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‘無常’と‘現在’
‘無常’という言葉の意味は、文字通りであれば‘常では無い’であるが、‘非常’という意味ではない。

‘無常’は、仏教用語であって、「一切のものは消滅・変化して常住ではないこと」を意味すると同時に「人生ははかないもの」という認識を持たせる意味が強い。

「方丈記」の冒頭の「行く河の流れは、云々」にもそのことは強く表現してあって、「方丈記」全体がこの‘無常観’で貫かれているから、‘冒頭’の書き出しがそうなっている。

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http://www.bookservice.jp/ItemDetail?cmId=4207186&target
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平安・鎌倉時代の‘3大随筆’といわれる「枕草子」「方丈記」の二つのもう一つ「徒然草」にもこの‘無常観’が全243段のあちこちに鏤められている。

次に示す第155段にも‘無常’という言葉そのものは出てはこないが、‘常ならず’を言いたいことがよ~く表現されている。

‘生老病死’と‘春夏秋冬’の対比 をして見せ、‘無常’そのことを認識せよと言っている。

‘物理学’という‘硬たそうな’学問で、この事を考えてみると、この‘無常’が証明される。

先ずは、「徒然草」から。

徒然草・第155段。

http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/turepage.htm

【世に従はむ人は】 ~第百五十五段
 
 世に従はむ人は、まづ機嫌を知るべし。ついで悪しきことは、人の耳にもさかひ、心にも違(たが)ひて、そのこと成らず。さやうの折節を心得べきなり。ただし、病をうけ、子産み、死ぬることのみ、機嫌をはからず。ついで悪しとて止(や)むことなし。生(しやう)・往・異・滅の移り変はるまことの大事は、たけき川のみなぎり流るるがごとし。しばしも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果たし遂げむと思はむことは、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足を踏みとどむまじきなり。
 
 春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来たるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月(かみなづき)は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下より兆しつはるに耐へずして落つるなり。迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ち取るついではなはだ速し。生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期(しご)はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。
  
(現代語訳)
 
 世間に順応しようと思う人は、まずは時期を知らなくてはいけない。順序が悪いと、人の耳にも逆らい、気持ちにも背いて、しようとしたことがうまくいかない。そういう時期をわきまえるべきだ。ただし、病気になったり、子供を産んだり、死ぬことだけは、時期を考えることができない。時期が悪いからとて止まるものではない。万物が生じ、とどまり、変化し、なくなっていくという四相の移り変わりの大事は、勢いのある川が満ちあふれて流れていくようなものだ。少しの間も止まることなく、まっすぐに進んでいくものだ。だから、仏道修行においても日常生活においても、必ず成し遂げようとすることは時期のよしあしを言ってはいけない。あれこれ準備などせず、足踏みしてとどまってはいけない。
 
 四季の移り変わりにおいても、春が終わって後、夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。春はやがて夏の気配を促し、夏にはすでに秋が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、十月は小春日和で、草も青くなり梅もつぼみをつける。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて芽ぐむのではない。下から芽が突き上げるのに耐え切れなくて落ちるのだ。次の変化を迎える気が下に準備しているために、交替する順序がとても速いのだ。生・老・病・死が次々にやってくるのも、この四季の移り変わり以上に速い。四季には決まった順序がある。しかし、人の死ぬ時期は順序を待たない。死は必ずしも前からやってくるとは限らず、あらかじめ背後に迫っている。人は皆、死があることを知りながら、それほど急であるとは思っていない、しかし、死は思いがけずにやってくる。ちょうど、沖の干潟ははるかに遠いのに、急に磯から潮が満ちてくるようなものだ。



‘おぼえずして来たる’すなわち‘死は思いがけずにやって来る’と兼好法師は言っているのだ。

上述した‘物理学’は、一見‘仏教’とは違った‘基軸’に見られがちな分野であるが、実はそうではない。

‘天地創造’も‘無常’もいわば‘物理学’の‘範疇’の出来事である。

‘天地創造’については別の機会に譲るが、‘無常’を物理学的に‘解明すると以下のようになるに違いないと常日頃思っている。

誰でも気楽に使う言葉、‘過去・現在・未来’。(語呂としては、‘現在・過去・未来’かも?)

これを‘時間軸’でよ~く考えると‘無常’という意味が‘物理学’的にもはっきりする。

結論から言うと、

   「現在は存在しない」

ということになる。従って、‘無常’なのであることに今更ながら気付かされる。

では、時間軸で考えると何故「現在は存在しない」のか?

「過去」と「未来」は、わざわざ‘時間軸’を持ち出さなくても誰でも理解出来る。

しかし、極めて厳密な意味において「現在」とは一体どんな‘時間帯’を指すのであろうか?

「未来」の一瞬は、想像に難くは無い。でもよ~く考えればこの「未来の一瞬」は、正に‘一瞬にして’「過去の一瞬」に変化する。

「現在」という‘時間帯’に‘時間’は止どまる事が出来ないのである。

「時間」と「時刻」を間違える人が多い。

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http://www.astron.pref.gunma.jp/events/110604kozai.html

「時間」には‘間’という字があるから、ある‘幅’を持っているが、「時刻」には‘幅’が無い。

「時刻」の集まり(足し算)が「時間」などと思ってはいけない。

(因みに、「時と時間と時刻」を‘Google翻訳’にかけてみると‘Time and time and time’と翻訳されてくる。)


そんな訳で、実は‘物理学’は初めから「現在」など存在しないことを教えていたのだが‘受け取り側’が理解していなかったに過ぎない。

仏教では、この‘無常’を説くのに数百年もの‘時間’をかけた。釈迦は一瞬にして「現在」がない事を悟ったに違いないが、その弟子達がやっと時間をかけて理解をし、一般民衆にこの‘無常観’を提示するのに吉田兼好や鴨長明まで動員せねばならなかった。

さて、問題は「現在」が無くて‘無常’という事が理解出来た時、「‘その後’の行動をどうするか?」である。

これがまた「何故、何の目的で‘人間は産まれてきたのか?’の問題」に発展するからややこしい。

そんな意味で、‘宗教と物理学’は形は違うように思われがちだが、根本の思想は全くと言っていい程‘同じ’である。

またそうでなければならない。

「天地創造」など、物理学的に考えれば‘たちどころに’とは言わないまでも、案外大枠が見えて来るのかもしれない。

(つづく)


















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[2012/08/22 22:02] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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