この頃の東京・日本橋界隈 (その3)
日本に最初に銀行を創ったのは、渋沢栄一である。ただし、その最初の銀行は、現在の‘日本銀行’ではなく、‘第一国立銀行’である。更に‘ただし’であるが、この‘第一国立銀行’は、民間の銀行で、現在の‘みずほ銀行’である。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192954641
渋沢栄一の第一国立銀行というのは国立と言う意味ではありません。国立銀行法という法律に基づいた銀行という意味です。ですから全くの民間の銀行です。一番最初だったから第一です。この法律に基づいた銀行が次々と創られましたが登録順に百五十三銀行まで創られました。
松方正義の日本銀行は日本銀行法に基づく国の中央銀行です。これが現在の日本銀行です。



渋沢栄一銅像
‘Google’マップ 上図のが渋沢栄一銅像

日本東京都千代田区東京駅 - Google マップ-10001
‘Google’マップ この画面の上部・中央右よりの建物が日本銀行。日銀の南側の建物は、ご承知の通り、‘円’の文字となっている。

日本東京都千代田区東京駅 - Google マップ-30001
‘Google’マップ 上図の拡大。丁度中央に渋沢栄一の銅像が見える。

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2014年03月24日 ‘スマホ’で撮影。

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次の画像の方が見易いかも?

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http://kobacho-niwaijiri.at.webry.info/201110/article_16.html

読みほぐして見ると、多分以下の通り。(旧文字がない場合は、現文字で)
<縦書きから、横書きで申し訳ない!>

青淵渋澤榮一翁は 天保十一年埼玉縣
の農家に生れたが時勢に激して志士と
なり 後転じて幕臣となって 慶應三
年欧州に赴き民主主義自由主義を知
る機会を得た 帰朝後大蔵省に仕官し
て諸制度の改革に當ったが 明治六年
退官し 同年創立された第一國立銀行
の頭取となり 爾来産業経済の指導育
生に任じ開興した会社五百 常に道徳
経済合一主義を唱えて終生之を實践し
我が國運の發展に偉大貢献をした
また 東京市養育院等社会事業の助成
一橋大学日本女子大学等實業及び女子
教育の育成 協調会等による労使の協
調 日華日米親善等世界平和の促進
道徳風激振作のために九十二歳の高齢
に達するまで尽力し 昭和六年十一月
十一日逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳
顕彰の目的で設立された渋澤青淵翁記
念会が 昭和八年此処に銅像を建立し
たが 第二次世界大戦中金属供出のた
めに撤去された 然るにこのたび 銅
像再建の声が盛り上り各界の有志によ
つて 再び朝倉文夫氏に製作を依嘱し
旧位置にこの銅像を建て 東京都に寄
附したのである
 昭和三十年十一月
     渋澤青淵記念財團龍門社

そして、渋沢栄一という人の概要は、次の文献でも、日本の経済発展の父とも言うべきだということがよ~く判る!

‘銀行’というシステムを日本に導入したのは、彼がフランスへ行った時に‘スエズ運河’の大規模工事を見た際に思い立ったことだったという!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[1]。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として[編集]
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。[2]
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

大蔵省出仕〜実業家時代[編集]

大蔵省時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。
若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。


「商業銀行」創立の発想の原点が、次の文献で判る!

http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20130407/p1
慶応2年(1866年)、14代将軍家茂が21歳の若さで亡くなると、当時、30歳の一橋慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、15代将軍徳川慶喜となりました。翌年、慶喜の実弟で、後に最後の水戸藩主となる徳川昭武が、将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されます。このとき、慶喜に仕えていた渋沢は、昭武のお供を命ぜられ、57日間かけてフランスへ渡ることになる。これが渋沢と「会社」の出会いをもたらすのです。
スエズ運河で、フランスの会社が建設作業を行なっていました。
それを見た渋沢は、大勢の人間からカネを集めて「会社という仕組み」をつくれば、個人ではできない大きな事業も運営できることを知ったのです。

また渋沢は、パリで1人の銀行家に会います。そしてこの銀行家から「多くの人々から集めた資金を賢い経営者に貸し、大きな事業をさせれば、儲けた利益がみんなに還元される。結果として国も豊かになり栄える」という話を聞いて驚きました。事業を起こすためには会社が必要ですが、その会社に大きな仕事をさせるためには、みんなからカネを集めて会社に貸す「商業銀行」という仕組みが必要であることを教えられたのです。


現在の‘商業銀行’が、優良産業にばかりに資金を貸し、これから成長するかもしれない事業には一円たりとも資金を融通しない現状を渋沢栄一氏が知られたら、どう感じられるだろうか?

今の日本の銀行が、日本の成長に力を貸すのが主旨ではなく、己の銀行の地位を伸ばすためにのみ汲々としているという本末転倒の動きを嘆いているのは我々だけではあるまい!

渋沢先生、もう一度生き返って来られて、日本の経済を建て直して下さい!

(つづく)
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[2014/03/31 07:59] | ビジネスと経済 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
この頃の東京・日本橋界隈 (その2)
この頃の東京・日本橋界隈 (その2)

東京・日本橋界隈には、日本の経済の原点がある!

日本銀行と三越デパート!それに常盤橋の袂には、日本の銀行を開設した‘渋沢栄一’の銅像が建っている。

この周辺・界隈も近代化?が進んでいるようだ!

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2014年03月24日

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ところで、‘三越’は知ってはいるが、どんな歴史があるのか、そして年間の売り上げがどのくらいあるのか?知っている人は少ないに違いない!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A
三越(みつこし、英称:Mitsukoshi)は、株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の株式会社三越伊勢丹が運営する日本の百貨店。また、株式会社三越は、かつてこれを運営していた企業で、次の2つが存在した。
初代(1928年 - 2003年8月31日)
2代目(2003年1月1日 - 2011年3月31日) - 1.と株式会社名古屋三越・株式会社千葉三越・株式会社鹿児島三越・株式会社福岡三越が新設合併して発足。現在の株式会社三越伊勢丹の直接の前身。
日本で初めて「デパートメントストア」を宣言[1]したことで有名で、そのため日本初の百貨店(デパートメントストア)と見る向きもあるが、実際の店舗の百貨店化では必ずしも三越が最初ではなく、この点については議論が分かれている[2]。
三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。

概説[編集]

江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。

現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。この改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりすることが多い[1]。(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)

1928年には「株式会社三越」となった。1935年に竣工した日本橋本店は、東京都選定歴史的建造物に選定されている。
2003年(平成15年)9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。
売上高営業利益率は、グループ連結で1.09%、百貨店事業単独で0.799%と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。

残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した(存続会社は三越)「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。
現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」である。


三越の‘沿革’等については、上記引用文献のURLをクリックして参照のこと。

三越の前の通りは、‘はな街道’と称して、季節、季節の花が・・・・。

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三越の方から見た日本橋付近

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やはり、日本橋三越といえば、これ! 「なぜライオン?」については別途。

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次回は、渋沢栄一について・・・

(つづく)
[2014/03/30 00:02] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
この頃の東京・日本橋界隈 (その1)
この頃の東京・日本橋界隈

ここのところ、東京は日本橋界隈で会議があったり、待ち合わせをする機会が増えた!

若い頃には、無関係な場所だったのだが・・・。

① 江戸東京再発見コンソーシアム お江戸日本橋舟めぐり

2014年03月24日午後、日本橋を渡っていたところ、偶然にも‘観光船’らしき小船を見た!これとばかりに‘スマホ’で撮った!

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調べてみると、こんなツアーだそうである!

http://www.edo-tokyo.info/ship/fune201403-05%201.pdf
‘江戸東京再発見コンソーシアム お江戸日本橋舟めぐり’
定番コース(6 コース)(歴史ガイド、特製古地図のお土産付)

日 : 日本橋川コース (1時間)
神 : 神田川コース (1.5時間)
小 : 小名木川コース (1.5時間)
ム : 634( ムサシ ) コース (1.5時間)
江 : 江戸湊コース (1.5 時間)
深 : 深川コース (1.5時間)

参加料
大人2,500 円 / 子供1,500 円(4 歳以上~12 歳以下)
※料金は当日現金払いになります。
(6名様以上でお申し込みのお客様は事前のお振り込みになります)
※お子様(12 歳以下)の乗船には大人の方の同伴が必要です。
料金に含む物: ガイド料金、特製古地図
料金に含まない物: 個人的諸費用
キャンセルポリシー: 2営業日前~1営業日前:50%、当日及び無連絡不参加:100%


● 集合場所

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● 日本橋川コース

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さて、それで‘日本橋’についてもほとんど知識がない!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B_(%E6%
9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)

日本橋(にほんばし)とは、東京都中央区の日本橋川に架かる橋。または、東京都中央区の地名、地域内のことである。

日本橋(橋梁)

東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。橋梁としては現在19代目にあたる。石造二連アーチ橋で橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男による。

年表[編集]

1603年(慶長8年)3月3日
徳川家康の全国道路網整備計画に際し、初代の橋(木造)が架けられた。北側部分を原寸で復元したものが江戸東京博物館に展示されている。
1604年(慶長9年)
五街道の基点となる。以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
1657年(明暦3年)- 1858年(安政5年)
明暦の大火([1657年)により全焼。江戸は火事が多く、日本橋は江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ちている。明治維新までに合わせて10回(全焼8回、半焼2回)を数えた[2]。
明治初期
石造の橋が、肥後の石工である橋本勘五郎によって架けられた。
明治後期、1898年(明治31年)4月12日落成
東京遷都30年を記念して橋の両端に杉細工の「緑門」と呼ばれる鳥居が建てられた。鳥居の失われた時期は不明)。
1911年(明治44年)4月3日
現在の石造二連アーチ橋が架けられた。19代目[3]。
1945年(昭和20年)3月10日
東京大空襲。現在も焼夷弾跡が残っている。
1963年(昭和38年)
橋の直上に首都高速道路が建設された。
1999年(平成11年)
国の重要文化財に指定される。
2010年(平成22年)
架橋100周年(2011年4月)を記念し、洗浄再生する『日本橋クリーニングプロジェクト』を11月1日から12月8日まで実施[4]。

道路元標[編集]

日本橋の中央に埋め込まれている道路元標
戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた。その場所は概して市役所や県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした。
現行の道路法では道路元標に関する規定は無いが今日でも橋の中央には「日本国道路元標」の文字が埋め込まれており、裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれている。橋の袂(たもと)にレプリカが展示されている。現在、日本橋を始点としている国道は、以下の7本である。
国道1号標識 国道1号(終点:大阪市・梅田新道)
国道4号標識 国道4号(終点:青森市・青い森公園前)
国道6号標識 国道6号(終点:仙台市・苦竹IC)
国道14号標識 国道14号(終点:千葉市・広小路交差点)
国道15号標識 国道15号(終点:横浜市・青木通交差点)
国道17号標識 国道17号(終点:新潟市・本町交差点)
国道20号標識 国道20号(終点:長野県塩尻市・高出交差点)
国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びている。日本橋近辺ではそれぞれ重複しているので、地図や標識によっては上位道路である国道1・4号しか案内されないことがある。

文化財としての日本橋[編集]

現在の日本橋(第19代)は1999年(平成11年)5月13日国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし首都高速道路に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える。[5]。2006年(平成18年)には有識者会議である「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」が、首都高速道路を地下に移設して周辺を親水公園などに造り変えるという再開発構想をまとめた。小泉純一郎首相(当時)もこの構想を後押しする発言をしているが、試算5000億円といった莫大な費用が見込まれることもあり、石原慎太郎東京都知事(当時)は反対し、「日本橋の方を移転させるべし」と発言している。都市景観の問題や行政の問題対応能力と絡めて韓国・ソウルの清渓高架道路の撤去計画と対比されることもある[6]。


「日本橋中央柱の麒麟、本来伝説には無い翼があり、飛躍する首都を表している。」のだそうだ。

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日本橋を渡れば、お馴染みの三越である。

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(つづく)
[2014/03/29 08:35] | 観光 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
この敷地ご推薦します!
ここのところ、仰天するほど気温が上昇している!

今日、2014年03月28日(金)、千葉県・茂原市の最高気温は、な、な、何と‘21℃’というから、春ではなく‘初夏’である!
そして、明日の気温予報は23℃というから、もう一歩で‘夏日’である!

そんな訳で、我が家の団地・敷地内の空き地にも、多分不動産屋さんのご配慮だろう、水仙が植えられていて、このところの‘暑さ’で一気に開花した!

‘この敷地ご推薦(水仙)致します!’ってとこだろう。

「なかなか、気がきいてっじゃぁねぇ~か!」みんなそう想っている!

こんな殺風景なところも、ほんの一寸の気配りで、すっかり明るくなるのである!

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この‘水仙’は、ここ数年も前から春になると咲き始めるのだが、ここ十数年、団地内に新築された家は一軒もない!団地内の‘建蔽率’は、20%もない!

これは喜ぶべき現象なのかどうなのか?

或る時は、その団地に大勢の人達が住んでいる方が、‘賑やか’だったり、何かの時には‘力強かったり’でいいのだが、段々歳を取って来ると、近所付き合いもおっくうになったりで、痛し痒しのところがある。

要するに、‘人間は、勝手な生き物’ということなのだろう!

ここで、お得意の‘ヒッチハイク’を一句。

「 花屋の子 すいせん入学で Vサイン 」

<解(怪)説>:「推薦入学の‘すいせん’と花屋の子だから、花の‘水仙’とが‘掛詞’になっている」ってこと! 季語が掛詞になっていて、歩きながらでも作れる簡単な‘ハ・イ・ク’のことを‘ヒッチハイク’という。名付け親は、この‘kissy’さま、であるのであ~る!

(つづく)
[2014/03/28 16:39] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京駅付近のユニークなビル!
2014年03月22日、所用があって東京駅近くの打ち合わせ場所へ行った。
地下鉄・日本橋駅から、その場所へ行ったので、その時には勿論気づかなかったのだが、帰りはJR・東京駅から乗車することにしたので、地上を歩いて東京駅へ向かった。

丁度、呉服橋の四つ角(呉服橋は下図の中央部、そして下図の左側がJR東京駅)へ来た時、「おや?」思った!

日本東京都千代田区東京駅 - Google マップ0001

ビルに‘花が咲いている’のである!

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画面の右上の‘白いビル’が日本銀行。

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このビルには、どんな事業体の会社があるのかは、現時点では不明(上の地図では、‘パソナグループ本部’と書かれているが)ではあるが、大いに宣伝してもいいのではないか?

パソナグループ本部:取締役会長に、あの竹中平蔵氏が・・・。
http://www.pasonagroup.co.jp/company/outline.html

こんなビルが増えると面白いが、多分管理が大変なのであろう・・・。

(つづく)
[2014/03/27 23:54] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(3) | page top
春を食す!
今年の春は大変忙しく、春を楽しむ暇さえない!

「何がそんなに急がしいのよ?そんな歳になって」とよく聞かれる。
「だって、やることが沢山在り過ぎて・・・」と答えることにしている。

その内容については、順次このブログでもご紹介しようと思っている。

今年の冬&春は異常である!
寒いかと思ったら暑くなって見たり・・・。

今年初めて‘つくし取り’に出かけた。2014年03月26日の午後のことである。

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千葉県茂原市の郊外には、まだまだ沢山の田圃や畑が存在する、というよりほとんどがそうなのである。

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先日も、タクシーの運転手さんに聞いたところ、「ここらじゃあ、‘つくし’なんて食べる人なんかいないんじゃあないの?」という訳で、土筆を採る人がいないから、豊富である!

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この写真には、お歳のおばさんから、若い夫婦にその子供、そしてもう‘すぎな’になってしまった土筆の世代交代が写っている!

食べ頃は、まだ花粉の飛んでいない、頭がしっかりしている土筆である!

ただ、少々厄介なのは、‘はかま’を取ってしまわなければならないから・・・。

画像ー210 374-2
でも我慢して‘はかま’取りを・・。約2時間!

土筆料理の仕方は色々あるらしいが、何と言っても我が家の方法が一番美味いに違いない!

① ‘はかま’を取る
② よ~く水洗いをする
③ 油で、軽く炒める
④ 醤油と砂糖で味付けをする
⑤ 卵とじにする

この方法で、出来上がったのが次の写真!

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これぞ、天下一品の‘つくし料理’なり!

今年も春を‘食’で満足することが出来た!という訳である。

(つづく)
[2014/03/26 23:18] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
鶴竜の凄さ!(その2)
鶴竜の凄さ!(その2)

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http://miracleakko.seesaa.net/archives/201203-1.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%AB%9C
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鶴竜 力三郎(かくりゅう りきさぶろう、1985年8月10日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で井筒部屋所属の現役大相撲力士。本名はマンガルジャラビーン・アナンド(モンゴル語キリル文字表記:Мангалжалавын Ананд、ラテン文字転写:Mangaljalavyn Anand)、愛称はアナンダ。身長186cm、体重154kg、血液型はA型、趣味はスポーツ観戦。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。最高位は東大関(2012年11月場所、2014年3月場所)。実際に生まれ育ったのはウランバートル市内だが、取組前の呼び出しでは父親の出身地であるスフバートルを自身の出身地としている[1]。
四股名の「鶴」は部屋ゆかりの四股名「鶴ヶ嶺」から、「力三郎」は尊敬する井筒部屋の大先輩・寺尾が新十両場所だけ名乗っていたゆかりの四股名「源氏山」の下の名前に由来する。締め込みの色は青。

来歴[編集]

大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに滋しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生であったが、その裕福な家庭環境から、自宅でNHKの相撲中継も視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志し、花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。しかし諦念しきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の時田一弘会長宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、井筒親方(関脇・逆鉾)に諮って井筒部屋に入門させ、2001年5月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った。

2001年9月の時点では65kgしかなく井筒は最初「床山にでもするか」と思ったという。だが3ヶ月で82キロまで増やし、新弟子検査に合格した鶴竜の笑顔を見て井筒は「こいつを育てなきゃ可哀想だ」と感じた。[2]入門当初から物覚えが良く、廻しの切り方は1度で覚え、日本語は来日1年で堪能になったという。また、納豆も平気で食べられるなど日本食にも初めから適応できていた。[3]着実に番付を上げて行ったが、魚が嫌いでなかなか体重が増えず、三段目の下位で苦労した時期もあった。[3]若手時代に『ボンボン』『金持ち』と呼ばれることには腹が立っていたそうで、後に朝日新聞の記事で「向こうで大学の先生といっても、給料はよくない。バスケをやっていたのに、バッシュを買えなかった」と反論しており、実家のマンションも1LDKで自室は無かったという。[2]しかし、魚嫌いを克服してから徐々に体重も増え、三段目の上位でも勝ち越せるようになり、2004年7月場所に7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌9月場所は一気に幕下14枚目まで番付を上げた。1度跳ね返されたものの同年11月場所から6場所連続勝ち越しを続け、2005年9月場所では幕下東5枚目で5勝2敗という微妙な成績ながら11月場所には十両に昇進した。しかし十両では軽量が災いしたか成績が伸びず、1場所で幕下に陥落した。翌2006年1月場所に東幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越し、十両に戻った3月場所は3勝6敗から6連勝して9勝6敗と関取として初の勝ち越しを果たした。

その後は勝ち越しを続け、2006年9月場所では西十両筆頭で9勝を挙げ、翌11月場所には新入幕を果たした。この際、同様の地位・成績では極めて異例の東8枚目まで昇進し、その後も勝ち越して西前頭2枚目まで番付を上げた。新十両以来二桁勝利は長らく無かったが、2008年1月場所では11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を獲得した。2008年9月場所から出身地を父の出身地であるスフバートルに変更した。

西前頭筆頭で迎えた2009年3月場所は7日目まで2勝5敗だったが、中日から8連勝で10勝5敗と二桁勝利を挙げて、3大関を破るなど2度目の技能賞を受賞した。翌5月場所は新小結に昇進。この場所は、3月場所と同様に2勝5敗とかなり苦戦したが中日から7連勝して最終的に9勝6敗と勝ち越し、3月場所に引き続き2場所連続で3回目の技能賞を受賞した。翌7月場所は新関脇に昇進したものの5勝10敗と負け越して1場所で平幕へ陥落した。翌9月場所では11勝4敗と好成績を挙げて4度目の技能賞を受賞した。翌11月場所は西関脇に復帰したものの、7勝8敗と負け越した。
2010年に入り、平幕に陥落した後も2場所連続で負け越すなど調子を取り戻せないでいたが、7月場所では初日から8連勝し、中日には大関・琴欧洲を破るなどの活躍を見せた。結果11勝4敗の好成績で3場所ぶりの勝ち越し、5場所ぶりの二桁勝利を記録し、5度目の技能賞を受賞した。

2011年5月技量審査場所では西小結の位置で、13勝2敗で優勝した横綱・白鵬に次ぐ成績の12勝3敗という自身最高の成績を挙げて6度目の技能賞を受賞した[4]。翌7月場所では3大関を破る活躍を見せて西関脇(2枚目)の位置で10勝5敗と、三役で2場所連続の二桁勝利を挙げた。次の9月場所は東関脇(2枚目)の地位で、東関脇の琴奨菊と共に初の大関獲りを目指したが、不調で7日目で早くも4敗を喫してしまう[5] 。終盤4連勝して勝ち越したが9勝6敗に終わった。
2012年1月場所10日目には、初顔合わせの2007年9月場所から20連敗を喫していた横綱白鵬に寄り切りでついに初勝利、同場所は10勝5敗で初の殊勲賞を獲得、三役で2場所連続で二桁勝利を挙げたことで2度目の大関獲りとなった[6]。2012年3月場所は、初日から7連勝し、中日で大関・稀勢の里に敗れ初黒星となったが、翌9日目で前場所に引き続き白鵬に快勝して勝ち越し[7]。その後14日目まで鶴竜が13勝1敗で単独トップ、12勝2敗の白鵬と優勝を争っていた。千秋楽本割で勝てば鶴竜の幕内初優勝だったが、平幕(西前頭6枚目)の豪栄道に敗れ2敗に後退。さらに13勝2敗同士の優勝決定戦では、本割で勝っていた横綱白鵬に上手投げで敗れ惜しくも優勝を逃してしまったが、殊勲賞と技能賞をダブル受賞。また14日目、琴欧洲戦の白星で直前3場所の勝ち星が大関昇進の目安となる33勝(10勝-10勝-13勝)となったため、翌5月場所の新大関が確定的になった[8]。なお「6大関」となるのは職業相撲が始まったとされる室町時代以降、大相撲界では史上初の出来事である。3月28日、満場一致で鶴竜の大関昇進が決定[9]。昇進伝達式での口上は「これからも稽古に精進し、お客さまに喜んでもらえるような相撲が取れるよう努力します」であった[10]。なお、昇進を伝える使者として1月場所後の改選で新理事に昇進した雷親方(元前頭筆頭・春日富士)と一門の勝負審判として部屋の先輩にあたる錣山親方(元関脇・寺尾)が井筒部屋に派遣され昇進を伝えた[11]。

新大関の5月場所は中日まで1敗であったが、8勝7敗に終わった。7月場所は4連敗を喫したものの、14日目に豪栄道の休場により不戦勝で勝ち越しを決め、千秋楽に琴奨菊を下手投げで下し9勝6敗で終えた。9月場所は12日目まで2敗を維持していたが、13日目に白鵬、14日目に日馬富士に連敗して優勝争いから脱落。千秋楽は7連敗中だった稀勢の里に勝利して11勝4敗、大関昇進後初の二桁勝利を挙げた[12]。

2013年、1月場所は終盤に4連敗し8勝7敗に終わった。2月の日本大相撲トーナメントでは決勝で豊ノ島を破り、初優勝を果たした[13]。3月場所は8勝7敗、3場所連続で一桁勝ち星に終わった。5月場所は初日から8連勝で大関昇進後で初の中日勝ち越しを決めたが[14]、9日目に琴奨菊に敗れ初黒星。その後の横綱、大関戦に全敗で10勝5敗。7月場所は10勝5敗と大関昇進後で自身初の連続二桁勝利を挙げた。9月場所は7日目まで6勝1敗としたものの、中日以降は連敗が続き、9勝6敗に終わった。11月場所は2日目から連敗し、その後は11日目まで2敗だったが、終盤4連敗で9勝6敗に終わった。
2014年1月場所は初日に隠岐の海に敗れたが、2日目から白星を重ねて13勝1敗、千秋楽に14戦全勝の白鵬との直接対決に臨んだ。本割では白鵬を寄り倒しで破ったが、優勝決定戦では白鵬に敗れ初優勝はならなかった。それでも北の湖理事長は「決定戦までいったし、優勝に準じる」と、本割で白鵬を破って14勝1敗の優勝同点の成績を評価し、翌3月場所を綱取り場所とする見解を示唆。目安については「最低でも13勝。(最近は)2桁勝利に届いておらず、高いレベルでの優勝が必要」と話した[15]。


2014年03月21日、鶴竜がまた白星を一つ重ねた!
これで、上記引用文にある「最低でも13勝」が確保出来た!

(以下の画像は全てNHKのTV画面をカメラで撮影したものである)

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この取り組みで判るとおり、この日の勝ち負けで優勝の行方が判りそう!

① 鶴竜 VS 稀勢の里 

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鶴竜が、1敗を守った!


② 豪栄道 VS 日馬富士 :日馬富士2敗!


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豪栄道が、見事に横綱・日馬富士を破って、鶴竜の援護射撃に回った!


③ 白鵬 VS 琴奨菊 :白鵬敗れたり!


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横綱・白鵬立ち上がれない!

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横綱、右手負傷か?

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この日、13日目で、

1敗:白鵬、鶴竜
2敗:日馬富士

となった!14日目の対決は、次の通り!

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鶴竜が、白鵬に勝てば、初優勝・横綱昇進が見えてくる!

(つづく)
[2014/03/21 23:07] | 大相撲 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
鶴竜の凄さ!
感動には、二種類あることを、この弊ブログでも書いたことがある。

一つは、体力一杯に活力を漲らせてエネルギー発散型の感動である!
例えば、オリンピックの100m競争だとか、100m水泳競技のあの興奮と感動である。

もう一つは、静かなる感動!
例えば、京都は龍安寺の石庭で、じっと黙想をしている際に感じる心の感動、がそれである。

相撲は、格闘技であるから、二番目の静かなる感動とは受け取りにくいのだが、不思議なことに、大関・鶴竜には、静かなる感動を覚える。物静かな目の輝きと何となく悟りきった風格さえ感じさせる。

彼は、きっと間もなく横綱になる、と私は予測している!

2014年03月20日、大相撲春場所12日目、鶴竜は、この前の日まで全勝の横綱・日馬富士と対決!

(画像は、全てNHK・TVの画面をカメラで撮影したものである)

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なんと、なんと鶴竜が、送り出しで横綱・日馬富士を破ったのである!

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よ~く観察せねばならないのは、鶴竜の勝った後のこの表情である!

もっとも、大相撲では、‘ガッツポーズ’は、自粛ということになっているのだろうが、それにしても格闘技なのに、そんな仕草はない!

これこそ、日本流或いはモンゴル流とも言うべき‘静かなる感動’なのである!

鶴竜の横綱昇進は、真近だ!

(つづく)
[2014/03/20 23:49] | 大相撲 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
銀座ライオン
久し振りに或る会社の社長から電話を頂戴した!

「或る仕事に協力して欲しい!それより久し振りに銀座で一杯やりませんか?」

お断りする理由がない!

銀座風月堂で、仕事の打ち合わせを終えて、‘さあて!’ということで、‘銀座ライオン’と普通言われているビヤホールへ連れて行かれた。

「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」

と正式には言うらしい。

http://r.gnavi.co.jp/g131800/
「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」
1934年創建の歴史と伝統のあるビヤホ-ル。2014年4月8日で創建80周年!
設計は新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵。当時の建築技術を結集した
「元祖デザイナーズレストラン」とも言えるかも知れません。
壁画を見ながら生ビールを飲む瞬間はまさに至福の瞬間!


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http://r.gnavi.co.jp/g131800/kodawari/

http://r.gnavi.co.jp/g131800/
現存する日本最古のビヤホール
1934年(昭和9年)創建の歴史と伝統のあるビヤホ-ル。今年の4月8日で80周年!
設計は新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵。当時の建築技術を結集した「元祖デザイナーズレストラン」とも言えるかも知れません。壁画を見ながら生ビールを飲む瞬間はまさに至福の瞬間!


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ビール注ぎの名人・海老原さん

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銀座ライオンといえば、こんな夕刻の時間帯には、行列が出来るのが普通だったが、その日は‘ガラガラ’状態!
経営状態は大丈夫だろうか?

まさか、その日が‘ひな祭り’の日だったから??

無関係な人間が心配しても仕方のないことなのだが・・・。

仕事の内容は、独居老人の監視・安全性に関する装置の販売についてであった!

(つづく)
[2014/03/14 23:29] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
巨星の供養!
2014年03月10日、今やコミュニケーションの中心となった感のある‘携帯・スマホ’の原型を創った偉人が天に召された!

この偉人は、とことん‘ビール’を好まれた!
勿論、勤務があるときは、そうではないが、土日の休みには、‘多分?’朝からビールだったに違いない!

行年73歳。零歳からビールを嗜まれた筈はないが、それでもおよそ70年間近くビールを愛飲され続けた。

とうとう肝臓を悪くされたのだが、それはそれ‘医学の進歩’は速く、今や肝臓の病もいろいろな手段で完治するまでになっていると、よく聞かされたものである。

でも、この3年間に10回以上の入退院を繰り返された。
とうとうそれも終焉の時がやってきた!
2014年03月10日17:35。

3月14日お通夜。
3月15日告別式。

残されたわれわれ二人は、こっそりと3月13日夜、故人を偲んで‘ビール’で乾杯した!
北海道出身の故人は、やはり北海道の‘つまみ’を好まれた。

一、ホタテ
一、氷下魚(こまい)
一、鮭のはらみ
一、烏賊の一夜干し

それに

一、マグロの中トロ

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‘巨星墜つ!’

(つづく)
[2014/03/13 23:31] | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
床屋さんの待ち時間!
床屋さん、未だに‘床屋さん’と呼んだ方が、というよりいつもそう言っているのだが・・。不思議なもので「理髪店に行って来る」とは、ほとんどの人が言わないに違いない!

‘風呂屋さん’や‘銭湯’も、看板には‘風呂屋’とか‘銭湯’とはなかなか書いてない。たまには、逆効果を狙ってそう故意に書かれている風呂屋さんもあるにはあるのだが・・。

‘本屋さん’さんだって、看板に‘本屋’という文字は見たことがない。また‘本店’と書けば、‘支店・本店’の‘本店’と間違えることがあるからだろうか? ‘書店’が一般的のようだが、何だか‘書道の本屋さん’のような気もして、しっくり行かない!

言葉の変遷は不思議なものである。それほど、一度‘インプット’されるとなかなか‘削除・変更’が難しいものなのだろう!

何の話をしようとしているかというと「ええっと、え~っと、そう‘床屋さん’の、は・な・し!」

先日、いつもの‘1,000円・床屋さん’へ行った。
ところが、待合の椅子、これは約12人分なのだが、これが一杯で、書き込み式になっているので待っている人がどのくらいいるのかを数えることが出来る。私の番は、16番目で15人分の時間待たねばならない。一人約13分で、散髪の席は2つだから、大雑把に言って、13分×7=91分=約1.5時間待たねばならないことになる。

それなら、散歩するのに丁度よい!
この床屋さんの周辺は、田んぼと住宅であるから散歩に適している。
そう思うと、「そんなに待つの?」と嘆くことはない!

‘散歩の時間を床屋さんが配慮してくれた’と感謝すれば、気持も和らぐと言うもんである!

そんな訳で、かみさんと散歩に出た。
2014年02月28日14:30頃から約一時間強の散歩。

今年二月の終わりの日であった。

白梅も紅梅も、今を盛りと咲き誇っていた!

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床屋の待ち時間が身体の健康と心の健康を守ってくれたことになる。
勿論、このことは、件の床屋さんは知る由もないのだが・・・!

(つづく)
[2014/03/12 23:51] | 心得 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
四谷4丁目の奇妙な?ビル!
このところ、新事業を展開するために、‘或る人物’が‘棲息’している‘アトリエ’で打ち合わせをする回数が増えてきた!

この‘アトリエ’は、四谷4丁目の或るビルにある!

そして、この‘或る人物’こそが、今後の人類の‘文化’を方向転換させ得る潜在能力を有しておられるのである。
この‘或る人物’の凄さについては、今後このブログで‘特集シリーズ’にしたいと思っている。

本日は、地下鉄・丸の内線の四谷3丁目から4丁目へ歩いて行く途中にある‘奇妙な’ビル についてである。
どう見ても「日本人のセンスを持った人の設計ではないな!」と思っていた。

やっぱり!

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http://yonsamadaisukiol.doorblog.jp/archives/51486064.html

韓国文化院庁舎「Korea Center」だそうだ。

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http://www.koreanculture.jp/intro_greeting.php
アンニョンハセヨ 駐日韓国文化院です。

駐日韓国文化院は、韓日文化交流の場です。
文化を通じて韓日両国をつなぐ役割を果たすところ、
韓日両国民が本当の友情を交わすところ、
国の様々な情報を交わすところ、
それが私たち韓国文化院です。
是非とも、 韓国文化院の様々なイベントにお越しください。
韓国文化院は、扉をいつも開けて皆様をお迎えします。
いつでもお気軽に韓国文化院へお越しください。
私たちは皆さんを家族のように、
隣人のように歓迎いたします。
これからも、
多くのご助言とご協力をお願い申し上げます。

駐日韓国大使館 韓国文化院
院長 沈東燮(シム・ドンソプ)


こんなデザインは、やはり目立ちたいということからなのだろうか?
その他に、何の価値があるのだろうか?

少なくとも、私もブログに書いてしまったぐらいだから、やはりこのデザインは、それだけの効果はあったのである!

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さて、こちらが、四谷4丁目の交差点から新宿方面を見た風景である!

画面の中央に見える、ニューヨークのエンパイアステートビルを思い起こさせるビルが、NTTドコモの代々木ビルである。
これも目立つから皆さんに覚えていただける。
やはり、ビルだって‘目立たなあかん!’ということなのだろうか?

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http://photograph.kensuke.net/archives/0001_shinjuku/01.html
NTTドコモ代々木ビル

(つづく)
[2014/03/11 23:28] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
巨星墜つ!
2014年03月10日夕刻、電電公社の時代に‘携帯電話’の開発者で、旗振り役だった研究者‘Iさん’が、突然天に召された!

彼は、1940年(皇紀二千六百年)生まれの73歳だった。

その日、私は昔の先輩とお会いする約束をしていて、その打ち合わせが終わり次第に‘Iさん’の病気見舞いをすることにしていた。

昔の先輩とは、新宿西口・交番前で13:00に落ち合うことになっていた。私は、田舎(千葉県・茂原市)の自宅の最寄り駅からは、発車本数が少ないこともあって、適正時刻より約一時間も以上も前の電車に乗ったから、新宿駅にはそれこそ一時間ほど前に到着していたのである!

このところの異常低温で、新宿駅西口交番前もその日は寒風が吹き込んできて寒かった。

「ここで、約一時間も待つの?」

と思ったが、一寸日向に出てみれば?と言う訳で、タクシー乗り場の後方へ出てみたのであるが、これが良かったと見えて日差しが射すと案外暖かかった。

鳩もそれを知ったか知らずか、その辺で遊んでいる!

突然、一羽の鳩が、羽を大きく羽ばたいて飛び上がった! 
私はちょうど‘スマホ’で時刻をたまたま確認をしていたのだが、思わずシャッターを押した!


鳥が飛び立つ瞬間の写真なんて、ど素人に撮れるはずがないと思っていた!連写ではないのである!

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④ 2014年03月10日12:29
この写真だけ見ると、鳩が空中に居るとはなかなか思えない! しかし、次の一連の‘元写真’を見て頂ければ、一目瞭然である!

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① これが、スマホで撮影した‘元写真’である。車と車の少しの隙間に入り込んで来て、‘サッと’飛び上がったのである!

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② ①のトリミング拡大!

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③ 鳩の影との対比で、明らかに鳩が地上を離れて「‘空気中’に居る 」ことが誰の目にも判る!

だけどこの鳩、両手(?)に卓球のラケットを持っているように見えて仕方がない!

このことが、‘天に召された’‘Iさん’とどう結びついているかなど思いもしなかったのだが・・・。

他の鳩達は?

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⑤ 12:30 JR新宿駅・西口タクシー乗り場付近から見上げた風景

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⑥ ここが、タクシー乗り場

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⑦ ⑥の写真の一部拡大!

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⑧ 

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⑨ ⑧の拡大

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⑩ 

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⑪ 2014年03月10日12:31 ⑩の拡大!

新宿のこの場の鳩は、人間に対して警戒心などこれっぽちも持ち合わせていない!これは、‘先天性’の本能ではなくて‘獲得性’本能なのだろう!

さて、話をはじめに戻して、携帯電話の開発者が、その夜天国に召されたと言うメールを受け取った時に、この鳩のことが、頭を過(よ)ぎった! 

巨星墜つ!

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(つづく)
[2014/03/10 23:20] | 健康と医療 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
梅は咲いたか、桜はまだかいな?
‘梅は咲いたか、桜はまだかいな?’という江戸端唄がある!

http://sasakimikie.seesaa.net/article/13629927.html

<梅は咲いたか>

   ♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
      山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~

   ♪ 梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に
      梅と桜を 咲かせたい しょんがいな~

   ♪ 昨日 北風 今日は南風 明日は浮名の たつみ風
      恋の風なら 色ばっかり しょんがいな~

   ♪ 柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第
      舟から上がって土手八町 吉原へご案内

   ♪ 桜さくらと 浮かれているわいな 弥生三月 花見月
      あなたは花より 酒ばっかり しょんがいな~

   ♪ アサリ取れたか ハマグリまだかいな アワビくよくよ 片想い 
      サザエは悋気で 角ばっかり しょんがいな~

   ♪ 銀座八丁 行こうじゃないかいな 山の狐が 七化けて
      黒い眉引く 袖を引く しょんがいな~

   ♪ 恋の浅草 二人で行こかいな 何を言問 都鳥
      末は千鳥で 泪橋 しょんがいな~


今が丁度その季節である!
先日の3月3日は、梅は満開に近かったが、天候に恵まれなかった!
今日は違う!

下の写真の通り、晴天である!

しかし、少々残念なのは、梅の花に‘生気’がなくなってきている。
そりゃあ、そうだろう。花が咲いてもう2週間にもなる。その間、夜間には0℃を下回ることもあったから、梅の花にしてみれば、咲いた後‘冷蔵庫’に入れられて‘寿命’を意図的に延ばされたような気になっても仕方あるまい!

でも、でも、人間様は、それでも喜んでいるから、いいではないか!

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2014年03月08日11:27 我が家の玄関先。‘Kさんち’の庭の梅の木。借景料:無料!

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一方、こちらは、我が家の庭の‘桜の木’の様子!

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2014年03月08日11:26

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もう‘蕾’は膨らんでいる! 桜の開花ももう直ぐである!

でも今年が、‘異常気象’と思われるのは、3月に入ったのに一向に‘鶯’が鳴かない1
例年なら、多分、2月の終わりには‘初音’が聞かれるのだが・・・。

(つづく)
[2014/03/08 23:13] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘GESL’シンポジューム
‘自己主張’のみで、相手を説き伏せようとする御仁ほど、相手の意見を聞き入れない!
その行為が、相手の不信感を増長させ、やがては‘敵視’される元となる。

国際的な駆け引きは、然ることながら、先ずは国内での意識統一がふらついていては、グローバルな話し合いも足元を見られる。それが、国際的に打って出れない一番の無策と言われる原因となる。

この度‘O教授’から‘GESL’の御説明をお聞きして感動を覚えたのは、このプログラムが、一人の人間のブレインの中で相対する壁を冷静に判断させて‘乗り越えよう’と言う‘教育プログラム’だということに気付いたからである。

このことこそ、一国の進路を間違いのない方向へ導く最大の戦略である!
このことに気づかされて、大いに感動させられて、喜んでシンポジュームに参加させて頂いたという訳である。
( シンポジューム:‘進歩集務’or‘進歩従務’と‘翻訳’して見たのだが、これは余り受けなかった!)

本来、優秀な人ほど、己の優秀さに目が眩んで相手の立場さえ無視して、貴重な意見を無視する傾向にある。
そのいい例が、‘文系’と‘理系’の争い、いがみ合いに発展する!

それを防ぐために、或る会社では、会長が文系なら、社長は理系にするというのが‘一般論・規則’となってしまっている。
そうして、内部の諍いを宥めようとする閾値を創ったとしても、いつでも成功するとは限らない!
何故なら、いつでも両者が裃を脱ぎ捨てて会社のためにこそ尽力するとは限らないからである。
これほど優秀な人材同士でもこのルールは堅固なものではない。

ところが、ところがである! これを一人の人間の中で実現出来たら、‘真の勝利の道’を確保出来る! そう、その考えに立った、その観点から考え出された‘教育プログラム’が、実は今回の‘GESL’プログラム なのである!

一人の頭脳の中では、裃をいつも脱いでいるからである!

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配布パンフ

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配布パンフ 拡大が次の画像。

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配布パンフ

この教育プログラムの根幹は、メジャーとマイナーの二つのジャンルの違った専攻と国際感覚を養うための国際トレーニング制度の‘3本柱’から成り立っているのである!

このことを年次毎に図解したのが、次の画像!

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配布パンフ

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配布パンフ

詳細が、上の画像に示してある。

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13:00以降、開会挨拶や来賓挨拶、基調講演、事業説明、このプログラムに沿ってトレーニング生の状況報告、自己紹介、そして、パネルディスカッションと続いた。閉会の挨拶の後、記念撮影があった。私もとうとう被写体となった!

その後、18:00頃から会場を移して意見交換会で終了。

総じて感想を言えば、まだ、まだ成熟していないからかもしれないが、このプログラムの真の意味を理解している人が主催者以外に余りいないのではないか?と言うことである。

今後に大いに期待したい!

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2014年03月06日20:19

上下の写真が、JR田町駅へ向かう歩道橋上から撮影した国道一号線の画像。

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2014年03月06日20:19

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2014年03月06日20:19

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2014年03月06日20:20

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2014年03月06日20:21

これまで、いろいろなシンポジュームに参加させてもらったが、今回ほど‘興奮した’シンポジュームはなかった。今後の発展に大いに期待したい!

(つづく)
[2014/03/07 23:41] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
これからの‘大学院・博士課程’の有り様
2014年03月06日12:30、東京・田町駅に着いた。

この日、慶応大学の三田キャンパスで開かれる‘或るシンポジューム’に参加するためである。
JR田町駅に降りるのは久し振りである。
数十年前は、仕事の関係でNECの本社にお邪魔することがあったために、かなり頻繁に利用させてもらった。

その後、今から7,8年前には、田町駅の直ぐお隣、と言っていいほどの近くのビルに勤めていたこともあって、懐かしかった!

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2014年03月06日12:32 国道一号線の品川方面(歩道橋の上から)

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2014年03月06日12:32 国道一号線の新橋方面(歩道橋の上から)

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2014年03月06日12:32 この画面の中央の奥が、JR田町駅である。(歩道橋の上から)

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JR田町駅方面への‘クロスウォーク’には、大勢の人が・・・。(歩道橋の上から)

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この歩道橋を降りると、飲食街である。

目的地は、慶応大学であるが、実はこの三田キャンパスには、一度もお邪魔したことがない!

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飲食街の続き。以前、ここはよ~く利用させて戴いた。

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この道路の奥に東京タワーが見える。

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あの丘の上が、慶大三田キャンパスらしい!

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正面の建物が・・・。

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これが、三田キャンパスの正門らしい。

あった、あった看板が・・・。

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そうそう、ご紹介が遅れたが、今回のシンポジュームは、大袈裟に言えば、これからの日本の指導者が世界中を相手に十分活躍出来るかどうかの素養を身につけることが出来る‘博士課程の大改革’に繋がる試みの途中の報告会なのである!

この情報は、実は私が近しくして戴いている慶応大学の‘O教授’から、ご案内戴いたのである。その時の‘O教授’の明解且つ論理的なご説明の迫力に感動したからである。これこそ、今後の日本を左右する教育方針の一つかもしれないと思ったのである。

この‘育成プログラム’は、「GESL」プログラム( Global Environmental System Leaders Program ) という。

「 GESL Symposium 2014 」
<国際的組織で活躍できるグローバル環境システムリーダー>2014.3.6 13:00~17:40

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配布パンフ

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案内の‘セミ・サンドイッチマン’もいた。

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流石に慶応大学!マンホールの鉄蓋デザインも大学のロゴ入り!

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そう、そう、この建物が、私が55年以上も前に‘蛍雪時代’(旺文社)等々で見た慶應義塾大学の建物だ!

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そして、ここが会場の北舘!

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会場に間違いなし! 到着したのは、12:48

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会場の様子。

「会場内での写真撮影は‘OK’?」
「原則として、‘NO’です!」
「そうですか!な~るほど!<‘KO’大学だから、‘OK’の反対?>」

という訳で、始まったら,会場内は撮影禁止!

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同時通訳、第2チャンネルで‘英語’? じゃぁ、本日の発表・会話は、日本語ってこと??

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2014年03月06日12:58 さあ、はじまり、始まり!

(つづく)
[2014/03/06 23:41] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
梅も・・・
2014年03月03日は、ひな祭りの日である!

ここ千葉県・茂原市は、朝からどんよりとした雲に覆われていた。
それにしてもひな祭りとなると、何となくもう春が近づいたという気分になる。
しかし、生憎ここのところ季節は冬に逆戻りをしていて‘寒い’!

それでも、我が家の玄関先の、トイメンの‘Kさんち’の梅は、春をまともに感じて花を咲かせている!
もう満開で、一部散り始めているのであるが、それがまた良いのである!

例の‘徒然草’にも、

第137段 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。云々」

とある。これは、「(桜の)花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。云々」と我々は教わったものである。

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2014年03月03日09:32

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2014年03月03日09:34

この花びらの落ち方がまたいい!

でもこの梅はいつまで咲いていてくれるのだろうか?

晴天の日にまた、満開の梅を撮影しておきたい!
田舎暮らしは‘贅沢’である!
玄関に椅子さえ持ってくれば、‘花見の宴’が開催出来るのだから!

(つづく)
[2014/03/05 23:05] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘全日展’の経営は?(その1)
ここのところ少し前から‘全日展’の杜撰(ずさん)な‘経営’が問題になっている!

<画像は、全てテレ朝のTV画面をカメラで撮影したものである>

全日展前会長が‘知事賞’捏造!

この‘大事件’は、文化を推進させようとする人が、決して惹起してはならぬ‘低レベル’の発想から産まれたことに注目すべきである!

なんと情けない発想だろうか?

こともあろうに、‘県知事賞’という極めて権威のある賞を‘架空人物’に与えてしまうという前代未聞の‘裏切り行為’に世間は驚いた!そして、それが‘道’という、いわば‘霊験あらたかな’修行を超えてきたと思われる人物が、‘身の保全’という修行前の人物が陥りそうな処世術しか示し得なかったという一点において、世間に失望を与え、周辺の協力者をも巻き込んでの裏切り行為に発展したことに無念さが残ったのである!

人物の顔こそ、その人物の‘品格’を物語るものである。画面に登場した、この会長の‘顔’は、どうも潜在意識分を差し引いたとしても、なお‘下品さ’が漂っている!

ただ、多少救われたのは、‘落款’が同一だったという‘間抜けさ’において‘狡猾さ’の軽減があったことである。
世間では、「もう少し上手くやれば、ばれなかったのに!」という声も聞こえはするが、それは間違っている!少なくとも‘道’という修行の道を選択した人物は、決して世間をも、自分自身をも欺いてはならない!

今回の事件は、そのことを教えたくれた‘反面教師’という意味では、微かにその意義はあったのかもしれないが、極めて‘不愉快’な事件であった。

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2014年03月03日08:47 

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文化の象徴の一つとして日本国民には大いに賞賛されている‘書道’の分野において、誠に遺憾な事件であった!

書道という言葉は、‘道’という表現がよく似合うほど、その精神的な‘レベル’は高い!

‘道’とは何か?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(%E5%93%B2%E5%AD%A6)
(哲学)

道(どう・タオ・Tao・みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。

老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。

孔子は天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が伺える。


哲学的な意味合いは、上記の通りなのだろうが、それほど難しいことに踏み込む積もりはない!

通常の生活の中での‘道’は、柔道、剣道、それに茶道、華道に書道という程度である。
勿論、‘野球道’という表現を使う人もいるにはいるが、まだ市民権を得ているとは言い難い。

これらの場合の‘道’は、哲学的な意味も一寸は含まれて入るが、少々意味合いが異なる!
書道は、‘芸道’という範疇の中に入るらしい。勿論、‘道’を‘武道’と‘芸道’に分けるというやり方の場合にである。

さて、‘芸道’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E9%81%93
芸道(げいどう)は、芸能・技芸を日本独自のかたちで体系化したもののことを指す。
通常は、各種の武芸である日本武術、江戸期の公家家職に由来する有職故実・礼式、そのほか能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃などの芸能、邦楽、茶道、華道、香道、書道、盆庭などをはじめとして、伝統工芸的な手工業、古典園芸など、ひろく技術を伝承する分野においてこうした観念が見られる。

由来[編集]

元来「道」という言葉は日本語において「体系」という意味をも持ち、王朝時代から管弦のことを「糸竹の道」と表現するなどの用例があることをみてもわかるように、芸について「みち」もしくは「道」で表現される内容は最初は単純に「芸の体系」というほどの意味であったと思われる。
これが中世期から近世期にかけて、さまざまな芸が体系化され伝授の形式を整えてゆくにつれて、単に芸能、技芸の体系というにとどまらず、それをめぐる思想や哲学的背景、さらに修行や日常生活の場においてこうした形而上的な問題をいかに生かし、みずからの芸を高めてゆくかという問題が含められてゆくようになって成立したのが、芸道という観念である。その成立に関しては中世期に盛んになった秘伝説と伝授思想の確立と、師系を重んじる禅の発想が大きな影響を与えたと見るのが通説である。

特徴[編集]

芸能、技芸を技術的な問題としてのみ捉えることをせず、しばしば実生活と芸の世界を混同させて、常住坐臥が芸を高めるための契機であり、修行であると考え、しかのみならず当人の倫理性、道徳性がそのまま芸にあらわれるがゆえに、芸の向上は同時に人格の向上でなければならない、とするところに芸道の特徴がある。また芸の系統的な伝承を重んじ、先人をうやまうことが厚く、特に直接の師弟関係を大切にするなど、水平方向的なひろがりよりも垂直方向的なつらなりを優先する。こうした考えかたは、日本独自の芸という観念の確立、心境や境地を特に重視する芸術観の尊重、芸系のたしかな伝承、芸が芸にとどまらず思索性を持つことによる内容の深化など、さまざまな効果をもたらしたが、一方で芸の世界における事大主義、神秘主義、普遍性の否定、通に代表される特殊な閉鎖性を生むことにもなった。
外国人にはこうした日本固有の芸道観念が興味深くうつるらしく、ドイツ人の哲学者オイゲン・ヘリゲルが、東北大学に在任中、洋弓(アーチェリー)とは違った日本の弓道の修業の仕方に感銘を受けて『弓と禅』をあらわしたのを嚆矢として、欧米世界にさまざまに紹介されている。

芸道という言語[編集]

芸道という言葉自体は、明治に「柔道」なる新語が登場したのを受けて、剣道、華道、茶道といった造語が相次ぎ、これを総称するために生れたものである。


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(つづく)
[2014/03/04 23:13] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
毎日こんなに事件が・・・
2014年03月03日、出かける予定もあったから、大変慌だたしい時間帯ではあったが、昨日からある情報が入って来ていたので、テレ朝の‘モーニングバード’を08:00から見ることにした。

それは、‘全日展’事件である!

私が、この弊ブログでご紹介をした‘全日展’の書道部門で、前代未聞の大事件が起こったことについての‘セミ特集’である!

いよいよ始まった! 3月3日は、‘ひな祭り’だというのに、ひな祭りの情報など紹介出来ないほど奇怪な事件が多いということのようだ!

<画像は、全てテレビ朝日のTV画面をカメラで撮影したものである>

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2014年03月03日08:00

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お馴染みの‘爽やか’が売り物のお二人である。

<事件ー1> : 中3女子殺害 18歳少年逮捕!

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<事件ー2> 中国雲南省の駅で 「無差別テロ」!

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<事件ー3> : 夜行バスがトラックに衝突!

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<事件ー4> 突然「木の棒」で殴られ重唱!

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<事件ー5> : 全日展 前会長が知事賞捏造!

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これはまた、一体どうしたのだろうか? 捏造とは?

(つづく)
[2014/03/03 23:29] | 国家と社会 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
千葉県・茂原市・赤目川の‘川鵜’!
‘川鵜’が、‘越冬’まがいの行動を起こす ことは、知る人は知っているという。

http://www.pref.shiga.lg.jp/d/rimmu/cyoujyuu/files/kawau2-gaiyou.pdf
滋賀県の大コロニーでは、4 月から 9 月にかけて 1 万羽近いカワウがいるが、越冬期にはほとんどいなくなる。関西広域連合区域全体では、夏期に確認された 23 千羽の生息数が、冬期は 40%も減少している。これは滋賀県の季節変動が全体に影響しているだけではなく、区域外へ移出していると推測されている。


ここ、千葉県茂原市千沢地区で見ることの出来る‘川鵜’は、何となく冬場に多いような気がするから、何処からか‘越冬’に来ているということも考えられる。

もう一度、この地域の鵜」が川鵜であることを‘検証’しておきたい!

海鵜to川鵜
http://www.naisuimen.or.jp/jigyou/kawau/01-1.pdf
海鵜と川鵜とを見分ける場合の判定基準となるのがこの画像と解説である!

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2014年02月16日07:41 千葉県・茂原市・千沢地区の‘鵜’!

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上記の‘見分け方’で判断すると、ここらの鵜は‘川鵜’と判定出来る!


そんな訳で、今回は、少々‘おどけた’川鵜の様子をカメラに収めることが出来た!それは、この日は風が強く、この川鵜達だって電線(正確には、電線だけではな‘鋼撚り線’<ストランド>にも)に止まっているのに必死だったからである!

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この後の3枚の写真が‘傑作’である!  多分こんな‘軽業師’みたいな格好をした川鵜の写真は滅多にないと思われる! これぞ、正に‘風’のお陰である! 彼らも必死でしがみついているのだ! 尾羽をちゃんと働かせて!

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拡大!

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拡大!

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この後、彼等は‘日向ぼっこ’を終えたと見えて、飛び去って行った!

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2014年02月16日08:02

(つづく)
[2014/03/02 23:41] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
正に‘珍客’が・・・
2014年03月01日、思いもしなかった‘珍客’が、登場した!

我が家の裏の小川にである。
千葉県・茂原市・千沢地区を流れる‘赤目川’へ流れ込んでいる小川。
この弊ブログを見て頂いておられる方は、もうご存知の‘カワセミ’が出現している小川にである。

‘カワセミ’様を撮影させて頂いたのは、今年2014年02月19日である!

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2014年02月19日09:12 この画面の中央に‘カワセミ’様のお姿が・・・

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2014年02月19日09:12

この同じ小川に今度は、「‘おしどり夫婦’+α 」が現れたのである!
どう解釈していいかは、判らないが、雄が2羽に雌が一羽!

これって、3羽では、‘おしどり夫婦’には似合わないのだが・・・・

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とにかく、この3羽のうち、2羽は‘おしどり夫婦’だとしたら、あとの1羽は、一体どういう‘立場’のおしどりなのだろうか?

それとも、この雌鳥が‘母親’で、あとの2羽の雄鳥が、‘息子’なら、問題は生じないのだろうが・・・

それにしても、私のカメラに捕らえられた‘おしどりの雄’は、一般的に見られる‘雄の様子’・‘顔つき’とは甚だしく異なる!

下に引用した画像と比べてみれば、どうも‘華やかさ’に欠けることが、一目瞭然である!

SLSosiPair050207meiziZL.jpg
http://www.tougewo-koete.jp/tori/osiSapporoHuyu1.html

さて、この‘解釈’の結論はどう着くのだろうか?

それとも、この‘おしどりの雄’は、めったに見られない‘新種のおしどり’かも?

そうなれば、これって‘ナニコレ珍百景’の候補???

(つづく)
[2014/03/01 23:31] | 仰天! | トラックバック(1) | コメント(0) | page top
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