論語について(その2):論語と聖書
日本における第二次世界大戦以後の教育方針は、‘論語’という江戸時代からの‘道徳・徳育’教育をすっかり疎かにしてしまった。

その影響がじわじわと現れ始めて、‘いじめ’や‘不可解な殺人事件’を惹起する原因になっているとも考えることが出来る。

「教育とは?」と聞かれると大体誰でも「知育、徳育、体育」と答える。これは中学校でそう教わるからでもあろう。

ところがである。

‘徳育’って、何?

と聞かれてしまうと、ほとんどの人が「‘道徳’」と答える。じゃあ、どうして、「教育とは?」と聞かれた時に「知育、道徳、体育」と答えないの?と聞き返すと「道徳には‘育’が付いていないから・・・」と優等生の答えが返って来る。

‘道徳’を教えるのが‘徳育’という訳である。

まあ、ここまではよろしいとして、それでは「‘道徳’とは何?」と聞けば、「うるさいなぁ、自分で調べたら?!」と全く道徳を無視した答えしか返って来ない。

つまり、‘知育’と‘体育’は、日教組も教えた積りだが、‘徳育’については、まるで‘封建制度の権化’のようだとの見解なのだろう、全く教えることをしなかったのである。

私は、戦後の昭和21年に小学校に入学したから、いわば終戦後の‘小学校第一回生’という事になる。

二つ上の兄や四つ上の姉が、‘徳育’を受けていたかについては、戦時中のこともあって定かではない。むしろその当時の小学校では‘徳育’というより、天皇陛下への‘忠義・忠誠’を教えていたに違いない。

我々が入学する前の小学校には‘忠霊塔’というのが校庭の上部(?)中心にあって、朝の登校及び下校の際にはみんな帽子を取ってお辞儀をしていた記憶がある。

昭和21年に小学校に入学した折には、きれいさっぱりと‘撤去’されていたが・・・。

忠霊塔
http://eclipse.star.gs/lock/wafuu/wafuu1.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E5%A1%94
忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴として表す塔である。

歴史 [編集]

明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。その後、1939年(昭和14年)1月、内務省は各市町村に1基の忠霊塔の建立の許可を出し[1]、同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた[2][3][4][5]。

大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣を名誉会長、菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた[6]。
塔の建立にあたっての資金は国や自治体の支援もあったが、その市町村の国民は「一日戦死」運動と呼び、1日分の収入が無かったつもりで1日分の給与の額を拠出している[2]。1941年(昭和16年)9月には戦争の拡大にともない戦死者も増え,各地の陸軍墓地は陸軍省の通達が出され忠霊塔へとまとめられた経緯もある[7]。こうして各地方自治体毎に多くの忠霊塔が建立されたが第二次世界大戦後は戦争を賛美するとか軍国主義的であるとしてGHQの指示により多くは撤去された。一方一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあるとされるが現在も各地に在る[2]。

1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本国民の主権の回復がされた後には忠霊塔に替わるものとして慰霊碑が建立された[8]。忠霊塔は西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満洲事変、支那事変、太平洋戦争、大東亜戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者の名が刻まれている[7][9]。千葉県忠霊塔など1954年(昭和29年)4月に新たに造られたものや○○県忠霊塔などと呼称を変えたものも幾つかある。

現在では忠霊塔は自治体や地元の人達のボランティアによって塔の周りの草取りや維持・整備が行われている[10]。例年、自治体や遺族らによって行われる戦没者の霊への顕彰・慰霊・追悼の対象の場として慰霊碑、慰霊塔と共に使われることは多く、また公園などとされ花見や子供達の遊び場などともなっているものも多い。


そうそう、そう言えば‘修身’という科目があった。国語、算数、と同ランクに‘修身という科目’である。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
修身(しゅうしん)とは身を修めることを意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校(第二次世界大戦中は国民学校)における科目のひとつ。1890年の教育勅語発布から、1945年の第二次世界大戦の敗戦まで存在した。戦後の道徳教育に相当するものである。


そして、この‘修身’という訳語は‘モラルサイエンス(moral science)'が原語であり、翻訳したのは福沢諭吉等という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
修身の語源 [編集]

モラルサイヤンス(moral science)を修身論と翻訳したのは福澤諭吉・小幡篤次郎などの慶應義塾関係者である。
以下、近代デジタルライブラリーの『福沢全集』〈巻1〉の「緒言」から引用する。

明治元年の事と覺ゆ或日小幡篤次郎氏が散歩(さんぽ)の途中(とちう)、書物屋(しよもつや)の店頭(みせさき)に一册の古本(ふるほん)を得たりとて塾に持歸(もちかへ)りて之を見れば米國出版(しゆつぱん)ウェーランド編纂(へんさん)のモラルサイヤンスと題(だい)したる原書にして表題(へうだい)は道徳論(だうとくろん)に相違(さうゐ)なし同志(どうし)打寄(うちよ)り先づ其目録(もくろく)に從て書中の此處彼處(こゝかしこ)を二三枚づゝ熟讀(じゆくどく)するに如何(いか)にも徳義(とくぎ)一偏(いつぺん)を論じたるものにして甚だ面白(おもしろ)し斯る出版書(しゆつぱんしよ)が米國にあると云へば一日も捨置(すてお)き難し早速(さつそく)購求(こうきう)せんとて横濱の洋書店(やうしよてん)丸屋に託(たく)して同本六十部ばかりを取寄(とりよ)せモラルサイヤンスの譯字(やくじ)に就ても樣々討議し遂に之を修身論(しうしんろん)と譯(やく)して直に塾(じゆく)の教塲(けうぢやう)に用ひたり
修身論の原著は、en:Francis Wayland, The Elements of Moral Science, (1835, 1856 ed.) Paperback: ISBN 0766174239/Hardcover: ISBN 0674246004 である。


そして、その‘修身’の内容は以下の引用資料が示す通り、

(1)国家に対する道徳 - 25%

(2)人間関係についての道徳 - 40%

(3)個人の道徳 - 35%

というから、これはこれは‘まともな配分’ではないか!

勿論、(1)、(2)、(3)共に、その中身については現在全く通用しないものではある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB
第2期国定教科書 [編集]

1910年(明治43年)から順次発行、使用開始。儒教主義的倫理が強調され、さらに、軍国的教材も登場、それらが国家主義と家族主義に結合されるように構成されている[36]。教育勅語を教科書の中に多く取り入れ、教科書の巻4(尋常小学校4年用)の最初に教育勅語の全文が載せられ、巻5ではいくつかの課で勅語の語句を説明し、巻6の最後の3つの課で勅語の大意を説いている。第1期の教科書において13人登場していた西洋人は5人となった。
尋常小学校6年間にわたって示されている主要な徳目は157であり、内容のおよその割合は以下の通り[37]。

国家に対する道徳 - 25%

「国民の義務」に関する内容は激減し、国体に関するものが大幅に増加し、低学年から万世一系の国体観念を持たせようとしている。また、木口小平は第1期では「勇敢」そのものの例として登場していただけだが、第2期では日露戦争における旅順港閉塞隊の例とともに「忠君」と「愛国」と「義勇」とを結びつける教材として登場している。

人間関係についての道徳 - 40%

家族関係についての儒教的道徳観が増加。祖先をまつり、家名を重んずる内容がみられ、「家」の観念が強調されている。「人の自由を守る」、「人を助ける」、「商いの正直」、「人に迷惑をかけぬ」などが削除または減少し、かわって、「廉潔」、「報恩」、「寛容」、「謙遜」などが増加または追加されている。

個人の道徳 - 35%

学校の意義、教育を受ける、過ちをなくすなどの項目が削除され、自立自営・勤勉・勤労・忍耐も各1つずつ減少。沈着・勇気を説く例話として、新たに木村重成・毛利元就の妻・加藤清正・佐久間勉艇長も登場している。


上述の通り、この内容は全て現在風に書き換えられねばならないが、やはり当時でも‘国家’‘他人’そして‘己自身’に対する‘道徳’をきちんと意識しなければならないことを為政者は理解していたのである。

これこそ‘儒教’の‘道徳’を何百年も継承してきた日本人ならではの成果と言えると思われる。

さて、いつものように‘前置き’が長くなってしまったが、‘道徳’を考える場合にはどうしても‘東洋’の道徳と‘西洋’のそれとを意識せざるを得ないし、今後益々グローバル化が進む国際社会では、その認識無くしては多分動きがとれまい。

先般ご紹介した‘論語の読み方’(山本七平著)には、‘論語’と‘聖書’という東西の‘道徳’の根本になる書き物に焦点を合わせてある。

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上記著書・「論語の読み方」によれば、京大名誉教授で、1966年NHKラジオで『論語』を講義した吉川幸次郎が、「論語」を理解するには「聖書」を読まねばならぬと言い、内村鑑三が奇しくも「聖書」をきちんと理解するためには「論語」の研究が必要だと指摘していたという。

両雄にして流石である。己の主張を通すには、それに対峙する意見も理解すれば己の主張の‘質’が上がるというのだ!

(つづく)















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[2012/11/05 22:20] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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