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‘七夕’って何?
七夕の風習 は、日本人なら誰だって知っている!

そして、どんなことをするかも大体の人が知っている。

ただし、大きく分けて2つのやり方がある。

① 自分の家庭中心に行なう場合

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http://shinji-channel.seesaa.net/article/102282930.html
a) 願い事を短冊に書いて吊り下げる。
b) 処分の仕方:昔は近くの川に流したが、今はそれはない。短く切ってゴミとして出す。燃やすことは各自治体で制限がある。

② 商店街が中心になって行なう場合

仙台七夕2012_a
http://tokuhain.arukikata.co.jp/yamagata/2012/08/post_40.html
仙台の七夕飾りは7種類あり(短冊、紙衣、折鶴、巾着、投網、屑篭、吹流し)、それぞれに意味があって願いが込められています。その中で最も目立つのが巨大な吹流し。球や直方体などの下に吹流しが下がっています。仙台七夕まつりはこの吹流しの競い合いのように見えます。
a) この場合は、願い事を短冊に書いて吊り下げることはしない!
b) 処分の仕方:一部の噂では、飾りの‘使い回し’があるのではないか?と言われている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361303263
平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂

Q:平塚七夕祭りお飾りの仙台での再利用の噂
昔、聞いた噂なのですが、平塚市の七夕飾りが1ヶ月後に仙台で再利用しているとの話がありますが、真偽のほどをご存知の方は居ますか?

A:再利用は単なる噂で、都市伝説に近いものかと思います。

仙台七夕まつりの飾りは本物の和紙がほとんどで、笹を用いる本格的な飾り付けを行うことが「売り」で、七夕飾り1本を作りあげるのに80万円から100万円がかかることも珍しくありません。使われた飾りはその年限りのもので、基本的に使いまわしはしないとのこと。

使いまわしの噂は、平塚の七夕まつりが新暦の7月7日、仙台の七夕まつりが旧暦の8月7日に行われているための類推かと思います。


ただし、仙台の飾りの‘有効活用’はあるそうです!

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%B8%83%E5%A4%95
仙台の七夕飾りの活用

日本国内においても2007年(平成19年)に仙台七夕で使用された七夕飾りが鹿児島県鹿児島市に運ばれ、同市の中心部商店街である天文館の11の通りに計90個飾り付けられ「奥州仙台夏飾り[10]」が開催された。さらに同県薩摩川内市の中心部商店街にも仙台七夕の飾りを5体寄贈し、仙台の七夕工房の職人が薩摩川内に赴いて七夕飾りの作り方を指導した。仙台七夕の飾りは川内花火大会(2007年(平成19年)8月16日)の際に飾られた。また2008年(平成20年)からは、薩摩川内市民が作る仙台式と川内式の双方の七夕飾りが「川内七夕まつり」で飾られる。


そんな訳で、七夕祭りが商店街の活性化のために活躍するというパターンで‘或る進化’を遂げているというのが現状のようである。

それでは、本来の‘七夕’とは、どんな歴史を持っているのか?

次の引用文献は、見ただけでうんざりするほど長~い!

でも、これだけ知っていれば‘一端の’七夕学者である!

さあ、‘読破’して下さい!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

七夕(たなばた、しちせき)は、中国、台湾、日本、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[1]。

起源[編集]

日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。
七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説 は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首[2]」が文献として初出とされている[3]が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている[4]

日本語「たなばた」の語源 は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会[5])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[6]。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[7]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[8]。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[9]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[10]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[11]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

風習[編集]

日本[編集]

ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。[12]
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。

中華圏[編集]

香港[編集]

現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。
坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。

台湾[編集]

台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南[13]や鹿港[14]ではzh:做十六歲[15]という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

時期[編集]

中国[編集]

元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

日本[編集]

日本では、天保暦(和暦)など旧暦7月7日であり、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ[16]、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[17]。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。

天候など[編集]

多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。
統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。
七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

日本の七夕祭り[編集]

仙台の七夕祭り

1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

主な七夕祭り[編集]

新暦に行う地域[編集]

埼玉県深谷市(深谷七夕まつり)
神奈川県平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)
神奈川県藤沢市慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(七夕祭)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)(清水七夕まつり)
富山県高岡市戸出町(戸出七夕まつり)
富山県下新川郡入善町(舟見七夕まつり)
大阪府交野市(七夕祭)
徳島県徳島市新町橋東公園(七夕バルーンリリース)
旧暦・月遅れに行う地域[編集]
秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)
岩手県陸前高田市(うごく七夕まつり)
岩手県陸前高田市(けんか七夕まつり)
宮城県仙台市(仙台七夕)
福島県いわき市平(旧平市)(平七夕まつり)
茨城県水戸市(水戸黄門まつり)1991年まで「水戸の七夕黄門まつり」
茨城県土浦市(土浦キララまつり)1989年まで「土浦七夕まつり」
群馬県桐生市(桐生八木節まつり)
埼玉県狭山市(入間川七夕祭)
埼玉県小川町(小川町七夕まつり)
埼玉県ふじみ野市(旧上福岡市)(上福岡七夕まつり)
千葉県茂原市(茂原七夕まつり)
東京都杉並区阿佐谷(阿佐谷七夕まつり)
東京都福生市(福生七夕まつり)
富山県高岡市(高岡七夕まつり)
石川県珠洲市(宝立七夕キリコ祭り)
岐阜県大垣市(七夕まつり)
愛知県安城市(安城七夕まつり)
愛知県名古屋市(円頓寺七夕まつり)
三重県松阪市(松阪七夕まつり)
山口県山口市(山口七夕ちょうちんまつり)
香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)
福岡県小郡市(七夕神社七夕大祭)
大分県大分市(大分七夕まつり)
旧暦でも月遅れでもない地域[編集]
愛知県一宮市(おりもの感謝祭一宮七夕まつり)

全国七夕サミット[編集]

七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。
第1回:1996年8月 宮城県仙台市
第2回:1997年7月 愛知県一宮市
第3回:1998年8月 富山県高岡市
第4回:2000年7月 神奈川県平塚市
第5回:2001年 石川県根上町(現能美市)
第6回:2003年8月 愛知県安城市
第7回:2004年7月 千葉県茂原市
第8回:2005年7月 愛知県一宮市
第9回:2006年8月 富山県高岡市
第10回:2007年7月 大阪府枚方市・交野市
第11回:2010年7月 神奈川県平塚市
第12回:2011年7月 群馬県前橋市
予定[編集]

新暦の七夕における月齢[編集]

2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。
2007-07-07: 月齢22 ○
2008-07-07: 月齢4 ◎
2009-07-07: 月齢15 ×
2010-07-07: 月齢25 ◎
2011-07-07: 月齢6 ○
2012-07-07: 月齢18 ×
2013-07-07: 月齢29 ◎
2014-07-07: 月齢10 △
2015-07-07: 月齢21 △
2016-07-07: 月齢3 ◎
2017-07-07: 月齢13 ×
2018-07-07: 月齢24 ○
2019-07-07: 月齢5 ○
2020-07-07: 月齢16 ×
2021-07-07: 月齢27 ◎
2022-07-07: 月齢8 ○

旧暦の七夕(伝統的七夕)[編集]

国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している[18]。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。

国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)

2006-07-31
2007-08-19
2009-08-26
2010-08-16
2011-08-06
2012-08-24 [19]
2013-08-13
2014-08-02
2015-08-20
2016-08-09
2017-08-28
2018-08-17
2019-08-07
2020-08-25

織女星と牽牛星の伝説[編集]

詳細は「牛郎織女」を参照

説話[編集]

こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

物語[編集]

昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命は機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

星空[編集]

織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。
グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。


読破のご感想は?

残念ながら、今年2013年7月7日の深夜の千葉県・茂原市の夜空には、‘天の川’はお出まし遊ばなかった!

(つづく)

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[2013/07/08 23:59] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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