切られ与三郎の墓
久し振りに東金市(とうがね市・千葉県)の最福寺へ行ってみた。

この最福寺は、春日八郎の‘お富さん’でも有名になった‘切られ与三郎’のお墓があるので有名である。‘有名である’と言っても実は茂原市へ越して来たものの、御隣の御隣の市が東金市であることも知らなかったし、そこに最福寺があってその境内にまさか‘切られ与三郎’の墓が存在するなんて全く知らなかったのである。

そして、そしての驚きは、‘お富さん’が、ナナなんと我が市・茂原の‘ご出身’だったのである!


https://www.youtube.com/watch?v=0f3kzOedwxk

http://www.toganekanko.jp/2012/02/1053/
切られ与三郎をご存じですか
<公開日: 2012年2月28日(火)>

歌舞伎の演目の一つに『与話情浮名の横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)という名作があります。

物語の内容は、江戸で有名な長唄の師匠四代目芳村伊三郎をめぐる千葉・木更津でおきた実話をもとに書かれ、登場人物は「切られ与三郎」「お富さん」そして地元の親分「赤間源左衛門」が主な登場人物です。
赤間源左衛門の愛人であったお富を好きになった与三郎は、お富と二人で逃げ出します。怒った親分は子分たちに命じ与三郎を簀巻きにして木更津の海に投げ込み、お富は江戸に連れて行かれてしまいます。
その後、偶然江戸で再会した二人を描いた作品です。

最福寺には、主人公の与三郎のモデルとなった「中村大吉」のお墓があります。
東金と大網白里の境の清名幸谷で生まれた「大吉」は長唄を習い、その後、茂原生まれの「きち」という女性を好きになってしまいます。この「きち」は山本源太左衛門という親分さんの愛人でした。二人は木更津に逃げてしまうのです。
この話がもとに「与話情浮名横櫛」が書かれました。


http://www1.odn.ne.jp/saifukuji/index1.htm
切られ与三郎の墓

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切られ与三郎のモデルになった4代目伊三郎の墓

芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで襲名され続けています。

4代目伊三郎は、このお寺から南西4キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政十二年(1800年)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。
大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。

しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。

後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が8代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。
それが「お富・与三郎」で知られる歌舞伎狂言
与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)なのです。
5代目伊三郎は、東金の岩崎の秋山嘉吉さん方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言で、葬儀も当寺で営み、過去帳にも残っております。東金のお祭りのおはやしは、この5代目の長唄の影響を受けた珍しいリズムです。
お墓は当初30メートル先にありましたが戦前、秋の豪雨で崩れました。戦後歌舞伎役者、当市有志のきもいりで、この地点に新しく建てかえられたものです。


その日はあいにくカメラを持参していなかったので、携帯で写真を撮った。それが次の画像である。

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2013年05月12日

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2013年05月12日

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2013年05月12日

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2013年05月12日 左が五代目 右が四代目・芳村伊三郎(切られ与三郎)

ここ東金の最福寺は、日本天台宗開祖の最澄が開いたお寺として有名である。しかし、色々の事情があって、現在は日蓮宗のお寺である。また、徳川家康との関係も深いという。

http://www1.odn.ne.jp/saifukuji/index1.htm
<最福寺>

東金市八鶴湖に南面してたたずむ安国山最福寺は、大同二年(八〇七)伝教大師最澄によって背後の鴇ヶ嶺山頂の山王神社(日吉神社)とともに一宇を改修し天台宗の寺院として創設されました。その後六百七十年たった文明十一年(一四七九年)京都妙満寺十世日遵上人の弘教により、日蓮宗に改宗されました。土気の酒井定隆による七里法華改宗より十一年前のことです。その数年後、最澄の最を改め最福寺から西福寺と称しましたが、戦後昔の最福寺に戻しました、また山王神社は嘉慶元年(一三八七年)現在地大宮台に遷座され鴇ヶ嶺の社は古山王神社として現在に至っております。現在最福寺は日蓮系の単立本山です。

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本堂へと続く坂道の途中に当山第七世日善上人と、徳川家康公の対談の模様を、再現したブロンズ像があります。家康公が鷹狩の際、休憩に使った「東金御殿」(現県立東金高校敷地)で家康公と会談。その八ヶ月後、「大阪冬の陣」(慶長十九年、一六一四、十一月)の直前にも、駿府城内で家康公に拝えつ。しばし話し合いを行っていたことが「駿府記」(慶長十九年九月)に「二十日、上総國東金西福寺日善上人御目見日蓮宗也」と出ている。また、「台徳院実記」(慶長十九年、九月二十日)にも「総州東金西福寺日善」駿府城にのぼりて拝謁す」とある。このような歴史を後世に残そうと、現住職が発願し、市内出身の日展会員、上野弘道氏(千葉大教授)により製作安置されたものです。「最福寺」は上総十ヶ寺の一つで、家康公から三十石の寺領を受けている「御朱印寺」でもあります。


さてさて、もう一つ肝心の‘お富さん’のお墓は、何処に?

(つづく)
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[2013/05/19 02:02] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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