論語について(その1):プロローグ
‘論語’といえば、「論語読みの論語知らず」 ということぐらいしか出て来ない。

勿論、‘論語’の作者は‘孔子’ではない。‘孫弟子達’が孔子の‘言行録’を纏めたものであることは誰もが知っているのであるが・・・。

孔子の‘子’は‘先生’という意味の尊称。したがって、‘孔’先生である。

儒教の始祖。

面白いことに、当時の宗教の始祖の共通点は、「始祖自身が‘経典’に当たる‘書き物’を自らの手で書かなかった」 という点にある。

世界における現在の‘宗教人口’を見てみよう。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/syukyo01.htm
宗教人口

地球の人間が100人いたら、35人がキリスト教信者、19人がイスラム教信者、14人がヒンドゥー教信者、6人が仏教信者という事に相当します。



そして、主な宗教の‘聖典’を以下に示す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%B8

① キリスト教 - 新約聖書、旧約聖書(聖書)

  『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエスを預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。

② イスラム教 - コーラン、ハディース、啓典(律法、詩篇、福音書)

イスラム教の教典(聖典)としてすべてのムスリムが認め、従うのは、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)唯ひとつである。 クルアーン(コーラン)はムハンマドが最後の予言者として語った内容が、ムハンマドおよび後継者の代によって編集され、書物となったものである

③ 仏教(仏典、経典
      部派仏教 - 法句経、阿含経など
      大乗仏教 - 法華経、般若経など

仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。

仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。
この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saMgiiti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。
その後も、仏典はおよそ二百年間は暗記によって保持され、文字に写されなかった。

④ 儒教 - 経書(詩経、礼記、春秋、論語など)

『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。


上記引用の通り、‘巷間’世界4大宗教と言われる(勿論、4大宗教は定義次第で別のものを挙げることもある)上記の聖典・経典の類は、悉く‘始祖の手で書かれなかった!’のである。

さて、‘論語’に話を戻すと、‘今何故、論語’なの?から始める必要がある。

ここに一冊の本がある。

ホキ美術館0001

著者は、あの「日本人とユダヤ人」で一躍脚光を浴びた‘山本七平’氏である。(1991年没)

彼が、戦後日本の教育の乱れを危惧して、有難いことに、東洋のバイブル(聖書)たる「論語」を我々一般人にも判るように解説してくれている。

そして、あの遠藤周作氏が、この本のカバーの内側に次のような推薦メッセージを寄せておられる。

‘論語の読み方’推薦の言葉・遠藤

遠藤周作氏も言葉を慎重に選んでおられるが、要するに‘戦後の教育’を日教組が駄目にしたという事である。そのことを「デモクラシー(民主主義)は政治制度であって、人間個人の規範とは‘次元’を異にしたもの」という表現をされているのである。

これは、この「論語の読み方」を読んでいく上で、読者が決して忘れてはいけない概念である。

戦後生まれというより、戦前に産まれていても‘戦後の教育制度’の中で教育された日本人は、「論語読みの論語知らず」どころか、

「論語読まずの論語知らず」

であって、最悪である。

このことは、今の中国人にも当てはまる。

毛沢東の「文化大革命」では、‘孔子と封建思想’という名目で‘排除’する闘争がなされたが、1976年毛沢東の死去により、‘儒教思想’は復活する。現首相の温家宝は、2004年 「平和共存五原則」 周年記念演説,世界文明の多様性を肯定し、その先見性孔子の世界観指摘、評価。( http://kerukamo.blog115.fc2.com/blog-entry-130.html

前出の宗教人口に見られる‘儒教人口’600万人強が全部中国人だとしても、中国全人口の0.5%にも満たないから、中国は‘儒教の国’とは言えないのだろう。

儒教の教義は、
「儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 )であるから、今般の中国の動きに儒教思想が現れているとは到底思えない。

‘国の宝は人づくり’

だという基本的な教えさえ守る気配がない。一人っ子政策は果たして大丈夫か?

そんなこんなで、今こそ‘論語’が見直される時だと感じている次第。

今後、この本「論語の読み方」を熟読しながら、日本人だけに止まらず‘人間の生き方と教育問題’について勉強をしてみたい。

(つづく)

















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[2012/10/15 23:28] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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