今現役で‘卒意’の人(その1):80歳スキーヤー三浦雄一郎氏
80歳の偉人に日本国中が湧いている!

<以下の全ての画像は、テレビ朝日のTV画面をカメラで撮影したものである。>

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2013年05月27日(月)08:59

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「ハタ迷惑かもね?」と言っていた人達も全員がスタンディング・オべーションだ!これは彼が帰国した際にもう一度山場が来る。そして、更に彼が‘85歳で!’と言った瞬間にまたその現象が起こるに違いない!

彼、三浦雄一郎氏 こそ、今の日本で他の追随を許さない‘唯一の偉人で’ある!

彼は、登山家ではない! 冒険家でもないという。ご自分では‘ただのスキーヤー’と仰るそうであるが・・・。そんなことはどっちでもいい。こんなに人生を楽しんでいる人は先ずいないであろうと思われる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6
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三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、青森県青森市生まれのプロスキーヤー及び登山家である。クラーク記念国際高等学校校長、全国森林レクリエーション協会会長。
父の三浦敬三も山岳スキーヤーで、長男の三浦雄大は競技スキーヤー、二男の三浦豪太はリレハンメルオリンピック・長野オリンピック出場したフリースタイルスキー・モーグル選手。母方の祖父は、第15回衆議院議員総選挙青森県第5区[1]選出議員の小泉辰之助[2]。

略歴 [編集]

幼少期は病弱で劣等生[2]、幼稚園は中退[3]、小学校4年生から5年生時には結核で肋膜炎を患い長期入院のため一年の半分近くは学校に通えなかったほどだったという。農林省(現・農林水産省)営林局に勤めていた父の仕事の都合で小学校[4]は5回転校、旧制中学校は先述の健康問題が理由で1度旧制黒沢尻中学校(現・岩手県立黒沢尻北高等学校)への入試に失敗し小学生浪人、入学後も4回転校を繰り返した[2]。
初めてスキーに接したのは小学校2年時、当時住んでいた弘前市の弘前城公園の坂をスキーで滑ったのがきっかけで[3]、その後一家で仙台市郊外の農場に引っ越した際に本格的にスキーを始め[2]、旧制青森中学校在学時に岩木山で開かれたスキー大会で優勝し初タイトルを獲得する。青森県立弘前高等学校在学時に、全日本スキー選手権大会の滑降競技で入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝するなどの実績を重ねた。また同時期、スキージャンプを借り物のスキーで初めて飛んだにもかかわらず、県の二位に入ったこともある[3]。

大学進学において、スキーが出来るからという理由で北海道大学を受験先に選び、入学試験直前にもかかわらず「もう来れないかもしれない」と考え藻岩山でスキー三昧だったものの合格し、獣医学部に進学[3]、北海道大学では一般教養部で当時理学部に在籍していた作家の渡辺淳一と同期だったがのちに、渡辺は札幌医科大学に転校した。
在学中に当時の学長秘書、かつアルペンスキーの女子選手だった妻・朋子と出会い同棲の後結婚[2]、大学院進学、そしてアメリカ留学を希望していたものの、肺の病気を患い、暫く母校の北大獣医学部に助手として勤務、札幌市月寒(現・札幌市豊平区月寒)にあった当時の北大農事試験場でブタやウシをあつかう獣医師をしていた[3]が、26歳で助手の職を辞任、スキーに挑戦するも、優勝した全日本スキー選手権青森県予選閉会式で、全日本選手権への青森県からの派遣人数をめぐりスキー連盟関係者と対立、結局アマチュア資格を剥奪され、アマチュアスキー界永久追放の憂き目に遭う[2]。
アマチュア資格剥奪後暫く、体力を鍛え直す意味も込めて、北アルプスの立山でボッカとして働いていた[2]。



彼のこころは、もう何十年も前から‘卒意’という‘心の状態’になっている。

ここでいう「卒意」とは、「用意」の対語のそれではなく、「作意」or「作為」の対語のそれである。

全く‘他人を意識する’ことなく、自分自身の世界に‘入り浸っている’状態を指す。

全く一人で行動する場合は、それはそれで済むかもしれないが、人間は一人では生きていけない!

例えば、俳句の領域で言えば、‘種田山頭火’や‘尾崎放哉’と言った人が有名であり、版画(→板画)家としては、‘棟方志功’がいる。

http://rekishi-club.com/kijin/taneda.html
種田山頭火 ?妻子を捨て行乞の人生を送り自由に一筋の道を詠い続ける

種田山頭火は生きている時には、ほとんど無名で、その一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表の一人となった。妻子を捨て、世間を捨て、行乞(ぎょうこつ=修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと)の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火は、生涯に約8万4000句を詠み捨てたという。生没年は1882(明治15)~1940(昭和15年)。

種田山頭火は現在の山口県防府市に、父竹次郎、母フサの長男として生まれた。本名は正一。種田家はこの付近の大地主で、父は役場の助役なども務める顔役的存在だった。その父の、妾を持ち芸者遊びに苦しんだ母が、自宅の井戸に身を投げて死んだ。山頭火11歳の時のことだ。この母の自殺が彼の生涯に大きな衝撃を与えた。

山頭火は1902年(明治35年)、早稲田大学文科に入学したが、2年後、神経衰弱のため退学して帰郷。その後、隣村の大道村で父と酒造業を営む。1909年(明治42年)佐藤サキノと結婚、翌年長男健が誕生。1911年(明治44年)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門した。この頃から「山頭火」の号を用いる。29歳のことだ。狂った人生の歯車は順調に回りかけたかに見えたが、そうではなかった。1916年(大正5年)、家業の酒造業に失敗し、家は破産したのだ。家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。父は他郷へ、山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ引っ越す。

熊本へ移った山頭火は額縁店を開くが、家業に身が入らず結局、1920年(大正9年)、妻子と別れて上京する。その後、父と弟は自殺する。東京での山頭火は定職を得ず、得るところもないまま1923年(大正12年)、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ逃げ帰る格好となった。

不甲斐ない自分を忘れようと、酒におぼれ生活が乱れた。そして、生活苦から自殺未遂を起こした山頭火を、市内の報恩禅寺の住職、望月義庵に助けられ寺男となった。1924年(大正13年)、出家した。法名・耕畝(こうほ)。市内植木町の味取(みどり)観音の堂守となった。

1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に行乞の旅を始め、句作を行う。1932年(昭和7年)、郷里の山口の小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結んだ。その後も行乞、漂泊することが多く、諸国を巡り、旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住し、三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結び、翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたものだったという。

季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる、前衛的な「自由律俳句」。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって、生計を立てているところは似通っている。しかし、その作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。

どうしようもないわたしが歩いている
山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9F%E6%
96%B9%E5%BF%97%E5%8A%9F

棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。


彼等を引き合いに出すと、三浦雄一郎氏は怒るかもしれないが、我々にはその境地を余り理解出来ない為に何だか‘天才能力’ってそんなものかな??と思ったりしている。

前置きが長くなってしまったが、
三浦雄一郎氏の快挙の映像を!

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出たっ!暴走老人!

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最近のTV画面は、静止画像化しても、その説明は、画面に出ている!

「エベレストの登頂はもうない」との発言ようだが、いやいや、それは今疲労困憊の状況だからであろう!後一年も経てば、必ず「85歳で、エベレストに挑戦だ!」と言い出されに違いない!

子供を産んだ女性が、「もう、お産は、こりごり!」と言っていたのに、健康を取り戻せば、またお産となるようなものである!

三浦雄一郎さんには、100歳までエベレストに挑戦して欲しい!

三浦雄一郎さん、万歳!

(つづく)
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[2013/05/28 00:00] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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