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東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その3)
東京駅前のこんなところに銅像が!誰?(その3)

さて、さて、さて、一体この銅像様の「井上勝」とはどなたでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%
BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D

井上勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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井上勝

井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。

<中略>

鉄道事業の推進
大蔵省に勤務してからは伊藤や大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想を発表する。とはいえ、当初は鉄道技術が日本にないためイギリスのお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日に岩倉具視・澤宣嘉とイギリス公使ハリー・パークスの会見に出席して岩倉らの通訳を務めていたが、まだ鉄道に関する方針に踏み込めなかった。続いてパークスが紹介したホレーショ・ネルソン・レイと伊藤らとの交渉で、イギリスが外債および技師と建設材料を提供して鉄道敷設を進めることになった。しかしレイは日本国債をロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにした。政府はレイとの交渉を打ち切り、外債をとりつける新しい交渉相手を決めた。1845年に香港で創立されたオリエンタル・バンクである。

政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷くことを始め、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後に桜木町駅に改称)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と共に工部権大丞となり、翌明治4年(1871年)7月23日に工部大丞に昇進、8月15日に鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(後に鉄道頭を専任)、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。

明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設は鉄道頭では無かったため直接関与はほとんどなかったが、鉄道建設を反対する一般国民や政治家達(黒田清隆など)の説得に当たり、海上に線路を敷くために手掛けた築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継ぎ工事を継続させるなど間接的に工事を推進、明治5年(1872年)9月12日に全線開通させ日本の鉄道開業に尽くした。また、明治3年7月30日に開始された神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)に続く明治4年6月15日の大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わり、お雇い外国人が見積もった金額より安い算出で工事変更を工部省に願い出て許可され、鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らない物になった。

だが、工部少輔となり上司になっていた山尾と対立、明治6年(1873年)7月22日に辞任した。関東の鉄道事業が一段落付き、次の仕事に大阪へ出張させて現場指揮を執らせ、鉄道寮も大阪へ移転してくれるよう提案したが、山尾に却下されたことに怒ったこと、山尾の干渉に耐えられなかったのが理由だったといわれる。この問題は岩倉使節団に加わりヨーロッパを外遊していた伊藤が勝の辞任をしたためた手紙を受け取り、帰国し工部卿として山尾の上司になった伊藤の説得で勝が明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められたことで解決した。以後しばらく関西方面の鉄道敷設に集中していくことになる[3]。

明治7年5月11日に神戸 - 大阪間がお雇い外国人の手で開通、明治10年(1877年)2月5日に大阪 - 京都間も開通。ひとまず関西方面も開拓されたが、この間に士族反乱が相次ぎ(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争など)政府は財政難と治安悪化に直面した。勝は事態打開のため明治9年(1876年)に伊藤に更なる鉄道網の延長を迫り、計画は京都から大津へ東の延伸が決定されたが、西南戦争で工事どころではなくなり明治10年中に敷設は行われなかった。代わりに日本人の鉄道技術者育成は認められ、明治10年1月に鉄道寮が鉄道局に改称し勝が鉄道局長に就任、5月に大阪駅構内で工技生養成所を設立し飯田俊徳とトーマス・シャービントンの2人と協力して技師を養成、長谷川謹介・国沢能長らを輩出した。やがて工部省が創設した工部大学校からも技術者が養成されると、目標を達成したとして明治15年(1882年)に閉鎖したが、明治10年からお雇い外国人を順次解雇して養成所卒業生と入れ替え、彼らと力を合わせ鉄道工事に傾注していく。

明治11年(1878年)4月に政府の国債発行で資金調達の当てが出来ると8月21日に京都 - 大津駅間(後に浜大津駅に改称、18.2km)の工事に取り掛かり、逢坂山トンネルを着工。作業は全体を4区に振り分け、飯田俊徳を総監督に長谷川・国沢・武者満歌・千島九一・佐武正章・三村周・南清ら養成所の第1回入学生に実習を兼ねた工事作業をやらせ、自らも草鞋・脚絆を履いて現場を指揮、鶴嘴を振るい開拓した。外国人を排除しての作業は逢坂山を掘り進める区間が難航、明治12年(1879年)8月20日に落盤事故が発生して4人が死亡することもあったが、明治13年(1880年)7月15日に完成、日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる。

更なる延伸も検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まっていない財政難の状況で、琵琶湖南岸の大津から直接東へ進出するのは無理があったため、大津からの工事は中断、代案として京都 - 大津間は途中の馬場駅(現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅へ到着、琵琶湖を鉄道連絡船の太湖汽船で渡り湖東の長浜駅まで航行する手段が採用され、明治15年5月から藤田伝三郎の企画で太湖汽船会社が創業、連絡船巡航が始められた。これに先立ち、明治12年に琵琶湖から敦賀港に接続する路線測量を実行、明治13年4月に着工され4年後の明治17年(1884年)4月16日に長浜駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間が開通した。工事は京都 - 大津間の時と同じく飯田が総監督を請け負い、長谷川ら養成所出身の技師が工事を手掛けて着工、逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネルを開いたことは確実に日本人技師が自立していることを示していた[4]。


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こんなに優れた人物を知らなかったとは、情けない!

今後、東京駅前へ行った時には、鄭重にご挨拶を!

(つづく)
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[2019/07/09 07:13] | 発見! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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