II度

熱射病[編集]

原因 視床下部の温熱中枢まで障害されたときに、体温調節機能が失われることにより生じる。
症状 高度の意識障害が生じ、体温が40℃以上まで上昇し、発汗は見られず、皮膚は乾燥している。
治療 緊急入院で速やかに冷却療法を行う。
分類 III度

かかりやすい原因[編集]

環境[編集]

前日より急に温度があがった日。
温度がそれほど高くなくても多湿であれば起こりやすい。(なぜなら、汗による蒸散ができず、体内の熱を発散できなくなるため)
涼しい室内で作業をしている人が、急に外に出て作業した場合。(暑さに慣れていないため)
作業日程の初日 - 数日間が発症しやすい。
長時間にわたる屋外でのスポーツや行動、屋内でも防具や厚手の衣服での行動[6]。
統計的にかかりやすい時間帯は、午前中では10時頃、午後では13時から14時頃に発症件数が多く、季節は梅雨明け後に多い。また、スポーツでは登山、野球がもっとも多い[7]。学校の運動部活動では野球が最も多くなり、サッカー、テニスの順に多い[8]。

素因[編集]

5歳以下の幼児
65歳以上の高齢者
肥満者
脱水傾向にある人(下痢等)
発熱のある人
睡眠不足
遺伝的素因…CPT-2と呼ばれるエネルギー代謝・産生に関係する酵素に特定のSNPをもつと、高体温でのエネルギー代謝がうまくいかなくなる。インフルエンザ脳症も同様のSNPでなりやすい[9]。

予防法[編集]

出来るだけ薄着として、直射日光下では帽子を被る。
吸湿性や通気性の良い衣類を着用する。
湿度が低い場合でも、気温が35度(乾球温度計)以上の場合は特別な場合をのぞいて運動を禁止する。31度以上の場合は激しい運動は中止し、体力の弱いものや暑さになれていない者などには禁止する。
湿度が高い場合は、27度以上で運動を禁止、24度以上では激しい運動を中止し、体力の弱いものや暑さになれていない者などには禁止する。

27度以上では室内外の冷却や、直接的な体内や体表面の冷却により体感温度を下げ、体内の水分・塩分が失われないような環境を作ることが一番重要な予防法となる。
体感温度を下げる方法として、日射を防ぐ、通風を確保する、扇風機の風を作業場所へ向ける、スポット冷房する、作業服の内部へ送風する(そのような機能を持った作業服を着用する)、蓄冷剤を利用する、水の気化熱を利用して体温を下げるなどの工夫を行う。手や顔を洗って水で湿らせたり、低温や水のシャワー(急に冷水を浴びる場合は心臓への負担等十分な注意が必要)を浴びる。屋外においてはミストなどを利用することで、発汗させずに体感温度を下げることが効果的である。

冷たいものを摂取することで、体内からも冷やす。多量に摂取した場合、おなかを壊す場合もあるので摂取量には注意が必要である。

暑いときの運動として水泳を取り入れる。
水中での運動をしている限り、熱中症の可能性はとても低いが、水中以外で補強運動などが行われる場合は他の運動時並の注意が必要[10]。

体感温度を下げられない環境下において、発汗がやむをえない場合は、発汗の量に合わせた水分・塩分補給が必要である。また、発汗量が少ないにもかかわらず多量に水分補給をしすぎた場合、逆に水中毒を発症する可能性がある。水分補給は多すぎず少なすぎず、適度な量の水分補給を行うことが重要である。
運動・就労前に内臓(胃など)の負担にならない程度に適度の水分を取る。

発汗によって失った水分と塩分の補給をこまめに行う。
スポーツドリンクなど塩分と糖分を飲みやすく配合した飲み物も良い。ただし、家庭内など比較的運動していない場合に多量に摂取すると、ペットボトル症候群の危険もあるため糖分の摂取には注意する必要もある。
塩分の補給には味噌汁やスープなど塩気の感じられる飲料が体液と塩分(塩濃度)が近く最適である。ただし、水だけを飲みすぎると体内の塩分濃度が薄まるだけでなく尿としても水分等が排出されてしまい、脱水症状を引き起こすので適度な電解質の補給も必要である。[11]
普段から体調管理につとめる。
睡眠を十分に取る。
十分に休憩を取りながら作業する。(休憩により体温を十分に下げる。)
かかった場合の応急措置[編集]

冷却と経口摂取による水分補給が基本となるが、経口摂取が難しければ点滴を行う。具体的な処置例を以下に列記する。

経口補水液またはスポーツドリンクなどを飲ませる。ただし、冷たいものを大量に飲ませると胃痙攣がおきることがあるので注意が必要。また、スポーツドリンクではナトリウム濃度が低いため、病的脱水時にこれを与えると低ナトリウム血症から水中毒を誘発する可能性がある。特に乳幼児等には注意が必要で、経口補水塩の投与が望ましい。‘手近な物としては味噌汁’などが極めて有効である。夏場の重労働などでは早め早めの飲用がトラブルを防ぐ重要なポイントになる。経口塩分の過剰摂取には短期的に生命の危険になる可能性はほとんどない(心不全等除き)ため、量は多目でよい。

霧吹きで全身に水を浴びせて、気化熱によって冷やす。霧吹きがないときは、口に水を含んで吹きかけても良い。そのときの水は冷たくなくて良い。一気に水をかけるとショックが大きいので、冷たい缶ジュースや氷枕などを腋の下、股などの動脈が集中する部分にあてて冷やすのが良い。

涼しい場所で休ませる。木陰やクーラーの効いたところで衣服を緩めるのが良い。近くにそのような場所がないときは、うちわなどで早急に体を冷やす。
速やかに病院などに連れて行く。躊躇せずに救急車を呼ぶ。移動させるのに人手が必要と思えば大声で助けを呼ぶ。

汗をかいていないとしても、体温が高くなくても熱中症の可能性はある。脱水していれば、汗をかくことができない。

体温調整が出来なくなっているためか、高温多湿の体育館内での運動中などに寒気を訴える場合があり、そういったときは熱中症の兆候を疑ってみた方がよい。
自覚症状で熱中症だと感じることはまずない。自分で大丈夫だと思っても「おかしい」と思った時にはもう遅い可能性があるので、上記を参考に十分注意する必要がある。

熱中症との誤認[編集]

注意が必要なのは糖尿病、高血圧の既往歴を有する場合で、低血糖発作、心筋梗塞や脳梗塞などの血管梗塞の症状を誤認し適切な対応が遅れる例が報告されている[12]。


これらを総合してみると、

予防のための‘ドリンク’剤を工夫する必要があるようである!

そこで考え付いたのが、以下の‘ドリンク剤レシピ’!

塩分(NaCl)をどれだけ摂ればいいかは、それぞれの場合によって異なるに違いないが、それはそれ場合場合によって‘ドリンク剤の量’で調節すればいい!

我が家にある‘塩分の元(源)’を探してみると

 塩(粗塩、アジシオ、塩こしょう、etc.)

 味噌(麦みそ、etc.)

 醤油・つゆ類(減塩醤油、追いがつおつゆ、昆布つゆ、白だし、旨だしつゆ、あごつゆ、青じそ、etc.)

などなど、沢山冷蔵庫に保管されている!

110209-02.jpg
http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2011news/110209-02.html

これらを全てについて、一つずつ、 500ml のペットボトルに約10ml 入れて後は水 で薄めた。これを冷蔵庫で冷やして‘試飲’してみたところ・・・・・、

ナント‘追いがつおつゆ’と、

IMG_5250.jpg
http://miyumama40.blog133.fc2.com/blog-entry-759.html

‘あごつゆ’が、

1914.jpg
http://www.fukuya.com/shop/web/ECU04005.do?productId=1914
‘あごつゆ’の‘あご’とは、トビウオ(飛魚)の別称で、九州では、専らそう呼ぶ。‘あごが落ちるくらい美味しい’ということから、そう呼ぶらしい。

私の舌感覚に合格!

これが実際の写真!

画像ー157 547-2
‘追いがつおつゆ’と‘あごつゆ’。

第1位:‘追いがつおつゆ’

第2位:‘あごつゆ’


これが、第1位に輝いた‘熱中症防止用ドリンク’であ~る! ボトルは‘麦茶’のボトルだが、中身は特製ドリンク!

画像ー157 549-2

毎日、この500ml の特別熱中症防止用ドリンクを2本、合計1,000ml を飲んでいる!

毎日これだけ飲むと‘塩分量’がどれだけになるのかを計算して見た!

画像ー157 550-2

‘追いがつおつゆ’の‘栄養成分’は、上の写真の通りである。

気になる塩分は、100ml 当り、7.0g と明記されているから、特製ドリンク500ml 当り10ml であるから、0.7g である!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459978519
Q:味噌汁一杯の塩分量は何gくらいでしょうか?高血圧で塩分セーブしてる者です。

A:味噌の使用分がそのまま塩分量になります。大さじ1(18g)を味噌汁1杯分に使用していらっしゃるなら、2.2gです。推奨される味噌の量は、180mlのお湯に対して、小さじ1.5程度です。味噌約9gで塩分量1.1gです。


というデータからすると、500ml の特製ドリンク、一日2本で、塩分量は、1.4g という計算になって、味噌汁一杯分にも満たない塩分量である!

逆に、この位の塩分補給は、この汗をかく夏場には是非とも必要と言える!

「売り出そうかしら!?」って誰かが言ってました!

(つづく)
[2013/07/14 15:35] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘真珠記念日’について
昨日(2013年07月12日)のこの弊ブログは、次のように締め括った。

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。肝心の‘真珠記念日’については明日の記事で!

pc_jp_index_ph01.jpg
http://www.mikimoto.com/jp/

(つづく)

そんな訳で、‘真珠記念日’について改めて・・・。

私が小学6年生の頃だから、昭和26年(1951年)で、もう62年も昔のことである。

当時は、戦後数年しか経っていなく、朝鮮戦争の真っ只中で、国民は食べて行くのにやっとという時代であったから‘真珠’を身に着ける人など普通にはいなかった。

真珠の‘まがい物’だって、そんなに‘科学・化学の技術’も発達・進展していなかったから、多分なかったに違いない。もっと言えば、もしも‘まがい物’があったとしたらそっちの方が珍重されて‘高価’だったかもしれないが、何せ私自身が小学6年生だったし、近頃の小学6年生と違って、‘情報量’が少ない時代だから‘真珠のまがい物’が出来たとしてもそのニュースを知る術もなかった。

何故、私が小学6年生の頃のことを話題にしたかというと、6年生の時の‘国語’の授業で

‘御木本幸吉’‘豊田佐吉’のことを教わったからである。

何といっても、この二人の‘日本の巨人’は、当時の小学生高学年以上の日本人なら誰だって知っていた!

‘国定教科書’で教えるのだから当然である。

‘豊田佐吉’、読みは‘とよださきち’であって、‘田’が‘だ’と濁って発音する。その発展が現在の‘トヨタ自動車’だから、何時からどんな理由で‘濁り’を止めたのか等々については別途検討したい。もう既にご承知の方も多いとは思うが、その辺はしっかりと改めて検討してこのブログで紹介する積りである!

さて、本日の‘話題’は、‘真珠記念日’

この歴史と現状の嘆きが、次の引用ブログに詳しい。

http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ddcaba75b3d
e45adbcbb1a52e4b6c776

今日(7月11日)は、「真珠記念日」

1893(明治26)年、三重県鳥羽町の御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養殖に成功した。養殖場を始めてから3年目で、半円形ながら5粒の養殖真珠が収穫された。円形の真珠は1906(明治39)年に完成した。

真珠は貝の体内で生成される生体鉱物である。貝の種類によりさまざまな真珠があるが、加工が容易で美しい光沢に富む天然の真珠は、古くから、世界の人々に純潔と幸福のシンボルとして愛好されきた。この真珠は、約5000年前、既に、ペルシャ湾や紅海で採取された貝の中から発見されたと云われており、クレオパトラが美容を保つ為に酢に真珠を溶かして飲んだとか、秦の始皇帝が不老長寿の薬として探し求めたとか、あの有名な楊貴妃が真珠を粉末にして常用したとか昔から真珠にまつわる話は色々な物語の中にも出てくる。

「わが欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の玉そ拾はぬ」
我が国においても古く万葉集の中にも「あわび」「玉」「白玉」と読まれているものは、真珠の事であると言われており、古くからあった事が伺える。

御木本幸吉は、1858(安政5)年、三重県鳥羽市に生まれた。早くから起業家精神が旺盛だった幸吉は、1878(明治11)年東京、横浜、大阪、神戸といった都市へ視察旅行に出かけた時、真珠が高値で取引されるのを見て以来真珠に取り付かれ、翌1879(明治12)年、英虞湾神明浦で真珠母貝の養殖を始め、1890(明治23)年、東京上野で開催された第3回内国博覧会に母貝を出品した際に、水産学界の権威である箕作佳吉(みつくり・かきち) 博士と知り合い、アコヤ貝の中に砂などの異物が混入すると身を守るため真珠質を分泌して、異物を包み込みその層が厚みを増して真珠になるというアドバイスを受け、人工的に真珠を作り出す研究に取り組んだ。そして、アコヤ貝の殻の内面に半円形の真珠を作り出すことに成功し、1896(明治29)年、特許を取得。この成功をもとに、真円真珠を養殖真珠で作りだすための研究を続け核の周囲に真珠質を取り巻かせる方法によって真円の真珠を作り、世界で初めて養殖真珠の企業化に成功した。

以降、日本近海はアコヤ真珠の生息に適した環境であることが幸いし、三重県、愛媛県、熊本県、長崎県などを中心に、各地に養殖場が作られるようになったが、その当時、真珠は日本の庶民にとって高級品で、国内需要が殆どなく養殖真珠は、その殆どがアメリカを始め、ヨーロッパ各地に輸出されていた。当時の輸送手段は船であった為、真珠は各養殖場から比較的近くにある国際貿易港、神戸港から輸出された。又、真珠の選別や加工をする際の気候条件も適していることから、神戸には多くの真珠会社が設立され、各養殖場から産出された真珠の殆どが神戸に集まってくるようになった。現在でも、神戸は日本の真珠加工・流通の約80%のシェアを誇り、輸出は勿論、国内向けも、その殆どが神戸から流通していると言っても過言ではない。
真珠と言えば日本そして、神戸だった。しかし、今、その日本の真珠、神戸の真珠業界がピンチに立っているようである。

田崎真珠社長の田崎俊作氏は、以下のように言っている。
日本の真珠の品質の良さが世界から評価された背景には、養殖技術、加工技術の高さに加えて、制度面にもあり、「真珠養殖事業法」は、神戸ですべての輸出品のチェックを義務づけ、「質の低い製品を排除し、真珠の信頼を保つ役割があった」(日本真珠輸出組合)という。しかし、阪神大震災での震災復旧下の1998(平成10)年、規制緩和の中で「同法」が撤廃され、輸出前の品質検査がなくなった。そのため、「以前なら商品になるのは全生産量の三割にすぎなかったものが、それまでの水準以下の真珠でも売れるようになった」。調度、アコヤ貝の感染症で品薄に苦しんだ時期でもあったらしい。それで、それまで市場に出なかった真珠が流入し、高品質商品の価格までが低下した。企業ブランドを守るため企業単位での品質標準は保たれたが、神戸の真珠業界は、世界が認めた標準を失った。

今やタヒチやオーストラリアなどで生産される黒蝶や白蝶、中国産の淡水真珠は、生産量でアコヤと肩を並べる。世界の真珠となった今、各国の利害がぶつかり合う中、“お墨付き”を求めて集まっていた真珠は神戸を離れていったと言うのである。困ったものだね~。一度信用を失うと、その信頼回復は難しい・・・。なんでもそうだが、そのとき限りの変な妥協はしないことが大切だよ・・・。

6月の誕生石が真珠であることから・6月1日を日本真珠振興会が「真珠の日」に制定している。


真珠王・御木本幸吉について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A
8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89

14_2.jpg
http://www.pref.mie.lg.jp/tokyo/hp/yukari/14.htm

御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王と呼ばれる。

生涯[編集]

誕生[編集]

志摩国鳥羽浦の大里町(現・三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
商才と向上心と社交性[編集]
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、英国の軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったともいわれている。

真珠に到る助走路[編集]

1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に[編集]

幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

アコヤ貝の養殖[編集]

世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例[編集]

中国で実際行われた方法は1167年に公刊された「文昌雑録」巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、中国浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては中国に滞在したキリスト教の神父B.E.X.Entrecollesが1734年にフランス本国に報告している。また、英国人のD.T.MacGowanは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告により欧州では多数の人々が研究実験を行った。
日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、欧州経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始[編集]

1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による厳島(広島県)での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

縁者の協力[編集]

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。

1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめ32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の実兄・久米楠太郎、幸吉の実弟(二男)・御木本松助夫妻、幸吉の実弟(三男)・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の実弟(五男)・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、(猪野三平の子息)猪野若造、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』によれば「ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある」と考えたのではないか、書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。

出店の歩み[編集]

1899年(明治32年)、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する。
1901年(明治34年)、東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する。
1903年(明治36年)、東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出。市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転。
1903年(明治36年)、市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする。
1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。
1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店開設。
1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店。
1929年(昭和4年)、パリ支店開設。
1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店開設。
1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設。

特許取得[編集]

1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、御木本は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は御木本が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお真円真珠についての特許は御木本の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
半円真珠から真円真珠に到る特許
特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。

人々の協力[編集]

1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
親友の四日市の万古焼商人だった川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。
他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

量産体制[編集]

1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞[1]。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を完全に破壊し、多数の餓死者を生み出した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、油田開発を後押しした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。

大往生[編集]

1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は老衰のため96歳で死去した。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったがまだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。

家族[編集]

幸吉の一人息子・隆三(1893年 - 1971年)は一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし1937年(昭和12年)に破産、禁治産者申請へと至っている。
四女あい(1889年12月20日‐1983年2月21日)の夫は、教育学者の乙竹岩造[2]。

天皇との逸話[編集]

1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。
また、第二次世界大戦後、日本各地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。



エピソードと記念すべき作品

1878年(明治11年)家督相続により御木本幸吉と改名
KokichiMikimoto.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
若い頃の御木本幸吉(幼名:吉松)

1926年(大正15年)欧米視察へ出発
フィラデルフィア博覧会に「五重の塔」を出品(68歳)
goju.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1932年(昭和7年) 神戸で粗悪真珠を焼却/良品販売の模範を示す(74歳)
kasou.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
真珠の火葬

1937年(昭和12年)パリ博覧会に「矢車」を出品(79歳)
yaguruma.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1939年(昭和14年)
ニューヨーク博覧会に「自由の鐘」を出品(81歳)
jiyunokane.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

この作品は、昭和14年に作製されたというから満74歳! 私と同い年である!

上記工芸品3点、「五重塔」、「矢車」、「自由の鐘」は、現在‘御木本真珠島’の真珠博物館二階展示室に展示されている。

一度是非見学して見たい!

http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/ana.html
世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます
goroku18.jpg

 これは、明治38年、伊勢神宮に行幸された明治天皇に拝謁した御木本幸吉が陛下に申し上げた言葉です。幸吉はこの頃、すでに半円真珠の養殖に成功しており、さらに真円の真珠を求めて研究を重ねていました。真珠養殖の成功をきっかけに、今でこそ、幸吉の言葉どおり真珠は私たちの身近な存在となりましたが、それ以前、真珠を身につけることができたのは、貴族や大金持ちなどごく一部の限られた人々だけでした。



上記の通り、「真珠記念日」(7月11日)、「真珠の日」(6月1日)は、同じ‘真珠’に纏わる記念の日なのであるので間違い易いが別の日である。

真珠市場の現状は、上記の通り、一種の‘規制緩和’状態にあるために‘品質の劣化’で‘真珠のピンチ’状態という!

御木本幸吉翁が存命だったら、どんなに嘆かれるだろうか?!

(つづく)
[2013/07/13 23:55] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
7月11日は、何の日?
「7月11日は、何の日?」

と聞かれて、咄嗟に出た答えは、

「セブンイレブンの日!」

聞いた方は、‘真珠記念日’という答えを期待していたが、‘セブンイレブン’という答えは考えもしていなかったために聞いた方が‘驚いた’という話を聞いたことを毎年7月11日が廻って来ると想い出す!

以下の引用文献にある通り、セブンイレブンの設立が昭和48年(1973年)だそうだから、今年でナント‘40周年’である!

その当時のキャッチフレーズは、たしか

「セブンイレブンいい気分、開いてて良かった!」

だったと思う。

勿論、今日では24時間営業であるが、当時は

「朝7時から、夜11時まで」

だから、セブンイレブンだったのである!

http://www.sej.co.jp/sej_case/
logo_sej_274x57.gif

会社概要
名称
株式会社セブン-イレブン・ジャパン
住所
〒102-8455東京都千代田区二番町8番地8
電話番号
03-6238-3711 (代表)
代表取締役会長
最高経営責任者(CEO)
鈴木敏文
代表取締役社長
最高執行責任者(COO)
井阪隆一

設立
昭和48年11月20日
資本金
172億円
従業員数
6,070人(平成25年2月末現在)
平成25年2月期実績
(単体)
・チェーン全店売上高
(国内)
3兆5,084億4千4百万円
・営業総収入
6,175億5千9百万円
・営業利益
1,867億6千万円
・経常利益
1,941億4百万円
・当期純利益
1,124億4千6百万円
・店舗数(国内)
15,072店



日本全国に、何と‘15,000以上’ものチェーン店舗がある!

img_1576307_48716426_0.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/tommiejunior1023/48716426.html

そして、セブンイレブンに限らず、コンビニは、進化し続けている。例えば、7-11の場合の次の進展は:

① 病院へのコンビニ 出店
② 学校へのコンビニ 出店
③ 企業へのコンビニ 出店
④ 行政機関(市役所・官公庁など)へのコンビニ 出店
⑤ ビル・複合施設へのコンビニ 出店
⑥ エキナカへのコンビニ店 出店

がどんどん増え続けるという‘進化’である!

我々が住んでいる千葉県茂原市での‘コンビニの特長’は、‘駐車場’の広さが売り上げを決める!と言わんばかりに駐車場が広い!

先般も地元で‘セブンイレブン’が移転してその跡地というより建屋そのものを活かして‘歯医者さん’が開業した。
移転した先は、同じ通り(国道128号線)の駐車場が5倍もあろうかという場所である。

国道は大型輸送車が通るから、駐車場が狭いと大型車は駐車が出来ないから、7-11が引っ越しをしたのである!

都会では、駐車場に広さは、却って経営を圧迫する。土地使用料金が高いからである。

さて、ここまでの知識に間違いがあることはないのだが、‘セブンイレブン’は、‘純日本製’かどうかを確かめるために、やはり‘Wikipedia’を見てみると、‘日本が発祥地’ではなかった!

残念ながら、私の‘認識の甘さ’だった。イト―ヨーカ堂の鈴木敏文氏の発想で出来たものとばかり思っていたが、違っていた!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96
%E3%83%B3-%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%B3

セブン-イレブン(英: 7-Eleven)とは、アメリカ合衆国発祥のコンビニエンスストアである。日本におけるコンビニエンスストア最大手であり、チェーンストアとしても世界最大の店舗数を展開している。日本ではセブンアンドアイグループの持株会社である、株式会社セブン&アイ・ホールディングスの子会社である株式会社セブン-イレブン・ジャパン(英: Seven-Eleven Japan Co., Ltd.、SEJ)が展開している。
コーポレートスローガンは「日本のおいしい食卓へ。近くて便利、セブン-イレブンです。」。

概要[編集]

発祥の地は米国のテキサス州オーク・クリフである。アメリカ南部の氷の小売店から始まった。電気冷蔵庫が普及する前、どこの町にも氷店はあったが、1927年[1]にセブン-イレブンの前身であるサウスランド・アイス社はサービス向上のため週7日/16時間営業を始め、さらにパンや牛乳なども置くようになった。1946年に現在の名称を用いるようになる。1973年(昭和48年)、日本のイトーヨーカ堂がライセンス契約を受け、日本でサービスを開始する。1980年代になって米国セブン-イレブンは経営不振に陥り、1991年(平成3年)に経営破綻したことでイトーヨーカ堂に買収された。

名称はアメリカ本土では当初、朝7:00から夜11:00(23:00)まで営業していたことに由来している。1963年にラスベガスとダラスで24時間営業を開始し[2]、現在では24時間営業が多い。日本でも以前はこの時間帯で営業している店舗も多数あったが、現在は一部を除いてほとんどの店舗が24時間営業となっている。
開業当時から2010年(平成22年)までのコーポレートスローガンは「セブン-イレブン いい気分!」で、以前は「セブン-イレブン いい気分!」の後に「あいててよかった」と続いていたが、1990年代には「あいててよかった」の一言が消滅している。本家アメリカでは「Thank Heaven, Seven Eleven」[3]であり、やはり韻を踏んでいる。
小売店業界の中では、利益率と成長率ともに非常に高い。その利益の源はフランチャイズ店の展開により、加盟店の個人事業主よりロイヤリティを徴収する形で高い利益率を誇っている。

2005年(平成17年)9月1日、イトーヨーカ堂、セブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンの3社で持株会社「セブン&アイ・ホールディングス」を株式移転により設立して経営統合を行った。


1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。肝心の‘真珠記念日’については明日の記事で!

pc_jp_index_ph01.jpg
http://www.mikimoto.com/jp/

(つづく)

[2013/07/12 23:35] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
またまた「ナニコレ‘珍百景’」
またまた「ナニコレ‘珍百景’」である。

昨日(2013年07月10日)、「ナニコレ‘珍百景’」の「‘巨大金魚’の珍百景 」を記事にした。
http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-588.html

そして今日の記事、これも凄~い!

今日の記事は‘珍百景’という範疇ではない! もしかしたら‘国宝’に指定してもいいくらいの‘教育的・文化的・歴史的価値’がある、と思うのだが・・・。

‘100年の歴史’が詰まっていて、尚且つ作品の数は、約‘6,500’。作者は‘ダブりなし’の一人として同じ作者はいない! みんな作者が違うのである。

こんな大作は他にあるであろうか?

作品の保管方法が必ずしも良いとは言えないので、下手をすれば作品の価値が無くなる恐れがある! 

文科省は、早急に手を打って‘国宝級’の保管措置をすべきだと思う! 文科大臣頑張れ!

それでは、早速

‘全国珍学校甲子園・日本一珍しい学校を決定!’ 

をど~ぞ!

(画像は、2013年07月06日放映・「ナニコレ‘珍百景’」のTV画面をカメラで撮影したものである)

画像ー152 666-2
凄さに、唖然としている審査員ゲスト・柳沢慎吾氏。

画像ー152 669-2
全国を七つのブロックに分けて、そのブロックの代表を決め、

画像ー152 670-2
その七つの代表で日本一を競う方法を採っている。

画像ー152 671-2
先ずは、中国・四国ブロックの代表決定戦!

画像ー152 672-2
そのブロックの代表決定戦は、各県代表勢揃いでその中からブロック代表を選定。そして、広島県代表に選ばれたのが、広島県・安芸高田市にある・・・

画像ー152 673-2
吉田小学校!

画像ー152 674-2

画像ー152 675-2

画像ー152 677-2
‘100年間’守り続けている‘伝統文化’とは?

画像ー152 678-2
何やら6年生が机について作製中!

画像ー152 680-2
そう、「自分の将来の夢と自分の似顔絵と氏名」これを生徒が100年間創り続けて来た! この‘柿本’君の名字をしっかりと覚えておいて、とTVが言っている!

画像ー152 681-2
チャンチャン、チャンチャン、チャンチャン~

画像ー152 682-2
チャンチャン、チャンチャン、チャンチャン~

画像ー152 683-2
チャンチャン、チャンチャン、チャンチャン~

画像ー152 684-2
似顔絵の中央の‘氏名’に注目!

画像ー152 685-2
ナント‘柿本’君のお父さんが、小6の時に描いた「自分の将来の夢と自分の似顔絵と氏名」なのである!
そして、これからが凄~い!

画像ー152 686-2
‘柿本秀郷’って人は?

画像ー152 687-2
彼の祖父!

そして、そして・・・!

画像ー152 688-2
柿本大輔! 右から文字! 時代もんだ!

画像ー152 690-2
彼の曽祖父という!

画像ー152 691-2
‘100年分’というから凄~い! この記録を残すことを言い出した人 は、‘国民栄誉賞’とまでは言わないが‘文化功労章’の価値はある!

画像ー152 693-2
廊下に‘陳列’してあって、誰でも何時でも見れる! この効果は大きい! だって、‘いたずら’しようとしても、お父さんも、おじいちゃんも、ひいおじいちゃんまでが見ている! 

多分、この小学校では、授業中に歩き回ったり、教室から外へ出て行ったりする生徒は一人もいない筈!

‘非行’も完全に防げる のではないか?!

このやり方、全国の学校で取り入れたら如何?

画像ー152 694-2
その数が凄い!

画像ー152 695-2

画像ー152 696-2

画像ー152 697-2

画像ー152 698-2

画像ー152 699-2
保存状態が良くない! 文科省の皆さん、一刻も早く援助の手を! 世界に誇る文化遺産である! しかも子供の教育に貢献すること‘大’!

画像ー152 700-2

画像ー152 701-2

画像ー152 702-2
当然のことながら、このブロックでは‘優勝’したという。

果たして、全国大会では??

(つづく)
[2013/07/11 09:22] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ナニコレ‘珍百景’
‘最近の’って言ったって、もう5年以上も前からのTV番組らしいが、‘ナニコレ珍百景’と言う番組は面白い!

093c5f42.jpg
http://marikodou.seesaa.net/

‘仰天’することがまだ日本の何処かに‘隠され’ている!

私も一度‘投稿’してみたが、未だに採用されていない。この事は、このブログでも以前に紹介したことがある。

‘奈良の大仏’についてであった。次のURLをクリックして貰えば‘奈良の大仏’の記事が読める。

奈良の大仏様:千葉県市原市奈良369-2
http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

最近の番組で興味があったのは、‘巨大金魚’である。随分昔にそんなことも聞いたことがあったように思うがもう忘れてしまっている。

これは記録に残して置くと、その方法の糸口も掴めて、自分でやる気が出来た時に‘実行’出来る可能性が強い!

先ずは、‘ナニコレ珍百景’の概要を・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%8B%E3%
82%B3%E3%83%AC%E7%8F%8D%E7%99%BE%E6%99%AF

『ナニコレ珍百景』(ナニコレちんひゃっけい)は、テレビ朝日系列で毎週水曜日の19:00 - 19:54(JST)に放送されているバラエティ番組。正式タイトルは『珍衝撃映像バラエティ ナニコレ珍百景』(ちんしょうげきえいぞうナニコレちんひゃっけい)。通称は『ナニコレ』または『珍百景』。ハイビジョン制作。2010年7月7日から地上アナログ放送ではレターボックス放送になった。

概要[編集]

2007年12月に終了した『銭形金太郎』と入れ替わりにゴールデンタイムに進出した『クイズ雑学王』の後番組として始まった。同年9月20日に放送された『ニッポン珍百景』をレギュラー化したものである。
面白人物や面白ペットや祭りなどが大半を占める傾向にある。近年はサッカー中継が組まれたり、改編期以外でも後座番組の『学べるニュース』と交互に特番を組むこともあった。2011年3月11日に発生した『東日本大震災』に関連するニュース、そしてそれに伴う『学べるニュース3時間SP』の影響により、4月は日曜日の特別版のみでの放送となった(レギュラー番組は5月4日の初夏2時間SPから再開)。また、福島県、宮城県、岩手県についてはしばらくの間は扱わなかった。 2012年1月以降は改編期以外でも後座番組の『くりぃむクイズ ミラクル9』と交互に特番を組むことも場合もある。

番組内容[編集]

全国各地にある珍しい風景のVTRを「珍百景」候補としてネプチューンの名倉潤と堀内健がプレゼン。それを原田泰造(ネプチューン)とゲストからなる『珍定委員会』のメンバーが審査し、委員全員が「珍定」、または「認定」したもののみが「珍百景」として登録され[2]、放送終了後に公式サイトで公開される。『珍定委員会』のメンバー数は、2008年5月21日から6月11日までは5人、それ以外の放送回では3人。ゴールデン進出後も基本的に3人であるが、特別番組や番宣などで4人から7人で行う場合もある。

珍百景の例

① ミスマッチ珍百景(所持・設置されている場所に合わない物「テニスコートに畑」「テナントビルに自宅」など)

② 商品にまつわる珍百景(珍しい商品や道具「国産マツタケの無人販売」「夢をかなえるケーキ屋」など)

③ 物体・人物珍百景(不自然な造形・動作をする物体や人物「歯が27本の95歳」など)

④ 記録・集団珍百景(変わった記録・集団「日本一長いリムジン」、「オバサンによるダンスチーム」など)

⑤ その他の珍百景(マークの珍百景、看板珍百景、学校珍百景、県境の珍百景など特定のテーマのもの)

2008年7月16日からは、すべての珍百景候補を視聴者からの投稿のみにすることが発表され、さらにその回の珍百景登録作品で最も珍しかった作品に、MOST VALUABLE 珍百景、略して「MV珍」として、5万円の賞金が贈られ、それ以外の番組内で放送された作品には、珍定されても、されなくても、1万円の賞金と番組グッズが贈られる。ゴールデン進出後は、採用されると3万円、MV珍で10万円(2・3時間SPの際は30万円)(採用分の3万円を含む)に増額、採用者全員には、「珍」はんこ付きボールペンが贈られる。2011年春以降は賞品が目覚まし時計に変わった。系列局の社員による投稿の場合があり、そのときは賞金は支払われない[3]。

VTRの進行は、珍百景候補が存在する市区町村を紹介した後、BGMと共に珍百景候補に向けて、カメラをズームイン、またはズームアウトなどをさせ、全体を映し、ナレーターや関係者による詳しい解説が入る。また、下記「怒りの珍百景」では、解説シーンは直接スタッフが出向いて所有者に聞き込みをするパターンとなっている。なお、VTR前には司会者が「ナニコレ」と言いながら、両手の人差し指を交互に前へ振るポーズをする。



それでは、2013年07月06日放映の‘巨大金魚’の珍百景 を!

(画像は全てTV画面をカメラで撮影したもの)

画面に説明が出ているので、解説は要らない!

画像ー152 636-2

画像ー152 637-2

画像ー152 638-2

画像ー152 639-2

画像ー152 640-2

画像ー152 641-2

画像ー152 643-2

画像ー152 645-2

画像ー152 647-2

画像ー152 648-2

画像ー152 649-2

画像ー152 650-2

画像ー152 651-2

画像ー152 652-2

画像ー152 653-2

画像ー152 654-2

画像ー152 655-2

画像ー152 656-2

画像ー152 657-2

画像ー152 659-2

画像ー152 660-2

画像ー152 661-2

画像ー152 662-2

画像ー152 663-2

ということで、見事‘珍百景’に登録!

こんなに大きな金魚は、‘金魚屋さん’でも多分売っていないに違いない!

① 時間が経過するともっと大きくなるのだろうか?

② 金魚は、‘食用’に向くのだろうか?


などの疑問が残るが、時間があればこの事も調べてみたい!

将来の‘たんぱく質’源に、ということだって食材をみると必ず考えなければならないのが日本人である。

案外、‘金魚の刺身’が絶品だったりして・・・・???

(つづく)
[2013/07/10 09:57] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
風鈴の起源
ill_0815 (1)
http://www.sai-create.com/illustration/2011/0815.html

風鈴の音 は、誰の気持ちをも和まして呉れる。ただし、‘日本人にとっては’という注釈制限がつくかも知れない、とどこかで聞いたことがあるような気がする。

かと思ったら、こんな記事もある!

http://www.log-channel.com/bbs/live/1318817569/
風鈴なんて風流なものは、ある程度の土地を所有する一軒家がやるべき。
間違っても密接した集合住宅などで吊るすべきでない。

[風鈴のルール]

風の強い日は外す
夜間は出しっぱなしにしない
夏が終わったら片付ける
近所の人に迷惑でないかひと言断ってから使用する


やっぱり、日本人だって‘うるさい!迷惑だ!’と思う人が増えて来ているのだろう。

西洋人には‘秋の虫の音’が‘雑音’に聞こえるというから、この頃の日本人も‘西洋人並み’になったと言えるのだろうか?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1371854328
白人は虫の音や風鈴の音を、別の意味でとらえます。虫の声は、恐怖のシーンに使われます。

日本人は虫や風鈴の音を右脳で聞いているという研究もありますが、それはそういう環境で生活しているからです。

逆に日本人は拳銃を打ち合う音を聞いても、伏せないでただ立っているので、「日本人でバカなんじゃないのか」と思われています。つまり、日常生活に銃の音がないので、わからないんです。

虫の音などが響き渡る日本映画などは、西洋社会ではヒットしません。

雑音に聞こえるそうです。

よくアメリカのテレビなんかで大勢の前で発したジョークが全くウケなくて周りがシーンとした時、コウロギの鳴き声が響きます。コウロギの鳴き声は、静けさの象徴ではないかと思います。

音をどうとらえるかは、その人の経験にもよりませんか。虫の声をうるさいと感じる人ばかりが周りにいて、虫の声が聞こえるたびに人がうるさいと言っているのを聞いて育ったら、自ずと、虫の声はうるさい、という気になるのではないでしょうか。日本だって、建て込んだ都会だと風鈴の音が隣人同士の争いの種になると聞きますよ。

はい、熱帯の国でのことです。
蒸し暑い夜の空気を和らげてくれる、涼しげなコオロギの声。
虫たちの合唱に耳を傾けながら、濃密な自然の雰囲気とビールに酔いしれておりました。

そこへ白人がやってきて、
可愛らしく鳴いているコオロギを、殺虫剤で皆殺しにして行きました。
「うるさい!」とか怒鳴りながら・・・。

心理学の実験で、日本人は虫の声を聞くと、脳波にリラックスしたことを示すα波が出現するのですが、白人にはそれはないことが、優位差の有る実験データとして報告されています。


などなど、「音と同時経験」の印象が人間の心理に大きく影響されているという裏付け発言のように思われる!

さて、我が家に今いくつ‘風鈴’があるのか?調べてみた!

画像ー156 168-2
玄関口

画像ー156 169-2
玄関のドアに(内側から)

画像ー156 170-2
玄関のドアに(外側から)

画像ー156 172-2
居間の西側窓

普段余り‘活躍’してはいないが、3つ有ることはある!

本日問題にしたいのは、‘風鈴の起源’である!

一体いつ頃から何の目的で、誰が? ということが知りたくなった。勿論‘白人さん’のお宅には風鈴はあるのだろうか?ということも含めて・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%88%B4
風鈴(ふうりん)とは、日本の夏に家の軒下などに吊り下げて用いられる小型の鐘鈴である。風によって音が鳴るような仕組みになっている。

概要[編集]

583px-Fuurin.jpg
鉄製の風鈴の内部に見える「舌(ぜつ)」

金属・ガラスなどで手のひらに収まるくらいの大きさのお椀型をした外身を作り、それを逆さにして開口部を下向きに吊り下げられるように外側に紐をつける。内側には「舌」(ぜつ)と呼ばれる小さな部品を紐で吊り下げ、その紐の先には短冊を付けて風をよく受けるようにしてある。
短冊が風を受けて舌を揺らし、舌が外身に当たって音を鳴らす。
音は外身と舌の材質になどに左右されるが、日本では一般に涼しげな音と表現されてきた音である。秋を知らせるスズムシなどの虫の声とも似ている。冷房のなかった時代に日本のむしむしとした湿気の多い暑い夏をやり過ごすため、日本人は風鈴の音を聞くことに涼しの風情を感じてきた。
日本では夏の風物詩の一つとなっている。

歴史[編集]

780px-Japanese_Edo_Soba_Yatai_03.jpg
江戸後期の「風鈴蕎麦」。風鈴を鳴らしながら商いを行った。(深川江戸資料館)

鈴や鐘、太鼓、笛といった音のでる器物は、人類の歴史の古くから人間の暮らしや精神活動に深くかかわってきた。音は、人間にまつろわぬ獣や魔物を追い払って己の生命を守る楯であり、同時に己の仲間である獣や神を引き寄せる合図でもあった。日本でも縄文時代には既に土鈴(どれい)と呼ばれる音を出す用途を意図して作られた器物が存在し、農耕が開始してからも農作物を荒らす動物を追い払うため鳴子を田畑に設置したりしてきたし、現在でも山菜採りなどで山に入るときには熊除けなどのために鈴を腰につけていく。文字を持たない共同体においても人々が神を呼んだり共同体の結束を確認する祭りに楽器と音楽は欠かせないし、日本の祭りでも神や仏を呼ぶのに楽器と音楽を用いる(人間を楽器と考えるならば歌謡と舞踊を用いると表現してもよい)。神社で鈴を鳴らして神に拝むのもそうであるし、仏壇で鈴を鳴らして先祖を拝むのも、除夜の鐘も、根源的には人間が音に対して抱いている観念、すなわち超常的な力を持つものに通じる畏怖と人間が操り制御することのできる親しみとが根底にある

日本では民家の軒先に吊るす風鈴がいつから存在するのかはっきりしないが、寺では通常、相輪や堂の軒の四方に「風鐸」(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられている。

これらは青銅でできており、強い風が吹くとカランカランというやや鈍い音がする。強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味でつけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないという。中国では唐の時代に竹林の東西南北に風鐸を吊り下げて物事の吉兆を占う「占風鐸」というものがあり、それが日本に仏教建築文化とともに伝来したと考えられる。平安時代後期には貴族の屋敷でも軒先に魔除けとして風鐸を吊るしたことがあったというがよくはわかっていない。「風鈴」という表記は鎌倉末期に作られたとされる国宝『法然上人行状絵図』に「極楽の七重宝樹(しちじゅうほうじゅ)の風のひびきをこひ、八功徳池(はっくどくち)のなみのをとをおもひて、風鈴を愛して」とあるが、これは「ふうれい」と読む。絵図の作者が風鐸と書かずに風鈴と記したのは中世には鈴を持って踊るさまざまな田楽風流踊りが各地で流行したことが影響したとも考えられる。

強い風とともにやってくる疫病や魔を除けるための器物として用いられてきた青銅製の風鐸であるが、気温湿度が上がり菌が繁殖しやすく病も広まりやすい暑くなる時期の魔除け道具、すなわち暑気払いのための器具として次第に定着していく。

古代のシルクロード経由の色ガラスではない、無色透明ガラスの製法が18世紀にオランダ経由で日本に伝わると、19世紀には江戸でガラス細工が盛んになり、江戸時代末期にはビイドロ製の吹きガラスで作られた風鈴が江戸で流行を見せる。大正期には岩手県の名産である南部鉄器の産地でも鉄製の風鈴を作るようになった。

各地の風鈴[編集]

800px-Glass_windchime.jpg
ガラス製の風鈴

現在は、日本の各地で金属(鉄、銅)、ガラス、陶器、木、木炭、水晶など様々な材質の様々な形状の風鈴が作られている。

鉄製のものには、岩手県の伝統工芸南部鉄器でできた南部風鈴がある。銅製のものとしては、富山県の伝統産業高岡銅器の真鍮製の高岡風鈴、神奈川県の伝統工芸小田原鋳物の砂張(さはり)製の小田原風鈴がある。金属製のものはリーンと長い音が響く。
ガラス製のものは全国にあるが、昭和になってそう名乗りはじめた江戸風鈴が知られている。琉球ガラス、諏訪ガラスなどでも作られている。現在では中国などで作って輸入していることも多い。チリンチリンと短い音がする。
兵庫県姫路の伝統工芸である明珍火箸を近年、風鈴として使うように作った火箸風鈴というものもある。二組(四本)の火箸を吊るしてその中央に舌を下げてお互いにぶつかりあうようにしたものである。
ごく近年には、軒先に吊るさないで室内に針金などで吊るし、人為的な振動を加えて鳴らすようにしたものなどもある。

音声・動画[編集]

日常生活音の中で聞こえる風鈴の音(ヘルプ / リンク)

注意[編集]

密集した住宅地やマンションにおける風鈴の音は、生活騒音に分類されることがある[1]。

風鈴に関する行事[編集]

川崎大師風鈴市…神奈川県の川崎大師の7月の行事。平成23年で16回目で比較的新しい行事であるが。日本各地の風鈴が販売される。平成22年は47都道府県900種類が集まった[2]。
浅草寺ほおずき市…東京都の浅草寺の7月の行事。風鈴も多数売られ、ほおずき市に風鈴はつきものである。
岩手県奥州市の水沢駅では毎年6月から8月にホームにたくさんの風鈴を吊るし、日本の音風景100選に選ばれている[3]。
熊谷や岐阜などと並んで猛暑になる群馬県前橋市を走る上毛電車では、毎年6月から8月に電車内に風鈴をたくさん吊るして「風鈴電車」(2両1編成に100個の風鈴)として走らせている[4]。

関連項目[編集]

鈴…神具、楽器としての「すず」。
鈴 (仏具)…仏具としての「りん、れい」。
釣鐘…つりがね。
鐘…かね。
銅鐸…どうたく。日本の弥生時代の遺跡から出土する。
土鈴…どれい。日本の縄文時代の遺跡からも出土する。現在も作られている土器や陶器の鈴。
モビール…吊り下げて楽しむインテリアの一種。
ウィンドチャイム…楽器。


外人と風鈴など

こんな記事を見つけた!

http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1372664204/
「なぜ日本人は暑い季節にスーツで働いてるんだ!?」外国人が驚愕
2013.07.01 雑学

クールビズ NHKBS1の『cool japan』で「涼む」という特集をしました。日本人の夏の工夫です。

 予想通りというか、外国人がまったく理解しなかったのは、「金魚」。

「魚を見て、どうして涼しくなるんだ?」「金魚以外も涼しく感じるのか? サバとかタイを見ても涼しいのか?」なんて疑問が連発しました。

「風鈴」も理解されないだろうなと思っていたら「いや、風が吹く。だから、鳴る。だから、音を聞くと風が吹いているんだなと想像できる。
だから少しは涼しいと予想できる」という意外な意見が主流でした。

 そうか、そうか、「風鈴」は理解できるのかとちょっと安心して
「いや、待てよ。風を知るから涼しいのなら、『風鈴』じゃなくても木の葉とかでもいいの?」と聞くと
「そうだよ。風で揺れるものならなんでもいい」と当たり前じゃないかという顔で、外国人全員に答えられました。

「どうして日本人は、こんなに涼む方法をたくさん持っているんだと思う?」というやや強引な質問をすると、
「本来、働いてはいけない7月と8月になんとか働こうとするから、いろいろ工夫するんだろう」という、
番組のコンセプトを根底から破壊するようなコメントがイタリア人からでました。


これじゃあ、外人が風鈴を買うことなんか期待しない方がいい!

それでは、‘南部風鈴の音’をごゆっくりど~ぞ!


https://www.youtube.com/watch?v=mStFPTy2F5E

こちらも結構いい音が・・・・。


https://www.youtube.com/watch?v=tEN3lyJix1k

(つづく)
[2013/07/09 16:31] | 学習と文化 | トラックバック(280) | コメント(0) | page top
‘七夕’って何?
七夕の風習 は、日本人なら誰だって知っている!

そして、どんなことをするかも大体の人が知っている。

ただし、大きく分けて2つのやり方がある。

① 自分の家庭中心に行なう場合

A5D6A5EDA5B0070520002_convert_20130708235326.jpg
http://shinji-channel.seesaa.net/article/102282930.html
a) 願い事を短冊に書いて吊り下げる。
b) 処分の仕方:昔は近くの川に流したが、今はそれはない。短く切ってゴミとして出す。燃やすことは各自治体で制限がある。

② 商店街が中心になって行なう場合

仙台七夕2012_a
http://tokuhain.arukikata.co.jp/yamagata/2012/08/post_40.html
仙台の七夕飾りは7種類あり(短冊、紙衣、折鶴、巾着、投網、屑篭、吹流し)、それぞれに意味があって願いが込められています。その中で最も目立つのが巨大な吹流し。球や直方体などの下に吹流しが下がっています。仙台七夕まつりはこの吹流しの競い合いのように見えます。
a) この場合は、願い事を短冊に書いて吊り下げることはしない!
b) 処分の仕方:一部の噂では、飾りの‘使い回し’があるのではないか?と言われている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361303263
平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂

Q:平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂
昔、聞いた噂なのですが、平塚市の七夕飾りが1ヶ月後に仙台で再利用しているとの話がありますが、真偽のほどをご存知の方は居ますか?

A:再利用は単なる噂で、都市伝説に近いものかと思います。

仙台七夕まつりの飾りは本物の和紙がほとんどで、笹を用いる本格的な飾り付けを行うことが「売り」で、七夕飾り1本を作りあげるのに80万円から100万円がかかることも珍しくありません。使われた飾りはその年限りのもので、基本的に使いまわしはしないとのこと。

使いまわしの噂は、平塚の七夕まつりが新暦の7月7日、仙台の七夕まつりが旧暦の8月7日に行われているための類推かと思います。


ただし、仙台の飾りの‘有効活用’はあるそうです!

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%B8%83%E5%A4%95
仙台の七夕飾りの活用

日本国内においても2007年(平成19年)に仙台七夕で使用された七夕飾りが鹿児島県鹿児島市に運ばれ、同市の中心部商店街である天文館の11の通りに計90個飾り付けられ「奥州仙台夏飾り[10]」が開催された。さらに同県薩摩川内市の中心部商店街にも仙台七夕の飾りを5体寄贈し、仙台の七夕工房の職人が薩摩川内に赴いて七夕飾りの作り方を指導した。仙台七夕の飾りは川内花火大会(2007年(平成19年)8月16日)の際に飾られた。また2008年(平成20年)からは、薩摩川内市民が作る仙台式と川内式の双方の七夕飾りが「川内七夕まつり」で飾られる。


そんな訳で、七夕祭りが商店街の活性化のために活躍するというパターンで‘或る進化’を遂げているというのが現状のようである。

それでは、本来の‘七夕’とは、どんな歴史を持っているのか?

次の引用文献は、見ただけでうんざりするほど長~い!

でも、これだけ知っていれば‘一端の’七夕学者である!

さあ、‘読破’して下さい!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

七夕(たなばた、しちせき)は、中国、台湾、日本、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[1]。

起源[編集]

日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。
七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説 は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首[2]」が文献として初出とされている[3]が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている[4]

日本語「たなばた」の語源 は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会[5])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[6]。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[7]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[8]。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[9]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[10]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[11]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

風習[編集]

日本[編集]

ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。[12]
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。

中華圏[編集]

香港[編集]

現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。
坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。

台湾[編集]

台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南[13]や鹿港[14]ではzh:做十六歲[15]という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

時期[編集]

中国[編集]

元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

日本[編集]

日本では、天保暦(和暦)など旧暦7月7日であり、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ[16]、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[17]。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。

天候など[編集]

多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。
統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。
七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

日本の七夕祭り[編集]

仙台の七夕祭り

1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

主な七夕祭り[編集]

新暦に行う地域[編集]

埼玉県深谷市(深谷七夕まつり)
神奈川県平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)
神奈川県藤沢市慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(七夕祭)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)(清水七夕まつり)
富山県高岡市戸出町(戸出七夕まつり)
富山県下新川郡入善町(舟見七夕まつり)
大阪府交野市(七夕祭)
徳島県徳島市新町橋東公園(七夕バルーンリリース)
旧暦・月遅れに行う地域[編集]
秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)
岩手県陸前高田市(うごく七夕まつり)
岩手県陸前高田市(けんか七夕まつり)
宮城県仙台市(仙台七夕)
福島県いわき市平(旧平市)(平七夕まつり)
茨城県水戸市(水戸黄門まつり)1991年まで「水戸の七夕黄門まつり」
茨城県土浦市(土浦キララまつり)1989年まで「土浦七夕まつり」
群馬県桐生市(桐生八木節まつり)
埼玉県狭山市(入間川七夕祭)
埼玉県小川町(小川町七夕まつり)
埼玉県ふじみ野市(旧上福岡市)(上福岡七夕まつり)
千葉県茂原市(茂原七夕まつり)
東京都杉並区阿佐谷(阿佐谷七夕まつり)
東京都福生市(福生七夕まつり)
富山県高岡市(高岡七夕まつり)
石川県珠洲市(宝立七夕キリコ祭り)
岐阜県大垣市(七夕まつり)
愛知県安城市(安城七夕まつり)
愛知県名古屋市(円頓寺七夕まつり)
三重県松阪市(松阪七夕まつり)
山口県山口市(山口七夕ちょうちんまつり)
香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)
福岡県小郡市(七夕神社七夕大祭)
大分県大分市(大分七夕まつり)
旧暦でも月遅れでもない地域[編集]
愛知県一宮市(おりもの感謝祭一宮七夕まつり)

全国七夕サミット[編集]

七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。
第1回:1996年8月 宮城県仙台市
第2回:1997年7月 愛知県一宮市
第3回:1998年8月 富山県高岡市
第4回:2000年7月 神奈川県平塚市
第5回:2001年 石川県根上町(現能美市)
第6回:2003年8月 愛知県安城市
第7回:2004年7月 千葉県茂原市
第8回:2005年7月 愛知県一宮市
第9回:2006年8月 富山県高岡市
第10回:2007年7月 大阪府枚方市・交野市
第11回:2010年7月 神奈川県平塚市
第12回:2011年7月 群馬県前橋市
予定[編集]

新暦の七夕における月齢[編集]

2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。
2007-07-07: 月齢22 ○
2008-07-07: 月齢4 ◎
2009-07-07: 月齢15 ×
2010-07-07: 月齢25 ◎
2011-07-07: 月齢6 ○
2012-07-07: 月齢18 ×
2013-07-07: 月齢29 ◎
2014-07-07: 月齢10 △
2015-07-07: 月齢21 △
2016-07-07: 月齢3 ◎
2017-07-07: 月齢13 ×
2018-07-07: 月齢24 ○
2019-07-07: 月齢5 ○
2020-07-07: 月齢16 ×
2021-07-07: 月齢27 ◎
2022-07-07: 月齢8 ○

旧暦の七夕(伝統的七夕)[編集]

国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している[18]。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。

国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)

2006-07-31
2007-08-19
2009-08-26
2010-08-16
2011-08-06
2012-08-24 [19]
2013-08-13
2014-08-02
2015-08-20
2016-08-09
2017-08-28
2018-08-17
2019-08-07
2020-08-25

織女星と牽牛星の伝説[編集]

詳細は「牛郎織女」を参照

説話[編集]

こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

物語[編集]

昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命は機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

星空[編集]

織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。
グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。


読破のご感想は?

残念ながら、今年2013年7月7日の深夜の千葉県・茂原市の夜空には、‘天の川’はお出まし遊ばなかった!

(つづく)

[2013/07/08 23:59] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
夏は来ぬ!
2013年の関東地方の梅雨明け宣言は、7月6日(昨日)だった!平年より2週間以上早いらしい。

http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-6128.html
本日6日11時に、気象庁から「関東甲信地方は梅雨明けしたとみられる」と発表がありました。
平年(7月21日ごろ)より15日早く、昨年(7月25日ごろ)より19日早い梅雨明けです。
1951年の統計開始以来、4番目に早い梅雨明けとなりました。


「夏は来ぬ」という歌は誰でも知っている!と思ったが、最近はそうでもないらしい!


http://www.youtube.com/watch?v=TUuwr-bQpkA

以下のような‘Q&A’があるところを見ると何だか‘日本人大丈夫?’と言う気がして来る。

「夏は来(こ)ぬ」となったら大変! 温暖化でなくて‘氷河期’の到来だから・・・。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1116918936

Q:「夏は来ぬ」の「来ぬ」って、何の動詞(助動詞)の何の活用形ですか?

学校で音楽の時間に「夏は来ぬ」っていう歌を歌ったんだけど、
「し~の~び~ねも~ら~す~夏は来ぬ~」っていう歌詞の所に違和感を覚えました。

「来ぬ」の「ぬ」が、文語打消助動詞「な・に・ぬ・ぬ・ね」の終止形だとすると、「夏は来ない」っていう意味になっちゃいます。
でも、この歌の歌詞の「来ぬ」は、「来ない」っていう意味で使われていませんよね?

この歌の歌詞にある「来ぬ」って、何の動詞(助動詞)の何の活用形ですか?

:歌詞の問題というよりは古文の