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戦艦大和の沈没とB29の撃墜
昭和20年(1945年)4月7日14時20分戦艦大和は沈没し始めた、と記録にある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)) 今日が丸67年経った命日(68回忌?)である。


<戦艦大和への特攻出撃命令>

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

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4月7日14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[138]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。

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最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。
14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。

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4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)



戦艦大和模型
戦艦大和模型 http://plaza.rakuten.co.jp/maruyasu/diary/200912020000/

Yamato_battleship_under_construction.jpg
戦艦大和(呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20)
 http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)


在りし日の戦艦大和
在りし日の戦艦大和 http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm

戦艦大和訓示
戦艦大和出撃命令 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5

戦艦大和沈没
戦艦大和への総攻撃 http://slashmaraud.blogspot.jp/2007_01_01_archive.html

沈みゆく戦艦大和
沈みゆく戦艦大和 http://blog.goo.ne.jp/langberg/c/26ec2f5a86d9fde5ada05076bc2d093a/5


艦歴

計画 第三次海軍軍備補充計画
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
その後 1945年4月7日沈没
位置 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒

戦艦大和沈没位置
http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm

戦艦大和沈没記念碑
http://washimo-web.jp/Trip/Hinokami/hinokami.htm


除籍 1945年8月31日
建造所 日本、呉海軍工廠
建造費 約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
性能諸元
排水量 基準 64,000トン
公試 69,000トン
満載 72,809トン
全長 263.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
公試吃水 10.4m
主機関 ロ号艦本式缶12缶
艦本式タービン4基4軸
153,553馬力
最大速力 27.46ノット[1](公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)
乗員 竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
(新造時) 45口径46cm3連装砲塔[2]:3基
60口径15.5cm3連装砲塔[3]:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時) 45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm〜230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機 7機(カタパルト2基)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)



私は昭和14年7月生まれだから、当時6歳になるほんの少し前で、まだ小学校(当時、国民学校。それまでの尋常小学校が昭和16年に国民学校に。昭和22年に小学校と名称変更)に上がる前だった。

情報が直ぐには流れない時代だったし、日本にとってというより当時の軍事政権にとって‘不利な情報’は、国民には正確には流さない時代であったから、‘戦艦大和沈没’のニュースは当時の大人の話題にもならなかったように思う。

yamato45-9-29.gif
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/okinawa-yamato.html

戦後1945年9月29日新聞掲載「わが戦艦大和の最後」;戦時中,戦艦「大和」の存在は秘密であり,国民には公表できなかったが,戦後1ヶ月以上たって,戦艦大和の存在が新聞紙上で公表された。それまで,戦艦大和は無名であった



先程 web で調べた結果、上記の引用通りの記事があった。

戦艦大和の存在さえ知らされていなかったそうであるから空恐ろしい!
次の日の新聞に記事が掲載されるなんてありえないのだ!

当時の日本では、今の北朝鮮以上に言論統制があったのだろう。当時6歳弱の子供に情報が届く訳が無い。



<B29の撃墜>


b-29.jpg
B29 http://www.worldwartwo.estranky.cz/clanky/lietadla/b-29-superfortess.html

一方、私は当時福岡県・直方市に住んでいた。当時の‘八幡製鉄’は当然軍事産業の中心地であり、アメリカが攻撃の目標にしたことは当たり前である。八幡製鉄と直方市との直線距離は、約15km。

3月27日深夜、28日の朝(記録によると3時ごろ)空にB29が見える!という声に防空壕の中にいた我々は、防空壕からはい出してきてその上に立って上空に目を凝らした。探照灯(サーチライトのこと)が2~3本でB29を照らし出す。高射砲が、何発も発射されたがなかなか命中しない。何故だか判らなかったが、B29は高度をかなり下げていた。そうこうしている間にB29が‘白煙’と‘黒煙’と‘炎’を上げながら落ち始めたではないか!

父親は戦地へ赴いていたのでいなかったが、家族はみんな拍手喝采で喜んだ記憶は今でも生々しい。数日が経って、近寄ることが許可された後だと思うが、祖父の運転する自転車に乗せられて、墜落現場に見に行った。
大勢の人達が遠賀川の堤防からB29の墜落機体を見た。その場での噂話を耳にしたが、B29には‘釣り道具’が積まれていて、不時着した際の準備までしてある、と言って盛んに感心するおじさんがいた。私はまだ小学校に上がる寸前だったからそれが本当に何を意味するのか判らなかったが・・・。

撃墜されたB29
撃墜されたB29爆撃機(富澤庸祐氏撮影、下総町立歴史民俗資料館蔵)
http://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/chibakenshi/no26.html


B29‐#42-24864
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-24864.html

墜落日時
1945年3月27日

墜落位置 福岡県鞍手郡植木町中島橋
所属 第20空軍第313爆撃団第504爆撃群第398爆撃隊
攻撃目標 関門海峡
墜落原因            戦闘機(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉?)?
機体ニックネーム   


搭乗員

機内配置 氏名 階級 認識番号 生死
機長 BROWEN, John A. 中尉 0-825755   X
副操縦士
ANDREW, Albert H.

少尉 0-539656    
航法士 FINTEL, Harlund R. 少尉 0-2058448   X   
爆撃手 LOVE, Baxter A. Jr. 少尉 0-929701   X
機関士 HENLEY, Fiske 少尉 0-8170016    
中央火器管制 ANDERSON, Charles A. 軍曹 11981991   X
左銃手 GRIFFITH, James E. 軍曹 13158310   X
右銃手 DENLAVOY, Richard E. 軍曹 13180907   X
尾部銃手 FRANCESLON, Albert L. 軍曹 12207049   X


  初めての対日機雷作戦として、関門海峡に102機が出撃、3機未帰還となった。42-24864は、機雷敷設後八幡上空を南下、直方上空で急旋回、中島橋下流200メートルの遠賀川に墜落した(陸軍飛行第四戦隊西尾半之進准尉操縦の「堵竜」によるものか) <著者注:「屠竜」の間違い>

Andrew少尉とHenley少尉は飯塚憲兵分隊経由西部軍管区司令部に送致。ついで東京防衛総司令部に送られ、東京俘虜収容所本所に転収された。



陸軍二式複座戦闘機「屠竜」丙型(キー45改丙)
http://home.earthlink.net/~sshinoda/wing/toryuu-detail.html

全幅14.5m 全長10.26m 総重量3.75ton  エンジン(ハ-102)1050馬力2基 最大速度540km/h 武装 37mmx1、20mmx2、7.7x1、 上向機関砲 20mmx2 爆弾 250kx2 航続距離 2000km

堵竜とB29

1936,7年ころから、列強各国では、爆撃機の進歩に対抗して双発重戦闘機の開発が進められていたが、 日本も例外ではなく、陸軍は川崎のキー45(後の屠竜)、海軍は中嶋のJ1N1(月光)の開発に着手した。 数年の歳月をかけて幾多の困難を克服し、 ようやく1942年制式採用となった二式複座戦闘機「屠竜」は、性能、生産性ともに良好であったが、エンジン、設備、武装の点で、列強の各機と比して まだ十分とはいえなかった。   1944年6月15日、成都を基地とするB29の北九州来襲の際には、同地区防衛にあたっていた本機装備の飛行第4戦隊は果敢に反撃し、「屠竜」の性能を発揮して 撃墜4、撃破3の戦果を上げ、当時撃墜困難とされていたB29に始めて一矢を報いたことが記録にとどめられている


POW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会  http://www.powresearch.jp/jp/about/index.html
の資料には以下の記事が記載されている。

1945年3月28日午前3時頃 福岡県鞍手郡植木町(現・直方市植木)の中島橋下流の中州
B29(機体番号42-24864、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 B29が低高度で南東方向へ飛行中、何機かの日本軍戦闘機の攻撃を受けて火の玉になって墜落、2日間燃え続けた。機体の残骸 は近くの小学校に集められた。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
8人が墜落死。遺体は現場付近で火葬、1945年11月に米軍が回収。
 操縦士のAlbert H.ANDREWS少尉と機関士のFiske HANLEY少尉の2人がパラシュート降下して捕虜。飯塚警察署から西部軍司令部を経て、4月4日に東京の防衛総司令部に送られ、戦後米国へ帰還。
 Fiske HANLEY氏は、戦後来日して姫路市などを訪れ、また、1997年にアメリカの出版社から回想記『Accused American War Criminal』を出版。

Accused American War Criminal
http://www.amazon.com/Accused-American-Criminal-Fiske-Hanley/dp/1571681930



もう戦争の事なんか思い出したくないと言う人達も大勢おられるだろうが、我々にとっては‘貴重な’体験である。当時の記憶は曖昧なものが多いが、こうやって情報を集めると今更ながら‘な~るほど!’と思われる事がある。

上述の‘B29の墜落目撃事件’もこれらの情報を数年前に実兄に教えて貰うまでは、‘高射砲が撃ち落とした'とばかり思い込んでいた。実際の目撃者の一人なのに・・。

高射砲
高射砲 http://blogs.yahoo.co.jp/hunnmeru/10033697.html


出来れば、上記の回想記『Accused American War Criminal』をじっくりと今後読んでみたい。

二度とこんな戦争を起こさない為にも‘戦争にまつわる重要な日’には、マスコミはもう少し反戦のキャンペーンをはるべきではないか?

戦没者の‘鎮魂’の意味を込めて・・・。





















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[2012/04/07 14:20] | 戦争の記憶 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top
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コメント
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[2014/06/01 21:53] | # [ 編集 ]
Re: B-29植木墜落について
牛嶋英俊様 拝復 コメント・メール拝受しました。有難うございます。いやいや、直方市在住の方からコメントを頂戴するなんて、嬉しい限りです!有難うございました。私は、昭和14年07月03日生まれです。当時住んでおりました所は、須崎町2丁目でした。私には、昭和10年生まれの姉と昭和12年生まれの兄がおり、まだ健在です。姉は、直方市の感田に現在住んでおり、兄は東京都江戸川区に住んでおります。B-29墜落の瞬間は、母と子供3人で防空壕の上に立って夜空を眺めましたので、姉・兄の方が記憶が確かかと存じます。彼等と連絡を取ってみて詳細な情報があるかどうか確かめて見ますので、少々お時間を下さい。今後ともよろしくお願い致します。なお、今後はPCメールで情報交換をと思っておりますので。よろしくお願い致します。〒299-4103千葉県・茂原市千沢543-12 有田紀史雄


> 直方市在住で、B-29植木墜落について調査している者です。(昭和21年生) 体験されたことなど、詳しくご教示いただきたいのですが、よろしければおってこちらの住所などもご連絡致します。また資料などもお届けすることもできます。
[2014/06/01 23:40] URL | mobaradesu #- [ 編集 ]
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[2014/06/02 20:34] | # [ 編集 ]
B29植木墜落について
直方在住の69歳です。B29植木墜落について調べています。ご連絡を頂ければ。
[2015/12/15 23:28] URL | 牛嶋英俊 #9ljFrJ6A [ 編集 ]
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