両国橋
その日は、日曜日だったのだが、東京での打ち合わせがあった。打ち合わせが予定より早く終了したので、ここのところの散歩不足を解消するためにも、東京駅から東に向かって歩き始めた!

東京駅付近を出発したのは、2014年10月21日(日)16:18である!
およそ一時間で何処まで歩けるかを知っておきたいと思った。

通勤の際の自宅殻の最寄り駅は、このブログにも何度も登場させてもらった千葉県JR外房線・本納駅である。
本納駅は、茂原市なのだが茂原駅より二つ手前である。

せいぜい秋葉原駅まで位行きたいと思って歩き始めたのである!
何処をどう歩いたかは、余り記憶に残ってはいないなだが、兎に角東へ向かって歩いた。

17:03、およそ45分後に‘両国橋’へ出た!

ご案内の通り、‘両国橋’は有名だから、説明は要らないとも思われるが、余り確かな情報も持ち合わせてはいない。

① 両国という、二つの国はどことどこ?
② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?
③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

この質問に、‘即明快に答えられる’御仁は滅多にいないに違いない!

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この道案内版は、何故か南北が通常の地図の場合と違っている!
だから、上が南であり、左方向が東である、墨田区の案内板が全部かどうかは知らないが、大抵‘南北が入れ替わっている!

① 両国という、二つの国はどことどこ?

A:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B
現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。


② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?

A:

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B

歴史[編集]
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。

結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。

2008年(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。


③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

A:

http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-03.htm
この両国の川開きのときに花火が行われるようになったのは享保18年(1733)5月28日といわれている。そのきっかけとなったのが前の年、享保17年に起こった大飢饉だった。この年、西日本一帯で、いなごの大群が発生するなど全国的な凶作となったほか、江戸市中にコロリ(コレラ)が流行して多くの死者を出した。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、翌享保18年5月28日にその尉霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行した。この折、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたという。これ以降、川開き初日に花火を打ち上げるのが恒例となった。
 このときの花火師は6代目鍵屋弥兵衛で、打ち上げた花火は20発内外であり、その費用は舟宿と両国あたりの茶店などから出された。 当時の花火について随筆『柴の1本』 には「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕(つかまつ)ったり」と書いてある。 いずれにせよ、立花火が主流で、上空に上がる流星が呼び物になったと思われる。この川開き花火に刺激されたのか、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、お抱えの火術家、砲術家に花火を上げさせて楽しむようになった。これら火術家が編み出したのが、いわゆる「のろし花火」だった。のちに、花火師ものろしからヒントを得て、大花火を上げるようになった。 水神祭から始まった両国の花火は、やがて「橋上の一道、人群り混雑し、梁橋たわみ動いて、みるみるまさに傾き陥んとする」 (『江戸繁昌記』)といった賑わいを呈すようになり、江戸の夏を代表する風物詩になっていった。


上記解説によると、両国橋が掛けられたのが、1659 or 1661年で、初めて約20発打ち上げの川開き花火大会が行われたのが1733年というから、橋が出来て大掛かりな花火の打ち上げ大会までにおよそ70年以上掛かったことになる!

(つづく)
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[2014/10/25 13:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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