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王羲之の蘭亭叙について
王羲之の最高傑作は、何と言っても‘蘭亭叙’である。

王羲之・蘭亭叙’472px-Lanting_P3rd
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%
A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lanting_P3rd.jpg

『蘭亭序』(神龍半印本、部分) (‘序’なのか‘叙’なのかについては、以下の引用文献に詳しい)

我々のようなお習字の段階から中々脱出出来ない程度でも、当然名前は知っているし、臨書の一回ぐらいは行なった事がある。

それはそれでいいのだが、書道の先生からは、この‘蘭亭叙’には‘何らかの経緯’があることも聞いてはいた。そして、肝心なことは、この‘蘭亭叙’を王羲之が書いたのは、彼が‘少々酒に酔っていた’らしい、というのである。

まあ、少しは書道の‘道’に近づきたいと思っている輩にとってはかなりの‘重大事件’である。

そして、もう一つの‘事件’。それは‘蘭亭叙’と言われている書等が、実は‘王羲之の真筆ではない!’という事である。

それに、この‘謎めいた事件’の‘首謀者’が、唐の太宗というから、恐らく事件は複雑に違いない。時の最大の権力者が首謀者であれば、そして国が中国であれば、権謀術策蠢く‘こころ踊る’物語があったに違いない!

だからこそ謎は謎を呼んで、それだけに一層‘王羲之’の名声を高めることにも繋がっているようにも思われる。

こうなればもう web に頼るしかない!

いやいや、素晴しいホームページを発見!ここに王羲之・蘭亭叙の謎めいた物語の全貌が記されている!

書のさんぽ タイトル sanpo
http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm

蘭亭叙の解説

1 蘭亭叙とは
2 蘭亭叙の評価
3 蘭亭叙の読み
4 蘭亭叙現代語訳
5 蘭亭序か叙か?
6 蘭亭叙の種類
7 蘭亭叙の分類
・ 双鉤填墨について
・ 模本の名品
・ 刻本の名品
8 八柱ってなんだろう
9 蘭亭の真跡は実在?
10 会稽山はどこ
11 王家と蘭亭叙
12 蘭亭叙だましとられる

という‘目次’つきである。

この著者のホームページを開いて頂ければ一目瞭然なのであるが、このオーナーのプロフィールを御紹介しておきたい。40年弱も書道に邁進されている。一つ一つ文献の裏付けがあり、いい加減な情報ではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/jibun/jibun.htm

★ ようこそ ★ m(._.)m
                                        
「書のさんぽ道」にお出かけいただきありがとうございます。
管理人の近藤莊岳です。
 
****年に永年勤めた職を定年退職し、このページを開設したシルバー世代です。

タイトルの「書のさんぽ道」は、書という道を楽しみながら散歩気分で歩いている
けれども時々(しょっちゅう)あちこち寄り道をするとの意で付けてます。

住まいは、武蔵野の面影が残る東京の東久留米市で、市内には黒目川と
落合川という2つの清流が流れる自然豊かな町です。人口は約11万人、

都心から北西へ約24Km。北東は埼玉県新座市、西は東村山市、南は
西東京と小平の2市、北は清瀬市に接しています。(一部市広報より)

趣味は?
以前は、アウトドアー派で、釣り・ゴルフ・スキー等朝早くから遊び歩いてましたが
最近は、今流行のデジタル一眼を肩にあちこち・・・。いずれにせよ遊び大好き人間!

書は?
何気なく始めて、いつしか40年弱。その間各種展覧会の審査員等歴任。
最近は、遊び心で書く小作品と、書いた書を自分で表装し楽しむ。(自己勝手流)      

平成元年 有志を募り書を楽しむ「游墨会」を結成。 毎年池袋で展覧会を開催。
平成21年には、20回記念展を計画中。 
 
H20.8 記   

?? モットー ??
・これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。
これを好む者は、これを楽しむ者に如(し)かず。



・物事を知っているだけの人は、その物事の好きな人にはかなわない。
物事の好きな人も、その物事を楽しんでやっている人にはかなわない

結論
何でもいいから楽しんでやりましょう。それが一番!
   
「知之者不如好之者  好之者不如楽之者」      論語より



このプロフィールを拝見して驚いたこと二つ。

①‘モットー’が、昨日弊ブログでご紹介した‘小山天舟先生’のものと同じ! やっぱり達人は同じなのだ!

② お住まいが、‘東久留米市’だそうである。私が日頃から感心・尊敬している書道の達人先生も、実は東久留米市に在住されておられる。何でも門下生は、30名以上だとか。東久留米市には書道の達人がそんなに沢山住んでおられるのだろうか?



さて、王羲之の‘蘭亭叙’について、当面知りたいのは、次の二つの項目である。

<1> 王羲之が、‘ほろ酔い気分で’書いたのは本当か?そうなら、何故それが彼の最高傑作なのか?

<2> 何故、‘真筆’がないのか? ‘太宗の陰謀’とは?

この疑問に答えて頂くためには、時代背景の説明が必要である。特に、関連する人達の生きた年代とプロフィール


(1)王羲之 : (303年~361年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8
E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B

王 羲之(おう ぎし、Wáng Xīzhī、303年 - 361年[1])は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる[2]。

業績

王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。
他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られる。

略歴

王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた[8]。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる[9]。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。



(2)褚遂良: (596年~658年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E9%81%82%E8%89%AF
褚遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は唐代の政治家、書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。

経歴

褚亮の子として生まれた。本貫は杭州銭塘県。617年、薛挙が自立すると、その下で通事舎人をつとめた。618年、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。636年、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。644年、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。
649年、太宗が死去するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。しかし、655年に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のヴェトナム中部)にまで流され、そこで死去した。
子に褚彦甫・褚彦沖がいたが、ともに愛州に流されて殺された。705年に褚遂良の一家は名誉回復されて、爵位を戻された。

書風(「褚法」)

褚遂良・拓本 Chu_Suiliang_Sheng_Jiao_Xu0
『雁塔聖教序』(部分、拓本)

六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。
遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている。



(3)唐の太宗: (599年~649年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A
4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)


太宗170px-TangTaizong

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝(在位:626年9月4日 - 649年7月10日)。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。

経歴

即位前

4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため世民という諱がついたというエピソードが伝えられている。16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。
同618年(武徳元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子され、高祖(李淵)が急死した際に直ちに即位する必要があるため、常に高祖の傍についていなくてはならず、李世民に比べれば戦功が少なくならざるを得なかった。
建国の戦功に比してその地位が報われていないと、李世民とその側近達は不満を有するようになった。その対策として高祖は天策上将(てんさくじょうしょう)なる称号を李世民に与え、また弘義宮と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。
しかしその後も世民側の要求は止まらなかった。李建成も李世民に対抗して、高祖に訴えて世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こした(玄武門の変)。この政変により、高祖は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。

貞観の治

太宗は即位直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受ける。『旧唐書』によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い渭水に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている[1]。
627年、元号を貞観と改元した。そして房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。
文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
これらの充実した政策により、太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されている。

晩年

太宗の晩年は立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、太宗は弟の魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天の台頭の要因となることとなった。
644年(貞観18年)、高句麗へ遠征(唐の高句麗出兵)が行われるが失敗に終わり、それから5年後の649年(貞観23年)に崩御した。
崩御後に諡号として文皇帝(ぶんこうてい)と贈られたが、674年(上元元年)、高宗により文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に改められ、更に749年(天宝8年)、玄宗により再度文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして754年(天宝13年)に玄宗により文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。

歴史的評価

後世、名君の中の名君と称えられた太宗であるが、その像にはかなりの粉飾が見られる。『旧唐書』の編纂に参考資料とされた太宗実録の編修をした許敬宗という人物は、賄賂によりその記録を歪曲することがあったと両唐書の許敬宗伝に書かれている。また、即位に関して兄の李建成や弟の元吉をクーデターで殺害しており、高句麗への2度の遠征に失敗している。

しかし、隋末唐初の混乱から国土を回復させ、後の唐の土台を築く治世を行ったこと、唐の領土を広げ、北方異民族の脅威を長年に渡って取り除いたこと、兄の李建成に、李世民の存在が皇太子の座を危うくしていること感じて殺害することを進言した魏徴の命を助け、彼を始めとする部下たちの諫言をよく聞き入れたことなどから、粉飾されていることを割り引いても、中国史上でも有数の名君であることには、まず間違いはなかろうと思われる。正妻の長孫皇后や徐賢妃など、美貌ではないが賢女であった女性の諫言も聞き入れることがあったようである。
太宗は能筆家として知られ、臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど書に対する関心が強かった。また書聖と謳われる王羲之の真筆に対して異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたる智永という僧が持っていた「蘭亭序」の真筆を手に入れ、それを死後に昭陵に納めさせた と伝えられている。


(1)王羲之 : (303年~361年)

(2)褚遂良: (596年~658年)

(3)唐の太宗:(599年~649年)

という、この事件に関連のある人物の時代背景・年齢が明らかとなったので、設問の解明に進みたい。
事件が起こったのは、王羲之の死後300年以上も経った時代である。


<1> 王羲之が、‘ほろ酔い気分で’書いたのは本当か?そうなら、何故それが彼の最高傑作なのか?


http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-sanpo/
rantei/kaisetu/kaisetu.htm


1 蘭 亭 叙 と は 

 蘭亭叙は、王羲之の法帖のなかで最も有名であり、書を学ぼうとしている人の必修帖です。

 王羲之が永和9年(353)の3月3日、蘭亭(今の浙江省紹興市にあった別荘の名前)に41人の文人達を集めて流水曲水の宴を開きました。

その時に詠まれた参加者の詩の冒頭に、王羲之が鼠鬚筆(鼠の鬚で作った筆)を以て、宴の様子を後々まで伝えようと書いた草稿です。

王羲之はこれを書いたとき酔っていたと言われ、後に草稿を何回も書き直しましたが、草稿以上の文字が書けず、それをそのまま残しておいたものです。

 総文字数は324字であるが、同じ文字はことごとく変化し王羲之自身も最高傑作であると認めたと伝えられている行書の名品で、

行書を学ぶ者全ての人が一度は書いているものです。ここではその変化の様子を解明しようとしているのです。

  しかし、蘭亭叙の真筆は此の世にはないのです。唐の太宗皇帝(598-649)が王羲之の蘭亭叙をこよなく愛し、肌身離さず大切にしていたそうです。

太宗皇帝が亡くなる時、王羲之の蘭亭叙も自分と一緒に埋葬するように遺言し、一緒に埋めさせてしまったのです。

ですから真筆は二度と見ることが出来ません。  


 私達が現在目にすることの出きる蘭亭叙は、唐太宗皇帝が生前に、搨書人(とうしょにん)という複製の専門家を宮中に雇って書かせたものと、

臣下で書に優れた者(欧陽詢、虞世南、楮遂良等)に臨書させたもの です。

これらの書は、真跡に最も近いものとして、後世の書家はこれを学んでいるのです。

蘭亭叙が何種類もあるのはこうした事情によるのです。同じ蘭亭叙でも書いた人により微妙に違っていますが、それが又蘭亭叙の面白いところかもしれませんね・・・。


2 何故「蘭亭叙」は何故評価が高いのか?


 王羲之が書聖と仰がれ、蘭亭叙が古今一の名品であると評価されたのは、王羲之の没後三百年以上経ってからです。

唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛好し、弁才からだまし取ったのはあまりにも有名です。

太宗皇帝が在世中、蘭亭叙の複製を多くの臣下達に作らせ、後の書の手本として普及させたのも一つの要素かもしれません。

しかし、皇帝がいかに蘭亭叙を寵愛しても、蘭亭叙そのものが書としての魅力がなければ後世に残るはずがありません。

蘭亭叙が何よりすぐれている点は、「卒意の書」であったことだと言われています。

卒意の書とは、上手く書いて人に見せるという意識がなく、心の感ずるまま自由に書くことです。

書いた動機が純粋なだけに、それが見るものを引きつけるのでしょう。

王羲之が宴の終わった後、序を清書しようと何回書いても、最初に書いたものに及ばなかったのは卒意の書ではなかったからではないでしょうか。

さらに、蘭亭叙が書かれた背景を見ると「曲水の宴」という風雅な世界があり、それが知らず知らずのうちに書ににじみ出ているのです。

自分の宝である友人を集め、風流な曲水の宴を開き、酒を酌み交わし、風光明媚な世界に浸った至福の一時に書かれた書。

これが蘭亭叙であり、後世の人がその魅力に引きつけられるのだと思いますが・・・。



<2> 何故、‘真筆’がないのか? ‘太宗の陰謀’とは?

上述の引用文献にある通り、

蘭亭叙の真筆は此の世にはないのです。唐の太宗皇帝(598-649)が王羲之の蘭亭叙をこよなく愛し、肌身離さず大切にしていたそうです。

太宗皇帝が亡くなる時、王羲之の蘭亭叙も自分と一緒に埋葬するように遺言し、一緒に埋めさせてしまったのです。ですから真筆は二度と見ることが出来ません。


したがって、複製が沢山あるという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


6 蘭 亭 叙 の 種 類 

 蘭亭叙は沢山の種類があります。

一説には100を超える種類があるとも言われています。王羲之不滅の名品である蘭亭叙が、何故こんなに多くの種類があるのでしょう?。

それは、本物は唐太宗とともに埋葬されてしまったからです。

現在私達が目にすることの出来る蘭亭叙は、唐の太宗皇帝が搨書人(とうしょにん)という書の複製の専門家に蘭亭叙を沢山複製させたのと、

臣下で書に秀でていた、欧陽詢・虞世南・楮遂良らに命じて蘭亭叙を臨書させたものが世に出回っているからです。

従って私達は本物の「蘭亭叙」は目にすることは出来ませんが、複製本や臨書本を通して王 羲之の書に接することが出来るのです。

搨書人や臨書した者によって、多少表現や書き方が違います。したがって○○の書いた「蘭亭叙」、△△の書いた「蘭亭叙」というように幾つもの「蘭亭叙」があるのです。


更に皇帝は、複製された蘭亭叙や臨書された蘭亭叙を石碑に刻し、それを拓本にし、行書の手本として多くの人々に与えました。

ここにも刻し方や手本により何種類かの蘭亭叙が生まれました。

いずれの蘭亭叙であっても、初期のものは王羲之の本物の蘭亭叙をみて書いたり複製したものでしょうから、そこには王羲之の書法が出ているわけです。

後の人々は、これが真跡に近い。あれがいいと評論していますが、誰も本物を見ていないのですから、それは自分の経験と分析から論じているのでしょう。

同じ蘭亭○○本といっても、1つ1つの文字を詳細に比較すると、微妙に違っているのがあります。

これは、初期本を後年模写したか模刻したものでしょう。とすれば、同じ蘭亭であれば古い方がより王羲之の筆法に近いはずです。

淺学の私にはどの蘭亭叙が、王羲之の筆法に近いのか解りませんが、先人がよかれといっているものを、良しとして学ぶのが精一杯です。



そして、‘真筆’の行方は?


http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
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9 蘭 亭 叙 の 真 跡 は 実 在 す る ? 


蘭亭叙の真跡は、唐の太宗皇帝崩御とともに一緒に埋葬され、此の世から消えてしまった!!と どの本を見ても書いてあります。


しかし、こんな一説もあります。


太宗から約255年後のAD904年に、朱全忠(しゅぜんちゅう)という人が、唐の昭宗を殺害し唐王朝を滅亡させました。

やがて唐王朝の中心であった長安はだんだんすたれ始めました。そんな時、長安近くに拠点を持っていた温韜(おんかん)という武将(賊将)が、唐王朝の墓をあばいて中の宝物を全部持ち去りったと言うのです。



太宗皇帝の墓はとても立派で御殿のようでした。中心には正殿、その東西には石台があり、その石台の上には皇帝が大切にしていた宝物が鉄の小箱に入れられて置いてあったそうです。


温韜(おんかん)が鉄の小箱を開けてみると、太宗皇帝が収集した沢山の書跡が現れました。 当然その中には王羲之の真跡「蘭亭叙」が入っているはずでしょう。

温韜はそれらをことごとく持ち出し、ちまたに売却したとのことです。従ってこの世の中の何処かに蘭亭叙の真跡がある という説です。

真意の程は別として、どんな形にしろ真跡の「蘭亭叙」が此の世に残っていて欲しいという気持ちは私だけではないでしょう。



そして、そして、太宗の陰謀が・・・!

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12 太 宗 皇 帝  弁 財 か ら 蘭 亭 叙 を だ ま し 取 る 

法帖のコレクターでもあり書道家としても有名であった中村不折(1866-1943)画伯が1920年に描いた「賺蘭亭図」がある。


これは、 太宗皇帝の使者が弁財の所に訪れ蘭亭叙をだまし取る場面の絵であり、現在東京近代美術館に収蔵されているものです。

中央の僧が弁財で、左が皇帝の使者  どの様にしてだまし取ったかを色々な資料を基にして見てみます。

弁財      
「賺蘭亭図」  中村不折作

★唐太宗は随末の混乱期に父を助けて天下統一をし、後に皇帝となり、唐時代約300年の基を作った人です。

王羲之の書をこよなく愛し、羲之が書いた真跡はほとんど集め、その数は数百点にもなっていたそうです。しかしある時、羲之が書いた「蘭亭叙」があると聞きどうしてもそれが欲しくなりました。


その蘭亭叙は、羲之から7代目に当たる(12項参照)智永禅師が大切に永欣寺(えいきんじ)に保管していたものです。

智永没後は、その弟子であった弁財禅師が大切にしていました。
 
どうしても蘭亭叙が欲しい皇帝は、何度も弁財に使者を出しましたが、弁財は「蘭亭叙はどこにいってしまったのか分かりません」と、とぼけていました。


なんとしても蘭亭叙を手に入れたい皇帝は、臣下で一番の知恵者といわれる蕭翼(しょうよく)を呼び、弁財の持っている蘭亭叙を策略で取ってこいと命じました。


命を受けた蕭翼は身分を隠して永欣寺滞在し、言葉たくみに弁財に接近していきました。ある日蕭翼と弁財は書道談義に花を咲かせ、王羲之の話しになりました。
 (相当懇意になった頃を見計らって)

(以下、何かで読んだものです  何であったか記憶無し m(_ _)m ペコ)


○蕭翼 「王羲之の書で一番は楽毅論だと思うね」

△弁財 「いや蘭亭叙ですよ」

○蕭翼 「蘭亭叙は偽物で本物は無いと聞いているが。伝説でしょう」

△弁財 「とんでもない。蘭亭叙は実在するよ」

○蕭翼 「嘘でしょう。伝説ですよ。私は見たこともないね」

△弁財 「私は見た」

○蕭翼 「どこで」

△弁財 「私が持っているから」

○蕭翼 「本当に本物かな??」

△弁財 「嘘だと思うなら見せましょう」
   弁財は隠していた所から本物の蘭亭叙を持ってきた

○蕭翼 「禅師やはりこれは偽物ですよ」

△弁財 「そんなはずはないが・・・・・」

○蕭翼 「私は王羲之の書は沢山見ているがこれは偽物ですよ」

△弁財 「どうして偽物と分かるのか」

○蕭翼 「この字も、あの字も、王羲之はこんな字は書きませんからね」

△弁財 「私は本物と思いますが・・・」


  その時来客が来ました。弁財は大切な蘭亭叙をその場に残して応対に
  蕭翼は急いで持いた「偽の蘭亭叙」とすり替えてしまった。
  やがて戻ってきた弁財に


○蕭翼 「やはりこれは偽物のようです。よく見てください」

  と言って蕭翼はその場を去った。

  本物の蘭亭叙を持った蕭翼は都に帰って皇帝それをを差し出した。

       皇帝は大喜びし、褒美を与えたとか・・・・・・・・・・・・   


まあ、こんなことが平気で出来るのも中国人ならではの感も無きにしも非ず、といったところ。

現在の中国人の‘無茶振り’を見ても‘何でも有り’が、やはり中国なのだ。これだけの人口のなせる技に違いない! 彼等にとっては、どうやって仲間を蹴落とすか?! これが四〇〇〇年の歴史を誇る中国人の処世術なのだろう。

でも、一般の中国人は実に優しい!

これは‘残留孤児’事件を見れば判る。人種を超え、国の縛りを超え中国人には‘人を大切にするこころ’がやはり四〇〇〇年の歴史として燦然と輝いている。

さて、締め括りとして、‘蘭亭序’か‘蘭亭叙’かについて。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm


5 蘭 亭 序 か 蘭 亭 叙 か ? 
 

 書道関係の本や資料を見ると、「蘭亭序」と書いてあるものと「蘭亭叙」と書いてあるものがあります。私達はどちらを使えばいいのか迷います。

王羲之が、蘭亭での宴遊で詠まれた詩歌集につけた序文という意味からすれば、「序」が正しいのかと思いますが・・・どうして「叙」の文字が使われるようになったのかと疑問に思います。

中国には昔から生前の本名を死後には使わないという風習があるのだそうです。

中国北宋時代(1000~1100年頃)の書の第一人者であった蘇軾(そしょく)(東坡は号)が、父の諱(いみな)(生前の本名)が「序」であったため、

この文字を使うのを避け、「叙」を使うように改めました。このことを「避諱改字」(ひきかいじ)といい、

後の人々がこれにならって「蘭亭序」を「蘭亭叙」と書くようになったのです。

結論として私達は、どちらを使っても良いと思いまが、同じ文書内ではどちらかに統一したほうが良いでしょう



それにしても、この‘蘭亭叙’事件には、何故‘楊貴妃’が登場しないのだろうか?






















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[2012/09/15 20:46] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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