上野公園の西郷隆盛銅像(その3)
上野公園の西郷隆盛銅像(その3)

先日の本弊ブログで、以下のことを掲げさせてもらったが、未だ<質問2>の答えを示していない。

上野しかし、次の二つの質問に二つとも正確に答えられる人は、そうはいない!

<質問>

<質問1>:なぜ、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか?
<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?


<質問2>:西郷さんが連れている‘犬の名前’は何という?

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出典/http://www.gotokyo.org/jp/kanko/taito/spot/2182.html

私が上野公園の西郷隆盛の銅像を最初に見たのは、高校生の修学旅行の時だったから、え~っと、その~、昭和30年代前半、つまり50数年前だった!

その時の印象は、

① 西郷さんが、なぜ‘刀’を持っているのに浴衣姿なのか?
② 西郷さんが大きかったことを強調してなのか、犬が小さ過ぎる!

だった! 当時私は、犬が苦手だったので、‘犬の名前’が何というのか等に興味が無かった・・・。

さて、今回改めて眺めてみると、今度は、この小さな犬の名前はなんと言うのだろうか?と疑問に思ったし、‘浴衣に刀’の疑問は解けていなかった!

と言う訳で調べてみると、‘犬の名前’にも色々な名前を信じておられる人がいて、中には、‘忠犬ハチ公’と言い張る人さえいることにも驚いたが、この犬の耳が最初は‘垂れて’いたのを誰かが指摘して‘立て直した’という逸話もあることが判った!

http://zassha.seesaa.net/article/390629836.html
 「ツン」という名の薩摩犬 飼い主は西郷隆盛

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1898年(明治31年)12月18日、上野恩賜公園山王台で除幕式が行われた時、すでに「ツン」はこの世を去り、飼い主も薩摩の城山岩崎台で銃弾を浴び、首のない屍体となっていた。西郷の死後、21年2ヶ月が経ったこの日、除幕式に招待された西郷の未亡人糸子は「主人はこんな人じゃなかった」(薩摩弁で)と漏らしたと伝わっている。

問題は「ツン」。高村光太郎の実父・高村光雲(東京美術学校彫刻科教授)が西郷像と一対で「ツン」を製作したのだが、「ツン」を見知った者から「耳は垂れていなかった」と証言が出たため作り直すことに。耳がツンとした現在の「ツン」(雌でなく雄犬)は後藤貞行の作。

1873年(明治6年)10月24日、朝鮮遺使の無期延期(征韓派敗北)を受け、西郷は即座に参議を辞職し下野する。薩摩(鹿児島)に帰った西郷は、東郷町藤川の藤川天神に詣でた折に地元在住の前田善兵衛という者からウサギ狩り用の猟犬を贈られている。その犬が、ツンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬「ツン」(雌犬・命名者は不明)であった。

西郷とウサギ狩りを共にし野山を駆け回っていた「ツン」のその後の運命はわからない。維新の元勲・西郷隆盛は、1877年(明治10年)9月24日午前4時の政府軍の総攻撃を受け、数百発の砲弾が炸裂するなか城山で自刃。48歳の人生を終えた。

参考 鹿児島県川内(せんだい)市東郷支所産業建設課のHP http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub2tougou1.htm


また、西郷さんの銅像については以下の文献もある!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83
%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B%E5%83%8F

<前略>

銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった。岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという[2]。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[3]。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[3]と解釈している。

上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した[3]。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという[4]。

上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる高山樗牛らの反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。

美術史家の吉田千鶴子の調べによると、当初「馬上」で「陸軍大将軍服」姿の図様が募集された[5]が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大将服着用の立像」となり雛形まで出来あがったものの、今度は「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、最終的に現在の姿になったという[6]。そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図が働いていたと見られる[7]。

<後略>


ものにはそれぞれ深い深~い由来があるものである!

(つづく)
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[2016/03/29 23:56] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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