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八重洲と有楽町
仕事で上京する人達と待ち合わせる場所には大抵‘JR東京駅・八重洲中央改札口’を指定することにしている。

新幹線でも羽田からでも一番判り易いからである。それに案外待ち合わせる人数が少ない。東京駅では待ち合わせの場所として‘銀の鈴’を推奨(?)しているようだが、初めての人にとっては、この‘銀の鈴’の場所を探すのに一苦労する。

また、友人と夕方待ち合わせる場合は‘JR有楽町駅・国際フォーラム口’を選ぶ。何故なら、友人は忙しいから大抵20分くらい遅れるのが普通である。

その時間つなぎには、‘ビックカメラ’さんが私には最も良い情報収集場所だからである。このお店の商品の並べ方を見ていると、現時点で‘情報システム・機器・端末’で何が主流になっているかが一瞬にして理解出来る。そして、もうそろそろ‘下火’になった商品も直ぐに判る仕組みになっている。

商品の配置換えは目まぐるしく一週間も行かないと商品の場所が変わっていてあれよあれよという状態である。
ところで、お店の名前が‘ビッグカメラ’ではなく‘ビックカメラ’さんである。この‘ビック(BIC)’とは何の意味だろうかと前から思っていた。

余り深くものを考えない人達は‘Big'と思っている人が多い。これは後述する。

さて、本日の話題は、‘八重洲’と‘有楽町’である。

八重洲の由来 :これは案外皆知っている。日本史の時間にその由来を説明することが出来る先生がおられるからである。まさか、大学入試の問題に‘「八重洲の由来と歴史的意義を述べよ」’などと言うものは無いだろうから、一分一秒も惜しい‘受験勉強’の中では先生も教えたくっても教えられまい。

それでも‘ヤンヨーステン’は、‘ウイリアムアダムス’の名前は受験生は知っている。

八重洲口
http://blogs.yahoo.co.jp/shirochai6810/27502616.html
東京駅八重洲口

http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-dYstn.htm

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン (1556~1623)
 Jan Joosten van Loodensteijn

ヤン・ヨーステンはオランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子。ヤン・ヨーステンは名で、姓はファン・ローデンスタイン。1598年にオランダ東インド会社がロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のために司令官のヤックス・マフが乗組員を集めている時に、ヤン・ヨーステンは応募しリーフデ号に乗組みました。

1598/6/24に5隻の船団はロッテルダム港を出航しました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとしましたが失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカへ行ってスパイスを買う予定でしたが、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていきました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。

ヤン・ヨーステンが乗組んでいたオランダ船リーフデ号は嵐に遭遇して、1600/4/19(慶長5年3月7日)に豊後(大分県)の臼杵に漂着しました。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏みました。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はヤン・ヨーステンらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求しました。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させました。

その後、徳川家康に謁見して信任され、外交や貿易についての顧問となりました。江戸の「丸の内」に屋敷を貰い、日本人と結婚し、耶楊子と名乗りました。オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。

彼の江戸屋敷は現在の和田倉門~日比谷間の内濠の沿岸に与えられ屋敷を構えました。この地が彼の 名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続きました。現在は、中央区の八重洲 としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っています。

東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが帰国交渉はできず、再び日本へ帰還中、乗船していた船がインドシナで座礁して海の藻屑となりしました。1623年のアンボイナ島事件を伝聞で聞いたといわれています。



リーフデ号(蘭:Liefde=愛)~大百科事典他より~

1600年(慶長5年)3月16日に、豊後国(現大分県)に漂着したオランダの商船。
300トン、3本マストの帆船。船長クワッケルナック、航海長ウィリアム・アダムス。 同時代のオランダ船
漂着地は臼杵湾の黒島ともされるが、豊後国のどの地点かは不明。 2年前に本国オランダのロッテルダムを出航。はじめは5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24名。生存者の中にも重傷者が多く、翌日に3人が死亡したという。生存者の中には徳川幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムズ(三浦按針)も含まれていた。日本に到着した初めてのオランダ船。また、アダムズは、日本に初めて来たイギリス人であった。漂着後、大坂に回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。

宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用したという。この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいう。

なお、リーフデ号そのものは現存しないが、リーフデ号の船尾に飾られていたという木像が現存している。この像はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの木像で、家康の旗本、牧野成里の領地である栃木県佐野市上羽田の龍江院の所蔵である。貨狄(かてき)像(一説には「貨狄観音」)としてまつられていた。このエラスムス像は昭和5年(1930年)国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。リーフデ号はもともと「エラスムス号」という名であった。名称が付けられた経緯、また変更された経緯については不明である。



この文献から、ヤンヨーステンが日本に来た時の様子や何故八重洲に住んだのかの理由も少しは理解出来た。それにしてもやはり徳川家康は凄い!

関ヶ原の合戦の時に彼らが船に備えていた大砲をその砲員と共に活用したとは!


さて、次は有楽町の名前の由来について。


有楽町の由来 :この有楽町もまた有名である。フランク永井が唄う‘有楽町で逢いましょう’で全国的に一気に有名になった。私達の様に九州の片田舎に住んでいた者にとっても憧れの地名であった。

有楽町
http://blogs.dion.ne.jp/jun_ko/archives/6311345.html
有楽町

http://www.itocia.jp/history/history01.html

有楽町歴史絵巻

第1回テーマ「地名の由来と江戸時代」

有楽-織田信長の弟が地名の由来?

1952年(昭和27年)のNHKラジオ・ドラマ「君の名は」や、1957年(昭和32年)に歌謡曲の「有楽町で逢いましょう」で、一躍全国的に知られるようになったその地名の由来は、 江戸時代にまでさかのぼります。

有楽町の地名は、戦国時代を代表する武将、織田信長の実弟、安土桃山から江戸時代初期の大名茶人で千利休にも学んだ「織田 有楽斎 長益(おだ うらくさい ながます)」 (1547年-1621年)の屋敷があった、あるいは屋敷跡を有楽ヶ原(うらくがはら)と呼んだことに由来しているといわれています。また数寄屋をいくつも建てたので、そこから 数寄屋橋の由来になったという古書もあるようです。

ただ江戸時代の古書や江戸図からは織田有楽斎の屋敷があったという確証はありません。 はっきりしているのは江戸時代中期の頃から有楽ヶ原と江戸の絵図に地名がでており、正式な町名としては、1872年(明治5年)からとなっています。

織田 有楽斎は、本能寺の変の信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は関ヶ原の合戦で東軍の徳川方に与して、戦乱の世を生き延びました。 大坂夏の陣前までは豊臣家の姪・淀殿に仕え、戦を好まなかったため豊臣家内では戦を避けようと尽力しましたが、直前で大坂城を退去したため、徳川家の咎めはありませんでした。

有楽斎は、大坂夏の陣の後は、京都に居を定めて隠遁し茶を友に終生過ごし75歳で死去。1600年頃には出家してすでに有楽と号していました。 自分で有楽流という茶道の一派を創設するほど造詣が深く、千利休の門下の七哲に数えられています。

なお東京の有楽町とは別に、この秀吉から与えられた大坂の有楽町(うらくまち)という地名がありましたが、戦後の区画整理などで消滅しています(現在の西成区天下茶屋付近)





さて、‘ビックカメラ’の社名の由来について:ビックカメラのHPの<よくあるご質問>の中に次のように説明してある。

ビックカメラ有楽町店
http://winterheart.seesaa.net/article/269523610.html
ビックカメラ・有楽町店

http://www.biccamera.co.jp/ir/faq.html#q0102

Q:社名の由来をおしえてください

A:「Bic」はバリ島のスラング(俗語)です。「大きい(Big)」の意味を持つ一方、ただ大きいだけでなく中身を伴った大きさ、という意味もあります。「限りなく大きく、限りなく重く、限りなく広く、限りなく純粋に。ただの大きな石ではなく、小さくても光輝くダイヤモンドのような企業になりたい」という希望をこめて、「ビックカメラ」と命名しました。


これでは‘明快な回答’とは言えまい。何故‘バリ島のスラング’をわざわざ持ってくるのか?英語にその意味を持つ言葉がなかったから、という説明なら判るが・・。カメラは英語を使っているのであるから。本当に判らない!きっと言えない何かがあるのだろうと勘繰りたくなる。場所がバリ島だけに・・・。

これに疑問を持つ人が多くいると見えて、以下のように web の検査項目があるわ、あるわ。


ビックカメラ

これが数ページに亘るから凄~い!

でも、決め手は、wikipedia らしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83
%83%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9


名称 [編集]
「ビック(Bic)カメラ」を「ビッグ(Big)カメラ」とする誤用が多くみられる。この綴りに関して、会社の公式発表では「ビック(bic)」とは英語の方言で「(外見だけでなく中身も)大きい」の意である(元はbig)。創業者の新井隆司は、バリ島を訪れた際に現地の子供たちが使っていた「ビック、ビック」という言葉に、「偉大な」という意味があると聞いて社名に使ったと述べている。



どうもこれで‘な~るほど’と、どうして思えるのか?

私の友人が、自分の子供の名前にとても普通では読めない名前をつけた。他人様のことだからどっちでも良いことだが‘何故?’と聞いてみた。返事は‘皆に覚えて貰えるから’ということだった。

名前ぐらいしっかりつけろ!とその時そう思ったが、そんな類にも思えてくる。

皆がこれだけ社名を気にしてくれているということが目的の一つなら、その効果は極めて大きく社名をつけた人の勝利である。

ただし、皆が気にしたのは、ビックカメラの社名の‘ビック’だけであって、そんな単語ってあったの?と不思議に思ったからだけである。

でもでも、それだけでも‘話題になる’。これは売り上げを先ず第一とする商売としては‘大成功の社名づけ’だったと思う。拍手!

これはきっと社名をつけた人の‘戦略’だったに違いない! ‘社名’は‘不明’がいいと。

さて、八重洲が徳川家康と関係があり、そして有楽町が織田信長との因縁があるとなると、このビックカメラに豊臣秀吉との関連があるとこれもまたビッグ3となって面白い。

ビックカメラと秀吉の関係は名古屋市にあった。

ビックカメラ名古屋店
http://blogs.dion.ne.jp/toyopos/archives/10644784.html
ビックカメラ・名古屋駅西店

http://toppy.net/nagoya/nakamura5.html

では名古屋駅へと戻り、今度は桜通口とは反対の西側の玄関口、太閤通口へと向かいましょう。その「太閤」という名前からもわかるとおり、中村区は豊臣秀吉が生まれた場所です。
かつて、太閤通口には「生活倉庫」という地元大手スーパー・ユニー系列の服飾雑貨店ビルがあったのですが、売上低迷から撤退、現在は2003(H15)年11月にオープンした「ビックカメラ」となっています。



やはり調べて見るもんだ!

名古屋駅・太閤口にビックカメラがあった。
























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[2012/07/02 15:10] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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