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皇居・和田倉門界隈(その2)
皇居・和田倉門界隈(その2)

さて、この「和田倉門」の「和田倉」、もう一つ言えば、「和田」の意味は?名前の由来は?

http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/198/0
和田倉門■名の由来■
この門の付近に「和田倉」と呼ばれる蔵があった。これが名の由来です。和田さんの蔵?ではなく、海のことを指す「わた」です。海がワタ?はい。そうらしいです。そういえば、ハングル語では海をパダといいますが、もともと似た発音だったのですかね。まぁ言語的なことはこのへんで。要するに、かつてはワタ、つまり海がこの付近まで入り込んでいたことから、海と蔵で「ワタクラ」と呼ばれるようになった。そういうことですね。はっきりしませんが、この地に蔵があったのはそうとう古い話で、家康が江戸に入った時には既に和田倉という村落があったとも言われています(これには諸説ありで、徳川時代の物資の集積地として「倉」の名がついたとも言われています)。

まぁともかく、実在した「蔵」に由来。「蔵の御門」とも呼ばれていたようです。


さて、我々は「きけ、わだつみのこえ」というフレイズを知っている!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%
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『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。

1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。

『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。

類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムで展示されている。

名前の由来
学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌を添付した。なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。

「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。


従って、「ワタ(ワダ)」は、「海」の古語であることが判った!

さて、「和田倉噴水公園」の様子は・・・。

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ワダは海と言っておきながら、和田倉噴水公園の噴水の水は、海水ではないらしい!

(つづく)
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[2019/07/13 23:04] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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