東京・上野公園は、今!(その1):上野公園・西郷隆盛銅像・碑文
東京・上野公園は、今!(その1):上野公園・西郷隆盛銅像・碑文

一昨日(2017年1月20日)、久し振りに東京・上野公園を訪ねてみた!
上野公園と言えば、我々のような‘老いぼれの九州人’は、‘せごどん’、つまり‘西郷隆盛’の銅像を一番に見たいと思うのである!

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http://tanaka0903.net/?p=1427

<碑文>(たてよこ変換)

西郷隆盛君之偉功在
人耳目不須復賛述前
年 勅特追贈正三位
 天恩優渥衆莫不感
激故吉井友實輿同志
謀鑄銅像以表追慕之
情 朝旨賜金佽費捐
資賛此擧者二萬五千
餘人明治二十六年起
工至三十年而竣乃建
之上野山王臺記事由
以傅後

西郷隆盛君の偉功については皆さんご存じでしょうから、改めて讃え述べることもないでしょう。前年、勅によって特別に正三位を追贈され、天恩が手厚いことに皆感激しないことはありませんでした。故に、吉井友実は同志とともに銅像を鋳造し、追慕の情を表すことを計画しました。朝廷から金銭を賜り費用に充てよとのご意向があって、この挙に賛同し義捐金を拠出した者が二万五千人余りあり、明治二十六年に起工し、明治三十年に至って竣工し、これを上野山王台に建てて事由を記し、以て後世に伝えます。


除幕式の時の‘エピソード’は有名であるが、この西郷隆盛の銅像が、あの‘高村光雲’作というから少々驚きである!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9
A%86%E7%9B%9B%E5%83%8F

<東京・上野の西郷銅像>

東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬「ツン」は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まった。

宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日に行われた。

身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合、遠近法で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。

以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつかえつつも現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街と並ぶ、東京の象徴的光景となっている[1]。銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった[2]。

岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという[3]。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[4]。実際、生前の西郷に接した東郷平八郎元帥も「上野の銅像なども、制作には大分苦心された様だが、やはり緊張した顔付だし、少しふとり過ぎて居るように思ふ。」と評し、絵画等では西郷の愛嬌や温和が再現しきれないと述べている[2]。

公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし、周囲の人に窘められたという。

この糸子の言をも、樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[4]と解釈している。

上野の西郷像は、糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した[4]。

連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという[5]。

上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。

当時、故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。

当初は、皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる高山樗牛らの反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。

美術史家の吉田千鶴子の調べによると、当初「馬上」で「陸軍大将軍服」姿の図様が募集された[6]が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大将服着用の立像」となり雛形まで出来あがったものの、今度は「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、最終的に現在の姿になったという[7]。

そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする、政治的意図が働いていたと見られる[8]。

造像後、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという奇妙な風習がはやり[9]、昭和に入っても鼻に当たると出世すると言われた。見かねた鹿児島県人会らは、清掃を買って出たという。また、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板に代わりにされた。その後も、銅の価値から犬の像の方を盗もうとする輩が度々表れたが、この企ては成功しなかった[10]。


連れている犬についても文献にあるように、‘逸話’が残っているのが面白い!

(つづく)
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[2017/01/22 23:55] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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