江戸幕府の行政を「仁政」に転換させた男:天草四郎
「仁政」という言葉がある。‘情け深い’政治のことである。

江戸時代が何故‘約260年間’もの長期に亘って安泰の時代であったかについては色々な説があるのだろう。

一義的には、徳川家康の‘戦略’が功を奏していると思われるが、さてその家康の基本路線だけでそんなに長続きをするものだろうか?

誰の‘策略’かは、今後の歴史研究においても‘覆る発見’があるかもしれないが、兎に角、一般市民が‘太平を貪った’事は事実のようである。

科学技術の急速な進歩・発展がなかったこともその大きな要因の一つに挙げてもいいのではないかと思う。その観点からすれば、‘鎖国’ををプラス効果として認めなければならないが・・・。

われわれは、第二次大戦後の教育方針で、進歩、進歩と「進歩こそ、何にも勝る」として価値観を押し付けられ、同時に‘世界平和’を叩き込まれた。

しかし、振り返ってみると‘進歩の強制’と‘世界平和’は、何となく相反する事のように思えてならない。

‘進歩’は競争社会をつくる。‘世界平和’は、(多分)競争社会であってはならないからなのであろうか?

そして、悲しいかな‘世界平和’は‘大きな犠牲の上’にしか存在し得ないという事実がある。

有史以来現在まで、世界中で戦争が起こっていなかった時代は多分なかったと思われる。この原因は、‘人間が向上心を持つ動物である’からなのだろう。

向上心を持つという事は、現状を打破して一歩でも‘上に移行’しようとする。それが進歩に繋がるのだ。
そして、残念ながら‘上に移行’することが‘平和’を乱す事に繋がる。

‘平和’という文字を見れば判る。‘平和’を辞書で調べれば、「やすらかにやわらぐこと。穏やかでかわりのないこと。」とある。

余り変わってはいけないのだ。

その証拠の一つに‘シーラカンス’がいる。

シーラカンス
http://2006-usaminn.blog.so-net.ne.jp/2008-03-07

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%
B7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B9

シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、古生代デボン紀[1]に出現して広く世界の水域に栄えたが、約6500万年前(中生代白亜紀末)の絶滅イベント(K-T境界)を境にほとんど全ての種が絶滅した。
長らくシーラカンス目は全て絶滅したものと考えられていたが、南アフリカにて1938年、現生種の存在が確認され、学会および世界を騒然とさせた。この種が ラティメリア・カルムナエ (Latimeria chalumnae) であり、シーラカンスの代表となる。
その後、1997年にはインドネシアでラティメリア・メナドエンシス (Latimeria menadoensis) の現生が確認されている。これは日本語では生息地域の名を採って「インドネシア・シーラカンス」とも呼ばれるようになる。
シーラカンス目は多くの化石種によって存在が知られており、白亜紀を最後に化石が途絶え、1938年に至るまで現生種が確認されなかったこと、化石種と現生種の間で形態的な差異がほとんど見られないことなどから、これら2種は「生きている化石」との評価を受けた。


そう、デボン紀といえば、4億年も前の事である。その間形態的にはほとんど同じというから、これこそ‘平和’の象徴である!

人間は進歩することを‘最上’と考える動物であるから、‘形態’を変える。自動車の発明で歩かなくなってしまった見返りが、体の不調を招くと同時に‘出腹の体型’を造り上げつつある。それもほんの数10年間でである。

何とか‘人類の進歩意識’を是正せねばならない時代が来つつあると考えた方がいい。

さて、そんな江戸時代においても‘進歩無き平和な世の中’を‘再現’しようと立ちあがった集団があった。

天草四郎を頂点に戴いての一揆‘島原の乱’である。

歴史書は、どの時代のものでも‘全て偽りである’と言った人達が大勢いる。その時の為政者によって都合のよいように書き換えられたり初めからウソ偽りで固められたりすることは、これまでの常識である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%8F%B2
正史における偽史なのか、それとも歴史修正論なのかを巡る議論

ただし歴史というものには根本的に偽史が練り込まれてしまっていて、“本当の歴史”と偽史は必ずしも区別できるものではない、といったことを言う人はいる。いわゆる“正史”とされるもの、つまり政権の組織で保存されてきた歴史書のというのは、権力者が誰かを雇い書かせたものであるので、当然その権力者に都合よくできごとを歪曲して書かせてしまったり、権力者に都合の悪い事実は一般的に言えば書かれることが無い、と言われることがあるのである。

たとえば若狹和朋は、中国の正史(官史)というのはことごとく偽史だ、と述べた[11]。理由はそれをつくる者が官吏だからだという[11]。「前の王朝の徳がこういういきさつで失われ、天の命が革(あらた)まり、本朝(=今の政権)の世になった」という説き方をしてしまうのが、易姓革命の思想でものごとを見てしまう国の政治書の宿命なのだという[11]。特定の視点でできごとを解釈したり編集してしまうわけである。かくして正史(官史)には異本(バリアント)が存在しないのだという[11]。もしも歴史を記すというのが本当に誠実に行われるならば、取材する相手となる、歴史的な出来事の場に居合わせた人々(目撃者・報告者)の立場ごとに異なったことが報告され異本が何種類も登場することになるはずなのだが、にもかかわらずただひとつの版だけが伝えられるということは、“正史”というのは既に特定の集団の特定の政治的な意図や意味付けによって記述が操作・統制されてしまっている、ということを述べているようなのである。


要するに、全ての‘歴史的事実’は、その伝え方が完全ではないから、事実が事実として伝わらないという事になる。そりゃあそうだろう。映像で収録したとしても全部を完全に収録することは不可能だし、ましてや情報量の少ない‘書き物’では、尚更である。

映像にしてもそれを編集する人の意識次第で、その映像の持つ意味が変わって来る。書き物ではそれ以上に書く人の思いこみで事実は如何様にも変化する。

この現象は、物理学でいう所の「不確定性原理」に似ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7
%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86

不確定性原理

不確定性原理は1927年にハイゼンベルクによって提唱された。量子力学の基礎原理の一つとされ、その発展に大いに寄与した。 ただし、量子力学の基礎が整備された現在は、他のより基礎的な原理から導かれる「定理」となっている(「意見」や「仮説」ではない)。

粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない という事実に対し、それは“元々決まっていないからだ”と考えるのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈であるが、アルベルト・アインシュタインは、“決まってはいるが人間にはわからないだけ”と考えた。この考え方は「隠れた変数理論」と呼ばれている。なお、1926年12月にアインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙の中で、彼は反論に「神はサイコロを振らない(独: Der Alte würfelt nicht. 直訳:神は賽を投げない)」という言葉を用いて表している。[2]
この他にも不確定性原理の解釈には多数の解釈がある。これを観測問題という。どの解釈が正しいのかは現在はっきりしていない。ただし、ベルの定理により現在アインシュタインの考えを支持する人はごく僅かである。
不確定性原理が顕在化する現象の例としては、原子(格子)の零点振動(このためヘリウムは、常圧下では絶対零度まで冷却しても固化しない)、その他量子的なゆらぎ(例:遍歴電子系におけるスピン揺らぎ)などが挙げられる。



「或る粒子の運動量と位置を同時に正確に測ることは出来ない」事を‘不確定性原理’(現在は、原理ではなく‘定理’)という。

つまり、或る‘粒子’(=歴史的事実)の‘運動量と位置’(=正体)を正確に‘測る’(=書き表わす)事が出来ない、という訳である。

それは何故か?

或る粒子の正体を‘測って’情報を得るためには、何かのエネルギーを与えて、その反応をキャッチして分析をしなければならない。

この時、或る粒子に、例えば光(エネルギー)を与えてその反射光をキャッチしてその粒子の状態(運動量と位置)を知ろうとした場合、光エネルギーが、その粒子に一部吸収されてしまった後の状態の様子が跳ね返ってくるために‘正確な’粒子の状態を観測出来ないのである。

もう少し‘下世話な例’で説明をすると、

「警察が、ある犯罪の容疑者(粒子)を逮捕して、その容疑を確かめるために刑事が‘拷問’をした(光を当てた)とすると、容疑者の本来の無実(真の状態)が歪められて‘犯罪自白’となって事件が終了する」

といえば判り易いのかもしれない。

つまり「歴史書」はこういった類の‘或る種のエネルギー’(=勝者・為政者の意向)が働いて真の状態(歴史的事実)が歪められることが多い、という訳である。

これを今後は‘不確定性原理による歴史的事実’と呼ぶことにしたい。‘歴史的事実が事実通りに伝えられないのは不可抗力’なのである。

粒子の場合、その状態を観測するための‘手段’として、使用する‘電磁波’の種類が違えば、出てくる結果も自ずから違って来る。

すなわち、電磁波を‘光’とした場合と‘γ線’にした場合や‘X線’や‘赤外線’にした場合にその結果の状態に違いが生じる。

拷問の場合にだって、優しい刑事と剛腕な刑事とでは‘白状の中身’が変わって来るのと同じである。

歴史書の場合だって、時の権力者の我がままぶりの違いで‘歴史は一変する’というものだ!




さて、前置きはこの位にして、実際の事件‘島原の乱’ではどうだったのだろうか?

この内戦は、恐らく日本の歴史上‘最も凄惨な’戦いであったのだろう。勝者の江戸幕府もその後‘仁政’に転じぜざるを得ない状況になったというから、それはそれは我々の先祖に当たる日本人に大きな大きな傷跡を残した一大事件だったのである。

この‘乱’は、3つの要素が、同時に重なり合ったこともあって双方に莫大な犠牲者が出たのである。

さて、その3要素とは?

① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

② キリシタンによる宗教一揆

③ 飢餓農民による百姓一揆


① 追放・壊滅させられたキリシタン大名家臣の残留武士による政治一揆

禁教令は秀吉以来幾度か出されたが、この島原の乱に直接関係のある禁教令は、1612年の直轄領に関してのものと次の年1613年に今度は全国に施行されたいわゆる「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」である。この指示は家康であり、実行責任者は2代将軍徳川秀忠である。これらによってキリシタン大名は完全に消滅した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8
1%E6%95%99%E4%BB%A4

禁教令

狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が発令した物である。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが織田信長によるキリスト教政策もあってさほど効果は無かった。

慶長の禁教令 [編集]

江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。


島原の乱が勃発したのは、1637年であるから、慶長の禁教令発布から24、5年が経過している。その間キリシタン大名の配下だった残留武士達は、在りし日のキリシタン大名による‘仁政’と海外との貿易による経済の活性化の復活を夢見ていたに違いない。
そこへ襲ってきた‘大飢饉’と石高の見積もり誤りによる過酷な年貢取り立てという‘悪政’、これには、幕府によって潰された有馬晴信・小西行長両キリシタン大名に仕えていた武士の残党が‘一気に’‘一揆’を起こす切っ掛けを作ったと考えるのが妥当である。島原の乱が、単に町民・農民キリシタン一揆や単なる百姓一揆ではなく‘統制のとれた戦術を展開する武士の指揮の下に行われた事からも‘武士による政治一揆’の様相を呈するものだると言っても過言ではない。

② キリシタンによる宗教一揆

江戸幕府は、キリシタン大名を慶長の禁教令(1612、16213年)で壊滅させ、1616年には、一般の武士や町民は勿論百姓にまで「キリスト教の禁止」を厳格に示した。

キリシタンは‘隠れキリシタン’にならざるを得なかったこと、そして追放された宣教師の‘予言’(25年後に救世主出現)の下に‘担ぎ出された’天草四郎の登場によって、隠れキリシタンの意気高揚が島原の乱の中核をなす。

天草四郎という人物は、恐らく評判のカリスマ性を多少は備えていた人物であったことも確かなのであろうが、上述の通り‘担ぎ出された’というのが、本当のところだろう。その首謀者は一体誰なのか?
天草四郎ご本人も実は被害者の一人だったのかもしれない!

③ 飢餓農民による百姓一揆


前述の通り、大飢饉に怯える百姓に対し、過剰石高の年貢をあくまでも取り立てようとする島原藩の大名・松倉重政とその長男次代の勝家、これに百姓は我慢の限界をどうすることも出来なかったのである。

これらの3要素が、1637年に揃った!

こうなると‘3集団連合’の意識は一挙に燃え上がる。4万人にも及ぼうとする‘大一揆’である。

幕府側もこれに応えて12万人という大軍を出す。

一揆側の死者は、一名(山田右衛門作)を除いて3万7千名。悉く頭と胴体が切り離されたという。

http://amakusa46.com/02/post_23.html
山田右衛門作とはどういった人物なのであろうか?

山田右衛門作は天草・島原の乱の際、四郎軍の幹部の一人であり、原城にたてこもったのだが、篭城方の全員が玉砕したにも関わらす、ただ一人生き残った人物として知られている。幕府の取調べに応じた彼の口上書は原城での天草四郎軍の内部事情を知りうる唯一の資料となっている。江戸時代に著わされた「阮塘画談」という古記録によれば山田右衛門作は肥前佐賀の人らしい。ポルトガル人に習い、西洋の画法を学び、耶蘇の仏画を描いて生計をたてていたらしい。乱直前の居住地は口之津村であった。当時、口之津では村人全員が原城にたてこもった。そのため右衛門作も本人の意思なのか、あるいは無理強いされたのかはわからないが、ともかくたてこもることになった。そのような経緯から、四郎軍の陣中旗を描くようになったのだろう。彼は四郎軍の幹部として、幕府軍と対峙した3ヶ月の間、城中と幕府軍とで交わされた矢文の起案者の一人であった。その役目を利用する形で、密かに幕府軍と内通し、命を永らえたのであった。四郎軍に対する明らかな裏切り行為ではあるが、彼の存在がなければ、原城での四郎軍の実情は世上に知らされることはなかった筈だ。うがった見方をすれば、四郎軍も歴史の生き証人として、彼を指名したのだと考えられないこともない。少なくとも、事実はそうなっている。右衛門作は口上書のなかで、天草・島原の乱について次のように述べている。「事の発端は、大矢野の千束島にいた松右衛門、善左衛門、源右衛門、宗意、山善左衛門らが、26年前に追放された神父が26年後にこの地に善き人が現れ、そして、この子は人々の上に十字架をかかげるであろうという書き物を残した。大矢野に四郎という若者がいるが、この四郎こそ、その人であるといいふらしていた。10月15日にまず島原で乱が始まった。島原衆は島原城を攻め立てたが、城中の者が防いだため、一旦引き返した。その後、相談し、四郎を総大将として、宗門を守り立てようと決議した。四郎勢は天草の上津浦で兵を上げ、応援に来た島原衆とともに、本戸にて、寺沢藩の家老である三宅藤兵衛を撃ち破り、さらに富岡城を攻めたが、落す事が出来ず、島原の口之津に海を渡ってきた。江戸より長門の守(板倉重昌)が島原城に出陣し、その上鍋島藩勢も加わったことに四郎は驚き、原城に立てこもった。四郎は12月3日にこの古城に入り、その後、島原衆も続々と立てこもり、原城の普請を行った。12月9日には天草衆も原城に籠もった。原城には3万7千人もの人が籠もったため、5人の物頭を決め、同時に島原衆、天草衆のなかから一人ずつ軍奉行を定め、指揮系統を整えた。1月1日幕府方が攻めてきたが、事前に情報を得ていたので、容易に防ぎえた。2月21日、夜討ちを仕掛け、城中の手負いは430人であって、このうち132人は城中に引き取った。城中の鉄砲は530丁あったが、正月20日ころより、玉薬が切れてきた。城中の飯米も2月10日頃より切れてきた。城中には牢人が40人位いて、主に四郎軍の作戦部門にあたっていた。四郎が本丸で碁を指していたところ、幕府方より、石矢が打ちかけられ、四郎も負傷した。周りにいた者5,6人がこのため死亡した。篭城していた一揆方はその光景を見て、四郎様は絶対傷つかない天使様だと思っていたのにと、不吉な思いに捕らわれ、落胆した。」などと供述している。そして自分が生き残った次第も述べている。「自分は、以前の上司である有馬左衛門助殿と矢文で連絡を取り合い、有馬殿に忠節を尽くすことを知らせていたため、落城の時、小笠原右近殿に見つかり、切られそうになったが、有馬殿からの矢文を見せて、命を助けられた。」

裏切りの汚名を覚悟しつつも、
命に対する執着をみせた右衛門作の本当の心境は
果たしてどうだったのであろうか。


幕府側は、勝利を収めたものの、民衆の怖さをこれほど知らされた経験はこれまでになかったに違いない。
戦いの後始末としては、島原藩城主・松倉勝家は‘斬首’。切腹ではなく斬首だったのだが、これは前代未聞の措置である。

そして、その後1.5年の後、ポルトガルとの国交断絶により、オランダ一国のみを許して‘鎖国’という決断がなされるのである。

そして、江戸幕府は、この苦い経験を「仁政」という民衆の思いを受け入れる政治にハンドルを切り徳川260年の謳歌への礎とするのである。

とかく‘平和’は‘犠牲’の上にしかないという。正に‘島原の乱’はその典型である。

しかし、何とか‘犠牲’を最小限にして‘平和’を見出すことは出来ないものか?
現実問題としは、国連の力を以ってしても世界の平和はまだまだ遠い先の夢である。‘話し合い’という犠牲の少ない方法しか残ってはいないことに世界各国の為政者は気付いているのに何故実行が出来ないのだろうか?



この内乱の哀しい物語は、以下の引用に示す‘wikipedia’の「島原の乱」に詳しい。

島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの反乱の一面しか捉えていない。(「勃発まで」にて詳述)。現実には百姓一揆、浪人一揆、宗教一揆が複雑に絡み合った内乱であった。

勃発まで [編集]

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)[1]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。
天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。
ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。

乱の勃発 [編集]

天草四郎の像
天草四郎像

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた[2]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害[3]、ここに島原の乱が勃発する。
ただし、この一揆は島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった[4]。北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った[5]。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた[6]。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという[7]。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する[8]。
これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った[9]。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退[10]。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる[11]。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。
NHK「その時歴史が動いた(2007年1月24日放送)」では当時の著書カリバーリョ弁駁書を元に原城に立て篭もった要因をローマ教皇から一揆軍へ援軍を送るという内密があり、イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル王国[12])の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったという説を提唱している。またカリバーリョ弁駁書では実際にポルトガルは日本への上陸を試みたが出来なかったとしている[13]
原城の籠城戦 [編集]

戦闘の推移 [編集]

海から見た原城跡
海から見た原城の遺跡

原城包囲網
原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した[14]。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた[15]。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。
事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決定した。焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃は失敗した[16]。討伐軍の死傷者は4,000人以上であったという。重昌が派遣される際、柳生宗矩は小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗すると考えて反対したという話がある。
新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲した。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。
1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し[17]、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った[18]。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している[19]。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。
このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(1603~1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。
討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している[20]。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという[21]。また、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わるため、信綱は2月28日に総攻撃を決定。しかし、佐賀藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始された。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。
これによって、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。
全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・柄本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(柄本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

幕府軍 [編集]

幕府派遣軍
上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)
上使 - 松平信綱 1,500人
副使 - 戸田氏鉄 2,500人
諸大名
備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花種俊、安東省菴)
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人
総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)
幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。

籠城軍 [編集]

 島原の乱における一揆勢の主要人物
戦闘員 - 14,000人以上(推定)
非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)
総計 37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、27,000人など異説あり。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったといわれる[22]。ただし、原城の断崖絶壁を海側に降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もある[要出典]ため、実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説[誰?]もある。

処分 [編集]

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった(切腹という説もある)。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。
なお、この一件で幕府はポルトガルと国交を断絶することとなるが、オランダとの貿易がポルトガルとの貿易を完全に代行できるか不明であったこともあり、国交断絶までにはなお1年半が必要であった。

島原の乱以後の天草 [編集]

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。
島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国の丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。現在も鈴木重成を奉った鈴木神社が存在し、天草の人々の信仰を集めている。重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。
重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、天草の実情を無視した寺沢広高による統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。
天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタンの潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。


















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[2012/10/05 22:17] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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