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‘オリンピックの開催が4年に一度、は果たして公平か?(その2)
‘オリンピックの開催が4年に一度、は果たして公平か?(その2)

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今朝(2012年8月3日)の朝日新聞・天声人語には、次のような記事が掲載されている。

天声人語 8月3日0002

「・・・オリンピックは‘閏年’にめぐり・・・云々」という表現はあっても、「・・・、毎年開催されるべきだ!云々」をにおわせる表現は無い。

したがって、この筆者の表現は、‘オリンピックは、当然4年に一回開かれれば良いのであって、それが閏年に当たるから、話をしてみると、その人の年代が判って面白い??’とも取れる‘文学的表現である。

オリンピックに関する‘危機感’や‘平和を願う社会的価値’や‘経済的効果と世界の安定’という観点から考えてみたというような客観的意見ではない。

もう少しきつく言えば、‘天声人語’ではなく‘人声人語’であって、立場が損なわれている。

「大人と子供の差は何か?」という問いがある。

子供は経験が少ないし、行動範囲が狭いから、自分が今まで見聞きした範囲内においてしか、物事の価値を考えることが出来ない。

したがって、「・・・。それは子供の意見でしょう!」と片づけられてしまって、発言の内容に価値が与えられない。

大人は、そうはいかない!

一人前の大人として認められるには、経験の深さとそれを踏まえた‘客観的’なものの見方が要求される。

いわば、大人には、常に‘自分を遠くから眺めることが出来、その自分を眺めながら意見を述べることが出来る’事が要求される。

‘激昂する’人も‘無責任発言’をする人も、そういった意味では、大人になりきっていない人だと言える。

上記の‘天声人語’を書かれた人が、大人ではないと言っているのではない。これは著者のほんのほんの一部の作品だから、これだけを以って著者の評価するなんておこがましい。

でも、この‘天声人語’(人声人語?)での表現で大いに気に入ったものがある。

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http://www.gorin.jp/news/photo/20120802_01026.html
「お色直しの‘金’」を掲げる内村航平選手

内村航平選手に関して、北京の銀からロンドンの金へについて、‘見事な「お色直し」’と表現されている事である。

今まで、いろいろな人がこの類の表現をしてきたが、「これより一番輝く・・」だとか「これよりもっと高貴な・・」とかの表現に止まっていたが、今回の「お色直し」に勝る表現は無い!

この表現に「金メダル」を差し上げたい!



でも「金メダル」は、‘純金無垢’ではない!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB

金メダル

金メダル(きんメダル)は、スポーツや音楽などの競技会・競演会(コンクール)において、各部門中、最も優秀な成績をあげた個人または団体に対し、その栄誉を称え授与される賞牌である。
概要 [編集]

本来は金製で、円盤形をしており、表面には勝利を象徴する月桂樹などの模様が施されているメダルをこう呼ぶ。また、本体上部には、首に掛けてぶら下げるための幅広の紐やリボンがつけられている。また、比喩的表現として「勝利」「優勝」などの意味としても使われる。
多くの金メダルは金メッキであるが、ノーベル賞やアメリカの議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)のメダルは純金である。
近代オリンピックにおける金メダルは、“純度92.5%以上の銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたもの”とオリンピック憲章(規則70 付属細則2-2)に定められている(銀製金メッキ)。これは、開催国によって経済的な不利が無いようにとの配慮である。メダルには競技の名前を入れる事になっており、授与される者の名前は入っていない。意匠は大会によって異なる。たとえば長野オリンピックでは一部に漆塗りが用いられたほか、トリノオリンピックでは形状がドーナツ型であった。ただし夏季オリンピックのおもて面については統一されている(2004年アテネより2代目)。


オリンピックの金メダルは、上記引用文にある通り、銀メダルの上に、‘たった6gの金’がメッキしてある だけである。

これぞ、正に「お色直し」。天声人語さん、言い得て妙!

因みに、メッキされた金のお値段は?

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http://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/d-gold.php
d-gold_graph_02.gif

縦軸の単位は、(円/グラム)である。横軸は、今年の(月/日)。

このグラフから、4,300円/グラム とした場合、

   (4,300円/グラム)×6グラム = 25,800円

と計算が示す通り、金メダルと銀メダルの‘地金’の価値は、3万円にも満たない。



さて、さて、今回のオリンピックでもいろいろなもめごとがある。

我々は、小学校の時にこう教わった。

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http://www.bm-poitiers.fr/medias/medias.aspx?INSTANCE=EXPLOITATION&PORTAL_ID=portal_model_instance__page_culture3.xml
クーベルタン(Coubertin)男爵<‘クーバーチン’とは、俺のことかとクーベルタン言い(字余り)>

「オリンピックは、勝つことより参加することに意義がある」:クーベルタン男爵

私は、小学校の時から、この言葉に或る疑問を抱いていた。

その‘或る疑問’とは、「国内で勝たないとオリンピックに参加出来ないのに、何故?」というつまらぬ疑問である。

当時は、今のように‘情報’が直ぐに取れるという時代でもないし、そんなことを言っても馬鹿にされるだけだと思っていた。

さて、このことについてWEBで検索すると、そんなことよりも面白い‘ブログ’に遭遇することが出来た。

愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20100531/olympic

いちいち解説するより、また引用文アドレスを紹介しても見ない人がきっといるだろうから、全文紹介を・・・。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20100531/olympic

2010-05-31
■[ネタ]オリンピック「勝つことより参加することに意義がある」の起源と謎について

 オリンピック精神(の一つ)として伝えられているこの言葉ですが、起源はクーベルタン男爵でない、というのが定説。

→オリンピックは参加することに意義がある:オリンピックの精神:心理学総合案内こころの散歩道

第4回ロンドンオリンピック(1908)の陸上競技では、アメリカとイギリスとの対立が絶え間なく起こり、両国民の感情のもつれは収拾できないほどに悪化していました。
 
 その時に行われた教会のミサで、
「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することであろう」というメッセージが語られました。
 
このメッセージを、当時のIOC会長のクーベルタンがとりあげ、次のように述べました。
 
「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。」
 「近代オリンピック100年の歩み」(ベースボールマガジン社)より
 要するに、教会のミサでのセリフをうまくクーベルタン氏が引用して膨らませた、という話。

→ロンドンオリンピック (1908年) - Wikipedia

本大会では、ホスト国で世界に君臨していたイギリスと急速に国力を伸ばしていたアメリカがお互いをライバル視し、険悪な関係になった。特に陸上400m決勝ではアメリカ選手のファウルの判定に対し、それを不服としたアメリカが他の決勝進出選手も出場をボイコット、イギリスのウィンダム・ハルスウェル一人で走るという前代未聞のレースとなった。こうした状況を危惧したペンシルベニア大司教(アメリカ選手団に随行していた)のエチュルバート・タルボットは、「オリンピックにおいて重要なのは勝利することよりむしろ参加したことであろう」と説教で語り、これを知ったクーベルタンはオリンピック精神の表現としてこの言葉を引用するようになった。
 誰が言ったかは分かりました。

→参加するべきか否か? | 透明人間たちの気まぐれ日記

 第4回ロンドン大会(1908年4月27日~10月31日)でのことです。
 実は、この大会は、いろいろな意味で近代オリンピックの基礎がつくられた大会でした。
 それまでは、個人やチームごとに申し込めば参加することが可能だったものが、各国のオリンピック委員会(NOC )を通じての参加となった最初の大会だったのです。
 それだけ、参加基準のハードルが上がったというだけではなく、正式に国を代表する選手であるという特別の意味合いも生まれました。
 つまり、国どうしの争いが激化する キッカケ となった大会でもあるのです。
 そこで、ある有名な事件が起きたのでした。
 当時、陸上競技の種目だった綱引きでのトラブルです。
 シューズ履きのアメリカチームに対し、警察官で編成したイギリスチームがスパイクを履いて圧勝するという大騒動が勃発したのです。
 米・英、両国はルールや判定をめぐって、もつれにもつれ、国民感情むき出しのケンカ状態を続けていました。
 そんな最中にセントポール寺院に各国選手団を招待して行なわれた日曜日のミサで、ペンシルベニアから来ていたエチュルバート・タルボット司教が、「この五輪で重要なことは、勝利することより、むしろ、参加することにある」と説教したのです。
 ↑こちらの記述では、司教の演説のきっかけは「陸上400m」ではなく「綱引き」ということになっています。

→Ethelbert Talbot - Wikipedia, the free encyclopedia

He was invited to preach at St Paul's Cathedral on July 19, a service to which athletes and officials of the games were specially invited. In his sermon, he said,
“We have just been contemplating the great Olympic Games. What does it mean? It means that young men of robust physical life have come from all parts of the world. It does mean, I think, as someone has said, that this era of internationalism as seen in the Stadium has an element of danger. Of course, it is very true, as he says, that each athlete strives not only for the sake of sport, but for the sake of his country. Thus a new rivalry is invented. If England be beaten on the river, or America outdistanced on the racing path, or that American has lost the strength which she once possessed. Well, what of it? The only safety after all lies in the lesson of the real Olympia - that the Games themselves are better than the race and the prize. St. Paul tells us how insignificant is the prize, Our prize is not corruptible, but incorruptible, and though only one may wear the laurel wreath, all may share the equal joy of the contest. All encouragement, therefore, be given to the exhilarating - I might also say soul-saving - interest that comes in active and fair and clean athletic sports.” (emphasis added)
Pierre Coubertin, the father of the modern Olympic movement, paraphrased Talbot in a speech the following Friday, "The importance of these Olympiads is not so much to win as to take part." The sentence has been paraphrased and modified over time, but remains an important part of the Olympic ideals.
 ということで、演説があったのは1912年7月19日、クーベルタン氏の発言があったのはその週の金曜日、ということのようです。

 ところがなんと。

「ウィンダム・ハルスウェル」が一人で走ったのは7月25日。

 アメリカ人を含んだ4人の決勝が「7月23日」に行われています。

 要するに、いずれにしてもエチュルバート・タルボット司教が「勝利することより、むしろ、参加することにある」と言ったのは、オリンピックの400メートル徒競走に関して、ではなさそうです。

→ウィンダム・ハルスウェル - Wikipedia

翌年の1908年、ハルスウェルは地元ロンドンでのオリンピックの400mに出場する。7月21日に行われた準決勝を48.4秒のオリンピック新記録で決勝に勝ち上がった。2日後の7月23日に決勝は、彼と3人はアメリカ人による4人で行われることとなった。
さて、決勝のレースは、ウィリアム・ロビンスが先頭、2位にジョン・カーペンター、3番目にハルスウェルという順番で最後のホームストレートに入ってきた。ここで、カーペンターとハルスウェルがロビンスを抜きにかかると、ここで審判から反則の声が上がった。レースは、カーペンターが1位、ロビンスが2位、ハルスウェルが3位でフィニッシュした。しかし、カーペンターがハルスウェルの走路を侵害したとのことでレースは無効の判定が下された。写真判定では、確かにカーペンターはハルスウェルの走路をブロックしていた。しかし、このようなブロックはアメリカのルールでは認められているものであった。しかし、この大会は、イギリスのルールを適用し運営されていたため、カーペンターは失格。カーペンターを除いた3人により、2日後の7月25日に再レースを行うこととなった。しかし、残り2人のアメリカ選手は再レースを拒否。再レースはハルスウェル1人によって行われ、歩いても優勝という中、50.0秒で金メダルを獲得。銀メダル、銅メダルは該当なしという珍事となった。
 ここで重要なのは、エチュルバート・タルボット司教が誰に対して叱ったのか、ということです。

 時系列的に考えて、「陸上400mの決勝をボイコットしたアメリカ人選手」ということはあり得ません。「綱引き」の行われた日時が不明なので断定できないのですが、綱引きに卑劣な手段で勝った「イギリス人選手」に対する非難であるんじゃないかと思います。

 それに対して、クーベルタン氏の発言は、「陸上400m決勝」の行われた日の夜? それだとすると、英米の両選手を叱っていることになります。

 要するに「勝利することより、むしろ、参加することにある」の裏にも、ある種政治的な意味合いが、発言の日によって読み取れそうな気がする、ということですな。

 

(2010年6月2日追記)

 トラックバック先に、もっと細かなことが書いてあります。1908年ロンドン・オリンピックの「綱引き」をやった日、普通に英語版ウィキペディアに書いてありました。

→1908年ロンドンオリンピックの話 - 蟹亭奇譚

・7月17日(金)・18日(土) - 綱引き試合開催
・7月19日(日) - タルボット司教、St Paul's Cathedral の礼拝説教で 「この五輪で重要なことは、勝利することより、むしろ、・参加することにある」 と語る
・7月23日(木) - 陸上400m 決勝。アメリカ選手カーペンター失格になる
・7月24日(金) - クーベルタン氏、タルボット司教の言葉を引用する
・7月25日(土) - 陸上400m決勝再試合。アメリカ選手2名がボイコットしたため、イギリス選手ウィンダム・ハルスウェルが一人で走る



オリンピックには、もっともっと面白い‘秘話’がきっと沢山あるに違いない!


(つづく)























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