「卒意」の真の意味(その2)
「卒意」の書は、通常‘自覚’されているものではない。王羲之の‘蘭亭叙’を除いては。

ここでいう「卒意」とは、「用意」の対語のそれではなく、「作意」の対語のそれである。

全く‘他人を意識する’ことなく、自分自身の世界に‘入り浸っている’状態を指す。

「棟方志功」の、あの‘異常’とも思える‘創作意欲’と‘その行動’をTV動画で一度や二度は皆見たことがあるに違いがいない。

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http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9
F%E6%96%B9%E5%BF%97%E5%8A%9F

棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。



‘道’と名のつく‘修行’においては、この「卒意」が重要であることを弊ブログで何度も強調した。

何故なら、‘道の修行’においては、‘他人の目’は不要だからである。もっと言えは‘不要’というより‘邪魔’なのである。

一見、‘社会生活・社会通念’からの‘逃避’の様であるが、そうではない。

不思議なことに、その境地に達した人の‘作品’(これはスポーツの場合では、その‘行動’を指す)にしか、人間を感動させる要素がない!

前回、前々回は、王羲之の‘蘭亭叙’が、‘雑念’のない「卒意」状態での‘作品’であると強調させて貰った。

ところが、色々調査して見ると知らないことだらけ。前回の‘卒意の書’の中に出て来た‘本人は意識していなかった’のだが、他人様が‘これこそ「卒意」の書だ!’という書があるらしい。

凄~いブログが見つかった!

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http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm
書道家・國分溪雪さんのブログである。

‘卒意の書’の第一に挙げられているのは、やはり王羲之の‘蘭亭叙’。

http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm

率意の書<その1>王羲之の『蘭亭序』・・言葉の陰影
<4世紀六朝時代の人、生没年?東晋という王朝の名門王一族の一員>

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八柱第三本 (故宮博物院)

この書を見てどんな感じがしますか・・・
『蘭亭序』梗概 
 永和九年癸丑、禊のため群賢が蘭亭に集まった。流暢曲水、一杯の酒一編の詩があれば充分ではないか・・・仰げば宇宙は大、見下ろせば万物が盛んであり、思いを馳せれば視聴の娯しみを極むるに足りる。 そもそも生涯を送るに、胸中を静かにしまう者もあれば、自由奔放に振舞う者もある。人の生き方は無限に異なり静動も同じではないとはいえ、境遇が喜ばしく得意の時は誰しも自分に老いや死が迫っていることなど気づかない。やがて倦怠が訪れ感情は対象とともに移ろい、やるせない感慨が支配する。すべては束の間に過去のものとなるのに、それでもなお気持ちを動かさずにはいられない。まして、生命はついに尽きる・・・ 
 死生はひとつ,7百年生きた人生も,生まれてすぐ死んだ子どもの人生も同じ・・・そんな哲学はもとより偽りに過ぎない。後世の人が我々を見るのも、我らが晋の人々を見るのと同じこと。ここに今日集まった者たちの名を列挙しその作品を収録する。世が異なり変わっても感動の泉は同じ、きっと心を動かしてくれることだろう。
 
 羲之の行書の名品『蘭亭序』、宴後、幾度となく書き直したがこれ以上のものは書けなかったという所謂率意(忽卒)の書として有名だ。彼は、351年地方官への転出を願い出て、右軍将軍会稽内史となり中央を去った。この会稽は現在の紹興市で、彼は40歳半ばでこの地方一帯の長官となったのである。蘭亭は会稽の西南14キロほどの景勝地で、この曲水の宴は永和九年(353年)3月3日に開かれた。この宴の趣向は多くの文人墨客が、流水れに浮かんだ觴(盃)がゆき過ぎる前に詩を作るというもの、この日は42人中15人が罰盃を飲むことになったようだが、残り27人が作った38首が『蘭亭集』として一冊にまとめられた。その序文をその場で書いたのが羲之のこの『序』なのである。彼は中央の役職のチャンスを蹴っている。客観視できる眼を持つといえば良い言い方だが、彼の政治家としての弱さ、陰でもある。早くに父親を亡くしたという生い立ちもあるが、彼の書つまり手紙、文章を読むとある種の屈折(陰)がある。言葉そのものというより言葉の陰り、言葉にならない翳りが書に反映している。つまり、書はその人間の陰影・・・。政治の場面での彼のふるまいの中に、理想やビジョンを持ちながらも成し遂げられない脆弱さが生い立ちと共に書に陰影をおとしている。


率意の書<その2>顔真卿の『争座位稿』・・・剛直という人生の筆致
<中唐の政治家・景竜3年(709年)生、貞元元年(785年)伝没>

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  この書きぶり如何ですか?
『争座位稿』梗概(765年)

・・・ま昼間に人の金を掠め盗るのとなんら変わりはないではありませんか。まったくどおりに合わないことです。君子は礼を以って人に対するのであってその場しのぎで対するなどということは聞いたことがありません。よくよく考えてみて下さい。軍容は仏道を修行し深く仏法を信じていると聞き及んでいます。まして洛陽を回復して逆賊を滅ぼし、天子を戴いた功績があるではないですか。これは官民共に尊敬するところであり、どうしてあなたと相違がありましょうか。その上名利には恬淡、些細なことで一喜一憂することもないあなたが、わずかばかりの地位のことでその志を乱すことがありましょうか。
そもそも年長者を尊び、宗廟では爵位を尊び朝廷では位階を尊びます。人の守るべき道、礼・幼長の序というものがあるのです。・・・・の席次は古来からこういうものでこれまで乱れたことはないのです・・・・

 剛直さゆえに官界生活は順調ではなく、左遷の連続であった顔真卿、その彼が腐敗しきった官吏に抗議した文稿『争座位稿』。56歳の作、官僚の会議での席次を乱した郭英ガイを弾劾する書簡の草稿である。その叩きつけるような書きぶりは、<屋漏痕><蚕頭燕尾>などの言葉でその書の特徴が語られるのだが、まさに政敵を怒鳴りつけている場面が見えるようで力の入った生々しい筆致は、書道史上初めて登場したとも言われる・・・書き手の姿が見えてしまうところが彼の新しさでもあり、醜怪さでもあるところ・・いい意味でも悪い意味でも書は人なり・・・の表現は彼から始まったのである。
 安禄山の挙兵を察知した彼が「文人としての自分は、兵器を以って戦えるものか・・・」と連日呆けてみせていたが、結局、腐りきった権力に截然と立ち向かったのは顔家のみであった。兄と慕う顔杲卿は捕らえられ、舌を抜かれ、手足を切断されても毅然としていたという。これら親族への追悼文である『祭姪稿』は彼の無念を訴えるようにちぢに乱れ、墨で消し書き直した箇所が沢山ある。『争座位稿』『祭姪稿』『祭伯稿』三稿といわれるこれらは、率意の書である故に性情がよく出ているのである。
正義・・・・は必ず負ける。。。世の常?
 既に戦う力のない唐王朝は、玄宗を蜀の国へ逃したが、近衛兵の造反によりさらに悲劇的な最期を迎え、907年唐は滅亡する。国破在山河・・・杜甫は長安をこう詠んだ。王朝の衰退と共に官吏の荒廃夥しく、その中で如何に自分の正義を表現でき得るか、強く憂国の念を抱いていた彼は、単に識者で忠節の人物ではなく、筋金入りの正義の人である。
 最期は徳宗の命を受け、反将の説得に赴きついに賊手に命を落とした。この忠烈悲壮の生涯が、書人としての地位を高く格付けしたのは否めないのも・・・アイロニカル!
    ★空海の『風信帖』はこの顔真卿の影響を明らかにみることが出来る。
次回は率意の書<その3>として『風信帖』を取り上げる予定♪


率意の書<その3> 空海の『風信帖』訣別の予兆?・・・Disparity
<平安時代の思想家・774年生835年高野山にて没>

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<京都護国寺>
宇宙の謎解きのヒント?
「五大(地、水、火、風、空)に韻(ひびき)あり」

風信帖は空海が最澄に贈った尺牘(今は3通)を集め1卷としたもの、最初の尺牘の冒頭「風信」とあるところからこう称ぶ。
<帰朝後の立場の逆転・親密は亀裂の萌芽>
空海と最澄は平安初期の2大高僧で、最澄の方が8歳年嵩だが、初めは極めて密接な交流があった。空海が807年に帰朝すると最澄は、弟子を遣わし唐からの経典を借用したいと申し出たり、812年真言の伝授を請うなど繰り返し願い出をしている。この依頼に対する空海の返書のひとつがこの風信帖であるのだが、しかしその後ふたりには訣別が・・・816年、最澄の申し出拒否の手紙を最後に・・・
さて深い溝とは?(佛教用語が飛び交うような論となり難しすぎ!で、言及できないので抽象論を)
 両者が相入れない訳は、同時代の偉大な宗教家が、絶対に両立し得ない思想を抱いていた点に求められねばならないだろう。共通項がありながら、大乗仏教の真髄を何に求めるかというもっとも困難な究極の課題・・・
 空海の積極的な独創(密教思想の厳しい追求)に対し、新たな形を作り出す方向にではなく、既存の形を壊す方向性という意味で「負の独創」というような、消極的なそれと・・・この負の独創性のあり方に、日本文化の特質を見出すという背景があるためだろうか、空海が孤立して見えたりさえする・・・とまれ、ふたつの独創がぶつかり合った結果といえるのかもしれない・・・・・・

『風信帖』梗概 (812年頃)
うれしいお手紙をいただきました。風に乗り雲に乗り、天から届いたようあります。これを拝読しましたが、まさに雲や霧が晴れ、日の光が射し込むように晴れ晴れとしたものでありました。あわせて天台宗の法文まで頂戴いたし、恐れ多くまた嬉しくて手で触れることこともできぬほどでありました。
寒くなってまいりました。私め、お求めに応じて比叡山の御山に登りたいものだと思ってはおりましたが、その時間がなくてかないませんでした。今にして思うと残念で私とあなたと私の弟子・室山3人が会談して仏法について話し合い、共に仏法の教えを宣べ伝え仏の恩徳に報いたいものと存じております。
できますれば、ご足労ですが、私どもの寺の方へお出かけくださいませんでしょうか。ぜひともぜひとも。不具。空海より。
九月十一日 比叡山におられます最澄様へ


平安初期の能書家嵯峨天皇・空海・橘逸勢を三筆と竝称するが、中でも傑出しているのは、嵯峨天皇の師でもあった空海である。空海が天性の腕を磨いたのは31歳で入唐してからのこと。留学すること2年、唐の都長安で筆法や書論を勉励。空海みずからも「少年時、しばしば古人の遺跡を臨せり」と述べているように、中国の筆跡を臨摸し手習いの稽古をしたようだ。当時の書法の実情から察するに、二王(羲之・献之)のものであったと思われる。しかし、この留学にて当時興りつつあった顔真卿一派の新しい書法を学んで帰国しているのである。二王の風神を得、天衣無縫の妙あり・・・と評され本人もサゾカシ得意の作であろう・・・?(ちなみに弘法は筆を選んでいまーす・・・)



この「卒意」の書に関する‘評価’は、通常の御仁では出来ない。

書の裏にある歴史と諸々の思惑が、必然的にその書に現れるという御指摘である。正に「書は人なり!」

でも、それを‘紐とくことが出来る’実力は、どこから来るのだろうか?

精進の足りなさが、ひしひしと・・・。

まだまだ、沢山の‘「卒意」の書’があるらしい。

(つづく)














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[2012/09/18 11:51] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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