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唯心偈(ゆいしんげ):いじめの原点は何か?
‘いじめ’が今日本国中で大きな話題となっており、今の日本人が‘その解決策’を見い出せないでいる。

‘お偉い’方達が、‘政局’に明け暮れ続けている間に、‘子供への教育’という‘国家の基本を作る仕事’が置き去りにされて来ているのである。

そして、もっとひどいのは、憲法九条と同じように、‘いじめ’の解釈まで‘素直に’解釈されなくなってしまっている。

それは‘いじめ’とは思っていない。単なる‘けんか’だと思っていたと‘教育者’でござ~い、という最後の頼みの人達までもが発言する始末である。

そして、この‘いじめ’についての解決策が、なんと驚くことに、‘いじめられている被害者’に向かって「素直に‘刃向かう’勇気を持て!」というのまで出てきてしまう幼稚さである。

この発言に見られるように、根本療法を忘れてしまった‘対症療法’ばかりの意見しかない!

‘頭痛’がするのなら、‘頭痛薬’を飲めばいいじゃあないか!

‘頭痛薬を飲まない方が悪い’とさえ言い出しかねない雰囲気である。

‘教育とは一体何か?’

‘問題’は、この‘根本にある問題に解決策を提示しない’大人に問題があるのに、そのことが全く認識されていないのである。

こんな場合、我々の‘手法’は、「文科省は一体何しているのか?文科省の対策は?」と、問題を自分のものにしなくて、「これは、文科省や学校や親の責任だ!」と言って自分の問題として考えたり取り組り組んだりしない思考形態、つまり‘責任の転嫁’でこと済ませようという‘思考形態’に慣れてしまっている。

一見、‘正論’のようにも聞こえるが、‘人類皆兄弟’の思考形態にまでまだまだ達していないのである。

「‘こころ’とは何か?」を教える仕組みづくりがないのだ!

ここまで悪化したのには、古~い歴史がある。

‘日教組’というとんでもない‘化け物’の責任が問われるが、それも‘日教組’を野放図にしておいた国民の責任でもある。

高度成長政策に躍起になっている間に、一方では‘いじめ’が蔓延る‘教育方針’に疑いを持たなかったのも国民である。

ただし、教育方針をこんなことにしてしまった当の張本人の民主党幹事長殿がこんな無責任発言をする事には呆れてものが言えない! 一般の人間とは違うのだ。


http://blog.livedoor.jp/kita3777/archives/12206454.html

大津いじめ事件 輿石幹事長とんでも発言!

カテゴリ:政治・経済
2012.07.20 ザ・リバティ・ウェブより、抜粋・編集

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http://read2ch.com/r/liveanb/1343046351/

大津いじめ事件について、民主党の輿石東・幹事長が19日、「だれが責任があるとかないとかの問題ではない。みんなできちんとやっていかなければならない」と発言した。20日付産経新聞。

輿石氏は、「日教組のドン」。発言要約すると「だれの責任でもない」と言っている。連帯責任は無責任。教育現場でいじめ自殺が後を絶たないのは、こうしたところに原因がある。



やはり、‘教育の場’である小学校・中学校で‘こころ’を教える時間がない事が、国家を危うくさせている。

そして、世界へ向かって‘平和’を叫べない国民にしてしまったのだ!

‘シリア問題’に日本人は‘知らぬ存ぜぬ’の態度でいいのだろうか?

‘政教分離’の根本政策は間違っていないだろうが、‘宗教の何たるかに関する’大事な人間の‘こころ’の問題を積極的に否定するのは、‘政教分離’よりも‘たち’が悪い!

NHKが、7月23日(日)に放映した宗教の時間、‘こころの時代’、「蓮華のごとく生きる」を後半部分だけ拝見・拝聴した。(以下の画像は、断りの無いものはNHK・TVの画像をカメラで撮影したものである)

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どんな生き方が、「蓮華のごとく生きる」と仰せなのだろうか?

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講師としての出演者は、東大寺の北河原公敬住職である。

後半だけしか見ていないので、前半にどんな事を言われたのかは定かではない。‘いじめ’という言葉が後半にもしめくくりにの出て来なかった(?)ので、‘いじめ’特集ではなかったのであろう。

しかし、「こころ」の教育がしっかりとなされていたら、‘いじめ’など発生するはずがない事も含めて日常の生活の中に「こころ教育」がなされていないことを憂えてのご発言である。

その中に出て来たのが、表題の「唯心偈」という言葉である。

‘偈’とは:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88
偈(げ、gaathaa(sanskrit))とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。



http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page008.html
縁起・唯心・華厳について

仏教では縁起と申しまして、万有は縁(条件)によって生じる、つまり一切のものが関係の上に存在している事実を凝視するのです。
華厳では、この関係をさらに深め高めて、たとえば私というものは、私以外の万物(の恩恵)によって生かされているのだが、同時に私も他の万物を生かしているわけで、あらゆるものは重々無尽に関係しあって、共存共栄、美しい調和のとれた世界に気付かねばならないというのです。
また、縁起の奥底へ目を向けて唯心(縁起)とも申しまして、一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真の実在であると説くのです。
これをさらに高め深めたのが華厳経の中心思想であって、この唯心縁起の究極をあらわしたのが<唯心偈>なのであります。

あの般若心経は、大般若経六百巻を二百六十六字に煎じつめたものであるように、この唯心偈は六十巻または八十巻の華厳経を百字に凝縮した華厳の真髄、つまり<百字心経>とも言うべきものであります。



さて、その<百字心経>とは、どんなものなのだろうか?

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http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page008.html
百字心経

初めと終わりの言葉が大事である。そして、これが結論である。

心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 :

心は、巧みな画家が、〔物質・感受・想念・意思・認識という〕さまざまの五陰〔から成る人〕を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來 :

もしも人が、三世の一切の仏を知りたいと思うなら、このように観察すべきである。心がもろもろの仏を造る、と。

「心如工畫師」・・・「心造諸如來」

要するに簡単・端的に言えば、「こころ」こそが、一切の世界を創り出す‘原点’だというのである。

従って、その‘原点’に‘欠陥’があると‘欠陥世界’が創造され、‘思いやりのこころ’があれば、‘思いやりのあるこころの世界’が創造される。

では何故、初めから‘こころある思いやりの世界’を神や仏は創らなかったのか?

宗教の行きつくところは、この‘何故?’を解く(説く)ところにある、と私は思っている。これは次回。

さて、東大寺ご住職の言われるところは、

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「初発心時便成正覚」 である。

「‘発心’にまで持って行くこと、これが教育であり、これが小学校・中学校の教育方針でなければならない」とお話を伺っていてそう感じた。

http://homepage3.nifty.com/~bbf/57index.html

初発心時便成正覚

標題は「しょほっしんじ べんじょうしょうがく」と読む。 禅宗の言葉である。 仏教の世界で「悟りを求める心をはじめて生ずるとき、それがそのまま最高の仏の悟りに結びつく」という意味だそうでであるが、発心(ほっしん)とは「あることをしようと思い立つ」という意味で、正覚(しょうかく)とは「真理を体得した仏の悟り」という意味である。お坊さんが修行する時に使われる言葉である。

 この言葉を実社会人に当てはめると、「『さぁ、やるぞ』と本気でやる気を起こした時に初めて、何事もいずれ必ずうまく行くものだ」あるいは「『さぁ、やるぞ』と発起(ほっき)した時、何事も既に成ったようなものである」という意味になる。即ち、逆に言えば、本気で本人が自覚しなければ、成るものも成らない」ということである。

 人を動かし、事を成し遂げる極意である。「やれ、やれ」、「しろ、しろ」と命令を下すのは簡単だが、それだけで人に自覚を促し発起させることは極めて難しい。人が自覚し発起するために何を成さなければならないか、よく考えなければならない。それは、今風の言葉で言えば、啓蒙と共感ということになる。そして、焦らず、人が自覚し発起するまで、じっとがまんして待たなければならない。そうすれば、有限である人間が修行あるいは稽古という無限の世界に在ることになり、無限の力を発揮することになる。

 意味は天と地ほどにも違うが、実際の場面において使われるよく似た言葉に、「ああだ、こうだ、と逡巡ばかりしていても仕様がない。先ずは、何か事を起こしてみることだ。案外、旨く行くことが多いものだ」という意味の「案ずるより生むが安し」という言葉がある。これはまさしく啓蒙の言葉であり、現場体得という「常在戦場」精神によって悟らせようとするものである。



発心を起こさせること。実は、その種、つまり‘種子(しゅうじ)’は、それぞれどの人間も初めから持ち合わせている。それを仏教語で言えば‘仏種(ぶっしゅ)’という、と言う。

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この‘種’を‘芽’に持って行くことが‘発心’させるということであり、そうすることで、その人は「正覚」すなわち‘悟り’の大部分を会得したことになるというのである。

花を咲かせるには、‘初動作’を誤ってはならぬ!

犯人を検挙するにも‘初動作’を間違ってはならぬのである!

‘初動作’を誤ると、正常に戻すためには、100倍、いや1000倍もの努力が必要なのだ!

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聞くところによると、この蓮華を育てるには、最初の手入れ(土の選定と肥料のやり方)が肝心であるらしい。

http://www.iris.dti.ne.jp/~kyukaen/lotus/index.htm

蓮の育て方

用土・・・

粘土質で重く,肥沃なものが適しています。
田土が手に入れば最高で,次いで園芸用の荒木田土が好適です。
上記の土が手に入らない場合は,練った赤玉土や畑の土,黒土でも代用可能です。
赤玉土のように肥料分の少ない用土を使用する場合は,発酵堆肥を2割ほど混入しましょう。
ピートモスなど浮遊物を多く含んだ軽い土や,砂礫質のものはあまり適していません。
赤玉土の代わりに芝生の目土を使用すると,練るのが楽になります。
芝の目土は製品により内容物が様々ですが,顆粒状の土のみの製品を選びましょう。
大量の用土を練る必要がある場合は,電動の撹拌機などもあります。(電動撹拌の場合,芝の目土はあまり適さない印象を受けます。粒の大きさが均一で軟らかいため,粒同士がぶつかっても粉砕されないようです。)
荒木田土は大きな塊があれば崩す程度でよく,必ずしも水で練る必要はありません。
赤玉土を練らずに使用して栽培している例がありますが,よりよい生育環境を確保するためにも,できれば練りましょう。

肥料・・・

蓮の成長と開花には肥料が欠かせません。
例えば上野公園・不忍池では大繁殖したカワウが排泄する大量の糞で池の水が極端に富栄養化し,それと引き換えに蓮が大繁殖しているほどです。
観賞用に容器栽培する場合は,安全かつ効果的に効き,悪臭も発さない肥料が求められますが,お勧めはバイオゴールドです。
バイオゴールド100%有機成分の固形肥料ですが,水中に投入しても腐敗臭が生じない,根に直接触れても植物に悪影響が出ない,水生生物への悪影響が少ないなど,水生植物用の肥料としても理想的です。



さてさて、今後、政治家・教育者は、‘政教分離’を守りながら、何処まで‘仏種’を‘発心’という‘芽’にまで持って行くことが出来るのであろうか?

その前に、政治屋・教育屋を、政治家・教育者にさせることが大事なのであるが、その‘初動作’に失敗している彼等を、一体誰が正道へ引き戻すのであろうか?


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