やはり、サッカーは相撲よりすごい!本田圭佑の一撃特集!
やはり、サッカーは相撲よりすごい!

2013年06月04日の夜、日本国中が、サッカーで沸き返った!

そしてそれも、後半戦のアディショナルタイムの時間(45:30頃)にである!

兎に角、本田圭佑に日本は救われた!

honndakeisuke
http://girlschannel.net/topics/13947/

大した男である! そんな訳で‘本田圭佑祭り’をこのブログで・・・。(出典を示していない以下の写真は全てTV画面をカメラで撮影したものである)


https://www.youtube.com/watch?v=LukN1_i9RDU

関連記事は、こちらの‘youtube’に


https://www.youtube.com/watch?v=RJ25Y8qJntk
公開日: 2013/06/04
4日、埼玉スタジアムで行われたサッカー日本代表の『ワールドカップアジア最終予選 日本代表-オーストラリア戦』がテレビ朝日系で生中継され、平均視聴率38.6%(後­7:30~9:37)で、現時点までの今年最高記録だったことが5日、わかった。瞬間­最高視聴率は46.3%で、1-1の引き分けで試合が終了し、日本が5大会連続5回目­のワールドカップ出場を決めた午後9時23分にマークした。視聴率はビデオリサーチ調­べ、関東地区。

 最終予選第6戦までに勝点13をあげ、グループB首位の日本は、オーストラリアに勝つ­か引き分ければ出場が決まる状況だった。日本は、本田圭佑と長友佑都がけがから復帰し­て先発出場し、香川真司、内田篤人、岡崎慎司らベストメンバーで臨んだ。

 開始早々からオーストラリアがロングボールを生かした攻撃でプレッシャーをかけてきた­が、落ち着いて対応し、本田を中心に細かいパスの連係からゴールに迫った。何度か決定­的なチャンスもあったが、前半を0-0で折り返した。

 後半、動きが重くなったオーストラリア勢に対し、日本は本田や香川の連係で繰り返しチ­ャンスを作ったが、得点できないまま迎えた37分、オーストラリアの左サイドからのク­ロスボールがそのままゴールに入り、先制点を奪われてしまう。それでも日本は、後半終­了間際に本田が相手のハンドを誘ってPKを獲得。これを本田がゴールど真ん中に決めて­同点に追いつき、土壇場で引き分けに持ち込んだ。

 日本は、来年のワールドカップブラジル大会(2014年6月12日~7月13日)に出­場する32チームのうち、開催国のブラジルを除いて世界で最も早く出場を決めた。最終­予選最後の第8戦・イラク戦はアウェーで6月11日に開催される。


これからまだ素晴らしい‘youtube’が出て来ると思われるが、それはその時に・・・。

6月4日及び6月5日のTV画面から、約1,000枚の写真を撮影した!その中から是非記録に残しておきたい‘本田圭佑’の一撃特集を以下に・・・。

① 日本の先発メンバー

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② オーストラリアの得点

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③ PKを呉れたハンド

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ここからが、本田の真骨頂!

④ 本田の一撃!(その1)


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⑤ 本田の一撃!(その2)

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⑥ 本田の一撃!(その3)

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⑦ 本田の一撃!(その4)

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⑧ そして、試合終了!

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⑨ W杯出場一番乗りの絵顔と‘ど真ん中一撃’に関するコメント

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⑩ 本田自身のコメント

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⑪ 歓喜の様子!

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⑫ そして、最後にもう一度、本田の一撃!(その5)

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本田圭佑の履歴書

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A
C%E7%94%B0%E5%9C%AD%E4%BD%91

本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、大阪府摂津市出身のプロサッカー選手。ロシア・プレミアリーグ・CSKAモスクワ所属。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。日本代表。

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

大阪府摂津市出身。両親は、本田が小学2年の春に離婚[2]。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。摂津市立第四中学校に入学。中学時代のあだ名はゴリ(赤いタンクトップにジーパンで腕相撲が強く体が大きかったため)[3]。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博、安田理大、東口順昭らと共にプレーしたが[3]、ユースチームへの昇格の内定が出なかったため、石川県の星稜高校へ進学した[4]。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時には第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場して、石川県勢として初のベスト4に貢献した[4]。高校では、豊田陽平や橋本晃司と共にプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスの練習に参加し、ナビスコカップなどの公式戦にも起用されるなど、数試合出場を果たした。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが、獲得は見送られた[5]。

名古屋グランパス[編集]

高校卒業に際して複数のJリーグクラブから勧誘を受け[4]、2005年シーズンから名古屋とプロ契約を結んだ。名古屋加入時の契約では、本人の希望により「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた[6]。開幕戦から先発出場してアシストを決め、翌年にはレギュラーに定着した。2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、初戦のオランダ戦に守備的な中盤として先発したが[7]、試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった(後半19分、水野晃樹。結果は1-2で敗戦)。この後チームは16強に進出するものの、守備的な中盤、梶山陽平の復調もあって出場機会はなかった。2006年にはA代表にも飛び級で初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では、主力として五輪出場権獲得に貢献した。

VVVフェンロー [編集]

2008年1月、エールディビジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンローへ移籍した。加入会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに、昨シーズンまで名古屋の監督を務めていたセフ・フェルホーセンが率いるPSV戦に出場した。残りのシーズンはレギュラーとしてプレーしたものの、5月にクラブがエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。8月にU-23日本代表として出場した北京オリンピックでは、中盤の主力として1次リーグ全3試合に出場して谷口博之や梶山陽平らと共に攻撃を牽引したが、3連敗で1次リーグ敗退した。
2008-09シーズンは2部に降格したVVVに残留した。同シーズンのリーグ戦にて、本田は攻撃の軸として開幕から首位を独走するチームの原動力となり、シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任された。リーグ戦36試合に出場し、16ゴール13アシストを挙げ、チームの2部リーグ優勝と1部復帰に貢献し、2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した[8]。
2009-10シーズンもVVVで開幕を迎えることとなった。冬の移籍市場において、移籍金900万ユーロ(約12億円)[9][10][11]、4年契約でロシア・プレミアリーグの強豪CSKAモスクワへの移籍が決まった。

CSKAモスクワ [編集]

2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦がCSKAでの初出場となり、同時にチャンピオンズリーグ初出場となった。3月12日のリーグ開幕戦であるアムカル戦では、試合終了間際の後半ロスタイムに決勝点を決め、チームのシーズン初勝利に貢献[12]。セビージャとのアウェーでの2ndレグでは、前半39分にCL初のアシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合ではマンオブザマッチに選ばれ、さらに1stレグ2ndレグ共に欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれた[13][14]。リーグ前半終了時点でのロシアスポーツ紙の採点[15]では平均5.96で全選手中10位(1位は6.25)と、VVV時代とは違う不慣れなボランチでの出場が多いながらも高く評価され、最終的に4得点と結果を残し、CSKAモスクワのCL本戦出場権獲得に貢献した。

2011年5月22日に行われたロシア・カップ決勝のアラニア戦では、途中出場で決勝点をアシストし、CSKAモスクワの2季ぶり6度目の優勝に貢献した。2011-12シーズンは、主にボランチではなく得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調を維持していたが、8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、後日手術を受け、全治には最大3ヶ月と発表された[16]。11月18日、ルビン・カザン戦で2カ月半ぶりに復帰を果たすも[17]、右膝の故障が再発しまたも戦線離脱となり、CLグループステージは全試合欠場した。2012年1月、イタリア・セリエAの強豪SSラツィオへの移籍が取り沙汰されたが、高額な移籍金がネックとなり移籍は破談となった[18]。2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグレアル・マドリード戦で、約3カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で出場できずチームも敗退した。その後4月21日のディナモ・モスクワ戦で復帰、以降出場を続け、最終節のFCルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れCL出場権を逃した。

2012-13シーズン、開幕から前半戦18試合で7得点を挙げるなど好調な活躍を見せていたが、2013年2月に左足首の負傷が発覚しチームを離脱。以後、長期に渡り治療を余儀なくされ、3月のW杯アジア最終予選ヨルダン戦も欠場したが、4月21日のスパルタク・モスクワ戦で約4カ月半ぶりに実戦復帰を果たした。同シーズン、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、自身にとっても初の欧州一部リーグでの優勝となった。

日本代表 [編集]

2008年6月に開催されたFIFAワールドカップ・アジア3次予選の対バーレーン戦で、A代表初出場を果たし、2009年5月27日のキリンカップの対チリ戦で、A代表初得点を記録した。
2010年6月に開催されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会では、攻撃の中心として全4試合にフル出場。この大会では、大会直前にそれまで経験のないセンターフォワードのポジション(0トップ)に急遽配され、グループリーグ初戦のカメルーン戦では松井大輔のクロスを合わせて決勝点をあげ、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ(その試合での最優秀選手)」に選出された[19]。第3戦のデンマーク戦でもゴールまで約37mの距離から直接フリーキック(独特の無回転で左右に揺れ急激に落下するシュート)で先制点を挙げ、岡崎慎司の得点もアシストするなど1ゴール1アシストの活躍で、日本代表の決勝トーナメント進出に貢献し、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[20]。 決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残し、PK戦では4人目のキッカーを任され、失敗すればその時点で日本の敗退が決まるという場面でも落ち着いて決めた。日本代表は敗れ(記録上は引き分け)たものの、敗戦チームからは異例の今大会3度目となる、「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[21]。後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、松井大輔と共にドリブル技術が高いと評価された[22]。

2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011ではトップ下で起用され、左足首捻挫で欠場したグループリーグ第3戦のサウジアラビア戦を除く5試合にフル出場。グループリーグ第2戦のシリア戦では、ドリブルで相手GK・DFを引きつけて先取点に繋がるきっかけを作り、PKで日本代表の通算1000点目となる勝ち越しゴールを決め、準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がる縦パスを決める活躍で、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。準々決勝のカタール戦での2得点に繋がる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡む活躍で日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に貢献し、同大会の最優秀選手(MVP)に選出された[23]。
同年2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)では、有効投票202票のうち75票を集め、33票で2位の楢崎正剛や22票で3位の香川真司・田中マルクス闘莉王らを抑えて、初選出された[24](50年の歴史がある賞だが、海外のクラブでプレーする選手がこの賞を受賞するのは初)。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、1点目のきっかけとなったフリーキックを獲得し、岡崎の2点目をアシストする活躍を見せた。
2012年5月23日、キリンチャレンジカップ・アゼルバイジャン戦で、背番号をそれまでの「18番」から「4番」に変更した。背番号変更に関し「4番が守備的というイメージを払拭し、初めて4番で点が取れる選手になれれば面白いかな」と明かした[25]。6月8日、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選・ヨルダン戦で自身A代表初のハットトリックを達成した[26]。本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり[27]、またワールドカップ予選における日本人選手のハットトリックは、97年フランス大会予選の三浦知良以来15年ぶりの記録となった[27]。2013年の6月4日のオーストラリア戦では後半終了間際にPKを決め、ブラジルワールドカップ出場を決めた[28]。

プレースタイル [編集]

高いテクニックと強靭なフィジカル、優れた得点力を備えたトップ下。ボールキープやパス能力に優れ、左足から放たれる強烈なシュートで積極的にゴールを狙う。以前は「自分の中の美学はパスだった」と語っており、名古屋時代、シュートへの意識はそれほど高くなかったが、海外移籍後は、ゴール数を残すことがキャリアアップへの近道と考え、どん欲にゴールを目指すスタイルを確立した。日本人としては珍しく屈強なフィジカルを持ち、外国人選手との一対一でも当たり負けすることは少なく、本人は「基本的に小さい頃からサッカーは倒れたら負けというつもりでやってきた」と語っている。またフリーキックの精度が高く、無回転とカーブする球を蹴り分けることができる[29][30][31]。

運動量も豊富で、CSKAモスクワでは、チーム内で1位2位を争うほどの走行距離であり、FIFAワールドカップ・南アフリカ大会では4試合390分で45.48kmとトップの遠藤保仁に次ぐ数値を記録している[32]。以前は日本代表において守備時の運動量の少なさを指摘されることもあった[33]。また全ての中盤のポジションとウイング、時にはセンターフォワードやサイドバック[34]も務めユーティリティ性に優れている。
FIFAワールドカップ・南アフリカ大会のパラグアイ戦では、両チームの中で最速の時速29.43kmを記録した。この数字は一瞬のもので、どれくらいの時間、持続していたかわからないが、少なくとも鈍足でないと言える[35]。

評価 [編集]

2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会敗退直後、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督より「天才」「ここまでのベストプレーヤー」「間違いなくトップレベル」「日本のさらなる成長の為には本田のように能力が揃っているクローン選手を育成するべき、それが無理なら本田をさらに活かす為にビジャのような相棒を探すべき」との絶賛を受けた[36]。 10月には世界的なサッカー情報サイト「goal.com」が「アジア人最高のサッカー選手」と称える記事を掲載した[37]。

人物 [編集]

実兄で現在は俳優の本田弘幸も元サッカー選手で、2005年には大分トリニータ入団が決まっていたが怪我の為に現役生活を終えた。1964年の東京オリンピックでカヌー競技のカナディアンペアに出場した本田大三郎は大叔父であり、その息子でレスリングのフリースタイルで3大会連続のオリンピック出場経験を持つプロレスラーの本田多聞は従兄弟違い(父母の従兄弟)になる[4]。母親は広島の出身[38]。
2008年7月に元保育園勤務の保育士の女性と結婚[39]。2012年秋に第一子となる長男が誕生[40][41]。
名古屋時代は黒髪だったが、オランダに移籍してからは金髪にしており、現在では本田のトレードマークになっている[42]。

プライベートでは、いつも両腕に腕時計をつけている[3]。2011年10月にはイタリアの腕時計メーカー「GaGa MILANO」とスポンサー契約を結んだ[43]。
スパイクはミズノ「イグニタス」を使用している[44]。W杯後に本田の活躍によりこのスパイクが急激に売れたとのこと。ちなみに右足は26.5cm、左足は27cmとサイズが異なるだけでなく、2010年W杯の時は右足のポイントを付け替え式、左足を固定式とするなど、左右非対称の構成を採用している。またメンテナンスは欧州移籍後も古巣・名古屋グランパスの用具担当である松浦紀典に依頼しており、松浦によれば「年間で約10 - 15足ほどを消費する」という[45]。

ファッションが独特で、空港での帰国や出国の際、メディアに取り上げられることが多い。2010年の南アフリカワールドカップから帰国した際は、チーム内で唯一のサングラス姿で到着ロビーに現われた[46]。

エピソード [編集]

利き足と生年月日が一緒である家長昭博とはガンバ大阪ジュニアユースの同期生であり、親友として互いに尊重しあう間柄である[47]。
中田英寿とは、日本代表のトップ下を務める新旧エースとして比較されることが多い。21歳で欧州リーグへ移籍し活躍していることをはじめ、日本人離れした強靭なフィジカルとメンタリティ、ファッションへの独自の拘りといった共通点が挙げられる。二人は南アフリカW杯の直前に放映された対談で初対面した。中田は本田について「彼は貪欲に上を目指せるタイプで、今後の日本を背負う選手」と期待を寄せている[48]。
長谷部誠とは普段から電話連絡を取り合う仲で、長谷部は本田のチャレンジし続ける姿に刺激を受けているとコメントしている[49]。

高2の頃、名古屋グランパスエイトにおける練習中に当時のエースウェズレイのパワフルなフリーキックに衝撃を受ける。助走の歩数や角度などを研究、本人に筋肉の使い方を聞いたりもした。この頃はカーブさせるフリーキックを蹴っていたが、入団2年目からは無回転シュートを蹴るようになった[50]。
北京五輪のグループリーグで敗退が決まった後の消化試合では、数名の選手と共に監督・反町康治の指示に造反していた事を明かした[51]。そのような背景にはサッカーに対する非常に高い向上心があり、これまでのインタビューでも、ガンバ大阪ユースに昇格出来なかった時の悔しさや、学生時代から常に世界で活躍するプロサッカー選手を見据えていたことなどを度々語っている。

VVVフェンローは「本田を放出した際の移籍金の一部を、新スタジアム建設に充てる」と発表した。NHKの取材に対してサポーターたちは「新スタジアムの名前は『ケイスケ・ホンダスタジアム』にすべきだ」「名前がダメならせめて銅像だけでも建てるべき」など、本田の功績と求心力が伺えるコメントを残し、VVVフェンローのハイ・ベルデン会長も「ケイスケのクラブに対する功績は何らかの形で残すつもりだ」と明言した[52]。
2ちゃんねるをはじめとしたインターネット掲示板、ツイッター、mixi、YouTubeのコメント欄などにおいて本田△(意味:本田三角形→本田さんかっけー→本田さんカッコイイ)というのがネットスラングとして広がっており[53]、2010年度の「新語・流行語大賞」にもノミネートされた[54]。
将来の夢はスペイン・リーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードで10番をつけてプレイすること。この夢を目標としたのは、高校時代である[55]。

2011年3月、東日本大震災の義援金として日本赤十字社を通じて5000万円を寄付した[56]。また、サッカーボール200個を被災地の子供たちに寄贈した[56]。さらに、「Notice of Honda災害支援基金」を設立して募金を募り、集まった950万円を超える基金を運用し、被災地の宮城県石巻市にフットサル場を建設した[56]。
2011年8月に、オランダ2部のVVVフェンローで2009-10シーズンMVPを獲得した活躍を称え、高校時代を過ごした第2の故郷・石川県金沢市内に子供向けの42メートル×28メートルの人工芝コート「本田圭佑クライフコート」が設置された[57]。 オランダのNPO法人ヨハン・クライフ財団からフェンローのベルデン会長を通じ、同コートを寄付したい旨の要望が日本サッカー協会に届いた。その後、日本協会が石川県協会、金沢市などの協力を経て実現する運びとなった。

2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校[58]。同年11月には神戸にも開校している。SOLTILOはスペイン語の「SOL=太陽」と「ESTILO=スタイル」からの造語で、FAMILIAは家族を意味する。

1999年から2004年に週刊少年サンデーで連載されていたサッカー漫画「ファンタジスタ」のファンであり、2009年に作者の草場道輝と対談。これがきっかけで、2012年10月から連載されているファンタジスタの続編「ファンタジスタ ステラ」に原案という形で参画し、本人役で登場している[59]。
カプコンの人気ゲーム『モンスターハンター』シリーズのファンで、総プレイ時間は185時間を越えている。2013年には3DS用ソフト『モンスターハンター4』のCMイメージキャラクターを務めた[60]。


本田圭佑
http://naru-trend.blog.so-net.ne.jp/2013-01-10

彼自身が言うように、ブラジルW杯までに一年間がある!各自が自立した‘個’をどう高められるか!皆が本田の気持ちになれれば、世界一は決して‘夢’ではない!

頑張れ!本田圭佑、頑張れ!日本!

(つづく)
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[2013/06/05 23:40] | スポーツ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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