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論語について(その3):儒教の教えの‘四書’
‘論語’について調査をしようとする場合、‘聖書’との対比については前回(11月5日の弊ブログ)で前哨戦を述べさせて貰った積りであるが、それは‘儒教’の一代表としての‘論語’であって、宗教としての東西比較とすれば、それは、

     <キリスト教・イスラム教> VS <仏教・儒教>

という対比で考えるべきものだと思われる。

大まかに言えば、<キリスト教・イスラム教>‘軍団’は、創造主を頂点に仰ぎ、全ては創造主を‘神’と表現して絶対服従を誓う所が出発点である。

キリスト
http://labaq.com/archives/51350538.html
キリスト

啓示を受けるムハンマド
http://hirodoveohira.wordpress.com/2009/11/29/%E3
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啓示をうけるムハンマド:イスラム教では偶像崇拝を禁止しているため預言者ムハンマドの肖像画は無い

一方、<仏教・儒教>‘軍団’には、基本的には‘神’の存在はない。あるとすれば‘神は実は己の中に存在する’と説く。すなわち、修行により‘悟り’の境地に到達することにより己の向上を目指す。ただし、儒教は少し違っていて修行は‘対人’及び‘対社会’のために行なって人格の向上を目指すのである。孔子は‘悟り’を拒否した。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
釈迦

孔子
http://seizensetu.seesaa.net/category/7190700-1.html
孔子


以上のように簡単には表現出来ない事情はどの宗教にもあると思われるが、こんな‘大ぐくり’ででも捕えておかねば‘比較’での評価が益々難しくなるから、この対比は私だけの思い込みである、とお断りをしておきたい。

宗教と政治は根本的に重さも心意気も異なるから軽々にたとえ話は出来ないにしても、政治の場合、民主党支持、自民党支持、共産党、etc.支持を表明している人達は果たしてそれぞれの‘長所・短所’を徹底比較して、それぞれを支持しているのだろうか?

私には、どう考えても‘一旦何処かの政党支持’を表明した場合、その政党が自分の考えと違った方針を取った場合には、己の主張を曲げてでもその政党の方針に従うという‘矛盾’を皆さんが抱えてしまうことになって、言論の自由を自ら放棄してしまうという最悪な状態となってしまっている、としか考えられない。

これこそ、私がこれまでこの弊ブログで‘政党政治の破綻’は本質的なものであり、政党政治は政治の初歩的段階であるから、早くそこから抜け出すべきだと主張してきた所以である。

宗教の場合でも同じことが起こっているような気がする。どの宗教を信じようとそれは個人の勝手とは言うが、本当にその宗教の本質を理解している人がどの程度いるのであろうか? 甚だ疑問である。

もっと言えば、住職でありながらその宗派を職業として選択した人が多いのではないかとさえ思われる節がある。
別にそれを糺す必要もないのかもしれないが、宗教の衰退の一原因はその辺りにもあるのではないかと図々しくもまた偉そうに思ったりしている。

いずれにしても、‘比較宗教学’をもっと徹底的に勉強する事から始めなければならないと考えているが・・・。

さて、本題は、儒教を知るには‘論語’だけでは済まされない。いわゆる儒教を支えている‘四書’:‘大学’、‘中庸’、‘論語’、‘孟子’それぞれを深く検討してこそ‘儒教’の理解が出来るというものであろう。

日本の政治を理解するためには、自民党だけを知れば済むというものではない、という事と似ている。

でも先ずは、‘論語’から始めようという訳である。論語だけで儒教が理解できたとは思わない心構えが必要だという訳である。

先般から申し上げていた通り、‘論語’そのものも儒教の始祖たる‘孔子’が書いて編纂したものではない。
したがって、「子日はく・・」から始まる。‘子’とは‘先生’の意味の普通名詞である。そして具体的な先生の名前は‘孔’先生であるから‘孔子’である。‘日く’は‘のたまわく’で‘おっしゃるには’という意味である。

仏教も同じで、釈迦は‘口伝’を専らとして、‘書伝’を禁止した。これは釈迦以前の宗教も同じでインドでは‘伝統’であったというが、釈迦も何故‘口伝’を受け継いだのであろうか?‘如是我聞’は私はこのように聞いたという意味であるから、その人が釈迦の仰った事をそう理解した、と受け取るべきで釈迦の仰せとは違う場合があるとの認識を持つべきである。これが仏教で宗派が分かれる大きな原因となったものと思われる。

いつもこの議論で出くわすことは、釈迦が、或いはキリストが突然蘇ってそれぞれの宗派の存在意義を聞いた場合、どんな反応をするのだろうか?という事である。 <これって、今後の小説の題材かも??>

上述の四大宗教、全部が全部その教祖は己の書物を残していない!実に不思議であり、偶然の一致なのか?それとも教祖たるもの己の書物を残さないものなのだろうか?

現在は‘書物を出版すること’が、斯界の権威たる拠り所とさえなっていて、4~500冊の本を出版されている有名人も沢山おられるが、本当の教祖たる御仁は違うのだろうか?

(つづく)

















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[2012/11/06 23:58] | 宗教 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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