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吉野紙
昔、漆(うるし)を濾す時に和紙を用いたという。その代表が‘吉野紙’である。

この吉野紙は、通常の和紙に比べて、極めて薄いのに‘腰が強く’中々破れるという事が少ない!
そのために大変重宝がられたという。
しかし、特殊な作り方のために、高価であった。

現在においては、合成繊維の進歩のお蔭でその用途は無くなったらしいのだが・・・。

昔の職人さんがこだわっていたという事が明記してあるブログを見つけた!

http://waurusi.sblo.jp/category/368745-4.html
2011年11月24日
■漆用の古い「濾紙」です。

今日は、松本が実家から持ち帰った「濾紙 こしがみ」をお見せしたいなと思います。
「濾紙」とは、漆を濾す専用に作られた特殊な和紙のこと。吉野紙とも呼ばれます。※
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長い繊維が横方向にそろっており、こうした濡れた状態のひねり出しという、過酷な状態に良く耐えます。そしてそれだけなく「漆の中の異物を取り除く」という目的をきちんと果たさないといけません。

「よい濾紙が手に入らなくなった」「制作者がいなくなった」と言われてひさしいです…。(漆の材料や道具は、こんなのばっかりです;;)
近年ではナイロンなどで代用されますが、いい仕事がしたい方にとっては悩みの種だったりします。
亡くなった松本の父はド真面目な職人さんで、その師匠が「よい材料、よい素材」にこだわる方だったのでその志向をそのまま受け継ぎ、よい材料はきちんと集めていました。
その当時から、こうしたよい材料は年々なくなっていく一方だと分かっていましたから「今のうちに」いう気持が強かったのです。

中には「…ん? 一生分以上溜め込んでいるのでは?」
というものもたくさんあったのですが(黒田水銀朱とか;;)この濾紙もどうやらその部類のようです。


バッド(下向き矢印)30年以上の前の濾紙がここにタンマリ入っています。
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お茶の亀屋さん(高松の老舗のお茶屋さん)の木箱二つ…。松本が実家で探し物していて偶然見つけました。
中には…。

バッド(下向き矢印)やさしい風合いの和紙がギッシリ入っているんですよ~。

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中に入っていた新聞の日付は昭和47年…。

もう、この時から、漆の材料の入手難がじわりじわりとせまっていたのですね。
では、中の紙をお見せしますね。

バッド(下向き矢印)当時の濾紙(吉野紙)
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松本が言うには「紙に杉の板目がうつっているのが見える」というのですが…。(当時は杉板を干し板使い、和紙の繊維を直接板に貼って乾かしていたのですね)
分かるでしょうか?? ちょっと写真では分かりにくいかもしれませんが、目を凝らしてみてくださいね。

バッド(下向き矢印)この濾紙が包まれていた和紙。
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読みにくいですが、これがこの濾紙の屋号みたいですね。

これだけでも一生分かそれ以上あるかも…です。
きっと亡くなった義父が「いっぱい仕事しろよ~~」と言ってくれているんでしょうね。まだ全く足元にも及びませんが、「がんばっていいものをたくさん作らなきゃ!」という気持を強く押してくれます。ぴかぴか(新しい)


昔のこだわり職人さん達は、こんな努力をしてその技術を守ろうとしていたことがこの文献で良く判る!

しかし、上述の通り技術の進歩がこの苦労を吹き飛ばしているという!
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http://www.ncc-nice.com/co_mame3/article/Dhu20120820093141-152.html
最新技術ノウハウ

吉野紙の性質について

一般的に塗料を漉すために『吉野紙』という和紙が多く使われています。

吉野紙は、こうぞ(楮)紙でありながら、引っ張りに強く、ふっくらとした紙の地合が濾過に適してるため、

江戸時代以来、漆や油を漉す漉紙として使用されてきました。

しかし、吉野紙は短繊維のため、目の粗い部分と細かい部分があり、粗さはバラバラのためゴミブツが

通過することがあります。

また短繊維の集まりのため吉野紙そのものが脱落して塗料に混入するということもあり、

メッシュが均一でないため塗料を漉すメディアとしては最適ではないのが一般的な見解です。

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では、どのような物が良いかと申しますと、ナイロンメッシュを推奨します。

ナイロンメッシュは一本の繊維で編みこんでいるため、目の粗さも均一になっていますし、

ほつれる心配もありません。

NCCでは、ナイロンメンシュをお客様の必要なサイズに加工してお届けすることができます。

詳しくはお問い合わせ下さい。

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まあ、こうなると職人気質の技術は消えてしまう!
技術の進歩というものは、謂わば‘職人気質’という職人の誇りを‘消滅’させるものなのだろう!

技術の進歩は、‘個性の均一化’に繋がってしまう!
これじゃあ、世の中面白くない!

(つづく)
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[2013/11/30 23:55] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今季初、夕暮れの富士山が見えた!
昨日2013年11月28日の夕刻、玄関のチャイムが‘ピンポ~ン’と鳴った!

「はは~ん、ピンポンだから、きっと‘宅急便(卓球便)’?」と思ったが違っていた。

「今日は、よ~く富士山が見えるよ!」

と、玄関先で大声で教えてくれていたのは、誰あろう、ここ千葉県・茂原市・千沢の‘赤目橋’付近で、‘富士山が見える’ことを発見された‘Mさん’である!

夕闇も迫っていたから、私はもうカメラを片手に大急ぎで、私が勝手に決めている‘富士山定点観測ポイント’に向かった!

以下はその時の写真である!

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2013年11月28日16:30 この画面のほぼ中央に夕焼け富士が見える!ここは、観測ポイント①の場所

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上の画面の望遠拡大。

昼間は大凡次のように見えている場所である。

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二つ上の画面のPC拡大処理。

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上画面のPC拡大処理。ここポイント①からの画像は、電線に余り邪魔されていないが、裾野の方が余り見えない!

そこで、裾野がもう少し見えるポイント②に移動!

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これがポイント②、赤目橋からの画像!

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赤目川も一緒に撮れているポイント②からの望遠画像!

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上画面のPC拡大処理。

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上画面のPC拡大処理。昨年は、富士山を隠そうと(?)している‘木’が余り大きくなかったためにこのポイントからで良かったが、このポイントは今年は使えない!勿論この‘木’を切ってしまえば別だが・・・。

そんな訳で、ポイント②から約5mだけ南に移動したポイントを‘ポイント③’と呼ぶことにした!

移動
矢印の先の場所がポイント③である。

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そんな訳で、ポイント②から約5mだけ南に移動したポイント③からの画像がこれである! たった‘5mの移動’で、‘木’に掛からない映像が撮れた!

画像ー190 030-2
ただし、やはり‘電線’からは逃れられない!  電線から逃れるには、少々‘バック’をすればよいのだが、それが出来ない! バックすると言う事は、ポイント③を示した上記昼間の写真の画面の右側へ移動することなのだが、道路であるために出来ない!それじゃあ、道路を渡り切ってその向うへ行けば済むことなのだが、ここが下り坂になっていて、そうすれば今度は肝心の富士山が見えなくなってしまうという訳である!

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もう一度、ポイント①へ行って少し東にずれた所から撮影したのが以下の画像である!

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前出の写真と変わりはない!

兎に角、ここいら付近で、‘最も富士山が綺麗に見えるポイント’をもう少し真剣に探しても見たいのだが・・・。

それよりも何よりも、空気が冷たくなって、今年もやっと富士山を拝むことが出来るようになったことがやはり嬉しいのである!

今後もこのポイント辺りからの富士山を撮りまくる積りである。出来れば、もう少し性能の優れた‘プロ用のカメラ’が手に入ればよいのだが・・・。

年末の‘ジャンボ宝くじ’!、これって、なかなか順番が回って来ないから・・・。

(つづく)
[2013/11/29 23:07] | 富士山 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ジャンボユズ(獅子柚子・鬼柚子)
ジャンボユズ(獅子柚子・鬼柚子)という‘ゆず’があると言う。

カミサンが貰って来た。

最初は、質の悪い‘文旦’かな?と思った。

ジャンボユズというのなら、柚子の仲間に違いないだろうから、先ず‘ユズ’を調べてみると、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BA
ユズ(柚子、学名: Citrus junos)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木。柑橘類の1つ。ホンユズとも呼ばれる。消費・生産ともに日本が最大である。
果実が小形で早熟性のハナユ(ハナユズ、一才ユズ、Citrus hanayu)とは別種である。日本では両方をユズと言い、混同している場合が多い。また、獅子柚子(鬼柚子)は果実の形状からユズの仲間として扱われることがあるが、分類上はザボンやブンタンの仲間であり、別種である


という事で、名前には、‘ユズ’と付いてはいるものの、やはり(?)ザボン・文旦の仲間だそうだ!
では、文旦とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3
ブンタン(文旦、学名:Citrus maxima(Merr.)、シノニム:Citrus grandis (L.))は、柑橘類の一種である。標準和名はザボン(朱欒、香欒)。ボンタンとも呼ばれる。

1 名前の由来
2 特徴
3 利用

名前の由来[編集]

原生地は東南アジア・中国南部・台湾などであり、日本には江戸時代初期に渡来した。使われていた漢字をそのままに日本語読み(ブンタン)している。伝来したとされるのは鹿児島県の阿久根市とされ、生産量も多いことなどから1971年(昭和46年)に市の木に制定されている[1]。第二次世界大戦前にはジャボンと呼ばれるのが一般的であり、これは文旦貿易に関与したジアブンタン(謝文旦)の略と考えられるが、ジャボンから転じたザボンの名前については、ポルトガル語のzamboa(元の意味は「サイダー」[要出典])から転じたという説もある。

特徴[編集]

ブンタンの樹は3 メートルほどまでに育ち、その果実は品種により直径15 から25 センチメートル、重さ500 グラムから2 キログラムまで様々な大きさに育つ。果実は皮の厚さが特徴で大きさの50%程度を占める程であり、果肉は果汁が少ないが独特の甘みと風味を持つ。なお果実の収穫は年末頃に行われることが多いが、採取したては酸味が強すぎるので、数ヶ月間貯蔵して酸味を減らした後に出荷される。
ブンタンは自然交雑により色々な品種を生み出しており、グレープフルーツ・ナツミカン・ハッサクなどはブンタンの血を引いている。ブンタンそのものも品種が多く、西日本(特に高知・熊本・鹿児島)では色々なブンタンが栽培されている。高知では「ウチムラサキ(ウチムラ)」と呼ばれる果皮の内側が薄紫の文旦に似た柑橘類があるが、実は水分に乏しくパサパサしており、味も文旦に劣る。この「ウチムラサキ」は文旦の原種と言われている。
日本における2010年の収穫量は9,719 トンであり、そのうち約90%が高知県において生産されている[2]。

利用[編集]

果実は生食の他、ベトナム、カンボジア、タイ王国では果肉を和え物の素材とする。
加工食品の原料としても用いられ、皮や果肉を用いた砂糖漬け(ザボン漬け、文旦漬け)、マーマレード、ボンタンアメなどは有名。近年、香港で流行しているデザート楊枝甘露は、マンゴーと沙田柚を主原料にして作られる。
果皮は中国に於いて、光七爪、光五爪などと称し、生薬としても利用される。また、化州柚の果皮は毛橘紅と呼ばれる。いずれも、皮の内側を剥ぎ、乾燥させた上で、咳止めなどの喉の薬、食欲不振の改善などに用いられる。
特異的な香気成分としてノートカトンがある。ノートカトンは、グレープフルーツやナツミカン等のブンタンからの交雑種にのみみられる成分である。皮には他にサンショウと同じく、舌にしびれを感じさせる辛味成分も含んでいる。


調査して判ったこと。

① ユズは、ミカン科ミカン属の常緑小高木。柑橘類の1つ。ホンユズとも呼ばれる。消費・生産ともに日本が最大である。

② ジャンボユズ(獅子柚子、鬼柚子)は果実の形状からユズの仲間として扱われることがあるが、分類上はザボンやブンタンの仲間であり、別種である。

③ ブンタンは、原生地は東南アジア・中国南部・台湾などであり、日本には江戸時代初期に渡来した。文旦、ザボン、ボンタン、ウチムラサキ(ウチムラ)は、同じもので、地方によって呼び名が違うだけ。

④ ブンタンは自然交雑により色々な品種を生み出しており、グレープフルーツ・ナツミカン・ハッサクなどはブンタンの血を引いている。

という訳で、「ジャンボユズ(獅子柚子・鬼柚子)」の正体を!

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ここまで拡大すると、実物よりも大きくなって‘不気味’でもある!

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半分二割ってみると、このように‘文旦’に似ている。

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これも拡大して見ると・・・。

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このまま食べて見たが、夏蜜柑とほとんど同じ!

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遂に、カミサンの手で‘マーマレード’になってしまった!
これが実に美味い! 一寸大味だが・・・。

勿論、文旦の仲間というから、本来の‘ゆず’の機能はない!

(つづく)
[2013/11/25 23:09] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
私の文化の日(その2)
2013年11月21日の弊ブログに、

http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-719.html
文化の日には、我々も何か‘文化的な事’をと考えた結果、

① 曼荼羅の世界を覗きに行こう!

② 文化の象徴(?)である‘本’について、神田古本市を体験しよう!


という事になった。


と、書かせて貰った。そして、②の神田古本市の様子を体験した記事を先に書いた。

今日(2013年11月24日)は、① の‘曼荼羅の世界’を覗きに行った日(11月3日)の記事である。

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http://www.k3.dion.ne.jp/~kanzoin/
行き先は、慈雲山曼荼羅寺観蔵院・曼荼羅美術館。場所は、以下の通り。
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西武新宿線で井荻駅下車。歩きで約30分、やっと、上図の‘観蔵院入口’の交差点に到着した。

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2013年11月03日(文化の日)13:54

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この交差点が‘観蔵院入口’である。左折するといよいよ曼荼羅美術館である。

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ご案内が出ている。

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‘悉曇’は、‘しったん’と読む。

悉曇(しったん)とは日本に伝わった梵字の一種で「成就」を意味します。6~9世紀ごろにインドで使われていた「シッダ・マートリカー」という文字で、仏教とともに中国に伝わり、7世紀初期に日本に伝来したといわれています。日本で本格的に悉曇が学習されるようになったのは、弘法大師空海をはじめとする入唐僧が中国で学び、多くの梵語文献を持ち帰った平安時代になってからのことです。特に真言宗では悉曇を如来の真実語として捉え、種子(しゅじ)、真言(しんごん)、陀羅尼(だらに)を密教を形成する重要な要素の一つであると位置づけています。



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● 平成25年 第19回 仏画・悉曇特別展のお知らせ

 日 時:平成25年11月1日~5日 AM10時~PM4時(最終日はPM3時半まで)
 場 所:観蔵院曼荼羅美術館本館・別館・本堂・客殿
 入館料:無料

●住職からのご挨拶
 日本文化は、何といっても仏教が基盤です。日本文化のそのものを示す「仏画・悉曇展」は今年で第19回を迎え、内容も回を重ねるたびに質を高めるよう努力して参りました。
 今回も新企画を加え、皆様の満足できることを願い、真心をこめ準備をいたしました。人の心を豊にするためには、すぐれた文化に接することが大切です。開催期間中は様々な仏教文化に出会うことができます。多くの方々のご来山を衷心よりお待ちいたします。
                             観蔵院山主・小峰彌彦

●特別展示会
◇ 曼荼羅特集
  武蔵野大学寄贈 子島曼荼羅(金剛界)・別尊曼荼羅・その他
◇ 染川英輔画伯
  日本画作品展
  「幼年時代」「聖夜ーアッシヂにて」「聖母子」「夢」他
   作者の魂の記録として制作された日本画作品の数々を展示します。
  次作「壇の浦レクイエム」への習作
   「壇の浦真景図」「武者」「船」「顔」他
◇ 截金教室 最初の展示会

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ここが曼荼羅美術館への入り口。

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入口の正面。

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真言宗だから、弘法大師である。

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曼荼羅美術館、という立派な碑が建っている。

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恐るおそる入ってみると・・・

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本日の特別展に、大勢の人達が集まって来ておられた。言葉から、随分遠くから来られたのが判ったが・・・。

内部は、写真撮影禁止だったから、画像はないが、素晴しい仏画が数十点展示してあった。

‘悉曇(しったん)’は、梵字の一種というから、全く意味が判らない。ただし、この悉曇の技法にも色々あるらしく、何となく‘上手・下手’が判るのが面白い。悉曇で、般若心経が書かれていたが、これは素晴しかった!
写真撮影禁止なので、残念なのだが、どうして禁止なのだろうか?不思議である。何かに‘活用’されたって、よさそうなのに・・・。商品価値で禁止というのなら、本来の目的は?と聞きたくなる!

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さて、この碑には、‘真言宗’にとっては大事な中興の祖、弘法大師亡き後の‘腐敗’脱却に一命を賭した興教大師の怨念とでも言えそうなオーラが見える!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81
覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。
平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した。即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であるとした。
真言宗の教典中でも有名な『密厳院発露懺悔文』、空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として著名。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈」の著者でもあった。

経歴[編集]

生誕の藤津庄が京都仁和寺領であったため、13歳で仁和寺成就院へ入り、16歳で得度・出家。奈良東大寺等で学び、20歳で高野山へ入る。古式な真言宗の伝法の悉くを35歳の若さで灌頂し、空海(弘法大師)以来の才と称された。

36歳の覚鑁は、真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が跋扈する有り様であり、真言宗が腐敗衰退した現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
高野山金剛峯寺に大伝法院を建立し座主に就任したのを皮切りに、金剛峯寺座主にも兼ねて就任し事実上同山の主導権を制し、真言宗の建て直しを図るが、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に保延6年(1140年)に、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払い、さらに金剛峯寺追放を行った。

この時覚鑁の命を狙った刺客が、密厳院本尊の不動明王像の背後に覚鑁が潜んでいると判断し同像を切りつけたところ、像から血が流れたのを見て驚愕して引き上げ、覚鑁は辛くも一命を取り留めたという、有名な「きりもみ不動」伝説が生まれた。
この凶行に至る前に、覚鑁は権力の亡者と化した真言宗門徒の有り様を嘆き、密厳院において長期に渡る無言行を修し、直後に『密厳院発露懺悔文』を一気に書き上げる。堕落した僧界の現状を恥じる赤裸々な内容が壮絶な同経文は、「我皆相代わって悉く懺悔す、更にまたその報いを受けしめざれ」という贖罪の決意を明らかにした末文も相まって、現在も真言宗各派において宗教家の自覚を促し自戒する経文として広く唱えられる。

高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に根来山(ねごろさん)に移り、根来寺を建立、大伝法院や密厳院を移し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義を展開する。
康治2年(1143年)の覚鑁の入滅後、根来寺奥之院の霊廟に埋葬され、弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、再び根来山に戻り頼瑜を中心として覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を発展させていく。
後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺派)、真言宗豊山派、智山派の基礎となった。

江戸時代になり、ようやく新義真言宗は紀州徳川家より復興の許しを得て根来寺と共に復興、覚鑁は生前の功績を評価され興教大師の諡号を贈られた。現代では新義真言宗・真言宗豊山派・真言宗智山派で空海の宝号『南無大師遍照金剛』と一緒に『南無興教大師』を唱えている


宗教団体にしろ、政治団体にしろ、会社・法人にしろ、‘人の集団’では、いずれ‘内部抗争’が起き、崩壊へ繋がって行くのは、歴史が証明している。ただし、その集団には建て直しを図る大人物が現れて‘中興の祖’となる。

そんな生き様が、人間の歴史なのだろう。‘中興の祖’だけをピックアップして歴史を学ぶと、またそこから或る共通した‘教訓’を引き出すことが出来るのかも知れない!

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この画像の中心に・・・

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蜘蛛が・・・。

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お寺の境内に、何と‘レモン’の木が・・・。

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立派な‘青いレモン’が・・・。(緑色なのにどうして‘青い’というのだろうか?)

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参道・・・。

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背丈の高い木には、オーラがある!

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この木の一部腐食部分には、‘木の子’が・・。

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松の大木にも、何だか大きな‘ちから’が感じられる!

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こちらが、本来の入り口??

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あそこが曼荼羅美術館。

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これが正面だった。

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ここ、曼荼羅美術館では、こんな素敵なイベントも・・・。

この曼荼羅美術館で、ゲットした資料は次の通り。

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仏画の手ほどき書。

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‘曼荼羅’の意義とその構造については、別途調査して見たい。

(つづく)
[2013/11/24 23:42] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日(その2)
11月3日は、日本国では‘文化の日’として国民の祝日である。

文化と‘対比’されるのは、‘文明’であるが、今日は、その対比については以前にこのブログでも書かせて貰ったからこの事については述べない。

でも、‘文化’の定義的なことについてはこの際確認しておこうと思う。

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http://www.icis.kansai-u.ac.jp/institute.html

‘日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるものとされている’という事は古い昔何処かで聞いたことがある。
この際‘文化’という事に対して、一生に一度くらい、小難しいと思わずに‘Wikipedia’では、どんな記事になっているかぐらい読んでみたって罰は当たるまい!

そんな訳で、‘Wikipedia’での‘文化’を丸ごと転載して見た!

中国に起こった‘文化大革命’は、単なる政治的‘権力闘争’であって、真の‘文化’に関しては‘大革命’などという言葉とは、全く真逆な出来事で、これのよって中国は多くの‘貴重な’文化的遺産を消失してしまったのである。これについては、別途記事にしたい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C
%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD

文化

目次 [非表示]
1 文化の定義
1.1 概説
1.1.1 古典的・日常的な文化
1.1.2 人類学的文化
1.1.3 社会学的文化
1.1.4 考古学的文化
1.2 文化を担う集団
1.3 動物の文化
2 文化の発祥と伝播・変容
3 文化にまつわる議論
3.1 単一発展史観
3.2 環境に対する適応としての文化
3.3 文化についての語り
3.3.1 誰の文化なのか
3.3.2 文化の権利
3.4 カルチュラル・スタディーズ
3.4.1 未開文化の消滅
3.4.2 混血文化としての観光
3.5 多文化主義と文化隔離主義
3.6 文化資本と社会構造
4 ミーム
5 脚注
6 関連用語
7 外部リンク
8 関連書

文化の定義[編集]

概説[編集]

古典的・日常的な文化[編集]
ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化を示す技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである[2]。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語には、文化と区別される教養という語を日中独の言語のようには持っていないので、その間の区分が明示的でない。

人類学的文化[編集]
人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である[3]。
こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・タイラー(1871)の

広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである
— エドワード・タイラー, Primitive culture[4]


である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている[5]。
この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという[6]。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる[7][8]。

社会学的文化[編集]
出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた[9]。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている[10]。ハーバーマスは文化Kulturを「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている[11]。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティークSemantik、フーコーのアーシーブArchiveなどとも関連性が深い[12]。
文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。

考古学的文化[編集]
詳細は「文化 (考古学)」を参照

文化を担う集団[編集]
文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない[13]。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。
文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。
日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。
更に小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。

動物の文化[編集]
現在、文化の定義は人間のという限定を用いなくても、動物が持たないものになるように定義づけられつつあるため、結果として動物は文化を持たないこととなっている。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。
詳細は「文化 (動物)」を参照

文化の発祥と伝播・変容[編集]

ある特定地域の文化も、人々がそれを用いることが有益と判断すれば他の地域でも用いられるようになり、また伝播先の文化と融合して新たな文化を創造することもある。このような作用によって様々な文化が交じり合い、より高度な文化が創られてきたともいえるが、一方で自文化の変容に対しては反発もあり、各種の紛争の要因ともなっている。
例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、中央アジア諸国や東アジア諸国など周辺地域へと伝播していく(上座部仏教や大乗仏教も参照)。その後日本にも伝えられるが、当初はその受容につき激しく争われた(崇仏論争、仏教公伝も参照)。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、神道との融合なども行われた(神仏習合)。

文化にまつわる議論[編集]

単一発展史観[編集]
他の文化を貶め、自分の文化を至高とする思想は世界各地で見られるが、その偏見や差別を正当化するために、文化は異なる進歩の階層があり遅れた文化と進んだ文化が存在するという説が19世紀のヨーロッパの社会進化論を背景にとなえられた。現在遅れているように見える文化であっても、将来的には進歩するという考えである。植民地主義とともに、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させる(近代化)ということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出された。このような観点から、人間を動物園の動物のように見せる催しが流行した(人間動物園)。
後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。

環境に対する適応としての文化[編集]
文化人類学においてマイナー領域であるが、ネオ進化主義と呼ばれる立場(生態人類学)において、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する[14]。

文化についての語り[編集]

誰の文化なのか[編集]
女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。
このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。

文化の権利[編集]
ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。
近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に『発明』されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解[15]は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける[16]。
このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論した[17]が、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた[18]。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている[19]。
また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているという[20]ことが挙げられる。

カルチュラル・スタディーズ[編集]
詳細は「カルチュラル・スタディーズ」を参照
文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。

未開文化の消滅[編集]
人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会というみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として[21]、それに対して文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」[22]と区別した[23]。

混血文化としての観光[編集]
外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである[24]。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある[25]。
一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある[26]。

多文化主義と文化隔離主義[編集]
文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。
文化資本と社会構造[編集]
ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。

ミーム[編集]

「ミーム」および「ミーム学」を参照
ミームとは、文化を形成する情報であり、人の心から心へとコピーされる情報である[27]。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。
ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。
遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。

脚注[編集]

1^ 毎日新聞社編『話のネタ』PHP文庫 p.55 1998年
2^ 太田好信 『民族誌的近代への介入—文化を語る権利は誰にあるのか〔増補版〕』 人文書院、2009年。
3^ 祖父江孝男 『文化人類学入門』 中央公論社〈中公新書;560〉、1979年。
4^ E.B.Taylor (2007) [1871]. Primitive culture: researches into the development of mythology,philosophy, religion, art, and custom.. Kessinger Pub Co. pp. 1. ISBN 142863830X.
翻訳:E.B.タイラー 『原始文化』 比屋根安定訳、誠信書房、1962年。
5^ 村武慶 「文化の変動」『文化人類学』 村武精一,佐々木宏幹、有斐閣、1991年。
6^ クロード・レヴィ=ストロース 「言語学と人類学」『構造人類学』 佐々木明訳、みすず書房、1972年(原著1958年)。
7^ しかし大型類人猿が言語を学習できるということが知られるようになると、文化獲得における重要なイベントである学習を細分化して人間の学習(意図模倣)と動物の学習(単純模倣)をわけ、さらには教示の有無を問題にするという発想もでている。つまり動物が社会化のなかで獲得するふるまいは、単純模倣によってだけ獲得される伝統traditionであり、人間が言語や意図模倣、教示を通した社会化のなかで身につける文化という差異を創出して定義づけ、人間以外の動物には文化を身につけることは困難であるとするのである。
8^ 『心ところばの起源を探る: 文化と認知』 大堀壽夫, 中澤恒子, 西村義樹, 本田啓訳、勁草書房.、2006年。
9^ パーソンズ,T.(タルコット) 『文化システム論』 ミネルヴァ書房、1991年。
10^ Cf. タモツ・シブタニ著、2013年、木原綾香ほか訳「パースペクティブとしての準拠集団」Discussion Papers In Economics and Sociology, No. 1301.
11^ Habermas, Jürgen 河上倫逸ほか訳 (1985-1987) [1981]. コミュニケーション的行為の理論. 木鐸社.
12^ 高橋徹 『意味の歴史社会学─ルーマンの近代ゼマンティック論』 世界思想社、2002年。
13^ 文化 (動物)の芋洗いの項目を参考にせよ
14^ マーヴィン・ハリス 『ヒトはなぜヒトを食べたか—生態人類学から見た文化の起源』 鈴木洋一訳、早川書房〈ハヤカワ文庫—ハヤカワ・ノンフィクション文庫〉、1997年。
15^ Keesing,R (1989). “Creating the Past”. The contemporary Pacific 1 (2): 19-42.
16^ Trask,H-K (1991). “Native and Anthropologist”. The contemporary Pacific 3 (1): 159-167.
17^ マーガレット・ミード 『サモアの思春期』 畑中幸子, 山本真鳥訳、蒼樹書房、1976年(原著1928年)。
18^ デレク・フリーマン 『マーガレット・ミードとサモア』 木村 洋二訳、1995(原著1983年)。
19^ 池田光穂 「第5章 民族誌のメイキングとリメイキング― ミードがサモアで見いだしたものの行方」『メイキング文化人類学』 太田好信,浜本満、2005年。
20^ 太田好信 『民族誌的近代への介入』、2001年、298頁。
21^ The Predicament of Culture:Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 17
22^ The Predicament of Culture:Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 246
23^ 太田好信 『トランスポジションの思想 文化人類学の再想像』 世界思想社、1998年。
クリフォードの分類については太田(1998)の訳pp270を採用した
24^ 山下晋司「『劇場国家』から『旅行者の楽園へ』」、『国立民族学博物館研究報告』第17巻第1号、1992年、 1-33頁。
25^ 荒俣宏 『大東亞科學綺譚』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年。
26^ 山中速人 『イメージの楽園』 筑摩書房、東京、1992年。
27^ リチャード・ブロディ『ミーム―心を操るウイルス』講談社、1998年。


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http://japanecho.net/jp/topic/0107/

ここでは、人間の外には、動物にも‘文化’が存在するとの暗示がなされているに過ぎないが、当然動物も‘文化’を持っているし、植物だって持ってる!松枯れは、松が伝染を防ぐための防護策を持っている話は有名であり、これぞ‘文化’である。これは後日詳細に!

(つづく)
[2013/11/23 23:21] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
会社の有志会とその街の変貌!
今日、2013年11月22日(金)は、会社の‘有志会’を開催するので、‘古巣’へご集合願いたい旨のご案内を約一ヶ月前に頂戴していた。

その時の返事に、
「もしも、まだ寿命があれば、当然参加させて戴きたい。その時死亡していれば‘化けて’でも参加したい!云々」
と書いて返送していた。

最近は、明日何が起こるか判らない!自分自身の所為だけではなく他人様から或いは何らかの‘不可抗力’のために死亡するなんてことは日常茶飯事というところまで来ているから、油断が出来ない!

幸い今日まで生き延びているから、是非参加しようと、古巣の職場へ向かった。

入社したのは、昭和42年(1967年)4月だから、46年が経過している。入社後直ぐに‘新入社員教育’で東京・調布市の訓練施設に、多分2ヶ月ばかり入れられたから、職場に配属になったのは、6月の始めだった。
場所は、武蔵野市である。当時、住宅事情は当然今より厳しかった!

新入社員は、当然独身寮に入れて呉れるのだが、東京都の一番西で、ちょいと行けば山梨県という青梅市のそれも一番西で、今の‘JR東青梅駅’から歩けば、約40分は掛かろうと言う山奥だった!
夜21時を過ぎるとバスは、もう通わない。新入社員がタクシーという訳にはいかないから、みんな‘テクシー’だと言って夜の真っ暗な道を毎晩歩いたものである。

よくも‘暴動(?)’が起きなかったなあ、と今から思えば‘新入社員’は、従順なものである!
毎朝6時には独身寮を出なければ、武蔵野市の職場には朝8時には着けない!
新入社員が、始業時の8時半にのこのこ到着すると言う訳にはいかないからである。

高度成長時期で、中央線・三鷹駅で下車するのだが、この時の‘超満員’の凄さは、「‘カバン’は手を離しても落ちない!」くらいのぎゅうぎゅう詰めで、これは比喩ではなく本当に落ちないのである!

職場に着けば、20歳代の若者と言えど、それはもう、朝の力仕事を十分こなした後のようで休憩が必要だった。

しかし、素晴しかったのは、土曜の半ドンと日曜日である!
土曜は早く帰れば夕方には、空気の綺麗なところで夕日が拝めるし、日曜日は、そのまま‘山小屋’気分である!
この一日半で、元気は回復した!

そんなこんなの思い出が深い‘三鷹駅’!
ここ数年、いやもっと6~7年は、ご無沙汰をしていたから、やはり三鷹駅周辺の変貌ぶりには驚かされた!

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2013年11月22日16:24 JR三鷹駅北口前
懐かしい場所だから、目的地まで歩くことにした!凡そ30分の道のりである。

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長崎平和記念像を作成された北村西望のブロンズ像がJR三鷹駅北口の前にある!

3月13日-世界連邦平和像-長崎の平和記念像で知られる北村西望氏制作のブロンズ像
http://musashino-cotswolds.jimdo.com/%E3%82%80%E3%81
%95%E3%81%97%E3%81%AE365%E6%99%AF-1/%E3%82%80%E3%81
%95%E3%81%97%E3%81%AE365%E6%99%AF-%E2%85%A1/

世界連邦平和像(長崎の平和記念像で知られる北村西望氏制作のブロンズ像)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E8%A5%BF%E6%9C%9B
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、日本の彫刻家。本名は、北村西望(きたむら にしも)。

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http://www.j-reimei.com/seibokanzeon.htm

日本を代表する美術家の1人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は有名。文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では彼の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞(単に『西望賞』とも)」の名を冠している。

1953年(昭和28年) - 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設


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こんな高層ビルは、6~7年前にはなかった!

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この通りは、三鷹駅北口から真っ直ぐに北に向かっていて、バスの数が‘メッチャ’多いことで知られていたが、今でもその傾向は変わらない!

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警視庁・武蔵野警察署。この玄関(入口)は、ずいぶん立派になった!

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武蔵野市役所。ここへ到着したのが、16:47だから、三鷹駅を出発して、ここまで‘23分’掛かったことになる。

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奥に見えるのが、目指す元職場!

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16:54 到着!ジャスト‘30分’である。途中の道々、あれは確か000に違いない等とその‘変貌ぶり’に感心しながら歩いてきた!我々が務めていた時代には、こんな立派な建物はなかったのだが・・・。

‘有志会’の模様は、割愛!

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20:32 三鷹駅北口へ戻って来た!帰りはみんなでバスに乗って・・・。 何と、もうクリスマス気分である!

(つづく)
[2013/11/22 23:31] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
私の文化の日
‘文化の日’の由来が、日本国憲法にあったとは知らなかったが、そう言われてみると、公布(発布)から施行までに半年の期間があることに気付けば、憲法記念日と文化の日が‘無縁’であるという事にはならない、と気づくべきである!

そして同時に、日本国憲法の精神が、「自由と平和を愛し、文化を進めることにある」という事にも気付いておくべきであることを再認識させられた。

そこで、文化の日には、我々も何か‘文化的な事’をと考えた結果、

① 曼荼羅の世界を覗きに行こう!

② 文化の象徴(?)である‘本’について、神田古本市を体験しよう!

という事になった。

① の曼荼羅の世界については、後日報告することにする。

さて、曼荼羅のお寺を拝見して、多少消化不良気味ではあったが、それなりの満足感はあった。そして、神田古本屋街に着いたのは、もう日暮れも近い時刻であった。

今想い出しても可笑しいのだが、九州の田舎から東京へ出て来て間もなく、そう、もう45年の前の事なのだが‘神田古本屋街’へ行こうと、何も調べずに‘神田駅’に着きさえすれば、‘古本屋街’なんて直ぐそこにあるに違いないと思って出かけたのである。

ところが、国鉄・神田駅(当時)を降りて、周辺を歩き回ったが、古本屋さんなんて一軒もない!
とうとう、恥ずかしながら‘交番’で聞いてみると、それは‘神保町’だと教えて呉れたのだが、そこへの行き方がまた判らない!

こんな時には‘タクシー’に限ると御厄介になった!
「神保町のどこですか?」と運転手さん。
「ええっと、ほらあの交差点の・・・」と私。
「御茶ノ水駅から降りて来たところの交差点?」
「そうそう!」

こんなことでその時、やっと神田・神保町の古本屋街に着いたのである!

こんな昔話をカミサンにしたら、
「へえ~!JR神田駅の近くじゃあないの?」
というから、彼女は、まだ私の45年も前と同じ状態なのである!

http://www.tokyoguide.net/spot/199/
神田神保町古書店街とは

神田神保町古書店街 神田神保町古書店街は、世界最大級といわれる古書店を中心とした書店街。秋の読書週間に催される「神田古本まつり」は名物となっている。
約180にも及ぶ書店が軒を連ねる。専門店も多く、音楽・近代文学・美術・漫画・演劇などありとあらゆるジャンルが揃う。
主に靖国通り沿いにあり、一部は白山通りの水道橋方面にもある。本を求めて訪れずとも、ただ眺めて歩くだけでも楽しめるスポットである。



そんな訳でJRで言えば、神田駅よりもお茶の水駅の方が近くて判り易い!
御茶ノ水駅に着いたのは、文化の日・11月3日の16時を廻っていた。

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およそ、一時間弱古本屋さんの‘文化’に浸って、ゲットした本、二冊の内の一つ‘800円也’の本(?)が下の‘墨絵’画集である。

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当時、2,700円もしたらしい!(800円でゲット!)

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今後の‘仏画’に活かせるといい、とカミサンが言っている。一寸は‘文化’の匂いはするのかも??

(つづく)
[2013/11/21 23:25] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日
11月03日は、‘文化の日’で、国民の祝日であることも皆知っている。

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http://tokuhain.arukikata.co.jp/seattle/2012/11/post_79.html
「11月4日の日曜日、ワシントン州日本文化市民会館(JCCCW)で文化の日のイベントがあり、行って来ました。」とコメントがあり、この画像のタイトルが‘postcard’となっているところを見ると、「毎年文化の日に一番近い日曜日に行われているこのイベント」への参加を呼び掛ける案内のハガキのようである。アメリカでの‘日本の文化’の象徴がこの図柄なのだろう。

このように、アメリカでも‘文化の日’に一応注目している様子が窺えるが、しかし、何故、その日が‘文化の日’なのか? どんな理由で、そうなったかを正確に何も見ないで‘解説’出来る人は、多分‘1%’もいないのではないか、と思われる。

‘もち’、私もそうなので、例の如く調べてみた!

先ず以って‘ややこしい’のが法律用語である。しかし、我々は‘法国家’に身を委ねている以上、‘ややこしいから知らぬ’と言ってはならない!

小学校の時から気になってはいたが、「5月3日の憲法記念日は、半年前の11月3日が、憲法‘発布の日’で、‘施行’が、5月3日である」のは何故か?

今では、‘発布の日’と言わずに‘公布の日’というようだが、その使い方も専門的にはいろいろ理由があるのだろう!辞書で‘発布’を調べてみると『(法律などを)世に広く知らせること。公布。「憲法ー」』とある(CACIO EX-word)から、きっと‘発布’と‘公布’は同じものなのだろう!しかし、私が小学校で教わったのは‘発布’だった!(えこじ!)

この事に関しては、次のような解説がある。

http://uno.law.seikei.ac.jp/~annen/conhoron.html
法令の「公布」と「施行」という言葉の意味について

 「公布」とは、成立した成文の法を公表して、一般国民が知ることのできる状態におくことをいう。日本国憲法の場合、「法律」については、両議院が法律案を可決した場合に法律として成立する(憲法59条1項、百選213事件)。日本では、法律案が国会の両議院で同時に審議されることはなく、甲議院が可決した法律案を次に乙議院が可決するという手順を踏むので、「両議院が法律案を可決した場合」とは、後議の乙議院が法律案を可決したその瞬間に、という意味になる。法律として成立しただけではまだ公布があったとはいえない。法令は、それが所定の手続を踏んで成立しても、公布されなければその効力を生じない。公布以前には、一般国民はまだその法令の内容を知らされていないはずであり(それは、法理論的なフィクションである場合もあるが)、まだ内容を知らせていない法令によって国民を拘束することはできないからである。ただし、公布されただけで、施行されていない状態では、当該法令はやはりいまだその効力を生じない。  日本では、伝統的に、公布は一つの行為であると考えられてきた。日本国憲法の公布は、公式令の規定に従ってなされた。将来、日本国憲法自体が改正された場合には、憲法96j条2項、7条1号の規定によって、天皇がこれを公布する。  また日本国憲法によれば、憲法改正のほか、法律、政令、条約の4つの法形式を公布するのは天皇の国事行為とされている(7条1号)。もっとも、天皇には公布を拒否する自由はない。  ところで、日本国憲法には、上記の諸法形式の公布をする権限が誰にあるかについては規定があるものの、その公布をいかなる手続と形式とによって行うかについては規定がなく、憲法以外の法令にもこの点についての規定はない。公式令には、この点についての明確な規定があった(12条)。  判例は、公式令廃止後も、法令の公布は官報に登載することによってなされるべきだと述べている(百選214事件)。もっともこれは、公布の手続・形式について明文で規定した法令が存在しない間は、官報に登載することによって公布をなしたといえるという趣旨であって、官報に登載する以外の方法で公布することを規定した法令が制定された場合にその規定が憲法に違反するという趣旨ではないであろう。  法令の公布が官報に登載することによってなされるべきであるとしても、官報を印刷しそれを配布するには、一定の時間を要し、かつ、配布には地方によって時差を生じ得るから、次に、どの時点をとらえて官報による公布がなされたというべきかが問題となる(百選215事件)。この事件では、当該法律が公布の日から施行すると定められていた。

 これに対して、法令の「施行」とは、当該法令の規定の効力を現実に一般的に発動させることであるが、公布と異なり、特別の行為は要しない。日本国憲法については、100条1項が、「公布の日から起算して6箇月を経過した日」を施行日と定めている。法律の施行については、法例1条に原則的規定があるが、実際には、ほとんどの場合、当該法律自体に施行日に関する何らかの定めがある。


さて、‘文化の日’もこの規定から、勿論逃れることは許されない。

その経緯は次の資料に明記されている!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%97%A5
文化の日(ぶんかのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月3日。

歴史[編集]

文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。

<11月3日は>1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。

休日としては、1873年(明治6年)に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911年(明治44年)までは天長節、1927年(昭和2年)に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。

文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる[1]。

一方、祝日法制定当時、参議院文化委員長として祝日法制定の際中心的役割を担った山本勇造が政界引退後に書いた当時の回顧録「文化の日ができるまで」には明治節に関する記述は一切ない。山本によれば、元々、憲法発布は11月1日の予定であったが、施行日がメーデーと重なるという理由で直前に11月3日に変更されたのだという。山本ら参議院側は11月3日を憲法記念日とすることを強硬に主張したが、GHQ側が、11月3日だけは絶対にだめだと主張し、衆議院が5月3日を憲法記念日とすることに同意してしまい、参議院側が孤立する事態になった。そのとき突然GHQ側から、憲法記念日という名でない記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたという。


つまり、話を纏めると、

『憲法記念日が、5月3日に決まった。そして、その憲法の精神が‘「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている’ことから、憲法施行の日、つまり‘憲法記念日’の半年前の‘憲法発布(公布)’の日を憲法の精神に則って‘文化の日’とした』

という事のようである。

いやいや、聞いてみなくては判らぬものが沢山ある。

因みに、‘施行’という文字の意味も次のように沢山あるからご注意を!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A1%8C
施行

施行(しこう・せこう) - 成立した法令を発効させること。この項で述べる。
施行(せぎょう) - 仏教において布施行を行うこと。
施行(しぎょう) - 中世日本において命令や判決を実行させること。遵行とほぼ同義である。→施行状


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http://www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?v=cap00&p=0
これぞ、文化にふさわしいかも?

(つづく)
[2013/11/20 23:05] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京スカイツリーの‘天望回廊’
2013年10月30日の同窓会が一応お開きになって、みんなで‘東京スカイツリー’へ行ったのだが、2時間待ちでは話にならぬ、という訳で見上げるだけで帰って来た!

そこで、写真だけは思う存分撮って来たのだが、気が付いたことがある。ただし、「一寸変だぞ!」と気付いたのは、私が東京スカイツリーのことを余り知らなかったからだから、のようである。

‘問題の写真’が、これである。

画像ー186 128-2
2013年10月30日15:41
「何だか変ではありませんか?」展望台の下にある‘回廊’(これが‘回廊’であることは後で知った!)が、地表面に対して‘平行ではない’から、何となくアンバランスで、落ち着かないのである!

そこで、この‘天望回廊’(これも後で判った!)について調べてみた。

http://www.tokyo-skytree.jp/floor/2nd.html
地上450mの空中散歩

地上450mの「東京スカイツリー天望回廊」では、チューブ型でガラス張りの回廊が続き、まるで空中を散歩しているような感覚を味わいながら、フロア445からタワーで最も高いフロア450へみなさまをご案内します。フロア450には東京スカイツリーの展望施設の最高到達点「ソラカラポイント」があります。


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天望回廊の造り方まで公開してくれる資料がある!
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http://www.obayashi.co.jp/news/skytreedetail24
東京スカイツリーには2つの展望台があります。空に近い方、地上450mの「東京スカイツリー天望回廊(第2展望台)」の外周には、らせんを描きながら緩やかに上のフロアに続く「天望回廊」と呼ばれるチューブ型でガラス張りの通路があります。
今回はこの天望回廊のつくり方をご紹介します。


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天望回廊はすり鉢状に張り出した形状のさらに外側に付いています。上に広がっている形状と450mの高さという条件から作業の安全性と効率性を考慮し、地上であらかじめできることはすべて行ってから取り付けます。

個別ブロックの組み立て(地組み)
鉄骨・外装材の個別ブロック組み立て(地組み)
天望回廊は全長を22個の個別ブロックに分割して取り付けます。

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まずは地上の作業ヤードで、構造体の鉄骨と外装材(サッシュ枠や外装パネル)を一体化させた個別ブロックを組み立てます。

一体化させる個別ブロックの組み立て作業は、取り付ける勾配に合わせ、専用の架台の上で行います。

また、高所での取り付け作業を安全に行うため、個別ブロックには外周部の安全ネットや足場などの安全設備もあらかじめ取り付けてから吊り上げます。


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天望回廊の個別ブロックを地上で組み立てる様子

これで、なるほど!である。

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http://gabuneko2.blog59.fc2.com/blog-category-6.html
天望回廊

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http://tokyonightfall.com/data/tokyo/TSTkairo/TSTkairo.html
夜の天望回廊

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天望回廊の先から見た風景
東京スカイツリーの天望回廊を上りきった先から見た風景です。
450mから見た東京はキラキラしていました。少し下に、回廊の下の階が見えます。


これで、天望回廊の‘謎’が大分解けた!

(つづく)
[2013/11/19 23:54] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
同窓会とスカイツリー(その2)
(つづき)

そんな訳で、2013年10月16日の同窓会が10月30日に延期になって、10人が集まり、無事宴会が始まったのである!

70歳過ぎた同窓会の話題

① 持病の話(80%)

② 孫の話(15%)

③ ゴルフの話(5%)

何と自分の持病の話ばかりである! でも、みんな「ホー」といって聞いている。身に覚えのある話だから関心があるのだろう。

同窓会の写真だから顔が映らない写真は意味がない。だから、そんな写真は撮っていないから、ここに宴会の様子をご披露する訳にはいかないのだが・・・。

雰囲気だけでも・・・。

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‘あっぱれ’幹事さんも心得たもので、70歳半ばの爺が、そんなに大酒・大食いでもあるまいと‘上品な’メニューにして呉れている。したがって、悪酔いする奴もいない。

開始時刻が12:30で、それから約2時間半、集合記念写真を撮ってお開きとなった。

勿論、その後は、お待ちかねの‘スカイツリー’である。

「スカイツリーに昇った人!」といわれて手を挙げたのはたった一人だけ。

15時過ぎはまだ日暮れには時間があるから、みんな10人がぞろぞろとスカイツリーへ向かった。
九州や関西からはるばるやって来た連中は、やはりスカイツリーに昇りたいと言う。

そりゃあそうだろう。この後いつになったらまた東京に出て来れるか判らないからである。
先ずは、スカイツリーを見るベストスポットへ私が案内した。
それは、昇りはしなかったが、何度かスカイツリーの廻りを巡ってベストスポットを探していたからである。

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2013年10月30日15:39
多分、夕刻の場合、ここが、ベストスポットである。そして、電車とスカイツリーを同時に撮影するのがベストタイミングと言われているが、その通りになった!

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同級生を入れて・・・。

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川に映るスカイツリー。

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こうなると不気味でもある! 「これって何でしょう?」というクイズに使えるかも?

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この川には、こんな素敵な船がある! 来年の同窓会は、「‘これ’にしようや!」と話が纏まった!

この際、ベストスポットからのスカイツリーを、部分部分ズームで撮ることとした。

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展望台の部分・・・。

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天空回廊の部分。 おやおや? 回廊の部分が‘平行に’なっていない!‘スパイラル’なのは何故??

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2,000人収容出来るという下の展望台・・。

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この写真は、ベストスポットから約10分掛かってやっと辿りついた‘展望デッキ’入場エレベーター付近から見上げた画像!

昇りたがっているお客さんが一杯!こりゃあどうやったら昇れるのかと皆心配しだした!
どうやら整理券があるらしい。それがこれである!

パンフ

これは、‘当日入場券を購入するための整理券’であって、我々がここに辿り着いてこの整理券を‘確保’したのが、16:00丁度。この整理券をよ~く読むと、どうやら、昇り始めるまでに約2時間が掛かるという結論になった!

これじゃあ、いくら暇な奴だって待ち切れない! この整理券を持ち帰って‘昇らなかった’言い訳にすることで、みんなの意見が一致した!

それにしても、予想以上の混雑ぶりである。10月30日は、水曜日である。土日や祝日は一体何時間待ちなのだろうか?

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背景は、アサヒビール本社の建物である!

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バルーンが飛んでいる!

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拡大。

それでは、昇れなかった人のために、展望台からの動画を・・・。


https://www.youtube.com/watch?v=ghsxaxh8vWg
東京スカイツリー展望台からの下界の風景11月 2日, 2012年

(つづく)次回は、‘天望回廊’について
[2013/11/18 23:34] | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
同窓会とスカイツリー
2013年10月16日。この日は、半年も前から企画されていた学校の同窓会の日であった!
元々産まれが九州人という人が90%を占める学校の同窓会なのだが、卒業が昭和39年だから、既に49年が経っている。

昭和39年に故郷を離れて、全国に散らばったと言う事は、故郷で生活をした期間よりもそれ以外の場所で生活した期間の方が長いことは当然として、70歳も半ばに差し掛かっている訳であるから、それぞれ自宅を構えてからだって、既に1/4世紀を越している人ばかりである。

そんな訳で、もう随分前から、故郷の九州と‘縁’が切れてしまっている人も多い。

さて、その同窓会の日、10月16日、会場は色々な意見を総合して幹事が東京は墨田区の或る‘割烹屋’さんに決めた。勿論、昨年5月に開業した‘スカイツリー’も場所決定の動機の中に入っている。

多分に‘この世の見納め’の一つに‘スカイツリー’を入れておきたいと思う人が多いのではないかという幹事役の配慮でもあったのだろう。みんなこの提案に賛成した!勿論九州に残った人もいるのだが、全国から集まるのには、交通の便等も考慮すれば、それは東京がいい。

ところが、ご承知の通り、10月16日は、関東地方は、数日前から台風26号が吹き荒れて、当日は飛行機は勿論飛ばないことも、交通機関の乱れも数日前から予測出来たのである!

実は、今回の‘あっぱれ幹事殿’は、技術屋として超一流大手企業に就職していたのだが、そんな幹事役をこなしていたとしか思えない‘鮮やかさ’で、割烹屋さんと‘予備日交渉’をしていたのである。
「16日が駄目になった時は、30日に」!何とこの交渉成立のお蔭で、無駄に諸経費を払わなくて済んだのである!

「‘あっぱれ’をあげて下さい!」 みんな同じ気持ちだった。

という訳で、2013年10月30日 は、晴天に恵まれ、スカイツリーも微笑んで呉れた記念すべき同窓会と相成ったのである。

卒業生の数は、約25名。その内‘7人が物故者’というから、残りの約18名の内、天皇陛下ご主催の‘秋の園遊会’のリハーサルがあると言う事で一人が抜ける。そん訳で、約18人中10人が出席という事になった。何故‘約’というかというと、落第して一学年下がった御仁や一学年上から落第して一緒になった御仁の‘入り乱れ’で、必ずしも昭和39年に卒業した人達ばかりではないからである。

集合時刻は、12:30。

私は、少し早めに自宅を出て、朝の‘スカイツリー’を撮影しておこうと思ったのである。この日は、数日前から東京は、季節外れの‘寒気’に襲われていたのだが、その前の日から急に気温が上昇して、晩夏を想わせる陽気となった。

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錦糸町駅付近の錦糸公園から見た‘スカイツリー’。

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錦糸公園内では、この陽気に乗じて‘花見’ならぬ‘芝生遊び’のためなのだろう親子連れが見られた。

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こちらもそうである。

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これは、JR錦糸町駅から、約10分程四つ目通りを歩いてスカイツリーがよく見える場所からの画像である。

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我々の会場は、この春日通りを約1.5km西に向かって歩いたところにある‘割烹屋’さんである。

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春日通りを歩き始めたとろろで、面白い被写体が・・・。TVのアンテナに乗っかっている!

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これは多分、春日通りで一番よくスカイツリーが見えるスポットに違いない!

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これが‘割烹屋’さんの入り口。

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洒落た上り階段が付いている。

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宴会座敷の入り口。

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置き物も、スッキリと。

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まだ、料理は出ていない。

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2013年10月30日12:43 顔に自信のある奴はいないから、PCで少し暗くして・・。これが生き延びて来た同期の桜である!その数10名。勿論私も入っている!右後ろには、スカイツリーが・・。

さあ、これから宴会が・・・。

(つづく)
[2013/11/17 23:57] | ビジネスと経済 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
深まり行く秋の風景(その3)
2013年11月13日は、朝から快晴で、前日の放射冷却が効いて、気温が4℃以下になったのだろう‘霜’が降りた。それが‘初霜’だったかどうかは知らないが・・。深まり行く千葉県・茂原市・千沢地区の‘秋の風景’である。

この千沢地区を流れている‘赤目川’の付近には、多分、餌となる生きた小魚やカエルなどが沢山生存していると見えて、シラサギやアオサギといったサギ類や‘鵜’(これは、川鵜であって、海鵜ではない!<http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-490.html>)が帰って(?)きた。

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2013年11月13日08:23

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‘帰ってきた’と表現したのは、夏の間には‘鵜’をついぞ見なかったからである。川鵜は‘渡り鳥’ではあるまいから、夏の間に何処かへ行っていたというのも考えにくいのだが・・・。

ところが、ところがである!‘知らないこと’は恐ろしい!
川鵜は、ナント‘漂鳥’という部類に入る鳥らしく、

http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%BC%82%E9%B3%A5
漂鳥(ひょうちょう)は、暑さ、寒さを避けるため、夏は山地、冬は平地、と言うように繁殖地と越冬地を区別している鳥


繁殖のために夏場は‘山地’へ行っていた、ということらしい。

な~るほど! 夏場に赤目川付近で‘川鵜’を見なかったというのは、私の思い違いではなかったと思われる!
つまり、夏は涼しいところで産卵子育てに励み、冬場は温かい平地で越冬、という訳である。そう言えば、何となくここ越冬の地で見る川鵜には‘子供’の、つまり‘小型’の川鵜を見ないのはそのためなのだろうか? 繁殖地で卵から孵った‘小鳥’は、越冬地に着くころにはもう大人並みの大きさになっている、とそう思えば納得が行くのだが、果たして??

‘川鵜’の漂鳥行動’は‘海鵜’にはない習性なのだろう、多分! 
それじゃあ、このことでも‘川鵜’と‘海鵜’の区別がつくではないか!
あんなに大騒ぎをして、両者を区別しようとして努力したのに・・・。

得意の(?)‘Wikipejia’で、‘海鵜’を調べてみると、‘留鳥’とある。やっぱり、予想通り!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%A6
海鵜:日本では、九州以北の海岸で局地的に繁殖し、繁殖地付近では留鳥として周年生息する。それ以外の海岸には越冬のため冬鳥として飛来し、南西諸島まで記録がある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E9%B3%A5
留鳥(りゅうちょう)は、年間を通して同じ場所に生息し、季節による移動をしない鳥。ただし、同じ個体が同じ場所にいるわけではなく、繁殖した個体が他へ移動した後に、他で繁殖した個体が飛来している可能性もある。例えば、一般に移動をしないと考えられているスズメの場合、新潟県で足環をつけられた個体が、岡山県で回収されたことがある。


そんな訳で、また一つ知識が増えた!

後は、11月13日の朝であった‘川鵜’の様子をご覧あれ!

結論:川鵜は、漂鳥。海鵜は、留鳥。

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(つづく)
[2013/11/16 23:58] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
深まり行く秋の風景(その2)
深まり行く秋の風景(その2)

夏の季節が今年は長く続いたために、秋の季節が短い。急に夏から初冬に季節が流れて呉れると困るのは老人である。
体調が、すんなりと季節の急な変化に追随出来ないのである。

動物達だって戸惑っているに違いない!
そんな訳で、‘キッと’一日で所とになった感じの朝、千葉県茂原市・千沢地区と千葉県・白子町との境界付近を流れる‘赤目川’におり立っている‘鷺の群れ’をカメラで追ってみた。

赤目川というからには、‘赤目’とい魚が昔はいたのだろうか?

IMG_0916_1.jpg
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/bgjkn885/view/200710?.begin=6
赤目魚

それはともかくとして、2013年11月13日の朝は、雲一つなく晴れ上がって、前夜の放射冷却のお蔭も手伝って急に初冬の雰囲気になった。

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これが赤目橋である。この立て看板が、茂原市と白子町の境目で、画面の向こう側が茂原市で、手前側が白子町である。

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赤目橋は、南北に掛かっており、こちら側は‘西’側である。つまり富士山が見える方向。

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こちらは‘東’側で、つまり太平洋の方向である。

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2013年11月13日08:47 西側にアオサギがいた!

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拡大。

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これは橋の下にいたアオサギ。

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‘川を守ろうや!’という看板。ここに書かれている‘南白亀川’は‘なばきがわ’と読む。

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シラサギとアオサギが混じり合っている。

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部分拡大。一寸雰囲気が変わる。

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手前にいたアオサギが、突然飛んだ!

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部分拡大。ツルではない!アオサギである。

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このシラサギの雰囲気がいい!

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このシラサギのお蔭で、普段はそうでもないのだが、赤目川が‘清流’に見える!
シラサギやアオサギは、どうやって冬を過ごすのだろうか?

(つづく)
[2013/11/15 23:23] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
深まり行く秋の風景(その1)
2013年11月13日は、久し振りに‘快晴’となった。そのお陰で、今季初の冠雪富士山を拝むことが出来たという記事は、昨日書かせて貰った。

富士山ばかりが、ハッキリ‘コントラスト’よく見えた訳ではない。
空気が澄んでくると、あらゆるものが‘透明感’を持って見えて来る。

今ではそうでもないのかどうかは知らないが、昔、芸術家、特に‘画家’は、皆‘パリ’に集まった。
それは、‘パリの空気’の‘質感'が他の何処とも違うからだ、という事が書かれた文章を見たことがある。

なるほど、画家という事を目指す人は、それ程物を見る‘眼’が違うのかと感心したことがある。
富士山から遠く離れたここ千葉県は茂原市からでも富士山が見える時期があると言う事は、‘空気の質感’が季節によって違う事を証明している。

浅薄な人程、一度パリやロンドンに行ったことがある程度で、パリやロンドンの評価をしたがるものである!
「あそこは住めるところではない!」等とそこに長年住んでいる人だって評価が違うのに、そんなことを‘真顔’で仰ることがあるから注意が必要である。

さて、それで11月13日の空気が澄んだ日の出来事は、どんなことかと言えば、「早い話が‘ええっと、それは・・、ええっと・・」ちっとも早くね~じゃぁねぇか!

富士山を見に行こうと我が家を出た途端に目に入って来た鮮やかな‘風景’(?)とは!

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2013年11月13日08:16 すなわち、NHKの朝ドラが終わって直ぐという事になる。お隣の‘Y’さんちの‘ゆず’が、青空に映えて、透明感のある‘ゆず’になっているのである!

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ズームして見れば判る!

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これでもか、これでもか!

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こんな素晴らしい色の‘ゆず’にはお目に掛かったことがないが、これも空気の質感がそうさせるのであろう。
そう、同じ‘リンゴ’を日本と‘パリ’で見た場合に‘リンゴ’が違って見えるという、‘あれ’である。

実は、一昨日は夜半から雲一つなく放射冷却で、昨日の朝は相当に冷え込んでいたから、きっと‘草むら’には‘霜’が降りているに違いないと思って、角を曲がると案の定・・・。

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2013年11月13日08:17 午前8時を廻っていたから、朝日が射し始めて数時間が経っている。それでもまだそんなに気温の上昇はなかったと見えて・・・

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草むらは‘真っ白’とまでは行かないまでも、‘霜’が残っている!

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ズームインすると・・・、‘まだ’霜である!

さてさて、その角を曲がって‘赤目川’の土手へ急ごうとしたが、目に止まったのは‘旬の菊’(春菊ではない!)である。道端にまでせり出している。

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2013年11月13日08:19 

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丁度日陰になっている場所なのだが、こんなにも鮮やかに見えるのである!

そして、そして、遂に‘富士山定点観測地’、<土手ポイント>に到着した!ここからの富士山の眺めは、昨日の弊ブログで・・・。

土手から赤目川の水の流れを見て‘驚いた’!
これまで見たこともない程‘水が澄んでいる’のである!こりゃあ一体何故??

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2013年11月13日08:21 

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ズームにしてみると、水が澄んでいることがよ~く判る!

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更にPCで拡大!

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別の場所でも水は澄んでいる。この地へ移り住んで19余年!こんな‘清流’状態にお目に掛かったことは一度もない!

こちらは、上の写真の場所の直ぐそば・・。

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2013年11月13日08:22 ここも勿論水が澄んでいる。多分一夜にして水が澄んだに違いないが、「一体なんで、そうなるの?」

画像ー188 029-2

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これが年がら年中続いたら、日本一の清流・四国の‘四万十川’に‘劣るとも優さらない’程度の第二番目清流として、売り出せる可能性だってあるに違いない!

たったこれだけの気温変化と季節の移ろいが、空気と環境に変化を齎すのである!

この後更に驚きが、この清流・赤目川で!

(つづく)
[2013/11/14 23:38] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今季初、冠雪富士山が直接見えた!
2013年11月13日は、一ヶ月前には30℃を越す真夏日だったことが遠~い昔のように思える程気温が下がった!

でも気温の降下でいいことがある。
それは、千葉県茂原市の我が家の付近から‘富士山’が拝めるのである!

夏の間は、空気中に‘水蒸気’が多いため、遠く離れた富士山は‘煙って’見えない。
しかし、とうとうやっと富士山が見える季節がやって来たのである!

ただし、冬の間でも昼間は中々見えづらい。それは、やはり気温が上がってくると空気中の水蒸気が増すために見通しが利かなくなるからである。

朝は、午前10時頃まで。そして夕方、日が落ちそうになって寒さが身に沁みる午後4時以降~日没後15分間に富士山が見えると言う寸法である。

そんな訳で、今朝富士山の定点観測場所2ヶ所へ行ってみた。

それには訳があって、実は、今朝のNHKのニュース番組で、「今日は、雲一つなく東京から富士山がよ~く見えます」と言っていたのである。

画像ー188 001-2
2013年11月13日のNHKの朝のニュースの画面。

画像ー188 001-3
部分拡大。

これじゃあ、きっと、千葉県茂原市千沢の‘例の場所’からも見えるに違いない!という訳で、NHKの‘朝ドラ’を観て、カメラ片手に‘富士山スポット’へ小走りで向かったのである。

見えた、本当に見えたのである!

画像ー188 021-2
2013年11月13日08:20 ここがスポットの一つ<土手スポット>である。この画像の中心に見えたのである。

画像ー188 023-2
望遠で拡大。これでも、まだ余りハッキリしないので、PCで処理を・・・。それが下の画像である。

画像ー188 023-3
冠雪した富士山が・・・。

このスポットからは、富士山は見えはするが、‘素晴しさ’は、「日光の手前」の‘いまいち’!、である。

赤目橋のスポット<橋スポット>の方が、‘電線’が見えはするが、‘より素晴らしく’見えるスポットなのである!

定点観測場所
この印の場所が、赤目橋スポット<橋スポット>である。

画像ー188 058-2
2013年11月13日08:31 この画面中央の奥が富士山なのであるが、この画像からは確認出来ない。

画像ー188 059-2
中途半端なズームでは、まだ確認出来ないが、勿論、人間の目では確認出来ているのである。

画像ー188 060-2
これまで拡大すると、画面の中央に富士山らしきものが確認出来るのであるが、‘困ったことに’今年の春以来、丁度富士山の‘ど真ん中’に‘木’が‘育ってしまっている’のである。

画像ー188 060-3
そこで、所謂‘橋スポット’の位置を‘約5m’南へずらすことにした! 下の画像を見て欲しい。

移動
この矢印の先のスポットから撮影したのが、次の写真である!

画像ー188 062-2
2013年11月13日08:32 見事に素晴しい富士山が確認出来た。

画像ー188 062-3
ただし、やはりこの‘新・橋スポット’からの画像は、‘電力用電線’が丁度‘山頂’とぶつかり合っているので画像としての価値が‘橋スポット’より落ちる!

今後、この‘新・橋スポット’に変更するか、それとも‘邪魔になる木’を切るか、現在思案中!

(つづく)
[2013/11/13 23:15] | 富士山 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
現在の‘百葉箱’!
「では、一体、現在気象庁では、百葉箱の代りにどんな‘装置収容器’(?)を使っているのだろうか?」

‘現在,気象庁の観測では百葉箱は使用されておらず’というフレーズが気になった!

「論文情報ナビゲータ 国立情報学研究所(http://ci.nii.ac.jp/?TZ=20070513185107529)」の論文・「日本における百葉箱の歴史と現状について」

http://keiryonews.seesaa.net/article/44214710.html
●気象庁のアメダスの温度計測と湿度計測は地上高1.5メートルに設置
 
気象庁は1993年1月に気象の自動観測機器の普及に伴い百葉箱での観測を廃止しております
。気象庁のアメダスは温度計測と湿度計測は、地上高1.5メートルの電気ファン付きの‘通風筒’に入れられた白金抵抗温度計と静電容量湿度計によって行っております。ここでも接地面には芝草が植えられており、測定の高さは地上1.5メートルですから、百葉箱はアメダスと測定条件をそろえると温度や湿度の比較の意味でも都合がよいことになります。



http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/d1.html
通風筒

屋外で気温や湿度を測定するには、日射や風雨の影響を受けないようにする必要があります。
このため温度・湿度センサを通風筒の内部に設置して測定します。
気象庁の使用している通風筒は二重の円筒となっており、その間に断熱材を入れて日射や反射光が直接センサに当たらないような構造になっています。また、常にファンにより通風(約5m/s)しています。

通風筒は図のような仕組みになっています。
通風筒上部には電動のファンがあり、これにより筒の下から上に向けて常に外気を取り入れ、気温・湿度を測定しています。また、温度・湿度センサを日射や風雨から守る役割もあります。


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電気式温度計

電気式温度計には、白金抵抗温度センサが使用されています。温度に対する白金の電気的な抵抗値の変化を測定することで温度を測定します。

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白金抵抗温度センサ

白金抵抗温度センサは、後述する通風筒内に取り付けられ、変換部に接続されます。変換部では抵抗値を計測して温度に換算し出力します。

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電気式湿度計

電気式湿度計には、高分子膜湿度センサが使用されています。高分子膜湿度センサは、相対湿度の変化に応じて高分子膜に含まれる水分の量が変化し、これにより誘電率が変化することから相対湿度を測定します。
原理的には、下図のようなコンデンサを作れば湿度センサとなり、高分子膜の誘電率の変化はコンデンサの静電容量の変化として測定されます。実際のセンサの電極は極めて薄い金属の蒸着膜で、電極を通して高分子膜は水分を吸収・放出します。


image009.gif

湿度センサと変換部

電気式湿度計はセンサ部と変換部からなっています。
センサ部は後述する通風筒に設置され変換部とケーブルを介して電気的に接続されます。
変換部は湿度センサの静電容量を測定し、相対湿度に変換して出力します。


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以上が、1993年1月以降、気象庁等で使用されている‘現在の百葉箱’とも言える‘通風筒’の外観と中身である。

因みに、価格は?

http://www.weather.co.jp/catalog_html/CPR-AS-1.htm
仕 様
通風速度 約3m/s
通風方向 下側吸い込み
材   質 ステンレス
構   造 二重通風筒
ファンモーター電源 AC100V 1.5W
または
DC12V 1.5W
装着可能センサー 温湿度計、白金測温抵抗体
その他相談に応じます。

CPR-AS-1.gif

強制通風筒(縦型,AC指定,HMP155用) CPR-AS-11-AC 80,000 84,000円(税込み価格)縦型,HMP155用,ステンレス製,AC指定


これが、現在の‘百葉箱’、‘通風筒’!

(つづく)
[2013/11/12 23:29] | 気象 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
この秋の最低気温!
2013年11月11日に、次の日(12日)の午前3時頃最低気温が、我が町、千葉県茂原市で、何と‘3℃'にまでなってしまうという情報がNHKの気象情報で報じられた!

これには驚いた! 

何故かって?

3℃ってのは、地上1.5mの百葉箱の中での温度 のことである。
実は、地表面の温度は、この百葉箱の温度とは違っていて、その差は約4℃程低いという。

ということは、百葉箱中の気温が4℃以下になれば、地表面の温度は‘0℃’以下になることだから、霜が降りるという事になる。これは是非理解して尚且つ覚えておくとためになる!

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http://www2.jrt.co.jp/cgi-bin3/memo/memo.cgi?no=121
霜の降りる条件

「今朝、庭に霜が降りいてます。
霜は気温が何度くらいになると降りるのでしょうか」
との質問をいただいた。

霜は空気中の水蒸気が、水になることなく、
水蒸気からいきなり氷の結晶に昇華して出来る。

空で出来た結晶は雪であり、地上で出来た結晶は霜である。
したがって、霜は地上で出来た雪であるともいえる。

霜の降りる条件として重要なのは、
「風が弱いこと」と「気温が4℃以下であること」だ。


風が強いと、空気がかき混ぜられて、
地上付近の気温が氷点下になりにくい。

また、地上付近の湿度が100%になりにくいため霜が降りない。

一方、気温については、
気象台の観測結果をもとに調査すると、
霜が降りるのは通常4℃以下の場合である。

霜が出来るためには、気温は氷点下でなければならないはずだ。
それなのに、
気温4℃で霜が出来るとは不思議に思われるかも知れない。

だが、気温は地上1.5m、
つまり私たちの顔の高さ付近で計っている。

このため、気温が4℃くらいでも、地面は氷点下になっていることがある。

わずか1.5mの高さで温度差が4度を超えるとは、
地面近くでは随分と温度差が大きいものだ。


気温が5℃で霜が観測されたこともあるが、これは希である。
(2002/11/12)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%B8%A9
気温の測定と統計[編集]

天気や気候について考えるときの気温は「地上の気温」である。気温は温度計により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は世界気象機関(WMO)により規定されており、地上から1.25〜2.0mの高さで、温度計を直接外気に当てないようにして測定することと定められている。なお日本では、気象庁が測定高さを1.5mと定めている[1]。

ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる湿度計は、ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられる[1]。

温度計が雨の侵入や結露によって濡れたり、雪の侵入や霜によって凍結したりすると、水の蒸発や融解による潜熱吸収の作用で温度が低下し、誤差の原因となる。また、太陽光が直接当たったり、温度計の周りの空気の流れが滞ったりすると、本来の周囲の気温以上に温度が上昇し、これも誤差の原因となる。これを防ぐために、通風筒や百葉箱は雨・雪が侵入しにくい構造になっており、通風筒ではファンにより強制的に、百葉箱では風を通しやすい構造により換気を行っている。なお、ファンの発熱の影響を少なくするため、通風筒内では外気の出口にファンを設ける構造が適切とされている[1]。

温度計を納めた通風筒や百葉箱の設置環境としては、本来の周囲の気温に近づけるために周囲の風通しが良いこと、日陰になって必要以上に低温にならないために周囲の一定範囲内に樹木や構造物などが無いこと、加熱により必要以上に高温にならないように周囲に熱源となるものが無いことなどが望まれる。気象庁の「気象観測の手引き」では、開けた平らな土地で、かつ近くに木々や建物などの他の障害物のない場所で行うことと定められており、急な傾斜地の上や窪地の中は避けるべきだが、やむを得ず設置する場合は周囲の気温と比較して特性を把握しておくべきとされている。また、通風筒や百葉箱の下の地面(露場)は、丈の短い芝生が最も望ましく、難しければ周辺と同じ土壌でもよいが、雑草の繁茂を防ぐ管理上の理由から人工芝も認められている。一方、照り返しの強いアスファルトなどは不適当とされている。露場の面積は広ければ広いほど良いとされるが、気象庁のアメダス観測所ではおおむね70m2以上の露場が確保されている[1]。

気象予報に利用するため、上空の気温の観測も行われている。定時・定点の観測として、ゴム気球に温度センサを取りつけて空に放つラジオゾンデが最もよく用いられている。ラジオゾンデは対流圏を通過し成層圏内の上空30km程度まで到達する。また、航空機も随時・定時に気温の観測を行い、航空気象に利用されている。
また、世界気象機関のほか、日本をはじめとした多くの地域では気温を摂氏(°C)で表すが、アメリカ合衆国では伝統的に華氏(°F)で表すことが多い。

統計[編集]

気温はふつう一定の間隔で連続的に観測される。このデータの中で、1日や1年など一定期間における、最も高い気温を最高気温、最も低い気温を最低気温と言う。一般的には単に「最高気温」「最低気温」という場合、天気予報において良く使われることから、1日の最高気温や最低気温を指すことが多い。また、一定期間における平均の気温を平均気温と言う。
気温の統計では、その測定間隔に注意する必要がある。SYNOPは3時間ごと、MATERは1時間ごとの測定(通報)であるため、これらのデータを用いた平均気温は、日平均気温であれば8回や24回の平均となる。この間隔は技術革新により次第に短くなってきており、アメダスの例を挙げれば2002年までは1時間ごと、2008年までは10分ごと、2008年以降は10秒ごとと改良されている。これにより誤差が出る事も分かっている。平均すると、1時間ごとの最高気温は0.5℃、10分ごとの最高気温は0.2℃、それぞれ現在よりも低い値であるほか、1時間ごとの最低気温は0.2℃、10分ごとの最低気温は0.1℃、それぞれ現在よりも高い値であると報告されている[2]。

最高気温

日最高気温ともいう。着目している日、すなわち0時から24時までに観測された気温の最高値。通常(特に晴天の日)では、12時から15時の間に観測されることが多いが、そのときの気圧配置によって夜中に観測されることもある。天気予報などで「日中の最高気温」と明示した場合は、「9時から18時までの最高気温」となる。新聞などでは、「0時から15時までの最高気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内に観測された気温の最高値を、月最高気温という。

最低気温

日最低気温ともいう。着目している日、すなわち0時から24時までに観測された気温の最低値。通常(特に晴天の日)では、3時から9時の間に観測されることが多いが、その日の気圧配置によっては昼間に観測されることもある。天気予報などで「明日朝の最低気温」と明示した場合は、「明日0時から9時までの最低気温」となる。新聞などでは、「前日21時から当日9時までの最低気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内で観測された気温の最低値を、月最低気温という。

平均気温

一日の場合は1〜24時の毎正時24回の気温の平均、1か月(1年)の場合は毎日(毎月)の平均気温の平均のことを指す。また、日本の平均気温を算出する場合、全ての観測地の平均気温ではなく、都市化の影響が少なく特定の地域に偏らない、1898年以降継続して観測が続けられている17地点[3]における、平均気温と平年値の差を、17地点の平均値で表す。よって、絶対値で○°Cではなく、平年差±○°Cで表す。この方法は世界の平均気温でも用いられている。
一定期間における最高気温と最低気温の差を較差(かくさ、こうさ)という。なお、気象庁ではこれらの用語について、天気予報の予報文では「気温の一日(月、年)の変動幅」「最高気温と最低気温の差」と言い換えるように指導している。


さて、昔から気になっていたのは‘百葉箱’の読み方である!

この事に関して‘素晴しいブログ’を‘発見’したので、全文を転載させて戴くことにする。長い、長~いブログだが、ちっとも飽きることはない。素晴しいブログである!

それではど~ぞ!

http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/report/hyakuyousou.html
百葉箱(ひゃくようばこ)の語源を探ってみました
尾形正宏

はじめに

hyakuyou.jpg
神野小の百葉箱 

先日,U先輩から「百葉箱(ひゃくようばこ)ってなんで百葉っていうのかご存じですか」と質問されました。以前,私も同じようなことを考えていたことがありました。でも,自分で調べることもなく「たぶん,あの隙間のある板が葉っぱみたいにたくさんあって,それで100とか使っているのだろう」というくらいに思っていました。そこで,そのときも,
「あのブラインドの板が葉っぱみたいからではないですか」
と答えておいたのですが,さて,本当のところはどうなのでしょう。
 自分だけの疑問ならわりと放っておくのですが,他人様も同じことを疑問に思っているのなら…ということで,辞書やネットで,ちょっと調べてみることにしました。

『広辞苑(第5版)では

 こういう時には,まず『広辞苑』を繰ってみるというのが,純粋培養タイプ教師のやるべきことです。そこで,私もそれに則って調べてみました。ただし,電子辞書版ですが。

気象観測用の白ペンキ塗り鎧戸(よろいど)の箱。天井に通気筒を設けて通風をよくし,温度計・湿度計などを入れておき,気象要素を観測。ひゃくようばこ。

と書いてありました。なんと,この読み方は「ひゃくようそう」で「ひゃくようばこ」では「見つかりません」と出てきました。私は今まで「はこ」と言っていたのに…。いきなり新しい発見があったのです。

ウィキペディアで語源を

 ついで,私がよく使うネット上の百科事典サイト「ウィキペディア」で語源を検索してみました。すると,以下のように載っていました。

「百葉」とは八重の花びら,牛や羊の胃のことを指し,箱の壁の様子が牛の胃袋に似ているところから「百葉箱」と名づけられたといわれている。ちなみに英語では「SCREEN」と言い,「簾,網戸」という意味がある。

 ほほ~,「百葉」に「牛や羊の胃のこと」という意味があったのですね。納得です。英語のスクリーンにも,「廉,網戸」という意味もあったというのも驚きです。それで翻訳する時に「スクリーン=百葉」と訳したのでしょうか?
 ついでに,「エキサイト翻訳」というネット上の機能を使って「百葉」を日中翻訳してみると「胃袋」って出てきました。なるほど,言うとおりです。

「Yahoo!知恵袋」の投稿から

「Yahoo知恵袋」というサイトで,kamechan_369という人が,こんな質問をしています。

気象観測用の小屋形の木箱のことを『百葉箱』って言いますよね。
観測箱でもいいと思うのですが,なんで「百葉箱」と言う名前になったのですか?

 それに対し,「ベストアンサーに選ばれた回答」として, kanariakajinさんの発言が出ていました(「回答日時:2006/9/15 09:55,回答番号:31,202,458」)。

清代の離宮で使われた「百葉窓」=ガラリからきているようです。
「ガラリ」はご存じですね。風だけは通して雨はとおさない仕組みになっている窓です。
そのせいか知りませんが,広辞苑では「百葉箱」と書いて「ひゃくようそう」と項をたてています。


 ここでの発見は,「百葉箱」=「百葉窓」から来ているらしいということです。確かに,それならば「ひゃくようそう」って読んでも不思議ではありません。
 でも,このガラリってのが分かりません(本当にオレって何も知らないなあ)。

ガラリって何?

「ガラリはご存じですね」って言われても,そんなん知らないよね。
 そんな知識のない私は,ちゃんと調べてみました。すると「楽天」や会社の通販のサイトがたくさん引っかかってきました。
 通販のページを見るだけで,おおよそどういうもののことを『ガラリ』って言うのか想像はできるのですが,ちゃんと説明してあるページがないかと思って調べてみると「Yahoo!不動産(http://dict.realestate.yahoo.co.jp/term_search?p=%A5%AC%A5%E9%A5%EA)」というところに載っていました(図も同じ)。

ガラリ 【がらり】

garari.jpg

外部に対して目隠しをしながら換気ができるように,ドアや窓などにもうけた通気口のこと。「鎧窓(よろいまど)」「ルーバー」ともいう。建具の全体につける場合と一部につける場合がある。また,通気口に平行に取りつける「羽板」そのものや,「ガラリ戸(鎧戸)」を省略して単にガラリと呼ぶこともある。ガラリの形には,斜め下を向く形で連続して張る「片流れガラリ」と,上下からの角度の違う光や視線を遮ることができる「山形ガラリ」がある。

 ガラリってどこの言語かも気になるのですが,あまり深入りするときりがないので,このあたりでおいておきます。
 今までのところ,

  百葉箱=百葉窓(ひゃくようそう)=牛や羊の胃の様子=ガラリ

というところまではたどることができました。だから,最初の質問に答えるとすれば,

「百葉箱」の外側の壁の形が牛や羊の胃の壁(それを昔,中国では『百葉』と呼んでいた)に似ていると言うことで,百葉窓とつけたのが,「箱」になった。

という感じでしょうか。

「日本における百葉箱の歴史と現状について」という論文を発見

 以上のことを調べたのが二十日ほど前(2時間ほど,ネットサーフィンしました)。
 その後,今回,再調査に出かけてみると,「論文情報ナビゲータ 国立情報学研究所(http://ci.nii.ac.jp/?TZ=20070513185107529)」というサイトに,上記のようなタイトルで「百葉箱」について次のような論文の抜粋が載っていました。

日本における百葉箱の歴史と現状について
山口 隆子,東京都環境科学研究所基盤研究部
Abstract
日本における百葉箱の歴史と現状について調査した結果,以下のことが明らかになった。19世紀中頃のイギリスで開発が始まった百葉箱は,1874年に日本へ導入され,1875年からの観測に使用したものが最古の記録であり,1886年までに「百葉箱」と命名されていた。百葉箱の読み方は,「ひゃくようそう」と「ひゃくようばこ」が混在しているが,小学校理科教科書に関しては,1969年以降「ひゃくようばこ」もしくは振り仮名なしで統一されていた。百葉箱の現状であるが,現在,気象庁の観測では百葉箱は使用されておらず,教育現場においては,1953年の理科教育振興法公布以前から設置されている.また。その設置状況は,東京都のヒートアイランド観測を行っている106校の東京23区内の小学校に関して,設置地表面状態に関してはほとんどの学校が気象庁の設置方法に準拠しているものの,日当たりに関しては37%,風通しに関しては43%,扉の向きに関しては37%の学校しか準拠しておらず,設置基準全ての項目を満たしている学校は106校中4校のみであった。さらに,理科の授業における使用状況は32校中24校で使用しているものの,観測を実施している学校は2校のみであった。


 この論文は,A4で11ページのものです。PDFで読むことができます。興味のある人はご覧下さい。
 それによると,以下のことが書かれていました。私なりにまとめてみました。

○2006年4月までで発見されている文献では1874年に導入し,1875年から観測にしようした百葉箱の記録が最古である。
○日本語としてはじめて「百葉箱」と記載されているものは,1886年に制定公布された『気象観測法』である。
○「百葉箱」という訳語は,考案者を特定することはできないが,当時の状況から東京気象台職員が考案したものと考えられる。
○日本語には「百葉箱」以外に「百葉」という言葉は使用されていないことから,中国語の「百葉」(周の時代に牛の胃の内壁を表しており,その後,ものがたくさん重なっている様子を表すようになった)や「百葉窓」(西洋ガラリ,板廉の意)が関係していたものと推察される。
○「百葉箱」という訳語が作られた当時の読み方を示す文献はない。読み方は,現代でも「ひゃくようそう」か「ひゃくようばこ」か混在している。

おまけ

「あら,いいそこまちがいヨ 日本語を読み書きするときにおかすマチガイを中心にした読み物」というブログに,「百葉箱」をどう読むのか,いろんな辞典で調べたという話が紹介されていました。最後にそれを引用しておきます。

▽『広辞苑第1版』には“ひゃくようそう”で掲載されております。意味のところには“ひゃくようばこ”と書かれておりますが,見出しにはありません。
▽『広辞苑第2版第4刷(昭和45年11月18日)』でもおなじです。送りがなのおくりかたと図が追加されている点に差があるだけです。
▽『日本語大辞典第1刷(1989年11月6日)』では,逆でして,“ひゃくようばこ”は掲載されているのですが“ひゃくようそう”は意味のところにも見出しにもありません。
▽『新明解国語辞典第4版第20刷(1994年2月20日)』も“ひゃくようばこ”だけです。ただ,意味のところに“ひゃくようそう”が記載されています。
▽『NHK 日本語発音アクセント辞典新版第1刷(1998年4月25日)』は“ヒャクヨーバコ”のみを掲載しております。
▽『大辞林電子版(2003-02-14)』では,予想どおり,“ひゃくようそう”で検索してもヒットしませんでした。“ひゃくようばこ”の意味のところに記載はされております。


 まあ,そんなわけで,「百葉箱」には深~い深~い意味があったのでした。
 今回,調べてみようと思ったのもU先輩の一言があったからです。いや~,おもしろかった。
 今回の収穫は「百葉箱」という言葉がどうのということより,日本や海外で出された論文の一部を読むことができる「論文情報ナビゲータ」を知ったことですね。


調査するってことは、こんなことなんでしょう!これ、ほぼ‘完璧’です!

こんなブログ、やはり書いてみたいですね!

ただし、上記引用資料に付け加えるとしたら、

「現在,気象庁の観測では百葉箱は使用されておらず」という記述が気になって仕方がないので、

「では、一体、現在気象庁では、百葉箱の代りにどんな‘装置収容器’(?)を使っているのだろうか?」

の項目を取り上げる。

これは次回のお楽しみという事で・・・。

screen.jpg
http://www.smg.gov.mo/www/dm/equip/c_screen.htm
百葉箱

(つづく)
[2013/11/11 23:00] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
井上武吉
2013年10月31日のこのブログで紹介した 彫刻家・井上武吉

その作品が、‘創造の杜(千葉県千葉市緑区あすみが丘5-41)’散歩コ―スへ行く途中のハイカラな団地(東急ニューシティあすみが丘ガーデンコート・所在地 千葉県千葉市緑区あすみが丘4丁目39)の端にある。

それがこの写真。

千葉県千葉市土気駅 -3- Google マップ0001-2
‘Google'マップ。画面中央の少し右寄りの‘サークル’の中にあるのが、井上武吉の作品。画面右手が団地で、左手が創造の杜公園である。

画像ー185 050-2
この作者は、‘空’との関わりを作品のテーマとしているという。

画像ー185 052-2
中央に立って見上げたのが、この画像。幸い晴天だったので、空は青々としているが、作者は一体何を言いたいのだろうか?

画像ー185 051-2
この作品の‘地球上’の部分。

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作品名は、ご覧の通り、「 my sky hole 93―丘 1993」というから、これが作品の‘シリアルナンバー’だとすると‘93’番目の作品ということなのだろう。そして、作品は1993年に造られた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
井上武吉(いのうえ ぶきち、1930年12月8日 - 1997年)は奈良県室生村(現宇陀市)出身の彫刻家。

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http://archives.city.ube.yamaguchi.jp/list_author.php?c_id=68&author_id=11

来歴[編集]

1930年 - 奈良県室生村(現在の宇陀市)に生まれる。
1955年 - 武蔵野美術学校彫刻科を卒業。
1962年 - 第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞、更に7、8、9回でも優秀賞。翌年には第7回日本国際美術展で優秀賞受賞、次回展でも同賞を受賞する。
1965年 - 現代日本彫刻展に第1回から参加。
1967年 - 靖国神社無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を制作。
1968年 - 第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大原美術館賞を受賞。同展第2、第3回展でも神戸市教育委員会賞を受賞。
1969年 - 箱根 彫刻の森美術館の設計を担当する。
1975年 - 池田20世紀美術館の設計を担当する。
1977年 - 海外のベルリン美術アカデミーなどで個展を開催。
1978年 - 国立ベルリン美術学校客員教授就任。
1979年 - 第1回ヘンリー・ムーア大賞展・優秀賞受賞。
1981年 - ドイツのノイエギャラリーにて個展、その後デンマークで巡回個展。
1986年 - 紫綬褒章 受勲。

平和モニュメント
1991年 - 伊丹市地下空間「my sky hole 91-4 ITAMI」と平和モニュメント(荒牧バラ公園)設置、 第22回中原悌二郎賞受賞。

1992年 - 第17回吉田五十八賞を受賞した。
1995年 - 第45回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1997年 - 逝去。享年67


どうやら偉大な彫刻家らしい!

東京都・清瀬市の公式ホームページに次のような記事が掲載されている。

http://www.city.kiyose.lg.jp/hp/page000001100/hpg000001007.htm
井上 武吉「my sky hole 91-8」

my sky hole 91-8 [1991年制作/ステンレス・スティール]

images_2013111200463245a.jpg

作品について―「光と影を意識することで空間があるとするならば、光は天と地という垂直の方向性をもっている。それが地表でふたつの世界に分れ、地上は光のある視覚空間であり、地下は光の届かない触覚空間である。そのことをとらえようとしたのが地下に穴を掘った作品「my sky hole 天をのぞく穴」(1979年)の闇の内部空間であった。そしてその「穴」を地上に取りだす試みは、表素を限りなく磨くことで地上の光を吸い込み、また球形の穴を開けることで、作意の抽象化がなされている。「my sky hole 91-8」の球形の弧は、明暗の臨界線であり、光と影の原型でもある。」

井上 武吉[いのうえ ぶきち/1930-1997]
武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)彫刻科を卒業。日本国際美術展などで受賞を重ねている。1972年にはアメリカ合衆国国務省の招請により渡米。根源的な心理体験に基づく「ボックス」シリーズや「マイ・スカイ・ホール」シリーズなど、ステンレス・スチールの球体や石と金属によるモニュメントに様々な追求に意欲的に取り組んだ。


やっぱり、「 my sky hole 93―丘 」の‘93’はシリアルナンバーのようである。

そして、またまた驚いた!彼の作品の画像を‘NET’で探していたら、見慣れた‘巨大パチンコ玉’があるではないか!これは確か、東京の上野の森にある東京都美術館の前の、あの・・・!

IMG_0776.jpg
http://yk-mugen.at.webry.info/200805/article_8.html
光と影 <井上武吉作 「MY SKYHOLE」シリーズ>

この画像なら、私も何回も撮影した覚えがある。東京都美術館へ行くたびに撮影しているからである!

「な~んだ、この作品が、井上武吉先生のものか!」と思ったが、これまで誰の作品なのか意識していなかったのである。

私が撮影した写真が下 ↓ 上の引用写真とは‘アングル’が違うが、作品は同じものである。

画像ー143 029-2
2013年06月08日13:50 東京・上野、東京都美術館前の井上武吉の作品
井上武吉作「my sky hole 85-2 光と影」(1985年)

画像ー143 029-3
拡大。

詳細は、弊ブログの2013年06月14日版( http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-558.html )参照の事。

実は、この作品のポイントは、下の写真にハッキリ写っている‘穴’に意義があるというのだが、果たしてその意義とは?

2203958.jpg
http://oshimas.iza.ne.jp/blog/entry/3126460

そして、彫刻家・井上武吉の「my sky hole 」の意味とは一体?

(つづく)
[2013/11/10 23:48] | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
動く‘静止画’!
今朝(2013年11月09日)或る頭脳集団の人達から凄い情報を聞いた!

ITの世界で‘右肩上がり’は、勿論‘コンテンツソフト’の分野である。

今や‘動画’最盛期で、観ていても動画から来る感動は、静止画の何倍もある。
それは、静止画に比べて‘情報量’が格段に大きいからである。

今現在普及していて、誰でも気軽に手に入れられるコンテンツの作成原理は、

① 自然の画像そのものの編集(映画、ビデオ etc.)

② 静止画を何枚も描いて組み合わせて編集(‘ガッチャマン’や‘もののけ姫’等の通常のアニメ)

③ 自然画像を一部取り込んだ‘静止画’と‘自然の動画’のコラボレーション画像編集

まあ、将来もこんな仕組みの高度化だろうと思っていた。

ところが、ところがである!

人間の頭脳は優れたもので、第4の方法を‘実用化’されたという! それは、

④ 静止画を‘動画に変換させる’技術を駆使した画像の編集!

だそうだ。

その走り(?)の画像を‘Youtube’で探してみた!


http://www.youtube.com/watch?list=UUo-Z2r9KeM1uv11uLdnsBMg&v=kdtnCSEi_mM
ここでは、‘動く漫画!’という表現になっている。

この第4の方法の特徴は、② の方法を極めて簡略化した方法だそうで、そのために‘製作コスト’の大幅な低減が可能だと言う。

そして、さらに更に、静止画から動画への転換が極めて簡単に出来る‘手法’だから、例えば、自分の静止画写真を動画アニメに変換も可能という!

私は昔からソフト屋さんに相談していたことがある。

それは、カラオケ屋さんに行った時、歌手、例えば‘裕次郎’が歌っている画像が出ていたとしよう。
自分が裕次郎の歌を歌う時に、その画面の顔が‘自分の顔’に変換されたなら、そしてその変換された自分の顔のDVDが帰りに貰えたらどんなにいいだろうな、と思ったことがあった。


https://www.youtube.com/watch?v=BDw4EZQNW-0
この裕次郎の顔が、自分の顔に変換出来たら!と思うだけでワクワクする!

それを10年も前に‘優秀なソフト屋’さんに相談したことがあったが、彼は「まだ無理だよ!」と言っていた。

だが、この第4のテクニック、この方法を使えば、いとも簡単に出来るのではないか!?

いやいや、技術の進歩を甘く見てはいけない!何処かで‘ひっそりと’高度な技術開発は行なわれているのだ!

もっと凄~い、外国語学習のためのソフトについてもお聞きしたのだが、これは‘ひ・み・つ’!

恐らく、この第4の手法が、今後の膨大なコンテンツ作りの中心になるに違いない、という予感がした!

(つづく)
[2013/11/09 23:43] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
歳を取ったら・・・(その2)
歳を取ったら・・・(その2)

歳を取ったら、

① ‘忘れる能力’が急速に増す!

② 何事も‘面倒くさい!’と思うようになる。

このようなことは、誰にでも歳をとれば訪れることで、別に不思議なことではない!

いわゆる‘認知症’は、① の能力が‘異常に発達・進展した’状態のことだろう。

じゃあ、何故‘忘れる能力’が、歳と共に発達・進展するのか?

まあ、世の中には、‘或る現象’について、色々な人が色々な‘説’を唱える。

私がこの‘何故?’に関して「多分、そうなんだろうな!」と信じている‘説’は、「‘死の恐怖から逃れる’ために認知症、つまり‘ボケ’るのだ」という説ある。

‘まともに判断する’ことを身体全体で‘拒否’して、恐怖から逃れるという‘作戦’なのである。これは動物にとって、特に人間にとては極めて大事な‘生理現象’なのだろうと思っている。

他人様に余りご迷惑をお掛けしない程度であれば、何も‘認知症’をまともな方へ無理やり引き戻す必要はない!

さて、①&②のような現象は、少なくとも我が家の老夫婦にも少しずつ進行しつつあるが、そんなに酷くはない(と思っている)程度に‘襲いかかって’来ている。

‘老眼鏡’は、常にかけておくものではない為に、メガネが必要な時に、その場所にないと不便である!いつも持ち歩くのは面倒くさい!

そんな訳で、我が家には‘安物の老眼鏡’が幾つもあって、色々な場所、例えば‘洗面所’や‘トイレ’や‘台所’や‘テレビの前’や‘寝室’や、勿論‘パソコンの前’等々に‘別々の’メガネが置いてある。

‘全員集合!’をかけてみたら、‘山のように’あった!

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正に‘山のように’・・・。

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これをきちんと並べてみた!

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見易いように、角度を変えてみると・・・。あるはあるは、約25個!この他に多分、あっちの引き出しやこっちの机の奥に隠れているのも多分あるに違いない! そうそう、車の中に2つはある筈だが、鶏肉のが面倒くさい!

画像ー187 112-2

一番手前のは、‘折り畳み式’の優れ物だが、‘度’が合わなくなったために今は使っていない!

その一つ向うのは、これは‘老眼鏡’ではなく、仰向けに寝た状態で、頭を起こさずに‘テレビが見える’という、これまた優れ物の一つである! 老眼鏡ではないが‘眼にかける’から、やはり‘メガネ'と言うべきだろうと思って参加して貰った。

そんな訳で、歳を取ると‘メガネが増える’という一席!

(つづく)
[2013/11/08 23:12] | 心得 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2013年10月期の弊ブログの位置づけ
2013年10月も、さっさと過ぎてしまった!

今年もあと残すところ、60日を切ってしまった。

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10月の弊ブログのランキング位置づけは次の通りである!

<1> 2013年10月期のサブタイトルでの順位と月平均順位

2013年10月期のサブタイトルでの順位と月平均順位0001-2

特筆すべきは、サブタイトル・創作日記のジャンルで、約10,000の内の‘12位’である!

画像ー185 096-2



<2> 2013年10月期の日毎アクセス数と平均アクセス数

2013年10月期の日毎アクセス数と平均アクセス数0001-2

10月期でのアクセス数の最高日は、26日の230であり、その次の日の27日の順位が12位である。当然見事に反映している。

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やはり、10位以内に、つまり‘ベスト10’に入れたら、多分いい気分!ってことに・・・。

11月も頑張らなくっちゃぁ~!

(つづく)
[2013/11/07 23:42] | 統計処理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
草刈り日記
「趣味は?」と聞かれると「草刈りです!」と答えることにしている。

ここ千葉県・茂原市・千沢地区に移って来て19年が過ぎた!

私の住んでいる一塊りの住宅地の面積は、正確に測ったことはないが、敷地内に入ってから、カーナビが「70m行って左折です」ってなことを言うことから判断すると、

約150m×140m=21,000㎡ の6,370坪程度であろうと思われる。

千沢の住宅地区
‘Google'マップ。赤枠の中が我々が住んでいる‘一塊り’の住宅地。

この敷地面積に、16軒の住宅が建っている。1軒当たり50~100坪の面積である。仮に、1軒当たり100坪だとして計算して見ると、

100坪×16=1,600坪 だから、

6,370坪ー1,600坪=4,770坪 が、空き地ということになる。

空き地面積の比率は、(4,770÷6,370)/100≒75%

となって、ほとんどが空き地と言ってもいい。これは、上記マップを見ても頷ける。

さて、ここで‘問題な事’は、空き地の所有者はそれぞれおられるのだが、草刈りを自らされない或いは草刈りを業者に依頼されておられない所有者がおられることである。

上記‘Google’マップは、業者へ草刈りを依頼されている処の草刈りと‘我々有志’が、草刈りをされない所有者の敷地の草刈りを自発的に行なった後の‘衛星写真’であるために、綺麗に草刈りがなされている。

私も、その有志の一人で、‘他人様’の許可も得ず、毎年、年数回の草刈りをこの19年間行なってきた。

この秋の草刈りの様子が、次の画像である!

草刈り日は、2013年11月1日と2日の2日間で、約6時間を掛けて、およそ300坪??の草刈りであった。

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草刈り中の‘わが雄姿’! 出腹が目立つ! この草刈り機は‘3代目’!

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(つづく)
[2013/11/06 23:19] | 趣味 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
楽天が日本シリーズを制す!その最大の効果は?
昨夜(2013年11月03日)の仙台は、2011年03月11日以来最も盛り上がった!

東北・‘楽天イーグルス’、パ・リーグを制し、とうとう昨夜、セ・リーグの王者・讀賣ジャイアンツを破って、日本シリーズを制したのである!

新聞0002-2
新聞0001-2

この報道をしているのが、‘讀賣新聞’というのも皮肉な話である!

この勝負の報道は、どのメディアでもやっているから、内容はそれらを見ればよ~く判る!

そして、楽天イーグルスが果たした最大の役目は、各メディアが揃って報道している通り、3・11で被害を受けた関係者への‘癒しの贈り物’である。受け取る側もみんなそう言って大歓迎である。

その効果に一層花を添えたのは、星野監督の采配である!

‘マー君’を胴上げ投手にした事である!

これに不服を言う選手もいなければ、観客も一人もいない!

こんなに日本国中で、意見が一致したイベントも珍しいではないか!

スポーツ選手は特に‘感動’を心と体で感じ易い。この連帯感は恐らく来年のペナントレースにも持ちこされて、また日本シリーズを制す公算が大きい!

それ程の‘大事件’だった!

(つづく)
[2013/11/05 00:11] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日と高倉健(その2)
俳優・高倉健が‘文化勲章’を受章した ことは、お目出度いと同時に、私にとっては別の意味で嬉しい、と昨日(2013年11月03日)のブログで書かせて貰った。それは出身が隣市であるからである。

m0016126970.jpg
http://shinagawa.keizai.biz/gpnews/44674/  皇居で文化勲章親授式
文化の日の3日、皇居・宮殿で文化勲章親授式が行われ、俳優の高倉健さんら5人が天皇陛下から勲章を受け取った。写真は受章者の(左から)本庶佑、中西進、高木聖鶴(本名郁太)、岩崎俊一、高倉健の各氏。 【時事通信社】(2013-11-04)


ここでお断りをしておくことがある。それは、このブログで‘高倉健’と書くだけで、‘敬称’、例えば、高倉健‘さん’とか、‘氏’、‘様’、‘殿’とか、ましてや‘君’はないだろうが、‘敬称’を付けていないのは、それには理由がある。歴史上の人物やご存命の方でも、‘偉大な人物’は皆‘敬称略’ということになっている。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康 歴史上の人物には、誰も‘敬称’を付けない。

また、王、長嶋や美空ひばりにだって敬称はつけない! 敬称をつけられなくなったら、逆に‘超一流’になった証拠とも言える!

さて、その高倉健の出身は、福岡県・中間市。

私は、福岡県・直方市の出身である。‘Google’の地図で見てみると・・・

<中間市>
福岡県中間市 - Google マップ0001-2
‘Google'マップ

<直方市>
福岡県直方市 - Google マップ0001-2
‘Google'マップ

この両市の中央を流れているのが‘遠賀川’である。

<遠賀川>
福岡県中間市 - Google マップ-20001-2
‘Google'マップ

両市とも、遠賀川を中心に炭鉱の町として発展した。

S32-sankou-asakawa-13-s.jpg
http://members.jcom.home.ne.jp/nittan/nittan-takamatsu-N-3.htm
旧・若松市浅川より、水巻町と遠賀川・遠賀町を望む
昭和32年に北東側から見た---高松鉱業所・第三鉱と二鉱ボタ山・三鉱ボタ山・社宅街・日ノ峰山。
左の道路は折尾方面へ、手前は第二鉱の第三竪坑です。左・中央・右の社宅街は、全てが日炭の社宅街です。 ボタ山近くの池には記憶があるが・・・・。
お年寄りに聞いた社宅街の名称は---左上より縄手社宅・日ノ峰町?・幸町?・宮前町・竹下町・上町のようです縄手社宅の西側の高台には、第三鉱の山ノ神が見えています 


何故、遠賀川が中心だったかというと、炭鉱の町だから、掘り出してきた石炭を‘或る適切な大きさ’に砕いて出荷する必要があり、その時出る‘不純物’や細かく砕けた石炭を‘洗炭’という工程で‘水洗い’するのである。

その細かく砕けた‘石炭の粉’を、遠賀川に流す。そうすると遠賀川の水は、いつも‘チョコレート’色をしており、小学生の時には、学校に規則で、遠賀川での水泳は禁止となっていた。勿論、泳ぐ気にもならなかったのでもあるのだが・・・。

そんな訳で、我々の直方市の遠賀川の‘水底’には、その‘石炭の粉’が堆積しており、普段は砂浜にその石炭の粉が上がってくることはないのだが、台風が来ると遠賀川が増水し、台風がおさまって元の水位に戻ると、砂浜一体が厚さ3~4cmの石炭の粉の‘層’になる。

それが、天日干しになると‘収縮’して、ひび割れが起こり、丁度‘鉄板焼き’くらいの大きさとなって‘燃料の足し’になるのである。

これは、‘どべ炭’と呼ばれていた。‘どべ’とは、‘最下位’を意味する俗語である。

ゴルフでいう‘ブービー’は、最下位より一つ上のことを言うが、‘ブービー’の本来の意味は、最下位である。

‘どべ’とは‘ブービー’のことで、品質の悪い炭という意味なのであろう。

当時は、‘豆炭’という燃料が‘七輪’の主役だったが、結構この‘鉄板焼き風’の‘どべ炭’が結構燃料として役に立っていた。

多分、直方市よりも下流にある中間市の遠賀川でも、この‘どべ炭’があったに違いない!

高倉健が、当時中間市の遠賀川の川浜で‘どべ炭’を拾っていた光景は想像し難いのだが、そうであったなら、我々筑豊の炭坑町で育った人間にとっては、より一層親しさが増すというもんである。

「健さん、‘どべ炭’って知ってます?」

彼に会う機会があれば、一番先にそう聞いてみたい!

おめでとう!高倉健さん!(この場合は、やはり‘さん’付けである)

(つづく)
[2013/11/04 21:15] | 文明と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
文化の日と高倉健(その1)
今日(2013年11月03日)は、‘文化の日’で国民の祝日である。

① 俳優・高倉健が、文化勲章を受章した!

hqdefault.jpg
http://smashpipe.com/news/videos/3VJITNbXJzk/_13_11_04.html/?e=2

② 楽天が、日本シリーズを制した!

こんな嬉しいニュースがあった。

そもそも‘文化’とは何か?

最近は、i-Pad からの送信も多くなって、私のPCの‘OS’が‘XP’であるからかどうかは知らないが、ほとんど文字化けして来る!

そんな訳で、‘文化’という文字を見ると‘文字化’けと勘違いするようにもなった。

なるほど、今の通信方式が‘文明の最先端’の一つだと言うことからして、‘文化’の象徴が‘文字化’け、とこじつけられないこともないが・・・。

さて、我々は、少なくとも‘文化の日’ぐらい、‘文化や文明’のことを考えないと「人類は何のために生きているか?」の疑問・質問も出て来ようというものである。

私は前々から、文明と文化は、同一レベルにあるのではなく、

「文化の進展・発展の‘道具’が文明である!」

と考え、そう主張してきたし、その考えは今も変わらない。

では、何故、‘文明’は、‘文化’のための‘道具’なのか?

私の主張は、次の通りである!

人間は、ある意味では‘欲望’を達成するために生きている。

‘生きるのが目的’だから、‘何のために生きているのか?’という質問は‘愚問’であるとも主張してきたが、一歩譲って、「生きることが目的だと言うことは理解出来るが、生きていて‘何をする’の?」という質問には「生きることが目的ですよ!」と言うだけでは、その質問の答えになっていない。

「生きていて、或いは生れて来て、何をするの?」

の答えが、「欲望を満たす」ということに、今のところしてしてある。それ以上の答えが見つからないからである。

そして、その‘欲望の満たし方’によってその人の人格が決まるとさえも思っている。

それでは、人格の‘高さ’は、何によって決まるのか?

それは、「その人のその欲望の満たし方」にどれだけの人の‘共感’が得られるかで決めるより仕方がない!

但し、共感する‘数’が今現在少ないからと言って、人格がそう高くないとも言えない。何故なら、往々にして‘共感’は、マスコミによって作られる場合が多いからである。

名もない作家が、ノーベル賞とまで行かなくても‘○○賞受賞’という‘経歴’がつけば、その人に‘箔が付く’ことになって、実力以上に評価される場合、と似ている。

そのギャップがまた面白い小説のネタになる。

また悪い癖で、段々本筋からそれてしまいつつあるが、要するに人間はその人の‘欲望’の満たし方で人格が決まる。そして、それは、その人の‘文化程度’を物語っている。

文明と文化の違いは、私は前から‘ハードウエア’と‘ソフトウエア’との違いに似ていると主張してきた。

「人間の最高の境地は‘心の安らぎ’だ」と思えば、‘ハードウエア’の象徴としての‘文明’は、本当に必要なのだろうか?

そんな疑問が現在の社会を見ても直ぐに思い当たる。

‘原発’然り、‘スマホ’然り。また、新手の新幹線然り。そんなに‘文明’ばかりを進展・発展させ過ぎるから、ソフトウエアの象徴たる‘文化’の発展が遅れてしまい‘人格の低い’人間が続出することになってしまうのではないか?

文化とは人格の高さと言い換えてもいいと思う。

中国の発展・進歩の仕方には、疑問を持つ人達が多いのは、暗に良識ある人達が‘文明と文化’について、うっすらとそう思っている証拠なのだろな、とそう思うことにしている。

ただし、‘文化’の進展・発展に‘文明’は大きく貢献してきた!

‘文明’の発展があったからこそ‘文化’が進んだともいえる。

それは、高倉健という俳優が、全国民に感動を与え、人間は、こんな人格を持たねばならぬと教えられ得たのは‘映画を創る’ための‘文明’がなかったなら、そう簡単には出来なかったに違いない!

さて、そこで、‘文化勲章’とは一体何? こんな記事が見つかった!

http://thepage.jp/detail/20131103-00000005-wordleaf
高倉健さんも受章した「文化勲章」って何?/「文化功労者」「褒章」との違い

文化勲章の親授式が3日、皇居で行われ、天皇陛下から俳優の高倉健さんら5人に文化勲章が手渡されました。ニュースではこの時期、「文化勲章」や「文化功労者」、そして「褒章」という言葉を耳にします。一体何が違うのでしょうか。

高倉健さんは文化功労者にも

 文化勲章は、日本文化の発展に顕著な功績のあった人に対して授与される勲章です。文化庁の文化功労者選考分科会の委員の意見を聴いて行い、文部科学大臣が内閣総理大臣に推薦し、閣議で決定します。原則として「文化功労者」の中から文化勲章の候補者を選びます。高倉健さんは2006年に文化功労者に選ばれています。

 文化功労者も、文化の向上発達に功績顕著な人を選ぶことになっています。では、文化勲章とはどう違うのでしょうか。

文化勲章と文化功労者の違い

 毎年秋に、文化勲章はおおむね5人、文化功労者は15人ほど選ばれます。文化勲章は閣議で決定するのに対して、文化功労者は、文化功労者選考分科会が選んだうちから文部科学大臣が決定します。

 一番大きな違いは、文化功労者には年金が支給されるという点です。年額で350万円の終身年金がもらえます。それに対して文化勲章は、勲章そのもの以外では、お金や賞品のようなものはいっさいもらえません。日本国憲法では、栄典の授与によるいかなる特権も認めていないからです。つまり「名誉」が与えられるというわけです。ただし、文化勲章の受章者は文化功労者から選ばれるので、その年金は支給されます。

 ちなみに文化勲章は、毎年11月3日の文化の日に、宮中で天皇陛下から受章者へ直々に手渡されます。

褒章との違い

 勲章などの栄典の一つに「褒章」があります。褒章は、春と秋の年2回、授与されます。

 褒章には活躍した分野や業績の種類によって、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬、藍綬、紺綬の6種類ありますが、中でも「紫綬褒章」は、学術、芸術、技術開発などの功労者を対象とするという点で、文化勲章や文化功労者と重なる部分があります。高倉健さんは、1998年に紫綬褒章も受章しています。

 それぞれの褒章は、地方自治体や各種団体から各省庁に推薦され、候補者を内閣府が審査します。その後、閣議で決定される点や、年金などの支給がない点は文化勲章と同じですが、すべての褒章の受章者は春・秋合わせて1600人程度と、文化勲章よりも圧倒的に多いです。そのうち紫綬褒章は毎年50~70人程度が受章しています。

 ちなみに、3つの制度を人数の点で比べると、紫綬褒章の受章者が多く、次が文化功労者、一番少ないのが文化勲章となります。



それにしても、俳優さんが‘文化勲章’を受章したのは、森繁久弥以来というから目出度いことである!

特に、高倉健は、出身が私の隣りの市であるため、尚更うれしいのである!

(つづく)
[2013/11/03 23:23] | 文明と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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