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博多の印象印象(その11):東公園の日蓮さん
昨年の終わり近くに博多へ行った・・・。

この地は、私の青春時代約8年間を暮らした懐かしい場所である!
指折り数えてみれば、昭和34年から8年間だから、およそ50数年も昔である・・・。
その間に何度も訪ねてはいるが、仕事でトンボ返りの繰り返しだったから、落ち着いて懐かしい場所を訪ねることはなかった!

と言う事は、今日ご紹介しようと思っている‘東公園の日蓮さん’にも50数年振りに会う事だったのである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗[注釈 3]・法華宗の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

生涯[編集]

年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年9月)
1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生[2][3]。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 4]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。
1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。
1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。
1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 5]。
1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける[注釈 6]。
1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納[5]。
1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読[6]。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする[7][8]。
1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 7]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
詳細は「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」を参照
その後、ふたたび布教をおこなう。
1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。
詳細は「蓮着寺」を参照
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。
詳細は「小松原法難」を参照
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1269年(文永6年)富士山に経塚を築く[9]。

佐渡へ向かう前に滞在した地に建つ日蓮聖人獅子吼の銅像(新潟県長岡市寺泊・法福寺)[10]
1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 8]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。
詳細は「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」を参照
10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[11]。
1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。
1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
1282年(弘安5年)
9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[注釈 9]。
10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)[注釈 10]。
 10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。

思想[編集]

遺文[編集]
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える[12] 。

守護国家論(しゅごこっかろん)1259年
災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年
災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年
立正安国論(りっしょうあんこくろん)[13]、1260年
顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年
法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年
八宗違目抄、1272年
開目抄(かいもくしょう)1272年
真言諸宗違目1272年
祈祷抄(きとうしょう)1272年
如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年
顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年
小乗大乗分別抄、1273年
木絵二像開眼事、1273年
法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年
神王国御書、1275年
種種御振舞御書、1275年
撰時抄(せんじしょう)1275年
報恩抄(ほうおんしょう)1276年
四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年
諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年
三大秘法禀承事[14][15](さんだいひほうほんしょうじ[16]、さんだいひほうぼんじょうのこと[17])1282年(但し、真偽両説あり[18][19]。)
唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)
兄弟抄
下山御消息(しもやまごしょうそく)
他四百余篇。

立正安国論[編集]
詳細は「立正安国論」を参照
日蓮が文応元年(1260年)7月16日[注釈 11]に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。

その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。

しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。

日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

一谷入道御書[編集]
「元寇」を参照
文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている[20] 。

(前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。

その他の書簡における蒙古襲来についての記載[編集]
日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。

例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している[21]。

しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている[22]。

四箇格言[編集]
詳細は「四箇格言」を参照
日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない[23]。

立宗感[編集]
自身は法華宗の僧と称していた[24]が、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする(勝呂信静 1967, p. 53)、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』[25])を根拠とした(宮崎英修 2013, p. 30)、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする(金岡秀友 1979, p. 230)である。


http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/toukou.html
日蓮上人像
福岡市東公園の元寇記念館のすぐ前に日蓮上人像がある。 日蓮上人像が完成したのは1904年11月日露戦争がはじまった年である。 日蓮は1286年正月、国難到来の予言が的中したことを述べ禅宗を批判した。さらに執権になったばかりの北条時宗に「立正安国論」を上進した。
日蓮上人像の高さは台座を含めて約23メートルあり、台座には八面の元寇パノラマが銅版に鋳出されている。これを製作したのは横浜生まれの矢田一嘯で、彼は1893年ごろに福岡に定住し、元寇パノラマ画の製作活動を行なった。博多人形師・白水六三郎を育てたことでも知られている。


(つづく)
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[2018/01/10 23:52] | 想い出 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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