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隠れキリシタン(カクレキリシタン)と隠れ念仏
‘隠れキリシタン’(学術的には、これを「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)と呼ぶ)は人口に膾炙されて、日本人なら誰でも知っている。この歴史も‘悲痛な叫び声’を上げている。「カクレキリシタン」は長崎を中心にして、200年以上もの間、1873年(明治6年)禁教令が解かれるまで地下に潜って自分達の信仰を貫き通したと言う。

隠れキリシタン
http://www.geocities.jp/aoisora_shiroikumo_96/saruku/top_00sotome


一方、以下の引用文にあるように、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に浄土真宗が禁止されて、上述の通りの1873年(明治6年)禁教令が解かれるまでの‘276年間’こちらは鹿児島・宮崎で地下に潜った。

かくれ念仏の歴史

鹿児島に
親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まりますhttp://www.hongwanji-kagoshima.or.jp/kakure.htm


親鸞
《親鸞聖人 熊皮の御影》重要文化財、奈良国立博物館蔵

http://plaza.rakuten.co.jp/fukashihojo/diary/201202240000/

親鸞聖人その人は、1173年の生まれで、89歳で1262年に没しているから、この‘隠れ念仏’の事は知らないはずである。


浄土真宗のみ教えが人々の間に流布すると、為政者による浄土真宗排斥の気運が生じました。それは「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制に相添ぐわなかったからです。そして真宗信者の結束力による統一的な行動が、政治的に利用され、一向一揆へと進展する危険性をはらんで、封建体制にとっては危険を感ずるものであったからと言われています。

以来、真宗信者の摘発は続きますが、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。

弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。

幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。

このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。

約300年という暗黒の弾圧を経て、明治9年9月5日、ついに鹿児島に「信教自由の令」が布達されました。京都・本願寺は時を移さず鹿児島開教に着手しました。

幾多の苦難に耐えつづけた門徒の熱い意志により、現在の地に最初の別院が創設されたのが明治11年10月21日。その後、別院は、西南戦争罹災民救済、学校建設、殖産等、当時の鹿児島県の産業と文化の発展に寄与し、開教も着実に進みます。

そして、明治30年4月28日、6年の歳月をかけて本堂が一新されました。
ところが、昭和20年6月17日、第2次世界大戦末期の鹿児島大空襲により、別院は50年たらずにして焼失。戦後復興期、苦しい時代に仮の本堂を建立。 そして昭和57年、ご門徒の厚い意志により、南九州の聞法の中心道場として、現在の別院が再興されたのであります。

鹿児島市内を一望のもとに見渡せる城山に上がりますと、鹿児島別院以外にお寺の屋根の姿は見えません。これは、真宗禁制時代に寺院もなく、公に念仏を称えることも許されず、過酷な弾圧に耐えながら、み教えを守り抜いた真宗門徒の願いと熱意を御堂の甍に表しています。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺鹿児島別院

http://www.hongwanji-kagoshima.or.jp/kakure.htm



鹿児島県人が持つ‘豪放磊落’な性格とは裏腹に、‘信仰への執念’もまた同じ気質がそうさせたに違いない。

隠れ念仏洞_convert_20120430134316
http://livedoor.blogimg.jp/scyama/imgs/2/6/2619bf22.JPG

隠れ念仏洞ー2
http://kuroneko-traveling.blog.so-net.ne.jp/2012-03-02

隠れ念仏洞ー3
花尾かくれ念仏洞 http://kuroneko-traveling.blog.so-net.ne.jp/2012-03-02

隠れ念仏洞ー4
上甑島の隠山 http://ameblo.jp/morimorisan/theme-10026139198.html

Koshikijima_Islands.png 甑列島

上図の通り、隠れ念仏洞は、甑列島と言う離れ島にまで及んでいる。そこまで民衆は一心に一向宗(浄土真宗)を崇拝した。その背景には、やはり為政者が恐れた‘一向一揆’へ繋がる思想と行動力が大衆にあったと言う証拠である。

日本の歴史は、明治維新までは、やはり‘内戦の歴史’であり、西南戦争を持って国内戦は一応の終わりを遂げる。

しかし、この国内戦は、それぞれの野心家の小競り合いを通して織田信長に始まっての‘国内統一’の名目での戦いである。

そして、その国内線に付き纏っての、もう一つの‘戦い’は、‘為政者対大衆’という構図が見て取れる。
それは現在においても連綿と続いており、権力を握りたがる為政者といつも生活と環境に悩まされ続ける一般庶民との戦いである。

平和とは何か?

簡単に平和と言うことが叫ばれるが、そもそも‘平和’とは何なのであろうか?


(つづく)





























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