お彼岸の中日今日(2015年09月23日)は、お彼岸の中日である・・。
http://www.ohnoya.co.jp/faq/dictionary/ohigan/
お彼岸とは・・・
「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である【此岸(しがん)】にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち【「彼岸」(ひがん)】の境地へ到達することが出来るというものです。
太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。
,,お彼岸の期間
春彼岸 : 毎年3月の春分の日をはさんで前後3日合計7日間
秋彼岸 : 毎年9月の秋分の日をはさんで前後3日合計7日間
*** 2015年 秋のお彼岸の日程 ***
彼岸入り:9月20日
お中日 :9月23日(秋分の日)
彼岸明け:9月26日
それぞれの初日を「彼岸の入り」、終日を「彼岸のあけ」といい、
春分の日・秋分の日を「お中日」といいます。
いつも通り、お寺さんに来て頂いた!
いつも木魚は携帯用である・・・。
今朝はそんなに暑くも無かったのだが、やっぱり汗だくのようだった!








有難いお経を戴いてお見送りに出たら、‘紫御殿’がまた花を点けていた!



この直ぐ上の写真の花の右にあるのは、昨日咲いていた花である!
‘紫御殿’の花の寿命はおよそ‘半日’である!
朝方、「美しい可憐な花だな!」と思っていたら、夕方にはもう枯れてしまっている!
我が家は、浄土真宗だったから、小学生の頃から、「白骨の御文章(ごぶんしょう)」を聞かされていた!
「・・・ されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。・・・」というあれである!
‘紫御殿’をお彼岸の中日にみると、なお更、この‘白骨の御文章’が身に沁みる!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A
A%A8_(%E5%BE%A1%E6%96%87)
白骨 (御文)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浄土真宗本願寺八世蓮如が撰述した御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)は、御文の中でも特に有名なものである。存覚の『存覚法語』を基に作られている[1]。
この御文は宗派により呼び方が異なる(詳細は御文を参照)。
本願寺派 - 「白骨の御文章(ごぶんしょう)」
大谷派 - 「白骨の御文(おふみ)」
興正派 - 「白骨の御勧章(ごかんしょう)」
この御文は浄土真宗の葬儀(灰葬 還骨)で拝読される(御文を用いない宗派では拝読されない。)。
大意[編集]
今日・明日の事しか考えない人々の姿を見て考えると、人の生涯は儚いものであります。まるで幻のようなものです。今は元気でも、次の瞬間には死んでしまうかもしれない。死は、年齢を問いません。だから、その日暮らしの生活ではなくて、これからの生き方を考えてください。それには阿弥陀仏に深く帰依し、称名念仏する事を勧めます。
現代仮名遣い文[編集]
補注 - 原文にはない濁点を補い、旧仮名遣いも現代仮名遣いに、カタカナもひらがなに改め、漢字を補足にする。
それ、人間の浮生[2]なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終[3]、まぼろしのごとくなる一期[4]なり。
「白骨の御文章(ごぶんしょう)」
されば[5]、いまだ萬歳[6]の人身[7]をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁し[9]と言えり。
されば、朝[10]には紅顔[11]ありて夕[12]には白骨[13]となれる身なり。すでに[14]無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李[15]の装いを失いぬるときは、六親眷属[16]あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙[17]となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり[18]。されば、人間の儚き事は、老少不定[19]のさかいなれば[20]、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ[21]。
意訳[編集]
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります[22]。
浄土真宗の中興の祖と言われる、あの
‘蓮如’が、「人間が‘100歳’を越すことなんて全く考えられない」と思っていたことがまた面白い!
(つづく)
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