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伊能忠敬
4月19日は、伊能忠敬が、1800年に第一次測量のため奥州街道から蝦夷地へ向かって出発した日で、‘地図の日’という。

地図の日(最初の一歩の日)

寛政12(1800)年旧暦閏4月19日、伊能忠敬が蝦夷地の測量に出発した。

測量の日 6月3日:建設省(現在の国土交通省)、国土地理院等が1989年に制定。
1949年のこの日、「測量法」が公布された。
測量・地図への幅広い理解と関心を深めてもらうことを目的としている。 

http://www.nnh.to/04/19.html



伊能忠敬像 伊能忠敬像ー2

左 http://kendouzou.blog115.fc2.com/blog-entry-42.html
右 http://plaza.rakuten.co.jp/narico702125/diary/20120419/


忠敬は、1745年1月11日私の住む茂原市からほど近い千葉県山武郡九十九里町(上総国山辺郡小関村)で生まれた。


◇伊能忠敬記念公園◇

伊能忠敬記念公園_convert_20120420003830
http://www.99coast.jp/park_99_inou.html
                                   
   九十九里町生まれの測量家、伊能忠敬の生家跡です。
   車も飛行機もなかった江戸時代に各地を歩き回って、日本初の実測地図を作った人物です。

   平成7年、生誕250周年の年に町制施行40周年記念事業の一環として、
   生家跡に銅像を建立しました。
   周囲約1600平方メートルの公園として、春には梅や桜の花を見ることもできます。


   【場所】 千葉県山武郡九十九里町小関2689
   【営業時間】 散策自由
   【定休日】 月曜日(祝祭日の場合は翌日が休日)
   【料金】 無料
   【駐車場】 13台
   【TEL】  0475-70-3191 (九十九里町教育委員会)


伊能忠敬は、現代で言えば‘定年退職後’己の‘趣味’を貫き通し、それが‘国家の財産’にまでなり、鎖国解禁の時の貴重な資料として使用されるという‘大事業’に繋がった。

彼は、勿論国家のために地図が重要な役割を果たすに違いないと思っていたことは間違いないが、多分それが彼の本来の目的ではなかったのではないかと思われる。

いろいろの文献から想像するに、彼自身が日本の地図を‘作りたくて作りたくて’‘たまらない’状態だったように思われる。

今で言う‘オタク’の総元締め的存在で、謂わば‘天才’の発想だから、盆栽も作れない私のような‘凡才’が評価など出来っこない。

多分、彼には‘名誉’などという意識は存在しなかったであろう。そこが‘天才’なのである。

だから強い!しかし、だから天才でない‘取り巻き’は、多分‘大いに迷惑を被ったに違いない!

これらの経緯については、あれこれ文献を示しても良いが、いちいち面倒だから、

文芸ジャンキー・パラダイス
http://kajipon.com
since 1999.5.12 http://kajipon.sakura.ne.jp/index.htm


人生50歳から!地球1周分歩いた男
【 あの人の人生を知ろう~伊能忠敬編 】

1745.1.11-1818.4.13


の文章をそっくり引用させて戴くことにした。

伊能忠敬(ただたか)。江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。

※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!

暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!

当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのだ)
忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。

1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。

半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった!
1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。

そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。

伊能忠敬の214枚に地図を広げてみると
214枚の日本大図はこんなに巨大だッ!※’04年、名古屋ドームにて(撮影kooichi.ikaiさん)

この地図の後日談にこんなエピソードがある。忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったのだ。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。

伊能忠敬・岡山&香川
上が岡山(備前)、下が香川(讃岐)
瀬戸内の小豆島なども詳細に測量されているのが分かる!

忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。

「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!!

伊能忠敬の墓・上野源空寺
手前が忠敬、左が高橋至時(上野駅そば、源空寺)

※地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出したのだった。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)

http://kajipon.sakura.ne.jp/index.htm



伊能忠敬の伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している!

シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。

<「伊能大図」については、幕府に献上された正本は明治初期、1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる
2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚発見。これらは、国土地理院の前身である陸軍参謀本部の輯製20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものが、第二次世界大戦後アメリカに渡ったものと考えられている。続いて国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚発見された。欠けていた4枚については、2004年5月に、海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、全容がつかめるようになった。なお、2006年12月、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。また2007年1月、海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC
/p>



上記引用資料によると、

出発:1800年4月19日
終了:1816(5?)年2月19日  ただし、測量に掛けた日数は、3,753日だった。(http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/k-hanashi/inou/mamejib.htm

19日と何となく関連がある。19日=‘行く日’

こんな‘駄洒落’、オヤジギャグ’、きっと天才・伊能忠敬先生は嫌いに違いない!

もう一つのエピソード。

伊能忠敬は、名字帯刀を許されて刀をさしていますが、磁石(じしゃく)で測量するときに、まちがいがでないように、その刀は竹光(たけみつ)だったといいます。

http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/k-hanashi/inou/mamejib.htm




























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