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サフランモドキは、今!
サフランモドキは、今!

花の名前(植物の名前が花の名前で代表される?)の命名方法は、一体どうやって決まるのだろうか?

同じものを、それぞれの立場や昔からのその地域や伝統?によって名前を主張する?のだろうか?

ただし、この風潮で迷惑をこうむる?人達もいるのではないか?

花そのものは、人間様からどんな名前を付けられようと知る由もないから、やはり名前の紛争?は、人間様の‘エゴ’に過ぎないのかも知れない!

ということで、いつもその「論争」に巻き込まれる?のは、「サフランモドキ」さんであるのであ~る!

https://suna-kaze.blog.so-net.ne.jp/2016-09-03
ゼフィランサス(サフランモドキ)とハブランサス 比較と違い [草花 夏]

近縁種であるゼフィランサスとハブランサス

混乱しますよね。

そこで2つを比較して、その違いを明らかにしてみたいと思います。<後略>


という記事だから、もう「サフランモドキ」という言葉が、最優先ではない!

その際に掲載された画像は次の通り・・。

<ゼフィランサス>
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出典:https://suna-kaze.blog.so-net.ne.jp/2016-09-03

<ハブランサス>
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出典:https://suna-kaze.blog.so-net.ne.jp/2016-09-03

「イヌサフラン」や「コルチカム」という名前も登場するから、「サフランモドキ」も忙しい?

私自身も、花の名前に疎かったこととそんなに重要視してもいなかった浅学非才のこともあって、「サフランモドキ」を「コルチカム」としてこの弊ブログに掲載したために騒動に巻き込まれた経験がある!間違えた理由は簡単で、ある人から頂戴した「サフランモドキ」の鉢に小さな名札が付いていて、そこに書かれていたのが「コルチカム」だったのである!

まあこの議論は、別の機会に譲ることとして・・・。

我が家の玄関先には、美しい花が咲いていた!

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この花の特長で欠点?は、寿命が、短いことである!ほぼ3日間!

(つづく)
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[2019/07/28 11:19] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
房総半島の田んぼは、今!(2019年7月23日)
房総半島の田んぼは、今!(2019年7月23日)

昨日(2019年7月23日)の午前中に我が家の近所にある田んぼを見て、少々驚いた!

「稲穂」はまだ見れないと思っていたからである!

ここは房総半島のほぼ中央部にある千葉県・茂原市である・・・。

ここら辺りの田んぼが全てこんなに発育通い訳ではないのだが・・・。

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梅雨寒の中で、まずまず順調の様で・・・。収穫はいつ頃だろうか?

(つづく)
[2019/07/24 07:36] | 農業 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
紫陽花は、今!(その2):柏葉あじさいの紅葉(2)
紫陽花は、今!(その2):柏葉あじさいの紅葉(2)

昨日(2019年7月19日)の本ブログでお断りしたように、ここでいう「紅葉」は、葉っぱのそれではなく、「花の‘花弁’の紅葉」のことである!

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さて、植物の‘終焉時’には、大体‘赤く’なっていくのは常識の様であるが、「NHKのチコちゃん」ではないが、「なぜ、終焉時に‘赤く’なる」のだろうか?

「植物は、芽の出る際には‘緑’で、終焉時には‘赤’になる理由って、なぜ?」

理由は知っているが、間違えると「ボーと生きてんじゃあねえょっ!」と言われそうだから、もう少し調べてから・・・。

理由予告(余り自信が無いので大文字でなく・・・)「植物が、その時々で必要な周波数の電磁波を吸収しようとしているから・・・」  果たして、正解?

(つづく)
[2019/07/20 08:51] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
紫陽花は、今!(その1):柏葉あじさいの紅葉(1)
紫陽花は、今!(その1):柏葉あじさいの紅葉(1)

今年(2019年)も異常気象は中々正常に戻らず、もう7月の半ば過ぎだというのに「夏の訪れ」が感じられない・・。ナスやキュウリは日照不足で曲がってしまうらしく、それよりも花の受粉も上手く行かないのか、実が育たなく50%以上の値上がりが続いている!

そんな中、柏葉あじさいが遅ればせながら、「紅葉」の季節を迎えた!

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「紅葉」と言えば、文字通り、葉っぱが紅くなることなのだろうから・・

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ということなのだろう!

しかし、今回のこの記事の「紅葉」は、「花が紅くなること」をテーマにしたいのであ~る・・・。

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おやおや、花の紅葉もこんなに美しいことに初めて気付いた!

(つづく)
[2019/07/19 10:12] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
長寿の心得
長寿の心得

我が家の和室に二十年も前から掛かっている扁額がある・・・。

「長寿の心得」という扁額である!

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結構大変なことが書かれているが、これが世間一般に通用するものかどうかは知らないが、大変参考になると思っている!

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「白寿」までは、何となく知っているのだが、「茶寿」と「皇寿」は聞いたことがなかったので、検索してみると、実に巧いことが書かれている!

これを知っていると、何だか博識の部類に入れてもらえるかも知れない???

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私もつい最近「傘寿」を迎えさせて貰った!

ダジャレで申し訳ないが「傘寿≒30」と思っている!

「人生これからだ!」 「人生これ身体!」

という訳で、「身体」を大事にするためには何をすれば良いのか?

私の場合は、

10 ,000万歩/日以上の散歩
46℃のお風呂に毎日10分以上

と決めている!

(つづく)
[2019/07/17 09:40] | 言葉の威力 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
皇居・和田倉門界隈(その3)
皇居・和田倉門界隈(その3)

この皇居・和田倉門噴水公園には、そんなに大勢の人が来ることもないようで、その日(2019年7月5日)も幼稚園の児童10数人が来た(写真を撮り損ねたが)だけで、あとは通り抜ける人達がほとんどだった。

ただ一組のカップルが、15分間くらいの間「撮影会」まがいの行動(?)で目を引いた!

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コの画像は、彼らがここへきてもう15分くらいも経っていた!

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スズメも危険でないことを学習していると見えて、1m の近くまで寄ってくる!

時間も大分経ったので、そろそろ東京駅へ向かって歩き始めたのだが、お堀に白鳥様が・・・

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おや、おや、「頭かくして尻隠さず」、そのもの・・・・。

(つづく)
[2019/07/14 22:11] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居・和田倉門界隈(その2)
皇居・和田倉門界隈(その2)

さて、この「和田倉門」の「和田倉」、もう一つ言えば、「和田」の意味は?名前の由来は?

http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/198/0
和田倉門■名の由来■
この門の付近に「和田倉」と呼ばれる蔵があった。これが名の由来です。和田さんの蔵?ではなく、海のことを指す「わた」です。海がワタ?はい。そうらしいです。そういえば、ハングル語では海をパダといいますが、もともと似た発音だったのですかね。まぁ言語的なことはこのへんで。要するに、かつてはワタ、つまり海がこの付近まで入り込んでいたことから、海と蔵で「ワタクラ」と呼ばれるようになった。そういうことですね。はっきりしませんが、この地に蔵があったのはそうとう古い話で、家康が江戸に入った時には既に和田倉という村落があったとも言われています(これには諸説ありで、徳川時代の物資の集積地として「倉」の名がついたとも言われています)。

まぁともかく、実在した「蔵」に由来。「蔵の御門」とも呼ばれていたようです。


さて、我々は「きけ、わだつみのこえ」というフレイズを知っている!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%
91_%E3%82%8F%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%8
1%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%88

『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。

1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。

『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。

類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムで展示されている。

名前の由来
学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌を添付した。なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。

「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。


従って、「ワタ(ワダ)」は、「海」の古語であることが判った!

さて、「和田倉噴水公園」の様子は・・・。

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ワダは海と言っておきながら、和田倉噴水公園の噴水の水は、海水ではないらしい!

(つづく)
[2019/07/13 23:04] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
皇居・和田倉門界隈(その1)
皇居・和田倉門界隈(その1)

今年(2019年)7月5日、打ち合わせの合間に時間が出来たので、久し振りに喧騒を離れて「皇居和田倉門」近辺へへ行ってみた・・。

ここは、東京駅からほんの数分で行ける距離にあるのに、流石、皇居の一部(?)とあって、静けさが満喫出来る!

 

http://fng.or.jp/koukyo/news
/2015/08/post-74.html

和田倉噴水公園の「和田倉門」と「和田倉橋」

和田倉噴水公園は、昭和36年に今上天皇の御成婚を記念して創建された水と緑の広がる癒しの公園。園内には公園のシンボルである大噴水と、様々なテーマが設けられた流水施設があり、都会のアオシスとして人々に親しまれています。

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そんな噴水公園の北東に位置する、公園の入り口の一つが和田倉門です。

 和田倉門は1620年(元和6年)の改築で東北の諸大名により枡形が構築されました。

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そしてこちらの木橋が和田倉橋。皇居のお濠に架かる橋で江戸時代の「木橋」の姿が残されているのは、この「和田倉橋」と「平川橋」のみです。

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この橋より内側は、大手門や桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。

建設年は不明ですが、1620年にはすでに存在していたとの記録があります。橋は関東大震災で大きな被害を受け、その後1953年に往時の木橋を模したコンクリートの橋へと生まれ変わりました。

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明治天皇がはじめて江戸城に入場する際には、呉服橋を通った後、こちらの和田倉門を通り、江戸城西の丸に入られました。

近代的なモニュメントや大噴水がある一方で、江戸時代の面影を色濃く残す和田倉噴水公園。皇居外苑散策の際は、是非お立ち寄りください。


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これは、橋の欄干には良く見かける「擬宝珠」というものである!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E
6%93%AC%E5%AE%9D%E7%8F%A0

擬宝珠(ぎぼし)は、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

擬宝珠が取り付けられるのは親柱(両端および一定の間隔で並ぶ主要な柱)であり、「宝珠柱」という。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもある。より古い時代の瓦製のものも見つかっている。

紛らわしいものとしては五重塔、五輪塔などの仏塔の先端に飾られるもので、これは擬宝珠ではなく宝珠である。

起源
起源は諸説あり、一つは仏教における宝珠から来ているとするものである。宝珠は釈迦の骨壺(舎利壺)の形とも、龍神の頭の中から出てきたという珠のこととも言われ、地蔵菩薩などの仏像が手のひらに乗せているものである。 この宝珠を模した形から模擬の宝珠という意味で擬宝珠とつけられたというもの。

もう一つはネギのもつ独特の臭気が魔除けにもなると信じられ、その力にあやかって使われるようになったとする説であり、擬宝珠という用字は葱帽子、葱坊主に後から付けられた当て字であるとするもの。橋や神社など仏教建築以外でも使われることの説明にもなる。

歴史
神社では伊勢神宮正殿の高欄の五色の宝珠型の飾りが原型とされ、当初は朝廷と関わる建造物にのみ存在したらしい。

古い例としては中国、漢代の画像石や敦煌の壁画にそれらしいものが見られる。日本での例では平城京跡の二条大橋のものとされる、瓦のものが見つかっている。

橋の擬宝珠には、その由来が刻まれている場合もある。銘があり現存するものとしては京都 三条大橋に一部残っているものが古く、天正年間に豊臣秀吉の命で改築した際のものとされる。五条大橋も同時期で橋に用いられた最初のものとされる(ただし現在のものではない)。他に、それを模したものとして江戸時代初期の盛岡 上の橋、下の橋のものがある。

江戸市中で擬宝珠を持っていた橋は、日本橋 (東京都中央区)と京橋 (東京都中央区)、新橋 (東京都港区)のみである[1]。

形状、各部名称

先端の宝珠状の部分のみをさして、「擬宝珠」という場合もある。下にあるお椀を伏せたような部分を「覆鉢」、間をつなぐくびれた部分を「欠首」という。さらにその下、覆鉢の下の円筒形部分を「胴」という。

擬宝珠は時代により形状が変化しており、一例として高さに比べ直径の大きく頭の宝珠状部分が小さいものを「鎌倉型」という。この宝珠部分の大きさは概ね時代とともに大きくなっている。


[2019/07/12 10:32] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その3)
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その3)

さて、さて、さて、一体この銅像様の「井上勝」とはどなたでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%
BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D

井上勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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井上勝

井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。

<中略>

鉄道事業の推進
大蔵省に勤務してからは伊藤や大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想を発表する。とはいえ、当初は鉄道技術が日本にないためイギリスのお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日に岩倉具視・澤宣嘉とイギリス公使ハリー・パークスの会見に出席して岩倉らの通訳を務めていたが、まだ鉄道に関する方針に踏み込めなかった。続いてパークスが紹介したホレーショ・ネルソン・レイと伊藤らとの交渉で、イギリスが外債および技師と建設材料を提供して鉄道敷設を進めることになった。しかしレイは日本国債をロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにした。政府はレイとの交渉を打ち切り、外債をとりつける新しい交渉相手を決めた。1845年に香港で創立されたオリエンタル・バンクである。

政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷くことを始め、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後に桜木町駅に改称)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と共に工部権大丞となり、翌明治4年(1871年)7月23日に工部大丞に昇進、8月15日に鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(後に鉄道頭を専任)、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。

明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設は鉄道頭では無かったため直接関与はほとんどなかったが、鉄道建設を反対する一般国民や政治家達(黒田清隆など)の説得に当たり、海上に線路を敷くために手掛けた築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継ぎ工事を継続させるなど間接的に工事を推進、明治5年(1872年)9月12日に全線開通させ日本の鉄道開業に尽くした。また、明治3年7月30日に開始された神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)に続く明治4年6月15日の大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わり、お雇い外国人が見積もった金額より安い算出で工事変更を工部省に願い出て許可され、鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らない物になった。

だが、工部少輔となり上司になっていた山尾と対立、明治6年(1873年)7月22日に辞任した。関東の鉄道事業が一段落付き、次の仕事に大阪へ出張させて現場指揮を執らせ、鉄道寮も大阪へ移転してくれるよう提案したが、山尾に却下されたことに怒ったこと、山尾の干渉に耐えられなかったのが理由だったといわれる。この問題は岩倉使節団に加わりヨーロッパを外遊していた伊藤が勝の辞任をしたためた手紙を受け取り、帰国し工部卿として山尾の上司になった伊藤の説得で勝が明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められたことで解決した。以後しばらく関西方面の鉄道敷設に集中していくことになる[3]。

明治7年5月11日に神戸 - 大阪間がお雇い外国人の手で開通、明治10年(1877年)2月5日に大阪 - 京都間も開通。ひとまず関西方面も開拓されたが、この間に士族反乱が相次ぎ(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争など)政府は財政難と治安悪化に直面した。勝は事態打開のため明治9年(1876年)に伊藤に更なる鉄道網の延長を迫り、計画は京都から大津へ東の延伸が決定されたが、西南戦争で工事どころではなくなり明治10年中に敷設は行われなかった。代わりに日本人の鉄道技術者育成は認められ、明治10年1月に鉄道寮が鉄道局に改称し勝が鉄道局長に就任、5月に大阪駅構内で工技生養成所を設立し飯田俊徳とトーマス・シャービントンの2人と協力して技師を養成、長谷川謹介・国沢能長らを輩出した。やがて工部省が創設した工部大学校からも技術者が養成されると、目標を達成したとして明治15年(1882年)に閉鎖したが、明治10年からお雇い外国人を順次解雇して養成所卒業生と入れ替え、彼らと力を合わせ鉄道工事に傾注していく。

明治11年(1878年)4月に政府の国債発行で資金調達の当てが出来ると8月21日に京都 - 大津駅間(後に浜大津駅に改称、18.2km)の工事に取り掛かり、逢坂山トンネルを着工。作業は全体を4区に振り分け、飯田俊徳を総監督に長谷川・国沢・武者満歌・千島九一・佐武正章・三村周・南清ら養成所の第1回入学生に実習を兼ねた工事作業をやらせ、自らも草鞋・脚絆を履いて現場を指揮、鶴嘴を振るい開拓した。外国人を排除しての作業は逢坂山を掘り進める区間が難航、明治12年(1879年)8月20日に落盤事故が発生して4人が死亡することもあったが、明治13年(1880年)7月15日に完成、日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる。

更なる延伸も検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まっていない財政難の状況で、琵琶湖南岸の大津から直接東へ進出するのは無理があったため、大津からの工事は中断、代案として京都 - 大津間は途中の馬場駅(現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅へ到着、琵琶湖を鉄道連絡船の太湖汽船で渡り湖東の長浜駅まで航行する手段が採用され、明治15年5月から藤田伝三郎の企画で太湖汽船会社が創業、連絡船巡航が始められた。これに先立ち、明治12年に琵琶湖から敦賀港に接続する路線測量を実行、明治13年4月に着工され4年後の明治17年(1884年)4月16日に長浜駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間が開通した。工事は京都 - 大津間の時と同じく飯田が総監督を請け負い、長谷川ら養成所出身の技師が工事を手掛けて着工、逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネルを開いたことは確実に日本人技師が自立していることを示していた[4]。


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こんなに優れた人物を知らなかったとは、情けない!

今後、東京駅前へ行った時には、鄭重にご挨拶を!

(つづく)
[2019/07/09 07:13] | 発見! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その2)
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その2)

さて、さて、この銅像は、一体誰?

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裏面には、こんな風に刻まれているのだが・・

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上から順に、「建立」、「再建」、「移設」、「移設」と読み取れる・・・。

これまでの画像では、未だ誰だか解からない!

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まだ、まだ、解からない!

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やっと、やっと、

「正二位勲一等子爵井上勝君像」

ということが判明した!

さて、さて、この人物とは?

(つづく)
[2019/07/08 08:00] | 発見! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その1)
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その1)


最近、或るTV局が放映している「こんなところに日本人」<世界の村で発見!こんなところに日本人|朝日放送テレビ>という番組が今好評を博している・・。

このタイトルの一部は、それを真似た訳ではないが、全く認識していなかった‘もの’に突然気付いて「あっ!」と驚くことが多い!

今年(2019年)7月5日の正午近く、その偶然に出会った!

その日、打ち合わせの時刻が決まらないまま、JR東京駅前の新丸の内ビルの1階ロビーで連絡が来るのを待っていた。
偶然目の前を通り過ぎるこのところ有名になった「観光バス」を暇に任せてスマホでパシャリ!

と、そこに写っていた画像を見て少々驚いた・・・。

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「おやっ?バスの上に誰かが???」

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拡大してみると・・

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バスが通り過ぎて、もう一度スマホで・・・

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勿論のことであるが、バスの上に誰かが乗っていた訳ではなく、やはり東京駅前にある銅像であ~る!

「こんなところに銅像が・・・」

ビルから外に出て、近づいてみた・・・

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時刻は丁度12時近く・・

ここに銅像があることも今まで気づかなかった。
何百回もこれまでここら辺りを通ったのに・・・。

一体誰の銅像?

(つづく)
[2019/07/07 12:22] | 新発見! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
まるで‘真珠の首飾り’!
まるで‘真珠の首飾り’!

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「これって、何に見えますか?」
「そうさねえ、やはり‘真珠の首飾り’ってこと?」

「実は・・・」

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「梅雨の合間の出来事]でした!

(つづく)
[2019/07/05 07:30] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
 濃霧注意報!
 濃霧注意報!

今年(2019年)のこのところの異常気象は、例年にない程のものらしい!

九州の大雨の状態には気象庁もどう安全対策を示したら良いか迷っているようにも見えるほどである。

幸い関東地方にはそれほどの被害はないようだということのようであるが、さて、今後どうなるのだろうか?

昨日(7月2日)は、我が家のある千葉県茂原市では、朝から濃霧注意報が出ていたし、打ち合わせで東京へも行ったが、東京駅付近でもお昼近くになってもまだ濃霧は消えていなかったようだ!

<2019年7月2日午前05:58頃 場所:千葉県茂原市千沢>
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<2019年7月2日午前11:10頃 場所:東京駅付近 新丸ビル7階からスマホで撮影>
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皇居方面
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異常気象が続き過ぎると、異常気象とは呼べなくなる?

(つづく)
[2019/07/03 17:40] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
マサキ(柾)の花!
マサキ(柾)の花!

私が乗り降りするJR外房線・本納駅のホームの生垣は、マサキの樹である。

丁度今頃(6月~7月)、この樹の花が真っ盛りである・・。

https://matsue-hana.com/hana/masaki.html期
マサキ(柾)
常緑低木
北海道南部〜沖縄の海岸近くの林内や林縁、暖地に多い。高さ2〜6mになる。樹皮は暗褐色。縦に浅い溝がある。本年枝は緑色で丸い。葉は対生。まれに互生する。葉身は長さ3〜8cm、幅2〜4cmの楕円形。ふちには浅い鋸歯がある。質は厚く、両面とも無毛。葉柄は長さ約1cm。葉腋から集散花序を出し、黄緑色または緑白色の花を7〜15個つける。花は直径約7mm。花弁、萼片、雄しべは4個。花盤が発達し、雄しべは花盤のふちにつく。果実はさく果。直径6〜8mmの球形で、11〜1月に紅色に熟し、4裂する。種子は橙赤色の仮種皮に包まれ、落ちずにぶら下がる。花期は6〜7月
 冬芽は、長卵形。芽鱗は6〜10個、十字対生状に並ぶ。(樹に咲く花)
学名は、Euonymus japonicus
ニシキギ科ニシキギ属
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実が熟れてくると

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①DSC_0436-2
②DSC_0434-2
③DSC_0434-3
④DSC_0434-4
⑤DSC_0434-5
⑥DSC_0435-2
⑦DSC_0435-3
⑧DSC_0435-4
⑨DSC_0435-5

(つづく)
[2019/07/02 04:46] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ランタナ(その3)
ランタナ(その3)

ランタナという植物は、その正体が中々判りにくい。
「な~る程!」と思えないからである!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3
%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8A

ランタナ(Lantana、学名:Lantana camara)はクマツヅラ科の常緑小低木。中南米が原産。観賞用に栽培される。和名はシチヘンゲ(七変化)。鮮やかな色の花をつけ、その色が次第に変化することに由来する。

分布
南アメリカ原産[1]。

世界中に帰化植物として定着している。日本では小笠原諸島、沖縄諸島に移入分布している[1]。

特徴
多数の小花からなる散形花序をつける。開花後、時間がたつと次第に花色が変わるため、同一花序でも外側と内側では花色が異なる(内側が新しい)。開花時期がアジサイと重なり葉の形も似ているが、アジサイとは全く別種で全体的に小さく花の色は派手である。

果実は黒い液果で有毒といわれるが、鳥が食べ種子を散布する(種子を噛み砕く可能性の強い哺乳類には有毒だが鳥類には無毒という液果をもつ植物は多い)。茎は断面が四角で細かいとげが密生する。葉は対生し表面がざらついている。暖地では戸外でもよく育ち高さ1.5mほどになる。

世界の侵略的外来種ワースト100に選定されている。

ランタナ属は中南米や南欧原産の約150種の低木または多年草を含む。熱帯・亜熱帯では広く野生化し、オーストラリアや東南アジアではやっかいな雑草として問題になっている。ややツル状に横に這って茂みを作り、茎には細かい逆棘があるため扱いにくい。他方、花には多くのチョウが集まり、見応えがある。

ランタナ属でよく栽培されるものとしては、ランタナの他に、小型で地面を這い赤、紫などの花をつけるコバノランタナ(Lantana montevidensis)、あるいはこれらの雑種がある。


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葉っぱだって、活き活きとしている!

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何時まで咲き続けるのだろうか?

(つづく)
[2019/07/01 05:03] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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