橘樹神社への初詣(その2)
橘樹神社への初詣(その2)

2016年の初詣は、房総半島は、千葉県茂原市・本納にある‘橘樹神社’へ!

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‘橘樹神社’とはどんな‘縁(ゆかり)’のある神社なのか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B
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橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]

主祭神
 ・弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

相殿神
 ・日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
 ・忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。

神階[編集]
元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘樹神」。
元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲五等 (『日本三代実録』) - 表記は「橘神」。

境内[編集]
本殿は、江戸時代の寛政12年(1800年)の造営。

本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が造営されるまで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていたという。また、境内の吾妻池はこの墳墓を掘った跡の穴であると伝えられる。


主祭神は、弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)で、何と、その夫が、日本武尊 (やまとたけるのみこと)というから凄い!

こんなことを言っては失礼かもしれないが、参詣に来たほとんどの人が、このことを知らないと思われる!

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また、日本武尊 (やまとたけるのみこと)のことはしていても、彼がどんな御仁だったかを他人様に説明出来る人はそう多くは無いと思われる!

そこで、日本武尊 (やまとたけるのみこと)とは?

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%
E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%B0%8A-144214

日本武尊

『古事記』『日本書紀』の伝説で活躍する,景行天皇の皇子で,わが国の古代伝説の代表的英雄。『古事記』では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。名は小碓命。別名,日本童男,倭男具那王。『常陸国風土記』では倭建天皇とも記す。『古事記』によれば,父の天皇から,食事に出てこなくなった,双子の兄の 大碓命 を諭せと命じられ,殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に,熊曾建兄弟の討伐を命じられ,伊勢の斎宮で叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から衣裳を賜って九州へいき,女装して宴席に入り,兄弟を刺し殺し,そのとき弟から,ヤマトタケルの名を献上された。帰途に出雲(島根県)に寄り,出雲建(イズモタケル)を,友誼を結び油断させておいて,騙し討ちにして殺す。帰って報告するとすぐにまた,東国の征伐を命じられ,伊勢にいき,ヤマトヒメから 草薙剣 と袋を授かり,危急のとき袋の口を開いてみよと教えられる。尾張(愛知県)で美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約したのち,相模(神奈川県)で国造に欺かれ,野火に囲まれるが,草薙剣で周囲の草を刈り,袋の中にあった火打ち石で,逆に火を燃やして難を逃れる。房総半島(千葉県)に向け海を渡ろうとして,渡の神に妨害され,船が進まなくなり,后の弟橘比売が入水して,荒波を鎮めた。東征を果たして帰途に足柄の坂で「吾妻はや」といって后の犠牲を嘆き,それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。甲斐(山梨県),信濃(長野県)を経て尾張に帰り,ミヤズヒメと,月経の血で衣の裾が汚れていたのにかまわず,契りを結んだのち,草薙剣を彼女のもとに置き,伊吹山(滋賀,岐阜両県の県境)の神を素手で退治しにいったが,その神の毒気にあてられて重病になり,重い足を杖で支え,苦しみながら旅をして,三重の能煩野まで辿り着いたところで力尽き息絶えた。大和(奈良県)から后たちと子たちがやってきて,御陵を造り,泣きながら葬ろうとしたが,尊は八尋白智鳥に化して飛び翔り,后たちと子たちが懸命に追っていくと,河内の志幾(大阪府南河内郡)に留まった。そこでその地に白鳥陵を作り,鎮座させようとしたが,再び天翔り去ったという。 大略このような伝説は,全体が明らかに,典型的な英雄神話のパターンに則って構成されており,ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は,ことに著しい。両者は共に,劣弱な双子の兄弟を持っているうえに,肉親(兄と実子)の殺害と,友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと,愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が,それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に,葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも,明らかに共通したところがあると思われるからだ。名古屋市の熱田区熱田神宮の相殿神であるほか,静岡県清水市の草薙神社や,焼津市の焼津神社などに祭られている。<参考文献>吉田敦彦『ヤマトタケルと大国主』
(吉田敦彦)


という訳で、日本武尊 に関する物語は、たくさん、沢山あ~る!

その后の弟橘比売が、この橘樹神社の主祭神というから、この神社は、それはそれは、大した‘縁(ゆかり)’である!

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これほどの由緒ある神社、もっと深く知っておくべきかも知れない、地元の住人としては!

(つづく)
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[2016/01/03 21:29] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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