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皆既月食の2日前
今年(2018年)の明後日(1月31日)に日本で皆既月食があるという!


出典:https://www.nao.ac.jp/astro/feature/lunar-eclipse20180131/

lunar-eclipse-move-s.jpg
出典:https://www.nao.ac.jp/astro/feature/lunar-eclipse20180131/


今日(1月29日)は、その2日前である・・・。
その主役である月と太陽を撮影してみた。
ひょっとして、1月31日が曇りだったり雨だったりしたら、と思ったからである!

<2018年1月29日16:49>
①DSCN6247-2
②DSCN6248-2
③DSCN6248-3
④DSCN6267-2
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<2018年1月29日20:39>
⑥DSCN6285-2
⑦DSCN6285-3


一方、西の空の太陽は・・・

<2018年1月29日17:01~17:05>
⑧DSCN6265-2
⑨DSCN6265-3
⑩DSCN6266-2

PCで少々変化させてみると、光の強度分布が解る!

⑫DSCN6282-2
⑬DSCN6282-3

2018年1月31日が快晴であることを祈りたい!

(つづく)
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[2018/01/29 21:30] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
借景梅の樹の第3輪!
我が家のトイメンの御家(Kさん家)の梅の樹、これは我が家の借景の樹である。

②DSC_4844-2

今年(2018年)の春は異常気象である!
例年に見られない気温の乱高下がある・・・。

この借景の梅の樹にやっと第1輪が咲いたのは、1月9日だった。

<9日の第1輪目>
⑫DSCN5724-2
⑮DSCN5730-4

そして、第2輪は、12日も後の18日である。

<18日の第2輪>
⑩DSC_4825-4

そして、そして、第3輪は1月27日である!
ただし、蕾は24日、大雪が降った22日の後である!
残念ながらこの大雪の時に第1輪は既に命を落としていたのである。

<第3輪目の24日の蕾>
⑪DSC_4834-3

<27日の第3輪>
①DSC_4855 (1)-1-2
②DSC_4859 (1)-2
③DSC_4863 (1)-1-2
④DSC_4868 (1)-1-2
⑤DSC_4867 (1)-1-2
⑥DSCN6240-1-2
⑦DSCN6239-1-2
⑧DSCN6237-1-2
⑨DSCN6238-1-2

大雪にもめげずに約10日間も咲き続けた第2輪目の梅花もそろそろ力尽きて来た!

<27日の第2輪>
⑩DSC_4857 (1)-2
⑪DSC_4857 (1)-3

満開は今後2月に入ってからだろうが・・・。

(つづく)
[2018/01/28 21:35] | ニュース | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
初雪に耐えた2輪目の梅花と第3輪目
この弊ブログで何度もご紹介したが、ここ房総半島・千葉県は茂原市の片田舎にも今季初の降雪があった!
近年に珍しく、約5cmもの‘大雪’だった!

今季やっと咲き始めた我が家の借景の梅の樹の第輪目の梅花が、この降雪に巻き込まれてしまっていて、一時はどうなるのかと思っていたが、翌々日(2018年1月24日)元気な姿を見せてくれた!

まだまだ残雪はあったのだが・・・。

そして、そして第3輪目の蕾がほころび始めたではないか!
どんなものでも‘誕生’は嬉しい!

降雪の翌々日は、快晴だった!

①DSC_4843-2

借景の‘Kさん家’の梅の樹も何だか生き返ったように見えた!

②DSC_4844-2
③DSC_4844-3

私は、第2輪目の場所を探した!
あったあった! 健気にも降雪に耐えていた!

④DSC_4833-2
⑤DSC_4833-3

別の角度から・・・。

⑥DSC_4836-2

残念ながら、第1輪目は降雪に耐え切れずに・・・。

地面にはまだ雪の名残が・・・。

⑥DSC_4839-2
⑦DSC_4840-2
⑧DSC_4841-2
⑨DSC_4841-3

しかし、しかし、第3輪目の蕾が・・・。

⑩DSC_4834-2
⑪DSC_4834-3
⑫DSC_4835-2
⑬DSC_4835-3

この借景の梅の樹が満開になるのはいつなのだろうか?

(つづく)
[2018/01/27 21:16] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
初雪の翌朝(その4):〖2階からの景色<その2>〗
ここ房総半島・千葉県の茂原市へ越して来て23年余りだが、こんな素晴らしい景色に接したのは初めてである!

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〖2階からの景色<その2>〗

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このメジャーから推し量ると、降雪量は約6cm位と思われる!

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この小鳥も初めての景色に驚いているのだろうか?
それとも‘凍りついて’いるのだろうか?
じっとしていて動かない!

(つづく)
[2018/01/26 21:40] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
初雪の翌朝(その3):〖2階からの景色<その1>〗
房総半島・千葉県は茂原市付近に今季初の降雪があったのは、2018年1月22日の夜半である。
翌朝は、打って変わって‘快晴’に恵まれた!

勿論、どんよりとした天気での真っ白な景色も素晴らしいという向きもあるかもしれないが、我々九州出身の輩には、快晴下での雪景色の方がホッとする!

その光景が翌朝、22日の太陽が昇り始めた時点で見られ始めた! 
一寸した感動ものだった!

「馬子にも衣裳」という諺があるが、こんな田舎での見慣れた世界が、降雪の真っ白さのお陰でまるで天国にでも行ったような気分になったから不思議である!(勿論、天国の景色がどんなものかは、知る由もないが・・・)


〖2階からの景色<その1>〗

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「色の白いは、七難隠す」とも言う!
何と素晴らしい景色なのだろうか!

昇り始めた太陽光の遠赤外線で温められたお陰で直ぐに水蒸気が出始めたと見えて、薄っすらと‘靄(もや)’が立ち込めた景色は今迄見たことがなかった!

(つづく)
[2018/01/25 23:55] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
初雪の翌朝(その2):〖1階からの景色<その2>〗
一昨日(2018年1月22日)の今季の初雪には一寸驚かされた!ここ房総半島・千葉県では年に2~3度しか降雪はないのに、その降り方のスピードが余りのも速かったからである。

〖1階からの景色<その2>〗

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1階からの景色はこれで終了して、次回は2階から見た降雪の景色を・・・。

(つづく)
[2018/01/24 23:50] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
初雪の翌朝(その1):〖1階からの景色<その1>〗
ここ房総半島・千葉県は茂原市での昨日(2018年1月22日)の初雪については、昨日中にこの弊ブログに掲載した!

翌朝、つまり今朝の降雪の状態が気になったし、朝日に映える一年振りの景色を待ちに待った!

〖1階からの景色<その1>〗

① 房総半島では、近年稀にみる大雪である!
② 何だか‘怪しげな’足跡が見られた!
③ その証拠に、竹が雪の重さで極端に曲げられている!
④ 借景梅も大打撃、これじゃあ、第1輪目も第輪目も危うい!

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(つづく)
[2018/01/23 22:03] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
千葉県・茂原市での今季の初雪!
今日、2018年1月22日(月)房総半島・千葉県は茂原市でも、日本国中の降雪の例に漏れず、今季の初雪が夕方降り始めた。

ここ房総半島では、降雪は年に2~3回といったところであるので、それはそれは珍しい!

<17:30頃>雪が降り始めた!

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<18:30頃>かなり積もり始めた!

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<21:30頃>かなり積もって来た!

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<突如の停電!21:35過ぎに!>

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約15分間の停電!ローソクも用意していない!すぐさま仏壇へ!トイレが使えない!風呂も温度上昇中で止まったまま!
電気の有難さを今更ながら・・・。

千葉県で4万軒以上、神奈川県で2万軒以上だったらしい!

明日はどのくらいの降雪量だろうか?

(つづく)
[2018/01/22 22:31] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
真冬の夕陽と空
「秋の日はつるべ落とし」と言われるが、冬の日だって直ぐに夕陽は落ちてしまうように感じられる!

http://weathernews.jp/s/topics/201610/060145/
「秋の日はつるべ落とし」とは、他の季節に比べ、秋は急速に日が暮れるということを表しています。
では、なぜそのように言われるようになったのか、様々な観点から考えてみようと思います。


<日没時刻の変化>
201610060145_box_img0_A.png
※2015年 東京でのデータ

>当然のことながら、日没時刻というのは、春から夏に向かって遅くなり、夏から秋に向かって早くなっていきます。
昨年の記録を見ると、一番遅い日没時刻は6月で19時。一番早い日没時刻は11月で16時30分。ここには2時間半の差があります。

また、春(3〜5月)から夏(6〜8月)への変化より、夏から秋(9〜11月)への変化の方が大きいことがわかります。



<日中時間の変化>
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※2015年 東京でのデータ

201610060145_box_img3_A.png
※2015年 東京でのデータ

実際の結果
薄明継続時間も6月が一番長くなっており、日が沈んでから約2時間かけて、ゆっくりと暗くなっていきます。しかし9月・10月は、日没後わずか1時間25分で夜を迎えます。この約20分〜30分の差が急に暗くなったという感覚を助長させるのかもしれません。


日没時刻、日中時間、薄明継続時間の3つの観点から検証してきましたが、「秋の日はつるべ落とし」と言われるようになった理由には、以下のことが関係していると考えられます。

・夏に比べて秋は薄明継続が短くなるため、急に暗くなったと感じさせた。
・秋は日中時間が減ったことに加え、日没時刻自体も早まり、早く暗くなったと感じさせた。
・春と秋は条件的によく似ているが、夏→秋→冬→春という季節の並びが、より顕著に感じさせた。


実際、季節ごとに様々なものは変化していますが、「秋の日はつるべ落とし」は感覚的な部分が大きいようです。このことをふまえて、秋の空の変化を楽しんでみてはいかがでしょうか。


昨日(2018年1月20日)の夕刻、西の空が急に赤くなった!
夕陽を撮影しようと思って、大急ぎでカメラ片手に川の堤防に走ったが「つるべ落とし」であっと言う間に太陽は沈んでいった!


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沢山のカラスが、大急ぎで一定の方向へ飛んで行ったのだが、一体何処へ?
「カラス」だから、今まで「空(カラ)」になっていた自分達の「巣(ス)」へ! それで「カラス」?

(つづく)
[2018/01/21 08:04] | 田舎暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居お堀の水鳥
今年、2018年1月16日の昼下がり、御徒町での打ち合わせに行く途中、少々時間があったので、久し振りに皇居のお堀に行ってみた!

正に冬のど真ん中で、水鳥の動きもそんなに速くもなかった!

「エサは十分にあるのだろうか?」等と余計なことを想いながら・・・。
ただ、白鳥が独りぼっちだったのが気になった!

聞くところによると、皇居のお堀の白鳥は、「飛べない措置」がされているとか・・・。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1489881834
皇居の白鳥って飛ばないのですか?

fuji_hosinotori_waraさん2012/6/2823:19:40
皇居の白鳥って飛ばないのですか?

皇居のお堀にいる白鳥って飛んでいるところを見たことない気がするのですが、
飛べないんですか?
飛べないor飛ばないとしたら理由も教えてください

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ベストアンサーに選ばれた回答

ko_taro_kunnさん 2012/6/2823:49:27
まず、皇居にいるハクチョウは、野生個体でなく、飼育されている個体です。
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13148873926565

ですので、飛べないように片方の羽(翼)を翼角から先を外科的に切断していると思われます。

また、この個体は、コブハクチョウといいまして、本来日本に生息していない鳥です(極々まれに、迷鳥として日本でも記録があります)。
http://www.yachoo.org/book/view/kobuhakutyou
なので、別の場所に飛んでいってしまっては困るのです。

ご参考になれば幸いです。


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もう直ぐ春が来るのを、この水鳥達はどんなセンサーで感じているのだろうか?

(つづく)
[2018/01/20 15:12] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
借景梅の2輪目が・・!
この弊ブログで何度も紹介したことのある我が家の玄関前にある‘Kさん家’の梅。
これは、我が家にとっては素晴らし‘借景’で、春の訪れを思わせてくれる貴重な存在である・・。

②DSCN5714-2
③DSCN5715-2

今年、2018年もどうやら異常気象の様で、それはこの借景の梅の反応で判る!
この梅の花咲き第1輪は、1月6日だった!

⑪DSCN5724-1
⑫DSCN5724-2

ところが、ところが、第2輪目が、なかなか咲かない!
やっと第2輪を見つけたのは、12日も後の昨日18日になってからである・・。

「やっぱり、今年も異常気象なの?」と言いたくなる・・・。

<第2輪目>

無題

第1輪目が、‘緑の←1’
第2輪目が、‘赤い↑2’である。

無題-2

待ち遠しかった第2輪目である!

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②DSCN6028-2
③DSCN6028-3
④DSCN6030-2
⑤DSCN6030-3
⑥DSCN6030-4
⑦DSCN6030-5
⑧DSC_4825-2
⑨DSC_4825-3
⑩DSC_4825-4

こちらとしては、二人目の孫が生まれたような気分になって、何度も撮影したが、第1輪目も、第2輪目も迷惑千万に思っているに違いない!

この異常気象の中での借景梅の満開はいつ頃なのだろうか?

(つづく)
[2018/01/19 19:47] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2018年の帝国ホテルのロビーの花
東京の帝国ホテルのロビーには、いつも堂々たる花が飾られている!

そんな訳で、日比谷付近で打ち合わせがある場合には必ず帝国ホテルに寄ることにしている!
もう一つ理由があるが、余り知られたくはないことだが、‘小用’を足すことにしている。トイレも綺麗だし、手を洗う際に、洗剤も超一流だし、第一、丁度良い温かさのお湯が出る。「お~お、正に一流じゃの~!」と言う訳であるからであ~る!

さて、今年も二度程お邪魔した!


<2018年1月06日>

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謹賀新年の立看板通り、新年早々は、毎年こんな状態の様である。


<2018年1月13日>

1月6日には既に平日のような状態に替わっていた・・・。

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おっと、気を付けないと、自分が映っている場合がある!

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さて、ホテルの地下には、超一流のお店が沢山あって、それぞれのお店の高級な品々が展示してある!

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これらは、収集家にとっては固唾をのむ程の工芸品に違いない!
残念なことに‘値札’は付いてはいなかった・・・。
どんな高値の品物だろうか?

(つづく)
[2018/01/18 23:31] | 活け花 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2018年1月14日の朝(その2)
ここ房総半島・千葉県は茂原市千沢で、今季一番寒かったのは、2018年1月14日だったと思う!

赤目川付近の様子の続きは以下の通り・・・。

<川鵜の様子7:37>

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<同じ場所での2015年5月4日7:55の川鵜の様子>
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<田圃を散歩している様子2018年1月14日7:42頃>

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<田圃の氷の様子7:45頃>

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今日(2018年1月17日)は、午後から小雨になったが、最高気温は‘15℃’というから、花見の頃のような気温!

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明日までは小春日和を通り越しての‘馬鹿陽気’らしい!

(つづく)
[2018/01/17 21:14] | 田舎暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2018年1月14日の朝(その1)
今日(2018年1月16日)は、真冬のど真ん中であるが、異常気象(?)のお陰でか、南風が吹いて、ここ数日は、ここ関東・房総半島・千葉県は、3月の気候らしい!

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勿論、これで直ぐに春になってしまう訳ではない!上記の予報通り、1月22日からは、最高気温が8℃らしいから、また真冬に逆戻りである。

しかし、ここの所裏日本では大雪となり寒さが続いている!
地球温暖化は、裏日本にはないのか?と思いたくなるような大荒れの天気である!

勿論、一昨日の14日は、ここ茂原市付近でも最低気温は零下になっていた。
その日、たまたま朝早く、と言っても7時過ぎであるが富士山の冠雪具合を見たくて散歩に出た。
富士山の冠雪具合は、この弊ブログでご紹介した通り、完全に雪が覆っている・・・。

<2018年1月14日7:27の富士山(150km離れた茂原市から)>
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<2018年1月04日8:00の富士山>
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御覧の通り、10日間前は冠雪は、不十分だった!

さて、そんな訳で、今季最も寒かった2018年1月14日の我が家付近の‘景色’を・・・。

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この川の名前は‘赤目川’という。多分大昔には、‘赤目魚’が住んでいたに違いない!

勿論、下の画像は、赤目川のものではない。
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出典:http://namazuya.jugem.jp/?eid=693

http://namazuya.jugem.jp/?eid=693
アカメ
(赤目) Lates japonicus
アカメ黒潮に面した西日本の太平洋沿岸域だけに分布する日本の固有種。
目は通常は他の魚と同様に黒いが、暗い場所で光を反射すると角度によっては赤く光る。アカメは1984年に、近縁のシーパーチ( Lates calcarifer )と別種であることが明らかになり新種として記載された。本種はシーパーチと比べて、ウロコが小さく、背ビレが高く、尻ビレの第2刺が一番長いことや幼魚斑のパターンの違いでシーパーチと区別可能である。


(つづく)
[2018/01/16 23:51] | 田舎暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
珍しくカワセミの画像!
我が家の車庫は小川の崖っぷちにある!

数年以上も前から、毎日、毎日カワセミがこの小川の上を飛行しているが、目にも留まらぬ速さで通過するから、画像に納めることはなかなか難しい!

ところが、小川の小枝に留まって、何分間も我々の前で、それも‘つがい’で‘演技’をしてくれたことが一回だけある!
その時は、餌まで捕ってくれるパホーマンスまでやってのけてくれたのである!
その時の感動を‘奇跡が起こった’として、この弊ブログで報告をした経験がある・・・。それは、2015年5月21日のことだった!(後で掲載)

昨日は、たまたま、私が2階のベランダに居る時に、一羽のカワセミが小川の小枝に留まっているのが見えた!
カメラは1階に置いてある。スマホは身に着けていたので、先ずはスマホで撮影した!スマホのカメラは‘望遠’が利かない!

そこで、多分駄目だろうとは思ったが、1階にカメラを取りに行った!
その間数分間!
驚いたことに、その数分間の間、カワセミは小川の小枝にずっと留まっていてくれたのである!

<2018年1月14日14:46 スマホの画像>

何れの画面も中央部にカワセミが・・・!

①DSC_4818-2

中央部を拡大すると、

②DSC_4818-3

またこの中央部を拡大すると・・・。

③DSC_4818-4

スマホでは、約10mくらい先の小さなものの画像は、PCで処理しても、せいぜいこの程度である!

<2018年1月14日15:06> カメラで撮影(<カメラの時計が少々(15分ばかり)進んでいるらしい?>

④DSCN5984-2
⑥DSCN5986-3
⑦DSCN5981-2
⑧DSCN5981-3



<2015年5月21日10:50~11:28> カメラで2~3mの距離から撮影

⑨20150524075127105
⑩20150524074729245
⑮20150523165714eca
⑪201505241205291cf
⑫20150524120757006
⑬20150524121001444
⑭20150524121003130

カワセミの巣は、どうやら数十mのところにあるらしい!?
昨日お出ましのカワセミが2015年のカワセミかどうかは判らないが、カワセミの平均寿命は、何年ぐらいだろうか?

http://animaldiversity.org/accounts/Alcedo_atthis/#lifespan_longevity
寿命/長寿
一般的なキングフィッシャーは、15年間も生き続けることができます。平均寿命は7年です。しかし、発達の最初の数カ月は、成人に生存している若者のわずか50%で最も危険です。(Bannerman、1955 ; Waterscape、2005)


(つづく)
[2018/01/15 16:32] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今朝の富士山と遠くのホテル
一昨日(2018年1月12日)、黄昏れ時期の富士山と遠くのホテルの画像をご紹介した・・・。

今朝は、真冬のど真ん中で、水蒸気は少ないこともあって、また富士山の冠雪が完璧になったこともあって、一寸早起きで対比写真を撮ってみた!

<一昨日の夕方の富士山>

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<今朝の富士山>

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<一昨日の遠くのホテル>

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<今朝の遠くのホテル>

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結局よ~く解るように、もう一度一枚づつの比較で・・・。

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朝と夕刻では、当然ながら同じものの風景様子は変わる!

(つづく)
[2018/01/14 21:11] | 対比 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年12月のランキング!
遅ればせながら、昨年(2017年)12月のランキング!

2017年12月期のサブジャンルでの順位と月平均順位0001-1
2017年12月期のサブジャンルでの順位と月平均順位0001-3
2017年12月期のサブジャンルでの順位と月平均順位0001-2

① 最高位:12月18日の‘第6位’!

② 最低位:12月26日と29日の‘第20位’

③ 月間の平均順位:12位

(つづく)
[2018/01/13 23:28] | 統計処理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
富士山とホテルと梅と・・
 今年(2018年)になって初めての夕刻の富士山と遠くのホテルと玄関前の一輪の梅と・・・

<1>夕焼けに映える富士山(約150kmの距離から)

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<2>遠くのホテル

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(画面の右上の印影は、羽田空港へ向かう飛行機)

実はこのホテルは、撮影場所から約12~3km離れたホテルで、以下の画像のホテルである!

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<3>我が家の玄関前の梅の樹にやっと一輪だけ咲いた梅の花と枝

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(つづく)
[2018/01/12 23:55] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象(その12):東公園の亀山上皇!
2017年の暮れに博多へ行った!

50年以上も前に8年間を暮らした場所でもある・・・。
それ以来何度も博多へは行ったものの、東公園へは行く時間的余裕もなかったから、亀山上皇にお会いする(?)チャンスがなかった!

さて、‘亀山上皇’と言えば、博多っ子は、誰でも知っている!

http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/toukou.html
亀山上皇像
日蓮像から東、約150メートルの位置に亀山上皇像がある。 上皇は元寇当時の朝廷における事実上の実権者であった。しかし政治的実権は鎌倉幕府にあったので、元軍の襲来に対して朝廷では、神に祈ることにより国難を防ぐ他なかったのである。
明治時代、上皇が身をもって国難に報いたいと伊勢神宮に祈願した故事を記念して、元寇を愛国精神高揚のシンボルとして亀山上皇像設立運動がくりひろげられた。
上皇像は博多出身の仏像彫刻家・山崎朝雲が製作にあたり1904年日蓮上人像とともに落成した。


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筥崎宮の木造の亀山上皇の像は、以下の通り・・。

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なお、この東公園の亀山上皇の目の前は、福岡県庁である!

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(つづく)
[2018/01/11 16:29] | 想い出 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象印象(その11):東公園の日蓮さん
昨年の終わり近くに博多へ行った・・・。

この地は、私の青春時代約8年間を暮らした懐かしい場所である!
指折り数えてみれば、昭和34年から8年間だから、およそ50数年も昔である・・・。
その間に何度も訪ねてはいるが、仕事でトンボ返りの繰り返しだったから、落ち着いて懐かしい場所を訪ねることはなかった!

と言う事は、今日ご紹介しようと思っている‘東公園の日蓮さん’にも50数年振りに会う事だったのである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗[注釈 3]・法華宗の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

生涯[編集]

年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年9月)
1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生[2][3]。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 4]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。
1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。
1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。
1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 5]。
1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける[注釈 6]。
1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納[5]。
1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読[6]。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする[7][8]。
1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 7]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
詳細は「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」を参照
その後、ふたたび布教をおこなう。
1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。
詳細は「蓮着寺」を参照
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。
詳細は「小松原法難」を参照
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1269年(文永6年)富士山に経塚を築く[9]。

佐渡へ向かう前に滞在した地に建つ日蓮聖人獅子吼の銅像(新潟県長岡市寺泊・法福寺)[10]
1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 8]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。
詳細は「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」を参照
10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[11]。
1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。
1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
1282年(弘安5年)
9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[注釈 9]。
10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)[注釈 10]。
 10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。

思想[編集]

遺文[編集]
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える[12] 。

守護国家論(しゅごこっかろん)1259年
災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年
災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年
立正安国論(りっしょうあんこくろん)[13]、1260年
顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年
法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年
八宗違目抄、1272年
開目抄(かいもくしょう)1272年
真言諸宗違目1272年
祈祷抄(きとうしょう)1272年
如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年
顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年
小乗大乗分別抄、1273年
木絵二像開眼事、1273年
法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年
神王国御書、1275年
種種御振舞御書、1275年
撰時抄(せんじしょう)1275年
報恩抄(ほうおんしょう)1276年
四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年
諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年
三大秘法禀承事[14][15](さんだいひほうほんしょうじ[16]、さんだいひほうぼんじょうのこと[17])1282年(但し、真偽両説あり[18][19]。)
唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)
兄弟抄
下山御消息(しもやまごしょうそく)
他四百余篇。

立正安国論[編集]
詳細は「立正安国論」を参照
日蓮が文応元年(1260年)7月16日[注釈 11]に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。

その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。

しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。

日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

一谷入道御書[編集]
「元寇」を参照
文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている[20] 。

(前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。

その他の書簡における蒙古襲来についての記載[編集]
日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。

例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している[21]。

しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている[22]。

四箇格言[編集]
詳細は「四箇格言」を参照
日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない[23]。

立宗感[編集]
自身は法華宗の僧と称していた[24]が、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする(勝呂信静 1967, p. 53)、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』[25])を根拠とした(宮崎英修 2013, p. 30)、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする(金岡秀友 1979, p. 230)である。


http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/toukou.html
日蓮上人像
福岡市東公園の元寇記念館のすぐ前に日蓮上人像がある。 日蓮上人像が完成したのは1904年11月日露戦争がはじまった年である。 日蓮は1286年正月、国難到来の予言が的中したことを述べ禅宗を批判した。さらに執権になったばかりの北条時宗に「立正安国論」を上進した。
日蓮上人像の高さは台座を含めて約23メートルあり、台座には八面の元寇パノラマが銅版に鋳出されている。これを製作したのは横浜生まれの矢田一嘯で、彼は1893年ごろに福岡に定住し、元寇パノラマ画の製作活動を行なった。博多人形師・白水六三郎を育てたことでも知られている。


(つづく)
[2018/01/10 23:52] | 想い出 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
梅一輪・・・!
‘梅一輪’と言うと、やはり下の俳句を想い出す。

https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/63407585.html
**************** 名歌鑑賞 ****************

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ   
                 服部嵐雪

(うめいちりん いちりんほどの あたたかさ)

意味・・梅が一輪だけ咲いた。まだ冬だけれども、どこか
    にほんの少し暖かさが感じられるようで、春の訪
    れがま近いと思われる。

    寒中にわずかながら春のいぶきを感じとって、梅
    の一輪に春への期待を詠んでいます。

    この句は「梅一輪。一輪ほどの・・」と切られて
    いるのだが、「一輪一輪ほどの・・」と続けて読
    んで「一輪つづ開くに連れて次第に暖かさを増し
    てくる」と解釈も出来ます。


作者・・服部嵐雪 =はっとりらんせつ。1654~ 1707。
    芭蕉に師事。

出典・・句集「庭の巻」(笠間書院「俳句の解釈鑑賞事典」)


残念ながら、私はこの句を学校で教わっていながら、

「梅一輪 一輪ごとの 暖かさ」

と覚えていた!

私が勘違いで覚えていた、上記の通り「一輪ごとの」と詠めば、時間経過が詠まれていることになる。

と言う訳で、全く別の句になって‘優劣’をつけるとすると、さて「俳句の才能査定ランキング」で有名な‘夏井いつき’先生の判定は?

さて、冬のど真ん中の今日、2018年1月9日の朝、房総半島・茂原市付近は異常な気温に見舞われた!?

①Screenshot_20180109-154342-2

以下の写真を撮ったのは、12時過ぎだったので、気温は既に18℃くらいにはなっていたに違いない!

これが、我が家の借景の‘Kさん家’の梅の樹である。

②DSCN5714-2
③DSCN5715-2
④DSCN5740-2

見たところ、一輪の花も咲いていない!
下の写真の通り、梅の樹の幹には独特の‘花’のように見える‘うめのきごけ (梅の木苔)’が・・・。

https://www.weblio.jp/content/%E6%A2%85%E3%81%AE%E6%9C%A8%E8%8B%94
●わが国の本州、岩手県以南の主に太平洋側から四国、九州に広く分布しています。低山地の木の幹や岩などに着生し、灰緑色の紙のようなかたちです。必要な水分や養分は空気中から取り入れています。「うめのきごけ」はとくに二酸化硫黄濃度に敏感で、大気汚染が進むと生育できません。そのため大気汚染の指標植物にもされています。また着生した枝は、お正月の生け花にも利用されます。


と言う事は、我が家の付近は、大気汚染がない、と思っても良いことになる・・・。

⑤DSCN5743-2
⑥DSCN5745-2
⑦DSCN5745-3
⑦DSCN5745-4

誠に見事な‘うめのきごけ (梅の木苔)’である!

さて、肝心な‘梅一輪’は?

⑧DSCN5738-2
⑨DSCN5738-3
⑩DSCN5738-4

蕾は、もう相当大きくなっているのだが・・・。

あった!あった!たった一輪だけ!

⑪DSCN5724-1
⑫DSCN5724-2

別の角度から・・・。

⑬DSCN5730-2
⑭DSCN5730-3
⑮DSCN5730-4

今年、2018年最初の我が家の借景梅の‘一輪’である!
さて、さて、満開はいつ頃?

(つづく)
[2018/01/09 17:18] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
枯れすすき・・・。
この歳(78歳)になると‘枯れ’とつくものに‘親しみ’さえ感じ始めた!

自分とどこかで重なるからだろうか?

これまでは、‘枯れすすき’等には興味のなかったが、最近は「ご苦労様!」と言いたくなるから不思議である!
そして「この先、この‘枯れすすき’の行き先・消え方は?」と思ったりする。

2018年1月7日の夕刻である。場所は、房総半島・千葉県は、茂原市の北西部である・・・。

DSC_4774-2.jpg

この川は、「赤目川」である。川の周辺には‘すすき’が沢山・・・。

DSC_4774-3.jpg
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この辺は、結構風が強いのだが、ススキの穂はまだ沢山残っていて、‘枯れすすき’となっている。

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何だか今にも穂が風に煽られて‘種’が飛んで行きそうなのだが・・・。
‘エンジン’はもう掛っている!

 さて、さて、この‘すすき’も直ぐ傍に在って、いつだって見られるので、よ~く知っているようで、そんなに良くは知らない・・?

‘すすき’とは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%82%AD
ススキ(芒、薄、Miscanthus sinensis)とは、イネ科ススキ属の植物。尾花ともいい秋の七草の一つ。また茅(かや。「萱」とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。 野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である。

特徴[編集]

高さは1から2m。地下には短いがしっかりした地下茎がある。そこから多数の花茎を立てる。葉は細長く、根出葉と稈からの葉が多数つく。また、ケイ酸を多く含むため堅く、縁は鋭い鉤状になっているため、皮膚が傷つくことがある。

夏から秋にかけて茎の先端に長さ20から30cm程度の十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽい色をしているが、種子(正しくは穎果・えいか)には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶことができる。

日本には全国に分布し、日当たりの良い山野に生息している。

夏緑性で、地上部は冬には枯れるのが普通であるが、沖縄などでは常緑になり、高さは5mに達する。その形ゆえに、たまにサトウキビと勘違いする観光客がいる。国外では朝鮮半島・中国・台湾に分布するほか、北米では侵略的外来種として猛威をふるっている(日本にセイタカアワダチソウが侵入したのと逆の経路で伝播)。

遷移上の位置づけ[編集]
植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階に当たる。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られないが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになる。ススキ草原を放置すれば、アカマツなどの先駆者(パイオニア)的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。後述の茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持していたものである。

分類[編集]
本州南部以南の海岸線には、葉の幅が広く、ざらつきの少ないものがあり、これをハチジョウススキ(M. condensatus Hack.)という。変種と見なす立場もある。

同属の別種もいくつかある。やや華奢な植物で、水辺に生えて、綿毛が純白のものにオギ(荻、M. sacchariforus (Maxim.) Benth.)がある。ススキよりさらに大きく、堤防などに大きな株を作るものにトキワススキ(M. floridulus (Labill.) Warb.)がある。他にもカリヤス(苅安、M. tinctorius Hack.)、カリヤスモドキ(M. oligostachyus)など数種が知られるが、多くない。

ススキはイネ科の代表のひとつと見なされているから、ススキの名を持つ植物は多く、たとえば以下のようなものはさほどススキに似ておらず、分類上も近くはないがその名を持っている。

アブラススキ、コメススキ、ヒメアブラススキ、ススキメヒシバ など

利用[編集]
かつては「茅」(かや)と呼ばれ、農家で茅葺(かやぶき)屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用することが多かった。そのため集落の近くに定期的に刈り入れをするススキ草原があり、これを茅場(かやば)と呼んでいた。現在では、そのような利用がされないので、その多くは遷移が進んで、雑木林となっている。そのため、ススキ草原に生育していた植物には、かつて普通種であったが、現在は稀少になっているものがある。また、カヤネズミなども同様に見かけにくくなっている。

また、未成熟の穂を食用とする地域もある。

東京・雑司ヶ谷鬼子母神では、ススキの穂をミミズクの姿に作った「すすきみみずく」が有名。

文化[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。

日本文化とススキ[編集]
十五夜の月見には、ハギ(萩)とともにススキを飾ることが多い。 花札では、八月、すなわち旧暦8月、新暦の感覚で秋に相当する時節に用いられている。 沖縄地方には、ススキの葉を環のように結んで魔除けとする風習がある。

日本語では、ススキの穂は、それを動物の尾に見立てて尾花(おばな)と呼ぶことがあり、ススキ自体もそのように呼ばれることがある。この「尾花」はススキおよびススキの穂を意味する古名であり、奈良時代初期の歌人・山上憶良が『万葉集』(巻八 1538)にて「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また 藤袴 朝顔の花」と詠んだように、古来、秋の七草の一つに数えられている。 また、馬の毛色で尾花栗毛(おばなくりげ)というのは、栗毛馬や栃栗毛馬であることに加えて鬣(たてがみ)や尾の長毛が白色のものを指す。この白毛は遠目には金色に輝いて見えるため、その特徴を秋のススキの穂になぞられて呼ばれたものである。

枯れすすき(枯薄、花も穂も枯れたススキ)には枯れ尾花/枯尾花(かれおばな)という呼称(古名)もあり、現代でも「幽霊の正体見たり枯尾花」という諺はよく知られている。これは江戸時代中期の国学者で俳人の横井也有が俳文集『鶉衣』の中で「一年松木淡々己れ高ぶり 人を慢(あなど)ると伝へ聞き 初めて対面して化物(ばけもの)の正躰見たり枯れ尾花 其(そ)の誠心なること大概この類なり」と述べたうちの「化物の正躰見たり枯尾花」が世に広まりつつ変化したものであるが、これは「疑心暗鬼に陥った心境下では風になびく枯れ尾花のような何でもないものも怪しげに思え、幽霊のようなただならないものと見間違えてしまう」ということから、「恐怖心や猜疑心があると、何でもないものでも、怖ろしげなもの、怪しげなものに思えてしまう」ということを意味する譬えとなっている。さらには、やはりススキの穂にまつわる類義語として「落武者は薄の穂にも怖(お)ず」 (cf. wikt) があるが、こちらは「落武者は捕まることを警戒し、怯えているためススキの穂にも恐怖する」ということから転じて先の諺と同じ意味で用いられる。 また、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村は「狐火の 燃えつくばかり 枯尾花」と詠んでいるが、こちらは、夜の野原にて風に揺らめく枯尾花の情景を、怪しく燃え盛るこの世のものならぬ狐火に譬えた俳句である。


「幽霊の正体見たり枯尾花」は有名であるが、ここでも

  「枯れ尾花(=枯れすすき)  幽霊」

である。

人間も‘枯れ尾花’状態では、‘幽霊’なのだろう!

(つづく)
[2018/01/08 19:45] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
もう、春はそこまで!(その2)
今年、2018年1月7日は、関東地方は穏やかな晴天になった!
茂原市では、気温は12℃まで上がり、風速はこのところすうじつは、7~8m/秒だったが、今日は1~2m/秒と風を余り感じなかった!

夕刻散歩に出かけたが、遂に‘桜の少し開いた蕾’を見つけた!

驚いたことに、いつもの散歩道の田んぼでは、既に‘田植え’前の事前準備が終わっており、あぜ道の枯れ草焼きが進んでいた。

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さあて、その桜の蕾だが、何十本もの‘河津桜’(ここ白子町では、‘白子桜’と名付けられているらしい)の並木通りを通って、万が一にも、‘開き始めた蕾’を期待していたが、その通りとなった!

①DSC_4761-2
②DSC_4759-2
⑤DSC_4760-2
③DSC_4759-3
④DSC_4759-4

以上の通り、蕾がもう大きくなっているが、見つけた‘開き始めた蕾’は以下の写真の通り、二つだけだった!

<開き始めた蕾ー1>
⑥DSC_4762-2
DSC_4762-3_20180108001333e69.jpg

<開き始めた蕾ー2>
⑦DSC_4766-2
⑧DSC_4766-3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%85
%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9

カワヅザクラ(河津桜)は、日本にあるサクラの一種である。オオシマザクラ (Cerasus speciosa (Koidz.) H.Ohba, 1992) とカンヒザクラ (Cerasus campanulata (Maxim.) A.N. Vassiljeva, 1957)の自然交雑種であると推定されている。
カワヅザクラの学名は 『Cerasus lannesiana Carrière, 1872 ‘Kawazu-zakura’』

特徴[ソースを編集]
1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。

由来[ソースを編集]
1955年に静岡県賀茂郡河津町田中の飯田勝美が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然発見し、庭先に植えたことが由来である[1][2]。1966年から開花し、当初、発見者の飯田家の屋号から「小峰桜」と地元で言われてきたが[1]、その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸(つづく)品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され[1]、1975年に河津町の木に指定された[1]。現在も原木はこの地に存在し、2007年現在で樹齢50〜60年である。また、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。町の木指定に伴い、町民有志らによる植栽が河津川河口などから町内全域に広がったが、樹勢劣化や病虫害による病斑や、植栽間隔が短く枝が接触することによる生育障害も見つかるようになった[3]。また、堤防の樹木は根元から水が入り、土壌が緩んで決壊しやすくなり、流木による堤防の損壊や水位上昇につながる恐れもあることから、1898年施行の改正河川法により河川区域での植樹は禁止された[3]。


(つづく)
[2018/01/07 23:53] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
雀(すずめ)について
我々は、極く普通に身近にあるものについては、何ら疑問を感じない傾向にある。
しかし、その‘もの’について、初歩的な事も知らないで、平気でいる・・・。

例えば、‘水’という毎日出会って毎日飲んでいる‘奇跡の液体’について、ほとんど科学的な知識を持ち合わせていない!

また、‘電気’という‘摩訶不思議な’存在について、確かな知識を持ち合わせている人は、なかなかいない!

そんな訳で、おいおい、ぼちぼち気付いた時に、一寸深く注意して考察してみたいとかねがね思っていた・・。

今日は、‘水’や‘電気’と言った正確を期すためにはなかなか難しい対象は後回しにして、先ずは身近な‘雀(すずめ)’から・・・。

先ずは、自分で撮影したその写真を・・・。
今年の元旦、2018年1月1日の朝、近所で清々しい雀を撮影することが出来た!

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 この雀もちょこちょこと目を動かしている!警戒心が強いことが判る!

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自分で撮影した、この写真をPCで拡大してみて「おや?ウグイスかも?」と思った次第!

さて、さて、雀とは?

例えば、「雀の平均寿命は?」と聞かれて答えられる人はほとんどいない。それは、雀の寿命を知っていても自分の生活に何の役にも立たないから、と言う事もあろうが、研究者が少ないからほとんど判っていないからだという。結局研究者が少ないのは、研究をしても余り生活に役立たないからなのだろうか!?

つまり、「役立たない情報は価値がない!」と言う事に尽きる、という誠に情けない結果となる!
しかし、しかし、‘Wikipedia’で雀を見てみて驚いた。研究は進んでいるではないかっ!

スズメ(雀、すずめ、学名 Passer montanus )は、スズメ目スズメ科スズメ属に分類される鳥類の1種。人家の近くに生息する小鳥である。

目次 [非表示]
1 分布
2 分類
2.1 分類体系上の位置の変化
2.2 亜種
2.3 近縁種
3 形態
4 生態
4.1 食性
4.2 繁殖
4.3 営巣場所
4.4 群れ
4.5 寿命
4.6 捕食者
5 日本におけるスズメ
5.1 分布
5.2 個体数の変化
5.3 日本人との関係
5.3.1 稲の食害
5.3.2 狩猟と飼育
5.3.3 親しみ
5.3.4 神聖視
5.4 日本文化
5.4.1 俳句
5.4.2 物語
5.4.3 童謡
5.4.4 芸能
5.4.5 家紋
5.5 日本語彙・日本語句
5.5.1 語源・表記・意味
5.5.2 スズメという名のつく別種
5.5.3 日本語の慣用句
5.6 栄養
5.7 その他
6 中国におけるスズメ
7 関連画像
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク

分布[編集]

繁殖地 周年生息地 越冬地
西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布する[1]。ただし北はあまり寒い地方にはおらず、北緯で言えば60数度が北限である。またインドにはほとんどいない。ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの熱帯または亜熱帯の地域にも分布域がある。

アメリカ合衆国では、19世紀半ばにミズーリ州セントルイス市に移入された。広範囲に分布するイエスズメとは対照的に、現在では同市と隣接するイリノイ州の一部にのみ生息し、スズメの分布域は広がっていない。

ヨーロッパでは英名の Tree sparrow からも分かるように、主に農耕地帯でみられ都市部にはほとんどいない。都市部にはイエスズメなど別のスズメがいる。一方、東アジアでは農耕地から都市部などのヒトの生活の傍で見られる。

分類[編集]

分類体系上の位置の変化[編集]
シブリー・アールキスト鳥類分類では、スズメ目・スズメ科・スズメ亜科に分類されていた。 日本鳥類目録では以下のように変わってきた。

改訂3版(1942年) スズメ科(現在のアトリ科)
改訂4版(1958年) キンパラ科
改訂第5版(1975年) ハタオリドリ科
改訂第6版(2000年) ハタオリドリ科
改訂第7版(2012年) スズメ科
亜種[編集]
P. montanus. montanus (Linnaeus, 1758) 基亜種 - ヨーロッパからアフリカ北部、モンゴル北部、満州、オホーツク海。[3]
P. montanus. transcaucasicus (Buturlin, 1906) - コーカサス南部(グルジアの黒海沿岸からイラン北部)。[3]
P. montanus. dilutus (Richmond, 1896) - トランスカスピアからパキスタン西部、ゴビ砂漠、中国西部(新疆)。[3]
P. montanus. dybowskii (Domaniewski, 1915) - アジア東部(アムール川下流から満州、朝鮮北部)。[3]
P. montanus. kansuensis (Stresemann, 1932) - 中国西部(ツァイダム盆地、甘粛)。[3]
P. montanus. iubilaeus (Anton Reichenow, 1907) - 中国東部(遼寧から長江下流、陝西)。[3]
P. montanus. obscuratus (Jacobi, 1923) - ネパールからインド北東部、ミャンマー、中国西・中部(四川から湖北)。[3]
P. montanus. saturatus (Stejneger, 1885) 亜種スズメ - 千島列島、日本、韓国、琉球諸島、台湾、中国南東部。[3]
P. montanus. malaccensis (Dubois, 1885) - ミャンマー中部、マラヤ、海南島、ベトナム、インドネシア西部。[3]
近縁種[編集]
ニュウナイスズメ
カシラダカ


形態[編集]

スズメの喉元の黒い部分。

巣立ったばかりの雛の喉元はまだ黒くない。
全長は約14-15cmで、体重は18-27g[4]。ホオジロより小さく、シジュウカラぐらいの大きさ[5]。日本では鳥の大きさ等を比較する場合の基準となる「ものさし鳥」と呼ばれる基本種となる(他に ムクドリ、キジバト、ハシブトガラスなど)。翼長6.7-7.4cm、尾長4.3-4.9cm[6]。

雌雄同色[7]。成鳥は頭部が赤茶色、背中は褐色で縦に黒斑があり、翼に2本の細い白帯がある。頬から後頸、腹にかけては白色をしている。耳羽および目先から喉は黒い。くちばしの色は黒色であるが、幼鳥の時は淡黄色。ただし成鳥でも、繁殖期の終わりごろにはくちばしの根元が黄色になる個体が観察される[8]。全ての成鳥のくちばしの根元が黄色くなるかどうかは分からないが、若い個体と区別が付きにくいので注意が必要である。成鳥の頬にある大きな黒い斑は遠くからも目立ち、これが他の類似種との区別点でもある。幼鳥は全体に色が淡く、頬の黒斑や喉の黒斑がはっきりしない。

くちばしは短くて太い円錐形で、小さな餌をついばむために都合がよい構造となっている。嘴峰長は0.9-1.2cm[6]。足は淡褐色で、跗蹠長は1.65-1.8cm[6]。

ヨーロッパなどユーラシアに広く分布し、アメリカ大陸やオセアニアなどにも移入種として生息する別種イエスズメは、やや大きくて、雄の頭部に灰色の太いラインが入る[9]。

生態[編集]
地上では両足で飛び跳ねて(ホッピング、英: hopping)素早く移動する。飛翔は直線的であるが、急に飛ぶ方向を変えたりすることもできる。

鳴き声は一般的に「ちゅんちゅん」と表される。「チュン」という声を基調に、変化のある鳴き声を続けて発したりするが、ときに「ジュクジュクジュク」と胸を反らせながら尾を上げて激しく鳴くことがある。それは、縄張りを守る威嚇行動と考えられる[10]。また、交尾の際に下の雌が、少し広げた翼を小刻みに震わせながら「ヒヨヒヨヒヨ」と細い声を発する[10]。


草の若葉を啄ばむスズメ。背中の斑模様と羽の白帯が確認できる。
一般に留鳥とされているが、日本で1920年代から1940年代に行われた移動性を調べる調査[11]によれば、移動距離が25km以内(特に5km以内)の真の留鳥集団と100km以上を移動する移動性の高い集団が存在していることが明らかとなった。この調査に於いて、新潟県で標識放鳥された約5700個体のうち7個体が岡山県で、3個体が高知県で標識回収された事が記録されている[11]。

食性[編集]
食性は雑食性で、イネ科を中心とした植物の種子や虫を食べる。また、都市部に生息するスズメはサクラの花の蜜、パン屑・菓子屑や生ゴミまで、何でも食料にする。このような雑食性が、都市部での繁殖を可能にした理由の1つと考えられている。繁殖期には子育てのために虫を好んで捕獲する。夏から秋にかけては稲に対する食害も起こすが、稲の害虫も食べることでも知られる。

親鳥の死亡など緊急な保護を目的などとして飼育する場合、ヒナ鳥は、和鳥用の練り餌のみならず、パンをぬるま湯で柔らかくしたものや植物性の練り餌[12]でも育雛が可能であるが、充分な知識がないと成長せずに死亡するケースも多い。

ヒナ鳥は通常充分に飛べない状態で巣立ちをするため、親鳥は近隣で見守っているもので、持ち帰って飼育していると親鳥が餌を運んでくる事例も確認されている。ヒナ鳥は拾い上げて持ち帰らず、そばの植え込み等に放っておけば親鳥が声で見付け出し育雛を続ける。

繁殖[編集]
繁殖は春から夏頃(主に3-8月[13])にかけて行われる。1年に2回程度繁殖すると考えられている。人に対する警戒心は強いが、人の生活の傍で繁殖を行う。そうすることで天敵などから身を守る効果があると推測されている。一方、集団で繁殖する習性があり、20つがい以上がいないと繁殖しないという報告もある[10]。

巣の材料として、イネ科の植物などの繊維状のものを用いるので、営巣時期にはそれらをくわえて飛ぶ様が見られる。巣の大きさや形状は営巣場所の穴の形や隙間によって変わる[14]。巣に人間などの外敵が近付くと「ヂヂヂヂヂヂ」と短く高い声で警告されるが、この場合、卵の有無は問わず、ある程度完成した巣であると警告を行うとされる。毎日1個の卵を産み[13]、1つの巣に産む卵の数は4-8個とされ[6]、5-6卵が75%を占める[15]。2010年には、秋田県大潟村で、9卵が産みこまれていた例が報告されている[16]。卵は灰白色で、紫褐色や灰色、黒褐色の斑があり鈍端側に多い[6]。卵の大きさは1.7-2.25cm × 1.3-1.55cm[6]。雌雄が抱卵し10-12日で孵化する(抱卵日数は10-14日)。ヒナは晩成性で14-18日で巣立つ。

営巣場所[編集]

犬や猫などの毛も巣材として利用する。
巣は地面近くには作らず、人の身長よりも高い位置に作ることが多い。見た目には無理と思われるような隙間でも擦り抜けられるので、スズメの巣そのものは普段目に付かないが、巣の真下付近には枯草などの巣材の残骸が散らかっていることが多いので、それを頼りに見付け出すことができる。また、雛が餌をねだる高い周波数のチリチリという鳴き声で巣の存在に気付くこともある。

日本では人間の生活に密着しているので、多くは瓦の下や雨樋と屋根の隙間などの屋根の軒の隙間や、この他にも人の住んでいない家や集合住宅の換気扇カバーの中や煙突、プレハブの鉄骨の隙間や穴など直径 3センチメートル または 2.5 cm × 4 cm ほどの隙間さえあれば入り込んで営巣することがある。人間が設置した巣箱も利用するが、この際は出入口の位置まで巣材を積み上げる習性がある。他に、電話線の分配ボックス、電柱トランス下のスペース、交通標識の横に伸びたパイプ等でも営巣する。

自然にあるもので営巣する場合、木の洞(きのうろ)や、さらに樹木の枝の茂みに球形の巣を作ることもある[14]。ツバメなど他の鳥の古巣を利用することもあり、造巣中のコシアカツバメの巣を奪って使った観察記録もある[14]。まれにスズメバチの古巣を利用した例も報告されている[17]。また、トビやクマタカなど猛禽類の巣の下部裏側に営巣することもあり[14]、これは猛禽類の近くに外敵が来ないことを利用していると考えられる。

群れ[編集]

群れで採餌中のスズメ
夏から秋にかけて、街路樹などに数十から数百羽が集まってねぐらを形成する。その年生まれの若鳥が多いとされるが[18]、若い個体だけでなく成鳥もまざっている。集まることで、体温の維持、翌日の餌場の探しやすさ、睡眠時の安全性の向上などの効果があると考えられている[19]。一方で、群れのねぐらに入らず個々の場所に定住する個体は成鳥が多いとされる[18]。

近縁で主にヨーロッパに分布するイエスズメでは、喉元の黒い部分の大きさが、その個体のコンディションの良さを表しており、黒い部分が大きいほど、または黒さが強いほど群れの中で優位な個体であるという研究がある[20]。一方、スズメの頬および喉の黒い部分と社会的なランクについては、それほどはっきりした関係がないことが示されている[21]。ただし、イエスズメについても否定的な研究もあり、スズメについてもまだ十分調べられているわけではない。

寿命[編集]
スズメの寿命はよく分かっていない。理由は、そのための調査があまり行われていないせいもあるが、巣立ち後に分散するので個体の寿命を把握しづらいためである。ヨーロッパの標識調査からのある推定[22]では、秋頃に捕獲された雛が、翌年の春を迎えるまでの生存率は0.49、その後の生存率は年あたり0.32となっている。これらの値が日本でも成り立つとすると、秋頃の当年生まれの個体の期待余命は1.4カ月ほど、1年目の春を迎えた個体の期待余命は1年ほどということになる。卵の段階から巣立つまで、そして巣立った直後から秋にかけては、かなり高い死亡率を持つと思われるので、産卵された直後のスズメの期待余命、つまり寿命は半年以下になるかもしれない[要出典]。

日本における自然条件下の最長寿命は、2,293日である[23]。これは初めて捕獲されて標識されてから、次に捕獲されたまでの日数なので、少なくともこれ以上生きたことは間違いがない。飼育下では、一般に自然条件下よりも長く生き(生理的寿命)、最長15年という記録がある[24]。


捕食者[編集]
都市部では、猫、カラスおよび小型の猛禽類(例えばチョウゲンボウ[25])などが捕食者になっている。農村部ではこれらに加え、中型以上の猛禽類(例えばノスリ、オオタカ、ハヤブサ、フクロウ)も捕食者になる。かつては、ヒトも影響力の大きな捕食者であった。

日本におけるスズメ[編集]

分布[編集]
北海道から沖縄まで見られる。北海道、南千島、本州、粟島、佐渡、隠岐、見島、四国、九州、対馬、五島列島、屋久島、伊豆諸島、奄美大島、琉球諸島、大東諸島では留鳥であり、舳倉島、男女群島、種子島には旅鳥として、またトカラ列島にもまれに認められる[2]。ただし、いくつかの離島には分布していない。例えば、本州から1,000 kmほどある小笠原諸島には生息していないが[26]、これは分散の機会がないからだと思われる。本州から最も距離があるのに分布しているのは、沖縄本島から400 kmほどの南大東島、北大東島である。一方で、舳倉島など能登半島から50 kmほどだが留鳥として分布していない所もあるので、分布は単純に本州からの距離だけで決まるわけではないようである。

生息地は、都市、農村、里などの人の居住域付近であり、一年中見られる留鳥または漂鳥である[26][7]。典型的なシナントロープで、人間が住み始めた集落にはスズメも居着き、逆に人間が離れ集落が無人になるとスズメも見られなくなるという傾向がある。

個体数の変化[編集]
2008年における日本本土のスズメの成鳥個体数は、約1800万羽と推定されている。ただしこの推定には誤差があるため、数千万羽の桁と考えるのが妥当と思われる[27]。この数千万羽は成鳥個体数の推定値なので、秋冬にはこの数倍になると思われる。

日本におけるスズメの個体数は減少傾向にあると言われている。鳥類の行動や生態を研究している三上修らの推定によると、2007年のスズメの個体数は1990年ごろに比べて少なくとも半減、減少率を高く見積もると5分の1になったと考えられている[28]。50年前の10分の1とも推定されている[29]。しかし減少原因についてはよくわかっていないが、気密性の高い住宅の普及によって営巣場所が減少したこと[30][31]、農村部でコンバインの普及によって落ち籾(もみ)が減少しそれによる冬季の餌が不足したこと[32]などが可能性として挙げられている。また農村部と比べて都市部において巣立っているヒナの数が少ない傾向が見られており、都市化に伴う餌不足も、減少原因の候補として挙げられている[33]。このように減少はしているが絶対的な個体数はまだ多く、現在の減少スピードであれば数十年後に絶滅してしまうことはないと言われている[34]。

日本人との関係[編集]

稲の食害[編集]
夏から秋にかけては稲に対する食害も起こす。しかし、農村地帯で繁殖するスズメは、稲にとっての害虫も食べるため、コメ農家にとっては総合的に益鳥の面が大きいともされる[35]。

一方ニュウナイスズメという別種のスズメは、繁殖期には森林または北方で繁殖し、夏の終わりから秋にかけて農村地帯に現れる。益鳥としての働きをしないので害鳥としての面が強いといわれている。この稲を食害するニュウナイスズメとスズメが、スズメとして一緒にくくられることで、スズメが必要以上に害鳥扱いされた可能性もある(ただし、理由はわかっていないが、ニュウナイスズメが大規模に農村地帯に出現することは現在ではほとんどなくなった)。

狩猟と飼育[編集]

人に懐いたスズメ。道に落ちていた弱った幼鳥を保護・育成したもの
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されており[29]、焼き鳥等に食用もされてきた。特に京都伏見稲荷では門前の名物になっている。しかし、現在は需要の低下、狩猟者の高齢化により、およびスズメの個体数減少により捕獲されるスズメの数は減ってきている[36]。一時、中国、韓国から食用のスズメが日本に輸入されていたが、鳥インフルエンザ対策のために現在ではほとんど輸入されていない。日本での狩猟期間は11月15日から2月15日の間とされ銃や罠を使用しない方法であれば誰でも捕獲できる[37]。また狩猟期間に関わらず飼育することも自由とされている[37]。

スズメの捕獲法はいくつかあるが、古くはねぐらになっている藪の周囲に大型の網(袋網という)を張り、勢子とよばれる役割のものが、音を立てたり藪を棒などで叩いて網に追い込む猟法も行われていた。この猟法は大量捕獲が可能なので地獄網とも呼ばれる。現在ではこのような猟法は禁止されており、スズメの捕獲は、スズメが集まるところに網を立てておいてスズメが来たら網を倒して採るむそう網という方法で行われている。

4月前後には巣立ちに失敗したり弱ったりした幼鳥が人間に保護されることも多く[38][39]、保護ボランティアが募集される自治体もある[40][41]。日本野鳥の会などでは、弱ったりしていない場合は安易に保護せず2-3時間ほど、その場所で親が来ないか離れて観察するように指導しており[42]、衰弱している場合や親鳥が現れない場合は保護して専門家に預けるようにとしている[42]。

古くから身近な鳥なのに他の鳥のようにペット化されない理由としては、飛翔力が強くカゴ内で激突して傷付き易いことや、餌を大量に食べるので糞も他の飼い鳥と比べ量が多いこと、砂浴び好きな習性のためカゴ内で餌や新聞紙に身体を激しくこすりつけ周囲に大量の餌や糞を跳ね飛ばすことが挙げられる。 しかし飼ったことのある人の証言では、非常に人懐こく賢いことがしばしば言及される。芸に使われることのある鳥の種類として、タカ、スズメ、ジュウシマツ、ヤマガラを挙げている資料[43]があり、同資料においてこの中でスズメはもっとも利口だが飼育が困難、ヤマガラの方が飼育に適し、また調教が楽なので非常に流行ったとの記述がある。


目次の項をご覧戴ければお判りの通り、まだまだ続きがあるのだが・・・。これ以上は、‘Wikipedia’をご参照あれ!

(つづく)
[2018/01/06 23:55] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
真冬の‘セイタカアワダチソウ’と‘雪柳’は、今!
昨日、2018年1月4日の朝8時頃、まだ気温は5~6℃である。

セイタカアワダチソウは、秋には黄色い花(?)が咲き誇っていたが、真冬の今は寒さに震えているように見える!

<秋のセイタカアワダチソウ>

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<昨日(2018年1月4日)の朝のセイタカアワダチソウ>

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春の備えは始まっているのだろうか?


<昨日(2018年1月4日)の朝の雪柳>

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一輪だけ「春がもう来た!」勘違いしている!? それとも「他より先に!」と意気込んでいる!?

(つづく)
[2018/01/05 10:48] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
新年の月と富士山
今朝、2018年1月4日の朝は快晴で、十六夜の朝月と富士山が関東地方から見えた!

下の画像は、我が家から70m位のところから見た‘月’と‘富士山’であるが、さて、何処に月と富士山が?

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<月>

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月
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<富士山>

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富士山
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富士山の冠雪程度は、例年にない少なさのような気がする!

さて、雪が少ないとか気温が云々という時には、必ず‘地球温暖化’議論が出るのだが、今はその議論はない!
これも不思議である!

(つづく)
[2018/01/04 12:54] | 富士山 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
春一番?
今日、2018年1月3日は、朝から夕方まで‘10m/sec’位の風が吹いた!
場所は、ここ房総半島・千葉県は茂原市付近である。

「これって、春一番?」

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「いや、いや、春一番は、まだ、大分あ~と!」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA
春一番(はるいちばん)は、北日本(北海道・東北)と沖縄を除く地域で例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日などは寒さが戻ることが多い。これを「寒の戻り」と言う。

発生条件[編集]
春一番の発生条件及び認定基準は、地域・気象台により、多少異なる。おおむね、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件とする。ただし、「日本海を進む低気圧に向かって」という条件は比較的幅広く解釈されることもある。たとえば、2006年3月6日には、北海道の北に低気圧があったものの、この低気圧に向かって吹いた南寄りの強風が春一番と認定された。また、春一番は必ずしも毎年発生する訳ではなく、風が春分の日までに気象台の認定基準にあてはまらず「春一番の観測なし」とされる年もある。春一番が観測されたとき以降、同じ年に同様の南風が複数回発生した場合には、俗に「春二番」「春三番」と呼ぶことがある。2013年2月2日には、南方の暖かい風が吹き込み全国的に気温が上昇したが、立春の前であったために、定義上、気象庁はこの風を「春一番」と認めなかった。(後述参照)

語源[編集]
気象庁は「春一番」の語源について、石川県能登地方や三重県志摩地方以西で昔から用いられたという例を挙げ、諸説があるとしつつ、安政6年2月13日(1859年3月17日)、長崎県壱岐郡郷ノ浦町(現・壱岐市)の漁師が出漁中、おりからの強風によって船が転覆し、53人の死者を出して以降、漁師らがこの強い南風を「春一」または「春一番」と呼ぶようになったと紹介している[1]。一方、長崎県では、この事件以前から郷ノ浦町で「春一」と呼ばれていたものが、事件をきっかけに広く知られるようになったとしている[2]。この故事により、1987年に郷ノ浦港近くの元居公園内に「春一番の塔」が建てられている。

民俗学者の宮本常一は研究のため郷ノ浦町を訪れてこの「春一番」をいう語を採集し、1959年に壱岐で用いられている語として『俳句歳時記』で紹介した。これをきっかけに、「春一番」は新聞などで使われるようになり、一般に広まったとされる。つまり、郷ノ浦町で使われていた「春一」または「春一番」は、この語の初出であるかどうかはともかく、現在広く用いられている「春一番」という語の直接の源であるということになる。なお、「春一番」という語の新聞での初出は、1963年2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事であるとされ、このため2月15日は「春一番名付けの日」とされている[3]。

一方、「春一番」という語の初出については、『池田市史 史料編』に収録された『稲束家日記』の天保2年1月11日(1831年2月23日)の記事には「晴天午ノ刻より雨、春一番東風」との記載が見られ、前記の転覆事件以前から長崎県外でも「春一番」という語が用いられていたことが確認されている[4]。さらに、前出の宮本常一も1775年に刊行された越谷吾山の『物類称呼』に「ハルイチ」が掲載されていると指摘している[5]。



ここ茂原市では、本当の春一番まで、何度もこんな状態になる!
こんな日は勿論洗濯物は外に干せない!

(つづく)
[2018/01/03 23:56] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2018年1月2日の満月
今年、2018年1月の最初の満月は、今日1月2日である!

Screenshot_20180103-010252.png
出典:http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm

今日1月2日の23:25 に撮影した!

カメラに工夫しないでバカチョン方式で撮ると直ぐ下の画像になってしまう!

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これでは、‘月の表情’が見えない!

従って、カメラのある機能だけを一寸触ると、バカチョン方式で三脚も使わず、‘月の表情’を捕えることが可能である!

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この画像を確保すれば、後はPCでどんなにでもなる・・。

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(つづく)
[2018/01/02 23:57] | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
謹賀新年!
今日は、2018年1月1日である。

少し昔、年賀状に「金が信念」と書いて‘顰蹙(ひんしゅく)’を買ったことがある・・・。
年賀状も昨年早々に書き上げていたので、今年の元旦は悠々たる気分であった。

天気も良いし、子供達孫達も帰省していたので、例年通り、千葉県では一寸は有名な茂原市の‘橘樹神社’へ初詣に行った!
8人でおみくじを引いたが、5人が大吉、1人が中吉、2人が末吉という結果だった!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E
%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。

古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]
主祭神

弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)
相殿神

日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


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この樹が橘、そして下の写真のみかんが橘みかん・・・。

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これが、橘の家紋・・。

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この‘大吉’のおみくじの文句に、「・・・神信すれば 龍の風や雲を得て天に昇るように・・・」とある。
実は、昨年の12月26日に、以下の写真の‘龍の雲’を見ていた。この時何かの因果関係を感じていたのだが・・・。

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さあ、2018年の始まりである!

(つづく)
[2018/01/01 23:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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